FRESTA Bimi Smile presents 食卓ON楽


« メイン

2010年9月 3日
涙そうそう/BEGIN

153回目の今日お届けしたのは、「涙そうそう/BEGIN」でした。


「もともとは、栄昇がライブのMCで"俺たちも「いか天」に出るよ"と言った冗談が、キッカケだったそうです」。
1988年12月、沖縄県・石垣島出身の、比嘉栄昇、島袋優、上地等の3人が東京で結成したバンド「BEGIN」。翌年、1989年に、東京・世田谷のライブハウス「ガソリンアレイ」のライブ中に、
比嘉栄昇が言った、そのひと言が、三人の運命を変えていきます。

当時、社会現象と言えるほど人気を集めていた、TBSテレビのオーディション番組『平成名物いかす!!バンド天国』、通称いか天。 BEGINは、当時、島袋と上地が住んでいたアパートの部屋で録画した応募用ビデオを番組に送り、1989年9月、"いか天"に、本当に出演することになります。

「「いか天」に出場した時、BEGINは、彼らがバンド活動を始める原点となった、70年代の洋楽やブルースのカバーと、彼らが影響を受けた音楽に、沖縄県出身アーティストならではの、島唄的な解釈を加えて作ったオリジナル曲を中心に演奏していたそうです。オリジナル曲の完成度の高さは、いか天の審査員を始め、TVを観ていた音楽関係者を驚かせ、番組OA翌日には、彼らの下へメジャー契約のオファーが次々と舞い込んだそうです」。
現在、BEGINの担当ディレクターを務める、前田さんは当時についてこう語ります。

その後、「いか天」で5週連続勝ち抜きを果たしたBEGINは、プロ・デビューのチャンスを掴み取って、翌1990年3月、1stシングル「恋しくて」をリリースするのでした。

1990年3月、BEGINは、日産自動車のCMソングにも起用された1stシングル「恋しくて」をリリースします。「1stシングルのリリース直後、彼らは、"自分達が作った曲が、プロのストリングスが加わるだけで、まるで別物のように重量感溢れる曲に生まれ変わる"そんなプロの演奏家の凄さに驚くと同時に、"本当に自分達は、こんな世界でやっていけるんだろうか"という不安を抱いたそうです」。
担当ディレクターの前田さんは、BEGINのデビュー当時の様子についてこう語ってくれました。

BEGINの1stシングル「恋しくて」は、彼らが「いか天」のグランドチャンピオンに輝いた話題と、日産自動車のCMソングに起用されたこともあって、セールスチャート最高位4位を記録し、およそ4ヵ月近くもチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。さらにBEGINは6月に、1stアルバム『音楽旅団』を発売し、その直後には全国を回るライブツアーも行います。
順風満帆に見えたBEGINの音楽活動でしたが、その一方で三人は、アマチュア時代と違って、曲作りやライブも自分達3人の力だけではできず、プロの作詞家や作曲家、サポートメンバーの力を借りないとできないという、厳しい現実の世界に、自信を失いかけていきます。

1992年3月、BEGINは、失いかけた自分達の自信を取り戻すために、新たな試みをスタートさせます。
「彼らは、常に"僕らは「いか天」で世間から注目され、デビューが決まって、すぐに売れ、あれよあれよという間に色んな事が動いていったから、明らかに音楽経験が不足している"と言っていたそうです。そこで彼らは、自分達が感じていた経験不足を補うために、東京・二子玉川アレーナホールでのマンスリーライブを始めたんです。バンドスタイルではなく、彼ら3人だけのライブを行うことで、少しずつ、自信を取り戻していったんです」。

その後、所属レコード会社のレーベルが無くなるという不運に見舞われながらも、ライブを通して多くの人達と触れ合って、自信を取り戻したBEGINは、所属レコード会社を移籍し、デビュー当事とは違った、地道な音楽活動を続けていきます。そしてデビューから6年が経った、1996年7月、10枚目のシングルとして「声のおまもりください」をリリースするのでした。
1996年7月に発売した、BEGIN10枚目のシングル「声のおまもりください」は、当時人気を誇っていたJリーガー、前園選手が出演していた「アステル東京」のCMソングに起用され、5年ぶりにセールスチャートにランクイン、最高位36位を記録します。
続いてBEGINは、スタッフと一緒に1台の楽器車に乗り込んで日本全国を回るライブツアーを始め、ライブバンドとしても、着実に力を付けていきます。同時に、"セールスというものは、音楽をやっていく上で大した問題ではない。もっと楽に音楽を楽しみたい"といった気持ちを抱くようになっていきます。

1997年、古巣のレコード会社に戻ったBEGINに、翌年、1998年、ひとつの出会いが巡ってきます。
「以前から、イベントやTVで一緒になる機会があって、仲良くしていただいていた森山良子さんのラジオ番組にBEGINがゲスト出演した際、森山さんから、"アルバムに収める曲を一曲書いて欲しい"という依頼があったんです。三人は大先輩のために曲が書ける、といううれしい思いと同時に、"俺達が書いた曲を気に入ってもらえるかな"という不安も持ったようです」。
「曲のベースとなったのは、優が書きかけていたメロディです。それを二人に聴かせ、3人でアイディアを膨らませて、栄昇がサビを加えたそうです。最後に、この曲を聞いて、沖縄に住む人達の事が頭に浮かんだという栄昇が、曲の最後の小節に、沖縄のわらべ唄の歌詞に使われていた一つの言葉を吹き込んで、曲を森山さんに渡したんです」。

「曲を聴いた森山さんは、栄昇が吹きこんだこの言葉に"涙がぽろぽろこぼれる"という意味があることを知って、若くして亡くした森山さんのお兄さんの事を思いだし、歌詞を書いたそうです」。
こうして、BEGINがメロディを作って、森山良子が歌詞を書いた曲は、1998年11月に発売された、森山良子のアルバム『TIME IS LONELY』に収められます。その後、森山良子がライブやイベントで歌って、多くの人達に親しまれることになります。そして、2000年3月、曲を作ったBEGINが、デビュー10周年記念のシングルとして、この曲「涙そうそう」をリリースするのでした。

2000年3月に発売された、BEGINの「涙そうそう」は、発売当時、セールスチャートこそ最高位159位と振るわなかったものの、後に同じ沖縄出身の夏川りみや、ハワイの歌手もカバーするほどのメジャーな歌へと成長していきます。
「BEGINは、この歌はあくまで森山良子さんの歌だと思っています。森山さんが作って歌い、多くの人達が親しむようになって、次にBEGIN、そして夏川りみが歌って、もっと広がっていきました。
"自分達は、あくまで裏方として曲を作っただけ"という気持ちなんです。2003年に、NHK紅白歌合戦に出場し、森山さん、夏川さん、そしてBEGINが一緒に"涙そうそう"歌った時、彼らは曲が成長した事に感謝し、"森山さんに恩返しができた"と言っていました」。最後に、前田さんは、こう話してくれました。

先輩のために綴ったメロディが、人と場所と時間を越えて、J-POPの名曲に育った瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Wonderful Tonight/BEGIN
M2.恋しくて/BEGIN
M3.声のおまもりください/BEGIN
M4.涙そうそう/BEGIN

2010年8月27日
「1/6000000000.featC&K/九州男」

152回目の今日お届けしたのは、「1/6000000000.feat C&K/九州男」でした。

1978年10月、長崎県に生まれた九州男は、彼が19歳の時に、レゲエと出会います。
「彼は、地元の美容室で美容師として働いていたんですが、仕事に対する興味が無くなって美容室を辞め、友達の誘いで度々レゲエのイベントに遊びに行くようになったんです。遊ぶに行く内に、ボブ・マーリーはもちろん、新旧問わずレゲエの持つ魅力に取りつかれた彼は、ただ単にレゲエを聴くだけでは満足できなくなって、いつの間にか自分がマイクを持って歌うようになっていったそうです」。やがて九州男は、地元・長崎のクラブで活動していた、音楽チーム「一撃SOUND」のメンバーに声を掛けられ、クラブDJとして活動し始め、21歳の時に、単身、レゲエの本場・ジャマイカへ渡ります。

「約2年間のジャマイカでの生活は、彼のレゲエに対する考え方を変えたそうです。それまで、彼は、ノリの良い、サウンドを重視した曲を作っていたんですが、ジャマイカでの日々の生活の中でレゲエに触れ、"一番大切にしないといけないのは、サウンドではなく、言葉の大切さ"だという事に気づいたそうです。そこで彼は、日本に帰国した後、それまで彼が作っていた曲を全て封印し、改めて一から曲作りに取り組むようになったそうです」。日本に帰国してからも、九州男は、度々ジャマイカに渡って、自分の音楽を模索します。

2005年には、音楽活動の拠点を横浜、東京に移して、積極的にライブ活動に励むようになります。
こうして、ライブ活動をする中で、クラウンレコードのスタッフの目に留まった九州男は、2007年、クラウンレコード傘下のインディーズレーベルから、1stミニアルバム『こいが俺ですばい』をリリースするのでした。

2007年6月、九州男は、クラウンレコード傘下のインディーズレーベルから、1stミニアルバム『こいが俺ですばい』を発売します。
「メジャー契約の前に、敢えてインディーズレーベルからミニアルバムを発売したのは、まずは、九州男の音楽を、多くの人達に知ってもらうために、全国を回る時間を作るためでした。TV、ラジオ、音楽雑誌など、あらゆるメディアを回ると同時に、CDショップなどでインストアライブを行って、多くの人達に彼の音楽に、直に触れてもらいたかったんです」。
クラウンレコードの小島さんは、インディーズデビューとなった経緯について、こう語ってくれました。
九州男の、地道なプロモーションの積み重ねに加えて、このミニアルバムに、湘南乃風のRED RICEとのコラボレーション曲を収録したことで、ミニアルバム『こいが俺ですばい』は、セールスチャートのインディーズ部門で、5週連続1位を獲得し、発売から僅か3ヵ月で約8万枚の売上を記録します。

「湘南乃風のRED RICEさんとのコラボレーションは、九州男がジャマイカに滞在中に住んでいたアパートで、RED RICEと偶然出会ったことがきっかけなんです。初めはお互い相手がどんな仕事をしているのかも知らずに、ただ同じ日本人同士という事だけで話をしている内に意気投合し、その後に、お互いに、ミュージシャンであることが分かったそうです。
2人は帰国後も交流を続け、彼が1stミニアルバムを作る事になった時に、"せっかくのチャンスだから"という事でコラボレーションが実現したんです。初めは、九州男の存在すら知らなかった人も、湘南乃風のRED RICEが参加しているという理由だけで、アルバムを買って、九州男の音楽の素晴らしさに出会って、ファンになっていった人も多いんです。ジャマイカでの出会いが、九州男のアルバムのセールス売上に大きく貢献したと言っても間違いないでしょう」。
小島さんは、当時についてこう振り返ります。

勢いに乗った九州男は、今度は、その年の夏の音楽イベントで知り合ったmihimaru GTのhirokoとのコラボレーションした曲を収めた、2ndミニアルバム『こいも俺ですばい』を、11月に発売します。

2007年11月、九州男は、2ndミニアルバム『こいも俺ですばい』を発売します。
「1stミニアルバム『こいが俺ですばい』が約20万枚近いセールスを記録し、2ndミニアルバム『こいも俺ですばい』も、チャート初登場5位を記録しました。ある程度は売れるとは思っていましたが、この結果には正直驚きました。湘南乃風のRED RICEや、mihimaruGTのhirokoとのコラボレーションも大きかったと思いますが、ファンの心を掴んだ、一番の理由は彼が書く歌詞でした」。
「九州男の曲は、歌詞の言葉数が多いんです。普通、歌詞は言葉をリピートして、言葉数を増やすパターンが多いんですが、彼の場合、言葉のリピートはほとんどなく、表現力を高めようとして言葉数が多くなってしまうんです。それが結果的に、曲のストーリー性を高めて、彼の曲を聴いた人から多くの共感を得ることに繋がったんだと思います」。
小島さんはこう話してくれました。
こうして、2枚のミニアルバムで多くのファンを掴んだ九州男は、翌2008年2月、クラウンレコードから、メジャー1stシングルをリリースすることが決まります。
「メジャー1stシングルをどの曲にするのかは、彼と出会った直後の2007年春に、すでに決めていました。それは、彼が、約2年に渡るジャマイカ滞在から、日本に帰国して、初めて作った曲でした」。
「日本に帰国した彼は、一度、故郷の長崎に戻ったんですが、大好きな音楽を諦めることができず、一念発起して、2005年に横浜に移り住んで、アルバイト生活をしながら、大好きな音楽を歌う道を探していたんです。
朝から晩まで、仕事に追われながらも、夜はクラブで大好きな音楽に触れていた。そこで、お互いの知人から紹介されて出会ったのが、湘南・横浜を中心に活動していた、ボーカル・ユニットの「C&K」だったんです。
お酒を飲みながら話をする内に、九州男とC&Kの3人は意気投合し、一緒に曲を作ることを決め、数日後、九州男のアパートで、九州男がすでに作っていた曲をベースにして、曲作りが始まったんです」。

こうして、既に九州男のライブでは歌っていた曲のアレンジを変え、歌詞も、カップルを時間軸で追っていくストーリー性を高めるために、新たに言葉を付け加えて生まれ変わったこの曲は、2008年2月に、九州男の1stシングル「1/6000000000 feat.C&K」として発売されます。

2008年2月に発売された、九州男の1stシングル「1/6000000000 feat.C&K」は、セールスチャート初登場12位、約10万枚を超えるセールスを記録。音楽配信でも40万ダウンロードを達成します。
「九州男が、単身、レゲエの本場ジャマイカに渡って見つけた、レゲエ・ミュージックが持っている本来の意味。レゲエ・ミュージックの原点とも言える、言葉の美しさに気付いたからこそ、彼はこの曲に巡り合えたんです。そして彼は、この曲が売れることで、不安と、戸惑いを感じながらも、それよりも大きな、自分の音楽に対する揺るぎない自信を、この曲で掴んだと思います」。最後に、小島さんは、こう話してくれました。

レゲエの本場で見つけた魂が、J-POPラブソングの名曲に生まれ変わった瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ノー・ウーマン、ノー・クライ/ボブ・マーリー
M2.出会い。。/feat.RED RICE(湘南乃風)、BIG RON/九州男
M3.手紙。。/feat.hiroko(mihimaruGT)/九州男
M4.1/6000000000 feat.C&K/九州男

2010年8月20日
「上海ハニー/ORANGE RANGE」

151回目の今日お届けしたのは、「上海ハ二ー/ORANGE RANGE」でした。

「僕が沖縄で経営していたインディーズ・レコードの専門店「スパイス・レコーズ」に、メンバーが1本のデモテープを持ってきたんです。そのテープは、スタジオで録音されたものではなく、恐らくメンバーの誰かの部屋で、マイクを立てて録音されたものだったんでしょうか、録音状態が最悪の仕上がりだったのを覚えています」。
メンバーとの出会いについて、オレンジレンジ所属事務所の崎原社長は、当時についてこう振り返ります。

1999年3月、中学校の卒業パーティで、ギターのNAOTOとドラマ―のKATCHANは、仲間達と結成したバンドでステージに立ち、それをキッカケに、二人は本格的にバンド活動をスタートさせます。
その後、二人は高校進学後も、メンバーチェンジを繰り返しながらバンド活動を続け、2001年3月に、同級生でベースのYOHと、ボーカルのHIROKIとYAMATO、さらにYOHの弟でラップ好きのRYOを加えた、6人組バンド「ORANGE RANGE」を結成します。ORANGE RANGEは、アメリカ軍基地内にあるライブハウスで演奏したり、ストリートライブを積み重ねながら、徐々にライブの本数を増やし、着実に動員を増やしていきます。
「彼らは、デモテープを持ってきた以降、度々お店に遊びに来るようになって、ある日、お店主催のライブイベントに出演してもらったんですが、彼らは、自分達の出番が終わった後も、最後まで残ってイベントの後片付けを手伝ってくれたんです。ほんとに素直で、いい子達で、僕は、少しずつ彼らとの付き合いを深めるようになったんです」」。

2002年2月、ORANGE RANGEは、崎原社長の薦めで、インディーズから沖縄限定ミニアルバム『オレンジボール』を発売します。
「彼らは、山嵐や、rage against the machineなど自分達が好きな音楽のコピーをレパートリーの中心にしていましたが、少しずつオリジナル曲も作るようになって、ライブで演奏するようになっていたんです。そこで僕は、"高校卒業記念にアルバムを作ろう"と彼らに声を掛け、CDを作ることにしたんです。当時、すでに、彼らが生み出すグルーブ感とセンス溢れるメロディ、そしてHIROKI、RYO、YAMATO3人のボーカルによる、軽快なラップのかけあいは、沖縄では話題になり始めていて、ライブも、常に200人程度は集まるようになっていたんです」。
「アルバム『オレンジボール』がリリースされ、さらに、ライブ動員が増え始めると、メジャーレコード会社が続々とデビューの話を持ってくるようになりました。ちょうど、「モンゴル800」や「HY」など、沖縄に在住しながら活動を行っていたバンドが、全国ヒットを生み、成功し始めた時期とも重なって、次の沖縄バンドとして、彼らにも目がつけられたんです」。音楽レーベルからの熱い視線が集まる中、ORANGE RANGEは、アルバムに続き、今度はシングル「ミチシルベ」をリリースします。

2002年8月、ORANGE RANGEは、インディーズからシングル「ミチシルベ」をリリースします。
「シングル「ミチシルベ」をリリースした直後、東京、大阪、名古屋のライブハウスを回るツアーをやったんです。沖縄でライブをやると、200人近く集めていた彼らも、この時の動員はまだまだ全然ダメで、東京では10人、名古屋ではたった2人の前でライブをやったんです。しかし、彼らは、特に気にする訳でもなく、自分達の大好きな音楽を演奏しながら、全国を回れることを楽しんでいました」。
 その後、沖縄本土復帰30周年を記念した「オキナワミュージック・フェスティバル」など、沖縄で行われた様々なイベントにも出演し、沖縄では、若手を代表するバンドへと成長していったORANGE RANGEは、レコード会社各社の争奪戦の上、遂にソニー・ミュージック・レコーズとメジャー契約を結びます。
「ORANGE RANGEは、ソニーとメジャー契約を結んだ後も、仕事のベースは沖縄に置くことにしたんです。
それは、自分達がリスペクトしている沖縄在住のアーティスト「モンゴル800」を見習って、メンバーの家族や友人がいる沖縄を拠点に音楽活動することで、リラックスして音楽作りに取り組むことができる。開放感溢れる、ORANGE RANGEならではの音楽が作ることができると考えたからなんです。」
こうして、地元沖縄をベースに、音楽活動を続けていくことを決めたORANGE RANGEは2003年2月に、地元沖縄で、本人達主催の音楽イベント「テレビズナイト」を開催。彼らが持っている音楽志向さながらに、様々なジャンルのアーティストが集って行われたこのイベントには、約1000人近い人が集まり、ORANGE RANGEの沖縄での人気は、一気に沸騰していきます。
 そして、その勢いのまま東京に乗り込んだORANGE RANGEは、2003年春、東京・原宿ラフォーレ前で、ゲリラライブを行うなどして話題を振りまき、音楽雑誌にも取り上げられるようになります。沖縄から、また個性的なグループが登場したことに、音楽ファンたちの期待が高まる中、メジャー1stシングル「キリキリマイ」は、6月、リリースされるのでした。
「この曲は、彼らがインディーズ時代に作っていた曲で、彼らのライブでは馴染み深い曲でした。まずは、この曲を聴いてもらって、沖縄以外の人達にORANGE RANGEがどんな音楽を演奏するバンドなのかを分かってもらうために、この曲を1stシングルにしたんです」。
シングル「キリキリマイ」は、セールスチャート最高位50位、約2万枚のセールス結果に終わりますが、彼らは、そのセールス結果に対しても、特に、悲観的になることなく、立て続けに、翌7月に2ndシングルを発売します。
「2ndシングルとして予定していた曲も、1stに続いてインディーズ時代に作っていた曲で、当時、SMAPなどを手掛けていたプロデューサーのシライシ紗トリさんが、アレンジを担当してくれました。シライシさんには、1stシングルからプロデュースをお願いしていたんですが、夏に向けて、みんなの気持ちが色んな面で盛り上がってくる時期に発売するシングルなので、聴く人に、いかにインパクトを与えるかを、メンバー、シライシさん、そして我々スタッフも考えていました。そして、もともとあった曲に、沖縄らしさを取り入れることを考え付いたんです」。
「それは、具体的には、沖縄民謡によく見られる、掛け声や拍子を、曲のリズムに合わせて入れることでした。レコーディング途中に、突然湧いたひらめきを取り入れたら、これが"ピタリ"とハマったんです」

こうして、2003年7月、ORANGE RANGEの2ndシングル「上海ハニー」は発売されます

2003年7月に発売された、ORANGE RANGEの2ndシングル「上海ハニー」は、ノンタイアップながら、セールスチャート最高位5位、約24万枚のセールスを記録します。
「2ndシングル「上海ハニー」は、発売直後に九州のFMラジオ局各局のパワープレイを獲得することが出来ました。
キャンペーンで初めて福岡に行った時に、溢れんばかりの人たちが、彼らを観にやって来たことに、メンバーみんなで驚いたことが印象に残っています。夏に向けて、気分が高揚する時期に、アッパーチューンなこの曲は、盛り上がるのにピッタリだったんですね。当然、ライブでもこの曲を演奏すると盛り上がりました。彼らにとっても、メジャーの世界で生きていくための大きな自信に繋がった曲ですね」。
最後に、崎原さんは、こう話してくれました。

沖縄出身の彼らならではアイディアを取り入れた歌が、J-POPの人気グループを生み出した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.山嵐/山嵐
M2.ミチシルベ/ORANGE RANGE
M3.キリキリマイ/ORANGE RANGE
M4.上海ハ二-/ORANGE RANGE

2010年8月13日
「鱗/秦基博」

150回目の今日お届けしたのは、「鱗/秦基博」でした。


1980年11月、宮崎県日南市に生まれた秦基博は、7歳の時に父親の仕事の都合で、神奈川県横浜市に引越します。1992年、秦は、兄が買ってきたギターを弾き始め、1996年4月、高校入学後には軽音楽部に入部し、ミスター・チルドレンやエレファント・カシマシなどのコピーバンドを始めます。やがて秦は、リサ・ローブやシェリル・クロウなどの洋楽も聴くようになると同時に、オリジナル曲も作りはじめます。
1999年春、秦は、大学入学直前の春休みに、友人の紹介で、横浜・中華街近くのライブハウス「F.A.D YOKOHAMA」で行われた弾き語りライブに出演、店長に、その音楽性を見込まれた秦は、その後も、月に1、2度定期的に出演するようになります。

2004年1月、秦は、「F.A.D YOKOHAMA」の店長の薦めで、インディーズアルバム『オレンジの背景の静物』を制作。その年の夏には、ひとりで、関東近郊のライブハウスを巡るツアーを行います。
"インディーズアルバムを作ったら、メジャーへの扉が開けるのでは"-そう考えていた秦でしたが、彼を取り巻く音楽環境は変わらず、秦は引き続き自身の音楽スタイルを模索する日々を過ごします。
 しかし、翌2005年の暮、ライブハウスで歌っていた秦をたまたま見かけた、音楽事務所・オフィス・オーガスタのスタッフが声を掛け、ついに、秦基博メジャーデビューへの扉が開きます。

「当時、事務所はスキマスイッチをデビューさせた後で、彼らに続くアーティストを探していたんです。普通、"デビューさせたい"と思ったアーティストを見つけた時、デモテープを作って、ライブで経験を積ませてと、メジャーデビューさせるまで約1年はかけるんですが、彼の場合は違っていたんです。"荒削りだけど、彼の場合は、完成されたアーティストとしてデビューさせるよりは、未完成のままデビューさせる方が面白いかもしれない"と考え、彼を見つけてから4ヵ月後の2006年3月には正式に契約を結び、7月には事務所主催の野外ロックイベント「Augusta Camp2006」のオープニングアクトとして出演させたんです」。現在、秦基博のマネージャーを務める堀越さんは、当時についてこう振り返ります。デビューを前にして、約1万人の大観衆の前に歌を歌い、注目を浴びる存在となった秦基博は、11月に1stシングル「シンクロ」を発売します。
2006年11月、秦基博は1stシングル「シンクロ」を発売します。シングル「シンクロ」は、いきなり全国43局ものFM局のパワープレイを獲得します。
「僕らスタッフは、秦のデビューにあたって、彼を、"シングルヒットを放つアーティストとして育てていくことよりも、秦が作った色んなスタイルの曲を、多くの人に聴いてもらって、コアなファンを掴みたい"と考えたんです。そこでまずは、彼がギター1本の弾き語りで歌った、「Augusta Camp」のライブ映像を収録したプロモーションビデオを、全国のラジオ局に配って、彼の音楽の良さを、多くの人達に知ってもらおうとしました。その計画は見事に成功し、広島FMをはじめとする、全国のFM局から支持を獲得し、デビュー曲「シンクロ」がラジオから大量にOAされるキッカケを作ることができたんです」
マネージャーの堀越さんは、当時を振り返ります。

翌2007年3月、秦基博は、次の作品としてミニアルバムをリリースします。
「それまでの秦は、デビューするまで、ずっとギター1本、独りで歌を歌ってきました。それが、秦の音楽スタイルの基本なので、その弾き語りを軸に作った色んなタイプの曲を聴いてもらうために、ミニアルバムを作ることにしたんです。しかも、秦自身のサウンドを、しっかり聴いてもらうために、彼自身にプロデュースしてもらいました。」

こうして、2007年3月、秦基博がセルフプロデュースしたミニアルバム『僕らをつなぐもの』は発売されます。

2007年3月に、秦基博はセルフプロデュース・ミニアルバム『僕らをつなぐもの』を発売します。
「『僕らをつなぐもの』リリース直後に、広島FM主催で行った『魁no.2』を含め、東京、大阪で初めてバンドスタイルでライブを行ったんです。他のメンバーを加えてバンドスタイルでライブを行ったのは、この時が初めてでした。
秦自身、他のミュージシャンと一緒に組む楽しさを覚え、それが自分にとって、音楽の幅を拡げるられることだと分かったんです。この経験が、その後の彼にとって大きな財産になりました」。
マネージャーの堀越さんは、当時をこう振り返ります。

その後、秦は、6月に発売を予定した次のシングルに、ある曲を選びます。
「この曲は、もともと、弾き語りのイメージが強く、いかにアレンジするのかがポイントだと思っていたので、アレンジを誰に頼むか考えて、秦本人、そしてスタッフの中で浮かんだ人物が、東京事変などのプロデュースを手掛けていた亀田誠治さんでした。それまで亀田さんとは、全く面識が無く、秦自身も、色んなアーティストのプロデュースを手掛け、多忙を極める亀田さんにアレンジをお願いすることに対して、遠慮と不安を感じていました。しかし、亀田さんにお願いすると、亀田さん自身も秦の音楽に興味を持っていてくれて、話はすんなりと決まったんです。
その後、デモテープを亀田さんに渡し、数日後に完成された曲が届いたんですが、その曲を聴いた瞬間、秦本人も含め、スタッフみんなが、その完成度の高さに驚いたんです。イントロ部分のピアノで曲に引き込まれ、ストリングスを加えたことで拡がったスケール感。曲がもともと持っていた力が、さらに拡がっていくのを感じたんです」。
マネージャーの堀越さんは、そのときの驚きをこう語ってくれました。

こうして、秦基博の2ndシングル「鱗」は、2007年6月に発売されるのでした。

2007年6月に発売された、秦基博の2ndシングル「鱗」。
「デビュー当時から、彼がライブで歌ってきたこの曲は、亀田さんのアレンジが加わったことで、今では曲のイントロが流れた瞬間に、ファンの顔色が変わっていくのがハッキリ分かるほど、彼のライブには欠かせない曲になったんです。亀田さんにアレンジを担当してもらって、曲のスケール感が拡がっていったことに秦自身も大満足し、それ以来、彼は他のアーティストと一緒になって曲を作っていくことにも、積極的にチャレンジするようになってくれました。この曲を通して、彼は色んな人達の力を借りて曲を作ることで、聴いてくれる人たちに、曲は、より伝わるものになるということを、実感することができたんです」。
最後に、マネージャーの堀越さんは、こう話してくれました。

1人の才能が、たくさんの手を経て、J-POPの名曲に生まれた変わった瞬間でした。


今日OAした曲目
M1.Tomorrow Never Knows/Mr.Children
M2.シンクロ/秦基博
M3.僕らをつなぐもの/秦基博
M4. 鱗/秦基博

2010年8月 6日
「ずっとそばに.../Metis」

149回目の今日お届けしたのは、「ずっとそばに.../Metis」でした。

1984年3月、広島市に生まれたMetisは、小さい頃から歌を歌うことが大好きで、近所のビデオ屋で貰ったビデオテープの中に入っていた、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を観て、その踊りを真似ていたといいます。その後、小学校に入るとMetisは、洋楽のオムニバスCDを買ってきて、その中に収録されていた、ボビー・ブラウンやホイットニー・ヒューストンなど、R&Bやブラックミュージックに夢中になっていきます。そして、16歳の時、たまたま買った、ボブ・マーリーの追悼フェスティバルのビデオ『ONE LOVE THE BOB MARLEY ALL-STAR TRIBUTE』でレゲエ・ミュージックに出会った彼女は、その世界の虜になり、彼女自身も"レゲエシンガーとして、人にメッセージを伝えていきたい"と思うようになります。

2002年春、高校を卒業したMetisは、"歌手になる"という夢を実現するために、様々なオーディションにチャンンジしますが、簡単にその扉は開きません。しかし、「母さんにとったら世界一強い子じゃけん」という母親の言葉を励みに、オーディションにチャレンジし続けたMetisは、2005年、インディーズレーベル「JAMWAX」のオーディションに合格し、10月に1stミニアルバム『ANSWER』を、タワーレコード限定で発売します。アルバム『ANSWER』は、僅か400枚のリリースでしたが、パワフルな歌声とメッセージ性溢れる彼女の歌の評判は、口コミやインターネットを通じて広がり、彼女の名前は少しずつ、全国に浸透していきます。

2006年春、日本クラウンとメジャー契約を結んだMetisは、5月にインディーズ最後のミニアルバム『MUSIC』を発売。広島のことについて歌った曲「ANSWER」や、愛する全ての人たちが幸せになって欲しいと歌った曲「MUSIC」など、その歌の内容や、Metis自身の生き方に対して、少しずつ共感の輪が拡がっていきます。そんな中、Metisは満を持して、メジャー1stミニアルバム『WOMAN』を発売します。

「アルバム『WOMAN』発売直後の、10月から、Metisは約1ヵ月半で、全国40都道府県を回るインストアライブとキャンペーンを行ったんですが、おかげで、TV、ラジオ、雑誌など、さまざまなメディアが、彼女を取り上げてくれました。そして、キャンペーン直後の11月に、レゲエの本場ジャマイカで、レコーディングをすることになったんですが、初めてジャマイカを訪れたMetisは、ジャマイカの人達がレゲエ・ミュージックを糧に生活している姿を見て、彼女自身、彼女なりのやり方で、歌を通してメッセージを伝えていくことができればと、強く感じたそうです」。
当時のことについて、マネージャーの鈴木さんは、こう振り返ります。

そして、2007年1月、Metisがジャマイカでレコーディングした曲をカップリングに収めた、メジャー1stシングル
2007年1月、Metisは1stシングル「梅は咲いたか桜はまだかいな」を発売します。
「"梅は咲いたか桜はまだかいな"の歌詞が、受験生を後押しするような励ましの内容であったり、彼女自身が偶然にも菅原道真の末裔であったことなどもあって、2月に湯島天満宮で合格祈願ライブを行ったんですが、このことは新聞やテレビを通して、数多く取り上げられました。FMの各局でパワープレイにも選んでもらい、この曲で、Metisの知名度を一気に拡げることができました」。鈴木さんは、こう振り返ります。

さらに、2007年は"広島のシンガー"であることを大切に思うMetisにとって、節目の年となります。2007年5月、Metisはテレビ新広島の企画で、原爆ドーム前からの中継に生出演、さらに8月6日には全国ネットで放送された特別番組にも出演して、話題を集めます。
「Metis自身、家に帰ったら被爆体験を持つおばあちゃんが居て、小さい頃から、食卓で被爆体験について話を聞かされていたそうです。それで、彼女は、自分が歌手になる時に"平和や命の尊さについて、歌を通して訴えていく"と決めたんです。ただ、音楽活動を続ける中で彼女は、"もっと自分は原爆の事について知らないといけない"と感じて、改めて、語り部の沼田鈴子さんから直接話を聞いたり、被爆した建物を実際に歩き回るなどして、ひとつの曲を作ったんです。それが、アルバム『ONE LOVE』に収められた曲"アオギリの木の下で..."です」。

「アオギリの木下で・・・」が収められたアルバム『ONE LOVE』は、2007年8月15日にリリースされ、セールスチャート最高位20位、約6万5000枚の売上を記録します。また、10月には、初の全国ライブツアーも成功させ、Metisは一歩づつ、メジャーアーティストの階段を昇っていきます。翌2008年2月、Metisは、特別な想いを込めて、新曲をリリースします
「もともと、別の曲を歌う予定にしていたんですが、レコーディング直前になって、"もっとMetisらしい、聴く人にメッセージが伝わる歌を歌った方がいい"という事になり、彼女が改めて考えて、辿り着いたのが、自分の母親をテーマにした歌を作ることでした。彼女が、歌手になることを決め、上京した直後に病で倒れた彼女の母親は、その時点で余命を宣告され、彼女自身、それから、常に母親の事を考えながら歌い続けていたんです」。
こうして、Metisのストレートな母親への想いを歌詞に込めたシングル「母賛歌」は、リリースされるのでした。
2008年2月に、Metisが発売したシングル「母賛歌」。Metisが生まれた時から、ずっと支えてくれた母親が、天国へ逝ってしまう前に、母への感謝の気持ちを伝えようと書いたその歌は、その年の夏に全国各地で行われた音楽フェスやイベントでも歌われ、多くの人達に共感を呼んでいきます。そして、シングルリリースから半年以上が過ぎた頃、あるTV番組への出演依頼が舞い込みます。
「その番組は、10月から日本テレビ系で放送がスタートした『誰も知らない泣ける歌』でした。Metisは、テレビで"母賛歌"が取り上げられることに対し、初めは、"私はレゲエシンガーなのに大丈夫だろうか"という思いや、TVを観た人達から"やらせなんじゃないか"という、批判めいた意見が届くんじゃないかと心配していました。それで、Metisと僕等は、事前に彼女のブログで、"自分がなぜテレビ番組に出演し、この歌を歌うのか"説明したんです。実際11月に番組がOAされると、そんな心配は全く無く、むしろMetisのファンや、彼女と同じような境遇の人達から、たくさんの励ましのメッセージが寄せられ、それが、彼女にとって、大きな支えとなりました」。

しかし、番組が放送された直後の2008年12月、奇跡的に命を永らえていた彼女の母親は、ついに彼女を残して逝ってしまいます。
「彼女の下へは、"母賛歌"を通して彼女の事を知った多くのファンから、たくさんの励ましの声が寄せられました。母親を亡くした直後にはひどく落ち込んでいた彼女が、時間が経って、まず考えたことは、そんな、彼女に寄せられた励ましの声に応える、アンサーソングを作ることでした」。

「"自分自身を含め、それぞれ人にはみんな"大切な人""ずっとそばにいたい人"がいるはず。その人を、本当に大切にして欲しい"という願いを、彼女はこの歌に込めました。大切な人からの言葉、そして愛を大切にして、どんな困難にも立ち向かってほしい。そんな願いが、この歌には込められています」。

こうして、Metis5枚目のシングル「ずっとそばに...」は、2009年4月に発売されます。

2009年4月に発売された、Metisの5枚目のシングル「ずっとそばに...」。
「母親を失い、途方に暮れていた彼女を救った、ファンの人達、そして同じ境遇の人達からの励ましの声。彼女は、その声に応えるために、再び歌を歌い始めました。この歌を通して一番伝えたかったのは、励ましの声をかけてくれた人達への恩返しだったんです。
最後に、マネージャーの鈴木さんは、こう話してくれました。

数多くのファンの励ましに応えたいという思いが、J-POPの名曲を産み落とした瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ワン・ラブ/ボブ・マーリー
M2.梅は咲いたか桜はまだかいな/Metis
M3.母賛歌/Metis
M4.ずっとそばに.../Metis

2010年7月30日
「サカナクション/セントレイ」

148回目の今日お届けしたのは、「サカナクション/セントレイ」でした。

「僕が、メンバーの山口一郎と、岩寺基晴の二人に初めて出会ったのは、2000年のことでした。当時、僕は札幌担当のビクターレコードのプロモーターで、札幌でイベントを企画した時に、二人がそれぞれ活動していたバンドに声を掛け、オープニング・アクトとして出演してもらったんです」。
現在、ビクターでサカナクションを担当する岡さんは、初めての出会いについてこう振り返ります。

1980年9月、北海道小樽市に生まれた山口一郎は、ヨーロッパに長年住んでいた父親の影響から、小さい頃からドイツのエレクトロニック・ミュージック・バンド「クラフトワーク」や、YMOなど、電子音楽をベースにしたポップミュージックを聴いて育っていきます。札幌市内の高校に進学した山口は、同級生の岩寺達と、UKロックのバンドを結成しますが、やがて解散。山口は、次第に打ち込みを重視した、テクノやクラブミュージックに傾倒するようになり、高校卒業後も、働きながら、独りで音楽活動を続けていきます。

