
235回目の今日お届けしたのは、「渡辺真知子/かもめが翔んだ日」でした。
「両親から聞いた話では、私は、物心ついた頃から、食べる事よりも歌を歌う事が大好きで、よくハミングしていたそうです。中学に入ってからは、ラジオから流れてくるスティービー・ワンダーやバーブラ・ストライドサンドを真似して歌ったり、ギターの弾き語りで、ガロなどのフォーク・ソングをコピーしていました」。渡辺真知子さんご本人は、自身の音楽との出会いについて、当時をこう振り返ります。
1956年10月、神奈川県横須賀市に生まれた渡辺真知子は、神奈川県内の私立高校に進学後、地元横須賀市内のクラブで遊んでいる時に知り合ったロックバンドに、サイドボーカルとして加入。同時に、高校の同級生と、二人組音楽ユニット「PIA」を結成します。1973年、PIAは、ギタリストの寺内タケシが主宰した音楽コンテストに出場して、優勝。ピアノを弾きながら、伸びやかな歌声で歌う渡辺真知子は、横須賀市内の音楽関係者の間で、評判を集めます。
1975年春、渡辺真知子は、高校卒業と同時に、ユニット「PIA」を解散し、ソロ活動を始めます。そして5月には、第9回ヤマハポピュラーソングコンテストに出場して、特別賞を受賞します。
「予選は、ピアノの弾き語りだったんですが、当時のポプコンは、本選では、豪華なオーケストラのアレンジで歌うのが恒例だったので、アマチュアミュージシャンだった私にとって、オーケストラをバックに従えて歌えるなんて、夢のような体験ですから、とても楽しみにしていたんです。ところが、本選のリハーサルの時に、ヤマハのディレクターから、「あなたの声を活かすためには、本選でも同じようにピアノの弾き語りで歌った方がいい」とアドバイスされ、私は、悩んだんですが、そのアドバイス通りに、本選でも、ピアノの弾き語りで歌ったんです。結果的には、これが幸いして、特別賞を受賞することができました。同時に、私自身、自分が持っている個性的な声の魅力に、やっと気がつき、ひとつの自信へと繋がっていったんです」。
1975年5月、渡辺真知子は、第9回ヤマハポピュラーソングコンテストで特別賞を受賞したのを皮切りに、翌1976年10月の第12回大会まで、4回連続でポプコンに出場。アマチュアながら、実力派ボーカリストとして、音楽関係者の間で注目を集めます。
また、渡辺真知子は、洗足学園短期大学音楽科に進学し、声楽の勉強も始めます。
「この頃から今に至るまで、ずっと私を支えているのは、"歌いたい"と言う気持ちです。高校時代から始めたバンドでは、エリック・クラプトンなどのロックをシャウトしながら歌って、ひとりの時は、ピアノの弾き語りで、ポップスを歌い。短大に入学してからは、ロックでもポップスでもない、本格的な声楽を学び、とにかく、四六時中、あらゆるジャンルの歌を歌い続けるようになったんです」。
そんな、歌を歌う事に夢中になっていた渡辺真知子の姿に魅かれた、レコード会社「CBSソニー」の制作ディレクター中曽根皓二が、彼女に声を掛けます。
「当時、キャンディーズの制作ディレクターを務めていた中曽根さんは、ポプコンで特別賞を受賞した、私の力強く、個性的な声に注目してくれたんです。中曽根さんは、その私の声の個性を活かすためには、自分の声の音域を一番よく分かっている、私自身が作った曲を歌うのがベストだと考え、私にシンガーソングライターとしての道を薦めてくれたんです」。
こうして、1977年春、洗足学園短期大学を卒業した渡辺真知子は、制作ディレクター中曽根皓二の下でプロデビューに向けた準備をスタート。その年の11月に、1stシングル「迷い道」をリリースするのでした。
1977年11月、渡辺真知子がリリースした1stシングル「迷い道」は、セールスチャート最高位3位、約61万枚の売上を記録します。
「いきなりのヒットに、周りは喜んでくれましたが、実は、この曲を作る過程で、私は、プロとアマチュアの曲作りの厳しさの違いを痛切に感じたんです。高校時代、友達と見様見真似で曲作りを始めた私には、それまで曲作りに関して厳しくアドバイスをしてくれる人はいませんでした。しかし、プロデビューが決まってからは、ディレクターの中曽根さんが、まるでイジメのように、何度も、何度も、曲の書き直しをさせるんです。私の頭の中には、毎週のように、中曽根さんのOKを貰うために、自宅のあった横須賀から、東京・市ヶ谷のCBSソニーまで通っていた記憶が鮮明に残っています。全部で、16回は近く通ったんじゃないでしょうか」
制作ディレクターの中曽根皓二が、渡辺真知子の伸びやかで高音域の声を活かすために、妥協せず書き直しを重ねてリリースした、1stシングル「迷い道」のヒットで、渡辺真知子は、いきなり実力派シンガーソングライターとしての評価を集めます。
デビュー曲「迷い道」がヒットチャートの階段を昇り始めた1977年12月、中曽根さんは、当時、歌謡曲やCMソングの作詞を手掛けていた作詞家の伊藤アキラさんが書いた、歌詞を渡辺真知子に手渡します。
「苦労の末作った1stシングルをようやくリリースして、精神的にも疲れ果てていた12月のある日、中曽根さんは、私に、お正月休みに、伊藤アキラさんが書いた歌詞に、メロディを付けるように指示をしたんです。それまで、自分が書いた歌詞に曲を書いてきた私にとって、他人が書いた歌詞にメロディを付けるのは、初めての経験で、少しとまどいました。しかし、私は、そんな気持ちを振り切って、その場で、その歌詞を読み、頭に浮かんだメロディを感じたままに、即興でピアノを弾いて、中曽根さんに聴かせたんです。すると、中曽根さんは、すぐにそのメロディを評価してくれて、すんなりと翌1978年春にリリースを予定していた、2ndシングルに決まったんです。今、考えると、プロとアマチュアのレベルの違いに、疲れ果てていた私の姿を見て、中曽根さんが気遣ってくれ、プロの作詞家が書いた歌詞を用意してくれたんですが、私は、中曽根さんの、親心を感じると同時に、改めてプロの厳しさを、そのとき痛感したんです」。
制作ディレクターの中曽根さんは、渡辺真知子が即興で演奏したメロディに、インパクトを与えるために、曲の頭に序曲(オーバーチュア)を加える事を提案します。さらに、伊藤アキラさんが歌詞を書き直し、その歌詞に沿ってメロディがつけ加えられて、曲は完成します。
こうして、1978年4月、渡辺真知子の2ndシングル「かもめが翔んだ日」は、リリースされるのでした。
1978年4月にリリースされた、渡辺真知子の2ndシングル「かもめが翔んだ日」は、セールスチャート最高位5位、約46万枚の売上を記録。さらに、渡辺真知子は、この曲で、1978年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞します。
「この曲は、私をシンガーソングライターとして育てるための本来の目的とは、違うスタイルで作った曲でした。曲を作った当初は、不安もありましたが、制作ディレクターの中曽根さんを含め、作詞家、アレンジャー、みんなのおかげで、無事に歌いきって、結果的には、その後、私がシンガーソングライターとして活動していく、大きな自信にも繋がった曲です」
最後に、渡辺真知子さんは、こう語ってくれました。
一人の女性シンガーソングライターが、制作ディレクターの厳しい指導と、親心の下、
彼女自身の音楽人生を切り拓いた、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.You are the sunshine of my life/スティービー・ワンダー
M2.オルゴールの恋唄/PIA(渡辺真知子)
M3.迷い道/渡辺真知子
M4.かもめが翔んだ日/渡辺真知子
234回目の今日お届けしたのは、「おニャン子クラブ/じゃあね」でした。
1985年4月、フジテレビでスタートした、ティーン向けのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』から生まれた、女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」。番組内のオーディション企画に、女子高生を中心とした素人の女の子達が参加し、その中から選ばれたメンバーで「おニャン子クラブ」は結成されます。それまでのアイドルとは違って、どこにでもいるような、普通の女の子達で結成されたおニャン子クラブは、番組開始と同時に、当時の中高生男子のハートを"ギュっ"と掴みます。
そして、結成から間もなくしたある日、おニャン子クラブは、番組のテーマ曲を歌う事が決まり、『夕やけニャンニャン』の構成作家として番組に関わっていた秋元康が、プロデューサーからの依頼で、作詞を担当することが決まります。
この時、秋元さんは、映画監督のジョージ・ルーカスが、『アメリカン・グラフィティ』で1960年代のアメリカの若者を描いたように、おニャン子クラブが歌う歌詞も、当時の女子高生の日常生活や、恋愛などを、歌の世界に描く事を思いつきます。そして、『夕やけニャンニャン』が、女子高生を主役にした、健康的な内容の番組だったので、「セーラー服」をキーワードに、思春期真っ盛りの彼女達が、興味を持っている事を色々と思い浮かべ、言葉に置き換えて、作曲家の佐藤準さんが作ったメロディに、歌詞として落とし込んでいきます。
こうして、1985年7月、おニャン子クラブの1stシングル「セーラー服を脱がさないで」は、リリースされるのでした。
1985年7月、おニャン子クラブがリリースした1stシングル「セーラー服を脱がさないで」は、セールスチャート最高位5位、約25万枚のセールスを記録。発売日前日に、都内で開催を予定していた発表会と握手会は、予定人数を大幅に上回るファンが会場に殺到し、中止となってしまい、番組関係者、そしてファンは、想像以上の反響に、改めておニャン子ブームの到来を、肌で感じることとなります。
また、秋元康は、おニャン子クラブについて、次のように考えていました。
「おニャン子クラブの曲を書くまで、数多くの女性アイドルに曲を書いてきた中で、その時々によって、どんな歌詞を書くのがベストなのか、色んなアプローチの手法を発揮してきました。例えば、菊池桃子の場合、彼女は、デビュー前から、清純で可愛い女性アイドルと言ったイメージが先行していました。そんな彼女が、「いじわる」と言った何気ない言葉を、ひと言つぶやくだけで、彼女に魅かれている男の子は、"ググっ"と興味を持つでしょう。それと同じ感覚です。女の子は、ひとり一人、色んな個性があるけれど、ひとりよりも二人。二人よりも、三人、と数が増え、集団になっていくことで、ひとりひとりが持っている個性が、色々な化学変化を起こして、輝きを増していくんです。企画から生まれた女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」に、その化学変化と輝きを求めて、オーディションを重ね、メンバーを増やして、集団化させていったんです」。
1985年9月、おニャン子クラブがリリースした、1stアルバム『KICK OFF』は、セールスチャート最高位2位を記録。翌10月には、日比谷野外音楽堂で、ファーストコンサート「KICK OFF」を開催します。
また、9月には、おニャン子クラブから、ソロ第1号として河合その子がデビューし、翌10月には、おニャン子クラブから派生したユニット「うしろゆびさされ組」がデビューするなど、おニャン子ブームは、一気にヒートアップしていくのでした。
1985年10月、おニャン子クラブがリリースした、2ndシングル「およしになってねTEACHER」は、セールスチャート最高位2位、約18万枚の売上を記録します。そんな中、『夕やけニャンニャン』放送開始と共に、おニャン子クラブの一員として芸能生活を始めた、会員No.5中島美春が、翌1985年の高校卒業と共に、歯科衛生士の専門学校進学のために、おニャン子クラブからの卒業することが決定します。秋元康は、デビュー曲「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカルを務め、高い知名度と人気を誇っていた彼女のために、卒業ソングを作る事を決めます。
秋元さんが考えたのは、それまで、卒業式で歌われる定番の曲「仰げば尊し」とは違う、別のタイプの曲を作ることでした。
当時の女子高生は、割とサバサバとしていて、感傷に浸って「仰げば尊し」を歌う世代ではないと考えた秋元さんは、卒業と言っても、永遠の別れといった感覚では無く、気軽な感じを持っていた女子高生の感覚を参考にして、"また、いつでも会えるよね"、と言った気軽な思いを込めた「じゃあね」という言葉を思い付きます。
こうして、秋元さんが、当時の女子高生の心情を、的確に読み切った、おニャン子クラブ3枚目のシングル「じゃあね」は、1986年2月にリリースされるのでした。
1986年2月にリリースされた、おニャン子クラブの3枚目のシングル「じゃあね」は、
セールスチャート最高位1位、約28万枚の売上を記録します。
「この曲がリリースされた、1986年頃から、人に物事を伝えたり、連絡を取ったりするための手段として、それまでの家庭用電話だけでなく、ポケベルなどのツールが増えてきて、いつでも、どこでも、人と会ったり、連絡を取ったりすることができるようになったことで、人間関係の距離も、ぐっと近くなったと思います。
また、その頃から、今に例えるなら、草食系男子と言う言葉がピッタリ当てはまるような男性も増え始めていました。それまで時代の中心となっていた男性に代わって、世の中に台頭し始めたのが女子高生をはじめとした女性で、その中心的存在だった女子高生が、卒業と言う別れの言葉に、"じゃあね"と言った軽い言葉を使った事が、多くの人達の心を動かし、ヒットに繋がった理由ではないでしょうか」秋元康さんは、最後にこう語ってくれました。
ひとりの作詞家が、時代の空気を、日常に溢れる言葉で見事に切り取った
J-POP卒業ソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Maybe Baby/Buddy Holly
M2.セーラー服を脱がさないで/おニャン子クラブ
M3.およしになってねTEACHER/おニャン子クラブ
M4.じゃあね/おニャン子クラブ
233回目の今日お届けしたのは、「菊池桃子/卒業-GRADUATION-」でした。
「僕が彼女に初めて出会ったのは、確か1983年か1984年だったと思います。当時、僕は、杉山清貴&オメガトライブの楽曲の作曲とアレンジを担当していて、レコーディングスタジオに、当時オメガトライブのプロデューサーだった藤田浩一さんが、彼女を連れて来たんです。彼女は、まだ中学三年生で、清純という言葉がぴったりの、女の子でした」。
菊池桃子の楽曲の作曲とアレンジを手掛けた、作曲家の林哲司さんは、当時をこう振り返ります。
1968年5月、東京都品川区に生まれた菊地桃子は、中学2年の時に、彼女の親戚が経営していたレストランに飾られていた彼女の写真を見た、音楽プロデューサー藤田浩一の誘いで、芸能界入りします。
そして、1983年11月、菊池桃子は、彼女をイメージガールとして創刊された、女性アイドルグラビア雑誌、その名も『Momoco』の創刊号の表紙を飾り、その、素朴で、愛くるしい笑顔で一躍人気を集めます。
女性アイドル歌手黄金時代だった1984年、プロデューサーの藤田浩一は、菊池桃子を歌手デビューさせる事を決め、デビュー曲を、林哲司に依頼します。
「僕は、それまで、アイドルの曲は、単調な曲が多くて、あまり好きになれず、積極的には作ってこなかったんです。アイドルの場合、本人の歌唱力への配慮から、音域の幅を狭くしたり、踊りの振付のために、やたらブレイクが入ったものが多かったんです。僕は、そんな状況で曲を作る事が嫌だったので、アイドルの曲は敢えて作らず、ニューミュージック系のアーティストを中心に曲を書いていたんです。正直、藤田さんからの依頼に、初めは違和感を覚えたんですが、藤田さんと話し合って彼女の音楽の方向性を決め、最後には、納得して、曲を作ったんです」。
1984年3月、菊池桃子は、雑誌『Momoco』の1コーナーから生まれた映画『パンツの穴』のヒロインを務め、愛くるしい演技で、当時のティーンの男の子達のハートをガッチリと掴みます。そしてその勢いのまま、4月に、林哲司が作った、1stシングル「青春のいじわる」で、歌手デビューを果たすのでした。
1984年4月、林哲司が作った、菊池桃子の1stシングル「青春のいじわる」は、セールスチャート最高位13位、約14万枚のセールスを記録します。
「僕が、藤田さんと話をして決めた、彼女の音楽の方向性は、オメガトライブと同じように、メロディラインがしっかりとした曲を書くことだったんです。作詞は、秋元康さんが担当でした。秋元さんは、菊池桃子の清純さを大切に、青春時代の迷いやためらいを静かに、そして繊細に歌詞に書いたんです。プロデューサーの藤田さんは、彼女の清純なイメージを損なうような、例えば「キス」と言った言葉などは使わないように、気をつけていましたね」。
さらに林哲司は、菊池桃子の作曲・アレンジのみならず、プロデューサーの藤田浩一と共に、彼女のアルバムジャケットのビジュアル作りにも関わっていきます。
「それまでのアイドルのアルバムジャケットは、本人の顔をアップにして作ったビジュアルが多かったんです。しかし僕達は、当時の大学生が、ファッションアイテムの一つとして、お気に入りのアーティストのLPレコードを片手に持ってキャンパスを歩いていたのと同じように、菊池桃子のアルバムを持って歩いても恥ずかしくないような、ビジュアル作りにこだわったんです。楽曲のメロディラインを、ニューミュージックを意識して作ったように、アルバムのジャケットも、ニューミュージック系のアーティストのビジュアルを真似たんですね」。
林哲司さんが、こう振り替えるように、菊池桃子が1984年9月にリリースした1stアルバム『OCEAN SIDE』のジャケットは、本人のアップ写真ではなく、一見すると菊池桃子のアルバムとは気付かない、リゾート感あふれる海のイメージを全面に打ち出したものとなります。
こうして、林哲司は、菊池桃子の曲を作るだけでなく、プロデューサーの藤田浩一と共に、菊池桃子を新しいスタイルのアイドルとして育てていく事に、深く関わっていくようになるのでした。
1984年11月、林哲司が作った、菊池桃子の3rdのシングル「雪にかいたLOVE LETTER」は、セールスチャート最高位3位、約35万枚の売上を記録します。
「僕は、菊池桃子のシングル曲は、彼女のハスキーな歌声と、彼女が持っている歌唱力を活かす事を考えて、聴く人の心に残りやすいメロディで作ったんです。シングル曲の売上が、少しずつ上がっていく状況に、僕はその成果を感じていました」。
1985年、林哲司は、2月に発売される菊池桃子4枚目のシングルとして、初めてバラード曲をリリースする事を決めます。
「デビュー曲から、アップテンポの曲が続き、バラード曲を作るタイミングを図っていたんです。プロデューサーの藤田さんも、バラードを作る事に賛成してくれ、曲のテーマを考えた時、ちょうど卒業式シーズンで、ピッタリだと考えたんです」。
「卒業と言えば、悲しい別れをイメージしますが、秋元さんは、それまでの3曲と同じように、菊池桃子の清純さをキーワードに言葉を選び、しっとりとした歌詞を作ってくれたんです。その秋元さんが書いた歌詞と、僕が、柔らかい春の陽射しを感じてもらえるようなイメージで作ったメロディとが、綺麗に重なって、独特の、きらきらと輝くような、爽やかな歌の世界を作り出すことができたんです」。
こうして、1985年2月、菊池桃子4枚目のシングル「卒業-GRADUATION」は、リリースされるのでした。
1985年2月にリリースされた、菊地桃子の4枚目のシングル「卒業-GRADUATION」は、彼女にとって初めてセールスチャート最高位1位を獲得、約40万枚の売上を記録します。
「ほぼ同じ時期に、斉藤由貴さん、尾崎豊さん、倉沢淳美さんの3人が、同じタイトルでシングルをリリースしました。僕は、同じタイトルの曲がリリースされる事は知っていたんですが、あまり意識はしませんでした。それは、僕が今まで1500曲近く作ってきた中でも、菊地桃子が、特別強く印象に残る存在だったからです。初めてセールスチャートで1位を獲得したこの曲は、作品性、菊地桃子のハスキーで可愛い歌声、そして彼女の持っている歌唱力、さらに季節感が見事に重なった曲だと思っています」。
最後に、林哲司さんは、こう語ってくれました。
新しい女性アイドルのスタイルを追い求めた作曲家が、その個性を活かして生まれた
J-POP卒業ソングの名曲が生まれた瞬間でした
今日OAした曲目
M1.君のハートはマリンブルー/杉山清貴&オメガトライブ
M2.青春のいじわる/菊池桃子
M3.雪にかいたLOVE LETTER/菊池桃子
M4.卒業-GRADUATION-/菊池桃子
232回目の今日お届けしたのは、「山口百恵/いい日旅立ち」でした。
「1976年、僕は、山口百恵の制作担当ディレクターに就いて3年が過ぎ、そろそろ、彼女の曲を作ってくれる作家陣の幅を広げていきたいと思うようになったんです。それまで、彼女のシングル曲は、デビューするキッカケとなった『スター誕生!』の審査員で、デビュー曲から作詞を担当していた千家和也さん、作曲を担当していた都倉俊一さん、このふたりが作った曲を歌うのが当たり前で、暗黙のルールでした。しかし、僕は、既存の作詞、作曲家が作った曲は、曲のできあがりが、ある程度イメージできてしまう。もっと、いい意味で、ファンの期待を裏切るような曲を、作りたいと考えるようになったんです」。
ホリプロのグループ会社、東京音楽出版で、山口百恵の制作担当ディレクターを務めた、川瀬泰雄さんは、当時を、こう振返ります。
1973年4月、シングル「としごろ」でデビューした山口百恵は、同じ頃に『スター誕生!』からデビューした森昌子、桜田淳子とともに、"花の中三トリオ"として、話題を集めます。1974年6月、山口百恵がリリースした5枚目のシングル「ひと夏の経験」は、その年の「日本歌謡大賞放送音楽賞」「日本レコード大賞大衆賞」「ゴールデンアロー賞特別賞」などを相次いで受賞。さらに、山口百恵は、この曲で「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、その人気は一気にブレイクしていきます。その後も、映画、テレビドラマへの出演を含め、トップスターへの階段を駆け上がっていく山口百恵でしたが、そんな中、川瀬さんは、山口百恵の音楽制作の幅を広げていくために、彼女に曲を提供する、あたらしくて、有能な作家を探し始めます。
「僕は、ファンの期待を裏切るために、千家、都倉のコンビ以外の作家に作ってもらった曲を、まずはアルバムに入れて、その反応を探ってみる事から始めたんです。そんな時に、音楽仲間を通じて紹介してもらったのが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでヒットを飛ばしていた宇崎竜童、阿木耀子のコンビでした」。
1976年4月、山口百恵8枚目のアルバム『17才のテーマ』に、初めて宇崎竜童、阿木耀子が作った曲が、2曲が収録されます。さらに、そのアルバム用に作った別の曲の完成度を、ディレクターの川瀬さんは高く評価。その曲は、その年の6月、山口百恵の13枚目のシングル「横須賀ストーリー」としてリリースされ、セールスチャート1位、約66万枚の売上を記録します。
「横須賀ストーリー」のヒットに手ごたえを感じた川瀬さんは、山口百恵のアルバムの楽曲に、宇崎、阿木コンビ以外にも、浜田省吾や、ジョニー大倉、来生えつこ、松本隆といった、個性的なアーティストや作家達が作った曲を起用。そして、1977年10月には、19枚目のシングルとして、さだまさしが書いた「秋桜」を、リリースするのでした。
1977年10月、山口百恵が19枚目のシングルとしてリリースした「秋桜」は、セールスチャート最高位3位、約46万枚の売上を記録。それ以上に、多くの人達の記憶に残る名曲として、その後も、歌い継がれていきます。
翌1978年5月、山口百恵は、宇崎、阿木のコンビが作った、ロック色が色濃く反映された22枚目のシングル「プレイバックPart2」をリリース。歌詞の中に、「馬鹿にしないでよ」と言う決め台詞が使われたこの歌は、世代を超えて支持され、大ヒット。山口百恵の楽曲は、時代を象徴するナンバーとして、日本中から注目を集めるようになっていきます。そんな中、国鉄(現在のJR)から、キャンペーンソングの依頼が届きます。
「広告代理店から依頼された企画の条件として、キャンペーンのキャッチ・コピー「いい日 旅立ち」を、曲のタイトルと、歌詞の一部に使う事が提示されたんです。僕は、このキャッチ・コピー「いい日 旅立ち」を活かしてくれる作家は誰なのか、CBSソニーのプロデューサー酒井政利さん達らと話し合ったんですが、
僕の頭の中に、真っ先に浮かんだのが、フォーク・グループ「アリス」の谷村新司さんだったんです。
「僕が、谷村さんと親しく会うようになったのは、山口百恵の制作ディレクターに就く前の、1972年8月のことでした。当時、僕は、デビュー直後の井上陽水のマネージャーを務めていて、同じくデビュー直後のアリスと一緒に、東海ラジオの番組に出演して、それをきっかけに親しく話をするようになったんです。その後、僕が山口百恵のディレクターに代わっても、アリスのメンバーやスタッフとは仲良くしていただき、谷村さんにも、会う度に、山口百恵に曲を書いてくれるように、お願いしていたんです」。
その後、川瀬さんは、谷村新司さんが書き、ファンの間では隠れた名曲とも言われている「ラスト・ソング」をはじめ、1977年にリリースした12枚目のアルバム『GOLDEN FLIGHT』他、2枚のアルバムに起用します。そして、川瀬さんは、曲の反応を見ながら、谷村さんにシングル曲を書いてもらうチャンスをうかがっていきます。
「国鉄のキャンペーンソングを作る事が決まって、僕の頭の中に真っ先に浮かんだのが、谷村新司さんでした。谷村さんなら、これまでもアルバム用の曲で、スケール感溢れる曲を作ってくれていたので、キャンペーンソングにはピッタリなのではないかと考えたんです。もちろん、宇崎、阿木のコンビなら、いい作品ができあがってくる事は予測できましたが、二人には、3作連続でシングルを作ってもらっていたので、聴く人の期待を裏切るいいタイミングだと考えたんです。」。
こうして、谷村新司に曲作りを依頼する事を決めた、川瀬さんは、CBSソニーのディレクター金塚晴子さんと共に、谷村さんの自宅を訪ねて、正式に曲作りを依頼。快諾した谷村さんは、ほどなく、2本のデモテープを、川瀬さんの元へ届けます。
「谷村さんが作ってくれた、デモテープは、アレンジが少し違うバージョンを含め、2本ありました。もう1本のデモテープも聴きましたが、最初に聴いたデモテープの完成度が高く、特に修正するヵ所も無かったので、最初に聴いたデモテープを使う事がすんなり決まったんです」
「この曲は、サビの歌詞「ああ、日本のどこかに 私を待ってる人がいる」この部分がポイントです。日本中を、
コンサート・ツアーなどで廻って、全国を知っている谷村さんならではのフレーズですし、スポンサーである国鉄の意向を完璧に取り入れた、スケール感の大きい歌詞です。この歌詞が、サビのメロディと見事にマッチングした時、僕をはじめ、スタッフ全ての脳裏に、旅の情景が浮かんできました。この曲は、間違い無く、山口百恵の代表曲になるだろうと言う予感が生まれてきたんです」。
こうして、1978年11月、山口百恵の24枚目のシングル「いい日旅立ち」はリリースされるのでした。
1978年11月にリリースされた、山口百恵の24枚目のシングル「いい日旅立ち」は、セールスチャート最高位3位、100万枚の売上を記録。2006年には、文化庁と日本PTA全国協議会が選んだ、「日本の歌百選」にも選ばれます。
「この曲は、タイトルから、結婚式や卒業式等の旅立ちの席で歌われる事も多いのですが、実は、曲を作った谷村さんは、「歌詞に、そんな祝いの席で歌ってもらえるような、いい意味は込めていない」と言っているんです。しかし、僕は、谷村さんが作った歌の雰囲気と、山口百恵の歌声が、聴く人の感情を揺さぶって、別れや旅立ちの席で歌うと、ピッタリの雰囲気を作り出しているんだと思います。山口百恵が、ただのアイドル歌手ではなく、世代を超えて支持される国民的歌手になった事を、決定づける歌だったと思います」。
最後に、川瀬さんは、こう語ってくれました。
次々と、個性的な作家を起用する事で、歌い手の可能性にチャレンジしつづけたことが、
日本を代表する"うた"を生み出した瞬間でした
今日OAした曲目
M1.横須賀ストーリー/山口百恵
M2.秋桜/山口百恵
M3. ラスト・ソング/山口百恵
M4.いい日旅立ち/山口百恵
231回目の今日お届けしたのは、「プリンセス・プリンセス/M」でした。
「プリンセス・プリンセスの5人は、幼馴染でも、学校の同級生でもなく、ただ、楽器別のオーディションで選ばれた、言わば寄せ集めのバンドです。そういうと、考え方も、方向性も、みんなバラバラだと思いがちですが、彼女達には、バンドを作って、苦労を重ねて、いろんな困難にも打ち勝って、それでも、メンバーチェンジも無く活動してきたからこその、独特の空気感、結束力があるんです。それが、曲作りにも色濃く反映されていますね」。
今年2012年、16年ぶりの再結成を発表した、プリンセス・プリンセスの音楽プロデューサーを務めている、マイケル河合さんは、こう語ります。
1983年2月、当時のTDKレコードが、ガールズ・ロックバンドの結成を目的に行ったオーディションで選ばれたのが、奥居香、中山加奈子、渡辺敦子、富田京子、そして今野登茂子の5人の少女でした。
出身地も、年齢も違う、5人が組んだバンドは、「赤坂小町」と名付けられ、彼女達のルックスを重視した事務所の考えで、ロックバンドでありながらも、アイドル路線で売り出されます。しかし、彼女達は、イベント会場で「サティスファクション」や「プリティー・ウーマン」などの洋楽のカバー曲を演奏する内に、アイドル路線のバンドではなく、自分達で作った曲を演奏する、本格的なロックバンドを目指したい、と考えるようになります。
1984年3月、赤坂小町は、1stシングル「放課後授業」でデビュー。1年間に、シングル3枚、ミニアルバム1枚をリリースします。1985年に入って、バンド名を「JULIANA MAMA」と変更しますが、事務所の移籍問題も起こって、彼女達は、しばらく表立った音楽活動ができない状態に陥ります。
そんな中、1985年の秋、JULIANA MAMAは、東京・代々木公園野外音楽堂で行われたイベントに出演、その久しぶりのライブを観たCBSソニーのディレクターが誘ったことをキッカケに、レコード会社を移籍。
バンド名を、「プリンセス・プリンセス」と再び改名して、翌1986年5月に、CBSソニーより、ミニアルバム『Kissで犯罪』をリリースします。
1986年12月、ようやく事務所の移籍問題も解決し、このタイミングで、制作担当プロデューサーも、マイケル河合さんに交代します。
「当時、僕は、女性のロックバンドを担当した経験が無くて、それで、学生時代に一緒にロックバンドを組んでいた友人で、音楽プロデューサーの笹路正徳に相談したんです」。
こうして、1987年4月、マイケル河合と笹路正徳、二人の音楽プロデューサーがタッグを組んで作った、プリンセス・プリンセスの1stシングル「恋はバランス」は、リリースされるのでした。
1987年4月、プリンセス・プリンセスは、マイケル河合、笹路正徳の二人がプロデュースした、1stシングル「恋はバランス」をリリースします。
「僕は、デビュー当初、アイドル路線で売り出されていた、プリ・プリのメンバーが、音楽に対して、どんな考えを持っているのかを知りたくて、担当に就いて直ぐに彼女達と話をしたんです。そこで、彼女達は、自分達で曲を作って歌う、ロックバンドを目指したい、と考えている事が分かったんです」。
「当時、日本のガールズ・ロックバンドと言えば、彼女達と同じCBSソニー所属で、ダークなイメージを持っていたバンド「ZELDA」と、JAPANESEメタルバンドの「SHOW-YA」の2組が、代表的な存在でした。どちらのバンドも、ファン層が偏っていたので、僕は、プリ・プリには、万人受けするガールズ・ロックバンドを目指すべきだと考えて、まずは、ライブ動員を増やす事を意識した曲を作る事を考えたんです」。
1987年5月、プリンセス・プリンセスは、メンバー全員が作詞・作曲を手掛け、バンドスタイルを意識して作ったアルバム『TEREPORTATION』をリリース。発売直後のライブハウスツアーでは、どの会場もそれまでの倍以上のチケットが売れて、メンバーは、僅かながらも、手応えを感じ始めます。
さらにその年の11月、プリンセス・プリンセスがリリースした、3枚目のシングル「MY WILL」は、スキー用品販売店「ヴィクトリア」のキャンペーンソングに起用され、少しずつ、バンドの名前は、お茶の間に浸透していきます。
そして翌年1988年2月、プリンセス・プリンセスは、彼女達の人気を決定づける、4枚目のシングル「19 GROWING UP」をリリースするのでした。
1988年2月、プリンセス・プリンセスが同時リリースした4枚目のシングル「19 GROWING UP」と、3枚目のアルバム『HERE WE ARE』。特に、ライブを意識した曲を詰め込んだアルバム『HERE WE ARE』は、チャート最高位8位を記録。4月には渋谷公会堂でライブを行い、チケットはわずか2時間で完売します。
「当時のロックバンドは、ライブハウスを満員にできる力がついてくると、次は渋谷公会堂。そして、次は日本青年館、そして日本武道館、と言った形で、スケールアップしていく事が、夢であり、目標だったんです。彼女達も、地道にライブを続けて、やっと渋谷公会堂を満員にする事ができた。その充実感が、自分達の音楽への自信と、バンドとしての結束を強める大きな要因となったんです」。
こうして、ライブでの手応えを掴んだプリンセス・プリンセスは、1988年5月に、5枚目のシングル「GO AWAY BOYS」をリリースし、セースルチャート最高位19位を記録。着実に人気バンドの道を歩み始めた彼女たちは、8月に、横浜のアメリカ軍施設内での野外ライブが終わった直後から、11月に発売を予定していたアルバムの曲作りを始めます。
「この曲は、もともとは、11月にリリースが予定されていたアルバム用に作られた曲です。僕は、最初は、歌と、ピアノの伴奏だけが収録されたデモテープを聴いたんですが、その曲は、それまでプリ・プリが、作った事が無かったバラード・ナンバーだったんです。そのままアレンジすると、フォーク調のバラードになる予感がして、僕は、どうしたらいいのか、正直、困り果てたんです」。
マイケル河合さんは、笹路さんに相談し、イギリスのロックバンド「クイーン」の曲を参考に、ギターとドラムの音を重視した、いわゆる、ロックのバラードを意識したアレンジを加える事を思い付きます。
「アレンジ作業と共にこだわったのが、歌詞です。この曲は、ドラマーの富田京子が書いたんですが、彼女に起こった、実際の話について書かれているんです。失恋し、心を痛めていた彼女の姿を、横で見ていた奥居香が、その気持ちを歌詞にするように勧めたんだそうです。僕自身は、その失恋話の中身がどうこうというよりも、どうすれば、印象深く聴いてもらえるのかだけにこだわって、何度も何度も、富田に、詞の書き直しをさせたんです。
特に、サビの英語は、他の日本語の歌詞と、整合性が取れて、しかもEasyな英語で、きれいなハーモニーになるように工夫したんです」。
富田京子が、身を削って書いた歌詞に、彼女の痛みを知る奥居香が、富田の辛い気持ちを汲み取った切ないメロディを作ります。そして、マイケル河合、笹路正徳、二人の音楽プロデューサーが、ロックバラードとして仕上げた曲「M」は、1988年11月に、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』に収録されて、リリースされるのでした。
1988年11月にリリースされた、プリンセス・プリンセス4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』に収録された曲「M」。この曲は、翌1989年4月には、7枚目のシングル「Diamonds」のカップリング曲としてもリリースされ、「Diamonds」と「M」はセールスチャート最高位1位、約110万枚の売上を記録します。
「最初は、アルバムの一曲にすぎなかったこの曲が、何故シングル「Diamonds」のカップリングになったのか、僕は、はっきりと覚えていないんです。しかし、「Diamonds」が、プリ・プリを代表するロック・ナンバーならば、この「M」は、間違いなくバラードの代表曲です。リリースから、20年以上も経った今でも、世代を超えて歌い継がれ、奥居香自身も、苦楽を共にしたプリ・プリで歌う「M」は、ソロで歌う時とは比べる事ができない、と言っています。二人の作り手の感情が、思いっきり反映されているからこそ、プリ・プリで歌う「M」は、独特の空気感を生み出しているんでしょうね」。最後に、マイケル河合さんは、こう語ってくれました。
バンドのメンバーふたりの個人的な思いがこもった作品を、ふたりの音楽プロデューサーが、普遍的なポップナンバーに仕上げた、
80年代を代表するJ-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.放課後授業/赤坂小町
M2.恋はバランス/プリンセス・プリンセス
M3.19 GROWING UP/プリンセス・プリンセス
M4.M/プリンセス・プリンセス
230回目の今日お届けしたのは、「カジヒデキ/Siesta~君のハートのナチュラル」でした。
「僕が彼に初めて出会ったのは、確か1989年だったと思います。当時、僕が所属していたバンドと、彼が所属していたバンド「ブリッジ」が、東京のライブハウス「原宿クロコダイル」で行われた、対バン形式のライブに出演したんです。ブリッジは、当時、ネオアコファンから絶大なる支持を集めていたバンド「フリッパーズ・ギター」の影響を強く受けていて、演奏していた曲、そのどれもがフリッパーズ・ギターを彷彿させる曲ばかりでした」。現在、カジヒデキの宣伝担当を務める竹田さんは、当時について、こう振りかえります。
1967年5月、千葉県富津市に生まれたカジヒデキは、1983年に結成されたゴシック・ロックバンド「Neurotic Doll」へ、ベースとして参加します。ゴシック・ロックとは、1983年頃にイギリスを中心に形成されていたロックムーブメントで、暗い曲調とビジュアルで、ロマチシズムなど、知的なテーマを取り上げ、日本では、後の、いわゆるビジュアル系ロックバンドにつながっていく、ポストパンク、オルタナティブロックムーブメントの一つでした。
しかし、カジヒデキは、1987年11月、インディーズバンド「ロリポップ・ソニック」(後のフリッパーズ・ギター)のライブを偶然観た事をキッカケに、洋楽テイスト溢れる、判り易い軽快なポップスをやりたいと考えて、Neurotic Dollを脱退。ロリポップ・ソニックを意識した、ネオ・アコースティック音楽(通称:ネオアコ)に没頭し始めます。
「Neurotic Doll時代のカジヒデキは、白塗りの化粧をして、黒く派手な衣装を着て演奏する、いわゆる、美意識を全面に打ち出したゴシック・ロックバンドとして活動をしていたんです。しかし、音楽面で行き詰まり感じ、"これでは売れない"と感じていた時に出会ったのが、ロリポップ・ソニックだったんです。
当時、J-POPの世界は、空前のバンドブームが到来し、"ビート・パンク"と呼ばれる、縦乗り重視のバンドが続々とデビューしていました。その一方で、ビート・パンクとは真逆で、洋楽テイストに溢れるポップナンバーを、軽快なリズムで演奏する、通称"渋谷系"と呼ばれる東京・渋谷発信の音楽が、ピチカート・ファイブ、ロリポップ・ソニック改め、フリッパーズ・ギターと言ったバンドが続々とデビューすることで、まさに注目を集め始めていた時期でもあるんです」。
1989年、カジヒデキは、音楽仲間と共に、新しいバンド「ブリッジ」を結成します。
ブリッジは、東京・原宿や下北沢のライブハウスを中心に活動を続け、1992年、フリッパーズ・ギターの小山田圭吾が、レコード会社「ポリスター」内に作った音楽レーベル「トラットリア」と契約します。
そして、11月に、1stマキシ・シングル「WINDY AFTERNOON」をリリース。カジヒデキの作った初めての曲「He,She and I」が、カップリング曲として収録されるのでした。
「ブリッジは、1989年のバンド結成から、3年かかってメジャーデビューしたんですが、デビュー当時は、メンバーは、他のバンドを掛け持ちしたり、アルバイトをしながら、活動を続けていたんです。
カジヒデキも、渋谷の輸入レコード店でアルバイトを続けていたんですが、彼は喋り上手で、キャラクター性も高く、次第に雑誌などの取材対応は、彼の役割となり、彼がバンドの中心的存在になっていったんです」。
ブリッジが目指した、"ネオアコ"は、オシャレな音楽として、音楽ファンに受け入れられ、フリッパーズ・ギターと共に、J-POPにネオアコブームを巻き起こします。
しかし、日本にネオアコを生み出したフリパーズ・ギターは1991年、早々に解散し、その中心人物であった小山田圭吾はコーネリアスとして、ネオアコから脱却し、渋谷系と呼ばれていた他のミュージシャン達の作品もアシッド・ジャズをはじめとした、多種多様な音楽との融合が始まり、ブリッジも、メンバー間で音楽性にズレが生まれ始め、ついに、1995年解散します。
「解散後、所属レコード会社のレーベル「トラットリア」は、カジヒデキの喋り上手で、万人受けするキャラクター性を活かすために、彼にシンガーソングライターとして活動する事を提案。カジヒデキも、その提案を受け入れて、シンガーソングライターとして、再出発する事を決めたんです」。
バンドから、ソロへ。カジヒデキは、戸惑う事無く、再出発の道を選びますが、シンガーソングライターとして、やるべき音楽の方向性については、深く悩みます。
「当時、ネオアコブームのピークは過ぎ去って、"ネオアコ=カッコ悪い"と言ったイメージが、一部の音楽ファンの間には、あったんです。カジ自身も、そんな状況の下で、どんな音楽を作っていいのか、さまざまな葛藤を抱え、一時期は、AORっぽいものを作る事も考えていたんです」。
1995冬、カジヒデキの下へ、CM音楽制作会社「MR.MUSIC」から、CMソングのオファーが届きます。
「MR.MUSICのスタッフは、最初、小山田圭吾に、CMソングを依頼したんですが、彼は忙しくて、曲を作る時間が無く、そこで小山田圭吾は、MR.MUSICのスタッフにカジヒデキを紹介したんです」。
カジヒデキは、CM用に、15秒のインストゥルメンタルの楽曲を制作します。これは、彼が、音楽面での迷いをプレッシャーに感じる事無く作れるようにと考えた、周囲のスタッフの配慮からでした。当時、NTTドコモの、ポケベルのCMに使われたこの曲は、大きな反響を呼びます。そして、カジヒデキ、続けて別のCMソングの依頼を受けます。
「カジは、15秒サイズの曲を作って、評価を貰ったことで、自分が作る音楽に、あらためて自信を持ったんです。そして、改めて"自分には、ネオアコしかない"と考えたんです。
爽やかでポップなサウンドと、可愛いくて、甘く優しい歌声。この二つの、絶妙なバランスが、自分の個性でもあると確信したんです」。
こうして、1996年8月、カジヒデキが、キューピーのCMソング用に作った「Siesta~君のハートのナチュラル」が収録された、ミニアルバム『MUSCAT E.P.』が、リリースされるのでした。
1996年8月、カジヒデキは、この「Siesta~君のハートのナチュラル」も収録されたミニアルバム『MUSCAT E.P.』で、ソロデビューを飾ります。
「カジヒデキは、フリッパーズ・ギターと共に、ネオアコ旋風を巻き起こしたブリッジを解散後、音楽の方向性に悩み、一時期は別の音楽ジャンルにトライする事も真剣に考えていました。しかし、憧れの存在でもあった、小山田圭吾の薦めもあって、改めてネオアコにこだわって作ったのが、この曲です。軽快なポップ感あふれるこの曲は、ブリッジ時代のファンはもちろん、新たなファン層も獲得し、まさに
カジヒデキの真骨頂とも言える曲になったのではないでしょうか」。
カジヒデキの宣伝担当である竹田さんは、こう、語ってくれました。
憧れのアーティストからの推薦が、1人のミュージシャンの迷いを拭い去った、
J-POPナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Happy Like a Honeybee/フリッパーズ・ギター
M2.He,She and I/ブリッジ
M3.Siesta~君のハートのナチュラル/カジヒデキ
229回目の今日お届けしたのは、「access/MOONSHINE DANCE」でした。
「1987年、僕が、楽器店でアルバイトをしていた時に、ヤマハの人を通じて、TM NEWTWORKの小室哲哉さんを紹介されたんです。小室さんは、コンピュータで制御された、膨大な打ち込みサウンドを、ライブで再現したいと考えていたらしく、当時、シンセサイザーなどの機材に熟知していた僕に、白羽の矢が立ったんです」。
浅倉大介さんは、デビューのキッカケともなった、小室哲哉さんとの出会いについて、こう語ります。
「小さい頃から、デビット・フォスターやデュラン・デュラン、ウォルト・ディズニーなど幅広いジャンルの音楽を聴いて育った僕は、次第に、自分の頭の中で音楽の作り方をイメージするようになったんです。そして、いったいどんな楽器を使えば、自分がイメージした音が作れるのか考えて、辿り着いたのが、YMOが使って、一躍注目を集めていた楽器、シンセサイザーでした」。
浅倉大介は、1980年代、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新なサウンドで注目を集めていたYMOに習って、小型のアナログシンセを購入し、独学で弾き始めます。次に、浅倉大介は、4トラックカセットレコーダーも購入し、多重録音での曲作りにもチャンレンジします。そして、浅倉大介は、その趣味が高じて、楽器店でアルバイトを始め、そこで、小室哲哉と、運命の出会いを果たすのでした。
1987年11月、浅倉大介は、小室哲哉の誘いで、TM NETWORKのライブツアーに、マニュピュレーターとして参加。その後も、ライブツアーにサポート・キーボーディストとして参加したり、小室哲哉が1991年に手掛けた映画『天と地と』のサウンドトラックや、翌1992年のミュージカル『マドモアゼル モーツァルト』のサウンドトラックのレコーディングにも参加します。
1991年11月、浅倉大介は、小室哲哉にソロアルバムを作ることを提案され、1stソロアルバム『LANDING TIMEMACHINE』をリリースします。
「僕は、アルバムを聴いてくれた人達が、曲を聞いて、自分の頭の中で、ストーリーや空間を創造してもらいたかったので、TM NETWORKのカバーソングを中心に、インストゥルメンタル曲で構成したアルバムを作ったんです」。
翌1992年7月、浅倉大介は、2ndアルバムを作る際に、今度は、ボーカルを起用した曲を作る事を決め、レコード会社「ファンハウス」のスタッフから紹介された、貴水博之をボーカリストに起用。9月に、2ndアルバム『D-Trick』をリリースするのでした。
1992年9月にリリースされた、浅倉大介の2ndアルバム『D-Trick』は、浅倉が、初めて全てオリジナル曲で作ったアルバムで、貴水博之が3曲ほど、ボーカルとして参加します。
「僕が初めて浅倉さんに会った時、彼は赤いジャケットを着ていて、キラキラと目を輝かしていたのが印象に残っています。浅倉さんが作った曲は、今まで聴いた事が無い、高揚感高まる曲ばかりで、僕は"何かが起きるぞ"と興奮したのを、今でもハッキリと覚えています」貴水博之さんは、浅倉大介さんとの出会いについて、こう語ります。
一方の浅倉大介さんは、貴水博之さんをボーカルに迎えて、2ndアルバムを作った理由を、こう語ります。
「インストゥルメンタル曲は、メロディの音域や曲の構成に制限がありません。ボーカル曲は、歌の部分にさまざまな制限があるし、歌詞の世界観にも左右されてしまいます。ただ、歌詞があることで、聴く人にメッセージを伝える事ができる。この時、僕は、歌詞があることで、伝えられるメッセージや音楽性が広がっていくことに、トライしたくなったんです。僕は、貴水博之のハイトーンボイスに魅かれ、彼の声ならば、分厚いシンセサウンドと上手く融合できるんじゃないかと考えたんです」。
2ndアルバム『D-Trick』で手応えをつかんだ浅倉大介は、さらなる可能性を追求していくために、貴水博之とユニットを組む事を決意します。
そして、その年の9月、東京・日本教育会館で行われたソロライブのアンコールに、貴水博之を呼び込み、ファンの前でユニット「access」を結成することを発表し、その場で2曲演奏します。
さらに、2ヵ月後の1992年11月、accessの1stシングル「VIRGIN EMOTION」を、リリースするのでした。
1992年11月、accessがリリースした1stシングル「VIRGIN EMOTION」は、セールスチャート最高位40位、約1万6千枚の売上に終わりますが、accessは、翌1993年に入っても、1月と5月にシングルを、2月には1stアルバム『FAST ACCESS』を立て続けにリリースします。その中でも、アルバム『FAST ACCESS』は、セールスチャート最高位2位を記録。浅倉と貴水のふたりが作る、エレクトリックな打ち込みサウンドに、ロックテイストのギターを、個性的に融合させたダンスロックサウンドは、「SYNC-BEAT」と名付けられます。