2005年、山口は、テクノやクラブミュージックに、ロックやJ-POPのエッセンスを加えることで、"何か違う音楽が生まれるのでは"と考えはじめ、それを実践するために、別のバンドで音楽活動を続けていた岩寺を誘って、「サカナクション」を結成します。
「2000年に、山口と岩寺に初めて出会った後も、ちょくちょく彼らのライブは観ていたんです。それで、二人がバンドを結成したという話を聞いて、"一体、どんな音楽を作るのか"と興味を持っていたところ、二人からデモテープを貰ったんです。そのデモテープに収録されていた「三日月サンセット」と「白波ウォーター」の2曲を聞いた時、どちらも荒削りだったけど、テクノやハウス音楽の要素が詰まった独自の音楽性に、可能性を感じたんです。山口は、独りで活動していた時に、札幌のクラブで培った、サウンドの変調や、心地よいリズム感を、ロックミュージックに上手く活かしていたんですね」。サカナクションの曲を初めて聞いた感想を、岡さんはこう語ってくれました。

ロックバンドの世界に再び足を踏み入れた山口と岩寺の二人は、サポートメンバーとしてドラマ―の江島啓一、キーボードの岡崎英美、ベースの草刈愛美の3人を加え、地元北海道で、積極的にライブを積み重ねていきます。
2006年8月、サカナクションは、北海道最大の野外ロックフェスティバル「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」の公募選出枠に応募し、868組の中から、見事、出演枠を獲得します。これをキッカケに、サカナクションは、サポートメンバーを正式メンバーとして加え、5人組バンドとして活動を本格的にスタートします。

「RISING SUN ROCK FESTIVAL」の出演で注目を集めたサカナクションは、CD未発売ながら「三日月サンセット」が、地元北海道のカレッジチャートにランクイン、同時に「白波トップウォーター」もラジオから頻繁にオンエアされるようになって、ファンの間からはサカナクションのCD発売を求める声が、レコードショップに殺到します。
翌2007年、サカナクションは、こうしたファンの要望に応える形で、ビクターと正式に契約を結び、5月に待望の初CD『GO TO THE FUTURE』をリリースするのでした。

2007年5月にリリースされた、サカナクションのポップで、キャッチーな1stアルバム『GO TO THE FUTURE』は、地元北海道はもちろん、全国の音楽ファンからも注目され始め、彼らは8月に「SUMMER SONIC 」に、12月に「COUNTDOWN JAPAN」と、大型ロックイベントにも出演していきます。
「彼らは、クラブシーンにいるようなアンダーグランンドなリスナーと、J-POPのリスナー、この両方をターゲットにした音楽を作ることを目標にしました。音の質やアート性に拘りを持っているアンダーグラウンドのリスナーと、音には無関心だけど、歌には執着するJ-POPのリスナー。その中間の人達が気に入ってもらえるような音楽を作れば、自分達が目指した音楽ができるのではと考えたんです。1stアルバムに収められた"三日月サンセット""白波トップウォーター"を始めとした8曲は、どれも、彼らの過去の作品の中から厳選した曲ばかりで、どの曲もテクノ、クラブミュージックを基調としたサウンドに、日本語独自の言葉の響きや言い回しを上手くのせて、ロックファンも、クラブ系のファンも惹きつける魅力を放っていました」。岡さんは、サカナクションの1stアルバムについて、こう語ります。

子供の頃、読書家で俳句が好きだった父親の影響で、自らも寺山修司の作品や種田山頭火の俳句を読んでいた山口が書く、文学性の高い歌詞。そして、繊細なギターと、うねるようなベースのグルーヴ感。さらには抑揚感際立つドラムと、キラキラとしたシンセの音色。これら全てが融合したサカナクションのサウンドは、ジャンルを問わず、多くの音楽ファンに新鮮な感覚を与え、虜にしていきます。

そして、2008年1月、前作から8ヵ月というスピードで、サカナクションは、2ndアルバム『NIGHT FISHING』を発売します。

「彼らにとって1stアルバムは、名刺代わりのようなアルバムで、実は、音楽シーンに対して、どうアプローチしていけばいいのかが、全く分かっていなかったんです。でも、1stアルバムをリリースして時間が経っていく内に、"自分達が演ろうとしている音楽は間違いじゃなく、基本ターゲットは変えずに、サウンド面で進化させていくことが大切だ"という事に気がついたんです。その結果から生まれたのが、この2ndアルバムです」。

ロックファンのみならず、クラブ好きの音楽ファンからも支持を集めたサカナクションは、その後、全国8ヵ所を回る初めての全国ツアーを行った後、8月には2年ぶりの「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」を始め、8本もの野外ロックフェスティバルに出演します。
「野外ライブ出演が終わって、翌2009年に発売する予定のアルバム制作に入った時、「RISING SUN ROCK FETIVAL in EZO」で、未発表のまま演奏し、お客さん達の反応が良かったこの曲を、シングル化する話が持ち上がったんです。
それまで、彼らの頭の中には、シングルという概念はなく、幾つかの曲群が集まったアルバムを、一つの作品として捉えていました。しかし、僕は、アルバムを発売するにあたって、サカナクションをもっと盛り上げていくための、大きなうねりを作っていきたいと思っていたので、初めてシングル化することをメンバーに提案したんです。
次のアルバムに収める予定の曲の中でも、この曲はポップ感が際立っていて、メンバーからも、シングル化に対しての異論は出ませんでした」。

「ギターサウンドを全面に打ち出したこの曲は、アッパーなベースのグルーヴ感と、その二つを上手く融合させるためにアレンジ面にも工夫を凝らしていて、それまでのサカナクションとは違う、もう一つの新しいサカナクションの音楽が生まれたような感じがしたんです」。
こうして、2008年12月、サカナクションの1stシングル「セントレイ」は発売されます。
2008年12月に発売された、サカナクションの1stシングル「セントレイ」。
「"セントレイ"は、ギターサウンドを全面に出したことで、よりキャッチーな曲となり、多くの新しいファンを掴むことができました。発売直後に出演したライブイベント「COUNTDOWN JAPAN」でこの曲を歌った時には、会場に詰めかけた約5,000人のお客さんが、笑顔で踊りまくる、素敵な光景を目にすることができたんです。サカナクションが演ろうとしている、音楽の裾を広げるキッカケを作った曲ですね」。
最後に、ビクターの岡さんは、こう話してくれました。

バンドのチャレンジが生んだ楽曲が、J-POPの可能性を、また一つ拡げた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ショールーム・ダミー/クラフトワーク
M2.三日月サンセット/サカナクション
M3.ナイト・フィッシングイズグッド/サカナクション
M4.セントレイ/サカナクション

2010年7月23日
「BEAT CRUSADERS/DAY AFTER DAY」

147回目の今日お届けしたのは、「BEAT CRUSADERS/DAY AFTER DAY」でした。

「元々僕は、インディーズのレコード会社で、制作ディレクター兼営業宣伝担当、いわゆる何でも屋のような仕事をしていたんです。それが、仕事で培った知識やノウハウを、学生時代から始めたバンド活動へ取り入れるようになって、いつの間にかバンド活動がメインになっていったんです。こうして、1997年に、高校時代の同級生・イワハラユキオと二人でBEAT CRUSADERSを結成しました」。
ギター兼ボーカルのヒダカトオルさんは、バンド結成の経緯について、こう振り返ります。
アメリカのロックバンド「ザ・モンキーズ」の大ファンでありながら、ザ・ストーン・ローゼス、オアシスといったブリティッシュ・ロック音楽にも傾倒していたヒダカトオルは、1997年高校時代の同級生でドラマ―のイワハラユキオとユニット「BEAT CRUSADERS」を結成します。
「BEAT CRUSADERS」は、"アメリカやイギリスのインディーズ音楽の世界にいる、POPなギターサウンドのバンド"というコンセプトの下、当初はギターとドラムだけのユニットとしての活動を始めますが、その後、イワハラが脱退。ヒダカは音楽活動を通じて知り合った、ウム、タイ、アラキの3人が加えて、4人のバンド編成でBEAT CRUSADERSとしての活動を続けていきます。

1999年6月、BEAT CRUSADERSは、インディーズレーベルからシングル「NEVER POP ENOUGH E.P.」を、翌7月には1stアルバム『HOWLING SYMPHONY OF...』を発売します。60'~'90年代までの、ロックのエッセンスを取り入れたBEAT CRUSADERSのサウンドは、洋楽リスナーを中心に多くの人々から支持を集めていきます。さらに彼らは、スタジオワークと並行して、ライブ活動も精力的に行い、インディーズバンドでありながら2001年6月には、アメリカ西海岸を、翌2002年4月にはオーストラリアを回るライブツアーも行って、海外のロックファンからも注目を浴びるバンドに成長していきます。

2003年8月、ベストアルバム『BEAT CRUSADERS』を発売した後、音楽の方向性の違いから、ヒダカ以外の3人のメンバーがバンドを脱退、バンド解散の危機が訪れます。しかし、ヒダカは、音楽仲間のクボタマサヒコ、カトウタロウ、マシータ、ケイタイモの4人を加えて5人編成の新生BEAT CRUSADERSとしての活動をあらたにスタート。
そして、翌2004年春に、メジャーレーベルのDefSTAR RECORDSと契約を結ぶのでした。
「メンバーチェンジの後、僕の動向を心配してくれていたレコード会社の人達が、声をかけてくれたんです。僕は、インディーズで3年半余り活動して、ある程度の実績も残していたし、インディーズのレコード会社に勤めていた時に、メジャーレコード会社の販売や宣伝面での、良い部分、悪い部分も分かっていたので、"僕らだったら、少しでもそのやり方を変えることができるのでは"と思い、メジャーレコード会社と契約することにしたんです」。
こうして、DefSTAR RECORDSと契約したBEAT CRUSADERSは、7月にミニアルバム『A PopCALYPSE NOW~地獄のPOP示録』を発売します。

「メジャー初のリリースは、映画『地獄の黙示録』と、POP音楽をかけ合わせてタイトルを付けました。
物事の消費されるスピードが年々早くなっていく今の時代、POP音楽の世界も、人気を集めている人達でさえも、2、3年経つと、あっという間にその立場が入れ替わってしまう。実は、"POP音楽は地獄から一番近い存在なのでは"、そう思ったんです。インディーズの世界も同じで、世の中に認知される速度が速くなって、セールスもあがり、ジャンルも活性化してはいるけど、メジャー音楽と同じように飽きられるのも早くなっている。純粋に音楽をやろうとしていた人達でも、会社の資本が入ってきた段階で、この"人気が落ちる"地獄に巻き込まれてしまうんです。
僕は、そんな構図を、インディーズレコード会社で働いていた時に、実際に見てきたので、インディーズで実績を積んできた僕らがメジャーデビューして、少しでもその構図を変える挑戦ができればという思いを、アルバムタイトルに込めたんです」。ヒダカトオルは、メジャーデビュー作への思いについて、こう振り返ります。

「それから、僕等は、自分達が聴いて育ってきたパンクやPOPな音楽、特に海外の作品と日本のインディーズ音楽それぞれのエッセンスを、J-POPという音楽ジャンルの中に潜り込ませていました。そうすることで、より多くの人達に、僕等の音楽に興味を持って欲しいと考えて、曲を作っていました」。

BEAT CRUSADERSは、邦楽、洋楽、ジャンルを問わず音楽ファンの心を掴むと同時に、ライブを始めとした公の場では、メンバー全員が、それぞれの似顔絵イラストのお面をつけて登場し、決して素顔を見せないという、謎めいた部分も話題を呼び、多くの人達に、その存在が知られるようになっていきます。
こうして、2004年10月、BEAT CRUSADERSは、テレビ東京系アニメ『BECK』の主題歌にも起用された、メジャー1stシングル「HIT IN THE USA」を発売します。

2004年10月、BEAT CRUSADERSはメジャー1stシングル「HIT IN THE USA」を発売します。さらに、翌2005年3月には、ヒダカが音楽総合プロデューサーを務めたアニメ『BECK』のサントラ盤を2枚同時に発売します。
「主人公の少年が、バンド活動の中で、失敗と挫折を繰り返しながらも、音楽への信念を原動力に一歩ずつ前進していく様を描いたアニメ『BECK』と、僕らBEAT CRUSADERSの音楽活動は、重なる部分もあって、このアニメを観た人達にも、BEAT CRUSADERSを浸透させていくことができました。おかげて、ロックファン以外にも、僕らの音楽を浸透させることができたんです」。

BEAT CRUSADERSの音楽の魅力を、アニメを通して浸透させることに成功した彼らは、5月にメジャー1stアルバム『P.O.A~POP ON ARRIVAL』を発売し、セールスチャート最高位3位、約18万枚のセールスを記録します。
さらに、アルバム発売後に全国28ヵ所でのライブツアー、そして8月には「ROCK IN JAPAN FES」「SUMMER SONIC」
など野外ロックフェスティバル4本に立て続けに出演して、BEAT CRUSADERSは、ライブバンドとしても高い評価を集めていきます。

「ライブツアーが終わって、野外ロックフェスティバルに出演する合間に、次のシングルの構想を練ったんです。そこで僕は、"アジアン・カンフー・ジェネレーションや、BUMP OF CHICKENと言った後輩バンドが演っている、ギターROCK感に、パンクロックの象徴のひとつ、2ビートに乗せて曲を作れないか"、そう考えたんです」。

「ところが、色々と模索しながら作った曲のレコーディング途中に、ドラマ―のマシータが、ライブツアーや夏フェスに出演し続けてきたことによる疲労と、レコーディングでドラムを激しく叩き過ぎたのが原因で、足を負傷してしまったんです。
それで、ほんの数日なんですが、バンド活動を休まなくちゃいけなくなったんですね。でも、その数日間休みを取ったことで、"自分達にとって本当に必要な事は何なんだろうか"という、忙し過ぎることで見えなくなっていた部分を、改めて考えることができて、バンドにとってはいい休養期間になったんです。そのせいか、曲自体、最終的には柔らかい雰囲気に仕上がりました」

こうして、BEAT CRUSADERSが作った曲「DAY AFTER DAY」は、2006年4月に、5枚目のシングルとして発売されます。

2006年4月に発売された、BEAT CRUSADES5枚目のシングル「DAY AFTER DAY」は、セールチャート最高位6位を記録します。
「結果的にBEAT CRUSADERSにとっては、メンバーのケガによる少しの休みがプラスに働きました。苦しみや悲しみと向き合って、それを素直に受け入れることで、新たな自分達を見つけることができたんです。それは、バンドにとって、大きな刺激を与えてくれたんです。
この曲は、ギターロックの疾走するような爽やかさと、パンクロックのスピード感、その両方を兼ね備えていて、ライブでも演奏すると、お客さん達も楽しそうだし、僕らも気持ち良いので、僕等のライブには欠かせない曲になっています」。
最後に、メンバーのヒダカトオルさんは、こう語ってくれました。

勢いのあるバンド活動の中で生まれた、アクシデントによる少しの休息が、J-POPの名曲を生み出した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.デイドリーム・ビリーバー/ザ・モンキーズ
M2.LOVE DISCHORD/BEAT CRUSADERS
M3.HIT IN THE USA/BEAT CRUSADERS
M4.DAY AFTER DAY/BEAT CRUSADERS

2010年7月16日
「HALCALI/Tip Taps Tip」

146回目の今日お届けしたのは、「HALCALI/Tip Taps Tip」でした。


東京都目黒区生まれのYUCALIと、HALCAの二人は、小学生の時、都内のダンススクールで出会い、意気投合します。
2000年、YUCALIとHALCAの二人は、テレビ東京系で放送されていたダンス番組「RAVE2000」の小学生大会に出場して優勝、さらに2002年春に行われたダンスコンテスト「FEMAIL RAPPERオーディション」に出場して優勝します。

「「FEMAIL RAPPER」オーディションで優勝した時、彼女達はまだ中学生だったんですが、RIP SLYMEのRYO-ZとDJ FUMIYAによるプロデュース・チーム「O.T.F」全面プロデュースの下、デビューすることが決まったんです。
当時、二人が憧れていたのは、R&Bシンガーのメアリー・J・ブライジや、女性ラッパーのミッシー・エリオットで、とにかく自分達の歌いたい曲を歌いながら、レッスンでいたそうです」。
担当ディレクターを務める、エピック・レコードの笠井さんは、当時についてこう振り返ります。

2002年7月、二人の名前をかけ合わせて作ったユニット名の「HALCALI」を結成した彼女達は、RIP SLYMEが日本武道館で行った無料ライブにゲストとして参加。ライブの途中、RIP SLYMEのメンバーの呼びかけに応じて、客席からステージに上がって、1万人の観客を前にして、曲を披露します。
「RIP SLYMEのライブ中に、突然ステージ上にあげられた彼女達は、1万人の観客を前にして、緊張することなく、O.T.Fが彼女達のデビュー曲として作った曲を歌ったんです。一瞬、"彼女達は誰"って顔をしていたRIP SLYMEのファン達も、脱力感満載の彼女達の歌声を聞いて、曲が終わる頃には、一緒に踊っていたそうです」。

こうして、デビュー前から注目を浴びていたHALCALIは、2003年1月、1stシングル「タンデム」を発売します。

2003年1月、HALCALIは、O.T.Fプロデュースによる、1stシングル「タンデム」を発売します。
YUCALIとHALCA、二人の現役女子中学生によるユニットHALCALIの曲は、しつこいほど韻を踏む意味不明の歌詞と、シンプルなメロディで構成され、脱力感たっぷりだけど、一度耳に入るとこびりついて離れない感覚で、同世代の女子中高生を中心としたティーンエイジャーから支持を集めていきます。
また、HALCALIの1stシングル「タンデム」のプロモーションビデオは、スペースシャワーTV、MTVなどBS・CSそれぞれのミュージックチャンネル4局のパワープレイ曲にも選ばれ、1stシングル「タンデム」は、セールスチャートで最高位19位を記録することになります。

「HALCALIは、当時、RIP SLYMEのプロデュースワークであったり、奇抜なアートワークだったり、サブカルチャーでの
アートな方向に振り切って活動していました。とにかく、"サブカルチャーに精通する2人組みの女の子"というキーワードは、今でも徹底しているところです」。エピックレコードの笠井さんは、こう語ります。

自由奔放で、絶妙にユルいHALCALIの音楽は、音楽ファン以外にも、彼女達の音楽を偶然耳にした人達の興味も引き付けていきます。
 デビュー時は、2人とも中学生だったため、プロモーションビデオでの露出が中心だった活動も、少しずつ本格化し、4月に発売した2ndシングル「エレクトリック先生」は、セールスチャート最高位16位を記録。
さらに、6月には、彼女達の噂を聞きつけた、イギリスの国営放送BBCのライブ&トーク番組に、日本の10代の女の子に人気のヒップホップユニットとして、紹介されます。
そんな中、2003年7月、HALCALIは、3枚目のシングル「ギリギリ・サーフライダー」を発売します。

2003年7月に発売された、HARCALIの3rdシングル「ギリギリ・サーフライダー」は、セールスチャート最高位10位を記録します。
勢いに乗ったHARCALIは、二人が夏休みに入ると同時に、全国6ヵ所で初めてのライブツアーを実施。
さらに9月には、O.T.Fがトータルプロデュースを手掛け、スチャダラパーなど多彩なゲストが参加した1stアルバム
『ハルカリベーコン』を発売、最高位5位を記録し、日本の女性ラッパーとしては初めて、セールスチャートTOP10にランクインします。

その後も、HALCALIは、女子中高生の間で人気を集めていたストリートファッションブランド「ラバーズハウス」とコラボレーションしたつなぎや、Tシャツなどを販売して、音楽以外の分野にもチャレンジし、注目を集めていきます。
こうして、"脱力系ラップ"と呼ばれる音楽ジャンルを確立したHALCALIに、2005年、ひとつの転機が訪れます。
「2005年に入ってすぐ、所属事務所の方針で、HALCALIの二人を、"SONY MUSICのアニメマーケティング戦略に絡ませてアピールしたい"という話になって、レコード会社をエピックレコード移籍したんです。そのときの担当が僕です。
 僕も、それまでは、一般の音楽ファンがHALCALIの音楽に対して抱いていた、"脱力系ラップ"と表現されるようなものと同じイメージを持っていました。でも、彼女達に実際会ってみると、違っていました。
 彼女達は、二人で歌うと、ラップよりも、独特なハーモニーを奏でられることに僕は気が付いたんです。そこで、それまで
ラップ9割、歌1割だった歌の構成を、ラップ2割、歌8割に変えてみたんです。すると、それまでの"脱力系"という彼女達のイメージは変わって、"POPアーティスト"としての風格さえ感じることができたんです。"これだ"と思った僕は、この風格を上手く活かせば、HALCALIは、"ヒップホップだけでなく、POPな曲も歌えるアーティストへステップアップできる"、僕はそう確信したんです」。
笠井さんは、HALCALIの転機について、こう語ります。

こうして、HALCALIは、レコード会社移籍を機会に、それまでの彼女達の音楽スタイルを変えて、歌物にチャレンジすることになります。
「アニメマーケティングに絡ませる展開の皮切りとして、まずはTBS系アニメ『交響詩篇エウレカセブン』のエンディング・テーマを、秋から歌うことになったんです。それまでの彼女達のイメージを大切にしつつも、どうやったら、歌ってラップするオシャレな2人組みの女の子を作りあげることができるか、色々と考えて曲を作りました。それまで彼女達は、アルバムでは歌をメインとした曲もやっていましたが、シングルとしては発売したことがなかったので、二人ともハモリのパートでは、なかなか上手く歌えずに、何度もやり直しして、苦労しました」。

2005年12月、HALCALIが新しいスタイルにチャレンジして作った、シングル「Tip Taps Tip」は発売されます。

2005年12月に発売された、HALCALI7枚目のシングル「Tip Taps Tip」は、セールチャート最高位27位を記録します。
「それまでのHALCALIのスタイルを変えて作ったこの曲は、セールス的には今ひとつでしたが、その後の彼女達の音楽人生にとって、ひとつのターニングポイントになったと思います。歌の歌詞にもあるように、まるで足踏みをするかのように、彼女達二人の未来を照らした楽曲に仕上がっています。彼女達にとって、新たなチャレンジにもなった、意味の深い曲だと思っています」
最後に、担当ディレクターを務めた笠井さんは、こう言いました。

新たな世界にチャレンジすることで生まれた、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ラブ・イズ・オール・ウィ・二―ド/メアリー・J・ブライジ
M2.タンデム/HALCALI
M3.ギリギリ・サーフライダー/HALCALI
M4.Tip Taps Tip/HALCALI

2010年7月 9日
「MONGOL800/小さな恋のうた」

145回目の今日お届けしたのは、「MONGOL800/小さな恋のうた」でした。

「彼らのライブを初めて観たのは、1999年1月でした。地元の先輩バンドが主催したイベントに彼らが出演していて、私はゲストバンド「ハスキング・ビー」目当てて、ライブを観に行っていたんです。そのライブのオープニングアクトとして出演したのが、当時高校3年生の彼らで、とにかく楽しそうに演奏する姿が初々しかったのが印象的でした。演奏していた曲も、キャッチーな曲ばかりで、初めは"誰かのカバー曲か"と思っていましたが、違っていたんです。ライブが終わって、声を掛けたら、全曲オリジナルという事が分かって、ビックリしたんです」
MONGOL800との出会いについて、マネージャーの比嘉さんは、こう振り返ります。

1998年7月、沖縄県浦添高校の軽音楽部の同級生、上江洌清作と儀間崇、そして高里悟の3人は、「Hi-STANDARD」や「ザ・ブルー・ハーツ」など、お互いが好きだった音楽を通して、バンド「MONGOL800」を結成します。上江洌、儀間、高里の3人は、直ぐにオリジナルを2曲作って、彼らの地元・浦添市のお祭り「てだこまつり」に出演します。地元での評判を集めたMONGOL800は、自主制作CDを作ってライブ会場で手売りしたり、12月に宜野湾で行われた「スネイルランプ」のライブに、フロントアクトとしても出演。"モンパチ"の愛称で、ティーンエイジャーを中心に、沖縄県内の音楽ファンから注目を集めていきます。

翌1999年春、高校を卒業したメンバー3人の内、上江洌と儀間の二人は、沖縄県内の大学に進学、ドラマ―の高里悟だけが、沖縄を離れ徳島の四国大学に進学します。沖縄に残った上江洌と儀間の二人は、高里が不在の時にはサポートドラマ―を加えて、地元のイベントに積極的に参加します。また、GWや夏休みなどを利用して高里が沖縄に帰ってきた時には、メンバー3人が揃わないとできない、レコーディングなどの作業を中心に、バンド活動を続けていきます。

1999年秋、MONGOL800は、「Hi-STANDARD」や、「BRAHMAN」の沖縄ライブのフロントアクトを務めるなどして、沖縄のロックファンの間で、さらなる人気を獲得する一方、アルバム制作作業を進め、12月に1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』を、沖縄県内限定で発売するのでした。

1999年12月、MONGOL800は、1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』を沖縄県内限定で発売、アルバム収録曲の「Party」が、沖縄県内の企業のTVCM曲として起用されたこともあって、『GO ON AS YOU ARE』は、発売直後に、タワーレコード那覇店で月間アルバム売上1位を獲得します。
「初め、彼らに"アルバムの初回プレスは、2,000枚だよ"と伝えたら、"こんなに売れないよ"って自信なさそうに言っていたんですが、蓋を開けてみたら、販売したショップはどこも完売。一旦、販売を中止することになったんです」。

アルバム『GO ON AS YOU ARE』は、発売期間わずか1ヵ月足らずながら、那覇店の年間アルバム売上チャートの8位を記録。モンパチは、沖縄で圧倒的な支持を集めるようになっていきます。
2000年に入っても、MONGOL800は、ライブ活動を積極的に展開し、その相乗効果もあって、アルバム『GO ON AS YOU ARE』は、発売3ヵ月で1万1000枚のセールスを記録。その噂をききつけた全国の音楽ファンからの問合せが殺到し、アルバム『GO ON AS YOU ARE』は、4月から全国発売されることになります。

「『GO ON AS YOU ARE』の全国発売で、またたく間にモンパチの知名度は、日本中へ広がっていきました。でも彼らは、あくまで自分達のペースを崩そうとはせずに、沖縄に残った上江洌、儀間の二人を中心に、沖縄をメインにライブ活動を続け、オファーがあると沖縄から出掛け、また戻ってくる、という生活を送っていたんです」。

MONGOL800は、2000年の夏に、「SUMMER SONIC 2000 OSAKA」や「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」など全国各地で行われた、野外ライブイベントにも出演。その後は、メンバーの高里悟の長期の休みの合間をぬって、レコーディングを続けていきます。
そして2001年春、MONGOL800が作った未発表の楽曲「あなたに」が、洗剤のCMソングに起用されます。
「この曲は、「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」に出演した時に、ライブで演奏したことがキッカケで、広告代理店の方から声を掛けていただき、CMソングとして使われることが決まったんです。初めは、メンバーの希望もあって、
CMをOAする時にはMONGOL800の名前は出さずにOAされていたんですが、CMを見た視聴者から、曲のリリースに関しての問合せがライオン側に殺到する騒ぎになったんです。」
そんな中、MONGOL800は、この未発表曲「あなたに」を含んだ、2ndアルバム『MESSAGE』を9月に発売します。
2001年9月に発売された、MONGOL800の2ndアルバム『MESSAGE』は、収録曲の「あなたに」が話題を呼んでいたこともあって、セールスチャート初登場8位を記録します。
「アルバムを発売した後、全国9都市で初めての全国ツアーを行ったのですが、それまで、口コミだけでしか知らなかったモンパチを、ライブで観られるとあって、どこの会場もティーンエイジャーを中心に溢れかえりました。シンプルかつ、ポジティブ、"夢をあきらめないで"といったストレートなメッセージが、彼らの心をキャッチしたんです」。

翌2002年、アルバム『MESSAGE』の収録曲の中から、CM曲として起用された「あなたに」に次いで、ある曲がアルバムからのリード曲として、TVやラジオなどのメディアを通して、OAされていくことになります。
「この曲は、1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』を発売した直後には、すでにあった曲でした。
彼らは、1stアルバムが売れたからと言って、自分達の生活のリズムを崩すのではなく、バンド活動よりもむしろ、学校に通いながら教職免許や自動車整備士の免許の取得に一生懸命で、その合間に音楽活動をしていました」。

「とにかくモンパチは、ゆっくりと時間が流れる沖縄で、自分達の日常に根差した等身大のことを、歌詞に書いているんです。あくまで趣味の延長線上のような感覚での音楽活動、そう言った感じでしょうか。だれに強制される訳でなく、大好きな音楽を作って、聴き手と共有することだけを、バンド結成当初から楽しみにしていました。そのリアリティ溢れる点が、聴く人の心に突き刺さったんでしょう」。

2002年4月、アルバム『MESSAGE』はセールスチャートでミリオンセラーを突破すると、翌週には、インディーズレーベルからリリースされた作品としては初めて、セールスチャート1位を獲得します。と同時に、アルバムのリード曲「小さな恋のうた」も、大きな反響を呼ぶことになるのでした。

アルバム『MESSAGE』に収録された、この「小さな恋のうた」は、メディアを通して大量にOAされ、カラオケチャートで
14週連続2位を記録するなど、若者たちの圧倒的な支持を集める曲となります。
「優しくて、切なくて、力強くて、メロディも、歌詞も心に残る。チャートは特に意識していませんでしたが、家族や親せき、友人など、自分たちの周りの人間からの、この曲に対する反響が大きかったことが、その後の彼らにとっては一番大きな支えになったんです」
最後に、マネージャーの比嘉さんはこう語ってくれました。

何をてらうことも無い、J-POPのラブソングの名曲が生まれた瞬間でした。

 

今日OAした曲目
M1.have you ever seen the rain/Hi-STANDARD
M2.Party/MONGOL800
M3.あなたに/MONGOL800
M4.小さな恋のうた/MONGOL800

2010年7月 2日
「フラワー・カンパニーズ/深夜高速」

144回目の今日お届けしたのは、「フラワー・カンパニーズ/深夜高速」でした。

「スタジオに入って、一緒に音を出してみようか」。

1989年春、中学時代の同級生で、一緒にバンド活動をしていたボーカルの鈴木圭介とドラマ―のミスター小西は、同じ中学時代の同級生で別のバンドで活動していた、ベースのグレートマエカワ、そしてマエカワの高校時代の同級生でギターの竹安堅一に、こう声を掛けます。そして、初めてのスタジオセッションで意気投合した4人は、バンド「フラワー・カンパニーズ」を結成します。

 

「僕は、セックス・ピストルズや、スターリンといったパンク・ロックばかり聴いていたし、他のメンバーは60年代から70年代のアメリカン・ロックや、ブリティッシュ・ロックばかり聴いていたんです。バラバラの音楽的志向の4人が、バンドを結成して目指したのは、当時、イギリスで人気を集めていた、パンクロックにケルト音楽の要素を持ち込んだロックバンド「ザ・ポーグス」のような音楽でした。でも、それはあくまで目標であって、実際のライブでは、ザ・ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンのカバー曲ばかり演奏していました」。

フラカン結成当初について、ボーカルの鈴木圭介はこう振り返ります。

 

1989年春、名古屋で結成された「フラワー・カンパニーズ」は、8月に、初ライブを行った後、11月には、後に彼らの拠点となる名古屋の老舗ライブハウス「E.L.L」で初めてのライブを行います。

また、フラワー・カンパニーズは、デモテープ作りにも積極的に取り組み、その作ったデモテープをライブ会場で販売してファン層を拡げて、結成から1年後には、ライブ動員も100人近くまで集めるまでに成長していきます。

 

19909月、フラワー・カンパニーズは、名古屋地区のミュージシャンを対象に行われたコンテスト「TOYOTA YOUNG MUSIC FESTIVAL」に出場し、優勝します。これをキッカケに、彼らは、ソニーミュージックの新人開発セクションSDのスタッフからも注目を集めるようになって、地元名古屋はもちろん、大阪、東京でもライブ活動をスタートします。

「初めて出たコンテストで賞をもらって、ソニーの新人発掘のスタッフの人が来るようになって...当時は、まだ大学生でしたから。そこから少しずつ本気度が増していって、そうこうしているうちに事務所に声をかけてもらって。でも、デビューが決まるまでは、結構、時間がかかりました」。

 

こうして、初めてのコンテスト優勝から3年半が経った19942月、フラワー・カンパニーズは、ソニー系のメジャーレーベル、アンティノス・レコードと契約し、5月に1stアルバム『フラカンのフェイクでいこう』を発売。そして、翌19962月に、1stシングル「孤高の英雄」をリリースするのでした。

 

19962月、フラワー・カンパニーズは、1stシングル「孤高の英雄」と、2ndアルバム『フラカンのマイ・ブルー・ヘブン』を同時発売します。

「メジャーデビューしたからと言っても、僕らに劇的な変化はありませんでした。自分達がやりたい好きな音楽を作って、ライブでその作った音楽が正しかったのか、間違いだったのかを確認する。一晩ごとに、常に全力投球で臨んでいたんです」。メンバーの鈴木さんは、メジャーデビュー当時について、こう振り返ります。

フラワー・カンパニーズは、テレビ、ラジオ、音楽雑誌などメディアへの露出に加え、彼らにとっては欠かせないライブを積み重ねていきます。鈴木圭介が大きな声で、ステージ上を転げ回りながら歌い、さらに、ベースのグレート・マエカワが暴れ回りながら演奏する姿は、音楽関係者はもちろん、多くの音楽ファンからも支持を集めます。

ライブ規模も、デビュー僅か1年半後の199710月に東京・日比谷野外音楽堂で初のワンマンライブを成功させ、翌1998年には初の全国ツアー、さらには8月に大阪球場でワンマンライブを開くまで拡大していきます。

 

しかし、ライブの規模が大きくなり、さまざまなメディアでとりあげられるほど、彼らは、自分たちの音楽活動に違和感を覚えていきます。そして、20013月、フラワー・カンパニーズは、アンティノス・レコードとの契約が切れるに伴い、自主レーベル「TRASH RECORDS」を立ち上げると同時に、彼らの原点とも言えるライブ活動重視の音楽活動に戻ることを決めます。「レコード会社との契約が切れ、約半年間、自分達だけで、ひたすら全国のライブハウスを回ったんです。その経験が、その後の自分達にとって、かけがいのない大きな財産になりました」。

20027月、フラワー・カンパニーズは、全国のライブハウス回りから生まれた、7枚目のアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』を、自主レーベル「TRASH RECORDS」から発売します。

 

「メジャーレーベルとの契約が切れる直前は、ライブ規模も大きくなって、体はスタッフの言われるままに流されていくけど、精神的には辛かったんです。だから、当時のアルバムには、半ばやけくそのような感じで、とにかく高音を出して、歌詞もはっきり聴きとれないような曲が多く、暴力的な作品が多かったんです。2001年に、アンティノス・レコードとの契約が終わった時、もう一度自分達の力だけで、大好きなライブを積み重ねていく中で、メジャーの世界がどれだけ恵まれているのかが改めて分かりました。もっと良く言えば、インディーズに戻って、自分達の力だけでライブをすることで、お客さんの顔がよく見られるようになったんです。ライブ動員は減ったけど、本当に自分達の音楽が大好きな人達が、やって来てくれる。その輪が、少しずつでも増えていけば、そんな思いで、毎晩ライブをやっていたんです。この自主レーベルから発売したアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』では、もう一度我に返って、そんな経験から生まれた、生活感を滲みだした、よりリアルな世界を歌詞に書いたことで、自分達でも納得できるものができたんです」。

 

その後も、フラワー・カンパニーズは、毎年、100本近くのライブを行い、アルバムを1枚、リリースしていきます。

そんな中、彼らが2003年に作ったある曲が、それまで作った曲と比べて、全く異なる売れ方をします。

「この曲は、200311月に発売したアルバム『東京タワー』の制作が終わって、ライブ活動の合間に、その次のアルバムを発売するまでの、つなぎの曲として作った、数曲の内の1曲なんです。2004年初めのライブでは、ライブ会場先行CDとして販売していたんですが、その売れ方が今までとは違っていたんです。それまでは、ライブ会場でCDを販売しても、1晩で数十枚売れれば良かったけど、この曲は1晩で100枚近くのCDが売れて、ライブ会場毎にCDを補充するような状態だったんです」。

 

CDが売れれば、当然ライブで演奏しても盛り上がる。いつの間にか、話題が話題を呼んで、ライブでこの曲を演奏すると、お客さんの反応が変わってくるのが伝わってきたんです」。

「何かを特別意識して作った訳ではないけど、ライブを積み重ね、ライブハウスの人達と話をし、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり。僕らも色々な経験をさせてもらったおかげで、歌詞にリアリティが生まれ、その歌詞がこの曲を聴いてくれた人達の琴線に触れたんでしょう」。

 

こうして、20049月、フラワー・カンパニーズの16枚目のシングル「深夜高速」は、発売されます。

 

20049月に発売された、フラワー・カンパニーズの16枚目のシングル「深夜高速」は、発売から5年後の20099月に、バンド結成20周年を記念して、この1曲を斎藤和義、中孝介ら13組ものアーティストが一挙にカバーするという前代未聞のトリビュートアルバム『深夜高速~生きててよかったの集い~』として、新たな形で脚光を浴びます。

「バンドとしては、特に大きなメッセージ性もなく作った曲ですけど、この曲を聴いた多くの人達の心に、この曲のサビの歌詞"生きててよかった"という部分が留まり、色んな事を感じてもらえたんだと思います。それによって、フラワー・カンパニーズの存在を、さらに知ってもらうことができた。それだけでも、僕らは嬉しいんです」

最後に、メンバーの鈴木圭介さんはこう語ってくれました。

 

リアリティ溢れる言葉と、人生経験の積み重ねが生んだ、J-POPの名曲を生み落した瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.アイリッシュ・ローバー/ザ・ポーグス

M2.孤高の英雄/フラワー・カンパニーズ

M3.吐きたくなるほど愛されたい/フラワー・カンパニーズ

M4.深夜高速/フラワー・カンパニーズ

2010年6月25日
「平井堅/even if」

143回目の今日お届けしたのは、「平井堅/even if」でした。

「僕が彼と直接関わるようになったのは、制作ディレクターに就いた2000年春でした。それまで、直接的ではなく、間接的に彼の歌を耳にする機会は何度かあって、アーティストだから当たり前なんですけど、"本当に、歌が上手いな"という印象を抱いていたんです。僕は、ブラックミュージックが大好きなんですが、当時、邦楽の世界でブラックミュージックを歌いこなせるアーティストは数少なく、久保田利伸さんだけと言っても、過言ではないような状態でした。それで僕は、"久保田さんに続くアーティストを誕生させたい"と思っていたんです。だから、平井堅の歌声を聴いた時、"やっと、久保田さんに続くアーティストが現れた"、そう思いました」。

平井堅との出会いについて、デフスターレコーズで担当ディレクターを務めた平井さんは、こう振り返ります。

 

19721月、大阪府東大阪市に生まれた平井堅は、彼が小学校時代に観ていた、TVの歌謡番組に出演していた松田聖子や、中森明菜らアイドルに夢中になって、"いつの日か、自分もテレビに出て歌を歌いたい"という夢を膨らませていきます。その後、中学、高校に進学しても"歌手になる"という夢を諦めきれなかった彼は、1990年春、横浜市立大学に進学後、軽音楽部に入部し、仲間達と、当時、アイドルと同じように好きだったサザンオールスターズのコピーバンド「YAYA」を、結成します。さらに、平井堅は、軽音楽部の仲間を通じてビートルズやローリングストーンズといった洋楽を初めて耳にし、音楽の素晴らしさを改めて実感、さらに、学園祭のステージで大勢の観客を前に歌い、みんなの注目を浴びながら歌うことにますます夢中になっていきます。

 

「平井堅は、学生時代にサザンオールスターズのコピーバンドを結成していたかと思えば、松田聖子などのアイドル歌手も大好きで、それでいて、70年代のソウルシンガー、ダニー・ハサウェイも大好きなんです。一見、ジャンルが異なる音楽を、同じように好きになれるものかと思うんですが、彼の頭の中では、邦楽と洋楽などの区別はなく、大好きな音楽はすべて横並びなんです。制作担当になって分かった事なんですが、彼は自分が気に入った音楽が自らリスナー感覚で徹底的に聴いて、"なぜその曲が支持を集めるのか"を考え、その良さを、今度は自分の曲作りに活かしているんです」。

平井堅の音楽観について、ディレクターの平井さんはこう語ります。

 

1992年、平井堅は、周囲のすすめもあって、ソニーミュージックが、ボーカリストの育成を目的に行ったオーディション「SME AUDITIONBreath」に、ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を歌ったテープを送って合格し、翌1993年ソニーレコーズと契約します。そして、1年に渡って作詞、作曲、ボーカルトレーニングのレッスンを積んだ後の19955月、シングル「Precious Junk」で、デビューするのでした。

 

1stシングル「Precious Junk」は、フジテレビ系の人気ドラマ『王様のレストラン』のエンディング曲にも起用され、平井堅本人、そして周囲のスタッフも"ヒットは間違いない"と期待しますが、セールスチャート最高位は50位、約4万枚のセールスという結果に終わります。

 

その後も平井堅は、シングル、アルバムのリリースを積み重ね、シングル曲には、TVやラジオのタイアップが付きますが、セールス的には伸び悩み、次第にスタッフの間からは、平井堅に対して厳しい目が向けられるようになっていきます。

19985月、平井堅は、"どうせダメならば、開き直って自分の好きな音楽にチャンレジしてみては"というスタッフのアドバイスを受け入れ、その頃、彼が夢中になっていたゴスペルを取り入れたシングル、「Love Love Love」を、初めてセルフプロデュースします。

そして、時期を同じくして、"邦楽、洋楽を問わず、平井堅自身が敬愛するアーティストの歌で、彼が歌いたい曲をじっくりとい歌って、それをリスナーに聴いてもらう"というコンセプトの企画ライブ「Ken's Bar」をスタートします。

 

1999年、それまでは自分が作った曲のみをシングルとして発売していた平井堅に、スタッフは、"次が最後のチャンス。思いきって、自分が作った曲ではなく、作家が書いた曲を歌ってみてはどうだろうか"と提案します。戸惑いを隠せない平井堅でしたが、悩み抜いた末に、スタッフからの提案を受け入れ、初めて作家が書いた曲をシングルとして歌うことを決めます。こうして、20001月、8枚目のシングル「楽園」は発売されます。

 

20001月に発売された、平井堅8枚目のシングル「楽園」は、1stシングル「Precious Junk」以来およそ5年ぶりにセールスチャートにランクインし、最高位7位、約54万枚の売上を記録するヒット曲になります。

「平井堅にとって、背水の陣で歌ったシングル「楽園」がヒットしたことで、リスナーの彼を見る目が変わってきたんです。

それまで、彼が歌う曲に対してなかなか振り向かなかった人達も、当時流行っていたR&Bを意識した曲、そして日本人離れした彼の風貌。そのマッチングを、TVや雑誌などのメディアを通して見た人達が、彼の曲を意識して聴くようになって、それまで評価されていなかった、彼の過去の曲に対しても、目が向けられるようになってきたんです」。

 

開き直りの気持ちで歌ったシングル「楽園」をキッカケに、リスナーの心を掴みかけていた平井堅は、20006月に、3枚目のアルバム『THE CHANGING SAME』を発売します。そして、そのアルバム発売直後に、アルバム購入者特典として、全国主要都市で限定ライブハウスツアーを行い、そのライブの中で、平井堅が昔から歌っていたある曲に、スタッフの視線が注がれることとなります。

 

「元々この曲は、1998年に平井堅が初めて開いた企画ライブ「Ken's Bar」をスタートした時には存在していた曲と聞いています。ライブの最後に、ピアノの弾き語りで、しかも「Ken's Bar」でしか歌わない曲で、彼のファンの間では"幻の曲"とも言われていたんです。

アルバム『THE CHANGING SAME』購入者特典で行ったライブハウスツアーの時に歌われ、偶然耳にしたレコード会社の営業スタッフから"平井堅の音楽の世界観が滲み出ている、情緒溢れるいい曲だ"と言う声が、数多く出てきて、スタッフの間でも評判になり始めていたんです」。

 

「その後、12月に「J-WAVE」とタイアップした曲を発売することが決まって、平井堅本人、そしてスタッフの間で意見を交わして、この曲を選びました。それまで、「バーボンとカシスソーダ」と名付けられていたこの曲は、改めてシングル化するにあたってアレンジし直したんですが、本当に情緒たっぷりのバラードに仕上がりました」。

 

こうして、200012月、平井堅のファンの間では"幻の曲"として、古くからその存在が知られていた曲は、タイトルを「even if」と変えて、発売されます。

 

200012月に発売された、平井堅の11枚目のシングル「even if」は、年内出荷のみの期間限定発売ながら、セールスチャート最高位3位、約33万枚のセールスを記録するヒット曲となります。

「売れなかった時期に作った曲でも、リスナーが平井堅の音楽に注目し始めてしまえば、"こんなに支持を集めるのか"とこの曲が売れた時に、改めて思いました。と同時に、平井堅がもともと持っていた歌唱力の高さを、再認識することができました」

最後に、担当ディレクターを務めた平井さんはこう語ってくれました。

 

平井堅の歌の魅力を決定付けた、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.Everything Is Everything/ダニー・ハサウェイ

M2.Precious Junk/平井堅

M3.楽園/平井堅

M4.even if/平井堅

2010年6月18日
「山下久美子/赤道小町ドキッ」

142回目の今日お届けしたのは、「山下久美子/赤道小町ドキッ」でした。

「もともと、小さい頃から"歌手になりたい"という夢を持っていた訳ではなく、とにかく人前で歌を歌うことが大好きだったんです。高校を中退して、博多のパブで働いていた時に、知り合いのソウル・バンドのリーダーから"うちのバンドで、ボーカルやってみない"と言われて、特に断る理由もなかったので、歌い始めたのがキッカケなんです。ジャズやソウルのスタンダードナンバーを中心に、博多市内のライブハウスや、ディスコを拠点に、久留米や東京でも歌っていました」。
人前で歌を歌い始めたキッカケについて、山下久美子さんは、こう振り返ります。

1959年1月、大分県別府市に生まれた山下久美子は、小さい頃から歌を歌うことが大好きで、小学生の頃には、当時TVで放送されていた歌番組『日清チビッコのど自慢』で歌を覚え、友達を前に、歌を歌っていたと言います。その後、地元の中学に進学した彼女は、カーペンターズやビートルズ、モンキーズなどの洋楽を聞くようになり、文化祭では、友達と、
カーペンターズのコピーバンドを結成します。1975年、山下久美子は、偶然遊びに出掛けたディスコで出会った、当時、博多を拠点に活動していたソウル・バンドのメンバーと意気投合し、彼女はそのソウル・バンドを追っかけるように、一人親元を離れ博多へと移り住みます。
「私がソウル・バンドに加入し、人前で歌うようになって、3年が過ぎた1978年のある日のことでした。ライブハウスに、渡辺プロダクションのスタッフが突然やって来て"やる気があれば、ソロシンガーとして、レコードデビューしませんか"と誘われたんです。バンドではなく、山下久美子ソロとしてやっていくことに、勇気が必要だったけど、思いきって大好きな歌の世界に飛び込む決意をしたんです」。

1979年春、山下久美子は、デビューに向けた本格的なレッスンをスタートさせるために上京し、ボイストレーナーの下で、レッスンを積み重ねていきます。さらに、山下久美子は、レッスンの傍らで、トレーニングの一環として東京・新宿ルイードなど都内のライブハウスでのライブ活動もスタートさせます。「デビュー前でしたけど、お客さんを前にライブを積み重ねていくことで、自分の中に"私は歌手になるんだ"というプロ意識が少しずつ芽生えてきたんです。夏からレコーディングも始まったんですが、私はレコーディングよりも、人前で歌うライブの方が大好きでした」。
山下久美子は、ボイストレーニング、レコーディング、そしてライブ、音楽漬けの日々を、およそ1年半に渡って過ごした後、1980年6月、シングル「バスルームより愛をこめて」で、デビューします。

1980年6月、山下久美子は1stシングル「バスルームから愛をこめて」と、同名の1stアルバムでデビューします。
「デビュー当時は、自分がこれからどうなっていくかなんて、全く分からず、とにかく"自分らしく、正直に、嫌な事はやらない。それだけは自分のポリシーとして貫こう"、そう思っていたんです。幸いにも、デビュー曲とアルバムのプロモーションは、"ライブハウスを地道に回って、多くの人達に山下久美子の唄を聴いてもらう"、という、人前で歌を歌うことが大好きな私にとっては、願ってもない形でした。デビュー前から、ライブを積み重ねることで、歌の持っている楽しさを実感してきた私にとって、このデビューの際のプロモーションは、とても幸せな時間で、"自分はやっぱりライブが好きなんだ"という事を実感できたんです」。山下久美子さんは、デビューの頃を、こう振り返ります。

全国のライブハウスを回っていくことで、山下久美子の名前は音楽ファンの間で浸透し始め、10月に2ndシングル「ワンダフルcha-cha」を発売した後の学園祭シーズンには、彼女の下へ出演依頼が殺到し、当時の新人女性歌手としては最多の13校もの学園祭に出演したことで、彼女は音楽関係者の間で"学園祭の女王"と呼ばれるようになります。
その後も、ライブ動員は着実に増え始め、翌年の、1981年1月には、東京・日本青年館で、初めてのホールライブを行うことになります。
「ライブハウスでのライブが、盛り上がっているのは実感していましたが、絶対的な自信はまだ掴んでいなかったんです。
その日は、ライブの初めから異様に盛り上がっていたので、"今日は何かが起きるんだろうか"という予感はありました。
それまで、ライブでは滅多にアンコールをやる事はなかったんですが、その日は、予定していた曲を全て歌い終えても、
一向に観客が帰ろうとしないんです。そこで急遽、エンディングでも歌った2月発売予定の新曲「恋のミッドナイトD.J.」を、もう一度演奏し始めた瞬間、会場に詰めかけた観客が一斉に立ちあがったんです。自分でも、一瞬、何が起こったのか分からなかったけど、すぐに"何かが動いた"そう感じたんです」。

1981年1月の、東京・日本青年館でのライブをキッカケに、山下久美子は、大きな自信を掴みます。ライブの動員は増え続け、彼女のライブは、ライブハウスからホールへとステップアップしていきます。
また、日本青年館での熱狂的なライブをキッカケに、山下久美子は"学園祭の女王"から"総立ちの久美子"と呼ばれはじめ、彼女は女性ロックシンガーとしての地位を、不動のものにしていきます。
「私がデビューした1980年頃から、佐野元春さん、ハウンド・ドッグといった新しい世代のロック・ミュージシャンが、新宿ルイードを中心としたライブハウスから、活動の場を広げていったんです。シンガーソングライターも少しずつ増え始めていたんですが、私の場合は、"自分で、無理に曲を作らせて歌わせるよりは、ライブで自由に、大好きな歌を歌うことに集中させた方がいい"という事務所の方針で、自分で曲を作らず、当時、作家として頭角を出し初めていた、康珍化さんや、シンガーソングライターとしての評価も高まっていた佐野元春さん、伊藤銀次さん達に曲を作ってもらっていたんです」。
自由奔放な山下久美子の性格を掴んでいた事務所の方針で、ますはライブを積み重ねることで、着実に女性ロックシンガーとしての階段を上り始めていた彼女の下へ、1982年に入って、化粧品メーカーの「カネボウ」から、"その年の夏のキャンペーンソングを歌って欲しい"という依頼が、舞い込みます。
この曲は、当時、松田聖子の曲を書いていた松本隆、細野晴臣の二人が手掛けることが決まります。
「キャンペーンタイトルを、サビの歌詞に使うことが決まって、松本隆さんが書いた歌詞に、細野晴臣さんが曲を作ってくれたんです。レコーディングスタジオで、松本隆さん、細野晴臣さん、ドラムを叩いてくれた高橋幸宏さん、ギターとアレンジを担当してくれた大村憲司さん達が、一緒になって作業する姿を見守った後に、私の歌入れが始まったんです。
ただ歌って終わり、というよりは、私を含め、一つのプロジェクトによって、この曲が生まれていったんです」。

「私はそれまで、どちらかと言うとロックナンバーばかり歌ってきたので、実は、YMOのようなテクノポップには、初めは違和感があって、完成した曲のリズムに乗って歌うことに、なかなか慣れず、何度も何度も歌い直したんです。ロックナンバーが、人間的な音楽とすれば、まるで"宇宙人のような音楽"そんなイメージでした。でも、諦めず、トライし続け歌いきったことで、自分の中で、"こんな歌も歌えるようになったんだ"という自信が芽生えてきたのも事実です」。

こうして山下久美子が苦労の末、歌いあげた、6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」は、1982年4月に発売されます。

1982年4月に発売された、山下久美子の6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」は、1982年カネボウの夏のキャンペーンソングとして起用されたこともあって、セールスチャート最高位2位を記録します。さらに、山下久美子は、音楽番組『ザ・ベストテン』にも、初出演を果たします。
「この曲がヒットした後、どこへ行っても"あの「赤道小町」の山下久美子"という肩書きが付くことに、違和感を覚えて、しばらくの間は歌うことが、嫌になっていた時期もありました。
でも、時間と、色々な経験を積み重ねていく中で、デビュー20周年を過ぎたあたりから、自分の中で、この曲に対するイメージが変わってきたんです。"この曲があったからこそ、今でも自分の名前を覚えてくれている人がいる。あの時、この曲に巡り合えたからこそ、今の自分があるんだ"そう思えるようになってきたんです。心の中に、余裕ができたんですかね。今の自分にとっては、とても大切な宝物のような存在です」
最後に、山下久美子さんはこう語ってくれました。

ライブで大きな自信を掴んだ"総立ちの久美子"が、さらにJ-POPのヒットナンバーという宝物を手に入れた瞬間でした。


今日OAした曲目
M1.Close to You/カーペンターズ
M2.バスルームから愛をこめて/山下久美子
M3.恋のミッドナイトD.J./山下久美子
M4.赤道小町ドキッ/山下久美子

2010年6月11日
「松田聖子/SWEET MEMORIES」

141回目の今日お届けしたのは、「松田聖子/SWEET MEMORIES」でした。

 

「松本隆、呉田軽穂(松任谷由実)のコンビで作った、松田聖子10代最後のシングル「赤いスイートピー」は、彼女にとって6曲目となるセールスチャート1位を獲得し、売上も約50万枚を記録しました。この頃の彼女は、まさに乗りに乗ってきた感じがしていました。それに、"発売する曲は、何が何でもセールスチャート1位を獲らない"といけない、というプレッシャーはなく、むしろ、次はどういったイメージの曲を作って、売っていくのがいいんだろうか、というアイディアを考えることが楽しくて、仕方なかったですね」。

彼女のプロデュースを手掛けていた、若松宗雄さんは、当時についてこう振り返ります。

 

「シングル、アルバムの曲を問わず、松田聖子の楽曲を作っていく中で、大切にしていたのは、季節感です。日々、日常の変化の中から、創造力をわかせて、彼女の個性を活かすための言葉や、映像を想像していくんですが、僕は、それが、楽しくて仕方ありませんでした。そして、その浮かんだアイディアを、松本隆が書く歌詞の世界観、さらには、財津和夫やユーミン、大瀧詠一といった、そうそうたる作家陣が作るメロディに落とし込んで曲を作っていたんですが、実は、最も気を配っていたのは、アレンジなんです」。

若松さんは、当時の松田聖子の楽曲をプロデュースするにあたってのポイントについて、こう振り返ります。

 

「松田聖子のデビュー直後から、楽曲のアレンジをお願いしていたアレンジャーの一人が、大村雅朗さんでした。彼は、1978年に発売された、八神純子のシングル「みずいろの雨」のアレンジを手掛けた人ですが、当時はまだ無名に近い人でした。しかし、僕は、松田聖子がデビューする直前の19803月に、彼がアレンジを手掛けた、山口百恵のシングル「謝肉祭」を聴いた時、"凄いアレンジをする人だ"と、思わず惚れ込んでしまったんです。そこで、直ぐに、当時は全く面識が無かった彼の下へ出向き、"今度デビューする、松田聖子のアレンジをお願いします"と頼んだんです」。

 

松田聖子のデビューにあたって、当時CBSソニーのディレクターを務めていた若松宗雄は、山口百恵のシングル「謝肉祭」のアレンジを手掛けた大村雅朗を、アレンジャーとして起用します。こうして、大村雅朗は、松田聖子が2枚目のシングル「青い珊瑚礁」以降、彼女のシングル曲、アルバム曲のアレンジを数々手掛けていきます。

 

「僕が大村さんを、アレンジャーとして起用した一番の理由は、彼は作詞家が書いた詞の世界観をきちんと理解し、どうアレンジすれば、その歌を歌う歌手の個性をより活かすことができるのかを、きちんと分かってアレンジをしていたからなんです。僕は、歌は、歌詞とメロディ、そしてアレンジ、この三つのバランスがちゃんと成り立っていることが大切だと思っています。特に、歌詞の世界観は、アレンジによって大きく変わるんです。大村さんは、歌詞の持っている意味をきちんと理解し、歌詞が際立つアレンジをしてくれる。そんなアレンジャーだったんです」。

 

1982年夏、若松さんは、松田聖子の楽曲を手掛けるようになって、その才能を開花させ始めていた大村さんに、今度は作曲を依頼します。

「大村さんがアレンジを手掛けるようになって、しばらくして、"今度は作曲もお願いします"と僕は伝えたんです。しかし大村さんは、性格的に、表に立つタイプの人ではなく、どちらかと言えば控え目な人だったので、初めは遠慮していました。

それで、大村さんに"シングルではなく、アルバムに収める曲だったら作曲してもいいんじゃないですか"と改めてお願いし、アルバム用の曲を、1曲だけ書いてもらったんです」。

 

198211月に発売された、松田聖子6枚目のアルバム『Candy』に収められた、大村雅朗作曲の「真冬の恋人たち」。

「大村さんが作ったこの曲は、思った通りの完成度の高さで、僕は直ぐに、"次はシングルでもやりたいな"と思いました」。

 

「大村さんは、次のアルバム『ユートピア』でも、曲を作ってくれたので、僕はその勢いで"8月に発売する14枚目のシングル「ガラスの林檎」のB面に収める曲を作ってよ"とお願いしたんです。大村さんは、渋々受けてくれたんですが、お願いして、1週間経っても、"まだ1、2小節しかできていない"って言うんです。そこで僕は、大村さんを、東京・麻布台のスタジオ「サウンド・シティ」に呼び出して、一緒に曲を作ることにしたんです。」

 

若松さんと、大村さんの二人が、色々意見を交わしながら一晩かけて作った楽曲は、その後、サントリーCANビールのCMソングとして起用されることが決まり、そのCMのコンセプトから、歌詞の二番は、英語で書かれることになります。

若松さんによると、松田聖子自身は、英語の歌詞は歌いづらいという抵抗感はなく、むしろ、楽しんで歌っていたそうです。

 

また、この曲は、所属事務所のサンミュージックが、話題作りを考えて、はじめは、歌っているアーティスト名を、あえて伏せてCMを流しました。その結果、CMで彼女の歌声を聴いた別のレコード会社から、サンミュージックに"あのCMソングを歌っているアーティストは、誰なんですか。ウチのレコード会社から、デビューしませんか"という問合せが入るほど、話題を集めます。

 この曲がB面に収められた14枚目のシングル「ガラスの林檎」は、19838月に発売され、当然のように、セールスチャート1位を獲得するのですが、CMの反響があまりにも大きく、当初はB面扱いだったこの曲、「SWEET MEMORIES」を、両A面扱いにして、発売から約1ヵ月半が経過した、9月に改めて発売されるのでした。

 

1983年9月に両A面扱いで改めて発売された、松田聖子の「SWEET MEMORIES」は、再びセールスチャート最高位1位を獲得し、最終的に約86万枚のセールスを記録します。

「この曲も、「赤いスイートピー」と並んで松田聖子の80年代を代表する曲です。天才作詞家・松本隆をはじめとする、日本のプップシーンを代表する数々の作家陣と、天才と呼ばれる彼らを支えた、もう一人の天才・大村雅朗というアレンジャーがいたからこそ、今の松田聖子がいる、と言っても過言ではありません。その抜群のチームワークが生んだ、代表曲がまさに、この曲です。才能を持った人達が集まって、松田聖子という原石を磨いたことで、彼女が光輝く、ダイヤモンドに代わっていったことを証明した曲ですね」最後に、若松さんはこう語ってくれました。

 

J-POPの原石が、永遠の輝きを手に入れた瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.渚のバルコニー/松田聖子

M2.謝肉祭/山口百恵

M3.真冬の恋人たち/松田聖子

M4.SWEET MEMORIES/松田聖子

2010年6月 4日
「松田聖子/赤いスイートピー」

140回目の今日お届けしたのは、「松田聖子/赤いスイートピー」でした。

 

「当時、僕は百数十本近くあった、オーディション応募者のデモテープを、一本一本片っ端から聴いて

いったんです。そして、その中から、スーッと美しく伸びる透明な歌声で、品性、知性、哀愁を感じるこ

とができた1本のデモテープを発見し、"これだっ"と思った僕は、直ぐにその歌声の持ち主の女の子の

連絡先を調べて、彼女に会うために福岡へ向かったんです」。

後に、彼女のプロデュースを手掛けた若松宗雄さんは、松田聖子との出会いについてこう振り返ります。

 

19623月、福岡県久留米市に生まれた蒲地法子は、幼い頃から人前で歌を歌うことが大好きで、

テレビや雑誌などで活躍するスターに憧れ、自分も芸能界で活躍することを夢見るようになります。

19774月、久留米信愛女学院高校に入学した蒲地法子は、翌19784月に、CBSソニーと集英社

が、10代の女性を対象に歌手を発掘するために行った「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募します。

蒲地法子は、当時、彼女が最も得意としていた桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌って、九州地区

大会で優勝しますが、厳格な両親の猛反対にあって、全国大会への出場を断念します。

 

「彼女は、全国大会への出場を断念したけど、僕は自分の直感を信じて、彼女をコンテストとは別に、

歌手として育てるために、彼女の両親を説得することにしたんです」。当時、CBSソニーのディレクター

だった若松さんは、蒲地法子の両親を説得するために、何度も九州へ足を運び、およそ1年半後の

1979年夏、ようやく両親の説得に成功します。

 

若松さんの説得が実を結び、両親の承諾を得た蒲地法子は、"歌手になる"という幼い頃からの夢を

実現するために、1979年夏、上京し、芸能プロダクション「サンミュージック」に所属。翌1980年のデ

ビューに向けて、歌のレッスンをスタートします。そして、12月に、デビュー前のテストの意味で、日本

テレビ系ドラマ『おだいじに』に、主人公の恋人役・松田聖子で出演した彼女は、その名前を気に入っ

て、芸名を松田聖子に決めます。

さらに、翌1980年春に発売が予定されていた、資生堂の洗顔フォーム「ekubo」のCMタレントオーディ

ションに挑戦。その歌唱力が評価されて、CMタレントとしてではなく、歌手としてCMソングを歌うことが

決まるのでした。

 

19804月に、松田聖子が発売した1stシングル「裸足の季節」は、資生堂の洗顔フォーム「ekubo」の

CMソングとして、その印象的なサビのメロディが、TV、ラジオなどを通じて大量に流れていきます。デ

ビューシングル「裸足の季節」は、セールスチャートこそ最高位12位ながら、それ以上に、新しい、松

田聖子という"歌えるアイドル"の誕生を、多くの人々に印象付けていきます。「僕は松田聖子を、世代、

性別を超えて、多くの人達から支持される、大衆性のある、息の長いアイドルとして育てていきたかった

んです。くしくも、同じ1980年の春に、当時トップアイドルとして君臨していた山口百恵が芸能界からの

引退を発表したことで、松田聖子は、山口百恵とよく比較されました。しかし、僕は、松田聖子は松田

聖子であって、山口百恵の代わりではない、全く別のアイドルとして考えていたんです」。

 

19807月、松田聖子が発売した2ndシングル「青い珊瑚礁」は、セールスチャート最高位2位、約60

万枚のセールスを記録、翌8月に発売した1stアルバム『SQUALL』は、セールスチャート最高位2位、

アイドルのアルバムとしては当時異例の約55万枚の売上を記録します。

そして、10月にリリースした、3rdシングル「風は秋色」が、初のセールスチャート1位を記録すると、

その後は発売する曲が次々と、セールスチャート1位を獲得。その年の暮れに行われた日本レコード

大賞をはじめとした各音楽賞の新人賞を、軒並み獲得すると同時に、NHK紅白歌合戦にも初出場

を決め、一気に、女性トップアイドルとしての階段を駆け上がっていきます。

 

1981年、ディレクターの若松さんは、松田聖子の魅力をより引き立てるために、元チューリップの

津和夫に曲作りを依頼。さらに、7月に発売を予定していたシングルの作詞家には、元はっぴい

えんどの松本隆を起用します。

「彼女の音楽性の評価を高めていく狙いがあったんです。当時、まだ彼女自身は優れた作家性を

持っていませんでしたが、歌唱力は抜群でした。だったら、その歌唱力を際立たせるために、優れた

作品を歌えば、"彼女はもっと光輝くはずだ"そう考えたんです」。

 

「松本隆を起用したのは、僕の直感です。松本隆の、情景描写を、独特の感性で言葉に綴る才能は

めていましたが、正直、松田聖子の歌のイメージと合うかどうかは、分からなかったので、まずは

5月に発売したアルバム『SILHOUETTE~シルエット』に「白い貝のブローチ」という曲を書いてもらっ

たんです。結果、この曲は、僕が最初、想像していた以上に、松田聖子のイメージと重なったので、

次のシングルを松本隆にお願いしたんです」。

こうして、19817月、松本隆が初めて手掛けた、シングル「白いパラソル」は発売されます。

 

1981年7月に、松田聖子が発売した6枚目のシングル「白いパラソル」は、セールスチャート最高位

1位、49万枚の売上を記録します。さらに、10月に発売した、7枚目のシングル「風立ちぬ」は、

作詞を松本隆が、作曲を大瀧詠一が手掛けます。また、同じ月に発売したアルバム『風立ちぬ』は、

松本隆の他、大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂といった元はっぴいえんどのメンバーに加えて、財津

和夫、杉真理といっJ-POPを代表するそうそうたるアーティストが参加して、話題を呼びます。

 

そして、若松さんは、翌19821月に発売を予定していたシングル曲の作曲を、ある女性シンガー

ソングライターに作ってもらうことをお願いします。

「当時、松田聖子のファンは男性が中心で、そろそろ女性ファンからも好かれるような歌を作って、

歌わせていきたいと思っていたんです。そこで、当時、恋愛の教科書代わりに彼女の歌を聴く

女性リスナーが増えていたユーミン(松任谷由実)に、曲を作ってもらうことを考えたんです」。

 

「僕は、デビュー当時から、松田聖子のイメージは、ピュアで清潔感溢れる女性という風に考えて

いたんです。色で例えるなら、白や薄いピンクです。それまで、その彼女のイメージと、曲を発売する

季節を重ね合わせて、連想される言葉から曲のタイトルを決めていたんです。この時も、ちょうど春に

向かってレコードを販売していく時期だったので、"春"からイメージして浮かんだ言葉で、曲のタイト

ルを決めました」。

 

若松さんが決めた曲のタイトルをもとに、ユーミンがメロディを作って、さらに完成したメロディと、タイ

トルから、松本隆が歌詞を綴ります。「ユーミンが作ったメロディは、1箇所だけ直してもらいました。

松本さんの歌詞は、イメージ通り。特に直す箇所はありませんでした。思っていた通りの曲が完成し、

"これで女性ファンを獲得できる"と、僕は確信したんです」。

 

こうして、ペンネーム呉田軽穂名義で松任谷由実が作曲、松本隆が作詞した、松田聖子8枚目の

シングル「赤いスイートピー」は発売されるのでした。

 

19821月に発売された、松田聖子の8枚目のシングル「赤いスイートピー」は、セールスチャート

最高1位、約50万枚のセールスを記録します。

「女性のピュアな恋愛を綴った歌詞と、女ごころをくすぐるような、どこか切ないメロディ。そして

松田聖子の艶のある歌声。絶妙な三つのハーモニーから生まれたこの歌は、僕らが狙っていた通り、

多くの女性から共感を集めることができ、松田聖子のファン層を大きく拡げる事ができました。彼女

にとって、大きな転換期となった曲です」

最後に、若松さんはこう語ってくれました。

 

松田聖子、松任谷由実、松本隆。3人の天才が、日本のポピュラーミュージックの歴史に、

あらたな1ページを刻んだ瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.気まぐれヴィーナス/桜田淳子

M2.裸足の季節/松田聖子

M3.白いパラソル/松田聖子

M4.赤いスイートピー/松田聖子

2010年5月28日
「サニーデイ・サービス/青春狂走曲」

139回目の今日お届けしたのは、「サニーデイ・サービス/青春狂走曲」でした。

 

「曽我部恵一と田中貴の二人とは、1994年2月、下北沢のライブハウス『251』で開かれたライブ&DJのイベントで初めて出会ったんです。その夜、曽我部は、彼の友人がDJで出演していたので、ライブハウスに来ていたんですが、かなり酔っ払っていて、ライブハウスの中で騒いでいたんです。しばらくして、僕がレコード会社「MIDI」のディレクターだと知って、こっちに絡んできて、自信ありげに自分達の曲を収めたCDを渡してきたんです。僕は、「何だ、コイツは」って思ってたんですけど、なんだか憎めなくて、逆に「面白い奴らなのかもしれない」と思ってしまったんです」。
その後、サニーデイ・サービスの担当ディレクターを務める渡邊さんは、彼らとの出会いについてこう振り返ります。

1971年8月、香川県坂出市に生まれた曽我部恵一は、セックス・ピストルズ、ザ・ダムドなどのパンク・ロックバンドに影響を受け、中学時代には、友人達とパンク・ロックバンドを結成します。その後、立教大学に進学した曽我部恵一は、1992年、成城大学の学生で友人の田中貴ら4人で、バンド「サニーデイ・サービス」を結成します。
都内のライブハウスを中心に活動していたサニーデイ・サービスは、1993年から、1994年にかけてインディーズから2枚のシングルレコードと1枚のアルバムを発売します。

「曽我部に初めて出会った日の夜、自宅に帰って、曽我部から貰ったCDを聴くと、当時人気の、渋谷系音楽の代表的な存在だったフリッパーズ・ギターを彷彿させるようなキャッチーなメロディと、ポップな言葉を使った歌詞が飛び込んできたんです。曲と歌詞、そして曽我部の歌声。三つのバランスが上手くとれた彼らの音楽を聴いた瞬間、「彼らは面白い奴らかもしれない」という曽我部に対して抱いていた僕の予感は、間違っていないと感じるようになったんです。その後、僕は彼らと連絡を取って、MIDIと契約したんです」。

「元々彼は、パンク・ロックに影響を受けていたんですけど、聴く音楽の幅は広く、ビートルズやビーチボーイズ、さらにはキャロル・キングやジェームス・テイラーなども聴いていたんです。彼は、自分が興味を持った音楽を色々聴いて吸収し、良い部分をいかに自分達の音楽に引用するのかを常に考えていました。その柔軟性に、サニーデイ・サービスの奥底に眠る、光ものを感じたんです」。渡邊さんは、当時をこう振り返ります。

1994年春、MIDIと契約を結んだサニーデイ・サービスは、7月に5曲入りのレコード「星空のドライブ」を、さらに11月にも5曲入りのレコード「コズミック・ヒッピー」を発売します。
「サニーデイ・サービスは、MIDIと契約後、アナログ盤のリリースと、ライブを重ねながら、1stフルアルバムの楽曲制作にも取り掛かかりました。僕と曽我部は、色々議論を重ね、ポップだけど、サニーデイ・サービスの音楽の根本にある、パンク・ロックを意識した、1曲が3分以下。全10曲で、30分にも満たないアルバムを作ろう、というコンセプトで曲を作り始めました」。

こうして1stアルバムの制作に取り掛かったサニーデイ・サービスでしたが、「コズミック・ヒッピー」発売直後の11月に、メンバー2人が脱退。新たにドラマ―の丸山晴茂をメンバーに加え、サニーデイ・サービスは、3ピースバンドへと生まれ変わります。それと同時に、曽我部の音楽性にも変化が生まれます。
「メンバーチェンジの前後から、曽我部は、それまでのフリッパーズ・ギターに代表される渋谷系音楽への傾倒から少し離れて、「はっぴいえんど」や「はちみつぱい」といった70年代の日本のロックを頻繁に聴くようになったんです。
あくまで、サニーデイ・サービスの基本にある、パンク・ロックの部分は変えずに、はっぴいえんどらのアコースティックサウンドを自分達の音楽に積極的に取り入れて、曲を作るようになりました」。
渡邊さんは、当時を、こう振り返ります。

こうして、音楽面に新たな要素を取り入れたサニーデイ・サービスは、3ピースバンドとなって初めてのシングル「ご機嫌いかが?/街へ出ようよ」を1995年3月に発売、さらに翌4月には、1stアルバム『若者たち』を発売します。

1995年4月に、サニーデイ・サービスが発売した1stアルバム『若者たち』は、それまでの彼らのレコードでは最高となる約5,000枚の売上を記録します。
「セールス結果にこだわっていた訳じゃないですが、結果が出ないので、彼らは、自分達のやっている音楽に対しての自信を少し失っていました。それもあったんでしょうか、『若者たち』に収められた曲の歌詞は、後ろ向きで暗い内容が多いんです。実際、アルバムを発売するまでは、サニーデイ・サービスに対する音楽誌の評価も、決して高くはなく、彼らに対してなかなか興味を持ってくれなかったんです」。

「ところが、アルバム『若者たち』が、サニーデイ・サービスとして最高の売上を記録すると、音楽誌も彼らに対して興味を持ち始めてくれました。それまでサニーデイ・サービスは、売れるのか、売れないのかハッキリしないバンドというイメージだったのが、ひょっとしたら、サニーデイ・サービスは、音楽的に可能性を秘めているんじゃないだろうかという雰囲気に変わってきたんです。それと同時に、曽我部の気持ちの中にも、少しずつ自信のようなものが芽生えてきたんです」。
こうして、サニーデイ・サービスは、7月に、次のシングルとして、アルバム制作が終わった直後に曽我部が作った曲をリリースすることを決めます。
「この曲は、アルバム制作が終わった直後の2月のある日、曽我部に呼ばれて、僕が彼のアパートに行った時に、彼が"こんな曲を作った"と、ギターの弾き語りで聴かせてくれた曲なんです。彼は、「ボブ・ディランの曲を聴いて、触発されて作った」って言うんですが、柔らかい曲調で、歌詞も明るい。フルアルバムを作り終えたことで、曽我部の気持ちの中で、何か、吹っ切れるものがあったんでしょう。曲を聴いた瞬間、僕は、"これなら売れる"と感じたんです」

「歌詞は、同じメジャー契約でも、第一線で活躍している人達と、自分達を比較して、曽我部なりの言葉で揶揄しているんです。それが、柔らかい曲と見事にマッチしたんだと思います」。
こうして、1995年7月、サニーデイ・サービスのシングル「青春狂走曲」は、発売されます。

1995年7月に発売された、サニーデイ・サービスのシングル「青春狂走曲」は、セールスチャート最高位27位を記録します。「それまで、彼らは、自分達がやっている音楽は間違いではないけど、自信が持てなかったんです。それが、アルバム『若者たち』が少し売れて、自信が芽生え始めた時に、さらに、この『青春狂走曲』がセールスチャートにランクインした。
これで、彼らに芽生えた自分たちの音楽への自信が、確信に変わってきたんです。その意味でも、その後のサニーデイ・サービスの方向性を導いた曲ですね」。
最後に、渡邊さんはこう語ってくれました。

停滞していたバンドの気分が、ゆるやかな上昇カーブを描いた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.アナーキー・イン・ザ・UK/セックス・ピストルズ
M2.素敵じゃないか/サニーデイ・サービス
M3.青春狂走曲/サニーデイ・サービス

2010年5月21日
「氣志團/One Night Carnival」

138回目の今日お届けしたのは、「氣志團/One Night Carnival」でした。

 