そして、accessのふたりは、9月に発売を予定していた、2ndアルバムの先行シングル的な位置づけで、ある曲を作ります。
「僕は、それまでに作った、3枚のシングルと1枚のアルバム、そして3月に行った1stライブツアーでの、ファンのaccessの曲に対する反応を踏まえて曲を作り、この曲を、第1期accessの集大成にするつもりだったんです。僕は、いつもと同じように、独りでスタジオに籠って曲を作って、ある程度アレンジまで完成した段階で、貴水に音を渡して、歌詞を書いてもらいました。メロディのポイントとなったのは、1度聴けば、誰もが口ずさめるメロディラインでした。特にサビ冒頭部がそうです」。浅倉さんは、こう振返ります。
こうして、1993年8月、accessの4枚目のシングル「MOONSHINE DANCE」は、リリースされるのでした。
1993年8月にリリースされた、accessの4枚目のシングル「MOONSHINE DANCE」は、セールスチャート最高位4位、約26万枚の売上を記録します。
「この曲は、2ndアルバム『accessⅡ』への橋渡しになった、思い入れのある曲です。また、去年の大晦日に行ったカウントダウンライブでは、ファンが選ぶaccessの好きな曲投票で、堂々1位に輝いた曲で、ファンの人達にとっても大切な曲だと思います」浅倉さんは、この曲について、こう語ります。
また貴水さんも、「accessの代表曲でもあるし、僕個人も、初心に戻りたい時は、必ずこの曲のPVを観て、当時の気持ちを思い出す、印象深い曲です」こう語ってくれました
インストゥルメンタル曲に、ボーカルが融合することで、音の楽しさが無限に広がる、
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ライディーン/YMO
M2.COSMIC RUNAWAY/浅倉大介
M3.VIRGIN EMOTION/access
M4.MOONSHINE DANCE/access
228回目の今日お届けしたのは、「奥 華子/初恋」でした。
1978年3月、千葉県船橋市に生まれた奥華子は、小学校でトランペットを習い始めると、中学進学後に、地元のオーケストラに入団して、演奏活動を続けます。また奥華子は、それまで、J-POPとは無縁の生活を送っていましたが、ある日、偶然耳にした、小田和正の歌声に魅かれ、その後は、オフコースや、槇原敬之が作った歌の歌詞を読み、歌の魅力に取りつかれていきます。
1996年、奥華子は、彼女が高校3年生の時に、友人が曲を作って歌う姿を目にしたことをきっかけに、彼女自身も、曲を作り始めます。
1997年春、奥華子は、音楽大学の器楽科に入学しますが、自分がやりたかった事が、歌を歌うことだと気がつき、翌1998年から、都内のライブハウスで、キーボードの弾き語りでステージに立ち、歌うようになります。
「彼女は、ライブハウスで歌うようになっても、まだこの時点では、音楽で生計を立てていく考えは持っていなかったそうです。しかし、しばらくすると、"自分はこのままでいいんだろうか"と思い始め、その迷いを断ち切るために、路上ライブをする事を思いついたそうです」。所属レコード会社「ポニーキャニオン」のスタッフは、当時について、こう語ります。
2004年2月、東京・渋谷で路上ライブをはじめた奥華子は、彼女の優しい歌声に魅かれ、足を止めて聴いてくれる人が少しずつ増えていくことに、ライブハウスとは違う充実感を感じ、改めて歌を歌うことの、素晴らしさを実感します。こうして、奥華子は、インディーズレーベルからCDをリリースする傍らで、全国各地で路上ライブを続け、着実にファンを獲得。路上ライブを始めて、1年半が過ぎた、2005年7月、メジャー1stシングル「やさしい花」をリリースするのでした。
2005年7月、奥華子は、1stシングル「やさしい花」をリリース後も、インディーズ時代と変わらず、創作活動と並行して、彼女の原点ともなった路上ライブを続けます。
「彼女は、歌を歌い始めた直後は、メジャーデビューは簡単にできると考えていたようですが、実際には、7年もかかりました。ライブハウスだけで歌っていた頃は、彼女の歌を聴きに来るお客さんは、ほとんどいなくて、その状況を打ち破るために始めた路上ライブで、やっと彼女の歌に魅かれるファンを掴みとる事ができたんです。だから、メジャーデビューが決まった後も、割りとあっさりとしていて、それよりも、ライブに来てくれる人を、どうやったら自分の歌で感動させる事ができるのかを常に考えていました」
奥華子の当時について、ポニーキャニオンのスタッフは、こう振り返ります。
2006年春、奥華子の下へ、彼女の曲を聴いた、映画監督・細田守さんから、その年の夏に公開が予定されていたアニメ映画『時をかける少女』の、主題歌提供の話が届きます。
奥華子は、映画の台本と絵コンテ、そして細田監督からもらった"せつなさの中に感じる前向きな気持ちを表現して欲しい"というアドバイスを参考にして楽曲を制作。2006年7月に、映画『時をかける少女』の主題歌、「ガーネット」をリリースするのでした。
2006年7月、奥華子がリリースした、4枚目のシングル「ガーネット」。
「「ガーネット」は、映画の主題歌として台本を読み、監督とも色々と話をして作った曲だったので、それまで作った曲とは違って、自分だけでは絶対できなかった曲だし、色々な人との出会いによって、曲が出来る事を実感した曲でもあるんです。この曲を作った事で、私は、自分の存在を多くの人達に知ってもらう事ができたと同時に、切ない恋の歌を、以前より意識して作るようになったんです」。奥華子さんは、「ガーネット」を作った時の気持ちについて、こう語ります。
2009年、全国32ヵ所を回るライブツアーを行っていた奥華子は、ある日、あるひとつの変化に気がつきます。
「どの会場にも、私よりも若い、女子中高生たちが、たくさん来てくれるようになっていたんです。彼女達は、動画サイトなどで、私のPVなどを観て、興味を持ってくれて、それで、ライブに来てくれていたんです。ライブの終了後、彼女達が書いてくれたアンケートを見てみると、好きな曲のほとんどが、恋愛、特に失恋に関する曲だったんです。私は、若い世代の人達に、自分の失恋ソングがこんなに受け入れてもらえるならば、もっと聴く人に届く、究極の失恋ソングを作ろうと考えたんです」。
「まず、メロディを作っている時に、サビの部分"あなたは友達 今日から友達"というフレーズが浮かんできたんです。そこから、全体の歌詞を作っていったんですが、メロディと、歌詞のマッチングは、私が一番大事にしている点でもあるので、この曲は凄くこだわりました。個人的な感覚で言えば、歌詞というのは、漠然と抽象的な言い方をすればするほど、幅広く、年齢層が高い方にも聴きやすい感じになると思うんです。逆に、設定や表現を細かくしたり、例えば「友達」と言う言葉を使うと、今まさに青春時代を過ごしていて、恋に夢中になっている若い世代の人にはリアルに伝わるのかなって思うんですね。なので、この曲はすごくリアルな歌詞を意識して作ったんです。本当は、歌詞の展開として、最後は失恋から立ち直って前を向いていくという風にも作っていたんですが、説得力が無くなったんで、ひたすら最後まで思い続けているという曲にしたんです」。
奥華子は、曲のタイトルを、失恋した時に、どれだけ相手の事を好きだったかのか、初めて気が付く時の気持ちから、「初恋」と名付けます。こうして、ライブのアンケートをヒントにして作った歌「初恋」は、2009年12月に全国3ヵ所で行われたクリスマスライブでいち早く披露され、翌2010年3月、10枚目のシングルとしてリリースされるのでした。
2010年3月にリリースされた、奥華子の10枚目のシングル「初恋」は、セールスチャート自己最高の10位を記録します。
「たくさんの人達に知ってもらえた曲だし、初めてセールスチャート10位になって、私以上に周りのスタッフのみんなが喜んでくれた事が、凄く嬉しかったですね。自分自身、タイアップとかも関係なく、自然な形で作って歌った曲が、少しでも評価された事が、自信になりました」。最後に、奥華子さんは、こう語ってくれました。
彼女が一番大切にしてきたファンの要望に応える気持ちが、
J-POP失恋ソングの名曲を生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ラブ・ストーリーは突然に/小田和正
M2.やさしい花/奥 華子
M3.ガーネット/奥 華子
M4.初恋/奥 華子
227回目の今日お届けしたのは、「ZOO/Choo Choo TRAIN」でした。
「僕は、大学在学中の1986年頃から、大学の先輩でもある、シンガーソングライターの池田聡さんのライブに、コーラスとして参加して、そこで出会った、音楽プロデューサーの工藤史人さんに、曲作りのイロハを教えてもらったんです。その後、僕は、作曲家としても仕事を始め、1989年か1990年だった思いますが、フォーライフレコードのスタッフからの依頼で、ZOOの1stシングルを作る事になったんです」
ZOOのデビュー直後の曲を手掛けていた、シンガーソングライターの中西圭三さんは、こう語ります。
1989年6月、テレビ朝日でスタートしたダンス番組『DADA L.M.D』に参加したダンサー8人が、ダンスユニット「L.M.Dダンサー」を結成。その年の10月に、彼らはユニット名を「ZOO」と改名し、翌1990年1月に、ダンサー1名を加え9人となります。そして、ZOOは、4月から新たに『GROOVIN SCENE DADA』としてリニューアルした番組のオープニング・テーマを、歌う事になるのでした。
「『GROOVIN SCENE DADA』は、1970年代に、アメリカの音楽シーンで一世を風靡したダンス番組、『ソウルトレイン』をイメージした番組でした。当時は、日本でも、バラエティ番組から生まれたダンスコンテスト「ダンス甲子園」が人気を集め、POPSから派生したダンス・ミュージックが、脚光を集めていた時期でした。僕も曲作りの中で、ダンス・ミュージックを意識し始めていて、そういった意味では、曲を作るタイミング的は恵まれていたと思います。」
「ただ、当時のJ-POPの中では、ダンス・ミュージックは、まだまだアンダーグラウンドなイメージが強く、代表的なアーティストだった久保田利伸さん、バブルガム・ブラザーズ、m.c.A・Tが作っていた曲も、ファンキーなリズム感を活かした曲がほとんどでした。僕は、自分がダンス・ミュージックを作るなら、彼らと同じ路線で作るのではなく、番組が"ソウルトレイン"をイメージするなら、"フィラデルフィア・ソウル"を参考にした方がいいのでないかと考えたんです。 "フィラデルフィア・ソウル"は、ストリングスやブラス・アンサンブルを使っているのが特長で、僕は、作曲を学んだ工藤さんから、そのスタイルを教えてもらったんです。僕は、弦の響きを使った曲が大好きだったこともあって、"フィラデルフィア・ソウル"が好きになり、ZOOの曲を作る事が決まった時、そのイメージで、曲を作ることを思いついたんです」。
こうして、1990年5月、中西圭三が作った、ZOOの1stシングル『Careless Dance』は、リリースされるのでした。
1990年5月、中西圭三が作った、ZOOの1stシングル「Careless Dance』は、セールスチャート最高位64位、約1万6千万の売上を記録します。
「リズム感を大切に作った、1stシングル「Careless Dance」は、『GROOVIN SCENE DADA』以外にも、同じテレビ朝日の音楽バラエティ番組『華麗にAh!so』のオープニング・テーマ曲としても使われました。しかし、二つの番組のオープニング・テーマ曲に使われたにも関わらず、セールスは今ひとつ伸び悩んだんです」
1990年冬、フォーライフレコードのスタッフは、ZOOの2ndシングルを、当時、、ZOOのライバル的な存在でもあったLLブラザーズの音楽プロデュースを手掛けていた羽田一郎に依頼します。
「まだ実績が無かった僕や、当時、一緒に曲を作っていた小西貴雄にとって、実績のある羽田さんは、当然、意識する存在でした。結果的に、2ndシングルを羽田さんが作る事が決まったことに対して、悔しかったけど、僕らにとっては、その次の曲を作るための大きな刺激となったんです」。
1991年2月、羽田一郎が手掛けた、ZOOの2ndシングル「GIVEN」はリリースされますが、セールスチャート最高位56位、約1万6千枚の売上におわり、中西圭三の下へ、7月に発売予定の、3枚目のシングルを作るチャンスが再び巡ってきます。
「ZOOのシングルを作るチャンスが、再び巡ってきた時、とにかく僕は、何か聴く人にインパクトを与える曲を作りたいと考え、当時、日本のダンスミュージックシーンの中でも、MCハマーと並んで大きくクローズアップされていた、ボビー・ブラウンを意識した、ポップで楽しく、踊れる曲を作ることを、漠然としてですが、考えたんです」
1991年7月、再び中西圭三が作った、ZOOの3rdシングル「Native」は、約3万2千枚の売上を記録し、それまでの2作と比べると、売上も、少しながら増加します。
「特にコンセプトとして狙った訳ではないんですが、曲を仕上げていくにつれて、曲にアウトドア感とヒップな感じが、ほど良く混ざり合って、セールス的には今ひとつでしたが、自分の中では、曲作りに対する手ごたえとしては残ったんです」。中西圭三さんは、この曲について、こう語ります。
そして、この3rdシングルを聴いた、JR東日本の広報担当者から、ZOO、そして中西圭三の下へ、その年の冬のJR東日本スキーキャンペーンソング提供の話が届きます。
「1980年代後半から、全国的にスキーブームが到来していて、若者は、冬になると、北海道や、新潟県の苗場や湯沢町へスキーに出掛けるようになっていました。そんな時代、JR東日本も、上越新幹線を使って、自社で運営を始めた「ガーラ湯沢スキー場」への集客を目的に、「JR東日本SKI SKIキャンペーン」を展開する事になり、そのキャンペーンソングの話を、僕とZOOの下へ持って来てくれたんです」。
「JR東日本側からは、英語で蒸気機関車の音を表現する擬音「Choo Choo 」と言う言葉を歌詞に使って、リズム感のある、ダンス・ミュージックを作って欲しいと言われました。
僕は、その「Choo Choo」と言う言葉から、イメージを膨らませ、時代が駆け抜けていくようなリズム感やテンポを持った曲を作っていったんです。さらに、当時、一緒に曲を作っていた小西貴雄が、アメリカのブラックミュージック・アーティスト「D-TRAIN」の曲「Keep On」をサンプリングして、イントロに使うことを提案してくれたんです」。中西圭三さんは当時をこう振り返ります。
出来上がったメロディに、1stシングルから、中西さんとコンビで曲を作ってきた、作詞家の佐藤ありすさんが、歌詞を付け、曲は完成します。
こうして、「雪男。雪女」をテーマに、JR東日本が始めた、「SKI SKIキャンペーン」CMソング、ZOOの4枚目のシングル「Choo Choo TRAIN」は、1991年11月にリリースされるのでした。
ZOOの4枚目のシングル「Choo Choo TRAIN」は、リリースに先駆け10月からCMがOAされると、話題を集め、11月にリリースされると、一気にブレイクし、セールスチャート最高位3位、約105万枚の売上を記録します。
「リリースから12年後の2003年、ZOOのオリジナルメンバーの一人でもあったHIROが、彼がリーダーを務めるEXILEの曲として改めてリリースして、今では、EXILEのライブでも欠かせない曲となっています。オリジナルメンバーのHIROが、立場が変わっても、この曲をリスペクトし、歌い続けくれている事に感謝しています。と同時に、これからも歌い続けて欲しいと願っています」
最後に、中西圭三さんは、こう語ってくれました。
日本のダンス・ミュージックがJ-POPのカテゴリーのひとつとして認知されるキッカケとなった、
J-POPダンスナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ソウルトレインのテーマ/MFSB
M2.Careless Dance/ZOO
M3.Native/ZOO
M4.Choo Choo TRAIN/ZOO
226回目の今日お届けしたのは、「広瀬香美/ゲレンデがとけるほど恋したい」でした。
「僕が彼女に初めて出会ったのは、1990年か1991年です。当時僕が所属していたセクションでは、フライング・キッズ、アン・ルイス、小泉今日子、嘉門達夫と、さまざまなアーティストを担当していたんですが、何か、新しい軸となる、アーティストを探していたんです。そんな時に、LA在住の日本人ギタリスト・平野T.J.ヨーイチさんから、彼女を紹介されたんです」。
デビュー前から、ビクターエンタテイメントで、広瀬香美の共同プロデューサーを務めている田村さんは、こう語ります。
1966年4月、福岡県太宰府市に生まれた広瀬香美は、地元の福岡女学院音楽科を卒業後、国立音楽大学作曲家へ進学。大学在学中にアメリカ・ロサンゼルスを旅行した際に観た、ボビー・ブラウンとベイビー・フェイスのライブをキッカケに、彼女はPOPSに夢中になっていきます。
1988年、広瀬香美は、国立音楽大学を卒業後、アメリカに音楽留学し、友人からマイケル・ジャクソンのボイス・トレーナー、セス・リッグスを紹介されて、ボーカルレッスンをスタート。その後、LAで知り合った日本人ギタリスト・平野T.J.ヨーイチを通じて、ビクターエンタテインメントの田村さんを紹介され、1991年からデモテープ作りを始めます。
「当時は、大黒摩季やZARDといった、TVにも出ない、ライブもやらない。ただ曲を作って、リリースするだけの、それまでのアーティストとは違った、新しい存在価値を持ったアーティストが続々とデビューし始めていた時期でした。そこで僕は、広瀬を彼女達と同じような存在に育ててみたいと考えたんです。そう言った意味では、彼女がデビューするタイミングは恵まれていたと思います。
ただ、広瀬は、バラードやスローテンポの曲作りは得意でしたが、アップテンポの曲作りが苦手だったんです。当時、音楽業界では、デビュー曲は、アップテンポの曲を選ぶのが常識だったので、僕は考え抜いた末に、彼女をシングルではなく、アルバムでデビューさせて、音楽ファンが彼女に対してどういった反応を示すのか、確かめることにしたんです」。
こうして、1992年7月、広瀬香美は、まずは1stアルバム『Bingo!』をリリース。半年後の12月に、1stシングル「愛があれば大丈夫」をリリースするのでした。
1992年12月、広瀬香美は、映画『病は気から 病院へ行こう2』の主題歌にも起用された、1stシングル「愛があれば大丈夫」をリリースします。
「広瀬は、1stアルバム『Bingo!』を作った頃、まだレコーディング経験や知識にも乏しく、ボーカリストとしても、実際のレコーディングの現場で、自分をどう表現すれば良いのか分かっていなかったんです。そこで僕は、1stアルバムでは、Hip-Hopを始め、多彩なジャンルの曲を、彼女に作って歌わせることにしたんです。とにかく、色々な曲を聴かせて、表現力を高めていったんです」。
田村さんは、広瀬香美に、メロディのコードや、テンポ感など曲作りについても具体的な指示を出して、彼女が苦手としていたアップテンポな曲作りに、一緒に取り組んでいきます。
1993年夏、広瀬香美の下へ、スポーツ用品専門店「アルペン」から、冬のキャンペーンソング提供の話が届きます。
「アルペンの担当者が、広瀬香美が、その年の3月にリリースした、2ndアルバム『GOOD LUCK!』を聴いて、彼女の音域の広い歌声と、ドラマティックで聞き心地の良いメロディを評価してくれ、オファーしてくれたんです。僕は、彼女に、CMソングだから、普段はあまり使わない、インパクトのある言葉を使ったほうがいいと、アドバイスしました」。田村さんは、当時をこう振り返ります。
広瀬香美は、彼女が、中学時代に、街中を歩いている時に浮かんだメロディを書き留めておいたメモを参考に、デモテープを制作。歌詞も、田村さんのアドバイスに従い、普段は使わない言葉を、わざとサビの部分に使って曲を作っていきます。
こうして、1993年12月、「アルペン」の冬のキャンペーンソングに起用された、広瀬香美の3rdシングル「ロマンスの神様」は、リリースされるのでした。
1993年12月にリリースされた、広瀬香美の3rdシングル「ロマンスの神様」は、セールスチャート最高位1位、約175万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「"ロマンスの神様"という、普段は使わない言葉をサビに使った事に、当時、レコード会社内部には、数多くの反対意見があったんです。しかし、反対を押し切ってリリースし、結果的には大ヒットに繋がって、今までの常識に捉われてはいけない、という気持ちが、僕らに生まれてきたんです。サウンドやメロディの流行りは、時代によって変わるし、歌詞の傾向や言葉遣いもどんどん変わっていく。この曲で、広瀬香美のPOPSが完成したとは思わず、その後も、新しいサウンドをどんどん聴いて、取り入れられるものは、貪欲に取り入れていくことにしたんです」。
翌1994年、広瀬香美は再びアルペンの冬のキャンペーンソングに「幸せをつかみたい」を提供。さらにその翌年の1995年、広瀬香美の下に、3年連続となる、アルペンの冬のキャンペーンソング提供の話と、12月に公開予定の映画の主題歌提供の話が届きます。
「映画のスポンサーとなったのが、アルペンで、映画のタイトルを、そのまま曲のタイトルに使って、さらに、その曲を冬のキャンペーンソングに使う事が条件だったんです」田村さんは、当時を、こう振り返ります。
広瀬香美は、この曲のデモテープを、まずミディアムテンポで作った後、次にラフミックスの段階で、アップテンポに変えていきます。そして完成したメロディに、歌詞を書く段階で、田村さんは、歌詞にある仕掛けを作ります。
「僕は、映画の主題歌としてよりも、CMソングとして使われる事を優先的に考えたんです。15秒という限られた時間の中に、キャッチーな言葉を当てはめられれば、「ロマンスの神様」と同じように、曲を聴いた人達に強いインパクトを与える事ができるはず。広瀬も、僕の考えに共感してくれて、CMに使われる曲の部分に、"絶好調 真冬の恋"という、普段はあまり使わないフレーズを使ったんです」。
こうして、3年連続となるアルペンのCMソングで、映画「ゲレンデがとけるほど恋したい」の主題歌となった、広瀬香美の7枚目のシングル「ゲレンデがとけるほど恋したい」は、1995年12月にリリースされるのでした。
1995年12月にリリースされた、広瀬香美7枚目のシングル「ゲレンデがとけるほど恋したい」は、セールスチャート最高位6位、約39万枚の売上を記録します。
「CMソング1曲目に使われた「ロマンスの神様」から始まった、広瀬香美のPOPS路線も、この3作目の「ゲレンデがとけるほど恋したい」でひと区切りとなりました。それは、僕と彼女の中で、デビュー前の彼女の課題であった、"アップテンポな曲への苦手意識"がクリアされたと判断したからです。ですから、この曲は、シンガーソングライター広瀬香美の、第1段階の集大成とも言える曲です」最後に、田村さんは、こう振り返ってくれました。
CMソングという限られた条件の中でのソングライティングが、
アーティスト自信の課題もクリアさせた、J-POPの冬の定番ソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Every Little Step/ボビー・ブラウン
M2.愛があれば大丈夫/広瀬香美
M3.ロマンスの神様/広瀬香美
M4.ゲレンデがとけるほど恋したい/広瀬香美
225回目の今日お届けしたのは、「松任谷由実/サーフ天国、スキー天国」でした。
「ユーミンが、アルバム『SURF&SNOW』を作った原点は、1974年にリリースした、2ndアルバム『MISSLIM』に収録されていた曲「海を見ていた午後」にあると、僕は思っています。ユーミンが、海を眺めながらソーダ水を飲み、目の前の海を貨物船が通る情景を描いたこの曲は、その後の彼女が、海や山、季節の移ろい、そして季節にちなんだ行事などをテーマに曲を書く、出発点となった曲ではないでしょうか」。松任谷由実の制作ディレクターを務めた、下河辺さんは、こう語ります。
1972年7月、シングル「返事はいらない」でデビューした、シンガーソングライター荒井由実は、2ndアルバム『MISSLIM』に収録した曲「海を見ていた午後」で、目に映る物、風景を、歌詞に登場する主人公とシンクロさせて描く、ユーミンならではの手法を確立させます。
1976年秋、ユーミンは、音楽面で彼女をサポートしていた、松任谷正隆さんと結婚。家庭と歌手活動の両立の難しさから、一時は、シンガーとしては引退し、作家として活動することを考えます。しかし、時が経つにつれ、スタッフの説得、そして何により、彼女自身が、自らが曲を書いて、自らが歌うことへの強い思いを捨てきれず、1978年3月、ユーミンは、シンガーソングライターとして音楽シーンに復帰し、1年半ぶりとなるアルバム『紅雀』をリリース。8月には、神奈川県・葉山町の葉山マリーナで、後に「SURF&SNOW in逗子マリーナ」として生まれ変わっていく、初めてのリゾート・コンサート「葉山マリーナ サマーリゾートコンサートVol.1」を開催します。
1978年8月、ユーミンは、日本のヨットの発祥地として、当時、流行に敏感な若者の間では、マリンリゾートのメッカとして賑わっていた神奈川県・葉山町の「葉山マリーナ」で、初めてのリゾート・コンサートを開催。ユーミンが、マリーナ内のプールに作られたステージで繰り広げたコンサートでは、水を使った演出や、アウトドアならではの開放感で、話題となります。
さらに、その年の11月にリリースした、アルバム『流線形'80』には、「ロッヂで待つクリスマス」、「真冬のサーファー」と、スキーやサーフィンを題材にした曲を収録し、若者の間には、"リゾート=ユーミン"といったイメージが、少しずつ植えつけられていきます。
「当時は、ユーミン自身、サーフィンや、スキーの経験は無かったはずです。ただ、彼女は、当時の大学生が夢中になって読んでいた、『POPEYE』や『JJ』と言ったファッション雑誌を、若者達と同じように読んで、流行の流れをつかみ、夏=海、海=サーフィン。もしくは、冬=雪、雪=スキーと言うイメージを膨らませて、彼女の強みでもあった情景描写溢れる、高いソングライティング能力で、リゾートにあこがれる若者たちの心をつかむ曲を作っていったんです」。下河辺さんは、当時を、こう振り返ります。
ユーミンは、彼女の曲の中でも、リゾートをテーマにした曲の人気が、高い事をメディアや、コンサートでも察知。1980年夏、その年の冬にリリースを予定していた次のアルバムを、リゾートをテーマに作る事を決め、その中の一曲として、2年前の1978年に、彼女が、歌手・川崎龍介に提供した曲を、歌詞、アレンジ、そしてタイトルを変えて収録する事を決めます。
「1976年、僕が、加山雄三さんの事務所「加山プロモーション」からデビューが決まって、所属レコード会社「ワーナー・ミュージック」のディレクターと打合せを進めていた時、当時、彼の音楽仲間だった、ユーミンを紹介されたんです。それで、ユーミンが、僕のために3曲ほど作ってくれる事が決まったんです」。
現在「RKK熊本放送」でラジオパーソナリティを務める、川崎龍介さんは、ユーミンから曲を提供された当時を、こう振り返ります。
「先にメロディができたんですが、歌詞を書く段階で、符割が上手くいかず、もう一度、メロディを直して、さらに、アレンジも、3回直して、制作開始から、半年以上が経って、ようやく曲が完成したんです」。
こうして、ユーミンが作詞・作曲した、川崎龍介の1stシングル「Summer Breeze」は、1978年6月にリリースされるのでした。
1978年6月にリリースされた、川崎龍介の1stシングル「Summer Breeze」。
「実は、1stシングルをリリースした直後に、担当ディレクターがレコード会社を退職してしまい、ユーミンが作ってくれた残りの2曲を、僕が歌うチャンスは無くなってしまいました。お蔵入りになった曲は、その後、ユーミン自身や、別のアーティストの曲になりました。この曲をリリースした2年後の1980年に、ユーミンがこの曲を、タイトルや歌詞を変えてリリースした事を知った時は、驚きました。余談ですが、事務所に印税収入の一部が入って、スタッフが喜んだ話を聞いています」。
川崎龍介さんは、当時をこう振り返ります。
さて、1980年の夏。ユーミンは、川崎龍介さんに提供した曲のリメイク曲を含んだ、リゾートをテーマにしたアルバムを作り始めます。
「彼女はアルバムを作る時、いつも最初は、3~4曲作ってスタジオに入ります。その後、アルバムテーマに沿って、スタジオの中で残りの曲を、メロディから作り始め、最後に歌詞を書いていくパターンが多いんです。この時も、同じでした。この曲については、既にメロディの原形があったので、一部を直した後、いかに歌詞をアルバムのテーマに沿って、書き直していく事がポイントでした。まず、曲のサビ部分"サーフ天国、スキー天国"という言葉を書いた後、次にユーミンがTVや雑誌で研究したスキーやサーフィンの情景を、言葉に置き換えていったんです」。当時、ユーミンを担当していた制作ディレクター下河辺さんは、こう振り返ります。
こうして、時代の一歩先を捉えた、ユーミンのアルバム『SURF&SNOW』は、1980年12月にリリースされるのでした。
1980年12月にリリースされた、松任谷由実のアルバム『SURF&SNOW』に収録された「サーフ天国、スキー天国」は、冬の定番曲として毎年、TVやラジオから流れ、1987年には映画『私をスキーに連れてって』の挿入歌としても起用されます。
「ユーミンは、アルバム『SURF&SNOW』をリリースした翌年の1981年3月に、リゾート・コンサートのウィンターバージョン「SURF&SNOW in 苗場」を初めて開催します。"スキーの後に楽しめるコンサートを"というコンセプトで始まったこのコンサートは、その後、苗場の冬には欠かせない、イベントへと成長し、ユーミンには、"冬の女王"と言う名のニックネームも付けられました。時代を先取りする感性に優れたユーミンの音楽は、このアルバムをキッカケに、若者たちのデートには欠かせない音楽になったと言っても過言ではないでしょう」。
最後に、下河辺さんは、こう振り返ってくれました。
若者の流行を敏感にキャッチし、歌で表現した、J-POPの冬の定番ソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.海を見ていた午後/荒井由実
M2.ロッヂで待つクリスマス/松任谷由実
M3.Summer Breeze/川崎龍介
M4.サーフ天国、スキー天国/松任谷由実
224回目の今日お届けしたのは、「キンモクセイ/二人のアカボシ」でした。
「メンバーそれぞれ地元の友達同士で、高校ではお互いにバンドを組んで学園祭に出たり、地元のライブハウスでイベントを組んだりと共に刺激し合い、成長し合う仲でした。その後音楽の専門学校に進んだりと本格的に音楽に打ち込むようになっていき、プロの道を意識した活動を始めるべくキンモクセイの前身となるバンドを組んだのは、音楽の専門学校を卒業した頃だったように覚えています。メンバーそれぞれ自分の得意とするジャンルは様々で、ソウルが好きだったり、はたまたパンクが好きだったり、ジャズが好きだったりと、どちらかと言うと一見お互い引き合うはずも無いような、アンバランスな組み合わせでしたが、この5人が集まった時に何故かお互いに一致するキーワードは70年代J-POPでした。
当時は、ギターロックやガレージロックが溢れる中、ライブハウスではフォークテイストだったり百恵ちゃんのカバーをしたりとめちゃくちゃ浮きまくっていましたが、周りがやっていない事をやるのは快感であり、その時代にその音を出す事にとても意義を感じていました。きっとそんな部分に自分たちの居場所を見出した瞬間が、キンモクセイの誕生だったのではないでしょうか」。
キンモクセイのボーカル伊藤俊吾さんは、バンド結成当時について、こう振り返ります。
1999年10月、神奈川県相模原市に生まれた伊藤俊吾は、音楽仲間で高校の同級生・白井雄介と、彼の幼なじみの後藤秀人、そして音楽仲間の佐々木良、張替智弘の5人で、バンド「アジアンオールスターズ」を結成。翌2000年、バンド名を「キンモクセイ」と変更した彼らは、東京・下北沢のライブハウスに出演した際に、レコード会社「BMGファンハウス」のスタッフと出会います。
「僕がキンモクセイに初めて出会ったのは、別のバンドを観るために、下北沢のライブハウスに行った時、たまたま早く着きすぎて、偶然、彼らのライブを観たのがキッカケです。キンモクセイは、ライブの中にMCや、お客さん達との掛け合いがほとんど無くて、メンバーのルックスもパッとせず、"地味なバンド"と言うイメージしか持てませんでした。ただ、年齢が若いバンドにもかかわらず、彼らは、ちょっと懐かしい、昭和の歌謡曲の匂いがする曲を演奏していて、当時のインディーズやメジャーで活躍していたバンドとは、あきらかに違う所に、僕は、興味を持って、声を掛けたんです」。
後に、「BMGファンハウス」で、キンモクセイのA&Rを担当することになる、山口さんは、彼らとの出会いをこう振返ります。
こうして、メジャーデビューへの一歩を踏み出したキンモクセイは、対バン形式を中心に、ライブを積極的に展開していきます。
「僕は、ライブを数多くこなしていく中で、キンモクセイを徹底的に鍛えて、どんなステージに出ても、他のバンドとちゃんと差別化ができる、そんなバンドにしたいと、思ったんです」。山口さんは、キンモクセイのデビュー直前の頃について、こう語ります。
キンモクセイは、2001年1月に自主制作CD「キンモクセイ約18分」をリリースした後、全国14ヵ所を回るライブハウスツアーを行い、10月に、メジャー1stシングル「僕の行方」をリリースするのでした。
「もちろん、この曲の歌詞の中に、"なごり雪は降らない"とあるのは、かぐや姫の名曲「なごり雪」にちなんだフレーズです。「なごり雪」に出てくる駅での別れのシーンを、この曲の物語の主人公が自分に重ねています。「なごり雪」の曲の中では、"季節外れの雪"が切ない別れに情感や非現実感を与えていますが、この曲「僕の行方」では実際には雪は降ってくれない現実の無機質さを表現しました」。キンモクセイの伊藤俊吾さんは、自らのデビュー曲を、こう語ります。
ロックバンドでありながら、1970年代の歌謡曲を彷彿させるようなキンモクセイのサウンドは、懐かしさと新鮮さが重なり合った、不思議な音の空間を生み出し、世代を越えた幅広いファンを獲得します。
1stシングルに続いてキンモクセイは、翌2002年1月にリリースが予定されていた2ndシングルに、デビュー直前に伊藤が作った曲を選びます。
「この曲は、僕達が、デビュー直前に作った曲の中のひとつです。メジャーデビュー、という具体的な目標が決まり、メンバー全員が1970年代を意識したサウンドを作る事に夢中になっていた頃で、バンドとしても、キンモクセイのオリジナルサウンドを確立したい、という気持ちが、沸々と湧きあがり、まさに、その気持ちが頂点に達しようとしていた時期に作った曲なんです。この曲は、冬にリリースされた曲で、どちらかと言うと、凛としたイメージがサウンドにあるような気がしますが、意外にもこの曲を作っていたのは、真夏の暑いエアコンの効かない実家の自分の部屋で、暑さと戦いながら作った事を覚えています」。
「歌詞について言うと、僕の中ではとにかく「情景描写」がテーマでした。一つでも多くの情景を誰かと共感してみたいという気持ちが、言葉数の多さや、"化学工場"や"橋の継ぎ目"などの細かいディテールの多さに現れているんだと思います。歌詞や物語の世界観ももちろんポイントですが、何よりも70年代のニューミュジックを意識したサウンド面にもこだわりました。70年代を代表するエレクトリック・ピアノ「フェンダー・ローズ」にトレモロをかけた浮遊感のあるサウンドや、ティンパンアレイを彷彿させる都会的なノスタルジックがより郷愁や切なさを誘うのだと思います」。メンバーの伊藤俊吾さんは、この曲のこだわりについて、こう語ります。
さらに、A&Rの山口さんのアイディアで、サウンド面だけでなく、ビジュアル面からも1970年代の懐かしい匂いを感じてもらうために、CDジャケットのデザインを、当時発売されていたインスタントラーメンのパケッケージを真似て作ります。
こうして、2002年1月、1970年代にこだわって作った、キンモクセイの2ndシングル「二人のアカボシ」は、リリースされるのでした。
2002年1月にリリースされた、キンモクセイの2ndシングル「二人のアカボシ」は、セールスチャート最高位10位を記録、全国のラジオ局31局ものパワープレイを獲得します。また、翌2月には、全国を地域毎に分けてCDパッケージデザインを変更した限定盤を3種類発売して、これも話題を集めます。
「この曲がヒットした事がキッカケで、その年の『NHK紅白歌合戦』にも出場するなど、この曲は、キンモクセイのメンバーそれぞれがデビュー前から模索していた、キンモクセイのオリジナルサウンドの到達点であり、スタートラインでもあったような気がします。曲を作った僕にとっても、その後自分が曲を作っていく上での、物差しにもなっています」。最後に、メンバーの伊藤俊吾さんは、こう振り返ってくれました。
バンドが進むべき道を切り拓いた、J-POP、冬の名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.夢の中へ/井上陽水
M2.僕の行方/キンモクセイ
M3.二人のアカボシ/キンモクセイ
223回目の今日お届けしたのは、「高野寛&田島貴男/Winter's Tale~冬物語~」でした。
「僕が、昔から憧れていたのは、ティン・パン・アレイやYMOといった、ソロミュージシャンが集まって生まれたグループでした。グループとしての活動だけじゃなく、メンバーそれぞれのソロアルバムに、お互いがゲスト参加したりする、ミュージシャン同士の音楽的な繋がりに憧れていたんです。自分がプロミュージシャンになってから、その思いはより強くなって、僕もいつかは、その境地に辿り着きたいと思い続けていたんです」。
高野寛さんは、これまで様々なミュージシャンとセッションをしてきた理由について、こう振り返ります。
1964年12月、静岡県三島市に生まれた高野寛は、13歳の時に、兄の影響でギターを弾き始め、1980年に地元の高校に入学後は、友人達とバンドを結成。YMO、ザ・ビートルズ、トッド・ラングレンなど、幅広い音楽を聴き、それらを参考にして曲を作り、その曲を、自宅で録音し始めるようになります。
1986年、高野寛は、大阪芸術大学芸術学部に在学中に、元YMOの高橋幸宏、ムーンライダースの鈴木慶一の二人が主催した「究極のバンド」オーディションに、ギタリスト志望で応募し、見事合格。翌1987年に、高橋と鈴木が作った音楽ユニット「The Beatniks」が行ったライブツアーに、ギタリストして参加します。
「幸宏さんと、慶一さんが主催した、「究極のバンド」オーディションの狙いは、バンドそれぞれのパートの合格者を集めて、新たなバンドを作る事だったんですが、デモテープまで作った段階で、メンバーの考え方の違いからバンド構想は空中分解し、立ち消えになってしまったんです。ただ、僕は、幸宏さんに、ギタリストとしての才能を評価してもらって、The Beatniksのライブツアーに参加する事が決まったんです」。
憧れのミュージシャンのひとりもでもあった高橋幸宏の誘いで、ギタリストとして、The Beatniksのツアーに参加した高野寛でしたが、その一方で、高橋幸宏から、ある提案を受けます。
「僕がオーディション用に作った曲を聴いた、幸宏さんから、"シンガーとして、自分で歌ってみれば"と言れたんです。全く予期していなかった、幸宏さんの言葉に、僕は、自分が歌う姿をイメージできず、最初は戸惑いを感じたんですが、最終的には、思い切ってチャレンジする事にしたんです」。
こうして、高野寛は、シンガーソングライターとしてデビューする事を決意。1988年10月に、1stシングル「See You Again」をリリースするのでした。
1988年10月、高野寛は、高橋幸宏がプロデュースを手掛けた1stシングル「See You Again」と、アルバム『hullo hulloa』をリリース。新人離れした、その非凡なポップ・センスは、音楽関係者の高い評価を集めます。
翌1989年7月、高野寛は、初めてセルフプロデュースで作った2ndアルバム『RING』をリリースした後に、翌1990年に発売予定の3rdアルバムを、ロック・ミュージシャンのトッド・ラングレンにプロデュースしてもらうために、ニューヨークへ渡ります。
「1stアルバムを作り終えた直後に、僕が所属していたレコード会社に、トット・ラングレン側から、"日本人アーティストをプロデュースしたい"、というオファーがあったんです。僕が、トッド・ラングレンの大ファンだったのを知っていた担当ディレクターが、完成したばかりの1stアルバムの音源を、トッド側に送って、あっという間にプロデュースしてもらう話が決まったんです。その時、既に2ndアルバムの制作は始まっていたので、2ndアルバムはセルフプロデュースで作って、その次の3rdアルバムをトッドにお願いする事にしたんです」。
こうして、トッド・ラングレンがプロデュースを手掛けた高野寛の3rdアルバム『CUE』は、1990年3月にリリースされ、そのアルバムに先駆けて、4枚目のシングル「虹の都へ」が2月にリリースされるのでした。
1990年2月にリリースされた、高野寛の4枚目のシングル「虹の都へ」は、スポーツメーカーMIZUNOの、スキーウェアのCMソングに起用され、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録し、高野寛にとって初めてのヒットナンバーとなります。
「トッド・ラングレンから、色々な事を学んだ中でも、特に印象に残っているのが、 "あらゆるプロデュースの中でも、セルフプロデュースが一番難しい"、という言葉です。アマチュア時代から自宅録音を始め、セルフプロデュースを当たり前のように思っていた僕の自信は、簡単に打ちのめされました。他人の事をあれこれ言う事は簡単だけど、自分を客観的に見るのは、本当に難しいと思いますし、プロデュースにおいて客観性が重要なことは、今でも、身に沁みて実感しています。」。
1992年、高野寛は、5枚目のアルバム『th@nks』の制作を、ゲストミュージシャンに忌野清志郎、大貫妙子、高橋幸宏らを迎えて行います。
「憧れの存在でもあった超一流ミュージシャンの方々と実際にアルバム制作が始まった時、僕は、とにかく緊張していたんですが、先輩方は、時にはユーモアを交えながら、まずはコラボレーションを楽しむことを教えてくれたんです。仕事への集中力、多彩なアイディア、豊富な知識、とにかく、たくさんのことを学ぶことができました」。
こうして、高野寛は、トッド・ラングレンからプロデュースの難しさを、憧れの先輩ミュージシャン達からは、アーティスト同士のコラボレーションの有り方について学んでいきます。そんな高野寛の下へ、1992年の夏、所属レコード会社の東芝EMIから、ひとつの提案がなされます。
「それは、僕の音楽仲間でもあった、オリジナル・ラブの田島貴男と一緒に曲を作って欲しいという提案でした。僕が彼と知り合ったのは、以前、田島貴男がオリジナル・ラブと、フリッパーズ・ギターの前身バンド「ロリポップ・ソニック」の、二つのバンドを掛け持ちしていた頃で、渋谷のライブハウスで彼らのライブを観た後、音楽的に意気投合して、仲良くなっていたんです。その田島君が、オリジナル・ラブとして、僕と同じ東芝EMIから1991年にデビューして、この時、一緒に曲を作る事になったんです。」
高野寛は、メロディ作りを、田島貴男に任せ、高野自身は歌詞を書くことを決めます。
「曲作りの作業は、僕のスタジオに、田島君がソウルの名曲が入ったカセットテープを持ってきて、そのカセットテープを聴くところから始まったんです。とにかく田島君が、アイディアを次々と出してくるので、どうやってまとめれば良いのか、苦労しました。完成したメロディに、僕は歌詞を書いたんですが、アルバム『th@nks』を作る時に、ミュージシャンの先輩方から学んだ、コラボレーションを楽しむことを大切に、歌詞にオリジナル・ラブの1stアルバムのタイトルを入れてみたり、CDジャケットのビジュアルにも、フリッパーズ・ギターのパロディを加えてみたりと、田島君が楽しんでくれるようなアイディアを詰め込んだんです」。
こうして、1992年11月、サッポロビール「冬物語」のCMソングとして起用された、高野寛&田島貴男の「Winter's Tale~冬物語~」は、リリースされるのでした。
1992年11月にリリースされた、高野寛&田島貴男のシングル「Winter's Tale~冬物語~」。
「スタジオで、田島君と一緒に盛り上がったことは、今でもハッキリと覚えています。二人で思いついた事を、物凄いスピードで形にして作ったこの曲は、曲を作る作業の中でも、レコーディング作業でも、悩んだ記憶がありません。そんな形で曲が完成する事は滅多になく、音楽の神様からプレゼントを貰ったような気分で作った曲です。トッド・ラングレン、そしてミュージシャンの先輩方から学んだ、プロデュース、コラボレーションの極意が活かされた感じです。」最後に、高野寛さんは、こう振り返ってくれました。
憧れのミュージシャンから学んだポップスの魔法が、J-POP、冬の名曲を生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.テクノポリス/YMO
M2.See You Again/高野寛
M3.虹の都へ/高野寛
M4.Winter's Tale~冬物語~/高野寛
222回目の今日お届けしたのは、「FUNKEY MONKEY BABYS/それでも信じてる」でした。
「彼らは、ヒット曲を出して、自分達の車を持ったり、美味しいご飯を食べて肌の艶が良くなった部分はあるかもしれませんが、泥臭くてハングリーな音楽に対する一途な姿勢は、デビュー前から何も変わっていません。それが、彼らの良さでもあり、強みだと、僕やスタッフは思っています」。
デビュー前から、レコード会社でFUNKEY MONKEY BABYSの制作担当ディレクターを務めている若尾さんは、こう語ります。
2003年12月、東京都八王子市を中心に、ソロラッパーとして活動していたファンキー加藤は、クラブイベントを通じて知り合った、同じ八王子出身のMCモン吉、そしてモン吉の友人でDJのケミカルの3人で、HIP HOPグループ「FUNKEY MONKEY BABYS」を結成します。
2005年3月、FUNKEY MONKEY BABYSは、イベントで知り合った「ケツメイシ」のDJ KOHNOの勧めで、当時TFM系で放送されていた、ケツメイシのラジオ番組『ナイトレンジャー』のデモテープオーディションに応募し、準優勝に輝きます。それをキッカケに、FUNKEY MONKEY BABYSは、関東各地のクラブに出演するようになり、横浜のクラブ「LOGOS」に出演した際に、現在の所属事務所のスタッフと出会い、メジャーデビューが決まります。
「僕が彼らに初めて出会ったのは、2005年の春で、上司に、"面白いバンドがいる"と言われ紹介されたんです。当時は、ケツメイシ、RIP SLYMEと言った日本のHIP HOPミュージシャン達が、ポップスの要素を取り入れた曲を相次いでリリースして、お茶の間にも、HIP HOPと言う音楽ジャンルが少しずつ浸透し始めた時期でした。そう言った意味でも、FUNKEY MONKEY BABYSがデビューするタイミングは、恵まれていたと思います」。
こうして、2006年1月にFUNKEY MONKEY BABYSは、1stシングル「そのまんま東へ」をリリース。タレントの「そのまんま東」をCDジャケットに起用したシングルは、音楽ファンの間で話題を集めます。
その後もFUNKEY MONKEY BABYSは、HIP HOPやラップをベースに、特定の音楽ジャンルに縛られることのない、オリジナルサウンドで勝負。6月には、3枚目のシングル「ALWAYS」をリリースするのでした。
2006年6月、FUNKEY MONKEY BABYSは、3枚目のシングル「ALWAYS」をリリースした後も、7月には1stアルバム『FUNKEY MONKEY BABYS』をリリース。そして翌2007年1月にリリースした、4枚目のシングル「Lovin' Life」が、セールスチャート最高位10位に。さらに、5月にリリースした5枚目のシングル「ちっぽけな勇気」が、チャート最高位8位を記録します。
「この頃の彼らは、まるでジェットコースターのように、一年、二年先と言った未来の事よりも、明日、一週間先、長くても一ヵ月先までと言った、目先の事に対して、必死で取り組むことしか考えられない程、仕事に追われるようになっていたんです。でも、忙しさを極めていたけれど、彼らは、何でも真剣に取り組み、色んな事を提案し、挑戦してくれたんです」。
曲を聴いた誰もが喜び、楽しんでもらえるようにと考えたFUNKEY MONKEY BABYSの音楽は、世代を越えて多くの人達から支持を集めます。そして、2009年6月には、初の単独日本武道館ライブを実現させたファンモンは、その年のNHK紅白歌合戦に、11月にリリースした11枚目のシングル「ヒーロー」で、初出場を果たすのでした。