「小学校の頃は、光GENJIに夢中で、ローラースケートで滑りながら歌う、彼らの華やかな

雰囲気に憧れていたんです。中学校に入ったら、バンドブームがやって来て、僕も同級生

5人でバンドを結成しました。バンド名は、当時大好きだったバラエティ番組『とんねるずの

みなさんのおかげです』の1コーナー「ロックンロール最高物語」に出てきた架空のバンド

「矢島工務店」と、メンバーの父親が偶然工務店を経営していたので、そこから「天満工務

店&THEししゃもヘッズ」と名付けました」。

音楽を始めるキッカケについて、綾小路 翔さんは、当時をこう振り返ります。

 

千葉県木更津市出身の綾小路 翔は、その後、1997年春に、「自分達の故郷・木更津の

良さを、音楽を通して発信したい」というコンセプトの下、友人で、同じ千葉県出身の早乙女 光、

白鳥雪之丞、そして東京都多摩市出身の西園寺 瞳の4人で、バンド「氣志團」を結成します。
「当時、僕達は、他のバンドと差別化するためにインストゥルメンタル音楽ばかり作って、

演奏していたんです。さらに、目立つための何かいいアイディアはないかと色々考えていた

ある日、自分達が、中学生の時に初めてバンドを作った時のような、"ヘアスタイルはリーゼ

ント、ステージ衣装は、学ラン"という格好でステージに立つことを思いついたんです。しかも

演奏する音楽は、その格好からイメージされる横浜銀蠅やクールスではなく、ベンチャーズ

のようなインストゥルメンタル。このギャップで、ライブを観に来た人達に「コイツら一体、何な

んだ」と言う雰囲気を作って、実際、多くの人達から評判を集めることに成功したんです」。

都内のライブハウスを中心に、ガレージ系や、パンクバンド、メタルなど、あらゆるジャンルの

バンドと対バン形式のライブを繰り広げ、少しずつファンを増やしていった氣志團は、1999年、

星グランマニエ、白鳥松竹梅の2人を、メンバーに新たに加え、計6人組となります。そして、

翌2000年6月、氣志團は、インストゥルメンタル曲ばかりを収めた1stミニアルバム『房総与太

郎路薫狼琉』をインディーズから発売します。2001年にはいると、毎月10本以上ライブを行い、

毎回200~300人を集めるようになっていた氣志團は、6月に、当時彼らがライブで演奏し、人

気を集めていたある曲を、マキシ・シングルとして発売。そしてその年の秋、東芝EMIとメジャー

契約を結びます。

東芝EMIとメジャー契約を結んだ氣志團は、デビュー曲を巡って東芝EMIのスタッフと議論を重

ねていきます。
「初めは、僕らのGIGには欠かせない曲を発売したかったんですが、6月に、インディーズからマ

キシ・シングルとして発売したばかりだったので、"半年後に同じ曲を発売するのはまずいだろう"と

いう話になって、改めて曲を何曲か作ったんです。それから、プロデューサーを誰にお願いするの

かということになって、色々候補者の名前が浮上し、その中の一人にユニコーンの阿部義晴さんが

いたんです。僕らも、ユニコーンが好きだったし、阿部さん自身もプロデュース業に興味を持ち始め

ていた時期でもあったので、うまくタイミングがあってお願いすることにしたんです」。

「新曲を4曲ほど作って、どの曲を選ぶか、メンバー間で話しをしたら、今度は意見が分かれてなか

なか決まらない。どうしようか困って考え出したのが「デビューは、必ずしもシングルという形に拘ら

なくてもいいんじゃないか」という結論でした。
さらに、そこで浮かんだのがX JAPANのデビューを真似たデビューのし方でした。X JAPANは

『X現る』というプロモーションビデオを作って、マスコミに配って話題を呼んだんですが、僕らにも、

当時同じようにマスコミ向けに配った『氣志團現象』というビデオがあったので、そのビデオに新曲の

PVや、GIGやインタビューを加えたVHSを発売することにしたんです」。

こうして氣志團は、『氣志團現象』と名付けたVHSビデオを、2001年12月から3ヵ月連続リリースす

るという、異例の形でメジャーデビューを飾ります。

VHSビデオ3ヵ月連続リリースという、異例の形でメジャーデビューを飾った氣志團は、翌2002年3月、

今度はテレビドラマ『木更津キャッツアイ』にメンバー全員がゲスト出演、さらにその1週間後には

NHKの『トップランナー』にも出演し、TVとの相乗効果もあって、それぞれ2万本限定で発売したVHS

ビデオ3タイトル全てが完売。氣志團は、音楽関係者はもちろん、多くの若者達から注目を集める存在

となっていきます。

勢いに乗った氣志團は、さらに、3月30日に東京・代々木公園野外ステージでフリーライブを行い、およ

そ2万人を集客。同じ3月に発売したメジャー1stアルバム『1/6 LONELY NIGHT』も、セールスチャート

初登場3位を記録します。

まさに"氣志團現象"が巻き起こる中、彼らは、メジャーシングル1枚目に、氣志團を代表する曲として、デ

ビュー前から注目されていた曲を発売することを決めます。
「もともとこの曲は、1999年、僕がまだ、フジファブリックの志村正彦らと一緒に、アルバイトをしながら音

楽活動をしていた頃に作った曲なんです。ある日、アルバイト中に、頭の中に浮かんだ、サビのメロディ

がずっと頭の中を駆け巡っていて、その日の夜、バイト仲間と夜通しカラオケに行って遊んだんですが、

明け方、家に帰る時に、暴走族がバイクで走り抜ける所に出くわしたんです。その場面を見た瞬間、自

分の過去の想い出と目の前の現実がオーバーラップして、ずっと頭の中を駆け巡っていたサビのメロディ

に乗せる歌詞が浮かんできたんです」。

「実は、この曲は、すでに作っていた"スカイデストロイヤー・ララバイ"という曲が元歌になっているんですが、

この曲を2つに分けて、1曲は「潮騒の子守唄」という曲にしたんです。そして、もうひとつを、「潮騒の子

守唄」のコード進行で、ディスコ調にアレンジした曲に、アルバイト中に浮かんだサビのメロディをくっつけて

作ったんです。それが、メジャーデビューシングルにもなったこの曲です。当時は、まだインストゥルメンタル

ばかりで、この曲は初めて歌詞をつけて、メンバーに聴かせたんですが、初めは"どうして、俺達がこんな

醜悪な80年代ポップスの焼き直しみたいな曲をやる必要があるんだ"って猛反対されたんです。インストゥ

ルメンタルの曲だけでも、支持を集めていた氣志團に似合わないと思ったんでしょうね。でも、僕は曲の完

成度に、絶対的な自信を持っていたので、"1回だけライブで演奏させてくれ。お客さんの反応が悪ければ、

二度と演奏しなくていいから"と言い切ったんです。実際、ライブ後にアンケートを募ったら、反応が良かった。

それで、他のメンバーも、渋々ライブで演奏することについて、OKしてくれたんです」。

その後、氣志團のライブでは欠かせない曲として成長していったこの曲は、メジャーデビュー直前にインデ

ィーズからマキシ・シングルとして発売されたこともあって、メジャーデビューアルバムには収録されません

でした。「メジャー1stアルバムに、この曲を入れなかったことに対して、色々な人達に"なぜこの曲は入って

いないのか"と言われたんです。それで、インディーズ盤も売り切れになっていたので、改めてレコーディングし、

発売することを決めたんす」。こうして、2002年5月、氣志團は1stシングル「One Night Carnival」を発売します。

2002年5月に、氣志團が発売したシングル「One Night Carnival」は、セールスチャート最高位7位、およそ

2年近くもチャートにランクインし続ける、ロングヒット曲となります。「この曲が完成するまで、見た目とのギャ

ップで勝負するために、インストゥルメンタルばかり演奏していたバンドにとって、この曲が生まれたことによ

って、音楽の幅がより広がって、バンドのアイコンとなったんです。さらに、ライブで演奏し、多くの人達から

支持を集め、今度はバンドを象徴する曲となった。氣志團の進化が、結成していた当時に考えていた以上

のスピードで、大きく加速していくキッカケとなった曲ですね」。

最後に、メンバーの綾小路 翔さんは、こう語ってくれました。

 

バンドの成長を大きく促すことになった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。

 

今日OAした曲目
M1.サマースクール/光GENJI
M2.黒い太陽/氣志團
M3.One Night Carnival/氣志團

2010年5月14日
「嘉門達夫/替え唄メドレー」

137回目の今日お届けしたのは、「嘉門達夫/替え唄メドレー」でした

 

19593月、大阪府茨木市のサラリーマン家庭の長男として生まれた、嘉門達夫こと本名鳥飼達夫は、彼が小学6年の時に、親に買ってもらったラジオで、当時関西を中心に人気を集め始めていたMBS毎日放送の『ヤングタウン』を聞くことに夢中になります。

さらに中学進学後、ラジオを聴くだけでは飽き足らず、自ら番組宛てにハガキを書くようになり、将来、自分もラジオDJになる夢を抱くようになります。また、ラジオから流れてきたアリスや、あのねのねの曲に影響を受けた鳥飼少年は、中学生の頃には、自らクラシックギターでオリジナル曲を作って、友達に聞かせるようになるのでした。

 

「僕は、中学2年からオリジナル曲を作り始めて、中学・高校時代で60曲近くを作っていたんです。人を笑わせる歌もあったし、ラブソングの真似ごとみたいな歌もあるし、泉谷しげるに影響を受けたメッセージソングもあったけど、情景を描写したりして笑わせる歌の評判が良かった。フォークシンガーになるのは大変そうだし、かと言ってフォークシンガーに憧れていた訳じゃないし、でも当時は落語家の人も歌を歌っていたし、笑楅亭仁鶴が人気を集めていたので「笑福亭」がひとつのブランドになって、『ヤングタウン』には売れ始めていた笑福亭鶴光師匠もいたんです。当時師匠が27歳、僕が16歳の時に、「この人の所に行ったら、ヤングタウンに連れてってくれるだろう」と思って、この世界に入ったのであって、落語をやりたいと思ってこの世界に入ったんではないんです。19歳の時に、オーディションを受け、師匠はヤングタウンに連れてってくれたんです。その後、原田伸郎さんの横にレギュラーで座ることができたんです。その時に初めて、僕は落語家になりたかったのではない、と自分で気がついた。そこで内出子修行中なのに、だんだんと嫌な態度が顔に出て、掃除なども嫌そうにしていると、師匠や、師匠の奥さんにも(その態度が)気づかれて、追い出された。謝っては、また入れてもらう...という事を繰り返していた。でもそれを繰り返していく内に、ウチに来るのが嫌なら番組も全部降りてしまえ、と言われ破門になったんです」。嘉門達夫さんご本人は、当時についてこう振り返ります。

 

1975年、高校在学中に笑福亭鶴光に弟子入りし、笑福亭笑光を名乗った達夫は、憧れの「ヤングタウン」のレギュラーも獲得しますが、落語家と、自分のやりたいこととの違和感から師匠と衝突し、1980年、笑福亭一門から破門されます。

ラジオのレギュラーもすべて失い、大阪に居場所が無くなった達夫は、日本全国放浪の旅に出て、スキー場のアルバイトをしながら、スキー場のお客さん相手に、再びギターを持って歌を歌うようになります。そして、その歌が、嘉門達夫の生みの親とも言える人物と彼を結びつけるのでした。

 

「スキー場でアルバイトしていた時に、お客さんを笑わせるカセットテープを作って『ヤングタウン』の堀江ディレクターに渡していたんです。そのカセットテープを堀江さんがアミューズの大里さんと一緒に車に乗っていた時に、「何か最近面白い奴いないの」と聞かれ、「こんな奴いますよ」とテープを聞かせて、それを聴いた大里さんが「すぐに僕に会いたい」と言われ、すぐに東京に来いという話になったんです。でもヤングタウンのプロデューサーの顔を立てて相談したら、「まだ東京は早い...。もう少し修行してからでも遅くない」と言われ、その話を大里さんにすると、「では、アミューズの大阪営業所で修業しながら有線放送所回りの仕事をしなさい」という話になったんです。そこでサザンオールスターズの「チャコの海岸物語」を有線に売り込むバイトをしていたんです。そしてサザンオールスターズが関西に来ると、金魚のフンみたいにくっ付いて歩いていたんです。あと打ちあげで盛り上げる役割も...。そして当時、桑田さんが、嘉門雄三バンドでライブをやった時に、大阪のライブの前座に出してもらったんです。その打上げの場で、僕が本名の鳥海達夫で活動していたことに対して、桑田さんが、「鳥海は硬いな」...という話になって、「じゃあ、名前を付けてください」と言うと、初めはカメリヤダイヤモンドと言われたけど、それは断ったんです。じゃあ、嘉門雄三の嘉門雄三はもう使わないからやるよ、と言って名前をくれた。でも全部貰うと紛らわしいから、嘉門だけを貰って、嘉門達夫になった。その時は、デビュー曲となる「ヤンキーのうた」はライブでは爆笑をとる歌になっていたんです。最初自主制作で200枚作ったのを、自分で有線に配ってチャートをあげる努力をしていた。でその後、メジャーからデビューしたのが、24歳の時ですね。また当時、僕は有線プロモーターで、放送所回りをする時に、駄菓子屋のくじなどを持って回り、有線放送所の中では面白い兄ちゃんとして人気ものだったんです。だから自主制作盤を手売りするのではなく、有線でかけてもらっていた。4050箇所あった有線の放送局で人気を集めていましたね。

「ヤンキーの兄ちゃん」は曲が152秒しかなく、ライブではウケルけどレコード会社には人気が無かった。なので、制作費が17万円ほどかかったけど、自分で200枚ほどドーナツ盤作って、有線放送所を回ったんです。しかし実は当時は、レコードを作るお金も無かったので、17人の人から1万円ずつ売れたら返しますと言って集めて作りました。実際にレコードを持って有線放送所を回ると、問い合わせが殺到し始め、リクエスト1位の放送所が数か所出てきた。そんな既成事実を作ってしまうと、メジャーレコード会社も僕をほっておかなかったんですね」

 

1983年にリリースされた1stシングル「ヤンキーの兄ちゃんのうた」は、有線放送でブレイクし、その年の読売テレビ全日本有線放送大賞新人賞と、TBS日本有線大賞新人賞を相次いで受賞して、嘉門達夫の名前は一躍知られる存在となっていきます。

 

 

「もともと僕は、誰かを笑わせたいと思ってこの世界に入ってきたんです。デビューした翌年に2枚目のシングル「行け行け川口浩探検隊」を発売し、この曲もそこそこ売れて、僕の名前は全国まんべんなく売れることができた。ありがたいことに、こ後レギュラー番組が増えて忙しくなってきて、本当は歌いたいんだけども、歌うことよりも、レポーターのような仕事が増えてきた。29歳の時は、東京、名古屋、大阪で15本ぐらいレギュラーを抱えていました。最初の頃は、売れたい一心から楽しかったけど、29歳の時に「小市民」という歌が、数万枚売れた時に、アミューズの中で、ここまで来たら十分なのでは...という空気が流れてきたんです。自分の中では、まだいかないといけないのに、事務所の中では十分だ~みたいな感じになってきた。そんな時に、元スペクトラムというバンドのメンバーで、アミューズに居た新田一郎さんが代官山プロダクションを作って独立して爆風スランプなどを育てていたんですで。昔から、新田さんと気があっていたので、「ウチへ来て一緒にやろうよ」という話になって、アミューズと話をして円満移籍で代官山プロダクションに移籍したんです。そこから丸二十年新田さんと色々やりましたけど、ラジオ番組やライブで完成度の高いステージを作ることを教えてもらった。その中で、「替え唄メドレー」はライブで歌っていたんですが、許可取りが大変だった。替え唄は、オリジナルの曲の権利を持っている出版社に使用許可を取るんですが、ライブの動員も増えて自分も勢いづいていた部分もあったけど、勢いで押し切った部分もありますね」

 

音楽活動以外にもフジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』へ出演するなど、タレントとして活躍の場を広げ人気を集めていた嘉門達夫は、19897月、所属していた事務所アミューズを離れ、音楽プロデューサー・新田一郎が率いる代官山プロダクションに移籍し、新田一郎プロデュースの下、それまでのアドリブ的な芸を、何度でも同じクオリティで再現できるエンタテイメントへと進化させていきます。

そんな中、1991年、嘉門達夫は、それまで彼のライブでは非常に盛り上がっていたネタ「替え唄メドレー」を、シングルとして発売することを決めます。

 

「「替え唄」は、普通では伝わらないことが伝わって面白い。不思議な効果でもある。例えば「オザワ~オザワ~」と少し歌うだけで、皆が色んな事を想像して笑ってくれる。「4億円の出所は♪」だけで、社会風刺が成立しているんです。もともと歌が持っている力も借りつつ、それを変えることで化学反応を起こし、違うメッセージ性を持った歌になって、僕の口から出ていくという替え歌には魅力があると思っています」。

 

19915月に発売された、嘉門達夫15枚目のシングル「替え唄メドレー」は、セールスチャート最高位9位、約82万枚の売上を記録するヒット曲となり、翌1992年の大晦日に行われた「NHK紅白歌合戦」にも、嘉門達夫は「替え唄メドレー」を引っ提げて初出場を果たします。

そして、その後も現在まで「替え唄メドレー」シリーズとして、シングルとしては20作、アルバム収録曲も加えると22作も作られる名物シリーズとなります。

 

モザイクとかコラージュが好きな僕にとって、「替え歌メドレー」は、二十何曲歌う人が全て違うし、歌詞も変わっているというモザイクという観点で、好きだし、当然それを表現するのも好きだし、編集するのも好きだし、楽曲を並べる順番がとても大事なので、その点が「替え歌メドレー」が売れた秘密ではないでしょうか」

 

最後に、嘉門達夫さんご本人は、こう語ってくれました。

 

オリジナルの魅力を土台に、替え歌の魅力をモザイク状に繋ぎ合わせたことで、

新しい、日本語のエンタテイメントソングスタイルが生まれた瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.魚屋のオッサンの歌/あのねのね

M2.ヤンキーの兄ちゃんのうた/嘉門達夫

M3.替え唄メドレー/嘉門達夫

2010年5月 7日
「LOOK/シャイニン・オン 君が哀しい」

136回目の今日お届けしたのは、「LOOK/シャイニン・オン 君が哀しい」でした

 

「彼らと初めて会ったのは、1984年の夏頃だったと思います。当時のマネージャーが送ってきたデモテープを聴いて、興味を持った僕は、東京・目黒のライブハウス「鹿鳴館」に彼らのライブを観に行ったんです。ボーカルの鈴木トオルのアイドル的なルックスと、高音でハスキーなボーカル。そんな鈴木とは対照的な、千沢仁のボーカルと、ハーモニー。さらには、千沢が作り出す多彩なメロディ。多面的な要素を持った彼らは、それまで僕が見たことのないタイプのバンドで、実に斬新。ぜひ彼らをデビューさせて、多くの人達に知ってもらいたいと、僕は直ぐに思ったんです」。

デビュー当時、LOOKの制作担当ディレクターを務めた山本さんは、当時についてこう振り返ります。

 

1984年、東京・新宿のライブハウス「ACB」を拠点に、別々のバンドで活動していた4人の男達。AC/DCSLADEといった、ハードロックバンドに影響を受けていた、ボーカル兼ギターの鈴木トオル。BILLY JOELなどのシンガーソングライター系のメロディメイカーに影響を受けていた、ピアノ兼ボーカルの千沢仁。パンク・ジャズバンド出身の、サックスのチープ広石。そして、プログレッシブ・バンドのドラマーとして活躍していた、山本はるきち。音楽のバックボーンが、全く異なる4人の男達は、売れるバンドを作ることを目的に意気投合し、新たなバンドを結成します。

 

4人のそれぞれの異なるキャラクター性を、いい意味でのバンドの魅力と捉えた彼らは、当時、4つの味が一つのパッケージで楽しめることで人気を集めていたチョコレートとオーバーラップさせて、バンド名を"LOOK"と名付けます。

「デモテープを聴き、ライブを観た僕は、メンバーが、同じ4人なので、ビートルズを意識し、彼らを目指すことにしたんです。バンドとして、しばらく活動した後は、ビートルズにならってメンバー個々のソロを視野に入れた活動を行っていくことも考えていました」。

こうして、1984年冬にエピックレコードと契約したLOOKは、翌1985年の春にデビューすることが決まります。

 

LOOKは、千沢仁がメロディを書き、作詞をチープ広石が担当、そして山本はるきちが編曲を担当する―といったように、役割分担がはっきりしていたバンドなんです。普通バンドは、メンバーそれぞれが、あれこれ意見を出し合って曲を作っていくケースがほとんどですが、彼らの場合は作詞、作曲、編曲は完全分業制で、それぞれが責任を持ってプロフェッショナルな仕事をしようというのが特徴でした。その中でも、それぞれの基本に考えていたのは、ボーカル・鈴木トオルの高音ハスキーボイスを活かすために、どうすればいいのか。これだけを、それぞれが共通テーマとして、持っていたんです」。

「僕は、彼らと色々と話をする中で、鈴木トオルの高音でハスキーな歌声と、王子様的なキャラクターは、LOOKの強力な武器になると考えたんです。そこで、LOOK結成前のバンドでは、ギター兼ボーカルだった鈴木を、LOOKではボーカルとして専念させることにしたんです。

もともとハードロック系のギター小僧だった鈴木は、ハードロック以外の、ジャズ、プログレの要素を取り入れたLOOKの多様な音楽性を上手に弾き分けるほど器用ではありませんでした。ライブを積み重ねていく中で、鈴木自身、ギターとボーカルを両立させることが難しいことも実感していたと思うので、この提案に対しては割とすんなりと受け入れてくれたんです」。

 

デビューに向けて、着々と準備が進んでいく中で、LOOKは、彼らがアマチュア時代に作っていた「SMILE AGAIN」を、1stシングルの候補曲として決めます。

 

LOOKが、19854月に発売する1stシングルとして、準備していた楽曲「SMILE AGAIN」。

LOOKは、メンバー4人がアマチュア時代に培ってきたハードロックやジャズ、プログレの要素を取り入れた、本当にバラエティに富んだ音楽性を持っていたので、僕ら制作スタッフは、デビュー後の展開方法を色々と考えて、徐々にその全貌を見せていく作戦を立てていたんです。そこでまず1stシングルとして選んだのが、ポップで明るい「SMILE AGAIN」という曲でした」。

「ところが、レコーディングも無事に終えた後、レコード会社の宣伝や営業チームと打合せする中で、LOOK1stシングルは、ポップで明るい曲ではなく、当時から関係者の間では人気を集めていたバラード曲にして欲しいという意見が数多く寄せられたんです。メンバーも、僕ら制作スタッフも、土壇場での変更に困惑したんですが、宣伝や営業チームと幾度となく議論を交わし、結局、1stシングルを変更して、バラード曲で勝負する作戦に切り替えたんです」。

 

「もともとこの曲は、彼らがアマチュア時代から歌っていた曲で、僕が目黒のライブハウス「鹿鳴館」に彼らのライブを初めて観に行った時にも、歌っていたんです。バラード曲は、じっくり聴かせるというのが普通なんですが、この曲は、曲が最初からドラマティックに展開していくので、思わず聴き入ってしまうんです。そして何より、鈴木トオルのサビのボーカル力が衝撃的で、初めて聴いた時は鳥肌が立ちました。曲を作った時の話を詳しく聞いてみると、最初は曲を作った千沢がボーカルを担当する予定だったけど、曲のレンジ(音の高低差の幅)が広く、千沢では歌いきれなかったので、試しに鈴木が歌ってみたら、歌のキーが出たので、そこから鈴木がメインで歌うようになったんだそうです」。

 

こうして19854月、当初の予定を変更したLOOK1stシングル「シャイニン・オン 君が哀しい」は、発売されます。

 

19854月に発売された、LOOK1stシングル「シャイニン・オン 君が哀しい」は、セールスチャート最高位8位、約35万枚の売上を記録します。

「キャラクターも、音楽性も違う4人の魅力が、高度なポップナンバーに融合することで、最大限発揮された曲です。

その一方で、曲の持っているインパクトがあまりにも大きく、その結果、彼らはそれ以降どんな曲を書いても、思うような評価を得ることができず、この曲のために、本人達も苦しんだ部分があるのも事実です。結局、彼らにとってこの曲は、最後まで越えることができない、大きな壁になってしまいました。しかし、サビのメロディが、この曲を聴いた人達の記憶の片隅に深く刷りこまれ、今でも、カラオケなどを通して、幅広い人達にこの曲を歌ってもらえているのも事実です。

本人達は越えることができなかったけど、曲としては"時代の壁"を大きく乗り越えて、J-POPの歴史にその名前を刻んだのではないでしょうか」。

最後に、制作ディレクターを務めた山本さんは、こう語ってくれました。

 

時代という大きな壁を乗り越え、歌い継がれるJ-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.Get Down And Get With It/SLADE

M2.SMILE AGAINLOOK

M3.シャイニン・オン 君が哀しい/LOOK

2010年4月30日
「矢野顕子/ひとつだけ」

135回目の今日お届けしたのは、「矢野顕子/ひとつだけ」でした

 

19552月、東京に生まれた少女・鈴木顕子、後の矢野顕子は、彼女が3歳の時に、父親の仕事の都合で、青森市に引っ越しします。

「引っ越しした青森の、音楽教室で習い始めたピアノが私の人生を大きく変えたんです。ピアノを弾くようになって、いつの間にか自分の心の中に、将来は、プロになろうと、どこか決意した部分が芽生え始め、生活する中で、ピアノを切り離して考えることができなくなったんです。ピアノと矢野顕子は、一緒に育ってきたもの、そんな存在感になっていったんです」。

デビュー30周年を記念した雑誌のインタビューで、矢野顕子は、こう話しています。

 

その後、矢野顕子は、青森の中学校に進学した頃からジャズに興味を持ち始め、プロのミュージシャンを目指すため、1971年春、親元を離れ、青山学院高等部に入学。父親の知人であった安部譲二の家に居候させてもらいながら、青山のジャズクラブ「ロブロイ」で山下洋輔、坂田明といったジャズ・プレーヤーと連日セッションを繰り広げる日々を送ります。

1972年、彼女の噂を聴きつけた音楽関係者の目に留まった矢野顕子は、細野晴臣、鈴木茂、林立夫らが作っていた音楽ユニット「キャラメル・ママ」のセッションに参加。この頃から、自らも曲を作り始めます。

1973年、矢野顕子は音楽仲間とバンド「ザリバ」を結成し、シングル「或る日」を発売しますが、シングル発売直後に解散。その後、矢野顕子は、音楽プロデューサーの矢野誠、キャラメル・ママらと共にソロデビューの準備を進めます。

 

1974年、音楽プロデューサーの矢野誠と結婚し矢野顕子となった彼女は、長男を出産後、本格的にソロアルバムの制作に取り掛かります。

1stアルバムを作る時、当時の担当ディレクターが矢野顕子に「どんなアルバムを作りたいの?」と聞いたんです。当時矢野さんは、夫でもある音楽プロデューサーの矢野誠さんと一緒に、日本人である自分と、音楽の関わりについて深く考えていた時期で、ルーツミュージックに興味を持っていたんです。そこで、アメリカでR&B、ブルース、カントリー、ジャズなどのルーツミュージックを融合させた作品で高い評価を浴びていた、リトル・フィートの名前を挙げたんです。そこで担当ディレクターが直ぐに彼らにコンタクトを取ったところ、リトル・フィート側も快諾してくれて、彼らをバックバンドに迎えてのレコーディングが実現したんです」。

矢野顕子30周年を記念したアルバム『いままでのやのあきこ』の制作担当ディレクターを務めた、篠崎さんは、当時の様子についてこう語ってくれました。

こうして19767月、矢野顕子は、1stソロアルバム『JAPANESE GIRL』を発売します。

 

19767月、矢野顕子は、リトル・フィート以外にも、ティン・パン・アレイ、鈴木慶一とムーンライダーズという錚々たるミュージシャンが参加して作った1stアルバム『JAPANESE GIRL』を発売。5ヵ月後の197612月には、1stライブの模様を収めたライブアルバム『長月・神無月』を、発売します。

 

音符の上を自由奔放に跳ね回るような歌い方と、変幻自在、かつ緻密な矢野顕子の音楽性は、デビュー直後から多くの人達から注目を集めます。

「彼女は、その瞬間、彼女が感じて良いと思った生の部分を、音として表現しているんです。つまり、演奏する場所、時間、ライブを観に来た人達の顔...その瞬間の雰囲気・空気を感じとって、音楽として表現しているので、ライブツアーでも、決して同じ物は無く、日々違っているんです。同じ音楽は二つとない、まさにひとつだけという事ですね」。

 

「歌詞も、怒りや後悔といったネガティブなテーマは多分ほとんどなく、愛についてが多いと思います。男女だけではなく、大きな意味での愛。多彩な音楽経験、そしてすばらしい歌詞。この二つが上手く融合することで、彼女ならではの唯一無二の音楽が生まれ、聴く人達の心を捉えるんだと思います。

20068月に発売した、デビュー30周年を記念したコンプリートアルバム『いままでのやのあきこ』を作るために、デビュー当時からの音源を全て聴き直して、私は改めてそう感じたんです」。

現在、矢野顕子の音楽制作ディレクターを務める篠崎さんは、矢野顕子の音楽の魅力について、こう語ります。

 

矢野顕子は、デビュー以降も、デビュー前から付き合いのあった音楽ユニット「ティン・パン・アレー」のメンバー細野晴臣、鈴木茂、林立夫、そして坂本龍一、高橋幸宏、山下達郎、吉田美奈子と言ったミュージシャンらとも積極的に交流を図ってアルバムを作っていきます。さらに1978年に入ると、ギタリストの渡辺香津美、ドラムの村上"ポンタ秀一、ベースの小原礼といったジャズフュージョン系のミュージシャンらと共に、同じ楽器に二人のプレーヤーを立てて、音楽的な"格闘技"を行うというコンセプトの基に、「格闘技セッション」と呼ばれるユニットを結成して活動します。

また翌1979年には、坂本龍一、渡辺香津美、村上秀一らとバンド「KYLIN BAND」を結成し、ライブ活動を行いながら、

4月には自身のソロライブアルバム『東京は夜の7時』を発売します。

 

「当時の彼女は、子供の母親として、そしてセッションミュージシャンとして、さらには一人のシンガーソングライターとして、本当に多忙な日々を送っていたんです。でも、幾ら忙しくても、音楽面では一切妥協は許さず、常に自分自身が納得できるまで曲を作っていたんです。そんな中、次に彼女は、それまでの音楽人生の集大成のような思いで、彼女自身のソロアルバムの制作に取り掛かったんです」。

当時、矢野顕子のマネージャーを務めていた佐藤さんは、こう振り返ります。

 

多彩な音楽活動の合間をぬって、ソロアルバムの制作に取り掛かった矢野顕子の下へ、楽曲提供の話が舞い込みます。

「依頼は、その年、197911月に、アグネス・チャンが発売を予定していたアルバムに収める曲を作って欲しい、という内容でした。矢野顕子は、曲を作った後、自らもこの曲をアルバムに収めることを決めて、アグネス・チャンに提供した曲の歌詞の一部を変えて、レコーディングしたんです。演奏には、アルバムの共同プロデュースを務めた坂本龍一他、

高橋幸宏、細野晴臣の、YMOメンバーが3人揃って参加しています」。

 

こうして19801月、当初は矢野顕子がアグネス・チャンのために作った曲「ひとつだけ」は、シングル「ごはんができたよ」のカップリングとして発売されます。

 

19801月、シングル「ごはんができたよ」のカップリング曲として発売された「ひとつだけ」は、同じ年198010月に発売されたアルバム『ごはんができたよ』にも収録されます。

「この曲は、最初は、シングルのカップリング曲として発売されたんですけど、長年歌い続けることで熟成されて、彼女にとってはもちろんですが、彼女の音楽を愛するファンの人達にとっても、大切な曲になっているんです。

ここ数年、彼女がライブでこの曲を歌うと、お客さんも一緒に歌うシーンを度々見かけることがあるんです。自然とお客が途中から歌いはじめ、最後は大合唱になった事もありました。普段矢野のコンサートでお客が一緒に歌うと言う事はまれなんです。でもそれは、彼女が促しているではなく、お客さん達が自然と一緒に歌ってくれているんです。ひとつだけは特別な曲なんだと思います」。

 

最後に、制作ディレクターを務める篠崎さんは、こう語ってくれました。

 

あふれる才能が産み落とし、日々、積み重ねられる経験が育んだ、J-POPスタンダードナンバー、

それが、矢野顕子の「ひとつだけ」なのです。

 

今日OAした曲目

M1.My Favorite Things/ジョン・コルトレーン

M2.電話線/矢野顕子

M3.ひとつだけ/矢野顕子

2010年4月23日
「中村 中/友達の詩」

134回目の今日お届けしたのは、「中村 中/友達の詩」でした

「私は、今でこそ社交性を発揮できるようになりましたが、10代の頃は人と話をすることが大の苦手で、なるべくなら人との関わりを持たないで生きていきたいと思っていました。そうなると、必然的に言葉数も減って、いつしか同級生や家族に対しても、上手く言葉が出て来なくなってしまったんです。でも、10代の心って、感情の起伏は嵐のように激しいじゃないですか。もの凄く激しい気持ちだと思うけど、それをちゃんと外に吐き出さないと、自分の感情に、自分が押し潰されてしまう事に繋がっていくと思うんです。当時は、そんな感情を外に出す方法が分からなくて、途方に暮れかかっていた時に出会ったのが、研ナオコさんの音楽でした」
自分を救った音楽との出会いについて、中村 中さん本人はこう振り返ります。

1985年6月、東京都墨田区に生まれた中村 中は、幼い頃から、両親が聞いていた歌謡曲、特にその中でも研ナオコの音楽に親しみを覚え、自分も一緒に口ずさむようになります。

「TVなどで、研ナオコさんが歌う姿を観た時、私には、研ナオコさんの音楽が、口に出して言えない憤りや、悲しみを、歌で吐き出しているように見えたんです。このやり方ならば、自分でもできるのではと、浅はかだけど思うようになって、研ナオコの歌を歌うようになったんです。しばらくすると、感情を外に出す方法が見つからずに途方に暮れていた私も、歌を歌っている時間だけは、心が安らぐようになったんです。音楽の世界を目指したというよりも、私にはこれしかなかったんですね」。

しかし、中村 中は、その後、声変わりの時期を迎え、自分の声に違和感を覚えるようになり、人前で声を出す事に対して抵抗感を感じるようになります。そして、今度はその想いを、独学で弾くようになっていたピアノにぶつけることになります。
 こうして、中村 中は、思春期特有の、日常の葛藤や自身の考えを、歌詞に書き、さらには独特の感性でピアノを弾いて曲を作り、都内のライブハウスを中心にライブ活動を始めるようになります。
やがて、中村 中の噂を聞きつけた、レコード会社のスタッフがライブを観に訪れます。
「当時は、とにかく、歌を歌える場所があれば何処へでも行っていました。そんなある日、お客さんが、たった2、3人しかいなかった私のライブを観に、レコード会社のスタッフがやって来たんです。それをキッカケに、デビューに向けた第一歩が始まったんです」。

2006年6月21日、中村 中は、21歳の自らの誕生日に、1stシングル「汚れた下着」でデビューします。"浮気"をテーマに、ただならぬ妖艶な雰囲気を醸し出しながら歌ったシングル「汚れた下着」は、セールスチャート最高位155位という結果に終わります。
「今では笑い話になっていますが、私は最初、この曲を1stシングルにすることに対して、本気で嫌がっていたんです。
曲のイメージから、色物扱いされる事は分かっていたんですけど、レコード会社の意向もあって、仕方なかったんです。
この曲が1stシングルに決まった時、音楽の世界で戦いながら生きていくのは、楽な事ではないな、そう思いました」。

「メジャーデビューに向けて創作活動を続けていく中で、私には「こんな歌手になりたい」という、具体的な目標はなかったんです。ただひとつ、自分の信念として、嘘を吐いているような音楽はやりたくない。そう思っていました。
また、幼い頃から、歌に親しんできた影響もあったので、誰もがすぐに口ずさめるメロディや、曲を聴いてくれた人の心の中に、ひっかかるような音楽を作る事を大切にして、歌う自分も真っ直ぐな気持ちでいたい。そう思っていたんです」。
中村 中は、自身の音楽観についてこう語ります。

音楽業界に対して、とまどいを抱えながらデビューした中村 中は、2ndシングルとして、2005年6月に、自主制作盤という形で、1度発売された「友達の詩」を発売することを決めます。

「もともとこの曲は、私が中学校を卒業する間際に作った曲です。
当時私は、人との関わりを避けていた時期で、自分が会話する相手はもっぱらノートでした。独り言のように、自分が日々感じていた事を、ノートに書きなぐっていたんです。その書きなぐっていた言葉に、ある日、ふとメロディを付けたくなって、ギターでメロディを作ったのがこの歌です」。

「曲が完成して、実際に歌い始めたんですが、自分の心にあまりにも近過ぎて、凄く怖く感じました。だからでしょうか、
この曲をおっかながって歌っていたんです。この歌を歌う事で、他人に訊かれたくない事も訊かれてしまう。でも、時間が経つにつれて、曲を聴いた人達が、「この歌を聞いて、励まされたよ」と言ってくれるようになってきて、自分でも「この歌は、人を励ます力を持っている曲なんだ」、そう思えるようになってきたんです。それからは、この歌と自分が、どんな風に向き合えばいいのかが、だんだんと分かってきたんです」。

こうして、中村 中が15歳の時に初めて書き下ろした曲「友達の詩」は、2006年9月、満を持して、2ndシングルとして発売されます。

2006年9月に発売された、中村 中の2ndシングル「友達の詩」は、セールスチャート最高位9位を記録し、およそ1年近くもチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「この曲は、私にとっては、まるで自分の人生の生き写しのような曲です。腐れ縁というか、私の良い部分も悪い部分も知っている、友達みたいな曲ですね」。
最後に、中村 中さんは、この曲についてこう語ってくれました。