「彼らは、デビュー前からずっと、"身近な人のために笑顔や元気を与えることができる、応援歌を作りたい"という気持ちで曲を作り続けています。曲が売れて、どれだけお金持ちになったとしても、彼らをずっと応援し続けてくれている地元八王子の人達や、スタッフ、そしてファンに対する感謝の気持ち、さらに生活者の目線を忘れず、その思いを、歌詞に落とし込んでいるんです。このヒーローにも、そんな気持ちが、シンプルに盛り込まれています」。
2011年に入って直ぐ、テレビ朝日から、FUNKEY MONKEY BABYSへ、4月から始まるドラマの主題歌のオファーが届きます。
「ドラマのストーリーが、学園物だったので、最初は"青春"をテーマに、明るく、元気でアップテンポな曲を作っていたんです。
ところが、曲が完成する直前の3月11日、東日本大震災に彼らは遭遇します。3人は、ちょうど福島でのライブを終えた帰り道で、新幹線の中に11時間も閉じ込められた後、救出され、やっとの思いで東京に戻ってきたんです。数日後に、レコーディングは再開されるんですが、3人は"僕達ミュージシャンは、今回の地震で被災された方のために、何ができるんだろうか?""今、明るく、元気な曲を作っていいんだろうか?"という気持ちに苛まれまれてしまうんです」。
メンバーは、1年前からファンモンのプロデュースを担当していたYANAGIMMANに悩みを相談します。すると彼は、新たな曲のコードをレコーディングスタジオのピアノで弾きはじめます。
「YANAGIMANが、何気なしに弾いていたコードに、メンバーの加藤が"それです!"と声を上げたんです。そこから、一気に新しい曲作りが始まったんです」。
ファンモンらしい、明るく、聴く人誰もが思わず元気になっていくような力強いメロディで作っていた曲は、みんなの心が寄り添っていくような、優しい癒しの歌へと変化していきます。
「メロディを変えた事で、当然、歌詞も書き換える事になりました。もとの歌詞は、"頑張れ"と言って、強く背中を押すようなイメージのものでした。それが、何も言わずに肩を並べて、同じ空と大地をただ一緒に見る。それだけでも全然違うし、ぬくもりは、ちゃんと伝わるはず。そう言ったメッセージを持った歌詞に変える事にしたんです。そして、そう考えた時、メンバー自身が、震災直後は、見失いかけていた音楽の力を、"もう一度信じてみよう。何があっても、とにかく信じ、願っていこう"と思い直し、そういう気持ちを言葉に込めていったんです。さらに加えて、川村結花さんに、歌詞の補作をお願いしました。自分達の力だけに留まらず、専門家のアイディアを加える事で、より良い作品に仕上げていこうと、メンバー自信が強く思ったからなんです」。
こうして、2011年6月、テレビ朝日系ドラマ『アスコーマーチ』の主題歌として起用された、FUNKEY MONKEY BABYSの16枚目のシングルとなる、シングル「それでも信じてる」が、リリースされるのでした。
2011年6月にリリースされた、FUNKEY MONKEY BABYSの16枚目のシングル「それでも信じてる」。
「何があっても、希望を捨てず、祈り、願い、信じ続けることで、次への一歩が開けてくるという、ファンモンの思いが込められたこの曲は、東北の人達からはもちろんですが、東北地方以外の人達からも、たくさんの共感をいただきました。歌ができる事は少ないかもしれないけど、いつも自分たちを応援してくれる人達のために"何かをしたい"というファンモンの気持ちが、心の底から伝わったんでしょうね」。最後に、若尾さんは、こう振り返ってくれました。
メンバー自身が、震災に遭遇した事をキッカケに、信じる事の大切さを改めて強く感じた、
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.そのまんま東へ/FUNKEY MONKEY BABYS
M2.ALWAYS/FUNKEY MONKEY BABYS
M3.ヒーロー/FUNKEY MONKEY BABYS
M4.それでも信じてる/FUNKEY MONKEY BABYS
221回目の今日お届けしたのは、「ネオンパーク/デスクデスマスクリスマス」でした。
「当時、日本ではやっと認知され始めていたHIP HOPやラップは、まだまだ洋楽性が高く、彼らがやっていた、ラップを日本語で遊ぶ音楽に、僕は新鮮さを感じていたんです。そんな時代の先駆けになりそうだった新しい音楽に、僕の働いていた音楽事務所「ジャグラー」も、音楽的なチャレンジ精神に溢れていたエピックソニーも可能性を感じたんです」。当時、音楽事務所ジャグラーで、ネオンパークの制作担当を務めた原田さんは、こう振り返ります。
1994年、早稲田大学の音楽サークル出身で、出版社に勤めていた井石淳、広告代理店の営業マンだった吉倉哲志、そして医療メーカーの営業マンをしていた木村浩の3人は、友人の紹介で知り合ったボイストレーナーの麻生郷子を加えて、バンド「ネオンパーク」を結成します。
「バンド名の由来となったのは、アメリカのロックバンド「リトル・フィート」のジャケットデザインなどで知られるイラストレーター、ネオンパークです。井石、吉倉、木村の3人は、昼間はサラリーマンとして働き、その日頃の生活で溜まったストレスを、おもしろ可笑しく作った音楽を通じて発散したいと考えてバンドを作ったんですが、その考え方が、イラストレーター・ネオンパークの、人間の潜在的意識や感情をパロディ化した作風と、相通じる部分があると思い、バンド名をネオンパークと名付けたそうです」。
バンド結成から1年近く経った1995年のある日、井石らネオンパークのメンバーは、自分達が作ったデモテープを、いくつかの音楽事務所やレコード会社に送付。その内の1本が、当時音楽事務所ジャグラーに勤めていた、原田さんの耳にとまります。
「歌詞が優れているとか、メロディが良かったとかじゃなく、ただ単純に聴いて"面白い"と思ったんです。デモテープを聴いた直後、ちょうど、渋谷のライブハウス「ラ・ママ」で彼らのライブがあったので、観に行ったんです。お客は、僕を含め数人足らずだったんですが、スーツ姿でメガネを飛ばしながら激しく踊りまくる井石と、紅一点、麻生の2MCスタイルで歌うネオンパークの音楽は、カテゴリーを限定するのは難しいけど、分かり易く言えばラップでした。初めは、"コミカルなバンドだな"と思って観ていたんですが、演奏している彼らの、真剣な姿と歌のギャップが面白くて仕方なかったんです」。
こうして、ネオンパークを気に入った原田さんは、彼らをメジャーデビューさせるために、レコード会社数社に打診。その結果、エピックソニーと契約を結びます。
「ネオンパークにとって幸運だったのは、当時のエピックソニーは、音楽性も大事だけど、独創性に溢れた、それまでにない音楽に積極的に取り組んでいく、チャレンジ精神に溢れていたことです。
ネオンパークの制作担当ディレクターになった山田勲さんも、既存の枠に捉われない、チャレンジ精神豊富な制作ディレクターでした。もっとも、この山田さんは、もともとは、家電メーカーのソニー本社から出向してきた方で、ソニー時代にはDATの開発にも関わった技術畑出身の方でした。だから、ネオンパークも、新商品を開発するのと同じように、面白がってくれたんじゃないかと思います」。
こうして、1996年9月、ネオンパークは、1stシングル「用がなければ帰ります」をリリースするのでした。
1996年9月、ネオンパークは、1stシングル「用がなければ帰ります」をリリースします。
「彼らが、デビューにあたって準備したオリジナル曲は、およそ40曲。その中から、まずはシングル2曲と、アルバム用の曲を選び、1stシングルに選んだのが、この「用がなければ帰ります」です。当時は、サラリーマンの間で、サービス残業が当たり前のようになり始めた時期で、現役バリバリのサラリーマンだった井石、吉倉、木村の3人は、自分達の心境を含めて、世の中のそう言った状況をパロディ化し、皮肉を込めて曲を作ったそうです。ディレクターの山田さんも、エピックソニーに転籍してくるまでは、いわゆるサラリーマンだったし、"彼らの気持ちは、よく分かる"と言ってくれたんです」。
曲を作った本人達は、いたって真面目に作ったと言うものの、世相を皮肉ったネオンパークがリリースした、1stシングル「用がなければ帰ります」は、ニッポン放送を始め、ラジオ各局でOAされると、話題を集めていきます。
さらに、1stシングルのリリースから2ヵ月後の11月に、2ndシングルをリリースされる事が決まり、ネオンパークのメンバーは、次の曲も、彼らが曲を作る時にコンセプトにしていた、サラリーマンの日常生活を柱に、そこに、季節ネタのクリスマスを盛り込んだ曲を選びます。
「僕は、この曲をオーソドックスなクリスマスソングにするつもりは無く、どうアレンジしたら面白くなるか考えて、ちょっと独創的な弦楽器のアレンジを加える事を思いついたんです。そこで僕は、以前、遊佐未森の担当をしていた時に、彼女の曲を、弦のアレンジで、スケール感溢れるものに仕上げてくれた、作曲家の野見祐二さんにお願いしたんです。当時、野見さんは、坂本龍一さんの楽曲アレンジや、スタジオ・ジブリの作品『耳をすませば』の音楽を担当していました。ネオンパークの曲は、歌と言うよりも、ただ歌詞を朗読し、サビの部分だけ歌っている、といった、平坦なイメージの曲だったんですが、野見さんのアレンジを加えた事で、クリスマスの夜に、雪が深々と降ってくるイメージと、不思議なスケール感を表現することができたんです」。
こうして、1996年11月、ネオンパークの2ndシングル『デスクデスマスクリスマス』は、リリースされるのでした。
1996年11月、ネオンパークがリリースした、2ndシングル「デスクデスマスクリスマス」。
「当時、僕が居た音楽事務所「ジャグラー」は、既存の枠に捉われない個性的なアーティストを見つけて、育てるのが大好きな会社で、一方、エピックソニーも、夢中になって新しい物を探していたレコード会社だったんです。この2社が組んだからこそ、ネオンパークもメジャーデビューできたのかもしれないし、今でもこうやって、一部の音楽ファンの間で伝説になっているバンドなのかもしれません。彼らが、メジャーで発売した曲は、たった2曲だったかもしれないけど、クリスマスの時期になると、思いだして聴いてもらえる曲になった事は、彼らにとっても幸運だったと思います」。最後に、原田さんはこう振り返ってくれました。
チャレンジ・スピリッツ溢れるスタッフとの出会いが、
個性溢れるJ-POPクリスマスソングを産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.用がなければ帰ります/ネオンパーク
M2.デスクデスマスクリスマス/ネオンパーク
220回目の今日お届けしたのは、「EPO/12月のエイプリル・フール」でした。
「私にとっての20代は、音楽的な反抗期そのもので、ポップスなんかもう嫌だ。私らしい音楽を作りたい。そういった、プレッシャーとストレスが続く日々の連続だったんです。でも、デビューから30年近く経った今、改めてこの時に作った曲を聴き直してみると、ポップスの素晴らしさや楽しさを実感することができるんです」。EPOさんは、デビュー間もない頃に作った自身の音楽について、こう語ります。
1960年5月、東京都に生まれた佐藤永子ことEPOは、彼女が3歳の時に、ピアノを習い始め、父親の影響でクラシックを聴いて育ちます。その後、EPOは、カーペンターズを中心とした70年代ポップス、山本直純、小林亜星と言った、日本の作曲家が作ったコミカルなCMソングを聴いて、歌が聴く人を引き付ける魅力に取りつかれ、彼女自身も、自分が書いた日記の文章に、ピアノで曲を付け始めるようになります。
1976年春、EPOは都立高校に入学すると、学校の先輩達と4人組バンド「Laugh」を結成し、彼女は、ピアノとバックコーラスを担当します。翌1977年、Laughは、オリジナルソングを作って、当時ニッポン放送でオンエアされていたコンテスト番組『ライオン・フォーク・ビレッジ』で優勝、メジャーデビューのチャンスをつかみます。
しかし、EPOより一つ年上だった、他のメンバーは、大学進学を控えメジャーデビューを断念、Laughは解散することとなります。
「Laughは解散して、バンドとしてのデビューの話は消えたんですが、私自身は、レコード会社から、ソングライティング力と、コーラス・ワークを評価してもらって、シンガーソングライターとしてのデビューを誘われたんです。ただ、私は、その時、推薦入試で東京女子体育大学へ進学するつもりだったので、"1年待って欲しい"とお願いしたんです」。
1979年、EPOは、東京女子体育大学に入学後、竹内まりやなどのバックコーラスとして音楽活動を再開します。また、実際に使われることはありませんでしたが、大瀧詠一が作ったサントリーレモンのCMソングを、デビュー直前のシャネルズ(後のラッツ&スター)と共演するなど、EPOは、着実にシンガーとしての評価を高めていき、1980年3月に、1stシングル「DOWN TOWN」でデビューするのでした。
1980年3月、EPOは、1stシングルとして、山下達郎が在籍していたシュガーベイブの代表曲「DOWN TOWN」のカバー曲をリリースします。
「シュガーベイブの代表曲でもあるこの曲を、1stシングルに選んだ理由は、私が候補として作った曲の中に、1stシングルとしてピッタリの曲が無かったのと、シュガーベイブを、私が大好きだったからです。スタジオで、スタッフと選曲について話をしていた時に、偶然にもスタジオの前を山下達郎さんが通っていたので、私は走って追いかけて、"シュガーベイブの曲をカバーさせてください"と言って、お願いしたんです。当時、同じRCAレコード所属していた山下達郎さんは、直ぐにOKしてくれて、1stシングルに決まったんです」。
こうして、EPOが歌ったシュガーベイブのカバー曲「DOWN TOWN」は、リリースから1年経った翌1981年5月に、フジテレビ系のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のエンディング・テーマ曲として起用されます。また同時に、EPOが番組オリジナルで作った、ジングルも使われて、彼女の名前は、音楽ファン以外の幅広い人達にも、知られていきます。
「この頃の私は、大学を中退して、音楽活動に専念しはじめた頃でした。しかし、自分が信念を持って作りたいと思っていたポップスナンバーが、レコード会社の人からは、"売れないから"と言った理由で却下されて、自分の曲に対する想いを、どう表現すればいいのか、分からなくなっていた時期でもあったんです」。
EPOは、彼女自身が抱えていた音楽活動に対する悩みや不安感を心にしまい込み、表面上は、平然を装って音楽活動を続け、1983年2月に、5枚目となるシングル「う、ふ、ふ、ふ、」をリリースするのでした。
1983年2月にリリースされた、EPOの5枚目のシングル「う、ふ、ふ、ふ、」は、資生堂の春のキャンペーンソングとして起用され、ヒットします。
「CMソングに使われた事で曲は売れ、"EPOはいつも元気な音楽を歌っている"といったイメージが、音楽ファンに広がっていったんです。しかし、実際には、この頃の私は、プレッシャーとストレスで、精神的にも体力的にもボロボロで、体調を壊す事も度々あったんです」。
売れる音楽と自分のやりたい音楽のギャップに、もがき苦しんでいたEPOは、翌1984年に、レコード会社をRCAレコードから、新しく誕生したばかりのMIDIに移籍します。
1984年2月、EPOは、高見知佳に楽曲「くちびるヌード」を提供。春の資生堂のキャンペーンソングに起用されたこの曲は、セールスチャート最高位16位を記録するヒット曲となって、EPOはソングライターとしても才能を開花させていきます。
「他のアーティストに曲を提供したのは、この時が初めての経験だったんですが、自分の曲を作る時とは違った、楽しさを感じる事ができたんです。自分の曲を作る時は、実体験をモチーフに曲を作る事が多かったんですが、他の人の曲は、もう少し客観的に、曲を作る事ができたんです。私の曲作りに欠けていたもの、それが客観性だという事に、気がついたんです」。
EPOは、1985年に入ってCMソングを含む3枚のシングルをリリースした後、4枚目のシングルに、彼女自身の体験をモチーフにしたクリスマスソングを作る事を決めます。
「曲作りを始めた頃、それまで、私の中では"オンリー・ワン"だと思っていたボーイフレンドが、実は"オール・オブ・ワン"だった事が分かったんです。せつなくて、やりきれない、辛い想いを持ったままでも、仕事はしなくちゃいけませんでした。
それから、クリスマスは、女の子にとっては特別な日のはずなのに、音楽を仕事にしていた私にとっては、仕事が入る確率が高くて、毎年、友達やボーイフレンドとも約束ができなくて、大嫌いな日でもあったんです。そこで、その二つの想いを、上手く組み合わせて、歌詞を書きました」。
こうして、1985年11月、EPOが彼女自身の、辛い想いをモチーフに書いた、10枚目のシングル『12月のエイプリル・フール』は、リリースされるのでした。
1985年11月にリリースされた、EPOの10枚目のシングル「12月のエイプリル・フール」。
「曲を作った当初は、ただ季節感を大切に、曲の中にどれだけ自分の経験を投影できるかだけを考えて歌っていました。しかし、時が経ち、クリスマスを意識し始める毎年冬の始めになると、この曲がテレビやラジオから必ず流れ、私のライブでもこの曲を楽しみに待っている人が増え続けているんです。しかも、ライブにやって来た人達から寄せられるメッセージを読んでみると、実は同じような体験をした人が沢山いる事が分かったんです。自分がもがき苦しみながらも作った20代に作った曲が、発売から25年近く経った今でも、多くの人達に愛され続けている事を、私は、今、嬉しく思っています」。最後に、EPOさんはこう振り返ってくれました。
どうにもならない想いが、多くの女性たちの共感を呼ぶ、クリスマスソングを産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.トップ・オブ・ザ・ワールド/カーペンターズ
M2.DOWN TOWN/EPO
M3.う、ふ、ふ、ふ、/EPO
M4.12月のエイプリル・フール
219回目の今日お届けしたのは、「Pops All Stars/Yellow Christmas」でした。
「友人に、よく、"お前は、出会いの才能に恵まれてる"と言われるんです。たしかに、音楽人生を振り返ってみても、僕が、特別に何かをしている訳じゃないんですが、幸運にも、バンド活動を本格的に始めた大学時代、そして、プロミュージシャンとして活動を始めてからも、たくさんのミュージシャンと出会って、交流を温め、一緒に曲を作るチャンスに恵まれてきたんです。だから、僕にとって"出会い"とは、音楽人生を語る上で欠かせない、魔法の言葉なんです」。
杉真理さんは、自身の音楽人生を語る上で欠かせないキーワードについて、こう語ります。
1954年3月、福岡市博多区に生まれた杉真理は、彼が10歳の時に、ラジオから流れてきたビートルズの「のっぽのサリー」を聴いて音楽の虜になり、中学に入ると、見よう見まねでギター片手に曲を作り始めます。1972年春、杉真理は、慶応義塾大学工学部に入学すると、音楽サークル「リアルマッコイズ」に入部。そこで出会った、安部恭弘、竹内まりやと共に、アマチュアバンド「ピープル」を結成します。杉達が結成した「ピープル」は、ジェームス・テイラーのコピーバンドとして活動を始め、結成から数ヵ月後には、オリジナル・ソングを作ってアマチュアバンドコンテストに出場するようになります。
1974年9月、杉真理率いる「ピープル」は、「ヤマハポピュラーミュージック・コンテスト関東甲信越大会」に出場。この大会には、後に、杉真理の音楽人生に大きく関わってくる、佐野元春も出場していました。ピープルは、予選を勝ち抜き、12月に行われた決勝大会で、杉が作曲賞を受賞。その後、ピープルは、ヤマハのサポートの下でデモテープを作っていきます。1976年、ピープルが作ったデモテープが、ビクター音楽産業のディレクターの手に渡り、その、ポップ感溢れるサウンドが評価されて、翌1977年3月、ピープルは「Mari&Red Stripes」とグループ名を改め、1stシングル「思い出の渦」と、1stアルバム『MARI&RED STRIPES』を同時リリースするのでした。
1977年3月、杉真理は、安部恭弘、竹内まりやら、総勢16名のサポートメンバーを従えたバンド「Mari&Red Stripes」でデビューします。
「僕を含む16名が参加していたMari&Red Stripesは、ほとんど僕のソロプロジェクトで、毎月、都内のライブハウス等でライブを行うのが主な活動だったんです。ところが、翌1978年春、2ndアルバム『SWINGY』発売直後に、僕が体調を崩して入院する事になって、バンド活動は一時休止に追い込まれたんです」。
メジャーデビューを果たしたものの、僅か1年余りの活動で休養を余儀なくされた杉真理でしたが、彼は、1年半に渡る病気療養期間中に、ソングライターとして、音楽仲間の竹内まりや、須藤薫らに曲を提供していきます。そして1980年、体調が戻った杉真理は、CBSソニーに移籍して、7月に、ソロ名義で、アルバム『SONG WRITER』をリリース。翌1981年に入って、杉真理にとって、運命とも言える出会いが訪れます。
「僕が知人の結婚式に招待された時、出席者の一人に、大瀧詠一さんも同席していたんです。僕は、"はっぴいえんど"が大好きで、全く面識の無い大瀧さんに、"僕、大瀧さんの音楽大好きです。僕も音楽作っています"と挨拶したんです。その場では、何も無かったんですが、その後7月に音楽仲間の佐野元春達と一緒に出演したライブ会場に、大瀧さんが突然やって来て、"ナイアガラ・トライアングルの2ndアルバム作ります。メンバーは、僕と、ここに居る、佐野元春と杉真理です"と、多くの観客が見守る中で宣言したんです。何も知らされていなかった、僕と佐野は、ただ驚くばかりでした。実は、つい最近、伊藤銀次さんから、僕が結婚式で大瀧さんに挨拶した後に、大瀧さんは僕の音楽を聞いて、気に入ってくれて、それでメンバーに選んでくれた、と聞かされたんです。嬉しいですよね」。
こうして、大瀧詠一、そして当時はまだ無名に近い存在だった佐野元春、杉真理が参加したナイアガラ・トライアングルは、もともと大瀧詠一がソロ名義でリリースを予定していた「A面で恋して」を含む、アルバム『NAIAGARA TRIANGLE Vol.2』を、1982年3月にリリースするのでした。
1982年3月にリリースされた、ナイアガラ・トライアングルの2ndアルバム『NIAGARA TRIANGLEVol.2』は、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録します。
「僕の音楽人生において、ナイアガラ・トライアングルに参加できた事は、大きな転機になりました。当時、僕は、ビートルズのようなポップとロックを融合させた曲を作りたかったんですが、既に解散していたビートルズの音楽は、古臭いイメージがあって、ただ、当時、売れていた音楽は、僕のやりたい音楽とは路線が違っていて、僕は、どんな曲を作ったらいいのか、迷っていた時期だったんです。そんな時に、大瀧詠一さんと出会って、"他人にどんな事を言われようが、自分がやりたい音楽を作ればいいんだよ"と、声をかけてもらえたんです。大瀧さんの言葉を聞いた僕は、開き直って、このナイアガラ・トライアングルで、ビートルズを意識した曲を作ったんです。それが、この「Nobody」です」。
大瀧詠一の言葉から、迷いを脱した杉真理は、自分が思うように曲をつくり始め、自らが歌うだけでなく、他のアーティストとセッションしたり、ソングライターとして曲を提供したり、そのポップスの才能を開花させていきます。そして、1986年に入ったある日、杉真理は、音楽仲間であり、彼の制作担当ディレクターを務めていた、CBSソニーのディレクター須藤晃さんと共に、1枚のアルバムを企画します。
「僕と須藤さんは、CBSソニーに所属していた安部恭弘、南佳孝、楠瀬誠志郎、浜田省吾らに声を掛け、全曲オリジナル・ソングで構成した、クリスマス・アルバムを作る事を考えたんですが、CBSソニーだけでなく、レーベルを越えて、音楽仲間の、飯島真理、epo、ピチカート・ファイブ、PSY'Sが参加してくれたんです」。
杉真理は、アルバムからのリード・トラックのアレンジをPSY'Sの松浦雅也に依頼します。
「僕は、楽しい音楽を作るなら、100回打合せをするよりも、まずは1回音を出して、その人の音楽観を掴むことを大切にやってきました。松浦さんともこの時初めて仕事をしたんですが、松浦さんを信頼し、アレンジを全てお任せしたんです。
それから、歌詞には、参加してくれた南佳孝、浜田省吾など、アーティストそれぞれを連想させる言葉を散りばめ、そのパートをそれぞれに歌ってもらったんです」。
こうして、1986年11月、杉真理がプロデュースを手掛けたPops All Starsのアルバム『Winter Lounge』と、シングル「Yellow Christmas」は、同時リリースされるのでした。
1986年11月にリリースされた、Pops All Starsのシングル「Yellow Christmas」。
「大瀧詠一さんに誘われて、ナイアガラ・トライアングルに参加した事がキッカケで、複数のミュージシャンが参加して、1枚のアルバムを一緒に作る楽しさや難しさを経験させてもらって、その経験をこのPops All Starsのアルバムに活かす事ができたんです。僕にとって魔法の言葉でもある、"出会い"が、大きな財産に生まれ変わった。そんな思い出深い曲ですね」。最後に、杉真理さんはこう振り返ってくれました。
音楽仲間との出会いが繋いだ、日本のクリスマスを盛上げる、J-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Long Tall Sally/ザ・ビートルズ
M2.思い出の渦/Mari&Red Stripes
M3.Nobody/ナイアガラ・トライアングル(杉真理)
M4.Yellow Christmas/Pops All Stars
218回目の今日お届けしたのは、「大澤誉志幸presents/Dance To Christmas」でした。
「1976年に駒澤大学に入学して、音楽サークルに入るんですが、そこの先輩から誘われて結成したのが"クラウディ・スカイ"でした。最初、ギタリストになりたかったんですが、バンドにボーカルが居なかったので、メインボーカルに仕立てあげられたんです。」。
大澤誉志幸さんが、当時についてこう振り返るバンド「クラウディ・スカイ」は、その後、渡辺プロダクション主催したオーディションに合格し、1981年4月、デビューシングル「悲しきコケコッコ」をリリース。
その後、1stアルバム『明日はきっとハレルヤ』もリリースしますが、音楽性の違いから、その年の暮れ、わずか8ヵ月余りで解散します。
「"クラウディ・スカイ"は、寄せ集めのようなバンドで、強い絆があった訳ではありません。ただ、バンドを解散した事で、若さゆえの喪失感があった事は事実です。僕は、その喪失感を埋めるために、一人でニューヨークに渡って、ブッカー・T・ジョーンズやオーティス・クレイなど、大好きだったブラック・ミュージックを聴くために、"アポロシアター"やジャズ・クラブに通って、その経験の中で、日々感じた事を、反映させながら、曲を作り、デモテープをいろんなところに送ったんです」。
1982年暮れ、大澤誉志幸は、1年近くに渡るニューヨークでの充電生活を終え日本に帰国。クラウディ・スカイ解散直後から始めた他のアーティストへの楽曲提供を本格化し、沢田研二や山下久美子らへ楽曲を提供していきます。そして1983年、大澤誉志幸自身も、エピック・ソニーと契約し、6月に、ソロデビューシングル「彼女には判らない」をリリースします。
その後も、彼自身の作品を積極的にリリースする一方で、作曲家としても他のアーティストに曲を提供し続け、その中でも彼がソロデビュー直前に中森明菜のために書いた曲「1/2の神話」が、セールスチャート1位を獲得し、大澤誉志幸は、まず、作曲家として注目を集めるようになります。
翌1984年、大澤誉志幸は、3枚目のアルバム制作のために滞在していたニューヨークで、ひとつの曲を作ります。「元々この曲は、鈴木ヒロミツさんの為に作った曲で、レコーディングが進まず、一度僕の手元に戻ってきた曲です。その後、そのまま山下久美子さんに、この曲を提供したんですが、何故かまたレコーディングされず、再び、僕の手元に戻って来て、結局、僕自身がこの曲を歌う事に決めたんです」。
大澤誉志幸は、この曲の歌詞を、彼がデビュー以来、タッグを組んできた、作家の銀色夏生に依頼。1984年7月にリリースされた、3rdアルバム『CONFUSION』に収録します。そして、さらに、同じ年の9月に、この曲を5枚目のシングルとしてリリースするのでした。
1984年9月、大澤誉志幸がリリースした5枚目のシングル「そして僕は、途方に暮れる」は、日清カップヌードルのCFソングとして起用され、約30万枚のセールスを記録し、チャート最高位6位にランクイン。大澤誉志幸は、この曲で、作曲家としてのみならず、男性ソロボーカリストとしての地位も確立。自信を得た彼は、好きだったブラック・ミュージックの要素を取り入れた曲を、続々とリリースしていきます。
「僕は、ブラック・ミュージックの中でも、R&B、レーベルで言うと、モータウン、スタックスと言った、泥臭い音楽が大好きでした。そして、その趣味が高じて、1987年10月に、同じエピック・レコードに所属していて、やはり、ブラック・ミュージックが大好きだった鈴木雅之、鈴木聖美、バブルガム・ブラザース、岡村靖幸達と、"赤坂グラマラスナイト"と名付けた、ブラック・ミュージックのカバーソングを歌う音楽イベントを企画したんです」。
大澤誉志幸は、自らが企画しプロデュースした音楽イベントの成功をキッカケに、さらなる企画を考えます。「音楽仲間が、一緒に集まって歌う楽しさを知った僕は、同じように音楽仲間が集まって、一枚のアルバムを作ったら、楽しいだろう、と思ったんです。ちょうど、翌年の1988年が、エピック・レコードの誕生10周年だったので、それにちなみ、一年の中でも特別な日、クリスマスをテーマにしたアルバムを作る事を思い付いたんです」。
大澤誉志幸は、アルバム作りのため、同じブラック・ミュージック好きな、エピック・レコードのアーティストに、次々と声を掛けていきます。
「一番大変だったのは、歌入れです。参加するアーティストが増えるほど、スケジュール管理が複雑で、プロデュース担当の僕は、全てのアーティストの歌入れに立ち合わなければならず、限られた時間の中、参加アーティストにスケジュールを厳守させるのに必死でした」
「曲自体は、まずは、曲を楽しんでもらうために、ファンキーなノリを大切にしたんです。
色々迷った末、曲の頭はファンク調で、メインとなる部分は親しみのあるポップス調、最後はしっとりと聴いてもらうためにゴルペル調に仕上げて、ひとつの組曲のような曲が誕生したんです。」
こうして1988年11月、大澤誉志幸の他、鈴木雅之、鈴木聖美、バブルガム・ブラザース、GWINKO、アマゾンズらが参加した、クリスマス・アルバムのタイトルナンバー『Dance To Christmas』は、リリースされるのでした。
1988年11月、大澤誉志幸が企画・プロデュースしたクリスマス・アルバムのタイトル曲として、シングルとしてもリリースされた「Dance To Christmas」。
「同じレコード会社に所属していても、普段は交流の無いミュージシャン達と、このアルバムを通して繋がりを作れた事がいい思い出になっています。その後も、僕はクリスマス・ソングを数曲作りましたが、複数のミュージシャンが参加して、ひとつの曲を歌う事自体が、当時としては画期的だったので、同じクリスマス・ソングでも、この曲の方が印象深いですね」。
最後に、大澤誉志幸さんはこう振り返ってくれました。
ブラック・ミュージックを愛する仲間たちのキモチが、
日本で始めての、ファンキークリスマス・ソングを生んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Green Onions/ブッカー・T・ジョーンズ
M2.そして僕は、途方に暮れる/大澤 誉志幸
M3.Dance To Christmas/大澤 誉志幸presents
217回目の今日お届けしたのは、「柴咲コウ/かたち あるもの」でした。
1981年8月、東京都豊島区に生まれた柴咲コウは、音楽好きの父親の影響で、幼い頃からクラシックや60年代のポップスを聴いて育ちます。
子どもの頃は、花屋か保母さんになりたいと思っていた柴咲コウは、彼女が14歳の時に、友達と街を歩いている時にスカウトされて、高校に入学すると同時に芸能事務所に所属、1998年に、TBSテレビの情報番組の出演者の一人として、デビューします。そして、翌年の1999年に「ファンデーションは使っていません」のセリフが話題となった「ポンズ・ダブルホワイト」のCMに出演したことで注目を集め、その後は、数々のTVドラマや映画、CMなどに出演します。特に、2001年に公開された映画『GO』では、その演技力が評価されて日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞、注目の若手女優の一人として、アイドル的な人気を集めていきます。
「僕が初めて彼女に出会ったのは、2001年の初夏、レコーディングスタジオだったと思います。当時彼女は、2本のTVドラマに出演中で、とても忙しく、レコーディングもかなり慌ただしい中で行われたんです。彼女は、休憩中も余り喋らず、きりっとした顔立ちで、強い目力を持った、大人っぽい雰囲気だけが、その時の印象として、僕の頭の中に、強く残っています」。
現在も、レコード会社で、柴咲コウの宣伝担当を務めている高瀬さんは、当時についてこう振り返ります。
「女優としてブレイクした彼女が、歌手としてデビューするキッカケは、実はラジオだったんです。当時放送されていた、ニッポン放送の深夜番組『グローバーのウラナイ!』の中に、「柴咲コウ 夢の印税生活」というコーナーがあって、そのコーナーで、リスナーから募集した歌詞を、彼女が歌う企画が行われたんです。リスナーから送られてきた歌詞をもとに、プロの作家が補作して、1枚のシングルが作られたんです。」
こうして、2002年7月、柴咲コウは1stシングル「Trust my feelings」をリリースするのでした。
2002年7月、柴咲コウは1stシングル「Trust my feelings」をリリースしますが、世間的には、さほど注目されることはなく、セールスチャートも最高位50位にとどまります。
「実は、このシングルのカップリング曲は、彼女が歌詞を書いています。元々、文章を書くのが大好きだった柴咲コウは、喜んで歌詞を書いていました。ただ、柴咲コウにとって、この時は、あくまで女優業が、本業でした。TVドラマ、映画、CMなど、ひっきりなしに出演オファーが届いていて、レコーディングやプロモーションの時間がまともに確保できない状態だったので、他の女優さんが、1曲か2曲リリースして、歌手活動を終えていくパターンと、正直同じようになっていくのでないかと、僕らレコード会社のスタッフは感じていました。ところが、この1stシングルを聴いた映画監督・塩田明彦さんが、彼女の歌声に興味を持ってくれて、翌年の2003年1月に公開が予定されていた映画『黄泉がえり』の中で、歌姫・RUI役で彼女が出演することになり、柴咲コウ自身が、その主題歌を歌う事が決まったんです」。
こうして、2003年1月、柴咲コウは映画『黄泉がえり』の劇中歌であり、主題歌でもあるシングル「月のしずく」を、彼女の映画の役柄名RUI名義で、リリースするのでした。
2003年1月、柴咲コウがRUI名義でリリースしたシングル「月のしずく」は、映画『黄泉がえり』が大ヒットしたこともあり、セールスチャート最高位1位を獲得、約83万枚のセールスを記録します。
「正直、この曲のヒットは、柴咲コウ本人、そして僕らも全く予想していませんでした。柴咲本人も改めて歌手活動を続ける事を決意し、僕らスタッフも、女優としてではなく、歌手・柴咲コウとしての個性をどう作って、売り出していくのか、プランを練り始めたんです」。高瀬さんは、当時についてこう振り返ります。
柴咲コウの、歌手としての個性を見つけ出そうとする中で、高瀬さん達スタッフは、彼女の作詞能力に注目します。
「デビューシングルのカップリングの歌詞を書いたことをきっかけに、彼女は、カップリングやアルバムの曲の歌詞をいくつか書いていたんですが、その歌詞は、ほぼ全て、日本語のみで書かれているのが特徴です。しかも、今では、ほとんど使わなくなった古い日本語表現を使うことが多いんです。文字だけだとわかりづらい言葉も、実際に、艶のある彼女の歌声で歌ってみると、独特の雰囲気を持った歌になって、聴く人の心にすっ、と入ってくるんですね」。
歌詞を書くとは大好きだった柴咲コウの下へ、その才能を開花させる一つのチャンスが巡ってきます。
「柴咲コウ自身も出演し、2004年5月に公開されて大ヒットした映画『世界の中心で、愛を叫ぶ』のTVドラマが、その年の7月から放送される事が決定して、その主題歌を彼女が歌う事が決まったんです。そこで、制作スタッフは、彼女自身、映画に出演していたので、作品のストーリー、世界観は十分に分かっているだろうから、彼女自身に作詞をさせてみようということになったんです」。
「彼女が歌詞を書く時は、まず曲があって、スタッフが用意した候補曲の中から、彼女自身が、自分で歌詞を書いて、歌えるかをポイントにして、曲を選び、実際に歌詞を付けています。この曲の時は、そうやって2~3曲書いたと、当時の制作ディレクターから聞いています。その中でも、実は、彼女自身が余り良い完成度ではなかったと言っていた曲を、ドラマ『世界の中心で、愛を叫ぶ』のプロデューサーが選び、最終的に主題歌として決まったんです」。
こうして、柴咲コウが、初めてシングルのA面曲の作詞にチャレンジした6枚目のシングル「かたち あるもの」は、2004年8月にリリースされるのでした。
2004年8月にリリースされた、柴咲コウ6枚目のシングル「かたち あるもの」は、セールスチャート最高位2位、約64万枚のセールスを記録します。
「映画主題歌のヒットから、歌手としても注目を集めはじめた彼女が、今度は、自ら作詞した曲で、ヒット曲を生み出すことができました。結果として、彼女はこの曲で、歌手としてもやっていける自信を掴んだんです」。最後に、高瀬さんはこう振り返ってくれました。
女優・柴咲コウが、もうひとつの顔、歌手・柴咲コウとしての才能を開花させた、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.V.A.C.A.T.I.O.N/コニー・フランシス
M2.Trust my feelings/柴咲コウ
M3.月のしずく/RUI(柴咲コウ)
M4.かたち あるもの/柴咲コウ
216回目の今日お届けしたのは、「スキマスイッチ/全力少年」でした。
1978年5月、愛知県東海市に生まれた大橋卓弥は、幼稚園の頃からエレクトーンを習い始め、小学生になると、クラシックピアノを習い始めます。しかし、大橋が中学二年の時に、自分よりピアノを上手く弾く人を見た事をキッカケに、クラシックピアノを諦めます。その後、大橋は、友人の影響で聴き始めたビートルズを真似して、高校卒業間際に友人達とバンドを結成。1997年春、ミュージシャンになる事を夢見て、バンドのメンバーと共に上京します。しかし、バンドは、メンバー間の意見の相違から、しばらくして自然消滅し、大橋は独りで曲を作る日々を過ごすようになります。
一方、1978年2月に、愛知県名古屋市に生まれた常田真太郎は、彼が高校二年の時、文化祭でクラスメイトとバンドを組んだ事をキッカケに音楽活動をスタートし、1996年春、高校卒業と同時に、音楽専門学校に進学のために上京します。上京してからは、複数のバンドでキーボードプレーヤーとして活動したり、インディーズレコードのレコーディング・エンジニアとして、楽曲のアレンジ経験を積んでいきます。
そして、1999年のある日。常田と大橋は、運命的な再会を果たします。
「常田と初めて出会ったのは、確か、僕が未だ高校生だった、1996年の初めだったと思います。友人に誘われて観に行ったライブで、ピアノを弾いていたのが常田でした。正直、あまり上手ではなく、ライブ後に話をしたんですが、余り良い印象を持てなかったんです。それから3年後の1999年、僕が、路上で弾き語りを始め、そこで販売するための自主制作CDを格安で作ってくれる人をインターネットで探していたら、偶然常田の名前が見つかったんです。思いきって、彼に連絡をしたら、彼がアレンジを含めてやってくれる事になったんです」。
そのレコーディングで、常田のアレンジの才能に魅かれた大橋は、二人で一緒に活動をスタート。その年の11月にユニット「スキマスイッチ」を結成します。
2000年、スキマスイッチは、赤坂BLIZで行われたオーディションイベントに参加し、その音楽性を評価され、音楽事務所「オフィスオーガスタ」と契約。楽曲の創作活動や、新宿・渋谷を拠点としたライブ活動などを行いながら、デビューに向けて準備を進めます。そして2002年8月、スキマスイッチは、千葉マリンスタジアムで行われた野外ライブイベント「AUGUSTA CAMP2002」のサブステージに出演し、およそ3万人の前で歌を披露します。常田がアレンジした親しみのあるメロディ、サウンドと、大橋の温かく聴く人を包み込むような独特の歌声は、会場を訪れたオーディエンス達を魅了。スキマスイッチと言う、一風変わったユニットの名前は、瞬く間に音楽ファンの間へ口コミで広がっていきます。
こうして、翌2003年7月、スキマスイッチは満を持してデビューシングル「view」をリリースするのでした。
2003年7月、スキマスイッチは、所属事務所「オフィスオーガスタ」が立ちあげたばかりのレーベル「オーガスタレコード」の第1弾新人アーティストとして、シングル「view」をリリースします。
「1stシングルをリリースして、まずはやっとスタートラインに立った思いでした。事務所からは、デビューに関する詳しい話が無いままにレコーディングに臨んでいたので、正直自分達がデビューした事に対して、余り実感は湧かなかったんです」。メンバーの常田真太郎は、当時についてこう振り返ります。しかし、そう言ったメンバーの思いとは逆に、スキマスイッチの音楽性は、前年の「AUGUSTA CAMP2002」でのライブパフォーマンスをキッカケに、デビュー前から、多くの人達から高く評価されていて、1stシングル「view」は、全国30ものFM局でパワープレイを獲得します。
さらに、スキマスイッチは、9月にミニアルバム『君の話』をリリースし、セールスチャート最高位20位、約2万枚のセールスを記録。続けて、翌2004年3月には、後に彼らの代表曲へと成長していく、2ndシングル「奏」をリリースするのでした。
2004年3月、スキマスイッチがリリースした2ndシングル「奏」は、発売前に全国のラジオ局や有線放送で流れるとリクエストが殺到し、セールスチャートこそ最高位22位だったものの、約9ヵ月もランクインし続けるロングヒット曲となります。そして、その勢いのまま、6月にリリースした1stアルバム『夏雲ノイズ』は、チャート初登場2位を記録します。
「デイリーチャートとはいえ1位を獲得し、週間チャートでも2位を記録するなど、想定外の結果になったんです。僕としては、いきなりスターダムに上がるのではなく、じわじわいきたいと思っていたんです。理想は3rdアルバムで、やっと認知されるぐらいが丁度いいと思っていました。そうすれば、その辺りで初めてスキマスイッチの楽曲を知った人が、そこから遡れるくらいたくさんの楽曲が世に出ていることになるし、次の新曲が出るまで飽きないと思ったからです。そしてしばらくは、ホールツアーを中心にライブをやって、10年くらいしてアリーナツアーをやっていく、そう言うビジョンを持っていたんです。本当に予想外の結果でした」。常田さんは、当時についてこう振り返ります。
スキマスイッチの二人が戸惑うほど、その人気が広がっていく中、11月にリリースした4枚目のシングル「冬の口笛」は、セールスチャート最高位6位を記録し、彼らにとって初めてTOP10入りを果たすシングルヒット曲となります。
2005年に入ると、スキマスイッチは、その年の春にリリースを予定していたシングルの制作に取り掛かかります。
「この曲は、お正月に、それぞれが実家に帰った時、幼馴染と会った時の事をモチーフに作った曲です。同級生達はみんな、30歳を目前にして、責任ある仕事に就いていて、仕事の上では言いたい事も言えないし、やりたい事もできない。昔ほど、何事も勢いで出来なくなったというような話を、僕と常田、お互いそれぞれの同級生達から、同じように聞かされたんです。二人ともそのことが強く印象に残っていたので、それを基に曲を作る事にしたんです」大橋さんは、この曲を作るキッカケについて、こう振り返ります。
また、常田さんは、この曲の歌詞に込めた思いについて、こう振り返ります。
「スキマスイッチのシングルとしては、初めて恋愛以外の事をテーマに作ることになったので、曲にしっかりとした軸を持たせたいと考えたんです。見た目はポップな雰囲気だけど、歌詞をじっくりと読み込めば、結構厳しい事を言っています。この曲を一番聴いて欲しかったのは、僕達同世代ですが、子ども世代から、もっと上の世代まで、幅広い世代にも受け入れてもらって、心に留めてもらえればと思ったんです」。
こうして、スキマスイッチから、同世代を中心とした人達に向けてのエールが込められた、5枚目のシングル「全力少年」は、2005年4月にリリースされるのでした。
2005年4月にリリースされた、スキマスイッチ5枚目のシングル「全力少年」は、セールスチャート最高位3位を記録します。
「この曲は、スキマスイッチにとって、分かりやすい名刺代わりみたいな曲でもあるし、一方で、これを越える曲を書かなければいけないという、僕達にとって、一つのハードルのような曲でもあります」。大橋さんは、この曲についてこう語ります。
また常田さんは、次のように話してくれました。「この曲でスキマスイッチを知ってくれた人も多いと思うので、夏フェスを始めとしたライブでは、盛り上がって、本当に助けてくれる曲です。それから、自分達にとっては、作った曲に相応しくない大人になってはいけないと言うような、ある意味、十字架のような責任を背負った曲とも、言えるかもしれませんね」。
同級生達との何気ない語らいから、世代を越え、多くの人達を勇気づける、J-POP、応援ソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Misery/ザ・ミザリー
M2.view/スキマスイッチ
M3.奏/スキマスイッチ
M4.全力少年/スキマスイッチ
215回目の今日お届けしたのは、「岡村靖幸/だいすき」でした
「僕が彼に初めて出会ったのは、1985年か86年に横浜で行われた、渡辺美里のライブ会場でした。当時、彼は、エピック・ソニー(現在のエピック・レコード)の音楽プロデューサー小坂洋二さんの下で、渡辺美里の作曲家として曲を書いていて、彼女のライブに遊びに来ていたんです」。後に、エピック・ソニーで、岡村靖幸の宣伝担当を務めた西岡さんは、彼との出会いをこう振り返ります。
1965年8月、兵庫県神戸市に生まれた岡村靖幸は、幼い頃から父親の仕事の都合で全国各地を転々とし、新潟県内の公立高校在学中に、フォーク・ギター片手に曲を作り始めます。
「彼は、高校生の頃からビートルズや、カーペンターズ、スティービー・ワンダーなど1970年代、80年代のポップスを夢中になって聴いていたそうなんですが、その中でも、特別的な存在だったのが、プリンスでした。プリンスの音楽センス、ライブパフォーマンス力、曲作りから演奏まで全てを独りでこなすマルチな才能に憧れ、岡村自身も、高校生の時に、4チャンネルのレコーディング・マシーンを買って、曲を作るなど、プリンスの真似をしていたそうです」。
1985年春、岡村靖幸は、彼自身が4チェンネルのレコーディング・マシーンで作ったデモテープを、エピック・ソニーに送付。そのデモ・テープを聴いたエピック・ソニーのスタッフは、岡村靖幸の音楽性を高く評価し、5月にデビューした女性ボーカリスト・渡辺美里の2ndシングル「GROWIN' UP」の作曲家として起用します。その後も、岡村靖幸は、渡辺美里のシングル、アルバムを始め、鈴木雅之、吉川晃司へ曲を提供していきます。
「岡村靖幸を、渡辺美里の作曲家として積極的に使ったのは、プロデューサーの小坂洋二さん、制作ディレクターの小林和之さん二人の考えです。小坂、小林の二人は、岡村靖幸の音楽センスを評価し、まずは作曲家としての才能に磨きをかけ、いずれは彼自身を男性ソロアーティストとしてデビューさせるつもりだったみたいです」。
こうして、まずは、作曲家としてのキャリアを積み重ねていった岡村靖幸は、1986年のある日、渡辺美里のレコーディング・スタジオの現場で、曲に合わせて踊り始めます。その様子を見た小坂をはじめスタッフ一同は、彼の独創的なパフォーマンス力を評価し、ソロシンガーとしてデビューさせる事を決断。1986年12月、岡村靖幸は1stシングル「OUT OF BLUE」をリリースするのでした。
「岡村靖幸は、1stシングルリリース直後、渡辺美里やTMネットワーク達と一緒に、日本武道館で開かれた、TBSラジオ35周年記念の音楽イベント「アニバーサリー・ロック・フェスティバル」に出演したんですが、MCは一切なし、「OUT OF BLUE」1曲だけ歌って、あっという間にステージから消え去ったにもかかわらず、激しく踊る彼のステージパフォーマンスは、観客たちに強烈なインパクトを与えたようで、"彼は一体誰なんだ?"と言った声が数多く寄せられ、一躍彼は、注目を浴びる存在になっていったんです」。