15歳の日々の思いを綴ったその唄は、多くの人を勇気づけ、励ます、J-POPバラードの名曲となりました。

今日OAした曲目
M1.泣かせて/研ナオコ
M2.汚れた下着/中村 中
M3.友達の詩/中村 中

2010年4月16日
「T−BOLAN/離したくはない」

133回目の今日お届けしたのは、「T−BOLAN/離したくはない」でした

「僕は、アマチュア時代から、歌を歌うことが大好きで、バンドを作った時も、最初は曲を作るといったクリエイティブな部分よりも、バンドのボーカリストという部分に興味があったんです。しかし、当時のバンドのメンバーから、「歌詞は、ボーカルが書いた方がいいよ」と言われて、それから何も疑問も持たずに歌詞を書くようになったんです。」
曲を書くようになったキッカケについて、森友嵐士は音楽情報サイトのインタビューでこう答えています。

1965年10月、広島県府中市に生まれた森友嵐士は、彼が16歳の時に、友人からアコースティックギターを譲り受け、翌年の学園祭に出演し、はじめて歌で自分を表現する喜びを知ります。
その後、東海大学に進学した森友嵐士は、音楽サークルに入部し、バンドを結成します。
そして、1987年、森友嵐士はアルバイト先のライブハウスで出会った、ドラマーの青木和義とバンド「プリズナー」を結成し、本格的にプロの世界を目指します。

1987年11月、プリズナーは、レコード会社BEINGが新人発掘のために行っていた音楽コンテスト「第2回BADオーディション」にデモテープを送り、グランプリを受賞。翌1988年7月、プリズナーはバンド名を「BOLAN」と改め、BEINGのインディーズレーベルからシングルをリリースします。

その後BOLANは、都内のライブハウスを中心に年間150本以上のライブを行って、最盛期にはインディーズにも関わらず、ワンマンライブに約700名を集めるまで成長します。余談ですが、デビュー直後のB’zの稲葉浩志も、BOLANのライブにゲスト出演したこともあるそうです。
しかし、BOLANは、メンバー間で、音楽に対する考え方の違いが生まれ、森友嵐士はBOLANを脱退します。
BOLANを脱退した森友嵐士は、幾つかのバンドを掛け持ちして活動するようになりますが、そんな中で、ギターの五味孝、ベースの上野博文と知り合います。

1990年に入り、森友嵐士は、活動停止状態だった「BOLAN」の青木和義と再び一緒に音楽活動を始め、五味、上野の2人を加えてバンドを結成。イギリスのグラムロックバンド「T-REX」にちなんで、バンド名を「T-BOLAN」と名乗り、翌1991年7月、1stSg「悲しみが痛いよ」でデビューします。
「1stシングルの発売日、僕はその日がデビュー日というのも忘れるくらい、秋に発売を予定していたアルバムの曲作りに没頭していたんです。21歳の時に、T-BOLANの前身バンド、プリズナーを結成し、自分の気持ちの中で、「音楽の世界で勝負をしよう」と思って活動してきました。メジャーデビューが決まるまでの5年間は、自分が思い描いていた世界とは違っていたし、正直、まさかここまで時間がかかるとは思わなかったんです」。
森友嵐士は、当時について音楽情報サイトのインタビューでこう振り返っています。

オーディションの時から、定評のあった森友嵐士の歌声の魅力。それをいかに形にして、オーディエンスに届けていくのか? 課題解決に向け、BEING代表の音楽プロデューサー・長戸大幸をはじめとしたスタッフ、メンバーの試行錯誤が繰り返されます。
「プリズナーから、BOLAN、そしてT-BOLANと、バンド活動を続けてきたけど、プロデューサーの長戸さんは、なかなか僕らの作品を認めてくれませんでした。そんなとき、埼玉の「浦和ナルシス」というライブハウスでライブを行ったんですが、お客さんとして来ていた女子高生に「かっこいいけど、ひとつだけ良くないところがある」って言われたんです。改めて彼女に問いただすと、彼女は、「歌詞が良くない。曲を聞いても、全然響いてこない」って言ったんです。歌詞を書く人間としては正直ショックでしたけど、この言葉が、課題解決のためのヒントになりました」 。

「女子高生にキツイ言葉を言われて、悩み、考えていく中で、ある時、自分の置かれた状況をそのまま歌詞に書いてみたんです。すると、曲を作り終わった時、「コレかッ!」と思う何かが、自分の頭の中を駆け巡ったんです。それが、1stシングルのカップリングに収めた曲です。」
「アマチュア時代は、知り合いを含めて、ライブハウスを埋めるのが精いっぱいでしたけど、デビュー直後のライブでは、チケットが即日ソールドアウト。会場には、凄い数の人がうねっていたんです。アマチュアの頃とは全く違う景色で、新しく作った音楽の結果が目の前に広がっていたから、創作に対するエネルギーが自分の中でどんどん高くなっていったんです。曲を作るにもエネルギーは必要で、完成した時は嬉しいけど、それまではただ苦しいだけ。でも、ひとつの作品として、目の前の人達から笑顔という結果を貰えると、最初は作品に対して自信が無かったんですが、また作っていきたいという創作意欲が湧いてきたんです」。

ライブにやって来た人達の満足する表情に、ひとつの自信を掴んだ森友嵐士は、より貪欲に創作活動に力を注いでいきます。
「この曲も、最初はシングルのB面に収める予定で作った曲なんです。何気なくピアノに向かって弾いていたものを、ラジカセに録音して、そのデモテープを、プロデューサーの長戸さんに聞かせたら、「いい曲だ」と評価してくれ、急遽、シングルのB面から、アルバム収録曲に変更になったんです」。

1991年11月、T-BOLANはこの曲を含む1stアルバム『T-BOLAN』を発売します。「当初はシングルカットするつもりはありませんでしたが、10月からフジテレビ系でスタートしたドラマ『ホテル・ウーマン』の挿入歌として起用されたところ、有線放送にこの曲へのリクエストが殺到したんです。そこで慌ててレコード会社が、2ndシングルとして発売することを決めたんです」。
こうして1991年12月、T-BOLANの「離したくはない」は、2ndシングルとして発売されるのでした。

1991年12月に発売された、T-BOLANの2ndシングル「離したくはない」は、セールスチャート最高位15位、売上は約47万枚、さらには発売からおよそ1年に近くに渡ってセールスチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「1stシングルのカップリング曲として収録された「Hold On My Beat」で、自分の音楽に気が付き、次に作ったこの曲で、自分の中に軸がやっとできたと感じたんです。
出会って5年間、なかなか認めてもらうことができなかったプロデューサーの長戸さんからも、「いいね」って評価してもらうことができました」
森友嵐士は、最新のインタビューの中で、当時についてこう振り返っています。

ライブのお客さんの声に気づかされ、笑顔に勇気付けられ、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ゲット・イット・オン/T-REX
M2.悲しみが痛いよ/T-BOLAN
M3.Hold On My Beat/T-BOLAN
M4.離したくはない/T−BOLAN

2010年4月 9日
「PUFFY/これが私の生きる道」

132回目の今日お届けしたのは、「PUFFY/これが私の生きる道」でした

「1994年、最初に出会ったのは、大貫亜美でした。彼女は、前年の1993年に開かれたSDオーディションに合格して、エピックレコードからソロデビューの話が決まって、僕がデビューに向けてのプロジェクトチームに加わったんです。
どういった形で彼女をデビューさせるのがいいのか、試行錯誤しながら考えていく中で、ソロではなく、誰かとユニットを組んでみるのも面白い、と考え、彼女と話をしたんです。すると「事務所の後輩で、ピッタリの子がいますよ」と教えてくれたのが、吉村由美でした」。
デビュー直前から、レコード会社でPUFFYの担当責任者を務めていた廣瀬さんは、PUFFYの結成について、こう、話してくれました。

1973年9月、東京都町田市に生まれた大貫亜美は、高校入学後に友人達とバンドを結成、ハノイ・ロックスの曲をカバーしたデモテープを、SDオーディションに送ります。彼女の歌声に魅かれた、オーディションスタッフは、彼女にソロアーティストとしてデビューすることを提案。1993年、大貫亜美は、本格的に歌の世界を目指すようになります。
 一方、1975年1月、大阪府寝屋川市に生まれた吉村由美は、1993年、友人の勧めで、10代の女性を対象にしたタレントオーディション、ソニーの「ちょっとそこまでオーディション」に応募し、合格します。ルックスとキャラクターを評価されての合格でしたが、スタッフの薦めもあって、吉村由美も歌の世界を目指すことになります。

「吉村由美に声を掛けたちょうどその頃、彼女のソロデビューに向けたプロジェクトも、立ちあがろうとしていた時でした。それぞれソロデビューの話を止めて、ユニットとしてデビューさせることにしたんです。同じ二人組ユニットのWinkが、活動を停止する直前で、他に女性二人組のユニットがJ-POPアーティストの中にはいなかったので、タイミングは良かったんです」。

1995年、大貫亜美と吉村由美の二人は、ユニット「PUFFY」としてデビューすることが決定。さらに彼女達のプロデューサーとして、彼女達と同じ事務所で先輩の、奥田民生が起用されます。「奥田民生が、ソロアルバム『29』と『30』を作り終えた直後で、プロデュース業に興味を持ち始めていたんです。時間的な余裕もあったので、彼に、PUFFYのプロデュースをお願いすることにしたんです」。
こうして、翌1996年5月、奥田民生初のプロデュースアーティストPUFFYは、1stシングル「アジアの純真」を発売します。

1996年5月、PUFFYは、井上陽水作詞、奥田民生作曲・プロデュースによる1stシングル「アジアの純真」を発売します。
「PUFFYがデビューするにあたって、プロデューサーの奥田民生、そして僕らスタッフは、二人を、歌謡曲の世界にいる一般的なアイドルではなく、日本のROCKとJ-POP界のアイドル的存在に仕立てることを考えたんです。奥田民生が初めてプロデュースを手掛けたアーティストという話題だけで、世間が騒ぐのは分かっていました。でも僕らは、PUFFYをそれだけで終わらせたくはなかったんです。そのために必要なのは、話題性だけでなく、音楽面でも、彼女達をしっかりとサポートしなくちゃいけない。そう考えた奥田民生は、彼自身の、音楽面での交友関係をフル活用し、デビュー曲の作詞を井上陽水さんにお願いしたんです」。

PUFFYの1stシングル「アジアの純真」は、二人が出演したキリンビバレッジ「天然育ち」のCM曲にも起用され、セールスチャート最高位3位、約119万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「奥田民生初のプロデュースアーティストで、デビュー曲の作詞は井上陽水。さらには、本人達がCMに出演。こういった十分な話題性に加えて、PUFFYの二人が受け入れられた理由を分析してみると、3つの大きな理由がありました」。

「PUFFYがデビューした当時は、安室奈美恵に代表される小室哲哉サウンド、いわゆる打ちこみ系サウンド全盛の時代でした。しかし、奥田民生は、PUFFYのサウンドに、敢えてシンプルで分かりやすい、アナログ録音によるロックサウンドを取り入れたんです。結果的に、それが、新鮮に感じてもらえたんですね。これが一つ目の理由です。二つ目の理由は、奥田民生やユニコーンのファンは女の子です。でも、彼らの曲は女の子がカラオケで歌うには難しすぎるんですね。そこで、同じ奥田民生が作った曲でも、女の子が気軽に歌えるPUFFYの曲の方が受けたわけです。そして三つ目の理由はファッションです。大貫亜美、吉村由美の二人は、アイドルのステージ衣装ではなく、ジーンズ、Tシャツ、スニーカーを基本としたで衣装でTV番組に出演しました。これで、ファンに、身近な存在として感じてもらうことができました。この三つの要素が、あいまって、パフィは、同世代の女性を中心に、多くの人達から、一気に支持を集めることになります」。

1996年7月に発売した、PUFFYの1stアルバム『amiyumi』は、セールスチャート最高位3位、約89万枚の売上を記録。
奇妙来天烈な歌詞と、のほほんとした雰囲気が受け入れられ、一気にブレイクしたPUFFYは、1stアルバムの発売とほぼ同じ頃に、その年の秋に発売が予定されていた2ndシングルの制作に取り組みます。
「2ndシングルは作詞・作曲、そしてプロデュースまで全てを奥田民生独りがやることになりました。資生堂のCMタイアップ曲になることが決まっていたので、彼には、そのことだけを伝えて、他の注文はせず、全て任せることにしたんです。僕らは、彼がどんな曲を作ってくるのか、楽しみにしていました」。

「しばらくして、奥田民生は、ビートルズを意識した楽曲を作ってきました。もともと彼は、ビートルズをリスペクトしていたし、この曲を聴いた人達が「古き良き時代を思い出してくれれば」という思いで作った、と言うんです。だから、曲を聴いた人に懐かしさを感じてもらえるように、レコーディングも、敢えてモノラル録音です。
さらに、曲のタイトルにも、ちょっとした仕掛けが加えられました。曲のタイトルに含まれる漢字3文字、「私」「生」「道」、この三つを続けて音読みすると、CMタイアップのスポンサー名、“しせいどう”となるわけです。こんな遊び心満載の曲を作れるのも、奥田民生ならではです」。

こうして1996年10月、資生堂の化粧品ブランド「ティセラ」のCMソングに起用されたPUUFYの2ndシングル「これが私の生きる道」は、発売されます

1996年10月に発売された、PUFFYの2ndシングル「これが私の生きる道」は、セールスチャート最高位1位、約156万万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。また、翌1997年、春の選抜高校野球大会の入場行進曲にも選ばれました。

「話題先行の1stシングルはミリオンセラーを記録し、単なる一発屋で終わることはできない、というプレッシャーの中で生まれたこの曲は、PUFFYの二人が、奥田民生、そして僕らスタッフがデビュー当時目指していた日本のROCK、J-POPのアイドル的存在として認知される、二人の代表曲になったのではないでしょうか」。
最後に、廣瀬さんはこう応えてくれました。

しっかりした音楽戦略と、たっぷりの遊び心が、時代を象徴するJ-POPの名曲を生み出した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Tragedy(白夜のトラジディ)/ハノイ・ロックス
M2.アジアの純真/PUFFY
M3.とくするからだ/PUFFY
M4.これが私の生きる道/PUFFY


2010年4月 2日
「森本ケンタ/おしえてダディ」

131回目の今日お届けしたのは、「森本ケンタ/おしえてダディ」でした

「僕は、小学生の時、ユースオーケストラでバイオリンを弾いていたんです。でも、中学2年になったある日、なぜか突然歌を歌いたくなって、バイオリンを辞め、その代わりにギターを弾くようになったんです。バイオリンを弾きながら歌は歌えないけど、ギターなら弾きながらでも歌が歌えますから」。
クラシックの世界から、ポピュラーミュージックの世界に移ったキッカケについて、森本ケンタさんご本人は、当時をこう振り返ります。
1985年5月、兵庫県神戸市に生まれた森本ケンタは、幼い頃から、竹内まりや、荒井由実、松山千春、そして和田アキ子などの音楽を聴いていた母親の影響で、自然と歌を口ずさむようになります。「バイオリンを弾いていたので、外ではクラシックばかりを聴く生活でしたが、自分の頭の中には、ポップスを歌っている母親の姿が強く印象に残っているんです。僕が、突然歌を歌いたくなったのも、間違いなく母親の影響ですね」。

ギターを弾き、歌を歌うことに夢中になった森本ケンタは、高校進学後に、休みを利用して訪れた広島で、自分の進むべき道を見つけます。
「小学生の時、修学旅行で広島を訪れ、平和記念資料館を見学する機会があったんです。その時は、展示してある資料を見て、子供心に恐怖心を感じたんです。しかし、高校生になって、改めて平和記念資料館を訪れた時、今度は恐怖心ではなく、「大切な家族のために、自分は何ができるんだろうか」という、家族のことを想う気持ちが湧いてきたんです。
その後、色々と考える中で、自分は将来、歌手になって、家族を想う気持ちを歌詞に書き、多くの人達に、自分の想いを、メッセージとして届けることができるようになれば。そう思うようになったんです」

2004年、高校を卒業した森本ケンタは、本格的に歌手としての活動をスタートさせるために、自分が歌手になる決意を固めた地、広島に移り住みます。
「広島に移り住み、より多くの人達に、自分の歌を聴いてもらうために、最初に取り組んだのが、学校ライブでした。学校という場所で、生徒さんや先生、そして親御さんに揃って歌を聴いてもらい、何かを感じてもらいたい。僕の歌を、親子で、そして先生と生徒が一緒に聴くことで、コミュニケーションが生まれるキッカケになってもらえれば。そんな思いで始めたんです」。そして、翌2005年、学校ライブや、イベント出演など少しずつ活動の場が広がりつつあった森本ケンタの下へ、ひとつのチャンスが舞い込みます。

「学校ライブの回数も少しずつ増えて、多くの人達に存在感を知ってもらえるようになってきた9月のある日、フレスタモール「カジル横川」のテナント会のスタッフの方から、「カジル横川」のイベントスペースで、毎月ライブをやってもらえないだろうか」という話を頂いたんです。マンスリーライブを始めた当初は、20人ぐらいしかいなかったお客さんも、ライブを積み重ねるごとに増えていって、それと同時に、ライブを観た人達が、口コミで僕の音楽を、周りの人達に伝えていってくれたんです。僕にとっては、決して、忘れることのできない、音楽活動の原点とも言える場所が生まれたんです」。

こうして、広島で森本ケンタの歌の輪が少しづつ広がる中、2005年10月、森本ケンタは、自身初のシングル「スマイル」をリリースします。
「CDデビューは、あくまで、“歌に、家族を想う気持ちを込めて、多くの人々に届ける”という目標を達成するためのスタートライン」だという森本ケンタ。CDリリース後も、学校ライブを始め、イベントでのライブ活動を積み重ねていき、CDも1年に1枚のペースでリリースしていきます。
そして、昨年、森本ケンタにとって、もうひとつの出会いが巡ってきます。
「フレスタがスーパーマーケットとして第1号店を開業して、今年50周年。来年には、会社設立60周年を迎えることから、“これまで育ててくれた地域の方への恩返しをする”という観点から、社内にプロジェクトチームを立ち上げ、“形あるものを残す”をテーマに、社外向けの記念事業として、愛唱歌を作ることにしたんです。そこで、白羽の矢を立てたのが、森本ケンタさんでした」。歌の制作を企画した、フレスタマーケティング部の西名さんは、こう話します。
「2009年の2月に、社内で、森本さんにライブをしてもらった時、彼がこう言ったんです。「僕の夢は、似島学園の子供達に、お腹いっぱい焼肉を食べさせてあげることです」って。 後で、森本さんから詳しく話を聞くと、彼は、広島に来て間もない頃から、知人を介して知り合った、児童養護施設「似島学園」の子供達と交流を持ち、ボランティア活動を行っていたそうなんですね。そんなことから、常に似島学園の子供達の事を考えている、って言うんです。この言葉に、私を含め、プロジェクトチームのメンバーは共感すると同時に、「彼なら、誰もから愛される歌を作ってもらえるのでは」と思い、曲作りを御願いしたんです」。

2009年8月、「未来の子どもたちへのメッセージ」をテーマに、社内公募で集められた約50通余りの作文をモチーフに、森本ケンタは、曲作りに取り組みます。
「初めは、僕でいいんだろうかという想いもありました。ところが、集められた作文を読んでいく内に、大人達はみんな、子供達の将来(未来)の事を心配しているのが分かったんです。形は違うけど、僕も学校ライブなどを通して、家族や親子のコミュニケーションを図るためのひとつとして、歌にメッセージを込めて歌っています。だったら、僕が、この歌を作って、歌えば、その想いがもっと広がっていくのでは、と考えたんです」

「歌詞には、何もかもが目まぐるしく変わっていく今の時代。昔と違って、今は、父親が、子供達に、物が持っている本当の良さ、空気感、匂いなどを教えてあげるチャンスが少ないと思うんです。子供達も、父親から色々な事を教えてもらう機会が減っています。でも、それじゃいけません。「教えて欲しい」という子供達の願いを感じとって、親は、本物の良さを伝えていかないといけない。その伝えることを通して、親子関係の接点を見つけて欲しい。そんな願いを込めて曲を書きました」。
森本ケンタさんは、こう語ります。
「“真っ白な、君のキャンバス”という歌詞は、子供達の未来は、真っ白なキャンバスと一緒で、父親から色々な本物の良さを教えてもらうことで、色んな色が描かれていくものだということを表しています。クレヨンの使い方、つまり人生、未来の描き方を、父親から教えて欲しいという、子供からの願いも込めています」。
こうして、バックコーラスには一般から選ばれた10名の子供達が参加。地元企業と、地元アーティスト、地域の子供達が共同で作った、シングル「おしえてダディ」は、Bimi Smileブランド初のCDとして、いよいよ4月3日、発売されます。

いよいよ、4月3日発売される、フレスタと森本ケンタ共同プロデュースシングル「おしえてダディ」。
「僕は、この歌が、日本中の親子達の下に届いて、聴いてもらって、親子の共通の話題になってくれればと思っています。
また、多くの学校で子供達に歌ってもらい、学校から育っていくような歌になってもらえればと思っています」。
最後に、森本ケンタさんはこう話してくれました。

「似島学園」の子供たちへの想いが、未来を築く、親子の絆の歌として実を結んだ瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.あの鐘を鳴らすのはあなた/和田アキ子
M2.スマイル/森本ケンタ
M3.おしえてダディ/森本ケンタ

2010年3月26日
「サンボマスター/世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」

130回目の今日お届けしたのは、「サンボマスター/世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」でした

「俺、新しくバンドを組むから、一緒に組んでロックと心中しないか」。
2000年2月、東洋大学を卒業後、アルバイトをしながらバンド活動を続けていた山口隆は、東洋大学の音楽サークル「作詞作曲研究会JAM」の後輩・木内康史に、こう呼びかけ、ロックンロールとソウル・ミュージックを融合させた新しいバンドを結成。その数日後に、同じサークルの後輩・近藤洋一もメンバーに加わります。
「400勝投手」「泪橋」など、あれこれと思案した結果、3人はバンド名を「サンボマスター」と名乗ることを決め、結成から3カ月後の2000年4月、東京・高円寺のライブハウス「Showboat」で、初ライブを行います。

およそ30人が集まった初ライブを終えたサンボマスターは、6月に東京・渋谷のライブハウス「渋谷ラママ」で自主企画ライブを実施。その後は都内のライブハウスで月に3〜4本のペースでライブ活動を行います。
翌2001年4月、後にスキマスイッチを結成する常田真太郎がエンジニアを担当した、自主制作CD『キックの鬼』を300枚限定で発売。そして、翌5月、サンボマスターは、あるバンドと運命的な出会いを果たします。
「自分達のデモテープを持って、当時大好きだったハードコアパンクバンド「QP-CRAZY」に会いに行ったんです。後日、ライブハウスの関係者を通して、QP-CRAZYから音楽イベントへの出演依頼があり、そのイベントで出会ったのが、パンクロックバンドの「オナニーマシーン」でした」。サンボマスターは、彼らと意気投合、その後、彼らのイベントライブにゲスト出演するようになります。さらに、ソニーレコードから、彼らと一緒にアルバムを作ることを提案されます。こうして2003年7月、サンボマスターはオナニーマシーンと一緒に作ったアルバム『放課後の性春』を発売、同じ月に「FUJI ROCK FESTIVAL’03」にも出演します。そして、ライブでのパフォーマンスを評価されたサンボマスターは、12月に、1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』を発売します。

2003年12月、サンボマスターが発売した1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』。
「アルバム『放課後の性春』を発売した後、表現者の欲求として、自分達のアルバムを出したいという気持ちを抱くようになったんです。ただ、僕らは、サンボマスターとしてのアルバムを発売しても売れないないだろうと思っていたんです。ところが、ソニーの林さんという方が、「君たちはいい音楽をやっているから、フルアルバムを作ってもいいよ」と言ってくれ、軽い気持ちで、アルバムを作ったんです」。メンバーの山口隆は、当時についてバンドのヒストリーを語った本「サンボマスターは世界を変える」の中で、こう答えています。

ソウル、ロックを基調に、山口の熱い想いを込め作ったサンボマスターの1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』は、発売後じわじわとセールスを伸ばし、あわせてライブの動員も増え続け、3カ月で約60本行ったライブツアー後半には、全国各地でソールドアウトが続出。山口の狂気じみた渾身のボーカルと、彼らのソウル魂が炸裂するファンク・サウンドは、たくさんの音楽関係者から絶賛されるようになっていきます。さらに、サンボマスターは2004年に入ると、自分達の音楽活動に加えて、ユニット「コザック前田と泉谷しげる」や、YO-KINGのバックバンドを務めるなど、幅広い音楽活動を展開。7月には、劇団・大人計画を率いる松尾スズキが監督を務めた映画『恋の門』の主題歌に起用された、2ndシングル「月に咲く花のようになるの」を発売します。

2004年7月に、2ndシングル「月に咲く花のようになるの」を発売したサンボマスターは、その勢いで「FUJI ROCK FESTIVAL’04」「ライジングサン」「ROCK IN JAPAN FES」などの野外音楽イベントに相次いで出演。若手ロックバンドとしての地位を、着実に築いていきます。
その後、2005年1月に2ndアルバム『サンボマスターは君に語りかける』を発売したサンボマスターの下へ、その年の夏に、フジテレビ系で放送が予定されていた、連続ドラマへの主題歌提供の話が舞い込みます。
「主題歌提供の話を貰った時、最初は少し抵抗感を感じていました。俺たちはロックンロールをやりたくて仕方ないのに、タイアップ曲になると、短い制限された時間の中で、俺達の音楽を初めて聴いた人の耳も、こっちに振り向かせないといけない。そもそも、ロックンロールは、時間で縛るものではなく、音を聴いた瞬間に、聴いた人達の心の中に、魂がぶわーって押し寄せてくるもんだと思っていたんです」。
「それから、番組内容の特性上、僕らにもオタクのイメージがつくのでは、という心配もありました。しかし、時間が経つにつれて、オタクのイメージがついたって、構わない。そんな事を思っている人たちのために、ロックンロールをやらない方が、ロックじゃない。そんな葛藤を持ちながら、曲を作っていったんです」。
「僕らは、一発録りが基本なんです。3ピースバンドでやっている以上、3人で一緒に音を出した方が分かりやすいし、一番いい形で出せる。レコーディングする時、10回演奏したら10回興奮が起きるぐらいに、ライブにいつ出してもおかしくないぐらいやらないと、やりたくないんです。レコーディングもライブと同じ感覚ですね。歌詞は、スタジオでみんなで演奏している時に、ワーッと出てくる言葉を歌詞に書いていきます。文章として成立していない部分も多いけど、自然と口に出てきた言葉をそのまま歌詞にしているケースがほとんどです」。

こうして、2005年7月にスタートした、フジテレビ系ドラマ「電車男」の主題歌に起用された、サンボマスター5枚目のシングル「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、8月に発売されます。
2005年8月にリリースされた、サンボマスター5枚目のシングル「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、セールスチャート最高位7位、約半年近くに渡ってセールスチャートにランクインし続けます。
「この曲は、自分としてはやらなくちゃいけない曲だと思って作ったんです。自分のテーマでもある“日本語ロック”と、番組作品の特性から「山口くんもオタクなの」と思われるかもしれなかったけど、ロックンロールとして差別をしたくなかった。たとえ秋葉原で寝っ転がってでも、コミュニケーションとしてのロックンロールをやろうと思って作ったんです」。
曲を作った、山口隆はこの曲に関して、後のインタビューでこう応えています。

葛藤の中から、自分達の音楽を表現することを貫いた、日本のロックの名曲が誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.20th Century Boy/T.REX
M2.そのぬくもりに用がある/サンボマスター
M3.月に咲く花のようになるの/サンボマスター
M4.世界はそれを愛と呼ぶんだぜ/サンボマスター

2010年3月19日
「アンジェラ・アキ/手紙〜拝啓 十五の君へ〜」

129回目の今日お届けしたのは、「アンジェラ・アキ/手紙〜拝啓 十五の君へ〜」でした

「彼女の歌声を、初めて聴いたのは2004年でした。関係者が送ってきた、1本のデモテープを聴いて、僕はまず、彼女の歌声に惚れたんです。その直後、東京・南青山のライブハウス「マンダラ」へ彼女のライブを観に行ったんですが、ピアノの弾き語りで優しく歌う彼女からは、何とも言えない必死さが感じられました」
アンジェラ・アキとの出会いについて、担当ディレクターを務める比留間さんはこう振り返ります。

1977年9月、日本人の父親とイタリア系アメリカ人の母親との間に、生まれたアンジェラ・アキは、小学校までを徳島で過ごし、中学時代は岡山、高校からはハワイ、大学はアメリカ・ワシントンにあるジョージ・ワシントン大学へ進学します。
1997年、アンジェラ・アキは、サラ・マクラクランの学園祭ライブを観たことをキッカケに、自らもシンガーソングライターとしての道を歩むことを決意。アルバイトの傍らで、ジャズピアノを学び、クラブやライブハウスに出演しながら、デモテープを作っていきます。
2001年、アンジェラ・アキが作った曲が、日本の音楽関係者の耳に留まり、彼女の曲はヤクルトのCMソングに起用されます。それを機会に、彼女は日本で本格的に音楽活動を行うために、帰国するのでした。

「彼女の歌声、そして必死に“伝えよう”とする才能。この2点に魅力を感じた僕は、彼女と、音楽についてはもちろん、音楽以外の事についても色々と話をしました。話を重ねる毎に、彼女に感じた魅力の理由が少しづつ分かっていきました。 
およそ10年近くに渡る下積み生活、日本人とアメリカ人の両親の下に生まれた彼女にしか分からない疎外感、葛藤など、彼女自身が持っていた何とも言い難い渇望を、彼女は歌に変えて表現していたんです。リアリティ溢れる歌詞は、聴く人への共感を呼び、それがファン層の拡大へと繋がっていったんです」。
こうして、2005年3月、アンジェラ・アキはミニアルバム『ONE』でデビュー。9月に、1stシングル「HOME」をリリースします。

2005年9月、アンジェラ・アキが発売した1stシングル「HOME」。
「アンジェラ・アキの1stシングル「HOME」は、徳島、岡山、ハワイ、ワシントン、そして東京と、様々な土地で生活し、色んな人達と出会い、経験を積んできた彼女を、無条件で愛してくれた家族や、彼女自身が愛した大切な人達を思って作った曲なんです。
インストアライブで彼女がこの曲を歌い始めると、自然と人が集まって、曲を聴き終わった後には、集まった人達が次々とCDを買っていく。発売日前後の1カ月に、全国約30ヵ所でインストライブを行ったんですが、およそ3,000枚近くが、その場で売れました。歌に込められた、彼女のメッセージが、聴く人の心にダイレクトに伝わったんでしょうね」。
比留間さんは、当時をこう振り返ります。

翌2006年3月、アンジェラ・アキ3枚目のシングル「Kiss Me Good-Bye」は、ゲームソフト『ファイナルファンタジーⅫ』の挿入歌に起用され、音楽ファン以外にも、その名が知られるようになります。さらに、6月に1stアルバム『HOME』を発売。アルバム『HOME』は、セールスチャート最高位2位、約60万枚の売上を記録し、発売から1年以上もチャートにランクインし続けるロングセラーアルバムとなります。
そしてアンジェラ・アキは、12月に、デビュー前からの念願だった、ひとつの夢を実現します。
「彼女が、デビューした時に決めた最大の目標は、日本武道館で単独の弾き語りライブを実現することでした。それは、彼女が、帰国して間もない2003年9月、日本武道館で椎名林檎さんのライブを観て、「自分も絶対ここでライブをやる」と心に誓ったことでした。日本のアーティストにとって、憧れのライブ会場、日本武道館でライブを行い、多くの人に自分の歌を届ける。CDの売上よりも、お客さんの顔が直接見えるライブ会場で、歌を届けたい。それだけを願ってきた彼女にとって、日本武道館でのライブは次への大きなステップになりました」。

日本武道館史上初となる、ピアノ弾き語りライブを成功させたアンジェラ・アキは、続けて大晦日に行われたNHK紅白歌合戦にも初出場します。さらに翌2007年に入っても、精力的に楽曲制作やライブを続けていたアンジェラ・アキの下へ、楽曲提供の依頼が舞い込みます。
「その依頼は、それまで森山直太朗や、ゴスペラーズといった人達も作ってきた、NHK全国学校音楽コンクールの、2008年度中学生の部の課題曲を作って欲しい、という内容でした。1stシングル「HOME」以降ずっと、自分の実体験をテーマに、自分が歌う曲だけを作ってきたアンジェラ・アキにとって、他の人が歌う曲を作るのは初めての経験で、おまけに歌うのは中学生。どう作るべきなのか、彼女は迷いながらも、チャレンジすることを決めたんです」。

「NHKからは、“そして未来へ”というテーマに添って、曲を作ることを要望されました。しかし、アンジェラ・アキは、そのテーマは、中学生にとっては壮大過ぎると感じていて、「一体どんな曲にしたらいいんだろう」と、迷っていました。そんなときに彼女は30歳の誕生日を迎えたんです。その彼女へ、母親からの一通の封筒が届きます。中に入っていたのは、15歳のアンジェラ・アキが、「30歳の自分へ」宛てた手紙でした。彼女の母親が、大切に保管し、アンジェラ・アキ30歳の誕生日に合わせて送ってくれたんです。この運命的とも言える出来事に、アンジェラ・アキは驚くと同時に、15歳の自分が書いた手紙を何度も読み返し、その内容をヒントに歌詞を書き、曲を作っていったんです」。

15歳のアンジェラ・アキが感じていた、不安な日々を書いた手紙を読んだ30歳のアンジェラ・アキは、不安や心配をずっと持ち続けるのではなく、「その不安を自分が素直に受け入れることで、何事も一歩前へ進んでいく」というメッセージに置き換え、歌詞を書いていきます。
こうして、アンジェラ・アキ8枚目のシングル「手紙〜拝啓 十五の君へ〜」は、2008年9月に発売されます。
2008年9月に発売された、アンジェラ・アキの8枚目のシングル「手紙〜拝啓 十五の君へ〜」は、セールスチャート初登場3位を記録、半年以上もセールスチャートにランクインし続けます。
「彼女自身、常々「この曲はみんなが育てた曲です」と言っています。学校音楽コンクールの課題曲として生まれた曲が、全国の中学生はもちろん、NHK『みんなのうた』でも流れ、さらにはTVのCMソングや、阪神淡路大震災の慰霊祭でも歌われ、幅広い世代の多くの人々によって歌い継がれてきました。この曲を聴き、歌った人達が、また別の場所で歌い、その輪が草の根のようにどんどんと拡がっていく。彼女自身の力もありますが、多くの人達が歌って育ててきてくれたから、曲がここまで成長してきたんでしょう」。
最後に、担当ディレクターの比留間さんは、こう答えてくれました。

一人一人に歌い継がれていくことで、一つ一つ成長し続けてきた
J-POPのスタンダード・ナンバーが誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.エンジェル/サラ・マクラクラン
M2.HOME/アンジェラ・アキ
M3.手紙〜拝啓 十五の君へ〜/アンジェラ・アキ

2010年3月12日
「mihimaru GT/気分上々↑↑」

128回目の今日お届けしたのは、「mihimaru GT/気分上々↑↑」でした

「ライブ会場に来ていた彼女に「可愛いよね。歌を歌うことに興味はない?」と声を掛けたのが始まりでした。今から8年前の2002年、彼女がまだ17歳のときでした。私の誘いに、初めは戸惑っていましたが、ゆっくり話をすると、彼女は、もともと歌手志望で、色んなオーディションに応募はしていたけど、落ちてばかりで、歌手になる夢を半ば諦めかけていたって言うんです。結局、最後のチャンスだと思って、一緒にチャレンジしようということになりました」。
ボーカルのhirokoこと、阿久津博子との出会いについて、マネージャーの土子さんはこう振り返ります。

翌2003年1月、それまで作家としてSMAPやBOAなどに曲を提供していたmiyakeこと三宅光幸が、hirokoが所属する事務所に送った1本のデモテープが、今度は二人の運命を結びつけます。
「miyakeが送ってきた、ラップの曲が入ったデモテープの完成度が高かったので、仮歌を作ってhirokoに歌わせてみたんです。これがイイんですね。それで、miyakeと会いました。姿格好は今ドキの男の子だけど、音楽に対する考え方は真っ直ぐで、ひたむきなのが話をしていて伝わってきました。hirokoも、miyakeが作った歌に魅かれていましたし、miyakeもhirokoが歌う姿に惚れ込み、次々と曲を作ってきたんです。お互いに魅かれ合っていくのが分かったので、正式にユニットを結成することにしました」。
当時、BENNIE Kや、キックザカンクルーと言った、日本のHIP HOPアーティストに夢中になっていたhirokoと、洋楽のHIP HOPの虜になっていたmiyakeの二人は、こうして、ユニット「ミヒマルGT」を結成。
東京・渋谷のクラブ「渋谷ROCK WEST」を中心に、都内のクラブやストリートでライブを積み重ね、2003年6月にインディーズからアナログ盤アルバム『mihimaruGT』を発売します。
このアルバム『mihimaruGT』を、偶然TV局のスタッフが耳にした事がキッカケで、ミヒマルGTは、ユニバーサルミュージックとメジャー契約を結び、2003年7月に、シングル「約束」でメジャーデビューするのでした。