翌1987年4月、岡村靖幸は、ライブハウスを中心に、全国10都市14会場を回る1stライブツアーを行いますが、全会場がソールドアウト。さらに、その年の夏、広島で行われたピースコンサートで、当時、親交の深かった尾崎豊と共演するなど、全国各地で行われた野外ライブにも出演し、その独創的な歌とステージパフォーマンスでファンを虜にしていきます。
「彼が、若い女性を中心に愛された理由は、彼の強い個性だと思います。その中でも特長的なのが、歌詞とダンスです。作曲家としてキャリアをスタートした岡村靖幸は、彼自身がデビューする際、"自分は、歌詞は書けないから、作曲に専念し、作詞は他の人に頼めばいい"と考えていたようです。ところが、他の作詞家が書いた歌詞を歌う段階で、歌い難そうにしていた岡村の姿を見た小坂や、小林が、岡村に歌詞を書くように提案したんです。それをキッカケに、岡村は、制作ディレクターの小林と一緒に、二人三脚で、作詞を始めたんです。二人は慎重に言葉を選び、ちょっとセクシーな歌詞を書いていきました。その殆どが男性向きでしたが、何故か女心をくすぐったようで、曲をリリースする度に、女性のファンが増えていったんです。そしてもう一つの特長が、彼のステージパフォーマンスです。プリンスのステージパフォーマンスを真似た、思うがまま踊る独創的なダンスに、多くの人達が魅了されていきました」。
1988年2月、岡村靖幸は5枚目のシングル「イケナイコトカイ」を、翌3月に2ndアルバム『DATE』をリリースします。
「このアルバムから、作詞、作曲、アレンジ、演奏、すべてを岡村自身がこなすようになりました。特に、岡村がライブを意識し作ったアルバム『DATE』には、ファンク、バラード、ポップナンバーなどバラエティに富んだ曲が詰まって、音楽関係者から高い評価をもらいました」。
オリジナリティ溢れる創作活動とライブを積み重ねる岡村靖幸に、この年の夏、CMタイアップ曲提供のチャンスが巡ってきます。
「個性的な岡村靖幸の曲は、タイアップ曲としては使われにくく、デビュー以来、なかなかCMやドラマ主題歌提供のチャンスが、巡ってきませんでした。ところが、1988年の夏、当時、HondaのCMソングに起用されていた井上陽水さん側に事情があって、曲を変更すると言った噂を、僕が耳にしたんです。偶然にも、そのCMを作っていたプロダクションのスタッフと僕は知り合いで、"岡村の曲を、是非使ってくれ"と急遽売り込みをして、岡村の曲が起用されることが決まったんです」。
宣伝担当だった西岡さんは、当時をこう振り返ります。
限られた時間の中で、岡村は制作ディレクターの小林と共に、甘いアバンチュールを彷彿させる歌詞を書き、あわせて、ポップでキャッチーなメロディを作ります。さらに、可愛い子どものコーラスを載せたアレンジ、そのどれもがピタリとはまり、子どもから大人まで、誰もが楽しめる、王道のポップナンバーへと仕上がっていきます。
「曲のエンディングに、岡村靖幸が"へぼたいや"と謎めいた言葉を繰り返し叫んでいます。車メーカーのCMソングだったので、怒られないかドキドキしたんですが、特に指摘されることも無く、そのまま使われることになったのが、僕にとっての思い出です」。
こうして1988年11月、Honda「New today」のCMソングに起用された、岡村靖幸の8枚目のシングル「だいすき」はリリースされるのでした。
1988年11月にリリースされた、岡村靖幸8枚目のシングル「だいすき」。
「この曲は、タイトル通り、男の子から女の子に向けたラブ・ソングで、キュートで、ポップな曲に仕上がって、彼を代表する曲へと成長し、後に女性シンガーソングライター朝日美穂がカバーするなど、彼のファンだけでなく、アーティトたちにも愛される曲になったんです。岡村靖幸と言えば「だいすき」であり、「だいすき」と言えば岡村靖幸。まさに、彼を象徴する曲です」。最後に、西岡さんはこう振り返ってくれました。
宣伝スタッフが強引にねじ込んだCMタイアップが、80年代J-POPを代表する
キュートなラブ・ソングを生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Let's Go Crazy/プリンス
M2.Out Of Blue/岡村 靖幸
M3.イケナイコトカイ/岡村 靖幸
M4.だいすき/岡村 靖幸
214回目の今日お届けしたのは、「斉藤和義/歩いて帰ろう」でした
「僕が彼に初めて出会ったのは、1990年か91年だったと思います。僕の友人が紹介してくれたんです。事前に、「いい曲だから聴いて欲しい」と、1本のカセットテープを渡してもらったんですが、どちらかと言えばフォーク調の曲ばかり入っていて、僕は、余り興味を持てませんでした。ところが、実際に彼に会って、目の前で、ギター1本、弾き語りで歌ってもらった時、シンプルだけど、ストレートなメッセージを歌う彼の姿が、夜になっても、頭の中から離れなくなってしまって、翌日、彼に電話をして、「僕が貴方を担当します」と伝えたんです」。
デビュー当時、レコード会社「ファンハウス」で、斉藤和義の共同プロデューサーを務めた松尾さんは、彼との出会いをこう振り返ります。
1966年6月、栃木県下都賀郡(現在の下野市)に生まれた斉藤和義は、小学6年の時に、母親が1本のアコースティックギターを買ってくれたことをキッカケに、音楽の魅力にとりつかれていきます。その後、斉藤和義は、中学3年の文化祭で、友達と組んだバンドで人生初のステージを踏み、高校に進学後もギタリストとして活動します。その後、斉藤和義は、山梨学院大学に進学し、先輩の影響で、見様見真似で曲を作り始め、1987年、大学を中退し、プロミュージシャンを目指して上京します。
「彼は、子どもの頃、TVから流れてくる歌謡曲、ボブ・ディラン、ビートルズと言った幅広い音楽の影響を受けたそうですが、その中でも、ビートルズは特別だったようで、彼の1stシングルのタイトルに使われたり、曲作りそのものにも影響を与えているようです」。
1991年、斉藤和義は、当時TBSで放送されていた、オーディション番組『三宅裕司の天下御免ね!』で、5週連続勝ち抜きを果たし、音楽関係者からも注目を集めます。そんな中、斉藤和義は、松尾さんとの出会いをキッカケに、レコード会社「ファンハウス」と契約。同時に、渋谷エッグマンでのマンスリーライブをスタートさせます。
「ライブのスタート当初は、会場もガラガラでしたけど、始めて1年ぐらい経つと、僕達が必死になって、深夜TVの音楽番組や、全国のラジオ局、そして音楽雑誌に売り込みをした甲斐もあって、女子高生達を中心に動員が増えてきたんです」。
こうして、1年半近くに渡ってライブを積み重ねた斉藤和義は、満を持して、1993年8月に1stシングル「僕の見たビートルズはTVの中」を、リリースするのでした。
1993年8月、斉藤和義がリリースした1stシングル「僕の見たビートルズはTVの中」。
「彼は、当時、アレンジが苦手だったので、同じギタリスト経験があって、彼と同じくビートルズが好きな、アレンジャーを探したんです。懸命に探して、辿り着いたのが、僕の兄で、元オフコースの松尾一彦でした。兄は、僕のオファーを受けてくれ、僕達兄弟で彼をサポートすることが決まったんです」。
こうして、松尾兄弟のバックアップの下、斉藤和義の音楽活動は本格化。デビュー翌月の9月には、日清パワーステーションでライブを行い、長い下積み生活で貯め込んできた音楽に対する欲求不満を、一気に爆発させていきます。
「当時は、打ち込み系の音楽が主流で、TVドラマやCMタイアップ曲だけがヒットチャートを賑わせていた時代でした。一方、斉藤和義の音楽は、聴く人が分かり易いシンプルなメロディでしたが、ヒットチャートとは無縁の世界でした。セールス的には結果が出ない事に、本人は、相当不満を持っていたみたいですが、僕達制作スタッフ側は、3年かけて、斉藤和義を、歌がちゃんと歌えるボーカリストに育てるつもりだったので、彼には申し訳なかったけど、焦りはありませんでした」。1stライブの後、斉藤和義は1stアルバム『青い空の下...』をリリース。続けて11月に、2ndシングル「Rain Rain Rain...」をリリースした後、12月に、東京と大阪でライブを行い、翌1994年2月に、3rdシングル「君の顔が好きだ」をリリースするのでした。
1994年2月、斉藤和義は3rdシングル「君の顔が好きだ」を、翌3月に2ndアルバム『素敵な匂いの世界』をリリースします。
「セールスは伸び悩んでいましたが、この頃から、ライブ動員は少しずつ増え始めたんです。見た目は男っぽく、弾き語りの時は真面目だけど、下ネタを交えたMCが面白い。口コミで彼のキャラクター性が評判となって、斉藤和義は、音楽ファンから、愛されるキャラクターとして認知されていったんです」。
この頃、斉藤和義は、シンガーソングライターとしての活動以外にも、そのキャラクター性を買われて、ラジオパーソナリティとしても活躍し始め、多忙を極めるようになっていきます。こうした中、斉藤和義の下へ、あるオファーが届きます。
「ちょうど僕と斉藤が、"次のシングルは、リズム感のある曲を作ろう"と話をしていた時に、フジテレビの子ども向け番組『ポンキッキーズ』の番組プロデューサーから、オープニングテーマ曲を作って欲しい、と頼まれたんです。思考錯誤の末、彼が作った曲は、2拍子の、テンポが速い、ダンス・ミュージック、チャールストンを思わせるようなものでした。僕は、こんな曲につく歌詞は、どんな内容になるのか、楽しみに待っていたんです」。
「彼は、いつも曲を先に作って、曲が完成した後に歌詞を書くタイプで、この時も、締切ギリギリまで粘って書いていたんです。完成した歌詞を見た僕は、"急ぐ人にあやつられ 右も左も同じ顔"と書かれた部分を見て、これは、アーティスト活動以外の仕事を詰め込む僕達スタッフへの、当てつけか、と思ってしまいました。」
こうして1994年6月、斉藤和義の4枚目のシングル「歩いて帰ろう」はリリースされるのでした。
1994年6月にリリースされた、斉藤和義の4枚目のシングル「歩いて帰ろう」は、セールスチャートにランクインしたものの、最高位は60位にとどまります。
「この曲をリリースした当時、『ポンキッキーズ』のスタッフ達の評判も良く、斉藤を始め僕達制作スタッフは、"絶対売れる!"と確信したんです。ところが、蓋を開けて見ると、予想を下回るセールス結果でした。斉藤和義はがっかりして、一時期は、ライブでこの曲を歌う事を嫌っていたほどでした。
ところが、リリースから1年が経って、彼がライブで、嫌々ながらもこの曲を歌うと、オーディエンスがみんな立ちあがって、盛り上がってくれるんです。レコードセールスこそ伸び悩みましたが、この曲をキッカケに、世代を越えて、多くの人達が、斉藤和義の名前を知って、この曲を愛してくれたんです。シンガーソングライター斉藤和義にとって一番大切な事は、セールス結果だけじゃない。自分の歌を楽しみに待ってくれている人に、ちゃんと良い歌を届ける事だと、彼は気が付いたんです」。最後に、松尾さんは、こう振り返ってくれました。
焦りと不満の日々を乗り越え、素直な心境を歌ったその唄が、
世代を越えて愛されるJ-POPナンバーへと生まれ変わった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.イエスタディ/ザ・ビートルズ
M2.僕の見たビートルズはTVの中/斉藤和義
M3.君の顔が好きだ/斉藤和義
M4.歩いて帰ろう/斉藤和義
213回目の今日お届けしたのは、「ピンク・レディー/UFO」でした
1976年2月、日本テレビ系で放送されていたオーディション番組『スター!誕生』の決選大会に出場した、フォーク・デュオ「クッキー」は、レコード会社「ビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)」と、当時は無名の音楽プロダクション「T&C」の2社からスカウトされます。
同じ大会に出場した清水由貴子が、十数社からスカウトされ脚光を浴びる中で、静岡県出身で、同じ高校に通う同級生の、増田啓子と、根本美鶴代の二人が結成したフォーク・デュオ「クッキー」は、プロ・デビューに向けて、静かなスタートを切ります。
当時、「スター!誕生」の審査員を務め、後にピンク・レディーの曲を手掛けることになる、作曲家の都倉俊一さんは、著書『あの時、マイソング ユアソング』の中で、こう振り返っています。
「「スター!誕生」で合格した後、デビュー曲の作詞・作曲は、私と阿久悠さんに依頼があったんです。私は、4年前の1972年、山本リンダの「どうにもとまらない」を一緒に手掛けたことで親しくなっていた阿久さんと、アイディアを出しながら、二人のデビュー作をどう作っていくのか、ミーティングを重ねました。ところが、レコード会社ビクター音楽産業は、会社としてはまったく二人のデビューに乗り気がない事が判明したんです。当時は、まだ平ディレクターの飯田久彦が、本当は清水由貴子を獲得する目的で「スター!誕生」を観に来ていたのに、増田と根本の二人を雰囲気で気に入ってしまい、自分の判断で勝手に手をあげてしまっていたんです。一方は、レコード会社であまり力のない新米ディレクター、もう一方は当時は無名の音楽プロダクション。作品ができる前から、この静岡の二人は、運から見放されたのか、売れる態勢からはほど遠い状態に置かれていたんです」。
作詞担当の阿久さん、作曲担当の都倉さんは、彼女達のデビュー曲を、二人が「スター!誕生」に出演した時に歌ったフォークソングの路線を踏襲していくのか、或いは当時一世を風靡していた、キャンディーズの路線でいくのか? 議論を積み重ねた二人は、フォークソングでも無く、キャンディーズ路線を追随する訳でもなく、独自のアップテンポな曲で勝負することを決めます。
こうして、カクテルの名前をヒントに名付けられたユニット「ピンク・レディー」の1stシングル「ペッパー警部」は、1976年8月に、リリースされます。
ピンク・レディーの1stシングル「ペッパー警部」は、セールスチャート最高位4位、約60万枚の売上を記録。続いて、11月に発売された2ndシングル「S.O.S」も、発売直後からヒットし、セールスチャート最高位1位、約65万枚の売上を記録します。
「2曲続けてヒットした後だけに、僕は次の曲を作る時、否応なしに力が入っていたんです。曲調はどうしようか、どういったサウンドにしようか、どういった楽器を使おうか。僕は、試行錯誤を重ねた末に、当時世界でブームになっていた、金管楽器を多用したロック、いわゆるブラスロックを取り入れることにしたんです。実際に曲が完成した時、ピンク・レディーがどんな色や型の衣装で、どんな踊りを踊りながら歌うのか、全てを想像しながら曲を作ったんです」。都倉さんは、著書『あの時、マイソング ユアソング』の中で、こう振り返っています。
こうして、1977年3月、ピンク・レディー3枚目のシングル「カルメン'77」が、リリースされるのでした。
1977年3月、ピンク・レディーがリリースした3枚目のシングル「カルメン'77」は、セールスチャート1位を獲得し、約66万枚の売上を記録します。
爆発的な人気を獲得していくピンク・レディーを支えていたのが、阿久さん、都倉さん達が、ピンク・レディーを売り出すために考えた、振付でした。阿久さん、都倉さんは、二人も審査員として参加していた、「スター!誕生」で、桜田淳子などの振付を担当していた土井甫さんに、振付を依頼。ピンク・レディーの二人が、むっちりとした太腿を露出したミニ・スカート姿で、大胆に歌う振付に飛びついたのは、まずは子ども達、特に、その中でも小さな女の子達は、ピンク・レディーの振付を必死に物真似するようになっていきます。
当初、阿久さん、都倉さん達は、ピンク・レディーを、子どもではなく、カラリとしたお色気路線で、高校生や大学生をターゲットに売り出すことを考えていましたが、健康的な二人のキャラクターは、子どもから大人まで幅広い層から支持を集めていきます。
彼女達を使った様々なキャラクターグッズも販売されるようになって、ピンク・レディー旋風は、急速に日本全国のお茶の間に浸透していきます。
こうした中、1977年6月、ピンク・レディー初のミリオンシングル「渚のシンドバッド」がリリースされるのでした。
1977年6月にリリースされた、ピンク・レディー4枚目のシングル「渚のシンドバッド」は、3曲連続となるセールスチャート1位を獲得し、100万枚の売上を記録。さらに9月に発売した、5枚目のシングル「ウォンテッド」は、12週連続でセールスチャートの1位を獲得します。
当時、ピンク・レディーの曲作りは、まず、阿久さんと都倉さんの二人が、その時々の社会風潮や、印象的な出来事などからヒントを得て、曲作りのテーマを決めることから始めていました。阿久さんと都倉さんは日々、次の曲のアイディアを練ることに苦労しながらも、そのアイディアが生み出した曲が、次々と大ヒットに結びついている状態に、すでにヒットメイカーと呼ばれていた二人も、非常に興奮していたといいます。
そして、完全に社会現象となったピンク・レディーの新曲のテーマとして、次に都倉俊一さんが思いついたのはSF映画でした。
1977年は、アメリカでジョージ・ルーカスが作ったSF映画『スター・ウォーズ』が記録的な大ヒットを飛ばし、翌年に日本でも公開されることが決まっていました。また、スティーブン・スピルバーグが作ったSF映画『未知との遭遇』の公開も迫っており、SF映画ブームの到来を予感した都倉さんは、ピンク・レディーの新曲のタイトルを、SF映画をヒントに決めます。
この頃から、都倉さんは、ピンク・レディーの新曲作にも、人工的に、弦楽器や金管楽器の音を作りだすシンセサイザーを使うことで、より宇宙ブームの到来を、音で感じてもらうことを考えます。
こうして1977年12月、ピンク・レディー6枚目のシングル「UFO」は、リリースされるのでした。
1977年12月にリリースされた、ピンク・レディー6枚目のシングル「UFO」は、セールスチャート最高位1位、約155万枚の売上を記録。ピンク・レディーは、翌1978年、この曲「UFO」で日本レコード大賞を受賞します。
純朴で、素直だけが取り柄だった二人の女の子が、天才的ヒットメイカーたちの緻密な計算により、日本の歌謡史に金字塔を打ち立てる、国民的アイドルに昇りつめた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ペッパー警部/ピンク・レディー
M2.カルメン'77/ピンク・レディー
M3.渚のシンドバッド/ピンク・レディー
M4.UFO/ピンク・レディー
212回目の今日お届けしたのは、「オリジナル・ラブ/接吻kiss」でした
「僕が音楽に夢中になり始めたのは、中学一年の時です。同級生の家で、当時流行っていたTOTOやThe Knack、ポリスを聴いて、それまで耳にしたことのない、音楽のかっこ良さを感じたんです。その後、中学二年の時に、大阪フェスティバルホールにポリスのライブを友達と一緒に観に行って、あまりにもかっこ良くて絶叫していたんです。それ以来、ポリスのアルバム『白いレガッタ』を聴く度に、自分で曲を作りたくなった原点を思い出すんです」。
オリジナル・ラブの田島貴男さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1985年4月、和光大学に入学した田島貴男は、その年の冬に、友人達とロックバンド「レッドカーテン」を結成。1987年に入ると、彼らは、新宿ロフトを中心に、東京都内のライブハウスでライブ活動を始めます。レッドカーテンは、当初1960年代のサイケデリック・サウンドを追求していましたが、もっと幅広いジャンルの音楽を吸収しようと考え、バンド名を「オリジナル・ラブ」と改め、1987年12月には、戸川京子、ザ・コレクターズらも参加した、インディーズアルバム『MINT SOUND X'MAS ALBUM』に参加します。そして、このアルバムレコーディングの際に、田島貴男は、当時、細野晴臣プロデュースでデビューしていたバンド「ピチカート・ファイブ」の小西康陽と知り合います。
「小西さんは、このアルバムに、ピチカート・ファイブとしてではなく、ユニット「YOUNG ODEON」として参加していたんです。ちょうど小西さんは、ピチカート・ファイブのボーカルを探していたらしく、渋谷ラ・ママでのオリジナル・ラブのライブ終演後に、楽屋にやって来て、ピチカート・ファイブのボーカルに誘ってくれたんです。僕は、とにかく早くメジャー・デビューしたかったので、オリジナル・ラブとしての活動を並行して行うことを条件に、小西さんの誘いに応じたんです」。
こうして、1988年春、田島貴男は、ピチカート・ファイブに加入し、オリジナル・ラブと掛け持ちでバンド活動を始めます。しかし、ほどなくして、田島貴男はピチカート・ファイブとしての活動に迷いを感じ始めます。
「当時、オリジナル・ラブは、パンク、ニューウェーブの流れを受けたバンドサウンドを重視していて、一方のピチカート・ファイブは、1970年代のアメリカのクリエイティブな音楽集団を目指していたプロデューサー集団でした。音楽性においては、多少似ている部分にありましたが、全く別物でした。実は、ピチカート・ファイブに在籍している間は、オリジナル・ラブとしてメジャー・デビューしてはいけないという契約内容だったので、オリジナル・ラブとしての活動を大切にしたかった僕は、次第にジレンマを感じるようになったんです」。
オリジナル・ラブと、ピチカート・ファイブ、二つのバンドのボーカルを掛け持ちしていた田島貴男は、そのジレンマに耐えきれず、1990年に入って、ピチカート・ファイブを脱退することを決意。その年の6月から、田島貴男は再びオリジナル・ラブの活動に専念します。そして、その年の暮れ、田島貴男率いるオリジナル・ラブは東芝EMIとメジャー契約を結んだ後、翌1991年6月に、メジャー1stシングル「DEEP FRENCH KISS」をリリースするのでした。
1991年6月、オリジナル・ラブは、1stシングル「DEEP FRENCH KISS」を、翌7月には、1stアルバムにして、2枚組という大作『LOVE! LOVE! LOVE!』をリリースします。オリジナル・ラブが生み出す、ソウル、ジャズ、R&Bなどのテイストを取りこんだ独特のサウンドと、音楽センスは、音楽関係者から高い評価を集めます。また、フリッパーズ・ギターや、野宮真貴をボーカルに迎えたピチカート・ファイブなどと並んで、ポップでオシャレな感覚を備えた"渋谷系"音楽の象徴として、若者達からも人気を集めていきます。
「メジャー・デビュー当初、僕達が作る曲も、歌も、まだまだ未熟でした。1992年に入ってからは、他のアーティストに、沢山曲を提供するようになりましたが、それがオリジナル・ラブが生み出す音楽に、プラスになったり、マイナスになったりすることはありませんでした。この頃、僕はソウルミュージックの影響を受けていて、セクシーなラブソングを書きたかったんですが、10代の頃没頭した、パンク・ニューウェイブ音楽の影響が残っていたせいか、なかなか上手く曲を書けなかったですね。でも、焦りやいら立ちは無かったです」。
メジャー・デビューしても、マイペースな音楽活動を続けていたオリジナル・ラブでしたが、田島貴男の、時には力強く、時には甘く、エロティシズムを持った歌声は、耳にした人達を魅了し、オリジナル・ラブの下には、TV主題歌やCMソングの依頼が、続々と舞い込むようになります。
1993年5月、オリジナル・ラブは、6月に発売予定の3rdアルバム『EYES』からの先行シングルとして「サンシャイン ロマンス」をリリース。カシオ時計のCM曲として起用されたこの「サンシャイン ロマンス」は、ポップなグルーブ感で人気を集め、その後、展開した全国11公演のホールツアー、渋谷公会堂での追加公演も全てソールドアウトします。
「オリジナル・ラブの曲が、ポップ感を重視するようになったのは、デビュー後、しばらく経ってからです。自分でいい曲だなって思える曲が、ヒットチャートに少ないような気持ちがあったからなんです。だったら、自分達で、大好きな王道的なポップスを、作っていきたいと思い始めたんです」。
オリジナル・ラブブーム到来が予感されていた夏のある日、彼らの下へテレビドラマの主題歌のオファーが届きます。
「ドラマの主題歌提供のオファーが届いた時、僕は直ぐに"大きなチャンスだ"と感じたんです。それまでも、僕らの曲がドラマやCMに使われたことはありましたが、どれも、もともとあった曲を提供したものだったんですが、この時は、一から、新曲を書き下ろすことになったんです。全く初めての経験でしたが、ドラマのコンセプトは完成していたので、曲のイメージは湧きやすく、書きやすかったですね。ただ、オファーから、締切まで、1週間ぐらいしかなくて、スタジオで他の曲をレコーディングしている最中に、寝る暇を惜しんで作った事だけは、はっきりと覚えています」。
田島貴男は、短く、限られた時間の中、寝る暇もなく、一心不乱に曲を書き綴ります。
「メロディは、3日から1週間ほどで書きあがりました。歌詞も曲の頭の部分、"長く甘い口づけを交わす"というフレーズが浮かんだ時、僕は心の中で"決まった"と思ったんです。後は、一気に書きあげました。ドラマの内容が、中年男性二人それぞれの恋愛模様を描いたものだったので、ドラマのプロデューサーからは、曲はおしゃれで軽い感じがいいというリクエストがあったんですが、僕は敢えて、少し官能的なセクシーな曲に仕上げました。実際に完成した曲を聴かせると、特に異論は出なかったですね」。
こうして1993年11月、日本テレビ系ドラマ『大人のキス』の主題歌として起用された、オリジナル・ラブ5枚目のシングル「接吻kiss」は、リリースされるのでした。
1993年11月にリリースされた、オリジナル・ラブ5枚目のシングル「接吻kiss」は、セールスチャート最高位13位、約36万枚の売上を記録します。
「「接吻kiss」を作ってから、十数年経った今でも、この曲を歌ってくれる人達がいる事が、本当に嬉しいし、誇りに思います。自分が書いた曲が、初めて大衆性に触れた、僕にとっても記念すべき曲ですね」最後に、田島貴男さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
こだわりのクリエイターが、王道のポップスを目指し、オリジナル・ラブソングを生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.孤独のメッセージ/ポリス
M2.DEEP FRENCH KISS/オリジナル・ラブ
M3.サンシャイン ロマンス/オリジナル・ラブ
M4.接吻kiss/オリジナル・ラブ
211回目の今日お届けしたのは、「SOFFet/ひとりじゃないwith MONGOL800」でした
「僕は、4歳の時からピアノを習い始め、中学2年になると、小学6年の時に知り合ったGooFと一緒に、フォークギターを弾きながら、ラップやヒップ・ホップを歌い始めたんです。
同じ頃、日本では、スチャダラパーや下町兄弟などのラップや、ヒップ・ホップミュージックが話題になり始めた時期で、僕達も、当時流行っていたNBAのビデオを観て、BGMに流れるラップやヒップ・ホップを耳にして、"自分達も、こんな音楽を歌えたら格好いいのに"と思うようになったんです」SOFFetのメンバーYoYoは、音楽を始めるキッカケについてこう振り返ります。
1995年、中学3年になったYoYoとGooFは、ラップ・ユニット「SOFFet」を結成。ラップとヒップ・ホップの魅力に本格的にのめり込むようになった二人は、見よう見まねで、オリジナル曲を作り始めます。さらに、SOFFetは、地元東京・吉祥寺のライブハウスで、ライブをし始め、翌1996年に入ると、彼らのライブには、200人近くが詰めかけるようになって、地元の音楽ファンの間では、注目を集めるようになっていきます。
「この頃から、僕達は、オリジナル曲が入ったカセットテープを作って、ライブハウスでお客さん達に配り始めたんです。そして、SOFFetとしてライブを始めて3年目の1997年8月だったと思います。東京・朝霞のライブハウスでライブをした時、お客さん達が、一緒に僕達の歌を歌ってくれるようになったんです。その光景をステージ上から観た僕は、とにかく嬉しくて、改めて歌の持つ魅力に憑かれ、"絶対メジャーデビューするんだ"と心に誓ったんです」。
歌が持っている魅力にとりつかれたYoYoは、それまで自己流でやってきた音楽を、基礎からきっちりと学ぶために、1999年に入ってアメリカのバークリー音楽院に留学します、
「バークリー音楽院に留学し、ラップやヒップ・ホップの本場の音楽に触れることで、もっと音楽を追求し、それまでは興味を持っていなかった、JAZZについても学んで、自分の音楽の幅を広げていくことにもチャレンジしたんです」。
2000年、YoYoがアメリカへ音楽留学をしている間に、SOFFetが作ったデモテープが、複数の人を介して、音楽関係者の手に渡って、YoYoが帰国した翌2001年に、SOFFetのデビューが決定。SOFFetは、まず2002年7月に、インディーズレーベルからミニアルバム『ソッフェのぽかぽかミュージック』をリリース。インディーズ盤でありながら、音楽関係者の間で高い評価を集め、翌2003年3月に、メジャー1stシングル「君がいるなら☆」をリリースするのでした。
2003年3月、SOFFetは、メジャー1stシングル「君がいるなら☆」をリリースします。
「デビュー直後、僕とGooFは、他のラップやヒップ・ホップミュージシャンと同じスタイルで音楽をやっても、SOFFetとしての個性が無かったら、音楽の世界で生き残っていけないと考え、その個性を作るために、ラップと、僕がバークリーに留学した時に学んだJAZZを融合させた音楽を作って、個性的な音楽スタイルを作ることを考えたんです」。YoYoは、当時を、こう振り返ります。
2004年8月、SOFFetがリリースした2ndアルバム『SWINGIN' BROTHERS』では、彼らが融合させようとしたJAZZに加え、クラシックとロックの要素も取り込みます。歌とラップを自由に行き来する、SOFFetのオリジナリティ溢れる音楽は、そのクオリティの高さを多くの音楽関係者に示すことになります。さらにSOFFetが、もう一つオリジナリティを発揮したのが、ジャンルを越えたミュージシャン達とのコラボレーションでした。
「初めは、自分たちが、音楽上の繋がりを持った人達と一緒に音楽を作ったら、きっと楽しいだろう、といった単純な動機から始めたんです。『SWINGIN' BROTHERS』で、自分達の憧れの先輩でもあった下町兄弟と初めてコラボレーションしたんですが、抵抗感なく、楽しく曲を作ることができたんです。そこで、もっと深く掘り下げてコラボレーションしたら、きっと面白い曲が作れると確信して作ったのが、翌2005年8月に、佐藤竹善さん、ジャズピアニストの小曽根真さんとの組み合わせで作ったシングル曲「GOOD MORNIN' GOOD ROLLIN'」だったんです。POPS、ヒップ・ホップ、そしてBIG BAND JAZZといった、特定のジャンルに拘らない音楽に、高い評価を頂きました」。
ファンと音楽関係者、そしてSOFFet自身も成長を感じ始めた2006年8月、SOFFetは、レコード会社をワーナー・ミュージック・ジャパンから、rhythm zoneに移籍。移籍第1弾シングルとなった、「everlasting one」は、発売直後に全国のFM局から支持を集めて、週間OAチャート1位を獲得します。さらに翌2007年1月、スキマスイッチ、佐藤竹善らをゲストに迎えて作った3rdアルバム『ココロフィルムノート』をリリース、音楽ファンの間で高い評価を集める中、7月に、彼らがヒットにこだわった11枚目のシングル「Answer」がリリースされるのでした。
「デビュー直後から、JAZZとヒップ・ホップを融合させたオリジナルミュージックを生み出すことにこだわって曲を作ってきた僕達が、それを、馴染み易いPOPSに、どうやって発展させていくのか、最後の最後まで悩み抜いて作ったのがこの「Answer」です。この曲がヒットしたことで、僕達の中には、ひとつの達成感が生まれました」。
それまで彼らの音楽を知らなかった人達からも注目を集めるようになったSOFFetは、翌2008年2月に発売を予定していた5周年記念アルバムの制作に取り掛かります。
「アルバムには、それまでと同じように、僕達と親交のあるミュージシャンに参加してもらって作った曲を、収録することを決め、ゲストのひとりとして選んだのが、MONGOL800だったんです。MONGOL800とは、僕達が2003年10月にゲスト参加した山嵐のコンピレーションアルバム『Colors Water Music』のリリース時に出会い、当時、意気投合した僕達は、"いつか一緒に曲を作るチャンスがあれば"と話していたんですが、それで、MONGOL800の清作と、東京・中目黒のカフェで一緒にお茶を飲みながら、話をしていた時に、偶然アイディアが浮かんで、その場で一緒に曲を作ることを決めたんです」。
この時、YoYoと、MONGOL800の上江洌清作は、アルバムを2月にリリースすることから、"卒業・人の別れ"をテーマに曲を作ることを決めます。
「曲を作る事が決まって、清作が僕の家にやって来て、2、3度打合せをして、最初に曲のサビの部分を作って、イメージを膨らませていったんです。清作はギターで曲を作るけど、僕はピアノで曲を作る。そこで、お互いの持ち味を上手く活かして、曲を作っていったんです。曲のテーマでもあった"人の別れ"を普通に考えれば、スローなメロディをイメージするかもしれませんが、僕らは、敢えて、曲を聴いた人が、楽しくスウィングするような、メロディを作ることを心掛けたんです。確かに、別れは悲しく切ないものだけど、その向こう側には新しい出会いも待っている。前を向いて進んでいくなら、楽しく感じてもらえた方が良いので」。
こうして、SOFFetが、MONGOL800とコラボレーションして作った曲「ひとりじゃないwith MONGOL800」は、5周年記念アルバム『NEW STANDARD』の収録曲として、2008年2月にリリースされるのでした。
2008年2月にリリースされた、SOFFet5周年記念アルバム『NEW STANDARD』に収録された曲「ひとりじゃないwith MONGOL800」。
「初めは、"人の別れ"をテーマに作り始めたんですけど、曲が完成してみると、別れだけじゃなく、結婚式など人生の門出でも歌ってもらえる、聴く人それぞれのシチュエーションによって、色んな捉え方ができる曲になったんです。曲を聴いたファンの人達からも、色んな意見を貰って、僕は改めて、この曲を作ったことで、歌が人に与える影響力の大きさに気付かされたんです。僕にとっても、大きな財産のような曲です」最後に、YoYoは、この曲について、こう振り返ってくれました。
ジャンルやイメージにこだわらない、歌づくりが新しいオリジナルソングを生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ミモザの咲く頃/下町兄弟
M2.君がいるなら☆/SOFFet
M3.Answer/SOFFet
M4.ひとりじゃないwith MONGOL800/SOFFet
210回目の今日お届けしたのは、「山口 百恵/秋桜」でした
「僕が彼女のライブを初めて観たのは、1973年8月のことでした。当時僕は、一緒に仕事をしていた井上陽水と、ニッポン放送からの帰り道に、山口百恵と森昌子、そして石川さゆりが出演していた「祭りだ!ホリプロ 花の三人娘」というライブを観に、日比谷野外音楽堂に、立ち寄ったんです。そのステージで、山口百恵は、2ndシングルの「青い果実」を歌っていたんですが、その歌声は爽やかで、強く印象に残ったんです」
ホリプロのグループ会社、東京音楽出版で担当ディレクターを務めた、川瀬泰雄さんは、当時を、こう振り返ります。
1959年1月、東京都渋谷区恵比寿に生まれた山口百恵は、幼い頃に、神奈川県横須賀市へと移り住みます。1972年12月、山口百恵は、中学2年の時に、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に出演し、レコード会社、芸能プロダクション合わせて20社から指名を受けた後、ホリプロと契約。翌1973年4月に、シングル「としごろ」でデビューし、同じ頃に『スター誕生!』からデビューした、同級生の森昌子、桜田淳子ともに、"花の中三トリオ"として、話題を集めます。9月にリリースした、2ndシングル「青い果実」は、清楚な雰囲気を持った山口百恵が、大胆な歌詞の内容を歌ったこともあって、さらに話題を呼び、セールスチャート最高位9位、約20万枚の売上を記録します。
「僕は、11月に発売を予定していた3rdシングルから制作スタッフとして加わったんです。彼女の曲は、既に作詞は千家和也さん、作曲は都倉俊一さんが手掛ける事が決まっていたので、僕の仕事は、CBS・ソニーの担当プロデューサー、酒井政利さんがイメージした曲のコンセプトを、千家さん、都倉さんに、具体的に指示する役割だったんです」。
1974年6月、山口百恵がリリースした5枚目のシングル「ひと夏の経験」は、その年の「日本歌謡大賞 放送音楽賞」、「日本レコード大賞 大衆賞」「ゴールデン・アロー賞 特別賞」などを受賞。さらに、山口百恵は、この曲で「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、その人気は一気にブレイクしていきます。
翌1975年も、山口百恵は4枚のシングルと、2枚のアルバムをリリースし、それぞれをヒットさせますが、その中でも、9月に発売した10枚目のシングル「ささやかな欲望」に、川瀬さんは、山口百恵のひとつの変化を感じるのでした。
1975年9月に、山口百恵がリリースした10枚目のシングル「ささやかな欲望」。
「完成したこの曲を聴いた僕は、彼女の歌に対する意識が、変わってきていると感じたんです。一つ前のシングル「夏ひらく青春」と比べても、歌うテクニックや感情の込め方がまるで違っているんです。作品そのものも、少女から、大人をテーマにした内容が増えてきたのと同じように、彼女の歌声も大人へと変化しているんです。僕の中に、彼女は、上手い歌手になるんじゃないかという、予感のようなものが芽生えてきたんですね」。担当ディレクターだった川瀬さんは、当時を、こう振り返ります。
翌1976年、川瀬さんが抱いた予感は、揺るぎない確信へと変わっていきます。
「僕は、彼女の曲を作ってくれる作家陣の幅を広げたいと思っていました。シングル曲は、千家、都倉のコンビが作った曲を歌うのが、暗黙のルールで、僕は、まずはアルバムの曲に、少しずつ、千家、都倉コンビ以外の作家が作った曲を入れたんです。この時、僕が以前担当をしていたモップスのスタッフを通して紹介してもらったのが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでヒットを飛ばしていた、宇崎竜童、阿木燿子のコンビでした。4月発売のアルバム『17才のテーマ』用に、まずは2曲作ってもらったんですが、その中の一曲の完成度が、飛びぬけて良く、急遽、その曲をシングル曲に変更して、追加で2曲作ってもらったんです」。
「ちょうどこの頃、山口百恵は、歌手として、悩んでいた時期でもあったと思います。デビュー後、映画やTVドラマにも数多く出演していた彼女は、"自分はいったい何を重点的にやっていけばいいのか"と悩み、僕には、彼女が、全てにおいて集中力を失っているように感じられたんです。歌っている曲も、どちらかと言えば、予め用意されて、自分の考えが反映された曲ではない。好きで歌っていると言うよりも、むしろ"歌わされている"といった気分になっていたのでしょうね。しかし、宇崎さん、阿木さんが作った曲をレコーディングした時、彼女が、活き活きと蘇ってくるのが、分かったんです。阿木さんの書いた歌詞が、山口百恵の感性にマッチしたんだと思います」。
1976年6月、山口百恵がリリースした13枚目のシングル「横須賀ストーリー」は、セールスチャート1位、約66万枚の売上を記録します。
「山口百恵は、等身大の自分を表現してくれる、女性作家・阿木燿子との出会いをキッカケに、歌に自分の感情を上手く投影できるようになって、初めて自分の曲だと感じるようになっていったんです。一方で、この頃から、彼女のファンはもちろん、音楽ファンからは、次に彼女はどんな歌を歌うのか、常に注目を集めるようになっていて、僕達制作スタッフの中では、聴く人の期待を裏切る曲を作っていく事が、制作のコンセプトになっていったんです」。
その後も川瀬さんは、山口百恵のアルバム用の楽曲に、阿木さん、宇崎さんのコンビ以外にも、浜田省吾や、ジョニー大倉といった、個性的なアーティストが作った曲を起用していきます。
そして1977年秋、川瀬さんが、ひとりのシンガーソングライターに頼んだ曲が、1年がかりで日の目を見ることになります。
「この曲は、1976年にグレープを解散し、ソロ歌手となったばかりの、さだまさしさんに頼んで作ってもらった曲です。当時、さださんが、山口百恵に興味を持っているという話を聞いた僕は、ホリプロのスタッフに、まず、さださんの父親を紹介してもらい、千葉県市川市のさださんの自宅を訪ねたんです。訪ねた時、あいにく、さださんは外出中で、さださんのお父さんと話をした後、しばらく彼の書斎で待たせてもらったんです。彼の書斎には、花や、言葉に関する文芸書が数多くあって、僕はその中の一冊を読みながら、彼の帰りを待ちました。そして、さださんが帰宅してから、山口百恵の話を色々したんです。さださんは、"時間をかけて、彼女の事について、色々話を聞いた上で曲を書きたい"と言ってくれたので、僕はしばらくの間は、定期的にさださんの家を訪れて、山口百恵のその時の新しい動きや、さださんの音楽について話していました、でも、結局は、世間話が多かったかもしれません」。
しかし、翌1977年3月、さだまさしが歌ったシングル「雨やどり」が大ヒットして、さだまさしは、まさに時の人になってしまいます。多忙をきわめていく、さだまさしに曲を作ってもらうことを、半分諦めかけた矢先、川瀬さんの下へ、さださんから1本のカセットテープが届きます。
「「小春日和」とタイトルが付けられたカセットテープを、直ぐにプロデューサーの酒井さんと聴きました。いったい、さださんはどんな曲を作ってくるのか、僕達はわくわくしながらテープを聴いたんです。曲を聴き終えた瞬間、僕はさださんが書く歌詞の世界観に、思わず"やられた"と思いましたし、それまでにない新鮮さを感じました。もちろん、当時、さださんも、そして誰もが、まさか3年後に山口百恵が結婚して引退するなど、全く考えてもいなかったので、この歌詞の内容には、本当にびっくりしました」。
しかし、川瀬さんは、曲の一部に物足りなさを感じ、さださんに曲の手直しをお願いします。
「最初に届けられた曲には、サビの盛り上がりが1回しかなく、僕と酒井さんは、少し物足りなさを感じたので、さださんに手直しをお願いしたんです。改めて届けられた曲は、サビの盛り上がりも増え、歌詞も少し長くなったんです。あと、レコーディングをしてみると、ちょっと暗いトーンになっていたので、山口百恵にキーを上げて歌ってもらうと、歌は見違えるように良くなって、歌詞の世界観を見事に表現することができたんです」。
こうして、1977年10月、山口百恵の19枚目のシングル「秋桜」は、リリースされるのでした。
1977年10月にリリースされた、山口百恵の19枚目のシングル「秋桜」は、セールスチャート3位、約46万枚の売上を記録します。
「嫁いでいく娘が、残る母親を想う内容を歌ったこの曲のレコーディングの時、山口百恵はまだ10代で、正直歌詞の内容は分かっていなくて、彼女が結婚して引退する事が決まった、3年後の1980年になって、やっと歌詞の意味が分かったと、彼女から聞いています。それにも関わらず、あの当時に、見事にこの曲を歌い切った彼女の歌唱力には、ただ驚くばかりです。」
最後に、川瀬さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
ディレクターの、歌い手の可能性へのチャレンジが、年齢と時代を超えた
J-POPの名曲を生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.青い果実/山口百恵
M2.ささやかな欲望/山口百恵
M3.横須賀ストーリー/山口百恵
M4.秋桜/山口百恵
209回目の今日お届けしたのは、「Chara/やさしい気持ち」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、確か1989年か1990年だったと思います。もともと彼女は、ロックバンド「グラムロッカ」の、ボーカル兼キーボードプレーヤーとして、ソニー・ミュージック主催のSDオーディションを受けたんですが、ほどなくバンドは解散してしまい、彼女は、ソロで、エピック・ソニーからデビューすることになったんですね。それで、当時、宣伝部から、制作部に異動になったばかりの僕が、彼女の担当をすることになったんです」
エピック・ソニーでCharaの担当ディレクターを務めた、大原さんはこう振り返ります。
1968年1月、埼玉県川口市に生まれたCharaは、中学時代からダイアナ・ロスや、プリンスの音楽に夢中になり、高校卒業後に友人達とロックバンド「グラムロッカ」を結成します。その後、グラムロッカを解散したCharaは、ソロデビューに向けて、エピック・ソニーのスタッフ達と、デモテープ作りを始めます。
「僕が彼女に魅かれた理由は、彼女が作る曲のセンスの良さと、甘い歌声です。当時、J-POPの世界では、渡辺美里を中心としたパワフルな歌声を持った女性ボーカリストが主流で、Charaのような、優しくて甘い歌声を持った女性ボーカリストは、地味な存在として見られていたんです。そう言った中で、Charaの存在は異質だったんですが、僕は、彼女なら、J-POPの世界できっと面白い存在になる、と考えたんです」。
こうして、Charaは、約1年近くに渡って、ボイストレーニングとデモテープ作りを積み重ねた後、1991年9月に、1stシングル「Heaven」をリリースするのでした。
1991年9月、Charaは1stシングル「Heaven」を、11月には、1stアルバム『Sweet』をリリースします。
「Charaは、デビュー直後から、TVやラジオで頻繁に曲が流れて、音楽関係者の評価も少しずつ高まっていました。当時の音楽業界では、"ひと組のアーティストをデビューさせた時は、3枚アルバムを作って、結果を出せばいい"と言った考え方が主流だったんで、僕達スタッフに、焦りはありませんでした。幸いにも、1stアルバム『Sweet』が、最初のプレスこそ8,000枚だったんですが、じわりじわりと売上を伸ばして、1年後には、5万枚を記録したんです。僕らスタッフは、Charaは、丁寧に時間を掛けて作品を作れば、音楽ファンに彼女の良さは伝わって、必ず売れるアーティストになる、と確信したんです」。
その後、Charaは、敢えて、若くて経験が浅い音楽プロデューサーと一緒になって作品作りに取り組むことで、自らのアイディアを積極的に、作品に反映していきます。また、大原さんを始めとしたスタッフの、地道なプロモーションも結果となって現れ、1992年9月にリリースした2ndアルバム『SOUL KISS』は、その年の日本レコード大賞ポップス・ロック部門で、アルバム・ニューアーティスト賞を受賞。Charaが生みだす、ソウルとR&Bをベースとした、スウィートでメロウなメロディ、そして様々な愛をテーマに書いた歌詞は、音楽ファンの心を徐々に掴んでいきます。
そして、翌1993年、Charaにとって、運命的な、ひとつの出会いが巡ってきます。
「当時、新進気鋭の若手映画監督として注目を集めていた岩井俊二さんが、彼女の自由奔放なキャラクター性を評価してくれて、岩井さんが監督を務めることになっていたテレビドラマへの出演オファーをくれたんです。ただ、Charaは、その時は気持ちが乗らず、そのオファーは断ったんです。ところが、そのTVドラマのOAを観たCharaが、岩井さんの作品を気に入って、今度は彼女の方が彼とと仕事をしたいと言い始めたんです。そこへ、再び、岩井監督から、出演オファーが届いたのが、映画『PiCNiC』でした」
ショートフィルム作品『PiCNiC』で、岩井俊二と出会ったCharaは、さらに、『PiCNiC』で共演した浅野忠信と、1995年春に結婚し、同じ年には長女も出産します。ひとりの女性としての幸せも手に入れたCharaに、音楽面においても、微妙な変化が訪れます。
「それまでCharaは、恋人や友人、自然と言った彼女自身の身の回りに起こった事に対する様々な愛について歌を歌ってきたんです。そして、結婚、出産と言う、女性にとっての大きな出来事を経験した事で、Chara自身、ひと回りも、ふた回りも大きくなって、今度は家族愛をテーマにした、歌も歌うようになっていったんです」。
女性としての内面的な変化が、音楽面にも大きな影響を与え始めていたCharaの下へ、岩井俊二監督から、再び映画出演のオファーが舞い込みます。
「1996年9月に公開が予定されていた映画『スワロウテイル』に、Charaに、主演してもらい、主題歌も歌って欲しいという内容でした。音楽プロデュースは、小林武史さんが手掛けることになっていたので、主題歌は、Charaが大好きなプリンスの映画、『パープル・レイン』に入っているような曲を作って欲しい、とお願いしたんです。小林さんのような大物プロデューサーと曲を作るチャンスは少なく、彼女にとっても勉強になると思いました」