2003年5月、シングル「約束」でデビューしたミヒマルGT。
「hirokoとmiyakeの二人が、メジャーデビューするにあたって目指したのは、“HIP POP”、つまりHIP HOPとJ-POPをミックスした、ミヒマルGTならではのオリジナル音楽を完成させることでした。HIP HOP音楽に、POPSのキャッチーなメロディの要素をプラス。歌詞は、世代、性別を超え、誰もが気軽に口ずさめる親しみやすさを重視して書く。一見、簡単そうですけど、なかなかできるものではありません。二人はいつも、お互いに意見を出し合いながら、時間をかけて曲を作っていました」。
「それから、曲を主に作っているmiyakeが、いつも大切にしていたのは、「ミヒマルGTの曲を聴いた人達の欲情を、いつもそそるような曲を作りたい」という事でした。曲の、どの部分で盛り上げたり、逆にテンションを落としたりするのか。いわゆる、起承転結を、どう付けていくのが、その曲にとってベストなのか、そんなこだわりを持って作っていました」。
土子さんは、miyakeの曲作りに関して、こう教えてくれました。
hirokoとmiyakeが議論を積み重ねながら作った、ミヒマルGTの1stシングル「約束」は、二人の創作熱意も思うようには届かず、セールチャートは最高位156位という結果に終わり、自分達の音楽が正しいのか、正しくないのか、二人は悩むようになります。
「1stシングルでいきなり結果を求めるのは、二人にとっては酷な話でした。スタッフも、二人を励ましましたんですが、
しばらくの間、二人は「自分達が掲げた“HIP POP”とは、一体どんな音楽なんだろうか。演奏する自分達自身がちゃんと分かっていないといけないのに、巧く表現することができない」と悩んでいて、試行錯誤しながら曲を作っていました」。
こうして1stシングル「約束」の発売から、およそ9ヵ月が経った翌2004年4月、hirokoとmiyakeの二人が悩み抜いて作った、2ndシングル「帰ろう歌」は発売されます。

デビューシングルからおよそ9ヵ月ぶりに発売されたミヒマルGTの2ndシングル「帰ろう歌」。
事務所とレコード会社は、クラシックの名曲「ボレロ」をサンプリングし、帰り道をテーマに歌詞を書いたこの曲を、学校の校内放送で流してもらおうという、「下校ソング普及キャンペーン」を展開。広島エフエムを始め、全国のラジオ局を通じて呼びかけたこのキャンペーンは、スタッフの想像以上の結果を残すことになります。
「曲の冒頭に、応募のあった学校の名前をそれぞれ収録し、そのサンプルCDを配るという企画内容でした。
企画を立てた当初は、「全国で200校も集まればいいよね」とメンバー、スタッフの間で話をしていたんですが、反響は予想以上、なんと全国から1000校を超える応募があったんです。最終的に、hirokoとmiyakeの二人は、応募のあった学校全ての名前を吹き込んだサンプルCDを作って、配布しました。サンプルCDを延々と作る作業は大変でしたけど、ミヒマルGTの名前を、全国の人達に知ってもらえる、大きなキッカケになりました」。
そんな中、2006年に入って間もなく、ボーカルのhirokoの下へ、TV-CMのモデルとしての出演オファーが届きます。合わせてそのCMソングをミヒマルGTが歌うことになりました。
「miyakeが先に作ったキャッチーなメロディに、どう歌詞を乗せるのか。二人は、何度も議論を重ね、この曲に関しては、それまでの曲とは違って、音に合わせて誰もが気持ち良くなるような、ノリで楽しめる歌詞を書いていこう、という結論になったんです。2ndシングル「帰ろう歌」以降、リリースした曲にTV番組やCMのタイアップが付いたんですが、今一つ上昇気流には乗れず、セールスチャートは、最高位が16位止まりでした。だからこそ、二人は「今度こそ、TOP10に入る曲を作ろう」という強い思いで曲を作ったんです」。

「その中で生まれたのが、語呂合わせで歌詞を書くことでした。それまでの曲は、どの曲もそれぞれテーマを作って、それに沿った形で歌詞を書いていましたけど、この曲に限っては、アッパーな曲の雰囲気を大切にし、敢えてテーマを作らず、曲を聴いた誰もが歌える、単純な歌詞を書いていったんです」。
こうして、hirokoとmiyakeも一緒に出演した「ダリヤ」ヘアカラー「パルティ」のTV-CMソング、ミヒマルGT9枚目のシングル「気分上々↑↑」は、2006年5月に発売されます

2006年5月に発売された、ミヒマルGTの9枚目のシングル「気分上々↑↑」は、セールスチャート最高位7位を記録し、その後もおよそ半年に渡ってチャートにランクインし続けます。
「CM効果や、サッカーワールドカップの日本代表応援歌にも使ってもらうなど、この曲は色んな形で多くの人達に受け入れてもらうことができ、念願のセールスチャートTOP10入りも果たすことができました。ミヒマルGTが目指す“HIP POP”がこれで完成したとは思いませんが、二人が進むべき音楽の方向性が少し見えたような気がします」。
最後に、マネージャーの土子さんは、こう答えてくれました。

二人が目指す“HIP POP”への想いが、一つ実った、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Better Days/BENNIE K
M2.約束/mihimaru GT
M3.帰ろう歌/mihimaru GT
M4.気分上々↑↑/mihimaru GT

2010年3月 5日
「YUKI/JOY」

127回目の今日お届けしたのは、「YUKI/JOY」でした

「彼女と初めて出会ったのは、確か1992年でした。当時僕は、新人を発掘するSDオーディションのスタッフで、JUDY AND MARYのライブを観る機会があったんです。エネルギッシュなJUDY AND MARYのライブは、強く印象に残りました。翌年に、僕はTVの音楽番組「VIDEO JAM」の収録スタジオで、デビュー直前のJUDY AND MARYに再会したんですが、初めて会った時と変わらないエネルギッシュさに加え、聴く人に強く伝わる力を持った彼女のボーカルに、改めて魅力を感じました」
後に、JUDY AND MARY、そしてYUKIの担当プロデューサーを務めた玉田さんは、こう振り返ります。
1992年2月、北海道で、短大に通いながらレベッカのコピーバンドのボーカルとして活躍していたYUKIと、ヘビーメタルバンド「JACKS’N’ JOCKER」のメンバーとして既にデビューしていた恩田快人の二人を中心に、バンド「JUDY AND MARY」は結成されます。その後、JUDY AND MARYは、ドラマーの五十嵐公太、ギターのTAKUYAの二人を加え、4人組バンドとして、1993年9月に、シングル「POWER OF LOVE」でデビューします。

キャッチーなメロディ、個性溢れるYUKIのボーカル。JUDY AND MARYは、1994年12月に発売した2ndアルバム『Orange Sunshine』が、セールスチャート初登場5位を記録し、一気にブレイク。さらに、1996年2月に発売したシングル「そばかす」が100万枚を超える売上を記録し、人気バンドへと成長していきます。
「JUDY AND MARYのデビュー後、しばらくして僕はエピックレコードへ異動し、1995年からJUDY AND MARYの制作チームに加わったんです。当時のYUKIは、JUDY AND MARYの曲の歌詞を書いていましたけど、あくまでバンドのボーカル、そしてバンドの広報的な役割が中心で、その役割をきっちりと果たそうとしていました」。
玉田さんは、当時についてこう振り返ります。
その後も、順調に活動を続けていたJUDY AND MARYでしたが、1999年に1年間、バンドとしての活動を休止。
YUKIは、活動休止期間中に、アメリカのロックバンド「B-52’s」のメンバーとバンド「NiNa」を結成。さらには、charaとのユニット「chara+yuki」を結成するなど、精力的に活動します。

2000年、JUDY AND MARYは活動を一度は再開しますが、翌2001年3月に、解散を発表。
 YUKIは、その年秋に、charaや、ちわきまゆみらと結成したガールズロックバンド「Mean Machine」のシングルとアルバムの発売と並行して、ソロデビューの準備にも取り掛かり、2002年2月に、シングル「the end of shite」でソロデビューします。

2002年2月、シングル「the end of shite」でソロデビューを果たしたYUKI。
「ソロデビューしたYUKIの中で大きく変わったのは、責任感です。歌詞を書くことはもちろん、音楽の方向性、ビジュアルの見せ方など、JUDY AND MARY時代は1/4の責任でよかったけど、ソロになると全部の責任を背負わなくちゃいけない。当然の事なんですが、責任感が強くなっていくことで、彼女が書く歌詞にも微妙な変化が生まれました」。

「具体的には、JUDY AND MARY時代よりも、YUKIの内面的な部分がより歌詞に描かれるようになりました。ヒットチャートを意識した曲を作って、歌詞を書くことよりも、まずは、どう自分が楽しめるのか、この点にポイントを置いてメロディを作っていました。また、彼女が感じた事をどう言葉にするのか。歌詞作りにも、彼女は常に変化を求めて、挑戦していました。レコーディング中でも、納得いかない歌詞があると、スタジオの中で歌詞を直すことも度々あったんです」。
玉田さんは、当時についてこう振り返ります。
2002年2月に、ソロデビューを果たしたYUKIは、その年だけでもシングル4枚、アルバム1枚を発売し、精力的に活動していきます。その中でも特に、11月に発売した4枚目のシングル「スタンドアップ!シスター」は、その後のYUKIの方向性を象徴する曲として、多くの女性から共感を集めることになります。
2002年11月に発売した、YUKIの4枚目のシングル「スタンドアップ!シスター」は、優しくも強く生きる一人の女性の生き様を書いた曲として、多くの女性から共感を集めます。
「この曲は、YUKIが自らを奮い立たせる意味を込めて作った曲でもあるんです。彼女自身、一人の女性として感じた、恋愛、女性の自立などの生き様を、世間と対峙する形で書いていました。女性ソロボーカリストとしてのポジショニングを、この曲で確立させようとしていたんです」。

翌2003年、YUKIは僅か2ヵ月間に2枚のシングルとアルバムを1枚発売しますが、出産のために一時活動を休止。翌2004年8月に、シングル「Home Sweet Home」でおよそ1年半ぶりに活動を再開します。
「2003年にアルバム『commune』を発売した直後に、すでに骨格を作っていた曲が1曲あったんですが、もともとこの曲は、タイアップ曲になる予定でデモテープを作ったものだったんです。ところが、曲とタイアップテーマが合わず、タイアップの話が見送りになったんです。
ただ、曲の完成度は高く、力強いエネルギーも感じていたので、「この曲は絶対に売れる」と、みんな確信していたんです」。「その確信の根拠は、YUKIが書いた歌詞でした。どんな困難に出会っても、素直に強く生きていこうとする女性の姿を描いた歌詞は、まるで人生論でした。この強いメッセージは、女性からの共感を得ることができる、そう思ったんです。
だから、この曲を発売するなら、ノンタイアップでも構わない。アルバムを発売する時に、YUKIを象徴する曲として売り出そう、という話になったんです」。
プロデューサーを務めた、玉田さんは、当時をこう振り返ります。

こうして、曲の完成から、1年近くも経った2005年1月に、9枚目のシングル「JOY」は、満を持して発売されます。

2005年1月に発売された、9枚目のシングル「JOY」。
「彼女は、JUDY AND MARY時代からずっと、どの曲も、その時彼女が持っている100%の力で、妥協せずに歌詞を書いてきました。この曲も、同じです。しかし、この曲が他の曲と違っていたのは、曲のタイトル「JOY」が表す、「喜び、幸運、成功」というポジティブなイメージと、女性の人生模様を書いた歌詞の内容がシンクロして、聴く人へ、メッセージとして巧く伝わったという点です。その結果、曲を聴いた多くの人たちが、YUKIによりいっそうの共感を覚え、彼女を代表する曲として認知させることになったんです」。
最後に、プロデューサーを務めた玉田さんは、こう答えてくれました。

個性的かつポップなソロアーティスト・YUKIの存在感を決定付けた、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.そばかす/JUDY AND MARY
M2.the end of shite/YUKI
M3.スタンドアップ!シスター/YUKI
M4.JOY/YUKI

2010年2月26日
「中 孝介/花」

126回目の今日お届けしたのは、「中 孝介/花」でした

「高校1年の時、彼は、奄美大島で開かれたクラシックコンサートで、当時、シマ唄歌手として活躍していた、元ちとせさんが歌うシマ唄を聴いて、「自分もあの唄を、口ずさめるようになりたい」と思ったそうです。それで、すぐに彼は、奄美大島在住のシマ唄の名人・坪山豊さんに弟子入りしたんです」。
レコード会社のスタッフの町原さんは、中孝介とシマ唄との出会いについてこう教えてくれました。

1980年7月、鹿児島県奄美大島 名瀬市(現在の奄美市)に生まれた中孝介は、幼い頃から姉の影響でピアノを習い始めます。その後も、中は、高校入学直後までピアノを習い続けますが、彼の心の中に漠然と芽生え始めた「人に唄を届けたい」と言う想いを叶えるために、ピアノを習うことをやめます。そして、その直後、元ちとせが歌うシマ唄の魅力に取りつかれた中は、シマ唄の名人・坪山豊さんに弟子入りし、三線を習ったり、シマ唄のカセットやCDを聴いたりして、シマ唄を自分の物にしていきます。

1998年5月、奄美大島で行われた「奄美民謡大賞」に出場した中は、努力賞を受賞。さらに、2000年に行われた「奄美民謡大賞」では、新人賞を受賞します。また、同じ2000年に行われた、「日本民謡協会」奄美連合大会では、総合優勝を飾り、中孝介の名前は、奄美大島の中で、新しいシマ唄の伝承者として知られる存在となっていきます。

その後も、シマ唄歌手として奄美大島を中心に活躍していた中孝介でしたが、今度は、「シマ唄だけじゃなく、ポップスも歌ってみたい」という気持ちが芽生え始め、シマ唄を習うことで培ってきた歌い方をポップスに取り入れた、ミニアルバムを作ります。
「シマ唄を歌い続ける中で、中は、一人のボーカリストとして、自分にしか出せないような音楽をやりたいという夢を持つようになったんです。そして、色々と考えていく中で、辿り着いたのが、ポップスでした。シマ唄を習うことで覚えた、コブシの回し方や、ビブラートのかけ方。特にコブシは、一歩間違えば演歌っぽくも聴こえる。どうすれば、その点をクリアにして、自分の持っている声を巧く活かしたアルバムが作れるのか、ずっと考えながら作っていったそうです」。
こうして2005年9月、中孝介が作った、ミニアルバム『マテリヤ』は、インディーズから発売されます

2005年9月、中孝介がインディーズから発売したミニアルバム『マテリヤ』は、全国で約7000枚のセールスを記録。
その歌唱力を認められた中孝介は、エピックレコードと契約します。

「中孝介は、どんなタイプな曲でも、まず自分の心に響く歌でないと歌えないんです。ようするにガンコというか、融通が利かないんですね。でも、ミニアルバム『マテリヤ』に収められていた楽曲「家路」を作った、シンガーソングライター江崎とし子さんの作った曲は、当時、鬼束ちひろや、中島美嘉のコーラスを担当しながら曲を作っていたこともあって、日本語をとても大事に作っていて、中自身、彼女が作った曲を気に入っていたんです。だから、「家路」と、ほぼ同じ時期に江崎さんが作っていた別の曲を聴いた時、中は、その曲に一目惚れし、「この曲を、絶対にデビュー曲にする」と決めていたんです」。レコード会社のスタッフ、町原さんは当時について、こう振り返ります。

ミニアルバム『マテリヤ』の成功で、いよいよメジャーデビューすることになった彼には、ひとつの思いがありました。
「彼にとってシマ唄は、かけがえの無い、とても大切な存在です。デビューするまで、彼が、ずっとシマ唄を歌い続けてきた理由は、彼が生まれ育った奄美大島で、長い年月をかけて育まれてきた素晴らしい音楽「シマ唄」を、これからもずっと伝えていきたい、という想いがあったからなんです。そして、そのシマ唄を大切に思う気持ちがあるからこそ、変にシマ唄を作り変えて、発信するようなことはしたくない。せっかく東京に出て、新しい音楽をやるなら、自分の声を活かした新しい歌にチャレンジしたい。彼はそう考えていました」。
こうして、中孝介は、江崎とし子さんが作った曲「それぞれに」で、2007年3月にデビューします。

2006年3月に発売した、中孝介の1stシングル「それぞれに」は、九州全県を含む、全国23局のラジオ局で、パワープレイを獲得。独特の優しい歌声で、中孝介の存在は、じわりじわりと全国に浸透していきます。
その後も、中は、6月に2ndシングル、10月にミニアルバムを発売します。さらに、11月には、日本よりも先行して台湾、香港、中国大陸でフルアルバムを発売し、なんと、台湾の音楽チャートで最高位1位を獲得。日本より一足先に、彼の人気は台湾でブレイクします。

そんな中、中孝介は、翌2007年春に発売を予定していた3枚目のシングルの楽曲制作を、森山直太朗に依頼しま
す。
「もともと中自身、デビュー前から森山直太朗さんの歌が大好きで、よく聴いていたんです。その事を知ったスタッフが、森山さんなら、優しいメロディ、そして聴く人の心に刺さる歌詞をきっと作ってくれるだろう、と考え、ダメもとで、楽曲作りをお願いしたんです」。
「すると、森山さんは意外にもスンナリOKしてくれて、直ぐに二人は直接会うことになったんです。中は、森山さんと会った時に、「自分は、奄美大島出身で、“奄美のシマ唄”という音楽を歌ってきたこと。そして今は、シマ唄ではなく、ポップスを歌っているけど、聴いている人達に、人の心の琴線に触れる歌を歌っていきたい、と伝えたんです」。

二人が、直接会ってから数日後、森山直太朗は、アコースティックギター1本で歌った、1本のデモテープを中の下に届けます。「デモテープに入っていた曲は、シンプルで優しい曲調でしたが、曲からは強さを感じることができたんです。中自身、曲を聴いた瞬間に、頭の中に自然と情景が浮かび、「これは絶対に歌いたい!」と思ったそうです。また、彼の頭の中には、曲の世界観と、彼の故郷奄美の風景がオーバーラップし、「自分は、自分らしくこの曲を歌えばいいんだ」と思ったそうです」。町原さんは、この曲ができあがってきた時のことについて、こう振り返ります。

中孝介は、森山直太朗が作った曲を自分自身のモノにするために、一度メロディを覚えた後、今度は、自分なりの解釈を曲に加ええていきます。まずは、彼の原点であるシマ唄。そのシマ歌を歌うことで身につけた、独特のコブシの回し方を。そして、デビュー曲「それぞれに」以来大切にしている、ひとつひとつの言葉のニュアンスを伝えるための歌い方。さらには声に出した時の言葉の発し方を、それぞれ、ひとつづつ、丁寧に意識して歌い込んでいきます。

こうして、森山直太朗の盟友・御徒町凧が詞を作り、森山直太朗がメロディを書いた曲「花」は、2006年11月に行われた中孝介初のワンマンライブで披露された後、翌2007年4月に3rdシングルとして発売されます。

2007年4月に発売された、中孝介3枚目のシングル「花」は、セールスチャート初登場19位を記録、さらに半年以上もセールスチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「この曲が、ロングヒット曲となった理由は、歌に込められた「優しさの中にある強さ」だと思っています。また、曲を聴く人の心境や状況によって、色々な受け取り方もされる。この曲を聴いたそれぞれの人が、それぞれの心の中でそれぞれの花を咲かせたんだと思います」。
最後に、レコード会社のスタッフの町原さんは、こう答えてくれました。

自分にしか歌えない、新しい歌を歌いたいと思い、奄美を離れたシマ唄の歌い手が
ひとつの答えに辿り着いた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ワダツミの木/元ちとせ
M2.家路/中 孝介
M3.それぞれに/中 孝介
M4.花/中 孝介

2010年2月19日
「Auqa Timez/虹」

125回目の今日お届けしたのは、「Aqua Timez/虹」でした

「2000年のある日。別のバンドを組んでいた太志が、インターネット上のバンドメンバー募集サイトに、ベースの募集告知を出したんです。その募集告知を見つけた僕はすぐに応募し、池袋で、太志と初めて会ったんです」。
Aqua TimezのメンバーでベースのOKP-STARは、太志との出会いについてこう振り返ります。

2000年、インターネットのバンドメンバー募集サイトで知り合ったボーカルの太志と、ベースのOKP-STARの二人は、すぐに、意気投合。太志はそれまで在籍していたバンドを解散し、OKP-STARと一緒に音楽活動を始めます。
2003年、太志とOKP-STARは、OKP-STARの友人で、キーボードのmayuko、ギターの大介をメンバーに加えて、バンド「Aqua Timez」を結成し、東京都内のライブハウスを中心に活動を始めていきます。

「僕はMr.Children、OKP-STARはチェッカーズ、大介はhideと言った感じで、メンバーが影響を受けた音楽は5人ともバラバラなんです。だからこそ、Aqua Timezは、特定のジャンルにこだわって音楽を作るのではなく、自分達の音楽を聴いてくれる人達が「いい音楽だね」と言ってくれるような曲を作り続けていこう、と決めて活動を始めたんです」。
Aqua Timezのメンバーの太志は、バンドを結成した時についてこう振り返ります。
2004年、Aqua Timezは、新星堂主催のバンドコンテスト「CHANCE!」関東大会で、前年に続き2年連続で最優秀賞を受賞します。さらに自主制作アルバム『悲しみの果てに灯る光』を完成させたAqua Timezは、吉祥寺、渋谷、大宮、柏など都内近郊で路上ライブを繰り返し行い、少しずつ彼らのファンを増やしていきます。

その後、自主制作シングル「いつもいっしょ」を発売したAqua Timezは、吉祥寺のCDショップ「吉祥寺DISK INN」で、マンスリーインストアライブをスタート。翌2005年8月には、インディーズからミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』を発売します。このミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』に収められた曲「等身大のラブソング」は、ポップでキャッチーなメロディと、飾り気のない言葉で綴った歌詞に、多くの若者からの共感を集め、全国のUSENやFMラジオ局にリクエストが殺到することになるのでした。
発売当初は、僅か200枚しか作っていなかったAqua Timezのミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』は、「等身大のラブソング」の評判が広がっていくとともに、アルバムの売上も急上昇、発売から半年後には、セールスチャート1位を獲得すると同時に、最終的には80万枚の売上を記録するロングヒットアルバムとなります。
「「等身大のラブソング」が、USENチャートで7週連続1位を獲得した」、という話をスタッフから聞いて、自分達が想像していた以上に、ファンの人達にAqua Timezの曲を受け入れてもらえたことが、不思議な感覚でした」。
メンバーの大介は、当時についてこう振り返ります。
そして2006年、Aqua Timezはエピックレコードと契約、4月にミニアルバム『七色の落書き』でメジャーデビューします。

「インディーズから発売したアルバムが売れて、その結果、エピックレコードと契約することができました。たくさんの人達に支持をしてもらえたことは、素直に嬉しく思いました。と同時に、自分達はまだまだ活動が短いバンドなので、色んな事にどんどんチャレンジしていきたい、と思っていました」。
メンバーの大介は、当時についてこう振り返ります。

2006年7月、Aqua Timezはアニメ映画『ブレイブ ストーリー』の主題歌として起用された1stシングル「決意の朝に」を発売。シングル「決意の朝に」は、セールスチャート最高位4位を記録すると同時に、音楽配信でも120万ダウンロードを記録するヒット曲となります。7月には、ドラマーのTASSHIが加入し5人組となったAqua Timezは、11月に2ndシングル「千の夜をこえて」とアルバム『風をあつめて』を発売。さらに、12月には、NHK紅白歌合戦に初出場を果たすのでした。

2007年11月、Aqua Timezは、ポップ、ロック、レゲエ、HIPHOPなど、さまざまなジャンルの音楽をAqua Timez流にアレンジした『ダレカの地上絵』を発売。セールスチャート発登場2位を記録します。
自分達の音楽に自信を深めたAqua Timezは、翌2008年に入って、春に発売を予定していた次のシングルの制作に取り掛かります。
「2007年にシングル、アルバムを続けて発売し、ライブも積み重ねてきたことで、自分達の音楽に自信がついてきたと同時に、創作に対する貪欲さも湧いてきたんです」。
「この曲の元々の原点は、ライブにありました。それまで、ライブで「ここで一緒に盛り上がろう」という曲はあったけど、曲の転調が目まぐるしいものが多くて、実際にライブを観に来てくれた人達が戸惑っているなぁ、と感じる部分があったんです。そこで、初めて曲を聴いた人でも、すぐに盛り上がれる「みんなが一緒になって歌える曲を作ろう」、という発想から新たな曲作りが始まったんです」。
メンバーのTASSHIは、この曲を作り始めたキッカケについてこう語ってくれました。

また、Aqua Timezの曲の大半を手掛ける太志は、この曲を作る時のことについて、こう振り返ります。
「曲を作る時に大切しているのは言葉です。メロディはもちろんですが、作詞には、毎回かなりの時間をかけています。せっかく大切に作ったメロディも、言葉を大事にしないと、全て台無しになってしまうので、いつも丁寧に言葉を紡ぐことを心掛けています。この曲も、まず初めに「大丈夫だよ」という言葉が、頭の中に浮かんで、そこから歌詞を書いていく中で、“晴れた空の下”以外のイメージを外し、書いていきました。敢えて、自分のイメージする世界を狭くすることで、自分の中にある歌詞の世界がはっきりと広がっていくような気がしたんです。悲しみと喜び、期待と不安など、日々生きていく中でのさまざまな感情や想い。そして、そこから生まれてくる、絆を大きなテーマに書いたんです」。

また、メロディについては、メンバーのTASSHIはこう語ります。
「最初、太志がサビのメロディを作ってきて、バンドのみんなが色々なアレンジに挑戦したんです。めちゃめちゃヘビーなパターンにもチャレンジしてみたけど、結局は、バンドにとって初めてとなる4つ打ちのビートに落ち着きました。でも結果的にこの4つ打ちのビートが、生演奏のグルーブ感と上手く融合して、聴く人の耳に気持ち良く伝わっていくメロディになったんです」。
こうして作られた、Aqua Timezの6枚目のシングル「虹」は、日本テレビ系ドラマ『ごくせん』の主題歌にも起用され、2008年5月に発売されます。
2008年5月に発売された、Aqua Timez6枚目のシングル「虹」は、セールスチャート最高位2位を記録。さらに、音楽配信で、初日だけで5万ダウンロード、その後も記録的なダウンロード数を数え、わずか5日間で30万ダウンロードを突破し、ソニーミュージックエンタテイメントの記録を塗り替えるヒット曲となります。
「僕達Aqua Timezのことをあまり知らない人達も、音楽フェスやイベントでこの曲のサビの部分を聴いただけで盛り上がってくれる。セットリストのどこにでも組み込むことができる、ライブでとても重宝する曲になりました。まさに、自分達が狙っていた通りの曲に仕上がり、ちゃんと聴く人の心に届いていることが嬉しいですね」。
最後に、メンバーを代表してTASSHIさんは、こう答えてくれました。

飾り気の無い言葉で綴られた歌詞が、多くの若者の共感を呼び起こした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.名もなき詩/Mr.Children
M2.等身大のラブソング/Aqua Timez
M3.小さな掌/Aqua Timez
M4.虹/Aqua Timez

2010年2月12日
「CHEMISTRY/Point of No Return」

124回目の今日お届けしたのは、「CHEMISTRY/Point of No Return」でした

「僕が二人と初めて言葉を交わしたのは、デビュー間もない、2001年6月頃、所属事務所の会議室でした。担当マネージャーになることが決まって、「初めまして。これからよろしく」と挨拶したんです。初めて言葉を交わした時に、二人とも僕の目をしっかりと見て喋ってくれ、「テレビで見る印象よりも、ずっと好青年だなぁ」と感じました」。
現在も、チーフマネージャーを務めている宮良さんは、当時についてこう振り返ります。
1978年11月、広島県高田郡八千代町に生まれた堂珍嘉邦は、地元の高校入学後、同級生とレッド ツェッペリンやMR.BIGのカバーバンド「チキンボール」を結成し、ボーカルを務めます。
一方、1979年1月、東京都葛飾区に生まれた川畑要は、中学・高校時代から人前で歌を歌うことが大好きな少年として、友達の中では、知られる存在となっていきます。

1999年10月、堂珍と川畑のふたりは、テレビ東京系のオーディションバラエティ番組『ASAYAN』が、“20世紀最後の年に、最強の男子ボーカリストをデビューさせる”をテーマに始めた、『20世紀最後 男子ボーカリストオーディション』に、それぞれ応募します。全国から、約2万人が応募したこのオーディションの地方予選を見事に突破した堂珍と川畑のふたりは、その後約1年近くに渡って行なわれた審査にも合格し、2000年12月、最終候補の4名の中に残ります。
2000年12月、4名の最終候補者によって争われることになった最後の審査は、4名の組み合わせで結成された3組のユニットが、それぞれ完全生産限定シングルを発売し、その評価を競うという企画でした。堂珍と川畑のふたりは、「ASAYAN超男子。川畑・堂珍」の名前で、シングル「最後の夜」で、仮デビューします。2人が組んだユニットは、トップの成績となる、セールスチャート最高位9位を記録。審査員からも、ボーカリストとして個々の持っている潜在能力と表現力の高さ、そしてこれからの音楽的な化学変化を期待された2人は、正式デビューが決定。ユニット名を「ケミストリー」と改
め、翌2001年3月にシングル「PIECES OF A DREAM」でデビューするのでした。

2001年3月、ケミストリーは、それまで久保田利伸や平井堅などの楽曲をプロデュースしたり、宇多田ヒカルやMISIAの音楽ブレーンも務めていた、松尾潔さんプロデュースの下、1stシングル「PIECES OF A DREAM」を発売。
「PIECES OF A DREAM」は、登場6週目にチャート1位を獲得すると、その後も10週連続でチャート5位以内をキープし続け、最終的には約113万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「松尾さんは、オーディションの途中、2000年春から審査員に加わったんです。初めは、オーディションに余り乗り気ではなかった松尾さんも、多彩な顔ぶれが揃った候補者を見て、「これは面白そうだ」とヤル気になったそうです。
最後、堂珍と川畑の二人に決まった時、松尾さんは、二人を、“日本のR&Bの新しいサウンドを提案し続けるアーティストとして育てる”、ことを目標に置きました。当時、持てはやされていたシンガーソングライターじゃなければアーティストではない、という考えを、ケミストリーの二人は変えることができるという思いで、育てることにしたそうです」。
宮良さんは、ケミストリーのデビュー当時について、こう話してくれました。

さらに、プロデューサーの松尾さんは、ケミストリーの音作りやビジュアル面において、様々なクリエイター達とケミストリーをコラボレーションさせ、二人が持っている音楽的潜在能力を引き出すことにも挑戦します。
そのひとつが、6月に発売を予定していた2ndシングルの作詞家として、広告コピーライターの麻生哲朗さんを起用することでした。
「既存の作家でなく、サントリーや富士通などの広告を手掛け、注目されつつあった広告コピーライターの麻生哲朗さんを、作詞家として起用したのも、松尾さんのアイディアでした。松尾さんは、通常の作詞家でない方にお願いすることで、ケミストリーの歌声に負けない、斬新な歌詞が生まれることを、期待していたんです」。
それまでの音楽業界の枠に当てはまらない、松尾潔のプロデュース。さらに、松尾さんは、ケミストリーをさらに覚醒させるための手段として、当時じわじわと話題を集めつつあった、HIP-HOPアーティストのケツメイシとのコラボレーションすること思いつくのでした。
「ケミストリーと同じ2001年4月に、メジャーデビューしたばかりのケツメイシを、キャスティングするアイディアを出したのは、やはりプロデューサーの松尾さんでした。当時、日本のHIP-HOP音楽シーンは、まだまだこれから、という黎明期でした。しかし松尾さんは、いち早くこれからの音楽シーンの動きをキャッチし、チャレンジしたんです。今思えば、他のアーティストとコラボレーションすることで、ケミストリーが持っていた、ポテンシャルの高さを音楽業界を始め、ファンの間にも示す狙いもあったと思います」。
「そして、この曲をキッカケに、ケミストリーはその後、ワールドカップの公式ソングを歌う企画ユニットを韓国の歌手と一緒に組んだり、川村結花やクリスタル・ケイなどともコラボレーションしていくことになったんです。
コラボレーションは、アーティスト毎に、そのアーティストなりの考え方やアプローチの違いもあって、コラボレーションする時は調整することも多いですが、デメリットはないと思っています。
むしろ、他のアーティストと一緒にクリエイティブな作業を行うこと自体が、色んな局面においてアーティスト本人達に良い影響を与えてくれる作業だと僕は思っています。アーティストにとっても、刺激的な作業ではないでしょうか」。
宮良さんは、ケミストリーと他のアーティストとのコラボレーションがもたらす影響について、こう言います。
こうして、2001年6月、その後のケミストリーの音楽活動面において、大きな影響を与えるキッカケにもなった、彼らの2ndシングル「Point of No Return」は、当時はまだ無名に近かったケツメイシとのコラボレーションバージョンも含めて、発売されるのでした。

2001年6月に発売された、ケミストリーの2ndシングル「Point of No Return」は、セールスチャート初登場1位を獲得、約70万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「ケツメイシとのコラボレーションはもちろんですが、ケミストリーの二人が、ただ単に歌が上手いだけでなく、ケミストリーのアーティストとしての音楽的側面を、グッと引き上げていった曲ですね」。
最後に、宮良さんはこう答えてくれました。

二人の音楽的可能性を覚醒するキッカケとなった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.To be With You/MR.BIG
M2.PIECES OF A DREAM/CHEMISTRY
M3.ファミリア/ケツメイシ
M4.Point of No Return(ケツメイシのremix)/CHEMISTRY

2010年2月 5日
「キマグレン/LIFE」

123回目の今日お届けしたのは、「キマグレン/LIFE」でした

「僕が二人に初めて出会ったのは、2006年の春でした。二人が、前の年、2005年から経営していた、神奈川県・逗子海岸の夏季限定のライブハウス「音霊OTODAMA SEA STUDIO」に出演するアーティストのブッキング依頼で、僕の音楽事務所にやって来たんです。
最初は、当時25歳のKUREIが、独りで事務所にやって来て、話をしたんでが、その若さでライブハウスを運営するなんて大変だろうなと、思いながら話を聞いたんです。ところが、音楽について楽しそうに話をする彼の表情は、大変なんてものとは全く違うもので、そのギャップが新鮮に映ったんです。そして、打合せが終わった帰り際に、KUREIが1本のデモテープを置いていったんです。それが、キマグレンの音源でした」。
キマグレンのプロデューサーを務める森田さんは、当時についてこう振り返ります。

1980年7月、新潟県に生まれたKUREIと、同じ年の10月に神奈川県に生まれたISEKIの二人は、それぞれ両親の転勤で引っ越しを繰り返しながら成長し、彼らが16歳になった1996年のある日、神奈川県逗子市のスイミングスクールで出会います。チャゲ&飛鳥、山下達郎など邦楽に影響を受けていたISEK、一方のKUREIは、SUGAR RAY、LINKIN PARKなど洋楽に影響を受けていましたが、二人は意気投合。それぞれ別々のバンドで活動を続けていたものの、音楽を通して友情を深め合っていきます。
2005年6月、KUREIは、「砂浜にライブハウスを建てたい」という自らの夢を実現するために、友人のISEKIを誘って、海の家兼ライブハウス「音霊OTODAMA SEA STUDIO」をオープンさせます。そして、ライブハウスのスケジュール表に、偶然あった空白の日を埋めるために、KUREIとISEKIは急遽ユニット「キマグレン」を結成するのでした。
 
「KUREIが置いていったデモテープには、3曲入っていましたが、正直、曲は全然ダメでした。音楽の基本はできていたけど、良く言えばまとまり過ぎて、個性がありませんでした。ただ、3曲目に収められていた、二人が始めて一緒に作ったという楽曲「君を忘れない」を聴いた時、僕は何か引きつけられるモノを感じたんです。
そこで、実際に「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」へ足を運び、キマグレンのライブを観たんです。デモテープ同様に、ライブの内容も酷く、音楽は全然ダメだったけど、ステージで楽しそうに演奏する二人の姿を観て、僕は「彼らは、自分達のやりたい音楽は分かっているけど、表現力が伴っていないだけかも。彼らは、「磨けば光る、ダイヤモンドの原石のような存在なのかも」と感じたんです」。キマグレンのライブを初めて生で観た時の印象について、森田さんは、こう振り返ります。
2006年夏、キマグレンの、何とも言えない魅力に取りつかれた森田さんは、その後も二人のライブを観るために「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」に、度々足を運ぶようになります。
「キマグレンのライブを数回観る内に、KUREI、ISEKIと、音楽について色々と話をするようになったんです。しばらくして、二人から、音楽に関するアドバイスを求められるようになり、夏が終わる頃には「僕らと一緒にやってもらえませんか」と打診されました。僕は二人に「全ての楽曲のプロデュースを僕に預け、曲作りに関して、僕の言うことをイチから聞いてもらえるなら」という条件を出しました。二人は、その条件に納得し、僕らは一緒に曲作りを始めたんです」。

一方、キマグレンの二人は、森田さんとの出会いについて、こう振り返ります。
「森田さんと出会ったのは、「音霊OTODAMA SEA STUDIO」を始めて数年が経ち、経営に苦しんでいた時期でした。それまでも、色々な人に出会い、裏切られてきた中で、出会ったのが森田さんでした。人を余り信用できなくなっていた時期でもあったので、この人は信用しても大丈夫なんだろうか、という不安な気持ちもありました。でも、音楽に関するアドバイスは的確だし、この人なら騙されてもいいかと思って、とにかく森田さんの指示の通りに、目の前にあることだけを集中してやろうと、曲作りに励んだんです」。

こうして2006年秋、キマグレンの二人に、森田さんを加えた三人での曲作りがスタートします。
「歌詞を書くISEKI、曲を書くKUREI。それぞれが作ってきた歌詞と曲に、さらに3人でアイディアを出しながら形にしていく作業を、1週間に1度のペースで続けていきました。二人が作ってきた歌詞と曲は、基本的には良かったけど、キマグレンとしての個性がなかったので、「もっとオリジナリティ溢れる曲を作らないといけないよ」とアドバイスしました。曲調もミディアムテンポばかりで、アップテンポの曲の必要性も伝えたんです」。
森田さんは、当時についてこう振り返ります。