1996年7月、Chara主演した映画『スワロウテイル』の劇中に登場するバンド、YEN TOWN BAND名義でリリースしたシングル「Swallowtail Butterfly~あいのうた~」は、セールスチャート1位を獲得し、約88万枚のセールスを記録。Chara自身、女優としての演技力も評価されて、日本アカデミー賞主演女優賞優秀賞を受賞します。
そして、翌1997年、今度は、その年の春からOAが予定されていた資生堂のCMソングタイアップの話が、Charaの下へ届きます。
「もともとこの曲は、彼女がデビュー前に作っていたデモテープの中にあった曲です。CMソングの話があってから、僕が、Charaに昔から気になっていたこの曲を使うことを提案したんです。彼女が曲を作る時は、先にメロディを作って、後から歌詞を書くケースがほとんどで、歌詞はメロディを作る時に、まるで鼻歌を歌うような感覚で、デタラメな歌詞を歌って、それを、後で、ちゃんとした言葉に直しいくんです。この曲も、サビの、"手をつなごう 手を"の「手を」の部分は、初めはアルファベットで「TO」と歌っていて、歌詞を書く最終段階で、「手を」と書き直したんです。曲全体は、やはり当時の彼女が一番大切にしていた、家族愛をテーマにしていると思います」。
こうして、1997年4月、資生堂「ティセラJ」のCMソングとして起用された、Chara14枚目のシングル「やさしい気持ち」は、リリースされるのでした。
1997年4月にリリースされた、Chara14枚目のシングル「やさしい気持ち」は、セールスチャート最高位7位、約52万枚の売上を記録します。
「リリース直後から、この曲は、彼女のライブでは欠かせない、彼女自身もお気に入りの曲となったんです。ひとりの映画監督と出会ったことをキッカケに、彼女の音楽人生に追い風が吹き、その風はこの曲で、大きなうねりとなったんです」最後に、大原さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
出会い、結婚、出産。ひとりの女性としての幸せが、J-POPの名曲を生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.パープル・レイン/プリンス・アンド・ザ・レボリューション
M2.Heaven/Chara
M3.Swallowtail Butterfly~あいのうた~/YEN TOWN BAND
M4.やさしい気持ち/Chara
208回目の今日お届けしたのは、「藤澤ノリマサ/希望の歌~交響曲第九番~」でした
「僕は、高校時代に、カナダにホームステイした経験があるんです。その時、ホームステイ先の家族がよく聴いていたのが、セリーヌ・ディオンだったんです。その音楽を聴いて以来、僕は、彼女の歌声に惚れ込んでしまったんです。彼女と同じとはいかないまでも、いつか僕も、聴く人の心を打つ歌声で、歌を歌っていきたいと思ったんです」。
藤澤ノリマサさんは、歌手を本格的に目指すようになったキッカケについてこう振り返ります。
1983年3月、北海道札幌市に住む声楽家の父と、歌の講師だった母の下に生まれた少年・藤澤ノリマサは、彼が小学一年の時に、TVでジュディ・オングが「魅せられて」を歌う姿を観てから、彼自身も、歌手になりたいと思うようになります。
そして、高校時代に、カナダのホームステイ先で、セリーヌ・ディオンの歌声に触れたことで、歌手を目指す決意を、よりいっそう強くしていきます。
その後、武蔵野音楽大学で声楽を学んだ藤澤ノリマサは、2006年に大学を卒業すると、歌手としてデビューしたい一心で、彼自身が作った、ポップスやバラードを中心としたオリジナル曲や、カンツオーネなどを、都内のライブハウスを中心に弾き語りで歌い始めます。
「当時僕は、自分でオーディション雑誌を買ってきては、レコード会社や音楽事務所などに片っ端からコンタクトを取って、デモテープを送りつけていました。全部で100社以上には、連絡したと思います。そして、たまたまクラシックの曲を歌った1本のデモテープを今の所属事務所に送ったところ、興味を持ってくれて、契約がまとまったんです」。
こうして2008年、藤澤ノリマサは、音楽事務所「スマイルカンパニー」と契約を結び、4月に1stシングル「ダッタン人の踊り」をリリースするのでした。
2008年4月、藤澤ノリマサがリリースした1stシングル「ダッタン人の踊り」は、リリース前に有線放送で曲が流れると、リクエストが殺到し、有線放送の月間問い合わせチャートの3位を記録します。
「1stシングル「ダッタン人の踊り」は、ロシアの作曲家ボロディンが作ったオペラ作品『イーゴリ公』の中の曲「韃靼人の踊り」のサビを引用し、僕が新たにAメロとBメロを作って、合体させて、それに歌詞を書いて作った曲です。この曲は、僕が独りで歌っているのに、ラジオから流れる曲を聴いた方には、複数の人達が歌っているように聴こえたみたいで、事務所やレコード会社に、"藤澤ノリマサは、何人組ですか"と言う問い合わせが殺到したそうです。僕は、"やったー"と思うと同時に、今まで、誰もやったことのない、藤澤ノリマサ、オンリーワンの歌唱スタイルを、もっと極めていきたいと思ったんです」。
「そもそも、僕がこの歌唱スタイルで歌っていこうと思ったのは、2000年にセリーヌ・ディオンとオペラ歌手のアンドレア・ボチェッリがデュエットしてリリースした曲「the prayer」を聴いた事がキッカケです。ポップス歌手と、オペラ歌手の歌い方、それぞれの歌い方を融合させて、一つの曲の中で、独りで歌ったら面白いだろうな、と考えたんです。僕自身、ポップスも好きだし、クラシックやオペラも好きで、将来、どちらの世界に進むべきか、悩んだ時期もありました。一般的に、クラシックやオペラは、敷居が高いと思っている人も多いですが、クラシックやオペラ、そしてポップスを一度に楽しめる、この"ポップオペラ"を聴くことで、少しでもクラシックやオペラのファンが増える事を、僕は望んでいます」。
こうして、藤澤ノリマサの、"ポップオペラ"と呼ばれる独特の歌い方は、次第に音楽ファンを獲得していくのでした。
2009年7月、藤澤ノリマサは、5枚目のシングル「愛の奇跡」をリリースします。
「藤澤ノリマサ独自の、ポップオペラと言う、新しい音楽スタイルが、少しずつ形になってきたこの時期。もう一歩ステップアップするためにチャレンジし作った曲が、5枚目のシングル「愛の奇跡」です。完全なオリジナル曲として初めて作った、このポップオペラは、新たな創作意欲を湧きたてるキッカケにもなったんです」。
翌2010年に入ったある日。藤澤ノリマサは、秋に発売を予定していた次のシングル曲のテーマを、彼のファンの人達から募集することを思いつきます。
「僕は、誰もが口ずさめ、明るく笑顔になれる曲を作りたいと思ったんです。それで、僕のオフィシャルHPで、ファンの人達から、次のシングルのテーマとなる曲を募集したんですが、一番に選ばれたのが「第九」でした。そこで、僕はファンの人達にも、一緒にこの歌を歌ってもらいたいと思って、初めて合唱パートを取り入れた曲に仕上げたんです。ドイツ語の発音は一見難しく感じますが、何度も何度も曲を聴いて、発音を覚えたら、意外と簡単に歌えるように作ってあるんです」。
こうして、ベートーヴェンの交響曲第九番 第4楽章「歓喜の歌」をモチーフに作った、藤澤ノリマサの8枚目のシングル「希望の歌~交響曲第九番~」は、2010年10月にリリースされるのでした。
2010年10月にリリースされた、藤澤ノリマサの8枚目のシングル「希望の歌~交響曲第九番~」。
「この曲には、「しあわせだから笑うんじゃなくて、笑っているからしあわせになれる」「歌いたい笑顔のためなら、届けたいどんなときも」という歌詞があります。世の中、良い事ばかりではないけど、頑張っただけ、その努力は、いつかはきっと実る。今は辛いかもしれないけど、諦めないで、笑顔で頑張ろう、と言う想いを込めて、曲を作ったんです。そして、リリースから、半年が経った2011年3月11日に発生した、東日本大震災以降、僕は、この曲が持っている歌の力が、より多くの人達に伝わって、その使命を果たしているような気持ちを感じています。もっと、もっと、みんなが沢山の笑顔を作れるように、僕もこの歌を歌って、多くの人達を勇気づけていければと思います」。
最後に、藤澤ノリマサさんは、この曲について、こう語ってくれました。
だれもが口ずさめるメロディが、人々を笑顔に導くことの出来る、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.トゥ・ラブ・ユー・モア/セリーヌ・ディオン
M2.ダッタン人の踊り/藤澤ノリマサ
M3.愛の奇跡/藤澤ノリマサ
M4.希望の歌~交響曲第九番~/藤澤ノリマサ
207回目の今日お届けしたのは、「小柳ゆき/be alive」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、確か1998年、リハーサルスタジオに、関係者を集めて行ったオーディションの場でした。彼女は、小柄で、見た目は、どこにでもいる普通の女子高生といった雰囲気の子で、オーラは感じなかったんです。ところが、彼女が歌を歌い始めると、その空気感は一変し、彼女はオーラに満ち溢れ、ダイナミックな歌声で歌う彼女の姿に、僕は驚きを隠せませんでした。僕は直ぐに、彼女を歌手として育てていく事を決めたんです」。
小柳ゆきのプロデュースを手掛けた、吉田晴彦さんは、当時をこう振り返ります。
1982年1月、埼玉県大宮市に生まれた小柳ゆきは、4歳年上の音楽好きの姉の影響で、小学5年生の頃から歌を歌い始めます。
最初は、歌謡曲を中心に歌っていましたが、いつの間にか、ホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーなどの洋楽を、好んで歌うようになっていきます。1994年、小柳ゆきは、ひと足先に歌手として活動をスタートさせていた姉・裕美の影響で、彼女自身も歌手を目指し、その年に開かれた「コロムビア歌謡曲新人歌手オーディション」に出場し、全国決勝大会まで勝ち残ります。
その後、小柳ゆきは、オーディションの全国決勝大会まで残った実績が評価されて、音楽事務所からデビューの誘いを受けますが、当時、彼女自身が、学校の部活動でしていた剣道に没頭していた事もあって、一度はデビューの誘いを断ります。しかし1997年に入って、再びデビューの誘いを受けた小柳ゆきは、今度はその誘いを受け入れ、歌手デビューに向けた第一歩を踏み出します。
「僕が彼女と一緒にレッスンを始めた1998年頃は、日本でもホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーなどの曲がヒットし、女性ボーカリストによる本格的なR&Bブームが到来し始めていたんです。僕は、音域の広い彼女の歌声を評価していましたが、ブームに乗って、彼女をR&Bシンガーにこだわって育てていく事だけはしたくなかったんです。むしろ、誰もが聴いて楽しめる、分かりやすいメロディの曲を歌って、幅広い人達に愛されるシンガーとして、育てていきたかったんです」。
プロデューサーの吉田さんは、当時をこう振り返ります。
その後小柳ゆきは、地元埼玉の高校に通いながら、約1年間に渡ってボーカルレッスンとデモテープ作りを積み重ね、1999年9月に、1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」をリリースするのでした。
1999年9月、小柳ゆきがリリースした1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」。
「まだ、あどけなさが残る若干17歳の女子高生・小柳ゆきのデビュー曲を巡っては、リリースされるまでにレコード会社の中でも賛否両論あったんです。ボーカリストとしての力を試されるバラード曲を、いきなりデビュー曲で歌わす事は、リスクが高く、普通は、まず派手な曲で音楽ファンの興味を集めて、次にバラード曲を歌って、ファンの人達に、その歌唱力を認めさせていく形が、音楽業界のセオリーだったんです。しかし、僕は、彼女の歌声は間違いなく、聴く人達の心を掴むという自信を持っていたので、デビュー曲をバラード曲にしたんです」。
小柳ゆきの1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」は、じわじわと売上を伸ばし、最終的に、約1年間に渡って売れ続けるロングヒット曲となります。
「同時期にデビューした、宇多田ヒカルさん、倉木麻衣さんがメディアに積極的に取り上げられて、オシャレで、トレンディな女性ボーカリストとして評価を集めていました。一方の小柳ゆきは、メディア露出は少ないけど、実力をもったソウルラヴァーとして、その潜在能力は少しずつ評価を集め始めていたんです。彼女の歌声を、生で聴いてもらいたい。そう思った僕達は、彼女のライブを大きなステージで積極的に展開していくことを考え、ホイットニー・ヒューストンや、マライア・キャリーのステージを真似て、ボーカルレッスンの他にも、ダンスやパーカッションなどにもチャレンジさせたんです」。
2000年4月に、小柳ゆきがリリースした4枚目のシングル「愛情」は、セールスチャート最高位3位、約72万枚の売上を記録します。
「アメリカのポップシンガー、ドナ・サマーの曲を意識して作った、4枚目のシングル「愛情」は、曲が持っているスケール感が大きく、聴く人をドキドキさせる、感じがしたんです。セールス的にも成功して、僕の彼女に対する予感は、この曲をキッカケに確信へと変わりました」。さらに、小柳ゆきが、5月にリリースした、洋楽カバーアルバム『Koyanagi the Covers PRODUCT 1』が、セールスチャートの1位を獲得します。
「彼女のもう一つの特徴でもある、英語の歌唱能力の高さを活かしたアルバムでした。特に海外進出を意識して作った訳では無く、彼女の歌の幅を拡げるために、チャレンジしたんです。彼女は、英語を特別誰かに習った訳でなく、自分でホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーの歌を、見様見真似で歌っている内に、彼女ならではの英語の歌詞の節回しが身につき、それが一つの個性になっていたんです」。
プロデューサーの吉田さんを始めとしたスタッフは、小柳ゆきの持っている歌唱力の高さを再認識すると共に、その確信をより強固な物にするために、再びバラード曲をリリースすることを決めます。
「この曲は、1stシングルリリース直後には、すでに完成していた曲です。当時、レコード会社では、次にどの曲をリリースするのか、曲を決定する会議で厳しく吟味して決定していたんです。この曲も、一度はシングル候補曲として検討されたんですが、会社の上層部が、1stシングルに続いて、2曲続けてバラード曲ではダメだと言う結論で、お蔵入りになっていた曲です」。
「しかし、シングルがヒットし、洋楽のカバーアルバムもセールチャート1位を獲得して、レコード会社の上層部も、彼女の才能を認め、この時期になると、販売戦略も、僕らスタッフが、自由に決めてリリースすることができたんです。そこで僕達は、聴く人達の心をきちんと掴むために、もう一度バラード曲で勝負することにしたんです」
こうして、2000年7月に小柳ゆきの5枚目のシングル「be alive」は、リリースされるのでした。
2000年7月にリリースされた、小柳ゆきの5枚目のシングル「be alive」は、セールスチャート最高位1位、約50万枚の売上を記録します。
「この曲は、セールス的には、1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」に及びませんでした。しかし、曲が持っている、人は人によって支えられている、と言うテーマ通り、彼女自身、多くのスタッフ、そしてファンの人達によって支えられているという事を、この曲から学んでいったんです。多くの人達に支えられて、これからもアーティストとして歌を歌い続けていく自信を、この曲で掴んだんです」。最後に、吉田さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
一人の歌姫に歌い続ける自身を与えた、J-POPのバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.I Will Always Love You/ホイットニー・ヒューストン
M2.あなたのキスを教えましょう~You were mine~/小柳ゆき
M3.愛情/小柳ゆき
M4. be alive/小柳ゆき
206回目の今日お届けしたのは、「古謝美佐子/童神(天の子守唄)」でした
「私の音楽の原点は、2歳の頃、叔母さんに観に連れて行ってもらった沖縄芝居です。何度も観に行っている間に、芝居の中で歌われる沖縄民謡を真似して歌うようになっていったんです。その後、親戚から三線を習ったり、民謡歌手に弟子入りするなどして、本格的に歌うようになったんです」。古謝美佐子さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1965年、10歳になった時、古謝美佐子は、沖縄音楽の専門レーベル「マルフクレコード」から、沖縄の童唄「すーしすーさー」をシングルとしてリリース。その後、古謝は、沖縄民謡の歌手として、地元沖縄で頻繁にステージに立つようになっていきます。
「私は、母親がもともと音楽活動に反対で、音楽活動はあくまで沖縄限定、内地に出掛けてまで積極的に音楽活動をする機会はなかったんです。ところが、1980年代に入って、沖縄音楽に興味を持ち始めたレコード会社の人達が、頻繁に沖縄に足を運ぶようになって、沖縄出身のミュージシャンが数多くデビューするようになったんです。その中でも代表的なバンドだった「六人組」のスタッフの紹介で、私はCBSソニーのスタッフと仲良くなって、1986年に坂本龍一さんを紹介されたんです」。
1986年、古謝美佐子はレコード会社「CBSソニー」のスタッフの紹介で、当時、YMOを解散し、ソロ活動に力を注いでいた坂本龍一と出会います。翌1987年7月、古謝美佐子は、音楽仲間の我如古より子、玉城一美と共に、坂本がリリースしたアルバム『ネオ・ジオ』にゲストボーカルとして参加。さらに1989年11月にリリースされたアルバム『ビューティ』では、古謝、我如古、玉城の3人がユニット「オキナワチャンズ」を結成しゲストボーカルとして参加。その後オキナワチャンズの3人は、坂本龍一の国内ツアー、ワールドツアーにも参加します。
「私にとって坂本さんとの出会いは、音楽面はもちろんですが、人間的な部分でも大きな影響を受けたんです。私は、小さい頃から母親に、"内地の人を信じたらいけない"と言われて育ってきたので、音楽活動も沖縄限定で、東京に行って音楽活動する事なんて夢にも思っていなかったんです。しかし、坂本さんと一緒に仕事をすることで、人を信じる事を教えてもらい、それが、1990年の「ネーネーズ」結成に繋がっていくんです」。
こうして、1990年、古謝美佐子は、音楽プロデューサー知名定男、佐原一哉の二人が手掛けた4人組沖縄民謡コーラスグループ「ネーネーズ」の結成に、リーダーとして参加します。
1991年4月、ネーネーズはインディーズから1stアルバム『IKAWU』をリリース。翌1992年には、キューン・ソニーと契約し、9月にメジャー1stアルバム『YUNTA』をリリースします。
「僕は、ネーネーズ結成までは、河内音頭や江州音頭など、関西を中心に、その土地土地で昔から歌い継がれてきた民謡のプロデュースを手掛けていたんです。沖縄民謡にも興味は持っていたんですが、それまでチャンスが無く、ネーネーズを手掛ける事になって、初めて沖縄民謡に触れたんです。最初は戸惑いがあったんですが、すぐに慣れました。僕は、知名さんと一緒に、古くから伝わる沖縄民謡に、アジア各地の民族音楽で使われている楽器の演奏を加え、色んなミュージシャンに参加してもらうことで、新しい民謡や、沖縄発信のワールドミュージックを作ろうとしたんです」。
ネーネーズのサウンドプロデュースを手掛けた、佐原一哉さんは、当時をこう振り返ります。
その後、ネーネーズは1年に1枚のペースでアルバムをリリース、国内外でライブツアーを行っていきます。しかし、1995年12月、古謝美佐子は、ネーネーズを脱退します。
「古謝が、ネーネーズを脱退した理由は、彼女自身が、自分の原点でもある沖縄民謡を、もう一度しっかり歌っていきたいという気持ちが生まれたからなんです。ネーネーズの音楽は、ベースに沖縄民謡はあったものの、POPSの要素が徐々に濃くなっていって、彼女自身が歌いたい音楽から離れてしまっていたんです」。
1997年2月、ソロ活動を始めた古謝美佐子に、初孫が生まれることが分かり、佐原と古謝の二人は、これを記念した子守歌作ることを決めます。
「古謝に、初孫が生まれることを知った僕は、彼女に曲をプレゼントすることにしたんです。メロディは、すんなり完成しました。そこで、僕は古謝に歌詞を書くように勧めたんです。民謡は、長年歌い続けられているというイメージが強いですが、新しく、今、自分の周りで起きている事を題材にして歌う民謡もあっていいのではないか。それが、自分の娘や初孫を題材にした歌詞ならば、なおさら古謝が書かなければ、誰が書くんだろうか。そう思った僕は、自分がサビの歌詞の一部を書いて、残りの歌詞を古謝に託したんです」。
こうして、古謝美佐子が初孫の誕生を祝って歌詞を書いた子守歌「童神(天の子守唄)」は、1997年12月に発表されるのでした。
1997年12月、古謝美佐子が発表した楽曲「童神(天の子守唄)」は、彼女のライブ会場限定CDとしてリリースされます。
物心つくまでの幼児の心は、純白で何者にも汚されておらず、神の魂に近い、という言い伝えから生まれた沖縄の言葉、童神をタイトルにつけたこの曲は、沖縄を中心に、その評判が少しずつ拡がっていきます。そして、2001年2月に、NHK『みんなのうた』で、山本潤子がカバー。さらに、同じ年の4月からスタートした、沖縄を舞台にしたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』の挿入歌として起用されると、『童神』に対する注目は、沖縄から全国へと拡がっていきます。
その後も、『童神』は花*花や、石垣市出身の夏川りみ、加藤登紀子らが、それぞれにカバーするなど、知る人ぞ知る名曲として、多くの人達の心を掴んで行きます。そして、2010年3月、今度は、NHKドラマ『八日目の蝉』の主題歌として、楽曲「童神」は起用される事が決まります。歌うのは、奄美大島出身、若干20歳の、城南海でした。
「私が、この曲を初めて聴いた日は、いつだったか覚えていません。しかし、気が付いたらこの曲の存在を知って、歌っていたんです。何度も何度も歌っている間に、この曲が大好きになった私は、2006年に、私が歌手になるきっかけになったオーディションでもこの曲を歌ったんです。そしてNHKドラマの主題歌として、この曲を歌うことが決まった時、運命的な出会いを感じたんです。古謝さんが歌った原曲は、優しい子守歌と言うイメージがあったんですが、私はドラマ『八日目の蝉』が「母性」をテーマにしたサスペンスドラマで、他人の子どもを奪って逃走する主人公の、複雑な心境の中にもある愛情を、曲を聴いた人に感じてもらえるように、心掛けたんです」。
NHKドラマ『八日目の蝉』の主題歌「童神」を歌った、城南海は、彼女自身がこの曲に込めた想いについて、こう振り返ります。
こうして、オリジナルでは"天の子守唄"と副題がつけられていた「童神」は、「童神~私の宝物~」として、2010年4月にリリースされるのでした。
2010年4月に、城南海によってカバーされた、古謝美佐子の楽曲「童神」
「最初は、私が自分の初孫のためだけに書いた歌だったのに、山本潤子さんがカバーしてくれた事をキッカケに、その輪はどんどん広がって、今では夏川りみさん、そして城南海さんなど、多くの人達がカバーしてくれて、私は嬉しい気持ちでいっぱいです。「童神」が成長していく姿を見ていると、私は沖縄民謡を歌い続けてきて良かったと思うし、これからも人生が終わるまで沖縄民謡を歌い続けていきたいと改めて思います」。最後に、古謝美佐子さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
初孫のための記念の子守唄が、たくさんの人達の声で歌い直されていく中で、
あたらしい、日本の子守唄に生まれ変わった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.すーしすーさ/古謝美佐子
M2.黄金の花/ネーネーズ
M3.童神(天の子守唄)/古謝美佐子
M4.童神~私の宝物/城 南海
205回目の今日お届けしたのは、「スターダスト・レビュー/愛の歌」でした
「僕の音楽の原点は、中学一年の時に観たドキュメント映画『ウッドストック』です。1969年8月に行われた伝説の野外ロックフェスティバルの模様を記録した映画で、僕は出演アーティストのパフォーマンスと、オーディエンスの熱狂に、とてつもない衝撃を受けたんです。それ以来、僕は、洋楽ロックの虜になったんです」。
スターダスト・レビューのバンドリーダー、根本要さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1957年5月、埼玉県行田市に生まれた根本要は、地元の中学に進学後、同級生達とロックバンド「怪盗二十面チョ」を結成。怪盗二十面チョは、ニッポン放送主催の、アマチュアフォークシンガーを対象とした音楽コンテスト『フォーク・ビレッジ』に出場して、決選大会まで進出します。1976年4月、日本大学芸術学部放送学科に入学した根本要は、高校の同級生の柿沼清史らと、バンドその後「アレレのレ」を結成します。
その後「アレレのレ」は、バンド名を「ジプシーとアレレのレ」と改名。1979年10月に開かれた、「ヤマハポピュラーミュージックコンテスト」に出場し、楽曲「オラが鎮守の村祭り」で優秀曲賞を受賞します。それから2年後の1981年5月、「ジプシーとアレレのレ」は、バンド名を「スターダスト・レビュー」と変えて、メジャー1stシングル「シュガーはお年頃」と、1stアルバム『スターダスト・レビュー』をリリースするのでした。
スターダスト・レビューは、デビュー前から、根本要のトークを中心としたエンタテイメント性たっぷりのライブが評判を呼び、デビュー直後から、彼らは、一年の大半を全国のライブ会場で過ごすようになっていきます。
「アマチュア時代、僕達は、ライブで、常に自分達の持っている歌を全力で歌って、MCでオーディエンスを盛り上げて、とにかく持てる力を全て出しきる事ばかり考えていたんです。ところが、メジャーデビューすると、周りのスタッフからは、"毎回ライブで全力投球する必要はないよ。ご飯を食べる時、お腹いっぱいに食べるよりも、腹八分目がいいように、ライブも同じ気持ちでやらなくちゃいけない。オーディエンスに、ライブにまた足を運んでもらうためには、出し惜しみをしなくちゃ"と言われたんです。何か変ですよね。それからです、メジャーの世界に疑問を持つようになったのは。それで、僕達スターダスト・レビューは、ヒット曲は無いけれど、ライブなら誰にも負けない、そんなバンド目指そうと決めたんです」。根本さんは、当時について、こう振り返ります。
その後も、スターダスト・レビューは、楽曲のリリースに合わせて、毎年のように全国ライブツアーを実施していきます。
「デビューから、ライブを重ねていく中で、大切にしていたのは、ライブでもCDと同じアレンジを忠実に再現することでした。その中で大きな役割を果たしていたのは、アマチュア時代から一緒に活動してきた、キーボードプレーヤーの、三谷泰弘の存在だったんです。彼は、演奏能力、アレンジ能力が優れていたので、僕らも信頼していたんです。ところが、1994年11月に、彼が、音楽的志向の違いでバンドから脱退してしまった後、僕達は、ライブについて改めて考え直してみたんです。そのとき、僕達は、ライブは完成された物ではなく、常に生物である。ライブを演る場所も違えば、ライブにやって来るオーディエンスも違う。僕達にとっては同じライブかもしれないけど、オーディエンスにとっては、全く違う。ライブは、完成された物ではない、と言うことにようやく気が付いたんです」。
1996年には、ライブ本数が、デビュー後通算1000本を突破、スターダスト・レビューは、文字通り、日本を代表するライブバンドとして成長を遂げていきます。その中で、根本要は、いつの日か、スターダスト・レビューのライブを楽しみにしてくれている、オーディエンスのための歌を作りたい、という想いを抱くようになっていきます。
「2006年のある日のことでした。楽曲制作に取り組んでいた僕の頭の中に、ひとつのサビのメロディが浮かんできたんです。これなら、大勢の人達が歌える歌ができると確信した僕は、直ぐに浮かんだメロディに、「LaLaLa...」と歌った仮歌を一緒にレコーダーに吹き込んで、数日後、メンバーに聞かせたんです。すると、メンバー、スタッフたちも、"この曲は、大勢の人達と一緒に歌ったら、スケールの大きな歌になるね"と言ってくれたんです。まさに狙い通りでした」。
「歌詞は、余計な物を極力省き、シンプルに、オーディエンスが歌い易く、誰もが分かり易い愛をテーマに書くことにしたんです。単純明快だから、曲のタイトルもシンプルにしました」。
"オーディエンスのための歌を作りたい"その想いを、より具体的にするために、スターダスト・レビューは、この曲をライブレコーディングする事を決めます。
「それまで、3枚のライブアルバムを出してきたけど、新曲を、オーディエンスのコーラスを交えてレコーディングするのは初めての経験だったんです。レコーディング前に、みんなに説明して、何度かリハーサルを重ねた後、本番を収録したんです。ライブが終わって、レコーディングした音源を聴き直してみると、想像以上に曲のスケール感が大きくなっていたんです。本当は、曲のエンディングだけにオーディエンスのコーラスを入れるつもりが、どの部分を聴いても入っているんです。オーディエンスのコーラスからは、僕達への無償の愛を感じることができました。残念ながら当日、ライブ会場へ来る事ができなかった、ファンへの感謝も含めて、これからも、当たり前の物をちゃんと歌っていこう、そう言う気持ちを再認識させてくれたんです」。
こうして、2007年5月、さいたまスーパーアリーナで行われたライブ、「25年に一度の大感謝祭・6時間ライブ~おやつ付き~」で、彼らのファンと共にライブレコーディングされた、51枚目のシングル「愛の歌」は、2007年7月にリリースされるのでした。
2007年7月にリリースされた、スターダスト・レビュー51枚目のシングル「愛の歌」。
「ヒット曲の無いスターダスト・レビューにとって、オーディエンスの力を借りて、想像以上のスケール感を持った曲に仕上がったこの曲は、僕らの中での大ヒット曲です。アーティストの中では、"音楽の神様が舞い降りた時に、曲は生まれる"と言う言葉を良く聞きます。では、一体、どんな時に音楽の神様は舞い降りるのか。僕は、支えてくれるスタッフ、そしてファン、全ての事に感謝した時に、音楽の神様は舞い降りてくるんだと思っています。スターダスト・レビューが、オーディエンスのための歌を作りたいと願った事を、音楽の神様が分かってくれて、この大切な曲が生まれたんだと思います」。
最後に、根本要さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
ライブバンドにとって最も大切な存在、オーディエンスに対する愛が、
これまでとは、まったく違う、普遍的なラブソングの名曲を生んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Dance To The Music/Sly &The Family Stone
M2.シュガーはお年頃/スターダスト・レビュー
M3.東京ブギウギ/スダーダスト・レビュー
M4.愛の歌/スダーダスト・レビュー
204回目の今日お届けしたのは、「HOME MADE家族/サンキュー!!」でした
「1996年の春に、僕は、南山大学に進学するために、全く土地勘の無い名古屋に住むことになったんです。入学して、大学構内で、友達を探している時に、キャンパスの中で、ヒップホップ音楽に乗せてダンスを踊っているグループを見つけたんです。その中に居たのがMICROです。僕は、MICROに、自分が作ったオリジナルのヒップホップミュージックのテープを渡して、聴いてもらって、それがキッカケで、一緒に音楽活動を始めたんです」。
HOME MADE家族のメンバー、KUROは、MICROとの出会いについて、こう振り返ります。
アメリカ・ケンタッキー育ちのMICROと、シカゴ生まれのKUROの二人は、本場アメリカのヒップホップ音楽に染まっていたため、日本に戻ってきた頃は、日本語ラップに違和感を覚えます。しかし、ふたりとも、当時デビューしたばかりの「RHYMESTER」が生みだす音楽には共感、自分達もやればできるんじゃないかと感じるようになります。そして、1996年春、運命の出会いを果たしたMICROとKUROの二人は、音楽ユニット「HOME MADE家族」を結成。二人以外にも、同じ大学の同級生で、クラブDJをしていたU-ICHIと、MC担当のHOZEが加わって、HOME MADE家族は、4人組として活動をスタートします。
「HOME MADE家族を結成した頃、僕らは、遊びの延長で、音楽活動をしていました。ところが、クラブイベントに出演する度に、オーディエンスは増え続け、作ったミュージックテープは1000本近くも売れるようになったんです。卒業を前に、就職するのか、このまま音楽活動を続けていくのか迷ったんですが、応援してくれる人達のためにも、HOME MADE家族の音楽をやり続けようということになったんです。」
大学卒業後も、4人は、アルバイト生活をしながらHOME MADE家族の活動を続け、その存在は、地元名古屋では、話題となり、レコード会社からも注目を集めるようになっていきます。
2001年11月、HOME MADE家族は、インディーズからアルバム『H.M.K.U』をリリース。その直後、音楽的志向の違いから、メンバーのHOZEが脱退しますが、残された3人は、HOME MADE家族としての活動を継続し、翌2002年7月には2ndアルバム『毎日が映画のようなヒトコマ』をリリースします。
「2ndアルバムのリリース直後から、キューン・ソニーを含め、レコード会社5社からメジャーデビューの誘いを受けるようになりました。しかし、契約はスンナリとはまとまらず、僕達は、平日はアルバイトをしながら曲を作り、週末にはイベントに出演するという、金銭的にもギリギリの生活を2年近くも続け、2004年に入ってやっとメジャー契約が決まったんです」。
こうして、キューン・ソニーと契約したHOME MADE家族は、5月に1stミニアルバム『Oooh!家~!』を、7月に1stシングル「SUMMER TIME MAGIC」をリリースするのでした。
2004年7月、HOME MADE家族がリリースした1stシングル「SUMMER TIME MAGIC」。
「メジャーデビューが決まって一番驚いたのは、関わる人達の多さです。インディーズ時代は、自分達でイベントを企画したり、出版社に取材をお願いに行ったり、ポスターまで作っていたんです。ところが、メジャーデビューをすると、周りは一変し、ほとんどのことは、周りのスタッフが考えて、手伝ってくれるんです。ラクになったのはもちろんなんですが、僕らを応援してくれる、ファン、そしてスタッフに感謝しないといけない、と言う気持ちを抱くようになったんです」。
ファンキーで、ハスキーな声を操るMICRO。聴き手の気持ちを鼓舞するような、高速ラップを得意とするKURO。そして、DJ U-ICHIが生みだす、力強いメロディと、楽しさとほろ苦い哀愁が同居したようなトラックの数々。3人バラバラの個性が集まって生み出されるHOME MADE家族の音楽は、日本のヒップホップシーンに、新しい風を呼び起こしていきます。
2004年11月、HOME MADE家族は、翌2005年春に予定していたメジャー1stアルバムの発売に向けた、先行シングル「アイコトバ」を11月にリリース。さらに、翌2005年1月に3rdシングルを発売することを決めます。
「この曲は、メジャーデビューした直後に、僕らを応援してくれる人達への感謝の気持ちを、曲に置き換えて作った曲です。
僕らは、普段曲を作る時は、まず3人がミーティングを重ねて、曲のテーマや、構成を決めるところから始めていって、その時、3人それぞれが今まで体験してきた出来事を重ねて、飾らず、等身大の気持ちを歌詞として書いていきます。この曲のサビの部分"いつもありがとう 本当ありがとう"と、ありがとうという言葉を繰り返す事に、最初はしつこいかなと思ったんですが、僕らの素直な気持ちだから、敢えてごまかす必要はないだろうという事で、そのまま使う事にしたんです」。
「1月に、この曲をシングルとしてリリースし、この曲を含む1stアルバム『ROCK THE WORLD』を3月にリリースした直後に、初めてのライブツアーを東京、名古屋、大阪で行ったんですが、そのライブの時、アンコールでこの曲を歌うと、ファンの人達がサビの歌詞を、合唱してくれたんです。その歌声を聴いた時、僕は、震えが止まりませんでした。僕らが、HOME MADE家族を応援してくれる人達への感謝の気持ちを曲に込めてプレゼントしたつもりだったのに、逆にファンの人達から、感謝のメッセージをもらったような気がしたんです」。
こうして、HOME MADE家族のメンバーと、彼らを支えるファンとの絆を、いっそう強めていくことになる、3rdシングル「サンキュー!!」は、2005年1月にリリースされるのでした。
2005年1月にリリースされた、HOME MADE家族3枚目のシングル「サンキュー!!」は、テレビ東京系アニメ『BLEACH』のエンディングテーマ曲にも起用され、スマッシュヒットします。
「メジャーデビューして、まだ7年近くしか経っていませんが、この曲をリリースした直後、初めて、曲が勝手に売れていく、という感覚を覚えたんです。自分達が作った曲だけど、自分達の曲ではないような感じです。その後、海外でライブを行った時、日本と同じように、海外でもアンコールでファンの人達がこの曲のサビの部分を合唱してくれたんです。音楽が持つ力が、言葉の壁を越えた、僕らのターニングポイントとなった曲です」。
最後に、KUROさんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
シンプルな感謝の言葉だからこそ、多くの人たちのキモチを素直にさせることのできる、
日本のヒップホップミュージックを代表する、ポップナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.FUNKY GRAMMAR(Featuring EAST END,MELLOW YELLOW)/RHYMESTER
M2.SUMMER TIME MAGIC/HOME MADE家族
M3.アイコトバ/HOME MADE家族
M4.サンキュー!!/HOME MADE家族
203回目の今日お届けしたのは、「中 孝介/路の途中」でした
「僕がシマ唄に興味を持ち始めたのは、高校一年の時、奄美大島で開かれたクラシックコンサートで、当時、シマ唄歌手として活躍していた、元ちとせさんの歌声を聴いた時からです。僕はそれまで、シマ唄は年寄りが歌う唄だと思っていたので、同世代の元ちとせさんがシマ唄を歌う姿に、驚くと同時に、言葉では言い表せない、魅かれるものを感じたんです」。
中 孝介さんは、シマ唄との出会いについて、こう振り返ります。
1980年7月、鹿児島県奄美大島名瀬市(現在の奄美市)に生まれた中 孝介は、幼い頃から姉の影響でピアノを習い始めます。その後も、高校入学直後までピアノを習い続けますが、彼の心の中に漠然と芽生え始めた、人に唄を届けたいという想いを叶えるために、ピアノを習うことを辞めます。
その直後、元ちとせが歌うシマ唄に出会った事をきっかけに、彼自身もシマ唄の名人・坪山豊さんに弟子入りして、シマ唄を習得していきます。
1998年、中 孝介は奄美大島で行われた「奄美民謡大賞」に出場して、努力賞を。さらに2000年に行われた「奄美民謡大賞」では、新人賞をそれぞれ受賞します。また、中は、同じ2000年に行われた「日本民謡協会」奄美連合大会では、総合優勝を飾り、「中孝介」の名前は奄美大島の中で、新しいシマ唄の伝承者として知れ渡っていきます。
「2002年に、僕は琉球大学に進学するため、沖縄へ移り住んだんですが、そこで沖縄民謡を初めて聴いたんです。奄美のシマ唄は、どちらかと言えば保守的で、現状維持をするタイプなのに対し、沖縄民謡は、バイタリティ溢れ、歌い手が、外に向かってどんどん打ちだしていくイメージを感じたんです。
シマ唄と沖縄民謡、同じ民謡でも、歌の持つスピリットが真反対の二つに触れたことで、僕は改めて奄美のシマ唄が持つ唯一無二の世界に引きこまれ、もっとシマ唄を極めて、多くの人達にシマ唄が持つ魅力を知ってもらいたいと思うようになったんです」。
沖縄での生活を通して、改めてシマ唄の魅力に取りつかれた中の下へ、その良さを表現するチャンスが巡ってきます。
「奄美大島の音楽イベントで知り合った、エピックレコードのスタッフから、東京に来てみないかと、誘われたんです。 シマ唄は、物悲しく、本土の人が聴けば、どちらかと言えばとっつきにくいイメージがあります。僕は、そんなイメージを持ったシマ唄と、J-POPを上手く融合させることで、シマ唄の持つスピリットを、多くの人に知ってもらいたい。中 孝介としてのシマ唄の世界観を作ってみたいと思ったんです」。
こうして、中 孝介はエピックレコードからの誘いを受け入れ、レッスンを積み重ねた後、まずは2005年9月にインディーズから、ミニアルバム『マテリヤ』をリリース。そして翌2006年3月に、メジャー1stシングル「それぞれに」をリリースするのでした。
2006年3月、中 孝介がエピックレコードからリリースした、1stシングル「それぞれに」は、九州全県を含む、全国23局のラジオ局でパワープレイを獲得し、彼、独特の優しい歌声は、じわりじわりと全国に浸透していきます。
その後も、中 孝介は11月に日本より先行して台湾、香港、中国でフルアルバムを発売し、なんと台湾の音楽チャートでは1位を獲得して、日本より一足先に彼の人気は台湾でブレイクします。
そんな中、中 孝介は翌2007年春に発売を予定していた3枚目のシングルを、森山直太朗に依頼します。
「僕は、東京に行って、ボーカルレッスンとデモテープ作りを始めた時、森山直太朗さんの「桜」を何度も歌っていたんです。「桜」は、自分で歌ってみて、しっくりきたし、歌の持っている独特の世界観に魅かれたんです。それで、僕は、スタッフを通じて森山さんに曲作りをお願いしたんです。森山さんはすんなりOKしてくれて、まずは直接会って、話をしたんです。自分は奄美大島出身で、奄美のシマ唄を歌ってきたこと。今は、シマ唄ではなく、ポップスも歌っているけど、聴いている人達に、人の心の琴線に触れる歌を歌っていきたいという思いを話しました」。
森山直太朗が曲を作り、御徒町凧が歌詞を書いた3rdシングル「花」は、2007年4月にリリースされ、セールスチャート初登場19位を記録し、発売後、半年以上もチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
シマ唄の伝道師として、ゆっくりと、そして着実に知名度をあげていく中 孝介の下へ、今度は、NHKから、中の出身地でもある、奄美大島をモチーフにした、TVドラマの主題歌提供の話が舞い込みます。
「もともとこの曲のメロディは、デビュー前から完成していたものです。
映画音楽のように、ゆっくりとドラマティックに広がっていく雰囲気が印象的なメロディでした」。
中は、曲の持つスケール感を壊さないように、作詞家の沢村直子さんに歌詞をお願いします。
「沢村さんは、メロディを何度も聴いて、曲が持っているイメージを膨らませて、一篇のバラードを書いたんです。その内容は、"人生と言う長い路に、ゴールが無いように、人が人を愛するという事にも、限界はない。人を愛するという事は、いつまでも、深く、大切に、同じ気持ちを持ち続けないといけない"という、とても興味深い内容でした」。
歌詞、そしてメロディの持つ壮大なスケール感を気に入った、NHKのドラマプロデューサーは、この曲を主題歌として起用する事を正式に決定します。
こうして、2007年11月、中 孝介はNHKドラマ『ジャッジ~島の裁判官奮闘記~』の主題歌に起用された、「路の途中」を4枚目のシングル「種をまく日々」のカップリング曲として、リリースするのでした。
2007年11月にリリースされた、4枚目のシングル「種をまく日々」のカップリング曲として収録された、「路の途中」。
「奄美のシマ唄に、ラブソングはありません。シマ唄の世界にはないバラードナンバーを、シマ唄の歌い手でもある僕、中 孝介が歌ったら、どんな世界が拡がっていくのか。ひとつの冒険ではありましたが、この歌を通して、またひとつ、中 孝介としての新しい歌の世界が作っていけたと思っています」。最後に、中 孝介自身は、この曲について、こう振り返っています。
ラブソングを知らない、奄美のシマ唄の歌い手が、新たな歌の魅力に辿り着いたJ-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ワダツミの木/元 ちとせ
M2.それぞれに/中 孝介
M3.花/中 孝介
M4.路の途中/中 孝介
202回目の今日お届けしたのは、「orange pekoe/Happy Valley」でした
「僕とナガシマが、ユニット「orange pekoe」を作ったのは、1998年秋のことです。当時、僕たちは、関西学院大学軽音楽部のメンバーで、僕がボーカルを探しているのを知った先輩から、彼女を紹介してもらったんです。僕と彼女は直ぐに意気投合し、僕がギタリストと作曲を担当、彼女はボーカルで、作詞を担当することになったんです」。orange pekoeのメンバー藤本さんは、結成当時について、こう振り返ります。
音楽好きで、ギターを弾いていた父親の影響を受けた藤本一馬は、高校時代に友人達とソウル・ミュージックのコピーバンドを結成。一方のナガシマトモコも、高校時代にR&Bを中心としたコピーバンドのボーカルで活動していました。
「大学に入ってorange pekoeを結成したわたしたちは、藤本が高校時代から作っていたメロディに、私が歌詞を書き、オリジナル曲を作っていったんです。ちょうどその頃、軽音楽部の先輩からスティーヴィー・ワンダーのアルバム『キー・オブ・ライフ』のレコードを貸してもらったんですが、ソウル、ラテン、ファンク、ジャズ、あらゆる音楽ジャンルの要素が詰まったこのアルバムを、二人で何度も聴き、スティーヴィー・ワンダーのように、多彩な引き出しを持ったアーティストになって、こんなアルバムを作りたい、と思ったんです」。ボーカルのナガシマは、当時をこう振り返ります。
大学の授業の合間をぬって創作活動に励んでいたorange pekoeは、2000年に入ると、二人で作ったオリジナル曲を持って、地元・神戸や大阪のカフェやライブハウスに出演するようになります。特定のジャンルに囚われない、orange pekoeの音楽センスは、やがて、口コミで広がり、彼らはライブハウス以外に、クラブにも出演するようになります。こうした、さまざまなスタイルのライブ出演を重ねることで、多くの音楽関係者との交流を深めていったorange pekoeは、2001年4月に、orange pekoeは、インディーズからミニアルバム『orangepekoe』を、8月に1stシングル「太陽のかけら」をリリースするのでした。
「クラブに出演するようになって、僕らの音楽を気に入って、応援してくれる人が徐々に増え始めたんです。僕は、高校時代から曲を作っていて、宅録で、デモテープは何本か作っていたんですが、発表の場が無かったんです。それが、クラブに出演するようになって、当時の音楽事務所のスタッフと知り合うことができ、インディーズからCDを発売することができたんです。すると、今度は、同じクラブでCDショップのスタッフと知り合い、僕たちのCDを積極的に売ってくれるようになったんです。
さらに、クラブやCDショップで話題になると、お店に出入りしていたFM802のスタッフが、僕らの音楽を気に入ってくれて、ラジオ番組の中で頻繁に曲を流してくれるようになったんです。そこからは、一気に僕らの音楽が広がっていきました。関西特有の、誰とでも親しくなって、応援してくれる文化が、僕達を育ててくれたんです」。藤本は、当時について、こう振り返ります。
ジャズ、ソウル、ブラジル音楽など、様々な音楽のエッセンスを融合、ジャンルやシーンに囚われないorange pekoe独自の音楽性は、多種多様なワールド・ミュージックが話題になり始めた時期とも重なって、クラブ関係者、DJ、クリエーター達からの高い評価を集めていきます。
「僕は、自分のひらめきを大切にして、その時感じた事を、メロディに置き換えているんです。旅に出て、色んな風景を見て、人と話をして、それぞれから湧いてくるインスピレーションを、緩く、ジャンルに拘ることなく作った音楽。それが、聴く人達に、心地よく聴いてもらえているのかもしれません」。加速度的に、その評判が拡がっていたorange pekoeの下には、当然のことながら、メジャー・レコード会社数社からのオファーも届き、彼らは、その中からBMGジャパンと契約を結ぶのでした。