2007年7月、森田さんと一緒に曲作りに取り組み、曲を完成させたキマグレンは、インディーズレーベルからミニアルバム『LIFE』を発売。ミニアルバム『LIFE』は、セールス的には振るわなかったものの、広島FMのパワープレイを獲得するなど、一部の音楽メディアから注目を集め、なかでもタワーレコードの音楽情報誌『bounce』で、高い評価を受けたことが、彼らに一つの転機をもたらします。
「『bounce』での高い評価の噂を聞きつけたレコード会社のスタッフが、その夏に逗子の「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」で行ったライブに、たくさん見に来てくれたんです。夏のライブが終わった後、数社からメジャー契約の打診があって、その中からユニバーサルシグマと契約を結びました」。
こうして、ユニバーサルシグマと契約を結んだキマグレンは、翌2008年2月、シングル「あえないウタ」でメジャーデビューします。
2008年2月、キマグレンはシングル「あえないウタ」で、メジャーデビューします。
「この曲も、僕とキマグレンが一緒になってから作った曲の一曲です。曲を作った時、曲の完成度に満足はしていたんですが、ミディアムテンポの曲だったので、ミニアルバム『LIFE』に収めるとアルバムの構成バランスがおかしくなると思ったので、敢えて収めなかったんです。メジャーデビューが決まって、レコード会社と発売スケジュールを調整する中で、「この曲をデビュー曲にしよう」という話になったんです」。

次にキマグレンは、2ndシングルとして、デビュー直前から自信を持っていたある曲を、5月にリリースすることを決めます。
「この曲は、もともと2006年の冬の初めに、キマグレンというアーティストの、名刺代わりになるような曲を作ろうという思いから作り始めた曲なんです。当時、キマグレンの二人がやっていた「音霊OTODAMA SEA STUDIO」の経営状態は、僕らが「大丈夫なんだろうか」と心配するぐらい、酷い状態でした。ところが、キマグレンの二人、そして「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」のスタッフは、そんな心配を感じさせないぐらい、毎日楽しく働いていたんです。辛い現実がある一方で、楽しいこともいっぱいある。現実と理想の葛藤に揉まれながらも、楽しく音楽を続ける彼ら自身の、日々の生活の姿を、歌詞に綴っているんです。
レコーディング中に、アレンジ面を含め何度もメロディを直し、最初と比べてサビのメロディもかなり変わりました。でも完成した時は、充実感に満ち溢れていました」。

キマグレンと森田さんの3人が、完成度に自信を持ったこの曲は、インディーズからリリースされたミニアルバム『LIFE』に収録されます。そして、メジャーデビューが決まった時、レコード会社から、「この曲をシングルとして発売したい」と提案を受けます。
「メジャーデビューが決まって、曲の発売スケジュールを決めていく中で、この曲を、キマグレンをブレイクさせる勝負の曲として捉えたんです。アップテンポのこの曲と、季節感を考えたら、2008年5月ぐらいのリリースがいいだろう、という話になりました」。

こうして2008年5月、キマグレンの2ndシングル「LIFE」は、満を持して発売されます。
2008年5月に発売された、キマグレンの2ndシングル「LIFE」。
「キマグレンの二人が曲を作る時に大切にしているのが、Life・Love・Localという3つのLが付く言葉です。
二人が、普段のライフスタイルの中でも音楽をとても大切にしている、という気持ちを、この言葉で表しているんです。
この曲は、飾らないありのままのキマグレンの姿を、的確に象徴している曲ですね」。
最後に、森田さんはこう答えてくれました。

音楽好きの二人のリアリティが、多くの若者の共感を呼び起こした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.On Your Mark/CHAGE and ASKA
M2.君を忘れない/キマグレン
M3.あえないウタ/キマグレン
M4.LIFE/キマグレン

2010年1月29日
「YUI for 雨音薫/Good-bye Days」

122回目の今日お届けしたのは、「YUI for 雨音薫/Good-bye Days」でした

「僕が彼女に初めて出会ったのは、2004年2月に行われたソニーミュージックグループのSDオーディションの最終審査会場でした。この年のSDオーディションは、全国から10万通もの応募があって、一次審査となる書類審査、二次審査を経て、東京で最終審査が行われたんです。審査会場に現れた、彼女からは、「この子は、何かをやってくれるのでは」という期待感と言うか、独特の雰囲気、存在感を感じることができました。それは、僕以外の、他のオーディションスタッフも、同じように感じていたそうです」。
後に制作担当ディレクターを務める市原さんは、当時についてこう振り返ります。
1987年3月、福岡県・糟屋郡古賀町(現在の古賀市)に生まれたYUIは、幼い頃から歌を歌うことが大好きで、カーステレオやラジオから流れてくる松任谷由実、大黒摩季の曲に合わせて、歌を口ずさんでいたと言います。そして、彼女が15歳になった頃から、その時、彼女が感じた心情を、日記代わりに詩に綴って、その綴った詩に合わせて、ギターで弾き語りをするようになります。
2002年、YUIは、偶然耳にしたアヴリル・ラヴィーンのアルバム『LET GO』から、「10代の女の子でも、こんな音楽がやれるんだ」という衝撃を受け、彼女自身も音楽の道を志すようになります。その後、YUIは地元・福岡天神のストリートミュージシャンと出会い仲良くなり、やがて、自らもストリートミュージシャンとして街角に立つようになります。さらには音楽塾に入って作詞・作曲の勉強を始め、シンガーソングライターとしての道を歩み始めます。
こうして、2004年2月、YUIは、音楽塾のスタッフの薦めもあって、ソニーミュージックグループのSDオーディションに応募するのでした。
「他の参加者は、スタンドマイクを前に歌っていたんですが、彼女は違っていました。会場の中央に歩み寄ると、いきなりあぐらをかいて座り、アコースティックギター1本の弾き語りスタイルで歌い始めたんです。それはまさに、ストリートミュージシャンスタイルでした。
それから、最終審査は、参加者が2曲ずつ歌う予定だったんですが、彼女は2曲歌った後、「どうしても、もう1曲聴いて欲しい」と言って、3曲目を歌ったんです。本当はルール違反でしたが、その場にいた審査員は、すでに、彼女から何か引きつけられるものを感じたんでしょう、彼女だけ3曲目を歌うことを認めたんです」。
後に、制作ディレクターを務める市原さんは、当時のオーディションの様子を、こう語ってくれました。

2004年春、SDオーディションに合格したYUIは、ソニーミュージックグループ内の各レーベルが争奪戦を繰り広げた後、ソニーミュージック・レコーズと契約。その年9月に上京し、レコーディングをスタート。そして、12月に、九州地区限定で、インディーズシングル「It’s happy line」をリリースした後、翌2005年2月に、シングル「feel my soul」で待望のメジャーデビューを果たします。
2005年2月に発売した、YUIの1stシングル「feel my soul」は、フジテレビ系ドラマ『不機嫌なジーン』の主題歌として起用されます。
「SDオーディションに合格した後、夏頃から、デビューに向けて本格的な曲作りが始まり、作ったデモ曲の数は数百曲を超えていました。その中の一曲が、このデビュー曲です。YUIの透明感溢れる声、もがきながらも必死に前を向いて進んでいこうとする姿を描いた歌詞。新人アーティストのデビュー曲が、いわゆる“月9”ドラマの主題歌に起用されるという、異例の扱いで発売されたこの曲は、曲を聴いたファンはもちろん、関係者の中からの数多くの反響が寄せられました」。

「YUIは、中学生時代から始めた日記代わりに詩を書くことを、ずっと続けていました。YUIは、彼女自身の身の回りで起こった出来事や、感じたことをメモにして、折に触れて読み返していたんです。それが、曲作りの中でのヒントにもなっていました。YUI自身が日々の中で感じたことが、歌詞や曲になっていく。YUIの曲は、彼女からのメッセージでもあるんです」。市原さんは、こう語ります。
2005年6月に松竹映画『HINOKIO』の主題歌として起用された、2ndシングル「Tomorrow’s way」をリリース。さらに8月には、デビューわずか半年で、野外ロックフェスティバル「ROCK IN JAPAN FES.2005」に出演するなど、YUIは、まわりの期待に後押しされる形で、シンガーソングライターとしての道を一歩づつ歩んでいきます。そして、翌2006年1月、女性シンガーソングライターYUIの存在感を多くのファンに知らしめることになる、4枚目のシングル「TOKYO」がリリースされます。

2006年1月に発売した、4枚目のシングル「TOKYO」は、YUI自身が、デビュー直前に福岡から東京へ上京する際の気持ちを綴った歌で、彼女自身がDJを務めていたFMラジオ番組『YUIのGirl’s Fight!』で、デモ音源を流したり、ライブで、彼女がアコースティックギター1本でこの曲を演奏したりしていた曲でした。そして、この曲を聴いた、ファンの間から、「この曲を発売してほしい」というリクエストが、レコード会社に殺到したことでリリースされものでした。
YUIの歌が、少しづつ、しかし、確実に多くのファンの下に届いている実感をスタッフが感じる中、2月には、1stアルバム『FROM ME TO YOU』をリリース。そして、次のシングルとして、彼女自身が主演した映画の主題歌が発売されることになります。
「もともとこの映画にYUIが主演する話は、彼女がデビューした2005年に決まっていたもので、主人公が女性シンガーソングライターということで、YUIに白羽の矢が立ったんです。演技の経験など全くなかったYUIでしたが、新しいことにチャレンジしてみたい、という前向きな彼女の気持ちで、女優業にもチャレンジすることになったんです。それで、映画撮影と並行して、曲作りも始まりました」。
「テレビドラマや、映画の主題歌を作る時は、普通台本を読んで、曲のイメージを膨らませながら作っていくパターンが多いのですが、この曲は映画の撮影が進んでいく中で、彼女自身、シンガーソングライターとしてのYUIと、映画の主人公雨音薫をシンクロさせながら、彼女が直接感じたことを、何度も何度も書き直しながら歌詞に綴って、曲を完成させていったものです」。市原さんは、こう語ってくれました。

不治の病に侵され、余命いくばくもない一人の少女が、恋した男性のために、自分が生きた証を曲に込めていくという映画『タイヨウのうた』。
「映画が公開された当初は上映される映画館の数も少なかったのですが、この曲が発売され、ヒットすると同時に映画も話題を呼び、急遽、上映する映画館を増やしたんです。その反響に、映画配給会社も驚いていました」。

こうして2006年6月、映画『タイヨウのうた』の主題歌、YUI for 雨音薫のシングル「Good-bye days」は発売されたのでした。

2006年6月に発売された、YUI for雨音薫のシングル「Good-bye days」。
「YUIの音楽的な観点から見た場合、彼女は常にどの曲であっても全力投球で作って、歌っているので、この曲だけが特別な曲という訳ではありません。ただ、映画『タイヨウのうた』が、この曲とともにヒットしたのは、この曲が持っているストレートなメッセージ性が、曲を聴いた人に伝わったからではないでしょうか」。最後に、市原さんはこう答えてくれました。

演じることと、歌うことが見事にシンクロした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.コンプリケイテッド/アヴリル・ラヴィーン
M2.feel my soul/YUI
M3.TOKYO/YUI
M4.Good-bye days/YUI for 雨音薫

2010年1月22日
「MONKEY MAJIK/Around The World」

121回目の今日お届けしたのは、「MONKEY MAJIK/Around The World」でした

「1997年に、青森県の七戸町教育委員会に、外国語指導助手として来日したカナダ出身のメイナード・プラントが、来日後に習い始めた、少林寺拳法を通じて知り合った日本人の友人と、2000年にバンドを結成し、その後、外国語指導助手仲間のカナダ人と、イギリス人を加えた4人で作ったバンドが「MONKEY MAJIK」です。
 結成当時のメンバーの一人だったイギリス人が、子供の頃にイギリスのテレビで見た『西遊記』の印象が強烈で、特に主題歌を歌っていた「ゴダイゴ」のことをずっと覚えていたんですね。それで、日本に来て、メイナードと一緒にバンドを結成することになった時、他のメンバーを説き伏せて、『西遊記』の主題歌のタイトルを、そのままバンド名にしたんです。
名付け親のイギリス人メンバーは、半年後に帰国してしまうんですが、バンドの名前と、そのもとになったゴダイゴの音楽の素晴らしさは、メンバーチェンジが繰り返されても脈々と受け継がれていきました。つまり、MONKEY MAJIKにとって、ゴダイゴは、全く新しい「Japanese Music Sense」を見せてくれた、偉大なアーティストとして、絶対的な存在なんです」。
バンド名の由来について、マネージメントスタッフの一人はこう語ってくれました。

2001年、メンバーの帰国により、2人組で活動を始めたMONKEY MAJIKでしたが、彼らが作ったデモテープが人づてに、仙台の音楽事務所の社長の手に渡り、彼らはスカウトされ、活動の場を仙台へと移すことになります。
そしてメイナードは、日本人ドラマーのtaxをメンバーに加え、さらにメイナードの弟で、ボーカル兼ギターのブレイズ・プラントをカナダから呼び寄せ、再び4人組のバンドとして活動をスタートします。
MONKEY MAJIKは、2002年5月、タワーレコード仙台店限定でミニアルバム『TIRED』を発売。仙台店のセールスチャートで6週連続1位を獲得します。ライブの集客数も安定し、少しずつ自分達の音楽に対する自信が芽生え始めたMONKEY MAJIKは、翌2003年9月、再びタワーレコード仙台店限定で1stフルアルバム『SPADE』を発売し、仙台店のセールスチャートでは13週連続1位、年間セールスチャートでも1位を獲得するのでした。

2003年9月に、タワーレコード仙台店のみでの発売されたアルバム『SPADE』でしたが、カナダ人のブラント兄弟のツインボーカル&ツインギターに、日本人二人のリズム隊が創り出す音楽は、洋楽や邦楽といった音楽の垣根を越えた新鮮さを生みだし、やがて、その人気は全国へと広がっていき、翌2004年4月にはアルバム『SPADE』が全国発売されることになります。
「MONKEY MAJIKの、日本語と英語が交じり合った独特の歌詞は、まずメンバー4人の頭の中にある世界観を共有することから、始まるんです。その後、歌に込める思いが、聴く人にきちんと伝わるかを考えながら、バランスを詰めながら書きあげていきます。メロディに、特にこだわりはなく、ロック、バラード、jazzyなものなど、とにかくジャンルにこだわらず、作っていますね」。スタッフの一人は、MONKEY MAJIKの曲の特徴についてこう話してくれました。
シンプルで耳に馴染みやすいメロディと、細やかなアレンジ、そして英語の歌詞の中に違和感なく溶け込んだ日本語の歌詞。聴く人に新鮮な驚きを与えていったMONKEY MAJIKの曲は、その後、TV・ラジオ・新聞などのメディアでも頻繁に取り上げられるようになっていきます。
「ブラント兄弟の作った曲が、注目を浴びたのは、彼らが何かひとつのことに固執するのではなく、毎回毎に、彼ら自身のステップを1つ上げる心構えで、新しいスタイルの曲作りにチャレンジしている、ポジティブな点だと思います。とにかく、
彼らは、思いついたことは、すぐに形にしたがりますね。そのスピードと対応力が、常に新しいサウンドを生んでいるのではないでしょうか」。

MONKEY MAJIKは、2005年に入ると、2月にミニアルバム『Lily』を、4月にもミニアルバム『Get Started』を立て続けに発売。9月には、2ndアルバム『eastview』を発売します。
アルバム『eastview』発売直後に、結成当時からのベーシストが脱退しますが、後任に、仙台の音楽シーンでは知られる存在だった、DICKを新たにメンバーに加え、MONKEY MAJIKは、レコード会社「エイベックス」のレーベル、binyl recordsと契約を結び、2006年1月に、メジャー1stシングル「fly」をリリースするのでした。
2006年1月に発売された、1stシングル「fly」は、広島FMを含め、全国のFM33局でパワープレイを獲得すると同時に、オンエアチャートでも4週連続で1位を獲得します。勢いに乗った、MONKEY MAJIKは、翌2月に早くも2ndシングルを発売します。
「1stシングルを作った直後の2005年秋だったでしょうか。2006年1月スタートのフジテレビ系ドラマ『西遊記』への主題歌提供の話が、MONKEY MAJIKの下へ届いたんです。曲の締切まで、余り時間の無い中での作業は、まずメイナードとブレイズの頭の中にあった曲の構想を、ドラマのストーリーの世界にシンクロさせていくことから始まりました。」

「限られた時間の中での作業でしたが、メンバー全員が思っていた曲のイメージが一致していたので、進むべき方向は一つでした。彼らは、曲の中で、『西遊記』という誰もが知っている、小説上での大きな世界観を、この曲で、本当に大きな意味での「World」として表現しようとしていました。メロディから、物語の舞台にもなっていた中国を感じてもらおうと、笛の音なども使った演出にもこだわるなど、とにかく、『西遊記』という物語を理解して、イメージの赴くままに曲を作ろうと必死でしたね」。

「カナダ人と日本人の混合バンドとして、それぞれが持っている文化や感性の違いを生かし、これまでの日本の音楽シーンにはなかった、新しいカラーを表現していきたい、というメンバーの意思を込めて作ったのがこの曲です。歌詞にもある「フミダスチカラで世界は変わるさ」「いつでも自分に負けている人は何も掴めない」等、実は歌詞の奥には、この曲を聴いてくれた人達が、ポジティブな気持ちになってくれるように、誰かを応援したいというメッセージが、たくさん込められているんです」。

こうして、2006年2月、フジテレビ系ドラマ『西遊記』の主題歌として起用された、MONKEY MAJIKにとって2ndシングルとなる「Around The World」は発売されます。

2006年2月に発売した、MONKEY MAJIKの2ndシングル「Around The World」は、セールスチャート初登場4位を記録、約25万枚のセールス売上を記録します。
「MONKEY MAJIKの2ndシングル「Around The World」がヒットしたのは、楽曲の持つ世界観と、ドラマ『西遊記』の世界観が上手くマッチしたことと、ドラマに寄り添いながらも、楽曲「Around The World」そのものに、一人歩きできるようなパワーがあったからだと思います」。
最後に、スタッフの一人はこう答えてくれました。

大きな世界観の中に込められたポジティブ感溢れる、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.モンキーマジック/ゴダイゴ
M2.すぐちかく/MONKEY MAJIK
M3.fly/MONKEY MAJIK
M4.Around The World/MONKEY MAJIK

2010年1月15日
「SEAMO/マタアイマショウ」

120回目の今日お届けしたのは、「SEAMO/マタアイマショウ」でした

「彼は、中学生の時、当時日本テレビ系で放送されていたバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のコーナー「ダンス甲子園」を見て、ダンスに夢中になり、大学進学後には、地元名古屋のダンススタジオでインストラクターをするまでになったそうです。それと同時に、ダンス音楽として聞いたM.C.ハマーやBiz Markieらにも夢中になって、HIP HOP音楽の世界に飛び込むことになったんです」。
後に、SEAMOのマネージャーを務めることになる八木さんは、当時についてこう語ります。

愛知県一宮市生まれのSEAMOこと高田尚輝は、地元の大学に進学後、ダンスのインストラクターとして活躍する一方で、20歳になった1995年からは、自ら「シーモネーター」と名乗り、インディーズで音楽活動をスタート。さらに、名古屋・東海地区の、HIP HOPアーティスト達と共に、チーム「男塾」を結成します。
「どちらかと言えば、彼は内向的で、大人しい性格の持ち主なんです。ただ、その一方で、目立ちがり屋でもあったので、一緒に活動していたHIP HOP音楽仲間と『名古屋 男尻祭り』という、音楽イベントを、2001年にスタートさせたんです」。

「彼が、シーモネーターとして活動を始めた1995年から2000年にかけて、HIP HOP音楽は、まだまだ暴力的なイメージが強い時代で、J-POPの世界での認知度は低かったんです。その状況を打破したい、という考えで彼はイベントを立ち上げたそうです」。
シーモネーターが立ちあげた音楽イベント『名古屋 男尻祭り』は、HIP HOP音楽ファンを中心に話題を呼び、シーモネーターの名前は、一躍知られる存在となっていきます。
そして翌2002年、シーモネーターは仲間のDJ TAKI-SHITと共に結成したユニット「シーモネーター& DJ TAKI-SHIT」として、ソニー・レコードと契約。5月に、Sg「浪漫ストリーム」でメジャーデビューします。

2002年5月、シーモネーター&DJ TAKI-SHITはソニー・レコードからSg「浪漫ストリーム」でデビューします。
米米クラブの「浪漫飛行」を大胆にサンプリングして作ったこの曲は、全国のラジオOAチャートでも3位を記録するヒット曲となります。その後、シーモネーターは、同郷のnobodyknows+やHOME MADE家族、さらにはBENNIE.Kなどともコラボーレーション作品をリリース。さらに、ケミストリーの楽曲Rimixも担当するなど、数々のアーティストと音楽を通して、親交を深めていきます。
しかし、シーモネーター&DJ TAKI-SHITは1枚のアルバムと3枚のシングルをリリースした後、メジャーデビューわずか1年足らずで解散。彼は再びインディーズに戻ることになります。
「2004年、再びインディーズで活動を始めた時に、僕は彼と初めて出会い、一緒に仕事をするようになったんです。
当時は、レコード会社、所属事務所も決まっていなくて、音楽活動をするにも、まさに宙ぶらりんの状態でした。そんな中で、彼が作ったのが、さだまさしさんの「関白宣言」を大胆にリメイクした曲のデモテープでした。彼と僕は、この曲を発売するために、さださんの事務所に、一緒に通って話をしたんです。レコード会社も、所属事務所も決まっていなかったんですが、「関白宣言」をリメイクすることを、さださんは快く受け入れてくれて、その後、直ぐにいくつかのレコード会社にデモテープを送ったら、BMG JAPANとの契約が決まり、さらに所属事務所も決まったんです。」
マネージャーの八木さんは、当時についてこう振り返ります。

こうして、2005年3月、シーモネーターでは伝えきれなかったことを伝えるという名目の下、シーモネーター改めSEAMOは、Sg「関白」で、再デビューします。

2005年3月、SEAMOは、さだまさしの「関白宣言」をリメイクしたSg「関白」で再デビュー。7月には、2ndSg「DRIVE」を
リリースします。「「“DRIVE”は、FMラジオ局を中心に、全国で20局以上のヘビーローテーションを獲得することができました。さらに10月には、親交が深かったBENNIE.KとのコラボレーションSg「a love story」を発売して、セールスチャート最高位14位を記録します。当然、僕らスタッフの間では、SEAMOにとって、次のシングル曲が、彼のこれからの音楽人生のポイントになると考えていました」。
マネージャーの八木さんは、当時についてこう振り返ります。

2005年12月、SEAMOは、翌2006年春に発売を予定していた4枚目のシングルのデモテープを、スタッフに聴かせます。「SEAMOが、再デビュー後にコンビを組んで曲を作っていたのは、サウンドクリエーターのGrowthで、彼とは2004年頃に、地元の名古屋のクラブで出会ったそうです。楽器を弾けないSEAMOに代わって、彼が頭の中でイメージしたメロディを、具現化するのがGrowthの役割で、まさに二人は二人三脚で曲を作っているんです。
その時、二人が持ってきたデモテープに入っていたこのラブソングには、SEAMOが、インディーズ時代に付き合っていた彼女との別れが歌詞に綴られていました。初めてデモテープを聴いた時、僕らスタッフは「こんな女々しい曲は絶対売れないよ」と思ったんです。しかし、SEAMOとGrowthの二人だけは、「絶対に売れる」と主張していました」。

「今だからこそ言える話なんですが、実はこの時、夏に発売を予定していた5枚目のSg「ルパン・ザ・ファイヤー」のデモテープも既に完成していて、スタッフは、みんな「「ルパン・ザ・ファイヤー」は売れる」と思っていたので、4枚目のこの曲に対する思い入れはあまり無かったんです。本当に申し訳ない話ですが」。
その後も、SEAMOとスタッフは、幾度となく議論を交わし、最終的にはレコード会社も納得する形で、2006年4月、この曲は発売されます。

「発売数日後のある日、SEAMOは鹿児島でDef TechやAIと一緒にライブイベントに出演したんです。当時は、Def TechやAIの人気が昇り調子の時期で、彼らのライブを観たSEAMOや僕らスタッフも「彼らには敵わない」と、その人気に圧倒されたんです。ところが、ライブが終わって数日後、FM鹿児島に、SEAMOがライブで歌ったこの曲に対するリクエストが殺到したんです。それと同時に、鹿児島市内のCDショップでは、SEAMOのCD売上が、旧譜を含め急上昇し、セールスチャートをほぼ独占する勢いとなりました。そしてその勢いは、鹿児島から北上して九州一円に広がり、さらには全国へと広がっていきました」。

「売れた原因を考えてみると、やはり、SEAMOの書く歌詞だと思います。HIP HOPミュージシャンは、どちらかと言うと、自分の姿を大きく見せるために、かなり誇張した言葉を使うケースが多いのですが、SEAMOは違っていました。彼は、常に、飾り気のない言葉遣いで歌詞を綴っていたので、聴く人がリアリティを感じてくれて、それが心に上手く響いたんではないでしょうか」

こうして、2006年4月に発売されたSEAMO4枚目のSg「マタアイマショウ」は、桜前線の北上には一足遅れるかたちで、
じっくりと全国のヒットチャートで花を咲かせるのでした。
2006年4月に発売した、SEAMO4枚目のシングル「マタアイマショウ」は、セールスチャート最高位14位、発売から約1年近くチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「SEAMOのこの曲をキッカケに、他のHIP HOPミュージシャン達も、次々とラブソングを作って、ヒットを飛ばすようになったんです。SEAMOとサウンドクリエーターGrowthの、音楽の時流を読む力と、SEAMOのリアリティのある歌詞が見事に重なり合って、聴く人の心をキャッチし、結果的にSEAMOを大きく羽ばたかせることに成功したんです」。
最後に、八木さんはこう語ってくれました。

飾らない言葉で綴った、ジャパニーズヒップホップの新しいラブソングスタイルが生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Here Comes The Hammer/M.C.Hammer
M2.浪漫ストリーム/シーモネーター&DJ TAKI‐SHIT
M3.関白/SEAMO
M4.マタアイマショウ/SEAMO

2010年1月 8日
「リクオ&忌野清志郎/胸が痛いよ」

119回目の今日お届けしたのは、「リクオ&忌野清志郎/胸が痛いよ」でした

「元々、小さい頃から音楽、特に歌謡曲が大好きだったんです。小学生の頃からピアノを習い始め、高校に進学すると同時に軽音楽部に入部し、バンド活動を始めました。その後、関西大学に進学したんですが、大学3年生の頃には、あまり悩む事もなく、就職せずにプロのミュージシャンを目指すことを自分の中で、はっきりと決めていました」
音楽の道を志すキッカケについて、リクオさんはこう振り返ります。

大学を卒業したリクオは、関西を中心にバンド活動を本格化していきます。「自分が成長していく中で、邦楽、洋楽を問わず、色んな音楽を聴くようになっていましたが、僕にとって一番影響を受けた人物は、忌野清志郎さんでした。RCサクセション直撃世代の僕は、常に少数派であることを恐れず、自分の感性を信じ、自分の多面性に対しても素直で、ユーモアを大切にする、清志郎さんの生き方に、まず大きな影響を受けました。そして、歌唱法においても、日本語の響きやリズム、語尾を大切にする姿勢など、忌野清志郎さんを通して学ぶことがたくさんありました」。
1990年、リクオはイーストウエスト・ジャパンと念願のメジャー契約を結び、11月にミニアルバム『本当のこと』でデビューします。
「デビュー当時は、それまで身を置いたことのなかった、中央の音楽業界システムや、業界人と言われる人達との付き合いに随分と違和感を持ちましたけど、自分の中で、特に音楽の方向性を決めたりすることなく、アマチュア時代からと同じ、シンガーソングライターという立ち位置で、歌心とアコースティックな響きを大切にした表現を心がけたんです」。
ニューオリンズピアノ、R&B、ブルース、ジャズ等に影響を受けた、リクオのグルーヴィーなピアノスタイルと、ソウルフルなボーカルは、世代・ジャンルを超えて、多くの音楽ファンはもちろん、ミュージシャン仲間からも支持を集めるようになっていきます。
こうして、リクオは、シンガーソングライターとしての活動だけに留まらず、友部正人、有山じゅんじ、真心ブラザースなどのツアーや、レコーディングにも、キーボードプレーヤーとして参加。セッションミュージシャンとしての活躍の場も広げていきます。そんな中、リクオが出会った、ミュージシャンの中に、彼にとって憧れの存在、忌野清志郎がいました。

「デビューミニアルバムをプロデュースしてくれたのが、元RCサクセションのサポートミュージシャンだった梅津和時さんだったことと、僕のマネージャーが忌野清志郎さんの元スタッフだったこともあって、デビュー間もない頃、僕が友部正人さんのライブに、チャボさんと一緒にゲスト出演した際、清志郎さんがライブを観に来てくれたんです。その後、清志郎さんとセッションしたり、曲を作ったりすることになるわけです」。
「僕に音楽面や生き方において大きな影響を与えた、憧れの忌野清志郎さんは、僕が想像していた以上に、チャーミングで、子どもみたいに悪戯が好きで、えらそぶることが全然ない、シャイだけれどオープンな心を持った人でした。そんな清志郎さんが作った音楽、存在感はやっぱり圧倒的でした」。
1991年6月、リクオは、セッションミュージシャンとして全国を精力的に飛び回る合間に作った、1stアルバム『時代を変えたい』を発売します。その後も、真心ブラザース、ザ・ブルーハーツ等のレコーディングに参加したり、泉谷しげる率いるユニット「下郎」のツアーにも参加します。そして、リクオにとって憧れの存在、忌野清志郎がRCサクセション活動停止後に結成したバンド「忌野清志郎&THE 2・3’S」のツアーに、キーボードプレーヤーとして参加するチャンスに恵まれるのでした。

忌野清志郎&THE 2・3’Sツアーの合間をぬって、忌野清志郎さんは、デビューして1年足らずのリクオとも積極的に曲作りに取り組み、その中で、ある一つの曲が生まれます。
「この曲は元々は、僕が学生時代に作っていた曲がベースになっています。実は、自分の弾き語りソロライブ当日、あまりにもやるせない想いを持て余していた僕は、ライブのリハーサル時間の大半を、曲作りにあてていました。何かを心掛けたり、こだわったりという意識や余裕はなく、ただただ、自分の中にこみ上げてくる想いを言葉とメロディに託すような気持ちでいっぱいでした」。
「その時、一気に完成させた曲は、しばらく僕のライブでは重要なレパートリーになっていましたが、ある時期から、楽曲全体としては洗練さに欠けると感じて、歌うことを控えるようになりました。しかし、僕は、この曲が生まれた経緯に思い入れを感じていたし、歌い出しのフレーズも気に入っていたので、「いつかリメイクしよう」と思っていたんです。忌野清志郎さんと共作するチャンスが巡ってきた時、僕はすぐにこの曲のフレーズの一部を清志朗さんに見てもらうことを思いついたんです。曲のサビのメロディとコード、そして歌詞を忌野清志郎さんに渡すと、清志郎さんは、この歌の持つ「素直さ」「ナイーブ」な側面を十分に尊重した上で、そこに、新たな構成を加えることで、この歌を個人的な体験としてではなく、誰もが共有することができるラブソングとして、完成させてくれたんです」。
「曲が完成した当時、僕は東京に、風呂なしのボロアパートを借りていたんですが、偶然にも、そのアパートの近くに忌野清志郎さんが住んでいたんです。ある日の朝、そのアパートで寝ていたら、ドアを叩きながら「リクオ起きろ!」という叫び声がするんです。その声に目が覚めて、ドアを開けると、そこに清志郎さんが立っていました。
すると、清志郎さんは「あの曲を完成させたから」と言って、1本のカセットテープを僕に手渡すと、すぐにその場を立ち去って行きました。そのカセットテープには、清志郎さん自身が小声で歌いながらギターを弾き語る、その曲が収録されていたんです」。
完成した曲は、1992年4月に、リクオ3枚目のシングルとして、発売されます。そして、しばらくはリクオにとって大切なレパートリーとなりますが、時が経つにつれ、リクオの心の中に複雑な感情が芽生えるようになり、リクオはこの曲を歌うことを封印するようになります。
「短い期間でしたが、忌野清志郎さんと身近に接することができ、清志郎さんの存在は自分の中で増々大きなものになっていきました。それは、自分に大きな刺激と影響を与えると同時に、複雑な感情ももたらしたんです。一人のファンという関係から、同じ表現者であるという意識を持った時点で、清志郎さんに対するジェラシー、清志郎さんを乗り越えたいという思いが強くなっていったんです。その結果、自分は清志郎さんの存在から次第に距離を置くようになっていきました。
それは、自分自身の音楽を確立させたいと、もがき続ける期間の始まりでもありました。そして、清志郎さんの影響が強かったこの曲を、封印することにしたんです」。
「ところが数年前にFM802が主催したライブイベントに出演した時、「この曲を歌って欲しい」とリクエストされたんです。この曲は、実は1992年の発売当初、FM802のヘビーローテーション曲に選ばれていたんですが、発売から10数年の歳月が流れても、この曲に思い入れを持っていてくれる人がいることが自分にとっては素直に嬉しく、ありがたく思いました」
こうして、リクオが憧れの人忌野清志郎と共作した楽曲「胸が痛いよ」は、再び歌われ始めるようになるのでした。
長い封印の時を経て、再び歌い始めた「胸が痛いよ」を、リクオは今月20日に発売するアルバム『リクオ&ピアノ』でセルフカバーします。
「曲作りに向かい始めた当初の自分の気持ちを思い出させてくれる同時に、プロのミュージシャンになってから最初の節目を作ってくれた大切な曲です。今回、セルフカバーする気持ちになったのは、作った当初の当事者意識から少し離れて、この曲をクオリティの高いラブソングとして冷静に受け止めることができるようになったこと。それから、この曲を以前よりも納得できる歌唱、表現ができるようになったことが要因です。そして、何より、僕の音楽人生に多大なる影響を与えてくれた、忌野清志郎さんが亡くなられたことも、その流れの中にあります。今回のセルフカバーは、僕の、忌野清志郎さんとの18年ぶりのコラボレーションだと思っています」。
最後に、リクオさんはこう語ってくれました。

憧れのミュージシャンとのさまざまな想いを乗り越え、ラブソングの名曲が瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.時の過ぎゆくままに/リクオ
M2.トランジスタ・ラジオ/RCサクセション
M3.お兄さんの歌/忌野清志郎&THE2・3’S
M4.胸が痛いよ/リクオ&忌野清志郎

2010年1月 1日
「松平健/マツケンサンバⅡ」

118回目の今日お届けしたのは、「松平健/マツケンサンバⅡ」でした

1953年11月、愛知県豊橋市に生まれた少年・鈴木末七は、地元の高校に入学したものの、石原裕次郎に憧れ、自らも俳優を志し、高校を中退して、上京します。
1969年、劇団フジに入団した鈴木末七は、まず、芸名を松本二郎と名のり、数本のTVドラマに出演。その後、1972年に芸名を松平健と改めます。
1975年、俳優・勝新太郎のプロダクション「勝プロ」に移籍した松平健は、勝新太郎の付き人を務めながら、同じ年の1975年3月にスタートしたフジテレビ系ドラマ『座頭市物語 心中あいや節』に出演します。

1978年1月、松平健は、テレビ朝日系の時代劇『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の主役に起用されます。松平健が主演した『暴れん坊将軍』は、TV時代劇のブームと重なって話題を呼び、松平健自身も人気時代劇スターとして、一躍注目を浴びる存在となります。そんな中、1980年の夏に届いたひとつのオファーが、時代劇俳優・松平健の新たな一面にスポットライトを当てる、キッカケとなります。
「『暴れん坊将軍』の主演がキッカケで、俳優としての知名度は着実にあがり、NHKの大河ドラマを始め、時代劇の出演オファーが数々届くようになっていました。そんな1980年の夏、その年の秋から放送予定の刑事ドラマへの
出演オファーが届いたんです。時代劇ではなく、現代ドラマへの出演依頼。しかも、ドラマのプロデューサーからは、「主演としてだけでなく、せっかくだから、主題歌も歌ってみませんか」という依頼でした。
松平健自身、もともと歌を歌うことは大好きで、俳優を志していた頃、稽古の合間にポール・アンカに憧れ、彼の歌をよく聞いていたので、直ぐにOKしたんです」。
マネージャーの長田さんは、松平健が歌手としてデビューするキッカケについてこう語ります。

こうして、松平健は、1980年11月、自らが主演したテレビ朝日系ドラマ『走れ熱血刑事』の主題歌「夜明けまで」で、歌手としてもデビューします。
1980年11月に発売した、松平健の1stのシングル「夜明けまで」は、セールス的には今ひとつでしたが、『暴れん坊将軍』の主役を務め、一躍時代劇のスターとなっていた松平健が、刑事ドラマに主演したことで話題を呼ぶと同時に、一人の歌手としても、知られるようになっていきます。
翌1981年、歌手・松平健は、4月に東京・渋谷公会堂で、6月には大阪・フェスティバルホールで1stコンサートを行ないます。また、自らが主演した時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』の挿入歌を始め、CMソングなども歌うようになります。
「確か、この頃からだったと思います。松平健の舞台公演の構成が、第1部はお芝居。第2部は歌謡ショーというスタイルに変わってきたんです。そして、第2部の歌謡ショーを盛り上げるための曲として、まず作られたのが、1984年の「松健音頭」でした」。
マネージャーの長田さんは、当時についてこう振り返ります。
「その後、第2部の歌謡ショーを盛り上げるために、1987年に「松健数え歌」と「マツケンマンボ」を、さらに1989年には「松健小唄」を作ったんです。また「マツケンマンボ」からは、歌謡ショーが一番盛り上がるエンディンングで、ショーを観に来たお客さん達が、楽しい音楽を聴いて、ハッピーな気分で帰ってもらえるようにと考え、これらの曲を必ず最後に歌うことにしたんです。そして、次は何がいいだろうか、と色々考えた末に作ったのが、1992年の「マツケンサンバⅠ」でした」。
1992年に発表した、「マツケンサンバⅠ」。
「翌年、1993年の、プロサッカーJリーグ誕生を控え、サッカーの本場、ブラジルの音楽のひとつサンバを使った応援スタイルが、徐々に一般の人達にも広がっていっていた時代です。‘マツケンサンバⅠ’は、すんなりと受け入れてもらうことができました」。
しばらく歌謡ショーのエンディング曲として起用された「マツケンサンバⅠ」でしたが、1994年9月、翌10月から大阪・新歌舞伎座で予定されていた、松平健・舞台公演の打合せの席で、「マツケンサンバⅠ」のリニューアルの話が、舞台プロデューサーから、音楽担当の、作曲家・宮川彬良さんに提案されます。それまで、劇団四季や東京ディズニーランドのショーの音楽などを手掛けていた宮川彬良さんは、OSK日本歌劇団所属の作家、吉峰暁子さんが、夏の恋をテーマにA4の紙いっぱいに綴った歌詞に、軽やかなラテンのリズムを乗せ、メロディを作っていきます。