2002年2月、orange pekoeは、インディーズから2ndシングル「やわらかな夜」をリリース。すぐに、メジャー1stシングルの制作に取り掛かります。
「僕は、それまで作っていた曲のストックの中から、メジャーデビューの候補曲を選んで、レコード会社のスタッフに提案しました。ところが、レコード会社のスタッフからは、もっと華やかな曲の方がいい、と言われたんです。僕は、自分が作った曲に自信を持っていたので、初めは、何でだ、と思ったんですが、直ぐに、別の曲を作ることにしました。ストリングス、ホーンセクションを取り入れ、まるでミュージカルで使われる曲のように、思いっきり派手な曲にしたんです」。
藤本が作った、いつもより派手なメロディに、ナガシマは、いつもと同じように歌詞を付けます。
「メロディは派手になったけど、私は、歌詞も派手にするつもりはありませんでした。むしろ私は、メロディを何度も聴き、どうしたら、メロディが持っている世界観を、聴いた人達に伝えることができるのかを考えました。そして、辿り着いたのが、人がそれぞれ持っている個性を、見つけていこうよ、というポジティブな考え方でした」。
「人は誰もが、違った個性を持ち、それぞれが違った良さを持っている。その良さを、見つけることで、人生は素晴らしいものになる。Happy Valleyと言う言葉は、具体的な場所ではなく、内面的な場所と言う意味を込めています。何事も、前向きに考えた方が楽しいですよね」。
こうして、2002年4月、orange pekoeはメジャー1stシングル「Happy Valley」をリリースするのでした。
2002年4月にリリースされた、orange pekoeのメジャー1stシングル「Happy Valley」。
「私は、今でもこの曲は、orange pekoeの伝えたいことが全て表現できている曲だと思っています。ソウルフルでポジティブな歌詞と、華やかなメロディの相性も抜群ですね」。歌詞を書いたナガシマは、この曲について、こう振り返っています。
かれらの唯一無二の音楽センスが、華やかにブレンドされた、こころ踊るJ-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.愛するデューク/スティーヴィー・ワンダー
M2.太陽のかけら/orange pekoe
M3.やわらかな夜/orange pekoe
M4.Happy Valley/orange pekoe
201回目の今日お届けしたのは、「さとうきび畑」でした
1930年7月、栃木県に生まれた寺島尚彦は、東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業した後、テレビ局やラジオ局で仕事を始め、ドラマの音楽作りを行うようになります。
1964年6月、寺島尚彦は、シャンソン歌手・石井好子の伴奏で、初めて、本土復帰前の沖縄を訪れます。この時の様子を、著書『さとうきび畑~ざわわ、通り抜ける風』の中で、こう振り返っています。
「当時、首里にあった琉球大学の体育館で、一晩、演奏会を開き、石井さんがシャンソンより、日本の歌曲を歌うと、凄く拍手が多かったのを覚えています。演奏会が終わった後、後援者の方が沖縄を案内してくれることになって、この機会に沖縄を歩けるだけ歩いてみたいと思った私は、数日間沖縄に残ることになったんです」。
沖縄への滞在期間を、一人延ばした寺島尚彦は、土地の人々との懇親会に招かれ、そこで、ピアノで、演奏会をひらくことになるのでした。
「それまで演奏をバックに、お歳を召した御夫婦がダンスを始めたり、若い人たちが踊りだしたり、年齢層はまちまちだった皆さんが、それぞれの時間を楽しんでいたんです。ところが、「夕焼け小焼け」を弾いた時だったと、ハッキリと覚えています。弾き始めた直後、突然それまで踊っていた人達の、踊る足音が聞こえなくなったんです。しばらくして、誰かが歌いだし、ハンカチを取り出して泣いている人も出てきたんです。続けて、「ふるさと」を弾いたら、最後はみんな泣きながらの大合唱になって、僕までもらい泣きしたんです。
この時僕は、ここに居る人達はみんな日本人なんだ。こんな風にみんなで歌える歌を作らなきゃいけない、と感じたんです」。
一方で、彼は、このとき、沖縄南部、摩文仁の丘一面に広がるサトウキビ畑を訪れ、案内した後援者から、「あなたが今、歩いているこの土の下には、まだ多くの戦没者が眠ったままになっているんです」と告げられます。
「後援者の方から、驚くようなひと言を言われた時、僕は、突然、クラクラッとして、物凄い風の音から、戦争で亡くなった人達が号泣しているような、嗚咽しているような、あるいは、なぜ俺たちはこんな目に遭わなければならないのだ、と叫んでいるような、そういう声を耳元で聞いたような気がしたんです。この風の音は何だ、これは何か形にしなければならない。そんな気持ちが、僕の心の中の芽生えてきたんです」。
風の音を"うた"にしたい。「さわさわ」という爽やかな響きでは綺麗過ぎ、「ざわざわ」では騒々し過ぎる。
沖縄を訪れてから、2年が経ったある日、彼は、その言葉に、思い至ります。「そうだ、"ざわわ"だ」。
この言葉を思い付いた彼は、残りの歌詞、そしてメロディを一気に作りあげます。
1967年、完成した曲は、寺島尚彦と同じ石井音楽事務所に所属していた、歌手・田代美代子がコンサートで歌い始めます。
そして、その2年後の1969年に、寺島尚彦は、近所に住んでいた森山良子に、「この曲を歌ってみないか」と声をかけます。
ところが、森山良子は、曲の譜面を見た時、「歌が長く、テーマも重い。戦争を知らない自分には歌えないし、歌ってはいけない」と、断ります。
しかし、レコード会社のプロデューサーに説得され、彼女は、この歌を1969年9月に発売したアルバム『森山良子カレッジ・フォーク・アルバムNo.2』に収録することになります。
ただ、当時、森山良子は、この曲を歌う度に、この曲を、実感を持って歌うことができず、歌手としての非力さを感じて、彼女のコンサートでは、曲目から外していくようになります。
しかし、森山良子がこの歌を封印するようになってからも、この歌は様々な歌手によって歌い継がれ、1971年に上條恒彦が、1975年4月には、ちあきなおみが歌ったバージョンが、NHK「みんなのうた」でとりあげられ、その曲を聞いた、多くの人達の心に刻まれていきます
1991年1月、湾岸戦争が勃発直後、森山良子は、母親からの言葉をキッカケに、再びこの歌を積極的に歌うようになります。
「母親から、あなたは、恋や愛をテーマに歌っている場合じゃない。あなたには、歌わなければならない歌があるはず、と言われ、私は気が付いたんです。私はあの歌を歌わなければいけないと」。
母親の言葉に目覚めた森山良子は、コンサートで再びこの歌を歌い始め、彼女がこの歌に出会ってから、32年の年月を重ねた2001年12月、森山良子は、11節全ての歌詞を歌ったフルバージョンで、この歌「さとうきび畑」をついに、シングルとして、リリースするのでした。
2001年12月に、森山良子54枚目のシングルとしてリリースされた「さとうきび畑」
「フルコーラスのシングルをリリースした直後に、FM沖縄の番組に出演する機会があり、終わって外へ出たところ、私と同じ年輩の女性から、長い間、この歌をうたってくれてありがとうね、と声を掛けられたんです。この言葉を聞いた瞬間、私は自分がこの歌をうたってきて良かったんだ。うたってもいいんだ。と安心して、涙が止まらなくなったんです」。
森山良子さんは、音楽番組「うたの旅人」のインタビューの中で、こう語っています。
寺島尚彦が、本土復帰前の沖縄で体感した、沖縄の人達の平和への思いを込め。
森山良子が、30年を越える年月を経て、その思いにたどり着いた、
ひとつの"うた"が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.夕焼け小焼け/童謡
M2.ふるさと/唱歌
M3.さとうきび畑/森山良子
200回目の今日お届けしたのは、「いきものがかり/ありがとう」でした
「僕が、彼らと初めて会ったのは2004年7月のことでした。会社の上司と、小田急小田原線・厚木駅前で、彼らが行っていた路上ライブを観に行ったんです。どの曲もキャッチーなメロディで、吉岡の元気あふれる歌声に、思わず誰もが立ち止まって、彼らの歌を聴いていた姿が印象に残っています」。
現在、エピックレコードで制作担当ディレクターを務める田口さんは、いきものがかりとの出会いを、こう振り返ります。
1999年2月、小・中・高の同級生、水野良樹と山下穂尊の二人は、山下が水野を誘って「いきものがかり」を結成。二人は、地元の神奈川県厚木市周辺で、ゆずのカバー曲を中心に路上ライブを始めます。同じ年の11月、二人の同級生の妹・吉岡聖恵が、路上ライブに飛び入りで参加。そのままメンバーとして加入し、いきものがかりは、3人組となります。
翌2000年の秋、水野と山下の二人が、大学受験のため、いきものがかりの活動は一時休止しますが、水野と山下、そして吉岡も大学に進学した2003年春、いきものがかりは、およそ3年ぶりに活動を再開、6月に地元・厚木市のライブハウスで、初めてワンマンライブを行います。そして、そのライブを偶然見た音楽事務所のスタッフから誘われて、いきものがかりは、メジャーデビューに向けた第一歩を踏み出すこととなるのでした。
「初めて観た路上ライブのあと、彼らが所属する音楽事務所主催のイベントでライブを観て、エピックレコードとして正式に契約しました。ただ、契約はしたものの、メジャーデビューの日はなかなか決まりませんでした。その間、彼らは、インディーズからアルバムをリリースしながら、創作活動や、ライブ活動に励んでいました。そして、契約から2年後の2006年、やっと彼らのメジャーデビューが決まったんです」。
2006年3月、いきものがかりがリリースした、メジャー1stシングル「SAKURA」は、NTT東日本のCMソングに起用され、セールスチャート最高位17位、延べ31週にもわたってランクインし続けるロングセラーとなります。
「僕は、デビュー直前から、2007年8月までは、直接の担当ではなかったんですが、当時の担当ディレクターは、メジャーの世界でやっていくためには、もっとソングライティング能力を磨くことが必要だと考えて、敢えて厳しく接していて、彼らの曲に、ことごとくダメ出しをしていたんですね。デビュー曲も、何度も作り直しをして、やっと完成したんです。デビュー曲がヒットしたことを、本当は喜びたかったはずだと思うんですが、すぐに次の曲作りが始まっていたので、彼らに、浮かれている感じは全くありませんでした」。
現在、制作担当ディレクターを務める田口さんは、当時をこう振り返ります。
いきものがかりは、2006年3月のデビュー以降、その年はシングル4枚、翌2007年はシングル3枚とアルバム1枚、さらに2008年にはシングル5枚とアルバム2枚と言うハイペースで、リリースを積み重ねていきます。
「いきものがかりが、デビューから僅か3年で、これだけの曲をリリースができた理由は、彼らの曲を、多くの人達が気に入ってくれて、タイアップのチャンスをくれたことです。そして、そのチャンスを、彼らがほとんど断らず、積極的に受け入れたからなんです。これだけ曲をリリースしていると、必然的に、メディアへの露出も増え、合わせてライブ活動も積極的に行っていたから、いきものがかりは、一年中、絶えず何かをやっている、というイメージを、音楽ファンに植え付けることができました」。
「また、ボーカルの吉岡も、二人が曲に込めた想いを、聴く人にどれだけストレートに、伝えられるか、しっかり考えて、まるで二人の代弁者のように、語りかけるように歌っています。いきものがかりの曲は、聴く人全てが曲の主人公。そんな世界観を大切にして、吉岡が歌っているからこそ、曲を聴いた人達から支持を集めているんだと思います」。
2009年9月、いきものがかりは、その年に行われた、NHK全国学校音楽コンクール・中学の部・課題曲として作った曲を、アレンジし直して、15枚目のシングルとしてリリースします。
「「YELL」は、音楽コンクールの課題曲に選ばれた事もヒットした理由ですが、両A面扱で同じCDに収録した「じょいふる」が、「ポッキー」のCMソングに起用された事も、大きかったと思います。この曲もそうなんですが、いきものがかりの特長として、大ヒットも無いけど、全く売れないという曲も無い。リリースする曲が常にセールスチャートのTOP10をキープするという、この安定力が、彼らの一番の強みですね」。
「YELL/じょいふる」が、安定した売上を記録する中、彼らの下へ、大きなチャンスが舞い込みます。
「確か、2009年秋だったと思います。翌年の春スタート予定の、NHK連続テレビ小説の主題歌の話を頂いたんです。曲は水野が作ることになったんですが、彼は原作本、番組企画書、そして第1話の台本を読んで、曲のイメージを膨らませていきました」。
「曲が完成して、初めて聴いた時、僕は、まずイントロ部分に驚きました。それまで彼らが作ってきた曲は、メロディコードが複雑なケースがほとんどだったんですが、この曲は、頭からサビのフレーズで始まっていて、その音階も、単純な"ドレミファソ"と言う作りになっているんですね。しかもその単純な音階に、"ありがとう"と言う、これも、誰もが日常で使う、普通のことばを載せているんです。
曲を作った、水野のが意図的にしたのか、どうかは分かりませんが、結果的に、この単純明快な作り方が、曲を聴いた多くの人達に、強い印象を与えた事は、間違いはありません」。
こうして、2010年5月、NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の主題歌として起用された、いきものがかり18枚目のシングル「ありがとう」はリリースされるのでした。
2010年5月にリリースされた、いきものがかり18枚目のシングル「ありがとう」は、彼女達にとって自己最高位タイとなるセールスチャート最高位2位を記録。さらに、今年2011年3月に行われた、選抜高等学校野球大会の開会式入場行進曲にも起用されます。
「この曲は、NHKの連続テレビ小説の主題歌に起用されたこともあって、世代を超えて幅広い人達から支持を集めることができました。その結果、彼らがデビューの時から考えていた、老若男女に愛されるグループになりたい、という願いを実現することができたんです。」最後に、田口さんは、こう話してくれました。
こどもたちでも口ずさむ、ドレミファソのメロディに乗ったありがとうの言葉。
どんな人達にも愛される
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.夏色/ゆず
M2.SAKURA/いきものがかり
M3.YELL/いきものがかり
M4.ありがとう/いきものがかり
199回目の今日お届けしたのは、「miwa/春になったら」でした
「知り合いの音楽事務所のスタッフから紹介されて、会社の他のスタッフと一緒に東京・下北沢のライブハウスに、彼女のライブを観に行ったんです。
オーディエンスは、十数人でしたが、彼女の歌の上手さと、ギターテクニックには光る物を感じたんです。2007年の秋のことでした」。
現在、ソニーレコーズで制作担当ディレクターを務める吉竹さんは、miwaとの出会いを、こう振り返ります。
1990年6月、神奈川県の葉山町に生まれたmiwaは、音楽好きだった父親の影響で、幼い頃からキャロル・キング、カーペンターズといった音楽を聴いて育ちます。
またmiwaは、小学校の頃からクラシック・ピアノを習い始め、中学三年の時から、ピアノで曲を書き始めます。
ギターの魅力に魅かれ、弾き語りをしたいと思うようになったmiwaは、自ら下北沢や渋谷近辺のライブハウスへ出向き、弾き語りライブを行うようになります。
2007年秋、そんなライブ活動の中でソニーレコーズのスタッフと出会ったmiwaは、学校帰りにソニーレコーズに立ち寄って、会議室やスタジオで、レッスン、曲作り、デモテープ作りを積み重ねていきます。
2009年秋、大学へ進学したmiwaの下へ、二つの大きなチャンスが舞い込んできます。
「2010年1月にスタートが決まっていた、フジテレビ系のドラマ『泣かないと決めた日』のプロデューサーが、主題歌を探していると言う話を聞いて、彼女の曲を聴いてもらったんです。プロデューサーは気に入ってくれて、ドラマの主題歌に起用されることが決まりました。
また僕らは、デビューに合わせて、彼女の歌声をもっと多くの人達に聴いてもらうため、新人アーティスト発掘に積極的に取り組んでくれるFM802と組んで、大阪のライブハウスで、2010年1月にライブを開くことを決めたんです。これがキッカケで、miwaは、2010年3月にFM802がNTTドコモと作った音楽プロジェクト「J.K.RADIOFISH」に参加させてもらうことが決まって、彼女は吉井和哉、JAY'ED 、JUJUらと共にオリジナルキャンペーンソングを歌ったんです。デビュー前のアーティストが、こんなチャンスを貰えるなんて、滅多にありません。彼女の歌声を評価してもらった結果だと思っています」。
こうして、2010年3月、miwaは、1stシングル「don't cry anymore」をリリースするのでした。
2010年3月、miwaは、1stシングル「don't cry anymore」をリリースします。
「miwaと似たタイプの女性シンガーソングライターが、一年に何組もデビューしている今の時代。何らかの特長を出さないと、音楽の世界では生き残ってはいけません。どう売り出していけばいいのか、連日のように考えて、導き出した答えが、下手な小細工を加えるのではなく、ライブを通して彼女の魅力を伝えていこう、という王道的なスタイルでした。明るい表情で歌う彼女は、まるで輝きを放ち続ける太陽のようです。ライブに集まった人達が、彼女の曲を聴いて、楽しく、元気に、笑顔を持って帰ってもらいたい。そう思ったんです」。
こうしてmiwaは、デビュー後、イベントライブに積極的に出演。8月には、デビュー5カ月にして「ROCK IN JAPAN FES」にも出演します。一方で、miwaは、ギターメーカー「ギブソン」のアメリカ公式サイトで、期待の日本女性ロッカーとして紹介され、ギブソンからサポートを約束されるなど、順調なスタートを切ります。
「9月にリリースした3枚目のシングル「chAngE」が、テレビアニメ『BLEACH』のオープニングテーマ曲に起用され、セールスチャート8位にランクインし、ヒットの兆しが見える中で、1stアルバムの制作が始まったんです。彼女は、15歳の時から曲を作っていたので、曲のストックは沢山ありました。その中でも、絶対に忘れられない曲が、2008年に、初めて僕らと一緒に作った曲です。彼女は、シンガーソングライターとしての夢を追いかける一方で、大学へも進学したんですが、その頃、彼女の周りの友達は、将来が見えない中、不安な気持ちを抱えながら、大学受験に向かっていました。
そんな友達を、少しでも励まし、勇気づけることができたらという願いを込めて、作られました。曲が完成し、同級生達に聴かせると、とても喜んでくれ、miwaにとっても、シンガーソングライターとしてデビューする大きな自信になったんです」。
デビュー直前の2008年に、miwaが作った曲「つよくなりたい」は、2011年春に発売が予定されていたアルバムに収められることが決定。さらにmiwaは、アルバム制作と並行して、5枚目のシングル制作に取り掛かります。
「アルバム制作中に、12月からスタートするNTT ドコモ「ガンバレ受験生'10-'11」キャンペーンソングをmiwaが、作って、歌うことが決まったんです。
彼女は、NTTドコモの受験生応援サイト「55gokaku.com」に寄せられた、受験生からの悩みや、意気込みなど、さまざまな声を毎日チェック。
受験を控え、勉強しないといけないけど、遊びたいし、恋愛もしたい。そんな、受験生が書きこんだ、もどかしく、混沌とした気持ちのメッセージを、miwaは読んで、2年前に自分が体験してきた、リアルな現実と重ね合わせて、歌詞を作ったんです」。
こうして、大きな希望と、少しの不安を抱えた「春」に向けて、miwaが作った5枚目のシングル「春になったら」は、2011年2月にリリースされるのでした。
2011年2月にリリースされた、miwa 5枚目のシングル「春になったら」。
「最初は、受験生を応援するメッセージソングとして作ったこの曲ですが、リリース直後の3月11日に、東日本大震災が発生しました。miwa自身、一人のアーティストとして、何をすべきなのか迷っていました。そして、彼女が考え出した答えが、彼女自身の歌で多くの人々を励ますこと。彼女は被災して、大好きな音楽を聴くことができない環境に居る人達に向けて、彼女のブログに、この曲の歌詞をひと文字ずつ打ちこんで、さらに、"必ず春は来る。どうかこの想いが届きますように"、という励ましのメッセージを添えたんです。
後日、そのブログを読んだ多くの人達から、大きな勇気を貰った、励まされたよ、と言った内容の書き込みが寄せられたんです。最初は、受験生を応援する目的で作られたこの曲が、結果的にはもっと広い意味を持つことになったんです」
最後に、担当ディレクターの吉竹さんは、こう話してくれました。
飾らない言葉だからこそ、たくさんの人達の心を支えることができた、
J-POP応援ソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.(You Make Me Feel Like)A Natural Woman/キャロル・キング
M2.don't cry anymore/miwa
M3.つよくなりたい/miwa
M4.春になったら/miwa
198回目の今日お届けしたのは、「怒髪天/オトナノススメ」でした
「僕は、ビートルズが大好きだった母親の影響で、小学生の頃から、日本の歌謡曲や、洋楽ロックを聴いて育っていたので、音楽は身近な存在でした。中学に入学した頃から、パンク・ロックに傾倒するようになったんです。セックス・ピストルズや、クラッシュなども聴いたけど、英語の歌詞の意味が分からなくて、次第にアナーキーやスターリンと言った日本のパンク・バンドに魅かれるようになったんです」。
怒髪天のメンバー増子さんは、音楽との出会いを、こう振り返ります。
1966年4月、札幌市に生まれ、中学時代に、パンク・ロックに夢中になっていった増子直純は、1982年、札幌市内の高校に進学すると、入学早々に起きた、ある出来事をキッカケに、音楽の世界に本格的にのめり込んでいきます。
「学校の全校朝礼で、クラスの代表がひとりずつ喋る時間があって、僕は代表として、壇上に上がった時、上半身裸になって、アナーキーのレコードを流しながら、大声で歌ったんです。歌い終わって、壇上から見渡すと、先生、生徒が一斉に僕を白い眼で見ていました。その後しばらくの間は、学校内でも浮いた存在だったんですが、それでも、僕は大勢の人の前で歌う気持ちの良さを覚えてしまい、1984年に意気投合した同級生達とバンドを結成したんです」。
この時結成したパンク・ロックのコピーバンドは、直ぐにボーカルが脱退してしまい解散。増子は、他のメンバーを誘ってロックバンド「怒髪天」を結成します。
高校卒業後も怒髪天は、メンバーチェンジを繰り返しながら、地元・札幌を拠点に活動を続け、1988年、怒髪天に、上原子友康、坂詰克彦、清水秦次の3人が相次いで加入し、現在も続く、不動のメンバーが揃います。そして、時はバンドブーム真っ只中、怒髪天の下へも各レコード会社、音楽プロダクションからメジャーデビューの誘いが舞い込むようになります。
「当時僕は、月半分は父親の仕事を手伝いながら、残り半分はライブ活動を続けていたんです。メジャーデビューの話は絶えることなく届いていたんですが、僕達はブームに乗って他の人達と同じ事をするのが嫌で、全て断っていたんです。しかし、同じ札幌で活動していたバンドが次々と東京へ進出していく中、
メンバー間で話合いの末、最終的には、僕達も、メジャーデビューの話を受け入れることにしたんです」。
1991年6月、怒髪天は1ミニアルバム『怒髪天』をリリース。1994年7月には、シングル「溜息も白くなる季節に...」を、翌1995年7月にアルバム『痛快!ビッグハート維新'95』をリリースしますが、特に、ヒットに恵まれること無く、デビューから5年後の1996年に入ってバンド活動を休止することになります。
「元々僕達は、バンド活動を始めた時からプロになるつもりは無く、仕事をして、その合間に大好きな音楽活動ができれば、と言う中途半端な気持ちで、音楽活動をしていたので、ハングリー精神はありませんでした。デビュー後も、そんな中途半端な気持ちのまま音楽活動を続け、1996年に入って当時の所属事務所が倒産したんです。これからどうするのか迷った僕らは、中途半端な気持ちで音楽活動を続けていくよりは、一回全てをリセットした方がいいだろうと言う結論にいたり、バンド活動を休止することにしたんです」。
増子さんを始めとした怒髪天のメンバーは、バンド休止後、それぞれが音楽とは無縁の世界で、アルバイト生活を始めます。「僕は工事現場の仕事や、穴あき包丁の実演販売など、色んな仕事に携わりました。もちろん、メンバーとも仕事が休みの日に、普通に会って話はしていたんです。それが、バンド休止から3年経った1999年の初めのある日、ベースの清水からご飯に誘われたんです。僕はてっきり、北海道に戻る話なのかと思っていたんですが、彼はもう一度音楽をやろう、と誘ってきたんです。バンド休止から3年、やっと安定した生活を過ごせるようになっていた僕は、趣味で音楽活動をするならと言う条件で、
活動再開に同意したんです。ところが、バンド活動を再開し、新曲を作ったら、やっぱり多くの人達に怒髪天の曲を聴いてもらいたいと思うようになって、結局、再び音楽活動に力を入れるようになっていったんです」。
1999年3月、3年間の沈黙を破って活動を再開した怒髪天は、翌年の2000年7月に、インディーズから活動再開後初のマキシシングル「怒盤」をリリース。同じ月には、複数のインディーズアーティストが集まって作ったアルバム『極東最前線』に楽曲「サムライブルー」を提供するのでした。
活動を再開した怒髪天は、2000年以降リリースと、ライブを積極的に積み重ねていきます。
「デビュー当初は、スタイルから入って、とにかくカッコいいロックを作って、歌いたかったんです。ところが、年齢を積み重ねるに連れて、その気持ちも変化してきました。特に、1996年からの約3年間、音楽から離れて一般社会で働いていた中で、普通に働くことがどんなに大変な事なのかを実感したんです。そんな大変な社会で大人が働く事は、実は楽しい事ではないんだろうか、と考えるようになったんです。それからは、曲を作る考え方も変わって、自分達の伝えたいことを聴く人に届けるには、どんな歌詞を書き、どんな曲を作ったらきちんと伝わるのか、真剣に考えるようになりました。それから、曲を作って、ライブで思いっきり叫び、歌う事が楽しくなってきたんです」。
怒髪天は、2004年にテイチクレコードと再契約を結び、メジャー音楽シーンにカムバックします。
「デビュー当時に、R&Bという音楽ジャンルが日本でも流行り始めていたんですが、僕らは、日本のブルースと言えば、やっぱり誰もが口ずさめる演歌だろうと思っていたんです。そこで、スタイルではなく、演歌のスピリットを、ロックサウンドと融合させた、「JAPANESE R&E(リズム&演歌)」と呼ばれる、怒髪天オリジナル音楽テイストを、その頃から生みだしていたんです。1999年の活動再開後からは、自分達の中でも
それまで以上に、JAPANESE R&Eという音楽を意識して、曲を作るようになっていったんです」。
2009年秋、怒髪天は次のシングルを作るにあたって、増子自身が以前から彼の心の中で考えていた事をテーマに、歌詞を書くことを決めます。
「僕は、上原子が作ったメロディを聴いて、この曲には、以前から考えていたことをテーマに歌詞を書く事が相応しいと考えたんです。僕は、昔から、大人の世界は、辛いことやしんどい事が沢山あって、実は大変で面白くないよ、と人から聞かされてきたんです。ところが、実際に自分が大人になった時に感じたのは、その逆で、大人の世界にも実は楽しいことが沢山あるという事実。この事実を、多くの人達に聴いてもらいたいと考えるようになっていたんです。その想いがやっと曲として作れる。とにかく、学生時代の青春をテーマに作った曲は沢山あるけど、大人の世界は楽しいという事をテーマにした曲を、僕は聴いたことが無かった。だったら、僕が曲を作ろうと思い立ったんです」
こうして、増子が長年考えていた想いを歌詞にした、怒髪天9枚目のシングル「オトナノススメ」は、
2009年11月にリリースされるのでした。
2009年11月にリリースされた、怒髪天9枚目のシングル「オトナノススメ」。
「僕達は、曲を聴いた人達に、夢を抱かせたり、シリアスな気分にさせたり、多面性を持った曲を沢山作ってきています。この曲は、その多面性の極みとも言える曲だと思います。一般的に、青春と呼ばれる時代よりも、長い年月を過ごさないといけない、大人の世界。実は、年を重ねれば重ねるほど楽しく、面白くなってくる、大人の世界の魅力を、歌詞にストレートにぶつけています。大人の人も恥ずかしがらずに、ライブで盛り上がって欲しい。そんな願いを込めています」。最後に、メンバーの増子さんは、こう話してくれました。
年月と苦労を重ねたからこそ生まれる、楽しさを書いた、日本のロック、大人の応援歌が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.READY STEADY GO/アナ―キ―
M2.流れる雲のように/怒髪天
M3.サムライブルー/怒髪天
M4.オトナノススメ/怒髪天
197回目の今日お届けしたのは、「アン・ルイス/六本木心中」でした
「僕が彼女を直接担当することになったのは、1979年に入ってからです。その前から、僕がプロデュースを手掛けていた、キャンディーズが、1977年にリリースしたシングル「やさしい悪魔」の衣装を、アンがデザインするなど、間接的には付き合いがあったんです。ただ1977年当時は、彼女はまだ、可愛いアイドルという印象が強かったですね」。渡辺音楽出版で、アン・ルイスの担当ディレクターを務めた松崎さんは、当時をこう振り返ります。
1956年6月、兵庫県宝塚市で、アメリカ人の父親、日本人の母親の下に生まれた少女、アン・リンダ・ルイスこと、アン・ルイス。アンは、生まれてすぐに、父親の仕事の関係で神奈川県横浜市に移り住み、その後、劇団若草に入団し、子役モデルとして活躍し始めます。その一方でアンは、小学生の頃から、クリーム、レッド・ツェッペリンなどのロックミュージックを聴いて育ち、いつの日か、自らも歌手としてステージに立つことを夢見るようになっていきます。
その後、渡辺プロダクションに移籍したアン・ルイスは、作詞家のなかにし礼に、歌のセンスを評価され、1970年、14歳の時に、ビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)と契約、翌1971年2月に、1stシングル「白い週末」でデビューします。こうして、アン・ルイスは、彼女にとって夢でもあった歌手活動をスタート。歌手活動の傍らで、グラビアモデルとしても活躍します。こうした中、1974年4月にリリースした、アン・ルイス6枚目のシングルが、彼女にとって初のスマッシュヒットとなるのでした。
1974年4月にリリースした、アン・ルイスの6枚目のシングル「グッド・バイ・マイ・ラブ」は、セールスチャート最高位14位、約24万枚の売上を記録します。
「この曲で、アンは初めてヒットを飛ばしたんですが、彼女はまだアイドル歌謡の域を脱することができず、彼女自身、本当にこれが自分のやりたいことなのか、もやもやとした気分を抱えながら仕事をしていたそうです」。担当ディレクターだった松崎さんは、後にアン・ルイス本人から聞いた話として、当時をこう振り返ります。
1977年に入って、アン・ルイスは、松任谷由実との運命的な出会いを果たします。この事について、
当時、東芝EMIで松任谷由実の担当ディレクターを務めていた、下河辺さんはこう振り返ります。
「ユーミンは、1971年に元ザ・タイガースのメンバー加橋かつみの、ソロシングル曲を作った後、渡辺プロダクションの関係者とも交流を続けていたようです。
恐らく、1976年に松任谷正隆さんと結婚し、当時、作家としての活動が中心となっていたユーミンに、彼女のソングライターとしての才能を評価していた、渡辺プロダクションのスタッフが、アンのために曲を作ってくれるように頼んだのではないでしょうか」。
1977年8月、松任谷由実が作詞・作曲を手掛け、松任谷正隆が編曲したアン・ルイス13枚目のシングル「甘い予感」。この曲のレコーディングの際に、テキパキとスタッフに指示をするユーミンに刺激を受けたアン・ルイスは、いつの日か、自分の手で音楽プロデュースを手掛けたいと思うようになっていきます。
翌1978年5月、アン・ルイスは、彼女が憧れていた沢田研二のプロデューサーでもあった、加瀬邦彦が作ったシングル「女はそれを我慢できない」をリリースし、チャート最高位12位、約25万枚のセールスを記録します。
翌1979年3月、アン・ルイスの担当ディレクターとなった、松崎さんは音楽仲間から誘われて、東京・六本木のライブハウス「六本木ピット・イン」で行われた、山下達郎のライブに出掛けます。
「はじめて山下達郎のライブを観た僕は、彼が作った曲のセンスに魅かれたんです。それで、ライブ終了後に楽屋を訪ねて、その場で、彼に、アンの曲を作ってくれるように頼んだんです。」
松崎さんの依頼を受けた山下達郎は、3枚目のアルバム『Pink Pussy Cat』をプロデュースします。
「アンは、当時、楽曲ごとに、さまざまな衣装やメイクを施すなど、ビジュアル戦略を展開して、ヒット曲を連発し、一大ムーブメントを巻き起こしていた、事務所の先輩である沢田研二を意識した路線への転向を図っていたんです。しかし、僕は、アンが歌ってヒットした「女はそれを我慢できない」では、少し中途半端で、もっと大胆に路線を変えた方がいいいと思い、当時は、まだ一般的には無名だった山下達郎をプロデューサーに起用し、彼の音楽仲間のYMOや、吉田美奈子さん達がミュージシャンとして参加したアルバム『Pink Pussy Cat』を作って、さらに次のシングルも作ってもらったんです」。
こうして、1979年12月、吉田美奈子が歌詞を書き、山下達郎が作曲・編曲を手掛けた、アン・ルイス17枚目のシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」は、リリースされるのでした。
山下達郎プロデュースのシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」をリリースし、完全にアイドル路線から、アーティスト路線へシフトしたアン・ルイスでしたが、翌1980年、彼女は、歌手・桑名正博と結婚し、翌1981年5月の長男誕生をキッカケに、一時音楽活動を休止します。
「アンが出産後、音楽活動を再開する時に話題性が必要だと思っていた僕らは、インパクトのあるシングルを作ろうと考えたんです。そこで曲は、彼女が憧れていた沢田研二に依頼し、歌詞は、三浦百恵さんにお願いすることにしたんです。僕は事務所のスタッフと共に、結婚後、芸能活動を引退していた三浦さんの自宅を訪ねて、アンのために歌詞を書いてくれるように依頼しました。三浦さんは、歌詞を書くだけならと言う条件で引き受けてくれたんです」。
こうして、三浦百恵が歌詞を書き、沢田研二が曲を作った、アン・ルイス出産後、初のシングル「ラ・セゾン」は、1982年に6月にリリースされるのでした。
ラ・セゾンは、チャート最高位3位、約35万枚のセールスを記録。髪の毛を、金髪に染め、ド派手な衣装を着てバンドスタイルで歌うアン・ルイスは、ロックファンからの支持も集めるようになっていきます。
またアン・ルイスは、それまで彼女が在籍していた、渡辺プロダクションの歌謡曲制作部門から、山下久美子や大沢誉志幸などロック、ニューミュージックのアーティストを対象に作ったセクション「ノンストップ」へ移ります。「この頃からアンは、自己アピール力が強くなって、バンドスタイルで歌いたい。ロック色を前面に出した音楽を、自己プロデュースして歌いたい、と訴えてきたんです」。
当時、ノンストップのプロデューサーを務めていた、中井さんは、当時をこう振り返ります。
それまでアン・ルイスが歌っていた歌謡曲に、新たにロックを融合させた「歌謡ロック」と呼ばれる彼女独自の路線へ突き進み始めたその音楽性をさらに高めるため、松崎さん達スタッフは、さらに外部のソングライターを積極的に使っていくようになります。
「次に僕達が白羽の矢をたてたソングライターは、矢沢永吉さんのバックバンドを務めた後、自分達のユニット活動、そして作家活動を始めていたNOBODYでした。彼らが生みだす、イギリス北部を発祥とする、マージービートと呼ばれるUKロックの音楽テイストに僕は魅かれたんです」。
NOBODYは、1983年2月にリリースした、22枚目のシングル「LUV-YA」を皮切りに、アン・ルイスへ次々と曲を提供していきます。
「僕はアンの1年ぶりのシングルを作る時、アンの少し不良っぽいキャラクターにあわせて、当時ディスコやクラブが続々とOPENしていた六本木を舞台に、男と女の出会いをテーマに曲を作っていくことに決め、歌詞を湯川れい子さんにお願いしたんです。湯川さんは、海外アーティストのインタビューを数多くこなす音楽評論家、翻訳家としても活躍されていたので、英語を母国語とするアンの、歌詞に対する独特の感性を、的確な日本語詞として翻訳できる適任者だと思ったんです」。
湯川れい子さんは、アン・ルイスのキャラクター性を参考に、女性ならではの視点で歌詞を書きます。
「湯川さんが書いた歌詞を、NOBODYも気に入ってくれ、歌詞を渡して数日後には曲を作ってくれたんです。さらに、湯川さんは、その曲に合わせて、歌詞を手直ししてくれて、曲が完成。曲を気に入ってくれたテレビ朝日のドラマプロデューサーが、とんねるず主演の深夜ドラマ『トライアングル・ブルー』の主題歌として起用してくれたんです。曲を作った当初は、サビの部分は女性コーラスだけだったんですが、ドラマの主題歌としてTVで流れた時に、物足りなさを感じた僕らは、急遽曲を作ったNOBODYの二人にコーラスに参加してもらって、曲に迫力を加えたんです」。
こうして、1984年10月、アン・ルイス25枚目のシングル「六本木心中」はリリースされるのでした。
1984年10月にリリースされた、アン・ルイスの25枚目のシングル「六本木心中」は、チャート最高位12位、約29万枚の売上を記録します。
「アンにとって、一番売れた曲は「ラ・セゾン」ですが、音楽ファンにとって馴染み深いのは、やっぱりこの曲です。アイドル歌手としてデビューしたアンが、途中で歌謡ロックの路線へ転換。この曲で、女性ロックシンガーとしてのポジションを、確立させたと言っても間違いありません」
最後に、担当ディレクターを務めた松崎さんは、こう話してくれました。
出会いを繰り返し、個性を磨く中で、80年代を代表する歌謡ロックの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.白い週末/アン・ルイス
M2.グッド・バイ・マイ・ラブ/アン・ルイス
M3.甘い予感/アン・ルイス
M4.女はそれを我慢できない/アン・ルイス
M5.恋のブギ・ウギ・トレイン/アン・ルイス
M6.ラ・セゾン/アン・ルイス
M7.LUV-YA/アン・ルイス
M8.六本木心中/アン・ルイス
196回目の今日お届けしたのは、「C-C-B/Romanticが止まらない」でした
「今から29年前の1982年、当時、東京・原宿の路上で、ハワイのFM放送局「KIKI」の放送を録音したカセットテープが売られていたのをヒントに、僕は、ミニFM放送局の立ち上げを思いついて、8月に、青山に、日本初のミニFM放送局「KIDS STATION」を立ち上げたんです。それと同時に、和製ベンチャーズと、和製ビーチ・ボーイズをコンセプトにしたバンドを作って、彼らの曲を収めた自主制作のカセットテープを販売したんです。その中のバンドのひと組が、ココナッツ・ボーイズでした」。
ミニFM放送局「KIDS STATION」のプロデューサーを務めた上野さんは、当時をこう振り返ります。
1982年夏、東京・青山に開局したミニFM放送局「KIDS STATION」が作った一本のカセットテープ『Raspberry Avenue』。ここから生まれたのが、和製ビーチ・ボーイズをコンセプトにした「ココナッツ・ボーイズ」でした。
「ココナッツ・ボーイズ」は、上野さんが、知り合いの音楽関係者から紹介された渡辺英樹、笠浩二、関口誠人ら、6人のメンバーで結成されます。
「僕が彼らに初めて出会ったのは、1982年の暮れでした。カセットテープを聴いて、面白いと思った僕は、上野さんから紹介してもらって、彼らを育ててみることにしたんです。彼らは、和製ビーチ・ボーイズがコンセプトだった割には、肝心のビーチ・ボーイズの知識は全くと言ってもいいほど、持っていなかったんです」。当時のポリドールレコードで、担当ディレクターを務めた渡辺さんは、ココナッツ・ボーイズとの出会いについてこう振り返ります。
「彼らは、メンバーのほとんどがリードボーカルをとることができたので、僕は、コーラスを徹底的に鍛えれば、面白いポップスバンドになると思ったんです。そこで、『Raspberry Avenue』のディレクションにも参加していて、ビーチ・ボーイズに詳しかった萩原健太さんに手伝ってもらって、彼らを鍛えることにしたんです」。
こうして、ココナッツ・ボーイズは、半年間に渡って、渡辺さん、萩原さん達のアドバイスを受けた後、1983年6月に1stシングル「Candy」でデビューするのでした。
1983年6月、ココナッツ・ボーイズは1stシングル「Candy」と、1stアルバム『Mild Weekend』をリリースします。
「1stシングルは、アルバムを作る時に萩原健太さんに手伝ってもらった経緯もあって、彼が作った曲を選んだんです。ただ、僕は、本当は、僕の実の兄でもある、筒美京平に、曲を作ってくれるように頼んでいたんです。ところが、当時兄は、作曲家としての仕事が多忙を極めていて、僕の頼みなんか聞いてくれる状況ではなかったんです」。渡辺さんは、当時をこう振り返ります。
「1stシングルとアルバムはあまり売れませんでした。僕は彼らに、とにかく、ひたすら練習を積み重ねてもっと上手くなってもらうしかないと考えて、来る日も来る日も、スタジオで練習をさせたんです。もちろん、ライブハウスに出演もしていたんですが、ライブは、観客の雰囲気などで演奏の善し悪しが分からなくなるので、とにかく静かなスタジオで練習させたんです。スタジオは、静かなので、演奏が上手いか下手か直ぐに分かりますから」。
翌1984年、ココナッツ・ボーイズは、音楽的志向の違いから、メンバー3名が脱退。代わりに、田口智治、米川英之の二人が新メンバーとして加入し、5人組となった、ココナッツ・ボーイズは、7月に2ndシングル「瞳少女」をリリースするのでした。
1984年7月にリリースされた、ココナッツ・ボーイズの2ndシングル「瞳少女」は、ロート製薬のCM曲として起用されますが、残念ながらヒットには至りません。
「当時から、メンバーの渡辺と関口は、オリジナル曲を書いていたんですが、とにかくヒット曲を出したいと考えた僕らは、作詞家として頭角を現し始めていた秋元康さんに、この曲の詞を書いてもらい、さらに、当時、チェッカーズを手掛けて一躍時の人となっていた、芹澤廣明さんに曲を作ってもらったんです。しかしながら、結果的には曲は売れず、本当にどうにかしないといけないと思っていた時に、翌年の1985年1月にスタートするTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』の主題歌提供の話が、知り合いのドラマ制作会社から飛び込んできたんです」
「話が余りにも突然だったので、ドラマ制作会社のスタッフから、詳しい話を聞くと、どうやら、元々は、当時路上パフォーマンス集団として人気を集めていたユニット「一世風靡セピア」が、主題歌を歌う予定で話が進んでいたらしいんです。ところが、中学生の性教育をテーマにした、コミカルなドラマのストーリーと、一世風靡セピアの歌はマッチしないという理由で、彼らが歌う話が白紙に戻って、急遽、僕らに話が回ってきたんです。チャンスだ、と思った僕は、今度こそは、という思いで、兄の筒美京平に曲を書いてくれるように頼んだんです」。
「ヒット曲を出したい」と言う、実の弟・渡辺の強い想いに、兄・筒美京平は、曲を作るにあたって、ひとつの条件を出します。
「松本隆が詞を書くのならというのが、兄の条件でした。もちろん、僕に異論はありません。実際には、兄が、直接、松本隆さんに頼んでくれて、僕は松本さんに、スピード感ある詞を作って欲しい、とだけリクエストしたんです。兄の筒美京平は、メンバーの笠の声質を気に入ってくれていたので、彼をリードボーカルにして、残り3人のコーラスを活かす形で曲を作れば売れると考えて、メロディを作ってくれました。そして、そのメロディに乗る形で、松本さんが詞を書いてくれたんです。あと、松本さんは、曲のタイトルの文字数を、わざとたくさんにして、オリコンのチャート表に載ったとき、他のタイトルよりも目立つように工夫してくれたんです。」
「曲と詞が完成し、アレンジも、兄の筒美京平と付き合いが深い船山基紀さんにお願いしました。兄は、ロックっぽい曲に仕上げて欲しいと思っていたみたいなんですが、船山さんは敢えてテクノ・ビートと歌謡曲のテイストを融合させたアレンジを考えてくれました。ハーモニーや、バックコーラスは、レコーディングの現場で決めたんです。それから、曲のキメとなる歌詞「止まらない」と言う箇所のメロディは、「止まらない」の「と」と言う言葉の後に、わざと休符を置く形に、レコーディングの最後になって、変えたんです。曲を最後まで聴かせるためには、フックとなるフレーズが必要ですから。結果的に、そこが曲を聴いた人に大きな印象を与えることになったと思います」。
完成した曲を聴いた、渡辺さんや、ドラマ制作のスタッフ達は、その完成度の高さに満足。渡辺さん達は、"曲は絶対に売れる。後は、お前達自身がもっとキャラクター性を作って、音楽ファンにインパクトを与えた方がいい"というアドバイスをココナッツ・ボーイズにおくります。そこで、ココナッツ・ボーイズのメンバーは、バンド名を、頭文字だけを組み合わせた「C-C-B」と改め、さらに、見た目のインパクトを与えるために、自分達の髪の毛を、紫、グリーン、黄色、赤に染めて、衣装も、原色を使ったド派手なものを着ることを決めます。
こうして、1985年1月、TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』の主題歌として起用された、ココナッツ・ボーイズ改め、C-C-Bの3枚目のシングル「Romanticが止まらない」は、リリースされるのでした。
1985年1月にリリースされた、C-C-Bの3目のシングル「Romanticが止まらない」は、セールスチャート最高位2位、約52万枚の売上を記録します。
「筒美京平、松本隆、船山基紀というヒットメーカー達の組み合わせによる最高のポップナンバー。そして、当時としては珍しい、カラフルな髪型と派手な衣装で、若者達の心を一気に掴んだ彼らのキャラクター。特に、当時は最先端だったシモンズのシンセ・ドラムを叩きながら熱唱する笠の姿は、かなり印象的だったと思います。とにかく、全てのタイミングが、見事なまでに組み合わさったからこそ、この曲は生まれ、彼らの人気が一気に爆発したんです」。最後に、渡辺さんは、こう話してくれました。
偶然巡ってきたチャンスが、ヒットメーカー達の多彩なアイディアによって、ビッグチャンスへと生まれ変わった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Fun,Fun,Fun/ザ・ビーチ・ボーイズ
M2.Candy/ココナッツ・ボーイズ
M3.瞳少女/ココナッツ・ボーイズ
M4.Romanticが止まらない/C-C-B
195回目の今日お届けしたのは、「HOUND DOG/ff」でした
2011年3月11日に発生した、東日本大震災。大友康平さんは、震災発生から5日目に、被災地に救援物資を届ける一方で、ミュージシャンとして何をすべきかを考えていました。
そして4月4日、日本テレビの情報番組『スッキリ!』に出演した際、事務所に寄せられた数多くのメールに応え、東日本大震災で被災された方々を励ます意味を込めて、スタジオで生で「ff」を歌います。
さらに、番組終了後、視聴者からの反響が数多く番組に寄せられ、大友康平は、改めて被災者の方々に、歌の力を届けたいと考えて、東北出身のミュージシャンやプロスポーツ選手、文化人ら12人に呼び掛け、震災復興支援のミュージックビデオ「ff We Are The NIPPON」を制作します。
「このミュージックビデオを作る時、歌声でリレーするよりも、その歌を歌っている姿にスポットを当てた方が印象的で、参加してくれた方々の思いが伝わるかもしれない」という制作スタッフのアイディアを基に作った、「ff We Are The NIPPON」。
多くの人々を励まし、勇気づけることとなった、この「ff」は、ロック・バンドHOUND DOGの結成から、大友康平自身が積み重ねてきた音楽人生の経験から、生まれてきた曲でした。