1994年10月、大阪・新歌舞伎座で行われた舞台公演「松平健・唄う絵草紙」の会場で初めて歌われたこの曲は、その後も、松平健の舞台公演には欠かせない曲となります。さらに、1999年10月、ファンからの要望に応える形で、公演会場と通信販売のみで、「マツケンサンバⅠ」が自主製作盤として発売され、この曲はカップリング曲として収録されます。
その後も、ファンの間で密かな話題を呼び、松平健の舞台で実際にこの歌を耳にした人が、ラジオ番組へリクエストしたり、松平健自身がTVの歌番組に出演した際に、この歌を歌うなどして、じわじわと、この曲の存在が音楽関係者はもちろん、ファンの間に浸透していきます。

「新宿コマ劇場や、福岡・博多座で行われていた、松平健の舞台公演のフィナーレで必ず歌われていたこの歌は、総勢50名を超えるきらびやかなダンサーをバックに、松平健が華麗に歌うもので、その派手なステージは観た人達の間で話題となり、TVのワイドショー他、様々なメディアでも取り上げられるようになっていきました。
 そこで、僕ら事務所のスタッフは、マツケンサンバを自主製作盤としてではなく、メジャー発売できないだろうかと考えました。ただ、単なるCDとして発売しても、面白くないので、ファンの人達にも喜んでもらえるようにと、松平健が実際に歌ったステージの模様を収めたDVDと合わせて発売することを考えました。
振付師の真島茂樹さんが考えた、この曲の振りを観た人達が、みんな楽しそうに帰って行くのを僕らは知っていたので、踊りのDVDと合わせて一緒に発売したら、絶対に売れると思い、直ぐに、数社のレコード会社に打診したんですがほとんどのレコード会社から断られ、唯一話に乗ってくれたのが、ジェネオン・ユニバーサルでした」。

こうして、曲が生まれてから10年後の2004年7月、松平健の「マツケンサンバⅡ」は、発売されます

2004年7月に発売された、「マツケンサンバⅡ」はセールスチャート最高位3位を記録、さらにこの年の大晦日に行われた、日本レコード大賞の特別賞を受賞します。また、松平健は第55回NHK紅白歌合戦にも出場します。
「この曲がキッカケで、松平健のファン層が広がって、新宿コマ劇場には、彼の舞台を観るために、若い人達も大勢訪れるようになったんです。
松平健自身も、俳優としてひと皮も、ふた皮も剥け、時代劇スターとしてだけではなく、俳優、歌手としての存在感を増すことができました」。
最後に、長田さんはこう語ってくれました。

ショーをいかに盛上げるかを考えたスタッフたちのアイデアが、J-POPきってのファンキーナンバーを生み出した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.マイ・ウェイ/ポール・アンカ
M2.夜明けまで/松平健
M3.マツケンサンバⅠ/松平健
M4.マツケンサンバⅡ/松平健

2009年12月25日
「稲垣潤一/クリスマスキャロルの頃には」

117回目の今日お届けしたのは、「稲垣潤一/クリスマスキャロルの頃には」でした

「小学生の時に初めて聴いた、ビートルズ。歌詞の内容は分からなかったけど、とにかくカッコ良かった。自分も歌手になろう、と決めたのはその頃です。そして、中学に進学して、友達とバンドを組んで、僕はドラムとボーカルを担当することになったんです」。音楽を始めた頃について、稲垣潤一さん本人はこう振り返ります。
1953年7月、宮城県仙台市に生まれた稲垣潤一は、中学校からバンド活動を始め、高校を卒業した1972年の春には、地元仙台のライブハウスなどで、セミプロバンドのボーカルとして活躍するようになります。やがて稲垣潤一の存在は、東京でも知られるようになり、1975年には、神奈川県横須賀市や、東京都立川市にある米軍基地内のライブハウスやディスコでも演奏するようになります。その後、再び地元仙台を中心に音楽活動をしていた稲垣潤一のもとに、1980年夏、プロデビューの話が舞い込みます。

「仙台のライブハウスで歌っていた時、事務所とTV局のスタッフが一緒にライブを観にやって来て、僕は1本のデモテープを渡したんです。後日、そのデモテープが、レコード会社に渡って、トントン拍子にデビューの話が決まっていったんです」。レコード会社、所属事務所のスタッフは、稲垣潤一の一番の魅力、個性的でハスキーな歌声を活かすには、ロックではなく、POPナンバーを歌うのがベストだろう、と考え、彼がセミプロ時代に頻繁に歌っていた70年代の洋楽「Your Song」「We are all alone」をカバーしたデモテープを作成。改めて、彼の声の響きの良さを確認したスタッフは、“大人のJ-POPを歌う、日本のAORシンガー”という位置づけで、稲垣潤一を売り出すことを計画します。
こうして、1982年1月、稲垣潤一はシングル「雨のリグレット」でデビューします。
「“大人のJ-POP”をテーマにデビューした後、楽曲を売ることを軸に考えるのではなく、ライブを中心に僕の歌を聴いてもらおう、という話になって、デビュー直後は、僕はスタッフと一緒にワゴン車に乗って全国のライブハウスを回ったんですよ」。デビュー当時を、稲垣さんはこう振返ります。

そして、その年の10月に発売した、稲垣潤一3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」が、彼の音楽人生の新たな扉を開くキッカケとなるのでした。

1982年10月に発売した、稲垣潤一3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」は、セールチャート最高位8位、約31万枚のセールスを記録、およそ半年近くに渡ってセールチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「この曲の作詞を担当してくれた秋元康さんは、当時、ニッポン放送で放送作家として活躍し始めていた時期で、作詞家としてはまだ作品を手がけた経験が無かったんです。たまたま、事務所のスタッフが彼を知っていたので、幾つか作品を見せてもらうと、歌詞の中に他の作詞家にない言葉遣いがあって、これは使えるんじゃないかと思い、彼にお願いしたんです」。

シングル「ドラマティック・レイン」は、発売直後から、全国各地のラジオ局で頻繁にオンエアされ、稲垣潤一の人気に一気に火がつきます。
 その後、稲垣潤一はシングルは、ドラマティックレインほどのヒットにはならないものの、1年に1枚のペースで発売していったアルバムは、いずれも約20万枚近くの売上を記録、まずまずの結果を残します。
「シングルヒットは無かったけど、アルバムが毎回そこそこ売れていたし、ライブに足を運んでくれる人も増えていたので、
自分としては結果に納得していました。シングル曲は、アルバムを象徴する、名刺代わりのような曲と割り切って作っていたんです」。

1985年春、稲垣潤一の次のアルバムの楽曲候補曲の中にあった、秋元康が作詞した曲が、再び彼の音楽人生の扉を開きます。「レコーディングスタジオで、秋元さんから歌詞が送られてくるのを待っていたら、FAXで一枚の歌詞が届いたんです。でも、そのFAXに書かれた歌詞とメロディを合わせてみたら、言葉がうまくはまらなかったので、これはおかしい、と思って秋元さんに連絡しました。
「ドラマティック・レイン」の時と違って、この頃の秋元さんは、おニャン子クラブなどを手掛け、超売れっ子になって、忙しさのあまり、どうやら間違って、FAXを送ってきたみたいなんです。でも、歌詞のテーマや内容は良くできていたので、少しだけ歌詞を手直してもらって、曲として完成させ、アルバムからの先行シングルとして発売することになったんです」。
こうして1986年2月、1枚の間違いFAXから生まれた、稲垣潤一の10枚目のシングル「1ダースの言い訳」は発売されます。
1986年2月に発売された、稲垣潤一10枚目のシングル「1ダースの言い訳」は、三洋電機「SANYO CDミニコン」のCMソングにも起用され、多くの人々の記憶に、稲垣潤一の名前を刻み込みます。さらに翌1987年、稲垣潤一はその年の大晦日に行われた、第38回NHK紅白歌合戦に初出場し、さらに知名度をUPしていきます。
「知名度があがるにつれて、ライブの本数も増えて、僕を取り巻く音楽環境は随分と変わっていきました。でも僕は、“何年経っても色あせない、J-POPのスタンダードナンバーを作って歌う”というデビュー当初の自分の夢だけは、いつも心の片隅において曲作りに取り組み続けたんです」。

そんな稲垣潤一の下へ、1992年夏、ドラマの主題歌提供の話が舞い込みます。
「ちょうど、1年前に、アルバム収録曲のひとつとして集めていた曲の手直しが終わったタイミングだったんです。
曲が完成し、次は歌詞だ、と思っていた時に、ドラマ主題歌の話をいただいたんですが、話を聞いてみると、ドラマの企画スタッフに、秋元康さんも加わっていたんです。だから、ドラマのストーリーを把握している彼に作詞をお願いしました」。

「実は、秋元さんから届いた歌詞を見せてもらったとき、同じ言葉が、曲の中に8回も出てくるので、「ちょっとくどくないですか」と聞いたんですが、秋元さんは「そのくどさが、聴く人の耳に残っていいんです」と言うんです。最終的には
手直しせずに、そのまま歌詞として採用しました」。

「とにかく、この曲が、完成するのに1年もかかっていなかったら、ドラマの主題歌の話が無かったら、そして、秋元さんがドラマの企画スタッフに居なかったら、この曲は全く別の形で発表されていたと思います。偶然の重なりがあったからこそ、生まれた曲なんです」。
こうして1992年10月、TBS系ドラマ『ホーム・ワーク』の主題歌として起用された、稲垣潤一26枚目のシングル「クリスマスキャロルの頃には」がリリースされます。
1992年10月に発売された、稲垣潤一の26枚目のシングル「クリスマスキャロルの頃には」は、彼にとって初めてセールスチャート最高位1位を記録、およそ140万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「発売から17年経った今でも、この曲は、クリスマスが近づいてくると、オリジナルバージョンはもちろん、様々な形にアレンジされたバージョンが、TVやラジオから流れて、多くの人達に耳にしてもらえる。シングルチャート1位を獲ったのは嬉しかったけど、一番嬉しいのは“何年経っても色あせない、J-POPのスタンダードナンバーを歌う”という自分の夢を、この曲が叶えてくれたことです」。
最後に、稲垣さんはこう語ってくれました。

さまざまなタイミングが重なり、J-POPのクリスマススタンダードが誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.We are all alone/Boz Scaggs
M2.ドラマティック・レイン/稲垣潤一
M3.1ダースの言い訳/稲垣潤一
M4.クリスマスキャロルの頃には/稲垣潤一

2009年12月18日
「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT/世界の終わり」

116回目の今日お届けしたのは、「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT/世界の終わり」でした

1968年7月、神奈川県藤沢市に住むサラリーマン家庭に生まれたチバユウスケは、1984年春、高校進学後に、友人達とザ・モッズやルースターズのカバーバンド「ドランカー」を結成します。1988年春、明治学院大学に進学したチバユウスケは、大学内の音楽サークル「ソング・ライツ」に入部し、同級生たちと4人組バンド「ミッシェル・ガン・エレファント」を結成します。ミッシェル・ガン・エレファントは、イギリスのパンク・ロック・バンド「ザ・ダムド」や「ザ・ジャム」のカバー曲に加えて、チバが歌詞を書き、他のメンバーが曲を作ったオリジナル曲も演奏するようになります。
その後、ミッシェル・ガン・エレファントは、メンバー間の音楽性の相違からドラマーとベースが脱退、新たにドラマーのクハラカズユキ、そしてクハラの友人でベースの、ウエノコウジが加入します。
1991年4月、東京・下北沢のライブハウス「屋根裏」で初めて本格的なライブを行ったミッシェル・ガン・エレファントは、その後、下北沢や渋谷のライブハウスを中心に活動していきます。

1993年8月、ミッシェル・ガン・エレファントはライブハウス「屋根裏」の7周年記念のオムニバスCDに参加、これをキッカケにインディーズレーベル「UKプロジェクト」から声を掛けられ、11月にライブアルバム『MAXIMUM! MAXIMUM!! MAXIMUM!!』を発売します。結成直後は僅か数十人だったライブの動員も、回を重ねるごとに増え、アルバム発売記念のライブでは、およそ100人近くを集めるまで成長していきます。

翌1994年1月、ミッシェル・ガン・エレファントは、チバユウスケが敬愛するイギリスのパブロックバンド「DR.FEELGOOD」の元メンバー、ウィルコ・ジョンソン・バンドの来日ライブのフロントアクトとして、ステージに立ちます。
「高校時代からパンク・ロックに傾倒していたチバは、彼が20歳頃に、ウィルコ・ジョンソン率いるDR.FEELGOODの音楽の出会ってから、ウィルコ・ジョンソンが絶対的な存在となっていたんです。そんな憧れのミュージシャンのフロントアクトを務めたんですから、チバはもちろん、メンバー全員舞い上がっていたそうです」。
後に、バンドのマネージャーを務めた能野さんは、当時のことについてこう話してくれました。

同じ年の6月、バンドを脱退したギタリストに代わって、スタッフの紹介でアベフトシが、ミッシェル・ガン・エレファントに加入、伝説のメンバー4人がついに揃うことになります。翌1995年8月、それまで下北沢や渋谷のライブハウスを中心に活動していたミッシェル・ガン・エレファントは、初めて名古屋・大阪のライブハウスを回るツアーを行い、さらに東京・渋谷クラブクアトロで初のワンマンライブを行います。そして、そのライブを観に来ていたのが、後にマネージャーとなる能野さんでした。
「彼らのライブを初めて観た時、「なんて生意気なバンドだ」と思いました。当時も、メンバー全員スーツでビシッと決め、韋駄天のように繰り出す8ビートナンバーで、ライブに詰めかけたオーディエンスを圧倒していた姿が強く記憶に残っています」。能野さんは、当時についてこう振り返ります。
能野さんは、ミッシェル・ガン・エレファントのライブを初めて観た翌日、直ぐにメンバーに連絡し、マネージメント契約を結びます。さらに、コロムビアレコード・トライアドレーベルと契約したミッシェル・ガン・エレファントは、1995年10月、インディーズレーベルから、ミニアルバム『wonder style』をリリースします。

1995年10月、ミッシェル・ガン・エレファントが発売したミニアルバム『wonder style』。TVやCMタイアップ曲重視になっていたJ-POP全盛期の時代に、聴く人をまるで追い込んでいくような、ミッシェル・ガン・エレファントの激しいロックンロールは、新鮮に映り、純然たるロックファンから支持を集めるようになっていきます。
「彼らが目指していた音楽は、何もないんです。とにかく、その時自分達がやりたいと感じた音楽を、やりたいようにやる。それだけを考えていました」。能野さんはこう語ります。
約1ヵ月に渡るロンドンでのレコーディングを終えたミッシェル・ガン・エレファントは、11月から全国8都市を回るライブハウスツアーを行います。そして、翌年に控えた、メジャーデビュー1stシングルとして、ある曲が選ばれます。
「ミッシェル・ガン・エレファントの曲のほとんどは、チバが歌詞を書き、メンバー全員でメロディを作っていくスタイルです。チバが書く歌詞は、自虐的な部分とその裏返しにある攻撃性みたいなものを、人間臭くグチャグチャにして書いているのが特徴です。歌詞を書く時は、チバ自身、常に自分と向き合って、その時感じたことを、書いていました」。
「この曲も、チバが歌詞を書いていますが、曲はミッシェル・ガン・エレファントとして作った曲ではないんです。
チバ、アベ、ウエノ、クハラのメンバーになる前に、曲としてはあったはずです。作られた時期が、いつなのかははっきりとは分かりませんが、デビューアルバムを作るためのロンドンレコーディングで、ミッシェル・ガン・エレファントの曲として完成させたんです」。
「この曲を、1stシングルとして選んだのも、その時のミッシェル・ガン・エレファントとしての意思を象徴している曲だからこそ、デビューシングルとして選んだんです。この時点で他に、1stシングルになる曲は無かったと思います」。
こうして1996年2月、ミッシェル・ガン・エレファントの1stシングル「世界の終わり」は発売されます。

1996年2月に発売された、ミッシェル・ガン・エレファントの1stシングル「世界の終わり」は、7年後の2003年11月に行われた、彼らのラストライブでは、ラストナンバーとして演奏されました。
「ミッシェル・ガン・エレファントにとって、この曲は数ある曲の中のひとつであり、ひとつの歌でしかないんです。メンバーは、その時感じた欲望のままに、やりたいようにやる、という人間誰もが持っている能動的な気持ちで、この曲を1stシングルに選び、ラストライブでも、ラストナンバーとして選んだんです。
曲に対して、特別な感情を持っている訳ではなく、この曲を聴いた人達が、この曲に対してどんな風に感じてくれたのか。それが一番大切なことだと思います」。
最後に、能野さんはこう語ってくれました。

活動期間僅か6年。日本のロックシーンを駆け抜けたバンドが残した、ロックの名曲が誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.GT400/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
M2.マシュマロ・モンスター/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
M3.世界の終わり/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

2009年12月11日
「大塚愛/PEACH」

115回目の今日お届けしたのは、「大塚愛/PEACH」でした

1982年9月、大阪市に生まれた大塚愛は、母親の勧めで4歳からクラシックピアノを習い始めます。
中学に入ると、ピアノの先生は彼女に、クラシックではなく、流行りのポップスを弾くことを提案。慣れ親しんだTVの歌番組や、ドラマの主題歌のピアノアレンジを弾くようになって、大塚愛のピアノの腕前はメキメキと上達していきます。

1997年春、地元の高校に進学した大塚愛は、ピアノの発表会で初めて作曲にチャレンジ。その曲は、ピアノの先生や友人からも高く評価されます。その後、大塚愛は、ドリームズ・カム・トゥルーやMISIAなどに憧れ、ピアノを弾くだけでなく、歌を歌うことにも興味を抱くようになっていきます。
2000年春、大阪芸術大学短期大学部保育学科に進学した大塚愛は、友人からの依頼で曲を作ったことをキッカケに、友人とユニット「Himawari」を結成し、彼女自身がボーカルを担当、音楽活動を本格化していきます。
「デビュー後、彼女の大きな財産となったのが、高校から短大にかけて、彼女がピアノの弾き語りで作った、およそ50〜60曲にものぼる曲の数々です。曲の完成度は高く、メジャーデビュー後に発表した、大塚愛の曲の原曲となっています」。
後に、レコード会社の担当ディレクターを務めた、澤村さんはこう言います。

2002年春、短大卒業と同時に自然消滅した「Himawari」でしたが、大塚愛は、自らのアーティストとしての可能性を試すために、それまで作っていた曲を収めたデモテープを、いくつかのレコード会社に送ります。
その中の一つ、エイベックスからアプローチを受けた、大塚愛は、翌2003年9月、シングル「桃ノ花ビラ」でデビューします。2003年9月、大塚愛が発売した1stシングル「桃ノ花ビラ」は、日本テレビ系ドラマ『すいか』の主題歌として起用されます。さらに、それから3ヵ月後の12月に発売した、2ndシングル「さくらんぼ」は、フジテレビ系バラエティ番組『めちゃ2イケてるっ!』のエンディングテーマ曲に起用され、発売後にじわじわとセールスチャートを上昇、チャート初登場こそ20位でしたが、発売12週目に9位を記録。さらにその後も上昇し、最高位5位、最終的には1年以上もランクインし続けるロングヒット曲となり、大塚愛の名前を広めるキッカケとなります。
「最初はスタッフの中で、「さくらんぼ」のような元気あふれる曲をデビュー曲に推す声もありました。しかし、「大塚愛は勢いでデビューして、消えていくタイプのアーティストではない。最初は、しっかりとした曲で彼女の魅力を伝えて、次に「さくらんぼ」のような楽しい曲で、新しい展開を考えていくべきだ」という声が大勢を占め、曲のリリースの順番が変更になったんです」。レコード会社の担当ディレクターを務めた、澤村さんは、デビュー当時をこう振返ります。

翌2004年、大塚愛は4枚のシングルと2枚のアルバムを発売。さらに、翌2005年に入ると、5月に発売した両A面シングル「SMILY/ビー玉」が、初めてのセールスチャート1位を獲得します。さらに、大塚愛は、この年、女優業にもチャレンジ。6月に発売されたDVDドラマ『東京フレンズ』に初出演し、瑛太や佐藤隆太、真木ようこといった新鋭の俳優たちともにメインキャストを務めます、
「女優を経験したことで音楽の幅が広がったのは間違いありません。彼女の曲は恋愛をテーマに作った曲が中心で、実体験もあれば、想像だけの曲もあると思います。色んな事を経験し、その経験を曲作りに活かしていく。例えるなら、女性漫画家ですね。自らストーリーを考え、漫画を描いていくように、歌詞を書き、次に、その歌詞が活きるような、メロディを作っていく。歌手だけじゃなく、女優を経験したことで、シンガーソングライターとしての彼女の創造力が、成長していったんです」。

2005年9月に発売された、大塚愛10枚目のシングル「プラネタリウム」は、「SMILY/ビー玉」に続いてセールスチャート最高位1位を獲得、約34万枚の売上を記録します。さらに翌2006年には、好評を集めたドラマ『東京フレンズ』の映画版にも出演し、精力的に活動します。そして翌2007年に入って間もなく、大塚愛はその年の夏に発売を予定していたシングルの制作に取り掛かります。
「彼女の曲は、同じ恋愛がテーマでも、2パターンあるのが特徴です。一つ目は、親しみやすい言葉を歌詞に綴って、同じ世代の多くの女性の心掴む、バラード曲です。感傷的に浸った内容ではなく、恋に対して前向きな気持ちで、真剣に取り組んでいる姿を描いた、曲を聴いた人達が曲に対して感情移入し、共感できるパターンです。そして、もう一つは、真面目なバラードとは逆の、明るいお遊び的な曲。歌詞も、言葉遊びをした内容が多く、このバリエーションが、彼女が、年齢、性別を超えて、多くの人達に親しみを持ってもらえる秘密だと思います」。

「この曲は、もちろん、明るいお遊び的なタイプの曲です。“ひっくり返ったハート”をテーマに、付き合いの長いカップルが頻繁に喧嘩をする、いわゆる倦怠期を迎えた時の様子を歌っている曲なんです。ハートがひっくり返ったら、桃の形や人間のお尻の形に見えますよね。その点を上手く、歌詞の中に言葉として当てはめて描いているんです」。
「逆に、両A面となったもう一方の曲のタイトルは、そのものズバリ「HEART」。こちらは揺れ動く女性の心をテーマに歌った、切ないミディアム・ナンバーに仕上がっています。両A面となった2曲が、“ひっくり返りながら”うまく結びつくように考えて作られているんです」。

こうして2007年7月、大塚愛15枚目のシングル「PEACH」は、「HEART」と両A面シングル扱いで発売されます。
2007年7月に発売された、大塚愛15枚目のシングル「PEACH」。
「切ないバラード曲を歌って、同じ世代の多くの女性から共感を集めている大塚愛ですが、その一方で、「PEACH」に代表されるように、明るくて御機嫌なPOPソングを歌えるのも、彼女の魅力の一つです。特に、両A面扱いで発売された「PEACH/HEART」は、1枚で大塚愛の魅力を両方感じることができるシングルです」。
最後に、澤村さんはこう語ってくれました。

女性シンガーソングライターとしての魅力を詰め込んだ、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.LOVE LOVE LOVE/DREAMS COME TRUE
M2.桃ノ花ビラ/大塚愛
M3.プラネタリウム/大塚愛
M4.PEACH/大塚愛

2009年12月10日
「二階堂和美/Lovers Rock」

114回目の今日お届けしたのは、「二階堂和美/Lovers Rock」でした

「小学生の頃、ピンクレディーや松田聖子さんの歌真似をしたり、TVCMを一緒に歌ったり、とにかく歌に関するあらゆることの真似をするようになったのが、歌を意識し始めたキッカケです。中学に入学した後は、姉が持っていたザ・ブルー・ハーツやレベッカ、竹内まりやなどが入ったカセットテープを聴いて、同じように真似をしていました。とにかく、20歳頃まで、真似することで、色んな物を吸収していたんです」。
自らの音楽との関わりについて、二階堂和美さん本人は当時についてこう振り返ります。

1974年、広島県大竹市のお寺の娘として生まれた二階堂和美は、物まねをキッカケに音楽と触れ合うようになります。
その後、地元の高校に進学した二階堂和美は、友人からの誘いでガンズ・アンド・ローゼズのカバーバンドに加入します。「それまでは、バンドをやりたかったんですけど、自分からやる勇気が無かったんです。だから、「ボーカルが抜けたからバンドに入らない?」と誘いを受けた時は、ガンズ・アンド・ローゼズが、一体どんな曲を歌っているかは知らないままに、二つ返事で加入することを決めたんです」。
さらに、大学に進学後も、二階堂和美は、軽音楽部に入部し、ハードロックバンドで音楽活動を続けていきます。

1995年、二階堂和美は大学の友人達と結成した5人編成のバンド「ひなげし」にボーカルとして参加。学生生活の傍らで、中国地方や、九州のライブハウスに出演します。さらに、1997年に入ると、「ひなげし」の活動に加えて、弾き語りスタイルでのソロ活動もスタートさせ、翌1998年、二階堂和美は、プロミュージシャンを夢見て上京します。
「「ひなげし」の活動中、レコード会社からデビューの誘いを受けたんです。でもその時は、バンドメンバーみんな、プロになることを考えていなかったから、断ったんです。バンドは、そのまま卒業に合わせて自然消滅。私ひとり、歌を歌い続け、卒業と同時に上京したんです」。
あてもなく、上京した二階堂和美でしたが、思わぬ形でチャンスは舞い込み、翌1999年8月に、二階堂和美はアルバム『にかたま』を発売することになるのでした。

1999年8月、二階堂和美が発売した1stアルバム『にかたま』。
「「ひなげし」時代に誘いを受けたレコード会社のスタッフから、プロモーション用のデモテープを作ってみようと誘われ、
それで作ったカセットテープが、偶然にもロックバンド「筋肉少女帯」の事務所のスタッフの目にとまったんです。ちょうど、筋肉少女帯のメンバー、内田雄一郎さんが、彼自身のレーベルを立ち上げたいと考えていた時期と重なって、内田さんプロデュースで私の作品を発売してもらえることになったんです」。
念願のアルバムを発売した二階堂和美でしたが、発売間際になって彼女自身の中で、ひとつの疑問が湧き、1stアルバムは僅か600枚をリリースしただけで廃盤となります。
「アルバムを発売し、ライブを重ね、多くの人達と知り合っていく内に、私はプロのミュージシャンとしての意識が少しずつ芽生えてきました。しかし、自分が憧れたプロに一歩一歩近づくにつれて、自分のやりたい音楽とのギャップが大きくなっていったんです。『にかたま』の音質に対する自分のこだわりと、現実とのギャップに納得ができなくなって、その後の契約も全て白紙に戻して、改めて自分のペースで、自分のやりたい音楽を探すことに決めたんです」。

その後、二階堂和美は弾き語りでの活動を続け、2001年11月には2枚目のインディーズ・アルバム『たね1』を発売します。「曲を作る時意識するのは、まず、自分で歌いたくなるようなメロディです。歌詞は、聞き間違いをしないようなもので、普遍的で美しい言葉を選んで作るようにしています。また、歌詞とメロディ、両方を合わせた時に、言葉そのもののリズムやアクセントが損なわれないようにも心がけています。あと、もう一つ付け加えるならば、自分の言葉として歌えるようなものですね。それは、自分の体験を歌うということではなく、曲の中に自分を投影できるかどうかなんです」。
弾き語りによる、彼女ならではの独特の歌の世界観を、自分のペースで作り続けていた二階堂和美は、2003年4月に、3枚目となるインディーズ・ミニアルバム『また、おとしましたよ』を発売します。

2003年4月、二階堂和美が発売した、3枚目のインディーズ・アルバム『また、おとしましたよ』。
「1枚目のアルバムを発売した頃は、音楽が好きで無くなっていました。しかし、レコード会社を離れ、
インディーズからCDを発売するようになってからは、自分が好きだと思えることや、好きな人と出会えるようになって、周りにどんどん面白い人達が増えていったんです。アルバム『また、おとしましたよ』を発売した前年の2002年に出会った、ヒップホップのラッパーで、トラックメイカーのイルリメさんも、その一人でした。彼のライブを観た瞬間、この人は飛び抜けていると思いました。イルリメさんも私のライブに驚いてくれていました。お互いに自分にない要素を感じたのだと思います。その後、私が、彼のラップの曲を弾き語りでカバーした時、私は、
彼のラップに、笠置シヅ子さんの「買物ブギー」に近い感覚があることに気づき、私は彼に、私の曲を書いてくれるように頼んだのです」。

「それまで私は、シンガーソングライターを名乗っていましたけど、正直、作詞が苦手でした。
時にはメロディに歌詞を載せなかったり、歌謡曲のカバーをしたり、とにかく自分が作った曲では私の歌唱力が生かせていない、と感じていたんです。
そもそも私はシンガーソングライターになりたいと思っていたわけではないので、曲は曲。歌詞は歌詞。それぞれ分業して作る昔の歌謡曲のやり方に憧れがありました。イルリメさんに出会って、それが出来る、と思いました。彼にその話をすると、期待以上に乗ってくれ、どんどん先へ先へと駒を進めてくれました。
人の書いた歌詞なら、私はもっと演者に徹して歌を歌うことができると考え、作詞は全てイルリメさん、メロディは、私とイルリメさんの共作で作ることにしました。また演奏も、二人が好きな友人アーティストに依頼したんです」。
「アルバム作りは、2003年後半の企画段階から数えると、およそ3年、2005年までかかりました。その中で、終わりに近い時期に生まれたのが、この曲です。

この時、私は東京から広島に戻って音楽活動を続けていた時期で、イルリメさんは東京在住でしたので、曲のほとんどが、メールのやりとりによって進められました。
この曲も、一番最初は、私の携帯にイルリメさんが書いた歌詞のワンコーラスが送られてきたんです。
それまでの彼の作品の中でも、最もストレートな表現方法で綴られた歌詞を見た瞬間、私は「これは、歌謡曲だ」と瞬間的に思って、私は自分が子どもの頃、慣れ親しんでいた歌謡曲のような曲を、ついに生み出すことができる」という喜びでいっぱいでした」。「ただ、その後、イルリメさんが送ってくれたメロディを聴いたとき、私が歌詞から感じていたイメージとは少し違っていたんです。
それでもう少しメロディを考えさせて欲しい、とイルリメさんに頼みました。彼もいい気はしなかったと思いますが、私は数カ月かけて、ひとつひとつの言葉に一番ぴったりとはまるメロディを探って練り直しました。改めてイルリメさんに聴かせたところ、彼からもいい返事が返ってきました。
私は、かつてない手応えを感じました。間もなくして、イルリメさんから2番の歌詞が届き、お互いにメロディや歌詞の追加修正を繰り返して、曲は完成しました」。

「アルバムに収録するにあたって、私はこの曲をもっとポップスらしくしたかったので、バンド演奏をSAKEROCKにお願いしました。曲を弾き語りバージョンで聴いた彼らは、これはこれで完成しているけど、と言いながらも、コードを増やしたり、しゃれたアレンジを施してくれたんです。
細かいアレンジの修正を何度か図った後、完成したんです」。

こうして、二階堂和美が約3年かけて作った4枚目のアルバム『二階堂和美のアルバム』は、2006年8月に発売され、同じ8月にこの曲「Lovers Rock」は、7inchアナログ盤として発売されます。
2006年8月に発売された、二階堂和美の『Lovesr Rock』。
「私はこの曲が完成するまで、歌詞を書くことが苦手で、演者としての迷いがどこかにあったんです。でも、この「Lovers Rock」が完成したおかげで、私は、シンガーソングライターとしてではなく、「私は独りの歌手です」と、胸を張って宣言できました。私が仮に紅白歌合戦に出演しても、この歌なら自信を持って歌える。そう思いました」。
最後に、二階堂さんはこう語ってくれました。

独りの歌手としての大きな自信を掴むキッカケとなった、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.SWEET MEMORIES/松田聖子
M2.散髪ブギ/二階堂和美
M3.脈拍/二階堂和美
M4.Lovers Rock/二階堂和美

2009年11月27日
「TRICERATOPS/FEVER」

113回目の今日お届けしたのは、「TRICERATOPS/FEVER」でした

「「どうやったら、お客さんの数は増えますかね」。彼は僕と初めて会った時、いきなりこう聞いてきたんです。渡辺プロダクションのプロデューサーから、「面白いバンドがいるから、一緒にライブを観に行かないか」と誘われて、下北沢のライブハウス「251」で出会ったのが、彼らでした。ギター、ベース、ドラムで構成されているシンプルな3ピースバンドで、どこかぎこちなく、初々しさはありましたけど、逆に彼らのシンプルなロックが印象的でした」。
1996年の秋、TRICERATOPSの3人と初めて会った時の様子について、後にレコード会社の担当ディレクターを務めた中村さんは、こう言います。

幼い頃から、ビートルズを聴いたり、ディズニ—のミュージカル映画を観るなど、音楽に囲まれて育った和田唱は、1987年、彼が小学校6年の時に観た、マイケル・ジャクソンの来日コンサートで、音楽の素晴らしさを改めて実感し、本格的に音楽の道を志すようになります。1995年、和田は、友人の紹介でベースの林幸治と出会い、曲作りを本格化、さらに翌1996年には、知人の紹介で、当時CHAGE and ASKAのスタジオミュージシャンとして活動していたドラマーの吉田佳史と出会い意気投合します。そして、和田、林、吉田の3人は、3ピースバンド「TRICERATOPS」を結成し、7月に渋谷のライブハウス「La Mama」で初ライブを行います。

「初ライブの後、すでにマンスリーライブを始めていたTRICERATOPSでしたが、集客力が問題で、僕らが、下北沢の「251」で彼らのライブを初めて観た夜も、お客はたった数人でした。だから和田は、お客さんの数を増やすために、何をすればいいのか悩み、僕に聞いてきたんです。
僕は、和田が作っていたシンプルで、センス溢れるメロディならば、何かをキッカケに売れるのではないかと感じていたので、メンバー3人と、プロデューサーの木崎さんと僕、そしてマネージャーで、TRICERATOPSのメジャーデビューに向けたプロジェクトをスタートさせたんです」。
翌1997年5月、TRICERATOPSは、インディーズレーベルのbounce recordsからミニアルバム『TRICERATOPS』を、
タワーレコード限定で発売します。「ミニアルバムを、敢えてインディーズレーベルから発売したのは、実験でした。ある程度は売れるとは思っていたので、まずはインディーズで発売して試してみたかったんです。そして、CDを買ってTRICERATOPSを聴いてくれた人達の、彼らの音楽への熱が冷めない内に、直ぐにメジャーデビューさせたんです」。
ミニアルバム『TRICERATOPS』の発売から、僅か2ヵ月後の1997年7月、TRICERATOPSはシングル「Raspberry」で、エピック・ソニーからデビューします。

1997年7月、TRICERATOPSは、1stシングル「Raspberry」をリリースします。
「デビューシングル「Raspberry」は、最初は2曲目か、3曲目にしようか、という意見もありました。しかし、木崎さんと僕、マネージャーの3人でプロモーション計画を練っていく中で、やっぱりTRICERATOPSのデビューシングルは、彼らの持ち味でもある、ポップ感溢れるロックで攻めるしかない、という結論で、変更されたんです。デビューシングルで、初めてTRICERATOPSを聴いた人達に、その後もずっと彼らの音楽を聴いて、バンドとしての成長を楽しみにしてもらいたい、
そんな願いを込めることにしたんです。まずは、シンプルだけど、キャッチーな曲で、聴いた人達を振り向かせよう、という作戦でした」。
「TRICERATOPSがデビューした、1997年当時の音楽マーケットは、TV主題歌やCMタイアップが付きやすいポップスが主流で、ロックバンドにとっては、斜陽の時代でした。しかし、プロデューサーの木崎さんは、それまで木崎さんが手掛けた、アグネス・チャン、原田真二、沢田研二、大沢誉志幸などのプロデュース経験から、TRICERATOPSのシンプルなロックに売れる可能性を感じていたんです。“どんなミュージシャンでも、初めはシンプルな音楽でスタートし、長年音楽活動を続けている間に、色んな要素をプラスして、自分達だけのオリジナル音楽を作っていく。TRICERATOPSも、シンプルで、ポップ感溢れるセンスを持っている訳だから、ライブで聴いた音楽をそのままCDにするぐらいのシンプルな気持ちで、曲を作ればきっと売れる”と、木崎さんは話していました。」
ディレクターを担当した中村さんは、当時についてこう振り返ります。

TRICERATOPSは、作品を発売する傍らで、デビュー直前の5月から12月にかけて、同じ時期にデビューしたDragon AshやGRAPEVINEなどと一緒に、全国のライブハウスを回るライブイベントにも出演、それぞれ目指す音楽性は異なるものの、ライブを通して、自分達のスタイルを磨くための切磋琢磨をしていきます。そして翌1998年1月、TRICERATOPSは、3枚目のシングル「ロケットに乗って」を発売します。

1998年1月に発売した、TRICERATOPS3枚目のシングル「ロケットに乗って」。「デビュー当初に作ったプロモーション計画