「1975年に東北学院大学に入学した僕は、学内の軽音楽サークル「TMS(東北学院大学ミュージック・ソサイエティ)」に入部するんですが、すぐには、自分のバンドを組むことができず、日々悶々としていました。その年の秋になって、ようやく、サークル主催のライブで歌った僕の歌声に感動してくれた、サークルの同級生・高橋良秀が声をかけてくれて、翌年の1976年に、彼とバンドを作ることができたんです」。大友康平さんは、バンド結成当時についてこう振り返ります。
1976年、大友康平は、高橋良秀らと一緒にロック・バンド「HOUND DOG」を結成。その後、数度かのメンバーチェンジを繰り返し6人組バンドとなったHOUND DOGは、地元・仙台を中心に活動を続けていきます。
「当時は、ロックと言えば、ギター中心のインストゥルメンタル系が幅を利かせていた時代で、歌が割りと軽く見られていたんです。僕はとにかく、そのイメージを打破したかったんです。ステージパフォーマンスは、アメリカのロック・バンド「Jガイルス・バンド」のライブアルバムを擦り切れるほど聞いて参考にして、ボーカルは、ロッド・スチュアートのマイクパフォーマンスを真似てました」。
仙台を始め、東北地方で圧倒的な人気を集めていったHOUND DOGのライブパフォーマンスの評判は、東京まで伝わり、1979年秋、彼らの噂を聞きつけた、CBSソニーのスタッフは、ソニーの新人発掘オーディション、第1回SDオーディションに彼らを参加させ、見事合格。翌1980年3月、ハウンド・ドックは、1stシングル「嵐の金曜日」でデビューを果たすのでした。
「デビュー前から、僕らは、音楽業界の中では話題になっていたんですが、実際には、デビュー曲はセールスチャート100位にも入りませんでした。唯一、有線放送だけが、トップ10にランクインし続けたんです。いきなり大ヒットを飛ばし、それで終わるパターンのアーティストがいる中で、これはこれで良かったと思います」。大友さんは、デビュー当時をこう振り返ります。
1stシングルのセールス結果は、伸び悩んだものの、デビュー直後に行った東北地方14ヵ所を回るライブツアーは、大友康平の類まれなるボーカルセンスで、オーディエンスを圧倒し、大盛況。その後も、HOUND DOGは、単独ライブや、イベント出演など、デビュー1年目に約120本を超えるライブを行います。翌年の1981年も、HOUND DOGは、ヒット曲には恵まれませんでしたが、年間150本も行なったライブの動員は着実に増え続け、その結果が彼らを奮い立たせるのでした。
「僕達は、ライブがやりたくて、全国ツアーがやりたくて、プロになったようなものだったんで、とにかく「ライブ命」で、ライブができる場所があればどこへでも行っていました。ライブの熱さや、ロックンロールの楽しさ、バラードの切なさ、ひとつの会場で同じ時間と空間を共有できる一体感、分かち合う感動と興奮の充実感。とにかく、ライブの魅力を伝える言葉は尽きないんです」。
翌1982年1月、5枚目のシングル「浮気なパレット・キャット」が、カネボウ化粧品の春のキャンペーンソングに起用され、セールスチャート最高位19位、約13万枚のセールスを記録。その勢いの中、5月には、東京日比谷野外音楽堂での2daysライブを成功させます。そして、翌1983年7月、HOUND DOGは、11月に予定されていた初の日本武道館ライブに先駆けて、5枚目のアルバム『BRASH BOY』を発売するのでした。
HOUND DOG5枚目のアルバム『BRASH BOY』に収録された「ラスト・ヒーロー」は、初めての日本武道館でのライブに向けて、作られた1曲で、この曲もパフォーマンスされた、H初の日本武道館ライブは、約1万人のオーディエンスを集め、ライブバンド、HOUND DOGの評判を決定づけます。さらに、翌年の1984年、メンバーチェンジで、新たに、元ツイストの鮫島秀樹と、橋本章司、西山毅がメンバーとして迎えたHOUND DOGは、日本でもっとも勢いのあるロックンロールバンドとして、その人気を加速させていきます。
翌1985年、HOUND DONGは、夏にリリースを予定していたアルバムの曲に、あるひとつの思いを込めます。
「それまで、HOUND DOGの曲と言えば、オーソドックスなロックンロールか、バラード曲が中心だったんです。しかし、デビューから6年。レコードが売れないことや、メンバーチェンジなど数々の挫折を経験してきた中で、改めて自分達にとって何が一番大切なのかを考えてみると、僕達にはライブしかなかったんです。ライブに始まり、ライブで人と出会い、ライブだけが評価されてきたHOUND DOG。大切なのは、そんなライブに集まってくれる人達に向けて、自分達が伝えたい事を歌うだけじゃないかと。それに気がついた僕達は、それまでの現状を打破する意味で、行進曲のような、みんなが、ライブで乗ってくれるようなテンポの曲を作ったんです」。
「この曲は、作詞家の松尾由紀夫さんが書いた、歌詞のサビ部分「愛がすべてさ」という、当時のロックの曲としては、掟破りのような歌詞が一番のポイントだったんです。曲が完成し、レコーディング前にひと足先にライブでは歌っていたんですが、その時はサビの一部分に英語の歌詞もあったんです。
ただ、ライブで何度か歌っている中で、このサビの部分は、連呼した方がいいだろうという話が浮上してきて、実際に、レコーディングで、サビの歌詞を変更して歌ってみると、どこにもない力強い歌に生まれ変わったんです」。
この曲は、力強い言葉とドラマティックなサウンドが評価されて、日清食品「カップヌードル」のCMソングとして起用されることが決定。「負けるもんか 負けるもんか!」というメッセージがメインコピーの、チャレンジとアドベンチャーをテーマにしたテレビCMも作られ、オンエアされると同時に多くの反響を集めていきます。
こうして、1985年8月、HOUND DOG10枚目のシングル「ff(フォルティシモ)」は、リリースされるのでした。
1985年8月にリリースされた、ハウンド・ドッグの10枚目のシングル「ff(フォルティシモ)」は、セールスチャート最高位11位、約22万枚の売上を記録します。
「この曲は、バンドにとっても、自分にとっても代表曲です。毎年、たくさんのバンドやシンガーがデビューしていきますが、ほとんどの方々はヒット曲も、代表作もなく音楽業界から消えていっているのも事実です。そんな厳しい音楽の世界の中で、ヒット曲や代表作があるということは、本当に幸せなことだと思います。この曲がヒットした頃は、聴く人みんなへの勇気を与えることができたり、励ましになったりすれば、と僕自身、吠えるように歌っていました。
今回の震災直後、多くの方々から、昔自分がこの曲で励まされたように、今、改めて大友さんにこの曲を歌ってもらって、被災者の方々を励まして欲しいといった声がたくさん寄せられたんです。この曲が持っている、「歌のチカラ」の偉大さに、感謝しています」。
最後に、大友康平さんは、こう話してくれました。
多くの人たちを奮い立たせてきた愛と勇気の名曲が、
再び、その力を発揮した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ff/大友康平
M2.ジャスト・キャント・ストップ・ミー/Jガイルズ・バンド
M3.嵐の金曜日/HOUND DOG
M4.ラスト・ヒーロー/HOUND DOG
M5.ff/HOUND DOG
194回目の今日お届けしたのは、「小泉今日子/なんてったってアイドル」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、1982年の秋だったと思います。
当時僕は、同じビクター音楽産業所属の山田邦子の制作担当ディレクターで、山田が出演していたTBSのバラエティ番組『パリンコ学園No.1』の収録スタジオで彼女に初めて会ったんです。彼女は、どこにでもいる普通の女の子というイメージで、一緒に出演していた同期の松本伊代や堀ちえみと比べても、印象度が薄かったんです」
後に、制作担当ディレクターを務めた田村さんは、小泉今日子との出会いについて、こう振り返ります。
1966年2月、神奈川県厚木市に生まれた小泉今日子は、歌手になることを夢みて、彼女が中学二年の時に、「スタ誕」の愛称で親しまれ、数多くの歌手を誕生させていた日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に応募。番組予選を勝ち抜いた小泉今日子は、1981年春の決選大会で、ビクター音楽産業、現在のビクターエンタテインメントを含む3社のレコード会社から指名を獲得します。その中から、ビクター音楽産業と契約した小泉今日子は、1982年3月に1stシングル「私の16才」でデビューします。
「小泉今日子の1stシングル「私の16才」と、7月に発売した2ndシングル「素敵なラブリーボーイ」はいずれもカバー曲で、9月に発売した3枚目のシングル「ひとり街角」が、彼女にとって初めてのオリジナル曲だったんです。デビュー当初、なぜ、小泉今日子がカバー曲を歌うことになったのかは、僕も詳しい理由を聞かされていないんですが、恐らく、所属事務所とレコード会社は、彼女にどんな曲を歌わせたら良いのか、はっきりとした方針が決まっていなかったからだと思います」。
1982年の暮れ、田村さんは上司から、翌年の、1983年の春から、小泉今日子の担当に就くことを命じられ、早速5枚目のシングルの制作に取り掛かります。
「"花の82年組"と呼ばれていた、同期の中森明菜、松本伊代、堀ちえみらが既にヒット曲を放っている中で、小泉今日子は、一歩、二歩どころか、三歩も四歩も出遅れている状況でした。とりあえず僕は、彼女を、まずは、三番手にぐらいにしたいと考え、当時の音楽業界で、困った時の筒美京平とまで呼ばれていた、ヒットメーカーの筒美京平さんに、5枚目のシングルの作曲をお願いしたんです」。
「筒美京平さんは、小泉のために2曲作ってくれて、その曲の作詞を、当時、放送作家から作詞家として幅を広げようとしていた秋元康さんと、康珍化さんの二人にお願いしたんです」。
ディレクターの田村さんは、秋元康と康珍化、二人の作家が書いた歌詞を検討した結果、康珍化が書いた歌詞をA面の曲として採用することを決めます。こうして小泉今日子は、1983年5月に、5枚目のシングル「まっ赤な女の子」を、リリースするのでした。
1983年5月にリリースされた、小泉今日子の5枚目のシングル「まっ赤な女の子」は、自己記録更新となる、セールスチャート最高位8位、約22万枚の売上を記録します。
「康珍化さんが書いた歌詞は、キュートでポップ感に溢れ、筒美さんが作ったメロディとの相性も抜群だったんです。それから、アレンジは、筒美さんのオーダーで、プログレッシブ・ロックバンド「四人囃子」で活躍した佐久間正英さんが担当しました。佐久間さんは、当時流行っていたスティックスの「ミスター・ロボット」を参考に、曲の出だしのコーラス部分に、ヴォコーダーを使うなど、曲全体にテクノポップの要素を取り入れて、アレンジしてくれました」。田村さんは、当時をこう振り返ります。
ディレクターの田村さんは、その後の小泉今日子のシングル曲を、筒美京平さんと、当時、アイドルの曲を多数手がけていた馬飼野康二さんの二人に、交互に依頼していきます。
「二人にお願いした理由は、一人の作家に固定すると、どうしてもマンネリ化するし、精神的な負担を掛けてしまうと思ったので、一曲ごとに作家の組み合わせを変えることにしたんです。当時は、レコード会社のディレクター主導でアイドルの個性を作っていく手法が当たり前の時代だったので、当然、僕も、自分自身の力で小泉今日子の個性を作っていきたかったんです。アイドルの良い子が松田聖子、悪い子が中森明菜ならば、小泉今日子は、どこにでもいるような普通の女の子というイメージを作って、彼女のポジショニングを確立させようと思ったんです」。
その後、担当ディレクター田村さんが組み立てた戦略の下、小泉今日子がリリースした曲は、ヒットを連発し、1984年3月に、康珍化が作詞、馬飼野康二が作曲した9枚目のシングル「渚のはいから人魚」は、小泉今日子にとって初のセールスチャート1位を獲得するのでした。
1984年3月にリリースされた、9枚目のシングル「渚のはいから人魚」以降、小泉今日子がリリースするシングルは、全てセールスチャートの1位を獲得し、彼女は一躍日本のトップアイドルとしての地位を確立していきます。
しかし、ディレクターの田村さんは、翌年の1985年春、女子高生を中心としたテレビバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』が始まると、小泉今日子をはじめとした、女性アイドルの勢力図が変わっていくことを感じるようになります。
「秋元康さんが、普通の女の子をコンセプトに作ったおニャン子クラブは、番組開始と共にジワジワと人気を集めて、7月に発売した1stシングルがいきなりチャート最高位5位を記録しました。僕は、このままでは、小泉今日子の存在が危うくなっていくと感じて、これからは彼女達を上回るインパクトのある作品が必要だと考えたんです」。
ディレクターの田村さんは、より刺激の強い曲を求めて、小泉今日子が11月に発売を予定していた15枚目のシングルの作詞を、敢えて、おニャン子クラブの仕掛け人として脚光を浴びていた秋元康さんにお願いすることを決めます。
「「まっ赤な女の子」以降、小泉今日子のシングルのA面の作詞を秋元さんにお願いすることは無かったですが、彼は、企画力や発想力に優れた人物だったので、シングルのB面曲や、アルバムプロデュースをお願いして、付き合いは続けていたんです。実は、秋元さんに作詞をお願いしたほぼ同じ時期に、当時、小泉がCM出演していた富士フィルムが、一般の人達から、小泉今日子が歌う曲の歌詞を募集する企画が進んでいて、秋元さんにお願いした歌詞の完成と、ほぼ同じ時期に、一般公募の中から「私はスターよ」と言う曲が選ばれたんです。
実際にこの歌詞が使われることはなかったんですが、秋元さんも、「私はスターよ」という曲を書いた一般の人も、偶然にも当時の小泉今日子に関して、同じイメージを持っていたことに、僕らスタッフも驚いたんです。」
こうして、小泉今日子15枚目のシングル「なんてったってアイドル」は、1985年11月にリリースされるのでした。
1985年11月にリリースされた、小泉今日子の15枚目のシングル「なんてったってアイドル」は、セールスチャート最高位1位、約28万枚の売上を記録します。
「最初は、曲のタイトルに関して、"こんなに安易なネーミングでも良いのか"という意見が、レコード会社内部でもあったんです。しかし、結果的にはヒットし、女性トップアイドル小泉今日子の健在ぶりを、あらためて示す曲となったんです。しかし、小泉今日子のシングル連続1位獲得は、この曲を最後にストップし、翌年に入るとおニャン子現象が絶頂期を迎え、それまで僕らが関わってきた女性アイドルの作り方が、大きく変わっていくことになっていくんです」最後に、ディレクターを務めた田村さんは、こう振り返ってくれました。
女性アイドルブームの頂点が、次のアイドルブームへの分水領となった、
時代を代表する、J-POPアイドルソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.私の16才/小泉今日子
M2.まっ赤な女の子/小泉今日子
M3.渚のはいから人魚/小泉今日子
M4.なんてったってアイドル/小泉今日子
193回目の今日お届けしたのは、「中山美穂/色・ホワイトブレンド」でした
「僕が彼女と初めて出会ったのは、1984年の春でした。既に、ティーン向けのファッション雑誌のモデルとして芸能活動を始めていた彼女は、もともと歌手志望で、所属事務所も歌手としてデビューさせることを決めていたんです。そこで、まずはデモテープを作ることになって、彼女が大好きだった杏里の歌を歌ってもらって、音域を調べることから始めたんです。彼女は、色黒で、大きな目で、目力があるのが印象的でした」。
デビュー当時、キングレコードで制作担当ディレクターを務めた福住さんは、中山美穂との出会いについて、こう振り返ります。
1970年3月、東京都に生まれた中山美穂は、彼女が中学一年の時に、原宿でスカウトされて、モデルクラブに所属します。幼い頃から、歌手に憧れていた中山美穂は、雑誌モデルとして活躍した後、キングレコードと契約します。
「当時は、松田聖子、中森明菜を代表とする女性アイドルが、毎年のように誕生し、各レコード会社が、競って、その年に売り出すアイドルを探していた時代でした。当然のように、キングレコードも、売れる女性アイドルを探していたんです。僕は、彼女を紹介された時、まだ中学生なのに、少し大人びた低い声が特長的で、このままボイストレーニングを積み重ねていけば、間違いなくキングレコードの看板アイドルになる、と確信したんです」。
1985年1月、中山美穂は、歌手としてのデビューに向けて準備を進めていく中で、TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』のヒロイン役として、ひと足先に女優としてデビューします。
「思春期まっさかりの中学生を主人公に、性教育をテーマにしたこのドラマで、彼女は、ちょっと悪い女子中学生役として出演したんです。彼女は、同世代の女性からは共感を集め、男性からは憧れの存在となって、注目を集めるようになったんですが、実際は、ドラマの役柄とは正反対で、普段は無口でおとなしい女の子でした」。
こうして、中山美穂は、ひと足先に女優としての活動をスタートした後、1985年6月に、1stシングル「C」をリリースするのでした。
1985年6月にリリースされた、中山美穂の1stシングル「C」は、セールスチャート最高位12位にランクインし、約17万枚のセールスを記録します。
「1stシングルの作詞を担当した松本隆さんは、ドラマに出演していた中山美穂を見て、彼女の存在感に目を留めてくれて、自ら、彼女の曲の歌詞を書くことを提案してくれたんです。ドラマからイメージした、少し意味深なタイトルが付けられた1stシングルは、音楽ファンの間でも、賛否両論を巻き起こしたんですが、それは、僕らが狙っていた戦略でもあったんです」。
「当時、僕らレコード会社の担当ディレクターは、他のレコード会社のディレクターと情報交換しながら、自分が担当する女性アイドルの売り出し方を常に考えていました。そんな中で、僕は中山美穂を、デビュー前から持っていた大人の雰囲気に、ドラマで演じた、ちょっと不良の女子中学生役のイメージを加えていくことで、他の清純派アイドルとは違う、小悪魔的な売り出し方を考えていたんです。だから、松本隆さんが書いた曲のタイトルは、まさに狙い通りだったんです」。
レコード会社の担当ディレクターを務めていた福住さんは、中山美穂のデビュー当時をこう振り返ります。
中山美穂は、1stシングルに続き9月に2ndシングル「生意気」を発売。その合間をぬって、8月からはTBS系ドラマ『夏・体験物語』にも出演します。さらに、12月には、中山美穂自らもマドンナ役として出演した映画『ビー・バップ・ハイスクール』の主題歌をリリースするのでした。
1985年12月にリリースされた、中山美穂の3rdシングル「BE-BOP HIGH SCHOOL』は、セールスチャート最高位4位、約18万枚の売上を記録。さらに、中山美穂は、その年の「日本レコード大賞」で最優秀新人賞を受賞します。
「中山美穂の1stシングルから、この3枚目までは、作詞を松本隆さん、作曲を筒美京平さんに担当していただきました。お二人は、作詞家、作曲家としてはもちろんですが、プロデュース力にも優れた方で、僕らスタッフと、中山美穂本人を交えて、次の曲のイメージを作っていく時に、色々な提案をしてくれて、この絶妙なコンビネーションが、レコード大賞で最優秀新人賞を取った大きな要因だと思っています。
しかし、当時は、松本さんも、筒美さんも、中山美穂だけでなく、色々なアイドル達に曲を作っていたので、打合せの時間を確保することにも困るような状態でした。そんな中、翌年春の資生堂のキャンペーンソングと、CM出演の依頼が舞い込んだんです」。
「資生堂の担当者は、大人びた少し低い声と、それまでの女優としての演技力に注目して、彼女を選んでくれたそうです。打ち合わせを進めていく中で、CMソングを作る数人の作家の名前が候補としてあがったんですが、その中のひとりが、竹内まりやさんでした。当時竹内さんは、シンガーとしてはもちろんですが、ソングライターとしてアイドルに曲を提供し始めていた時期で、僕の頭の中には、それまでの松本隆さん、筒美京平さんとは違った、ポップな曲を作るイメージがあったんです。僕ら制作スタッフは、竹内さんが曲を作ってくれたら、松本さん、筒美さんのコンビとはまた違った形で、中山美穂の音楽人生にとって、プラス要素になると考えたんです」
竹内まりやが作詞、作曲を担当することが決まって、中山美穂はレコーディングの場で、はじめて、竹内まりやと出会います。
「中山美穂にとって、竹内さんは憧れのお姉さんのようなイメージで、彼女は、竹内さんと一緒に仕事ができることをとても喜んでいました。スタジオでのレコーディングで、竹内さん自らが立ち合いしてくれた時は、彼女は、かなり緊張しながら歌っていたようです。」
こうして、中山美穂の4枚目のシングル「色・ホワイトブレンド」は、1986年2月、リリースされるのでした。
1986年2月にリリースされた、中山美穂の4枚目のシングル「色・ホワイトブレンド」は、セールスチャート最高位5位、約22万枚の売上を記録します。
「竹内まりやさんが作った、この曲で、彼女が、音楽の幅を広げたのはもちろんですが、それ以上に、この曲が資生堂のキャンペーンソングで、そのCMキャラクターに、彼女自身が起用されたことが、彼女にとって大きかったと思います。
レコードジャケットのビジュアルも、資生堂スタッフの協力の下で作って、雑誌の取材や、TVの音楽番組に彼女が出演する時にも、必ず資生堂の宣伝担当のスタッフが立ち合って、ヘアメイクなどビジュアル面でアドバイスしてくれたんです。その後、彼女が、本格派女優として活動を広げていく上で、とても大きな経験でした」最後に、ディレクターを務めた福住さんは、こう振り返ってくれました。
アイドルが、本格派女優としての一歩を踏み出すキッカケとなった、
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.オリビアを聴きながら/杏里
M2.C/中山美穂
M3.BE-BOP HIGH SCHOOL/中山美穂
M4.色・ホワイトブレンド/中山美穂
192回目の今日お届けしたのは、「本田美奈子/1986年のマリリン」でした
「僕が彼女と初めて出会ったのは、1983年、彼女が高校1年の夏でした。事務所のスタッフが、彼女を原宿でスカウトし、当時僕が手がけていたアイドルグループ「少女隊」のメンバーオーディションに参加させたんです。参加した女の子たちみんなが、山口百恵など、当時人気のアイドルの歌を歌う中で、彼女は石川さゆりさんの「天城越え」を歌って、これがまた上手かった。それで、彼女だけ日を改めて歌のテストをすることになって、次に彼女が覚えてきた歌が、中原めいこの「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」だったんです。僕は、"難しい歌を選んだな"、と思ったんですが、彼女はこの曲も上手に歌ったんです。それで、僕は、彼女はグループよりも、ソロアーティストとして育てた方がイイと考えたんです」。
所属事務所のプロデューサー、高杉さんは本田美奈子との出会いについて、こう振り返ります。
1967年7月、東京都葛飾区で造園業を営む工藤家の長女として生まれた本田美奈子、本名・工藤美奈子は、埼玉県朝霞市に移り住みます。歌手に憧れていた母親の影響で、幼い頃から歌を歌うことが大好きだった美奈子は、地元のお祭りのステージに出場しては、歌を歌っていたと言います。
「彼女は、母親の影響で小学生の頃は金井克子や山本リンダといった、大人のポップスを、中学に入ると、都はるみや、石川さゆりといった演歌を歌っていたそうです。そういった経験があったからでしょうか、彼女は、リズム感と声の張り、そして歌を歌う時の節回しが上手かったんです。独学とは言え、演歌を中心に歌ってきたせいか、歌を歌う時に、日本語をハッキリと伝えることができたんです」。
1984年夏、美奈子は芸能事務所「ボンド企画」と契約を結んだ後、9月に長崎歌謡祭に出場して、グランプリを獲得します。
「彼女は、もともと演歌歌手としてデビューする夢を持っていたんです。しかし、僕の事務所は、演歌歌手を育てた経験が無くて、彼女には、まずは歌手としてデビューして、経験を積んだ後に、改めて演歌歌手として売り出していくことを伝えて、納得してもらったんです」。
こうして、工藤美奈子は、レコード会社「東芝EMI」と契約を結んだ後、芸名を本田美奈子と名乗り、1985年4月に、1stシングル「殺意のバカンス」をリリースするのでした。
「彼女の曲は、若手の作詞家として、当時勢いのあった売野雅勇さんと、数多くアイドルのヒット曲を手掛けていた筒美京平さんのコンビにお願いしたんです。最初に完成した曲「好きと言いなさい」は、軽快なアップテンポで始まる、典型的なアイドルソングで、売野さんも、筒美さんも、東芝EMIが彼女をアイドルとして売り出していく方針だったので、その要望通りに曲を作ってくれました。ところが、1stシングルを決める場で、本田美奈子自身が、「好きと言いなさい」ではなく、2ndシングル用に作っていた「殺意のバカンス」を1stシングルにしたいと言い出したんです。
彼女は、他のアイドルと同じ、キュートで、ポップな歌を歌うことが嫌で、結局、当時のアイドルのデビュー曲としては、異例とも言える、歌詞が少し過激なこの曲が選ばれたんです」
担当プロデューサーだった高杉さんは、当時について、こう振り返ります。
その後も、本田美奈子は、同年代のアイドルとは、違う、自分だけの個性を見つけようと、ファッションやメイク、振り付けなどを、プロデューサーの高杉さんがアメリカで買ってきた、ミュージックビデオや雑誌を参考に、必死に勉強します。
「彼女は、自分が歌う曲を、複数の候補曲の中から、彼女自身が決めていたんです。私も、無理をしてレコード会社の意向に沿って、歌いたくない曲を歌っていくよりも、彼女の歌いたい気持ちを尊重し、彼女の個性を自然のままを引き出してあげた方が、彼女自身のためになると考えたんです。2ndシングルと、3rdシングルは、レコード会社の戦略で、典型的なアイドルソングを歌う必要性があったんですが、次の曲は、美奈子自身が少し大人っぽい歌詞の曲を歌いたいと考えて、松本隆さんが作詞を担当したこの曲を選んだんです」。
1985年11月にリリースされた、本田美奈子の4枚目のシングル「Temptation」は、彼女にとって初のトップ10ヒットとなる、セールスチャート最高位10位を記録します。
「彼女は、日頃から、"新しいことに挑戦することで、新しい自分に会うことができる"という言葉を大切にしていて、貪欲に色々な事にチャレンジしていたんです。「Temptation」では、彼女自身が初めて振付にもチャレンジ、本田美奈子としての個性を見つけようと必死になっていました」。
「Temptation(誘惑)」のスマッシュヒットで、その人気に火が付き始めた本田美奈子は、翌年に発売を予定していた5枚目のシングルの作詞を、秋元康さんに依頼します。
「当時、美奈子がパーソナリティを務めていた、ニッポン放送のラジオ番組『かぼちゃークラブ』の収録で、新進気鋭の作詞家として売り出し中だった秋元康さんに会った時に、お願いしたんです。僕と秋元さんは、1985年春からフジテレビ系でスタートした番組「夕焼けニャンニャン」の立ち上げで仲良くなって、僕が秋元さんを美奈子に紹介したんです。美奈子は、秋元さんとの打合せの場で、色っぽい歌詞を書いて欲しいと頼んだんですが、それに対して、秋元さんは、彼女をマリリン・モンローに見立てて歌詞を書くことを提案してくれたんです」。
若手作詞家の秋元康が書いた歌詞に、曲は1stシングル以来ずっと本田美奈子の曲を手掛けてきた筒美京平が引き続き担当します。
「筒美さんは、アーティスト本人や、周りのスタッフの意見を尊重しながら、アレンジできるプロデュース力に優れた作曲家だったので、引き続きお願いしたんです。筒美さんは、秋元さんが書いた歌詞に一目惚れしてくれて、美奈子自身からの、少しセクシーなアレンジにして欲しいという要望にも応じて、メロディを作ってくれたんです。
しばらくして、曲が完成したんですが、今度は美奈子自身がマリリン・モンローの映画をビデオで研究し、ヘソを出したステージ衣装、そして、腰を振って踊る振付を考え出したんです」。
こうして、1986年2月、本田美奈子の5枚目のシングル「1986年のマリリン」はリリースされるのでした。
1986年2月にリリースされた、本田美奈子の5枚目のシングル「1986年のマリリン」は、セールスチャート最高位3位、約25万枚の売上を記録します。
「当時、まだ19歳だった彼女が歌ったこの曲は、作詞家として売れ始めた秋元康さんが書いた歌詞、ベテランの筒美京平さんが作ったメロディ、そして美奈子自身が考えた衣装と振付。この三つの要素が、パズルのようにぴったりと組み合わさったからこそヒットし、多くの人々の記憶にも残る歌になったんだと思います。また、当時は、アイドルがヘソを出して、腰を振って歌を歌うなんて常識外れでしたけど、今では珍しくありません。そう言った意味では、彼女のこの曲をキッカケに、日本のアイドルソングの常識が破られたといって言っても間違いないでしょう。
彼女自身も、アイドルから脱皮し、自分の個性を見つけようとしていた時期に、この曲に巡り会う事ができたんです。そしてこの曲をキッカケに、彼女は、女性だけのバンドを組んだり、ミュージカル歌手としての道を選んでいったんです。そう言った意味では、彼女の音楽人生の出発点にもなった歌だと思います。」。
最後に、プロデューサーの高杉さんは、こう振り返ってくれました。
常識にとらわれず、人気に溺れず、自分のオリジナリティを追求した本田美奈子。彼女のプロ意識が、あたらしい、J-POPアイドルソングを産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。/中原めいこ
M2.殺意のバカンス/本田美奈子
M3.Temptation(誘惑)/本田美奈子
M4.1986年のマリリン/本田美奈子
191回目の今日お届けしたのは、「中島美嘉/WILL」でした
鹿児島県日置市に生まれの中島美嘉は、中学生の時に、ドリームズ・カム・トゥルーを聴いたことをきっかけに、芸能の道に進み、自分を表現できる職業に就きたいと思うようになります。
1998年春、中学校を卒業した中島美嘉は、高校へは進学をせず、地元・鹿児島市内のファーストフード店でアルバイト生活を送った後、翌1999年、福岡市内へ移り住み、モデルのアルバイトを始めます。
2000年秋、中島美嘉は、モデルとして様々なオーディションにチャレンジする一方で、もうひとつの夢、歌手になることを夢見て、ソニー・レコードに1本のデモテープを送ります。デモテープを聴いた、ソニー・レコードのスタッフは、その声に惹かれ、彼女を、ソニー・レコードが主催するボーカルオーディション「SD SINGERS REVIEW」に出場させます。このオーディションに見事合格した中島美嘉は、テレビドラマのヒロイン役オーディションにもチャレンジし、およそ3,000人が参加したオーディションを勝ち抜き、ヒロイン役として抜擢されることが決まります。
不良少女が、更正して歌手として活躍していくというドラマ「傷だらけのラブソング」のヒロイン役を射止めた中島美嘉は、そのドラマの主題歌を歌うことも決定。
こうして、中島美嘉の1stシングル「STARS」は、2001年11月にリリースされるのでした。
2001年11月にリリースされた、中島美嘉の1stシングル「STARS」は、中島美嘉本人がヒロイン役として出演したドラマ『傷だらけのラブソング』の主題歌として起用されて、セールスチャート最高位3位、約47万枚のセールスを記録します。
「中島美嘉本人は、女優業も歌手業も、やり方は違っても、同じ表現者として似ている部分があると考えているんです。女優にしても、歌手にしても、どちらも人の前では大袈裟に演じないと、見る人、聴く人にその思いがきちんと伝わらないからだと言っています。彼女自身、元々モデル経験もあるので、女優業と歌手業、どちらが嫌いで、どちらが好きという考え方では無く、両方を経験することが、自分にとってプラスに働くと考えているんです」。
現在、中島美嘉の制作ディレクターを務める灰野さんは、こう語ります。
圧倒的な存在感で、女優としても、歌手としても一躍注目を集めるようになった中島美嘉は、翌2002年2月、10万枚限定で2ndシングル「CRESCENT MOON」を、翌3月に3rdシングル「ONE SURVIVE」を立て続けにリリースします。
「私が彼女の制作スタッフとして関わるようになったのは、デビューから半年後の2002年春です。4枚目のシングルの制作スタッフに加わることになって、レコーディングスタジオで彼女に会ったんです。細い身体なのに、力強く、聴く人にダイナミックに響き渡る彼女の声が、とても印象的でした」。
現在も、中島美嘉の制作ディレクターを務める灰野さんは、当時のことを、こう振り返ります。
こうして、2002年5月、中島美嘉はこの年だけでも、3枚目となるシングル「Helpless Rain」をリリースするのでした。
2002年5月に、中島美嘉がリリースした4枚目のシングル「Helpless Rain」。
「この曲のレコーディングの時、彼女は聴く人に、歌詞の言葉ひとつひとつがハッキリと聴こえるように、何度も何度も歌い直したんです。曲を聴く人の心にきちんと伝わるように、最後まで妥協を許さないその姿勢が、同年代の女性を中心に多くの支持を集める理由だと思います」。
女優、そして、歌手として、一歩ずつ着実に階段を上っていた彼女の下へ、二つのオファーが同時に舞い込みます。
「ひとつは、女優・中島美嘉としての出演依頼で、7月から、日本テレビ系でスタートするドラマ『私立探偵 濵マイク』に、準主役として出演するという内容でした。そして、もうひとつは、歌手・中島美嘉として、同じ7月にフジテレビ系でスタートするドラマ『天体観測』の主題歌を歌って欲しいという内容だったんです」。
女優として、さらに歌手としてもう一歩上を目指すためのチャレンジだと考えた中島美嘉は、この二つの依頼を受けることを決めます。
「主題歌の依頼は、フジテレビのドラマスタッフが、唯一無二とも言える、彼女の歌声に魅了されたからでした。私達自身もそうで、実際、デモテープの完成直前に、プリプロと呼ばれる仮歌を作って彼女に歌ってもらったんですが、その歌声を聴いたスタッフみんな、鳥肌がたったのを今でもハッキリと覚えています。それだけで、私達は、この曲は売れる、と確信したんです」。灰野さんは、当時のことを、こう振り返ります。
シングルのレコーディングは順調にすすみ、最終作業に入っていきます。
「曲が完成し、レコーディング作業も一旦終了して、彼女には帰宅してもらいました。ところが、スタジオに残って、完成間近の曲を聴き返してみると、どうもしっくりこないんですね。何度聞き返してみても、しっくりこないんで、ひょっとして、彼女の声の高さを変えたら、上手くいくんじゃないかと考えた私達は、既に自宅に戻っていた彼女を呼び戻して、改めてレコーディングし直すことにしたんです。自宅からレコーディングスタジオに呼び戻された彼女は、声の高さを変えて歌うことに対して、嫌な顔ひとつせず、改めて歌い直してくれたんです。レコーディングし直してみると、曲の持つ表情が、がらりと変わって、より大人っぽいバラードへと生まれ変わることができました」
こうして、再度レコーディングし直すことで、生まれ変わった中島美嘉5枚目のシングル「WILL」は、ドラマ『天体観測』の主題歌として、2002年8月にリリースされるのでした。
2002年8月にリリースされた、中島美嘉の5枚目のシングル「WILL」は、セールスチャート最高位3位、約15万枚のセールスを記録します。
「この曲が多くの音楽ファンから支持を集めたことで、この曲の別アレンジバージョンが収められている、同じく8月に発売された1stアルバム『TRUE』が、セールスチャート1位を獲得することができました。
この曲で、彼女が歌う、バラードナンバーを評価してくれる音楽ファンが増えたのも間違いありません」。最後に、ディレクターを務める灰野さんは、こう振り返ってくれました。
彼女の唯一無二の歌声を活かした、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.LOVE LOVE LOVE/ドリームズ・カム・トゥルー
M2.STARS/中島美嘉
M3.Helplesss Rain/中島美嘉
M4.WILL/中島美嘉
190回目の今日お届けしたのは、「TUBE/夏を待ちきれなくて」でした
1984年、東京・町田市で行われた、音楽制作事務所「ビ―イング」主催の音楽オーディション「シルクロード音楽祭」に、前田亘輝と松本玲二が組んだバンドと、春畑道哉がギタリストとして参加していたバンドが出場します。どちらのバンドも、グランプリを獲得することはできませんでしたが、前田亘輝がベスト・ボーカリスト賞を、春畑道哉がベスト・ギタリスト賞を受賞します。そして、この音楽祭の出会いをキッカケに、前田亘輝、松本玲二、春畑道哉の3人は、前田亘輝の音楽仲間だった、角野秀行を加えて、4人組バンド「パイプライン」を結成します。
パイプラインは、シルクロード音楽祭の審査員を務めたビーイングの音楽プロデューサー、長戸大幸にアドバイスを受けながら、彼らの地元、神奈川県内のライブハウスを中心に、ラウドネス、アルカトラス、アース・シェイカーといった、ロックミュージックのカバーバンドとして活動をスタートします。
翌1985年、パイプラインは、CBSソニーが行ったオーディションに合格。バンド名を「THE TUBE」と改め、5月に1stシングル「ベストセラー・サマー」をリリース。シングル「ベストセラー・サマー」は、その年のキリンビール「びん生」のCMソングに起用されたこともあって、リリース後も順調にセールスを伸ばしていくのでした。
しかし、プロデューサーの長戸大幸が、彼らのプロフィールに、特技はサーフィンと記すなど、夏のイメージを植え付けたこともあったのか、季節が夏から秋に移り変わっていくと同時に、セールスが下降。10月にリリースした2ndシングル「センチメンタルに首ったけ」は、セールスチャート最高位64位、売上も僅か1万枚という結果に終わります。
翌1986年、長戸大幸は、THE TUBE3枚目のシングルの制作を、当時彼が信頼を寄せていたシンガーソングライターの織田哲郎に依頼。織田哲郎は、楽曲の頭の部分で、前田亘輝の突き抜けたハイトーンボーカルの魅力を、最大限活かした楽曲を制作。グループ名もTHE TUBE改めTUBEとし、3rdシングル「シーズン・イン・ザ・サン」を、1986年4月にリリースするのでした。
1986年4月にリリースされた、TUBE3枚目のシングル「シーズン・イン・ザ・サン」は、デビュー曲に続き、この年もキリンビール「びん生」のTVCMソングとして起用されます。さらに、この曲の発売直後の5月、TUBEは、ワゴン車1台に機材を積み、北海道12ヵ所を回るツアーをスタート。楽器の搬出搬入も自分達で行いながらの過酷なツアーでしたが、地道なライブの結果はすぐに成果として現れ、北海道ツアー終盤には、シングル「シーズン・イン・ザ・サン」が、北海道のラジオ局のリクエスト番組で1位を獲得。さらに、夏が迫るにつれて、「シーズン・イン・ザ・サン」のセールスチャートは急上昇し、最終的に最高位6位、約30万枚近くの売上を記録します。
白いTシャツに、ブルー・ジーンズというラフなスタイル、爽やかなルックス、そしてキャッチーなメロディで、TUBE=夏というイメージが、すっかり音楽ファンの間に定着した彼らは、翌1987年4月には5枚目のシングル「サマー・ドリーム」をリリースし、これもセールスチャート最高位3位を記録します。この年の夏には、野外を含む、全国13ヵ所ライブツアーを行い、さらに翌1988年2月には、初の日本武道館ライブを成功させます。
「この頃から、少しずつ自分達で作詞・作曲を手掛けるようになったんです。もともと、アマチュア時代に曲は書いていたんですが、プロデューサーの長戸さんの意向で、織田哲郎さんや、亜蘭知子さんが書いた曲を歌っていたんです。しかし、長戸さんは、僕らをより成長させるために、自作の歌を歌うことを解禁。1989年6月にリリースした9枚目のシングル「サマー・シティ」からは、前田亘輝が歌詞を書き、僕がメロディを書くようになったんです」。メンバーの春畑道哉さんは、当時のことを、こう振り返ります。
織田哲郎と亜蘭知子のコンビが作ったそれまでの音楽イメージを継承しながら、どうやって自分達のオリジナル・カラーを作っていくのか、メンバーは試行錯誤しながら、楽曲制作に取り組んでいきます。
「この曲は、最初に作ったデモテープを、長戸さんに聴かせたところ、NGが出たんです。長戸さんは、側にあったガット・ギターを弾いて、曲作りのヒントを与えてくれて、僕はそのヒントを基に新たな曲を作ったんです。完成した新たな曲は、それまでのTUBEのサウンドには無かった、マイナー調のメロディで、曲を聴いたメンバー全員、初めは驚いて、リリースすることに否定的だったんです。しかし長戸さんは、それまでのTUBEの音楽カラーを打ち崩したこの曲にOKを出してくれ、シングルとしてリリースすることが決まったんです」。
こうして、メンバーの誰もが最初は否定的だった曲「あー夏休み」は、TUBE11枚目のシングルとして1990年5月にリリースされるのでした。
1990年5月にリリースされた、TUBE11枚目のシングル「あー夏休み」は、セールスチャート最高位10位、約24万枚の売上を記録します。
「それまでのTUBEが作ってきた、夏を意識した爽快感溢れるサウンドや、切なさ溢れるバラード曲。
音楽関係者やファンが抱いていた、僕らの音楽に対するイメージを、このシングル「あー夏休み」は、曲が持っている、ちょっとユーモラスな部分で、いい意味で覆してくれて、その後のTUBEの音楽スタイルに、大きな影響を与えることになったんです」。曲を作った、春畑道哉は当時について、こう振り返ります。
「あー夏休み」は、その年の日本有線大賞で、有線音楽優秀賞を受賞。音楽面で大きな自信を掴んだTUBEは、翌1991年7月にリリースした13枚目のシングル「さよならイエスタディ」でも、「あー夏休み」と同様にラテンリズムのサウンドを取り入れて、セールスチャート最高位3位、約58万枚の売上を記録します。
そして1993年1月下旬、TUBEはその年に発売を予定していたアルバム制作のため、ハワイへ向かいます。
「レコーディングは、デビュー直後から1991年までは東京都内のスタジオで行っていたんです。しかし、1992年に入ると、バンド活動や、メンバーのソロ活動で日々慌ただしく、なかなか落ち着いた環境の下で曲作りに取り組めなくなっていたので、思いきって環境を変える意味で、海の見える神奈川県・観音崎のスタジオで作ったんです。ゆったりとした中で作ったアルバムの完成度に、メンバーみんな納得し、次のアルバムも、落ち着いた環境の中で作ろうと考えて、見つけたのが、ハワイだったんです。レコーディング機材は、ハワイより日本の方が良い環境にあるんですが、僕らは、のんびりとした環境の中で、リラックスしながらレコーディングに臨むことを優先して、ハワイを選んだんです」。
「曲を作る場所が、日本からハワイに変わっただけで、曲作りの作業スタイル自体は、変わらず、メンバーそれぞれが持ち寄った、アルバム用の曲のアイディアを、意見を交わしながら固めていくスタイルでした。ただ、この時は、ハワイの夏にたっぷり浸りながら、作業を進めることができ、気分的にも充実して曲を作ったんです。TUBEの曲は、それまで、どちらかと言えば爽やか系や、ラテン系の曲が多かったんですが、この曲は僕らにとっては意外とも言えるロックテイストな曲に仕上がりました」。
こうして、1993年5月にTUBEの16枚目のシングル「夏を待ちきれなくて」はリリースされるのでした。
1993年5月、TUBEの16枚目のシングルとしてリリースされた、「夏を待ちきれなくて」は、彼らにとって初めてセールスチャート1位を獲得し、約80万枚の売上を記録。さらにTUBEは、この年の大晦日に行われた「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たし、この曲を歌います。
「正直、この曲がセールスチャート1位を獲得したという印象は少なく、むしろ大晦日に、紅白歌合戦に初出場して、この曲を歌った印象の方が強いんです。しかし、この曲をキッカケに、その後3曲連続セールスチャート1位を獲得するなど、バンドとしての新しいスタイルが確立されたと言っても、過言ではありません」。最後に、TUBEのメンバー春畑道哉さんは、こう振り返ってくれました。
ハワイの陽ざしと風が運んだ、J-POPの夏の名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ラジオ・マジック/アース・シェイカー
M2.シーズン・イン・ザ・サン/TUBE
M3.あー夏休み/TUBE
M4.夏を待ちきれなくて/TUBE
189回目の今日お届けしたのは、「小田和正/たしかなこと」でした
1947年9月、横浜にある薬局の次男として生まれた、小田和正は、1歳年上の兄の影響で、ポール・アンカ、コニー・フランシス、PPMといったポップスを聴きはじめ、自宅にあったアコースティック・ギターで、彼らの曲をカバーするようになります。
1965年、小田和正は、高校の同級生、鈴木康博、地主道夫ら4人でPPMのカバーバンドを結成し、学園祭のステージで歌を披露、人前で歌を歌う楽しさを知ります。
翌1966年春、東北大学建築学科へ進学した小田和正は、大学の講義の合間をぬって、鈴木康博と地主道夫の3人で音楽活動を続け、1969年7月に3人組バンド「ジ・オフコース」を結成。その年に行われた「ヤマハ・ライトミュージックコンテスト」全国グランプリ大会に出場し、グランプリを獲得した「赤い鳥」に続き、2位に入賞して、レコードデビューが決まります。
1970年6月、ジ・オフコースは、1stシングル「群衆の中で」をリリースしますが、翌1971年2月に、メンバーの地主道夫が、音楽の世界から離れて一般企業に就職するために、グループから脱退。残った小田和正と鈴木康博は、グループ名をジ・オフコースから、オフコースと改め、しばらくの間は、コーラスを重視した、フォーク・デュオとして活動を続けます。しかし、小田和正と鈴木康博の二人は、フォーク・ミュージックが、ニュー・ミュージックへと衣替えし、ロック・バンドが台頭し始めてきた1970年代後半になると、コーラス・デュオでは、バンドサウンドには勝てないと感じるようになります。こうして1979年、オフコースは、それまでサポートメンバーとしてレコーディングやライブに参加していた、大間ジロー、松尾一彦、清水仁の3人を、正式メンバーとして迎え入れ、5人組のバンドとして活動をスタート。
5人のオフコースとしては初めてのアルバム『Three and Two』が、セールスチャート最高位2位、約25万のセールスを記録。そして、12月にリリースした17枚目のシングル「さよなら」が、セールスチャート最高位2位を記録し、オフコースは一躍ニュー・ミュージックを代表するグループへと成長していくのでした。
シングル「さよなら」以降も、順調にヒットソング、ヒットアルバムをリリースいていたオフコースでしたが、1982年6月、日本武道館連続10日間公演を最後に、小田和正が高校時代から約18年間一緒に音楽活動を続けてきた、鈴木康博が、自分だけの新しい音楽の世界を求めて、オフコースから脱退。
オフコースは、約1年間の活動休止の後、1984年に4人で活動を再開し、1985年8月に、海外進出を狙って、全て英語ボーカルで作ったアルバム『Back Streets of Tokyo』をリリースします。
また、翌年の1986年には、オフコースとしての活動と並行して、メンバー各自がソロ活動スタート。
小田和正も、11月に1stソロシングル「1985」をリリース、12月には、1stソロアルバム『K.ODA』をリリースします。
1989年2月、オフコースが、東京ドームでのライブを以って、多くの音楽ファンに惜しまれながら解散すると、小田和正は、ソロ活動を本格的にスタート。
1991年2月には、フジテレビ系ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として作った、シングル「ラブストーリーは突然に」が、セールスチャート最高位1位、約260万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
日本を代表するポピュラーソングアーティストになった小田和正は、1996年2月に、彼が、オフコース時代を含む過去に作った楽曲を、新しいアレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK』をリリース。オフコースをリアルタイムで知らない音楽ファンからも、幅広く支持を集めるようになっていきます。
そんな中、1998年に入って、小田和正がオフコース時代に作った曲の一曲が、明治生命の企業広告CM曲として使われることが決まります。
「当時、明治生命が、家族や身近な人の大切さをテーマに、想い出の写真で構成した企業広告CMを作ることになったんです。その過程で、バックに流れる曲を選ぶ時に、複数の候補アーティストの中から、聴く人を自然と癒してくれるような歌声を持っている小田和正さんが選ばれたんです。小田さんが選ばれた後、小田さんの事務所スタッフを交えて、数多くある小田さんが作った曲の中から、CMのテーマに合った曲を探す中で、選ばれたのが、この曲でした」。CM制作を担当した、広告代理店アサツー・ディ・ケイのクリエイティブディレクター江村さんは、当時のことをこう振り返ります。
「この曲の歌詞が持っている強いメッセージ性と価値感。それが、このCMの映像と上手く重なることが分かって、最終的にこの曲を選びました。小田さんが、アルバム『LOOKING BACK』で、オフコース時代の曲をセルフカバーしていた流れもあって、セルフカバーに関しても抵抗感なく了承していただき、この曲も改めて小田さんにレコーディングし直してもらったんです」。
こうして、小田和正がオフコース時代に作った曲「言葉にできない」は、新たにレコーディングし直した後、1998年から明治生命の企業広告のCMソングとして流れるのでした。
小田和正自身は、この曲「言葉にできない」について、インタビュー本『たしかなこと』の中で次のように語っています。
「スタジオでひとり曲を作っている最中、歌なんて、もしかしたら、本当は歌詞がないほうが強い印象を伝えることができるのではないかと思って、とにかくラ~、ラ~、ラ~って歌っていたんです。歌っていくうちに、このままの歌詞のほうがシンプルで、聴く人にきっと曲の強さを感じてもらえると確信したんです」。
1998年、明治生命の企業広告のCMソングとして起用された小田和正のセルフカバー曲「言葉にできない」は、約5年間もの間、おなじスタイルでCM曲として使用され、2001年5月には、第2弾のセルフカバーアルバム『LOOKING BACK2』にも収録されます。
そして2003年、明治生命と安田生命の企業合併が決まり、新たな企業広告を作るにあたって、再び小田和正の下へ楽曲提供の話が届きます。
「新しい企業広告CMを作るにあたって、私達は新しい企業が誕生する訳だから、過去を踏襲するのではなく、新しいアーティストを起用して、新鮮さを出すことを考えていたんです。ところが、新会社のCMコンセプトとして、身近な人の大切さや、普通であり続けることのありがたさという内容が決まると、前回と同じように、想い入れのある写真で構成したCMを作ることになり、議論の末、再び小田和正さんの曲を起用することが決まったんです」。
江村さんは、小田和正再起用について、こう振返ります。
しかし、今度は、既存の楽曲を使うのではなく、新たに曲を書き下ろして欲しい、という要望が出されます。この時のことについて、小田和正自身は、インタビュー本『たしかなこと』の中で、次のように語っています。
「「言葉にできない」を越える曲を作って欲しい、という要望を受けて、新曲を書き下ろしたんです。できあがった歌詞を何回も読み返し、俺はこの曲から何を伝えたいんだろうって、考えたんですが、何度考えても、曲のタイトルが浮かんでこない。タイトルが浮かんでこないと言うことは、曲のどこかに欠陥があると思った僕は、急遽一回作った曲を壊して、作り直したんです」。
こうして、小田和正が、過去の自分の作品と戦って生みだした楽曲、「たしかなこと」は、2004年の明治安田生命の誕生と同時にTVCMソングとして起用され、翌2005年5月に、小田和正23枚目のシングルとしてリリースされるのでした。
2005年5月、小田和正の23枚目のシングルとしてリリースされた、「たしかなこと」。
「初めて聴いた時は、「言葉にできない」という曲の高いハードルを果たしてクリアできるのか、正直不安でした。しかし、この曲を何度か聴くうちに、小田さんの歌声に癒され、歌詞が自然と心の中に沁み入ってくることに気がついたんです。身近にいる大切な人をコンセプトにした写真で構成したCMの映像と、小田和正さんの歌声と、そして歌詞。この三つが綺麗にシンクロすることに成功し、明治安田生命の担当者はもちろんですが、CMを観た視聴者の方々からも、「言葉にできない」と同様に多くの反響を貰うことができました」。
最後に、CMを制作したクリエイティブディレクターの江村さんは、こう振り返ってくれました。
オフコースの小田和正が作った高いハードルを、ソロアーティスト小田和正が乗り越えた、
J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.パフ/ピーター・ポール&マリー
M2.さよなら/オフコース
M3.言葉にできない/小田和正
M4.たしかなこと/小田和正
188回目の今日お届けしたのは、「RIP SLYME/STAIRS」でした
「僕が彼らに初めて出会ったのは、1997年のことでした。偶然、クラブイベントに出演していた彼らのライブを観て、間口の広いアーティストだなぁ、と注目するようになって、その後も頻繁に彼らのライブを観るようになったんです。それから、メンバーのDJ FUMIYAには、彼がRIP SLYMEに加入する直前に、僕が、当時担当していた、DA BUMPのサポートDJをお願いしたり、リミックスも頼んだこともあったんです。当時は、ヒップホップと言えばハードコアなイメージが強くて、J-POPの世界ではまだ成功事例が少なかったんですが、彼らにはその可能性を感じました。」。
現在も、RIP SLYMEの制作プロデューサーを務める横倉さんは、RIP SLYMEのメンバーとの出会いをこう振り返ります。
1994年8月、ヒップホップを通して知り合った、RYO-Z、ILMARI、PES、とDJ SHOJI、DJ Shigeの5人は、3MC+2DJスタイルのヒップホップグループ「RIP SLYME」を結成します。当時アメリカで人気を集めていたヒップホップグループ「ザ・ファーサイド」に憧れていたというRIP SLYMEは、結成してすぐ、彼ら自身が主催した初めてのクラブイベントを開催。12月には、ヒップホップグループ「ZINGI」が主催していた新人ラッパーコンテスト『YOUNG MC'S IN TOWN』に出場し、見事優勝します。
1995年、RIP SLYMEは錦糸町のクラブ『Nude』を会場に、定期的にライブを行いながら、10月にインディーズ系のレコード会社「ファイルレコード」からミニアルバム『Lip's Rhyme』をリリース。翌1996年に入ると、DJ SHOJI、DJ Shigeの二人が脱退し、しばらくの間はDJ不在のまま活動を続けますが、翌1997年にRYO-ZとILMARIの音楽仲間だったDJ FUMIYAがメンバーとして加入します。さらに翌1998年2月には、2枚目のミニアルバム『talkin' cheap』の制作を手伝った、MC担当のSUがメンバーとして加入し、現在の4MC+1DJスタイルのRIP SLYMEとなります。
1999年9月、RIP SLYMEは、Dragon Ashが主催し、スケボーキングやm-floなども参加したオムニバスライブイベント「TMC(Total Music Communication)」に参加。翌2000年の春と夏に行われたTMCにも参加したRIP SLYMEのパフォーマンスは、熱狂的な支持を集め、これをキッカケに、芸能プロダクション「田辺エージェンシー」と、さらには、レコード会社「ワーナーミュージック・ジャパン」と契約を結びます。こうして、結成から7年、2001年3月に、RIP SLYMEは、メジャー1stシングル「STEPPER'S DELIGHT」をリリースするのでした。
2001年3月に、1stシングル「STEPPER'S DELIGHT」をリリースしたRIP SLYMEは、自分達の音楽活動と並行して、Dragon Ashのツアーにオープニングアクトとして同行、全国各地で、新たなファンを獲得していきます。さらに、この年7月に、東京・渋谷クアトロで初のワンマンライブを成功させたRIP SLYMEは、同じ月に1stアルバム『FIVE』をリリースし、ヒップホップグループのデビューアルバムとしては異例とも言える、セールスチャート最高位6位、約31万枚のセールスを記録します。
「この頃から、僕がRIP SLYMEの制作プロデューサーを務めるようになったんですが、彼らは僕が初めて出会った時と印象は変わっていませんでした。ただインディーズ時代と違っていたのは、ライブ経験を積み重ねた事で、どんな曲を作ったらオーディエンスが喜んで、盛り上がってくれるのか。彼らなりに試行錯誤しながら、曲を作っていたことでした。それで、10月にリリースした、3枚目のシングル「One」は、誰が聴いても分かるPOP感を重視した作りにこだわったんです」
RIP SLYMEが10月にリリースした3枚目のシングル「One」は、セールスチャート最高位4位、約33万枚の売上を記録。さらに、翌2002年にリリースした、シングル「FUNKASTIC」「楽園ベイベー」もセールスチャート最高位2位を記録します。ブームともいえるような状況の中、7月にリリースした2ndアルバム『TOKYO CLASSIC』は、セールスチャート初登場1位を獲得、日本のヒップホップ音楽史上初となるミリオンセラー120万枚の売上を記録します。
「CDセールス、ライブ動員も着実に伸びて、ヒップホップのみならず、J-POPを代表するアーティストに成長し始めていた彼らが、次のステップとして考えたのが、もっと自由なスタイルでRIP SLYME独自の音楽スタイルを確立することでした。そのキッカケとなったのが、2003年6月にリリースした「JOINT」なんです」。
2003年6月に、RIP SLYMEがリリースした7枚目のシングル「JOINT」。
「高速で複雑なビートスタイルのドラムンベースの要素を取り入れたこの曲から、RIP SLYMEの音楽はより一層HIP HOPの枠に捉われないサウンド志向が顕著になったんです。彼らの曲は、ライブを意識した曲ばかりではなく、時には遊び心満載だったり、とてもライブでは歌えない曲もあったりします。RIP SLYMEは自由奔放なアーティスト、というイメージがこの曲をキッカケに始まったのかもしれません」。
制作プロデューサーを務める横倉さんは、RIP SLYMEの音楽についてこう語ります。
その後もRIP SLYMEは、2003年7月に、およそ5万人を集めての単独野外ライブを成功させるなど、ライブ活動にも力を入れると同時に、2006年には布袋寅泰や「くるり」とのコラボレーションしたシングルを相次いで発売するなど、精力的かつ自由自在に、活動していきます。
2008年12月、RIP SLYMEは、翌年に発売を予定していたシングルの打合せの中で、あるキーワードが提案されます。
「RIP SLYMEは、曲を作る時、季節やその時々の様々な事柄をキーワードに、次の曲の方向性を決めています。この曲を作る時は、"前を向いて突き進む"という言葉がキーワードでした。そのキーワードを基に、FUMIYAがまずDJトラックを作ってきたんですが、そのトラックが、まるで階段を一歩づつ上がっていくように、音階が上がっていくものだったんですね。それで、曲のコンセプトが、"一歩づつ、昨日よりも前へ、あと一歩上へ"という感じに決まったんです。歌詞は、曲のコンセプトが固まってから、ほぼ丸一日で完成しました。普段なら一週間、長ければ一ヵ月かけて歌詞を書くのが当たり前なんですが、史上最短で完成したんです。」。
1音ずつ音階が上がっていくトラックに乗せながら、4人のMCそれぞれが、自分に言い聞かせるように、一歩づつ、少しづつ前に、上に進んで行こうという思いを込めた、RIP SLYME16枚目のシングル「STAIRS」は、2008年12月24日に、曲のサビの部分が先行してダウンロード配信された後、翌2009年1月に曲全体をダウンロード配信、そして2月にCDとしてリリースされるのでした。
2009年2月にリリースされた、RIP SLYMEの16枚目のシングル「STAIRS」。
「RIP SLYMEのメンバー5人は、常に大切な仲間の事を考えています。それは、RIP SLYMEのメンバー、周りのスタッフ、家族などです。この曲は、そんな彼らを等身大に写している曲ですね。そこで、大サビの合唱部分のレコーディングでは、彼らのクラブ仲間や信頼しているアーティスト達に参加してもらい、その想いを表現しています。彼らは、口にこそ出して言いませんが、この曲のメロディや歌詞で大切な人を想い、その人が前を向いて歩んでいけるように、表現しています。だからこそ、この曲を聴いた人達が、この曲から大きな勇気を貰っているんでしょう」。
最後に、制作プロデューサーの横倉さんは、こう語ってくれました。
決して押し付けではなく、けれど力強い、だからこそ心に染み入る J-POPポジティブソングの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Runnin'/THE PHARCYDE
M2.STEPPER'S DELIGHT/RIP SLYME
M3.One/RIP SLYME
M4.JOINT/RIP SLYME
M5.STAIRS/RIP SLYME
187回目の今日お届けしたのは、「RCサクセション/トランジスタ・ラジオ」でした
1951年4月、東京都中野区に生まれた忌野清志郎、本名栗原清志は、彼が15歳の1965年に、当時、一大エレキ・ブームを巻き起こしていたベンチャーズに魅かれて、翌年の1966年に、同級生の小林和生、破廉ケンチの三人で、バンド「ザ・クローバー」を結成、翌1967年3月に、3人は、中学の卒業式の謝恩会で初ステージを踏みますが、中学卒業と同時に、ザ・クローバーは一旦解散します。
高校に入学すると、今度は、当時ブームになりつつあったフォーク・ソングに夢中になり始めた忌野清志郎は、小林和生と上級生を加えた、フォークバンド「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」を結成します。PP&Mのカバーなどの他、自分達のオリジナルソングを作るようになっていた「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」は、翌1968年に破廉ケンチを再びメンバーに加え、バンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバーズ・サクセション」と改めます。そして、この頃から、忌野清志郎というペンネームを使って、フォーク調のオリジナル曲作りに積極的にチャレンジしはじめます。
1969年になると、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバーズ・サクセション」は、バンド名を「RCサクセション」と改め、TBSテレビ系の若者向け情報番組「ヤング720」のオーディションに合格し、番組に出演。さらに、その年、レコード会社東芝音工、現在のEMIミュージックジャパン主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションに出演し、見事、合格します。
忌野清志郎は、当時のことを『ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』のインタビューの中で、次のように語っています。
「小さい頃からマンガを描くことが大好きだった僕は、将来、絵描きになりたいと思っていたんです。ミュージシャンは、パッと売れて、パッと終わってしまう、というイメージがあったので、高校卒業後は、美大に通って絵の勉強をしたかったんです。ところが、高三になって受験勉強が本格化し始めると、美大を受験するにあたって、同じ絵を描くにしても、自分の意思ではなく、あくまで受験用の絵を描かなくちゃいけなってきてから、嫌になったんです。そんな時に、東芝のオーディションに合格して、自分にはもう音楽しかない、プロになってやろう、と思ったんです」。
こうして、1970年、「RCサクセション」はレコード会社「東芝音工」、芸能事務所「ホリプロ」と契約を結び、3月に1stシングル「宝くじは買わない」をリリースするのでした。
1970年3月、RCサクセションは東芝音工から、1stシングル「宝くじは買わない」をリリース。10月に2ndシングル「涙でいっぱい」をリリースするものの、セールス的には全く振るわず、3rdシングル「ぼくの好きな先生」の発売までおよそ2年近くを費やすこととなります。
シングル「ぼくの好きな先生」がスマッシュヒットととなり、バンドとしての名前が少しは知れられるようになったものの、思っていた以上に売れない状況に忌野は苛立ちを覚えながらも、ライブを通して、多くの音楽仲間と交流を持つようになって、自分達の音楽のブラッシュアップを図ろうとしていきます。
そんな状況の中で、親しくなっていった音楽仲間のひとりが、当時RCサクセションがライブ拠点のひとつとしていた、渋谷のライブハウス「青い森」に出演していたフォークグループ「古井戸」のメンバー仲井戸麗市でした。
「1971年に、初めて忌野と出会ったんですが、当時のRCサクセションは、楽器はアコースティックだけど、演奏している音楽はソウル・ミュージシャン「オーティス・レディング」を意識した、フォークソウルミュージックでした。話をする内に意気投合した僕と忌野は、別々のバンドでありながらも、お互い時間を作っては音楽論を交わすようになっていったんです」。
仲井戸麗市は、雑誌『ROCKIN' ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』の中で、忌野清志郎との出会いについてこう語っています。
1975年、RCサクセションは、東芝音工との契約が終了しポリドールに移籍、所属事務所も、ホリプロから独立したプロダクション「りぼん」に移籍します。しかし、この移籍に関するトラブルから、レコードを発売できない状況に陥っていたRCサクセクションは、矢沢永吉や井上陽水らのライブの前座を務めながら、コツコツと作品を作って、小さなライブハウスで歌っていきます。また、演奏する音楽もフォークから、ソウルミュージックやR&Bを意識した曲へシフトチェンジします。1977年に結成当初のメンバーのひとりだった破廉が体調を崩して、RCサクセションから脱退。翌1978年、代わりのメンバーとして、親交のあったカルメン・マキ&OZのギタリスト・春日博文、ドラマーの新井田耕造、そして、さらに、仲井戸麗市がメンバーとして加わります。
1978年9月、渋谷のライブハウス「屋根裏」でのライブに、忌野清志郎は、髪を短く切って逆立て、どぎついメイクを施し、細身のパンツと真っ赤なスーツに、銀のシューズという姿でステージに立ちます。
高校時代から、忌野が憧れていたR&Bの大御所オーティス・レディングを真似た忌野清志郎のステージパフォーマンスと、そんな忌野を盛り立てるようなミュージシャン達による、ロックンロールミュージックはうわさを呼び、ライブ動員どんどんが増加していきます。こうして、ライブバンドとして人気を確立し始めたRCサクセションは、1980年1月、9枚目のシングル「雨あがりの夜空に」をリリースするのでした。
1980年1月に、シングル「雨あがりの夜空に」の発売を記念し「屋根裏」で行ったライブは、4日間で連日200人を動員。さらに同じ年の4月に、当時、東京・千代田区霞が関にあった久保講堂で「ワンマン・ライブ"LIVE!!RCサクセション"を開催。6月にそのライブの模様を収録したライブアルバム『RHAPSODY』をリリースします。
ライブバンドとして、その人気の勢いが止まらないRCサクセションは、10月に11枚目のシングルをリリースすることを決めます。
「この曲は、1974年頃からセッションミュージシャンとしてRCサクセションの曲作りに参加していて、1979年にRCサクセションの正式メンバーと加わった、Gee2Wooこと柴田義也が、僕の家の近所に住んでいた頃、夜中によく一緒に遊んでいる中で生まれた曲です。当時、柴田は、アメリカのロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」が大好きで、彼らの曲を聴きながら、コード進行を考えたんです。歌詞は、僕が、高校時代、学校の屋上で授業をサボって、一人タバコをふかしながら空を見ていた時の様子を、書いています」。
忌野清志郎が、自らの青春時代の振り返って綴った歌は、1980年10月に、RCサクセション11枚目のシングル「トランジスタ・ラジオ」としてリリースされるのでした。
1980年10月にリリースされた、RCサクセション11枚目のシングル「トランジスタ・ラジオ」。
「ライブバンドとして、RCサクセションの人気が盛り上がってきた時代に発売したこの曲。発売直後、
ある日、仕事が終わって帰りのタクシーの中で、ラジオからこの曲が2~3回流れてきた時、自分達が売れているのを実感したんです。フォーク、ソウルミュージック、そしてロック。RCサクセションにとって、どんな音楽が正しいのか探し、辿り着いた答え。ライブバンドとして地位を掴み、次にこの曲で、シングルヒットのコツを掴んだと言っても、間違いありません」。
曲が完成した当時の様子について、忌野清志郎さんは、雑誌『ROCKIN' ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』の中で、こう振り返っています。
ロックバンドRCサクセションが進むべき音楽の道標を示した、J-ROCKの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.風に吹かれて/ピーター・ポール&マリー
M2.宝くじは買わない/RCサクセション
M3.雨あがりの夜空に/RCサクセション
M4.トランジスタ・ラジオ/RCサクセション
186回目の今日お届けしたのは、「YUI/CHE.R.RY」でした
「彼女に初めて出会ったのは、2004年2月に行われたソニーミュージックグループのSDオーディション最終審査会場です。この年のSDオーディションには、全国から10万通もの応募があって、一次審査となる書類審査、二次審査を経て、東京で最終審査が行われたんです。オーディションの最終審査員を務めていた僕は、会場に現れた、彼女を一目見た瞬間、この子は、何かをやってくれるのではという、期待感と言うか、独特の雰囲気、存在感を感じたんです。それは、僕以外の、他のオーディションスタッフも、同じように感じていました」。後に、制作担当ディレクターを務める市原さんは、当時をこう振り返ります。
1987年3月、福岡県・糟屋郡古賀町(現在の古賀市)に生まれたYUIは、幼い頃から歌を歌うことが大好きで、カーステレオやラジオから流れてくる松任谷由実、大黒摩季の曲に合わせて、歌を口ずさむようになります。そして、彼女が15歳になった頃から、その時、彼女が感じた心情を、日記代わりに詩として書き留め、その詩に合わせて、ギターで弾き語りをするようになります。
そして、その頃聞いた、アヴリル・ラヴィーンのアルバム『LET GO』に衝撃を受け、「10代の女の子でも、こんな音楽がやれるんだ」と、彼女自身も音楽の道を志すようになるのでした。
やがて、YUIは地元・福岡天神のストリートミュージシャンとの出会いから、自らもストリートミュージシャンとして街角に立つようになります。さらに、福岡のミュージックスクール、音楽塾ヴォイスに入って作詞・作曲の勉強もし始めます。
そして、2004年2月、YUIは、音楽塾ヴォイスのスタッフの薦めもあって、ソニーミュージックグループのSDオーディションに応募します。
「オーディションの参加者は、スタンドマイクを前に歌っていたんですが、彼女は自分の順番になると、会場の中央に歩み寄り、いきなりあぐらをかいて座って、アコースティックギター1本の弾き語りスタイルで歌い始めたんです。それはまさに、彼女がストリートで歌っていたスタイルでした。
それと、最終審査は、参加者が2曲ずつ歌うルールだったんですが、彼女は2曲歌った後、どうしても、もう1曲聴いて欲しいと言って、3曲目を歌い始めたんです。本当はルール違反でしたが、彼女の歌から、何か引きつけられるものを感じていた審査員は、彼女だけ特別に3曲目を歌うことを認めたんです」。
市原さんは、当時のオーディションの様子について、こう語ってくれました。
こうして、見事SDオーディションに合格したYUIは、ソニーミュージックグループ内の各レーベルが争奪戦を繰り広げた後、ソニーミュージック・レコーズと契約します。
その年の9月に上京したYUIは、早速レコーディングをスタート。まずは、九州地区限定で、インディーズシングル「It's happy line」を、12月にリリース。そして、翌2005年2月に、シングル「feel my soul」で待望のメジャーデビューを果たすのでした。
2005年2月、YUIがリリースした1stシングル「feel my soul」は、フジテレビ系の、いわゆる月9ドラマ、『不機嫌なジーン』の主題歌として起用されます。
「彼女の透明感溢れる声、もがきながらも必死に前を向いて進んでいこうとする姿を描いた歌詞が、
ドラマプロデューサーの目に留まって、デビューシングルがいきなり"月9"ドラマの主題歌に起用されるという、異例の扱いでのデビューとなり、たくさんの人達に、この曲を聴いてもらうことができました。
そして、この曲を聞いたファンはもちろん、音楽関係者の間からも、YUIが書く歌詞の世界に、多くの共感が寄せられたんです。彼女は、中学生の頃から、日記の代わりに彼女自身の身の回りで起こった出来事や、感じたことを詩として書き留めていて、それを曲作りのヒントにしていました。だから、
YUI自身が日々の中で感じたことが、歌詞や曲になっていく。つまり、YUIの曲は、彼女からのメッセージでもあるんですね。だから共感を呼ぶんです」。
"月9ドラマ"でのデビューにつづいて、その年の夏には、野外ロックフェスティバル「ROCK IN JAPAN FES.2005」に出演するなど、周囲の期待に後押しされる形で、デビュー直後から、様々なチャンスと、チャレンジの機会を与えられていくYUI。そして、その彼女に、今度は映画の主役と、その主題歌を歌うというチャンスが巡ってきます。
それは2006年6月に公開された映画『タイヨウのうた』で、YUIは、主役である、不治の病に侵された女性シンガーソングライター、雨音薫を演じ、さらに、主題歌「Good-bye days」を、YUI for雨音薫名義でリリースするのでした。
2006年6月に、YUI for雨音薫名義でリリースしたシングル「Good-bye days」は、セールスチャート最高位3位、約20万枚の売上を記録します。
映画『タイヨウのうた』でのシンガーソングライター役で、演じることと、歌うことを見事にシンクロさせることに成功したYUIは、女性シンガーソングライターとしての知名度をUPさせていきます。
「「Good-bye days」がヒットしたことで、YUIの音楽性に大きな変化があったわけではありませんが、ひとつ変わったのは、YUIの曲作りに関しての貪欲さです。この曲をキッカケに、音楽関係者、そしてファンが、彼女をシンガーソングライターとして評価するようになってきたことを、彼女自身も肌で感じ、
自覚することで、曲作りに対する意識が高くなったんです」。
貪欲に作品作りに取り組むようになったYUIは、自分が作った曲のフレーズを、今まで以上に積極的に、他の人間に聴かせるようになります。
「2006年の11月頃に、ソニーレコードの会議室で、作曲中の幾つかの曲のフレーズを、YUI自身の弾き語りで、聴かせるという会があって、その場で、この曲のフレーズを、他のスタッフたちと一緒に初めて聴きました。スタッフみんな、フレーズの一部分を聴いた瞬間、これはシングルとしてリリースできるかもしれないと感じ、急遽、ソニーレコードのビルの地下にあるスタジオで、忘れない内に、そのフレーズだけを録音したんです。それが、後にサビとなる部分でした」。
「それから、メロディが完成し、次に、YUIが歌詞を書いてきたんですが、その歌詞には、"恋してる、メールで届くメッセージ"といった、大好きな人の事を想う、女の子の恋心がストレートに書かれていたんです。僕らは、彼女がそんな、恋心をストレートに書くなんて想像していなかったので、正直驚きました」。
こうして、YUIが、甘酸っぱい女の子の恋模様を書いた、8枚目のシングル「CHE.R.RY」は、2007年3月にリリースされるのでした。
2007年3月にリリースされた、YUIの8枚目のシングル「CHE.R.RY」は、au「LISMO」のキャンペーンソングに起用されたこともあって、セールスチャート最高位2位を記録します。
「この曲は、彼女にとっては特別な曲というよりも、当時の彼女自身の等身大の気持ちが詰まった曲だと思います。ただ、春のキャンペーンソングに起用された事もあって、メディアでの露出が増えて、シンガーソングライターYUIの魅力を、より多くの人達に知ってもらうことができた曲になったと思います」。最後に市原さんは、こう振り返ってくれました。
春の訪れと、ふくらむ恋心が、キャッチーなメロディに見事にシンクロした
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.コンプリケイテッド/アヴリル・ラヴィーン
M2.feel my soul/YUI
M3.Good-bye days/YUI for 雨音薫
M4.CHE.R.RY/YUI
185回目の今日お届けしたのは、「河口恭吾/桜」でした
「僕が彼に初めて出会ったのは、2000年12月のことでした。彼の担当マネージャーになることになって、路上ライブを行っていた彼のところへ挨拶に行ったんです。優しく、聴く人を和ましてくれる彼の歌声が、とても印象的でした」。
現在も、河口恭吾のマネージャーを務める、渡邉さんは、彼との出会いをこう振り返ります。
1974年10月、栃木県佐野市に生まれた河口恭吾は、地元の中学校を卒業後、1990年に栃木県立足利南高校に進学。翌1991年、彼が高校二年の時に、同級生が彼をバンドに誘ったことが、彼の音楽人生のはじまりとなります。
「河口恭吾の友人達が作っていたバンドのボーカルが、学園祭直前になって、突如脱退したんだそうです。それで、ただ声が特長的だったという理由で、それまで、音楽とは縁もゆかりも無かった河口が、ボーカルとして引っ張り出されたんです。
急遽、学園祭のステージに立たされた河口恭吾だったんですが、これがきっかけで、歌を歌うことに夢中になり、学園祭が終わってからも、友人たちのバンドで、タイマーズ、ユニコーン、ジュン・スカイ・ウォーカーズなど、当時流行りのバンドのカバー曲を歌うようになったんです。
ところが、彼らが高三になると、受験勉強や就職活動でバンドの練習を欠席するメンバーが相次ぎ、彼は、思うように歌を歌えなくなったんです。そんな時、友人から、ギター1本での弾き語りをすすめられ、彼はギター抱えての、弾き語りを始めたんです」。
バンドから、弾き語りでの活動に重点を置くようになった河口恭吾は、1993年春、高校卒業と同時に、音楽で生活していくことを夢見て、上京します。
河口恭吾は、アルバイト生活の傍ら、都内のライブハウスを中心に音楽活動を続けて、彼が20歳の時に、現在の所属事務所の社長から声を掛けられます。
「社長は、彼の歌声に魅かれたそうで、その後も、頻繁に彼のライブを観に出掛け、2001年に今の事務所を立ち上げる直前に、彼と正式にアーティスト契約を結び、まずはインディーズレーベルから1stシングルをリリースすることを決めたんです」。
こうして、2000年11月、河口恭吾は1stシングル「真冬の月」をリリースするのでした。
「この頃の彼は、自分がいったいどんなアーティストになりたいのか、はっきりとした方向性も決まらないまま、歌っていたんです。幸いにも、彼の歌声に興味を持った、FM大阪のスタッフが、ラジオで頻繁に曲を流してくれたおかげで、彼は、都内だけでなく、大阪でも定期的にライブを行えるようになっていました」。
その後、河口恭吾は、レコード会社「日立マクセル イーキューブ」とメジャー契約を結び、2002年2月に2ndシングル「ガーベラ」をリリースします。
「河口恭吾が、2ndシングル「ガーベラ」をリリースした直後、今度は、FM滋賀のスタッフが、彼の歌声に興味を持って、レコード会社に問合せをしてきたんです。それがキッカケで、河口恭吾は2002年4月からFM滋賀でスタートした情報番組『サタシガ』のパーソナリティに起用されることになるんです」。マネージャーの渡邉さんは、当時についてこう振り返ります。
再び、関西のFMラジオをキッカケに、河口恭吾の名前を多くの人達に知ってもらうチャンスを掴んだ彼は、FM滋賀での、番組リスナーとのやり取りの中から、曲を作り、2002年8月に3rdシングル「オメガの記憶」としてリリースするのでした。
2002年8月に、河口恭吾がリリースした3rdシングル「オメガの記憶」は、彼がパーソナリティを務めていたFM滋賀のみならず、その歌の歌詞が野球を題材に作っていたことから、同じ滋賀県のTV局「びわ湖放送」の高校野球中継のテーマソングにも起用されて、話題を集めます。
「地方限定でしたが、2ndシングル、3rdシングルと、続けて評価を得たことで、彼は少しずつ自信を掴みかけていました。そこで、次はアルバムを発売しようということになり、彼が春から書き溜めていた曲を、まずはスタッフが聴くことにしたんです」。
2002年夏の終わり、河口恭吾が春から書き溜めていた曲を、彼はスタッフの前で披露します。
「この曲は、実は、サビの部分しかできていなかったんですが、彼がその時歌った中でも、特に強く印象に残ったんです。それで、サビだけでなく、ちゃんと曲にするように、河口にオーダーしました」
河口恭吾は、サビだけだったこの曲に、Aメロ、Bメロを加え、メロディを完成させます。そして、そのメロディに、この曲を作った時に、彼が自分の部屋から見た、桜がひらひらと舞い落ちる情景を思い出しながら、歌詞をつけていきます。
こうして、この曲も含めた、河口恭吾の1stアルバム『STARS FROM DECADE~輝ける星たち~』は完成します。
「アルバムが完成し、全ての曲を聴いてみたんですが、この曲はアルバムの中でも、異質な存在感を示していたんです。彼が初めて作ったバラード曲ということもあったんですが、彼の特長とも言える
歌声が、他のどの曲よりも、いきいきと聴こえ、彼の持ち味が、滲み出てくるような気がしたんです。そこで、この曲をアルバムからのリード曲として、シングルカットすることにしたんです」。
こうして、2003年4月、満開の桜と共に、河口恭吾の4枚目のシングル「桜」はリリースされるのでした。
2003年4月にリリースされた、河口恭吾の4枚目のシングル「桜」は、リリース直後から7月まで、有線放送のお問合せチャートで1位を記録します。
「シングル「桜」の発売後に、所属レコード会社の日立マクセル イーキューブが解散し、河口はワーナーミュージック・ジャパンに移籍したんです。しかし、発売から半年以上経った秋になっても、有線放送に「桜」をリクエストする人が後を絶たず、ワーナーミュージック移籍第1弾シングルとしてこの「桜」を、あらためてリリースすることが決まったんです。」
2003年12月にあらためてリリースされた桜は、その年の冬を越え、春を迎える頃にはチャートを駆け上り、オリコン最高位4位、2004年の年間チャートでも9位を記録します。また、その年の暮れには、この曲で、紅白歌合戦にも出場します。
「ラジオを通して、彼の持ち味である、優しい歌声が評価され、さらに、有線放送を通じて、多くの人達からの支持を集めることができました。彼自身も、この曲を通して、シンガーソングライター河口恭吾としての進むべき道を見つけることができたと思います」。
最後に、マネージャーの渡邉さんは、こう振り返ってくれました。
一度膨らんだつぼみが、レコード会社の解散という不運も乗り越えて、1年がかりで、花を咲かせることが出来た、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.デイ・ドリーム・ビリバー/タイマーズ
M2.真冬の月/河口恭吾
M3.オメガの記憶/河口恭吾
M4.桜/河口恭吾
184回目の今日お届けしたのは、「エレファントカシマシ/俺たちの明日」でした
1982年春、高校入学を控えた宮本浩次は、彼の中学時代のクラスメイトだった、石森敏行、冨永義之に誘われて、彼らが作っていた5人組ロックバンド「エレファントカシマシ」にボーカルとして参加します。
エレファントカシマシは、ディープ・パープル、レインボー、RCサクセションなどのカバーバンドとして活動していましたが、宮本浩次加入後は、彼が作ったオリジナル曲を中心に演奏するようになります。
1986年、エレファントカシマシは、メンバー3人が脱退しますが、冨永の高校時代の同級生の高緑成治が新たに加入し、4人組バンドとして再スタートします。さらにこの年1986年12月に、CBSソニーオーディションに出場し、ユニコーンと共に入賞を果たします。
翌1987年からは、都内近郊のライブハウスで定期的にライブを行って、メジャーデビューのチャンスをうかがうようになります。
荒削りで豪快なエレファントカシマシのロックサウンドと、宮本浩次が書く情緒豊かな歌詞は、次第に音楽関係者の間でも話題となり、この年、エピックレコードと契約。
そして、翌1988年3月、1stシングル「デーデ」と、1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』の同時リリースで、デビューを果たすのでした。
1988年3月、エレファントカシマシは、1stシングル「デーデ」と1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』をリリース。さらに、7月に2ndシングルをリリースした後、11月には2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI Ⅱ』を立て続けにリリースします。
宮本浩次は、当時のことを雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2009年5月号のインタビューの中で、次のように語っています。
「1stアルバムと、2ndアルバムは、デビュー前からの流れで作ったんです。僕は当時、レッド・ツェッペリンみたいなバンドになりたくて、歌詞は、太宰治のような詞を書きたかったんです」。
CDセールスは伸び悩んだものの、エレファントカシマシは、アマチュア時代から培ってきた、MCなし、アンコールなし、あげくの果ては、宮本浩次がライブ中に観客に説教を行うといった破天荒なライブで、一部の熱狂的なファンを獲得していきます。
しかし、1994年5月に発売した7枚目のアルバム『東京の空』を以って、エピックレコードとの契約が終了し、所属事務所も解散。エレファントカシマシは、窮地に立たされますが、彼らは自分達を振るい立たせるかのように創作活動に励み、自分達だけで全国のライブハウスを回るツアーを行って、再デビューのチャンスをうかがいます。
1995年秋、エレファントカシマシは、新しい所属事務所とレコード会社「ポニーキャニオン」と契約。
BOOWYなどを手掛けたことで知られるプロデューサー佐久間正英を迎えて、約2年ぶりとなるシングルを制作、翌1996年4月にリリースするのでした。
1996年4月にリリースされた、エレファントカシマシ10枚目のシングル「悲しみの果て」は、彼らがメジャーから離れていた時代に作って、ライブハウスなどではすでに演奏していた曲の一曲でした。
「この曲は、レコード会社との契約が切れ、給料が貰えなくて困っていた時代に、自分が思った気持ちを素直に歌詞に書いた曲のひとつです。契約が切れたことや、それ以外にも、自分の中で色々な悲しみや苦しみがあったけど、ライブハウスでお客さんに直接接して、歌うことで、新しい事にチャレンジしているという実感を、この曲から感じることができたんです」。
宮本浩次は、この曲、「悲しみの果て」が生まれた当時のことを、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2009年5月号のインタビューの中でこう語っています。
この曲をキッカケに、再び、日本のロックシーンの最前線に戻ってきたエレファントカシマシは、翌1997年7月に、フジテレビ系ドラマ『月の輝く夜だから』の主題歌「今宵の月のように」をリリース。彼らにとって、初のトップ10ヒットとなるチャート最高位8位、約70万枚近くのセールスを記録します。
その後、エレファントカシマシは、1999年にレコード会社をポニーキャニオンから、東芝EMIへと再び移籍。小林武史をプロデューサーに迎えてシングルを作ったり、完全セルフ・プロデュースでアルバムを作ったりと、作品作りにおいて試行錯誤を繰り返していきます。
そして2007年、エレファントカシマシは、レコード会社を東芝EMIからユニバーサルへ再び移籍。移籍第1弾となるシングルとして、前の年2006年に作って、大晦日に大阪で行われたカウントダウンライブで初めて演奏した曲を、ケツメイシなどを手掛けていた、YANAGIMANをプロデューサーに迎えてアレンジし直してリリースすることを決めます。
こうして、2007年11月に、エレファントカシマシ34枚目のシングル「俺たちの明日」はリリースされるのでした。
2007年11月にリリースされた、エレファントカシマシ34枚目のシングル「俺たちの明日」は、セールスチャート最高位18位を記録します。
「デビューから、エレファントカシマシというバンドに過大に期待した時期、宮本浩次という自分自身に過大に期待した時期、それから小林さんというメロディーメーカーに過大に頼った時期。色々ありました。今、改めて振り返ってみると、どれも正解でもないし、間違いでもない。この曲を作ったのも、偶然、もう一度バンドでやろうという流れが、僕らの中で生まれてきた時に、新しいレコード会社のスタッフと出会って、新鮮な気分に包まれて生まれてきた曲なんです。新しいスタッフと非常に密度の濃い時間を過ごす中で、どうアレンジしたら、僕らの音楽が聴く人達にきちんと届くのか、リハーサルにも膨大な時間をかけて計算し、その結果、初めは弾き語りに近い形だった曲が、サビの部分を曲の頭に持ってくることで、エレファントカシマシの良さが、聴く人に一番伝わる曲になることが分かって、生まれたんです」。
曲が完成した当時の様子について、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2007年12月号のインタビューで、宮本浩次はこう振り返っています。
自分達がロックバンドであることを彼ら自身が再認識した、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.スモーク・オン・ザ・ウォーター/ディープ・パープル
M2.デーデ/エレファントカシマシ
M3.悲しみの果て/エレファントカシマシ
M4.俺たちの明日/エレファントカシマシ
183回目の今日お届けしたのは、「サーカス/ミスター・サマータイム」でした
「サーカスは、もともとバンドとしてスタートするはずだったんです。そのバンドの女性ボーカルとして声がかかったのが、僕の姉、叶正子だったんです。」メンバーのひとりで、叶正子さんの実の弟・高さんは、初代サーカス結成のキッカケについてこう振り返ります。
家でいつもシャンソンや外国民謡を口ずさんでいた音楽好きの母親の影響で、長女・正子、長男・高、次男・央介の叶3兄弟は、子供の頃から、家族で、コーラスグループのように歌を楽しんでいました。
特に、長女の正子は、中学に入学すると、ファンクラブに入るほどビートルズの虜になったのをキッカケに、PPMや、日本のグループサウンズにも夢中になっていきます。
1972年、叶正子は、明治学院大学在学中にヤマハのボーカルオーディションに合格、1年に渡るレッスンの後、翌1973年に、女性3人でユニット「ピーマン」を結成し、当時のワーナーパイオニアからデビューします。
残念ながら、女性ユニット「ピーマン」は、シングル3枚をリリースしますが、ヒットには恵まれず、1年半余りで解散。しばらくは、ソロシンガーとして活動していた叶正子に、1976年、彼女の音楽人生を切り拓くチャンスが巡ってきます。
「カントリーをベースにしたアメリカン・ロックを得意としていたロック・ミュージシャンの菅憲さんが、バンド形式のグループを作りたいと考えて、菅さんの友人でエレキギターの名手だった茂村泰彦さんに声を掛けたんです。そして、次に声が掛けたのが、僕の姉・叶正子だったんです」。
「菅さんは、始めはバンド形式のグループを作ろう、という考えを持っていたんでが、当時契約したレコード会社「徳間音楽工業」の担当ディレクターが、楽器は持たずに、それまでの日本にはない混声の4人グループを作ろう、と菅さんに提案したんですね。菅さんも、その提案を受け入れて、メンバーをもう一人補充するために、急遽、正子が、オーストラリアで、モデル兼アーティストとして活躍していた従姉の卯月節子を誘って、初代サーカスが結成されたんです」。
こうして、1977年3月に、初代サーカスの1stシングル「月夜の晩には」が、リリースされるのでした。
1977年3月、初代サーカスがリリースした1stシングル「月夜の晩には」は、前の年の1976年9月に南佳孝がリリースしたアルバム『忘れられた夏』に収録されていた曲のカバーで、南佳孝自身のプロデュースでリリースされます。
「1stシングルをリリースした後、初代サーカスは、新しいレコード会社「アルファレコード」に、その第1号アーティストとして移籍したんですが、その直後、リーダーの菅さんと茂村さんが、自分達は、やっぱり楽器を持ったバンドスタイルで音楽活動をしたい、という理由で、脱退してしまったんですね。シングルのリリースもすでに決まっていたので、急遽メンバーとして呼ばれたのが、当時、オリジナル曲を作って歌っていた僕と、大学生の頃から劇団に籍を置きながら、新劇、喜劇、ミュージカルなど幅広いパフォーマンスにチャレンジしていた弟の央介だったんです」。
サーカスのメンバー、叶高さんはメンバーチェンジについてこう振り返ります。
こうして、新生サーカスは、1977年に誕生したばかりのレコード会社、アルファレコードの第1号アーティストとして、翌1978年にシングルをリリースすることが正式に決まります。そして、そのシングル候補曲として、レコード会社のディレクターは、あるカバー曲を歌うことを提案するのでした。
「この曲は、1970年代のフランスを代表するポップスシンガー、ミシェル・フュガンが、1972年にヒットさせた「愛の歴史」という曲です。実は、あるTV局の音楽プロデューサーがお気に入りだった曲で、"いつか日本でも、この曲のカバーをヒットさせたい"と、企画を長年温めていたもので、満を持して、レコード会社の担当ディレクターに提案したものだったんです」。
「愛の歴史」改め、「ミスター・メモリー」とタイトルが変更されたこの曲は、レコーディング直前に、アルファレコードの猛烈な売り込みによって、翌1978年夏の、カネボウ化粧品のキャンペーン・ソングとして使われることが決定します。これを受けて、アルファレコードは、CMソングのイメージに合うように、歌詞の一部に手直しを加え、タイトルも、さらに変えてリリースすることを決めます。
「歌詞を書き直すことを決めて、依頼したのが、作詞家の竜真知子さんでした。竜さんは、当時、キャンディーズの「ハートのエースが出てこない」や、狩人の「あずさ2号」などの歌詞を手掛けていた人です。担当ディレクターには、原曲のイメージは無視していいから、と言われたそうです」。
原曲の束縛から解き放たれた、作詞家の竜は、リードボーカルを務めることになっていた叶正子の声が、おしゃれで都会的なイメージを持っていることから、ヨーロッパの避暑地や大人っぽさ、といった言葉をイメージして歌詞を書き直します。
「完成した曲を初めて聴いた時は、メンバーみんな、なんて地味な曲なんだろうと思っていたんです。しかし、結果として、正子の声を意識して、書き直された歌詞と、マイナー調で、少しせつない感情を思い起こさせるメロディ。この二つが見事にマッチして、日本人の心に響いたのではないでしょうか。僕らにとっても、30年近くこの歌を歌い続けているんですが、何度もアレンジを変えてまで歌い続けたいと思える、本当にかけがいのない曲に成長していくことになるんです」。
こうして、1978年3月、新生サーカスとしての1stシングル「ミスター・サマータイム」はリリースされるのでした。
1978年3月に発売された、サーカスのシングル「ミスター・サマータイム」は、8月にセールスチャート1位を獲得。さらには、その年の「第20回日本レコード大賞」で、編曲賞を受賞します。
「ハーモニーは、練習に時間がかかるし、ステージ環境にも影響されるし、大変な事も多いんです。一人で歌ったら、どんなに楽だろうか、と考えることもあります。しかし、ハーモニーは決して一人ではできないんです。ハーモニーは、4つの声が重なりあって、初めて何とも言えない瞬間を作り出すんです。この曲も、正子がメインですが、残りの3人の声が重なった結果が、とてつもない力を生み出したんだと思います」。
最後に、メンバーの叶高さんはこう振り返ってくれました。
兄弟や親族だからこそ奏でることが出来た、J-POPコーラスの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Please Mister Postman/ザ・ビートルズ
M2.月夜の晩には/サーカス
M3.愛の歴史/ミシェル・フュガン
M4.ミスター・サマータイム/サーカス
182回目の今日お届けしたのは、「安全地帯/悲しみにさよなら」でした
1972年夏のある日、北海道旭川市立神居中学に通っていた玉置浩二は、同級生の武沢豊と、彼の兄・俊也を誘って、ドラマー抜きの3人組アコースティックバンド「インベーダー」を結成します。
「僕は、幼い頃から民謡が大好きだった祖母の影響で、歌を歌うことが大好きで、小学生の頃から将来は歌手になることを意識していたんです。中学に入学すると、小学校の頃から通信教育でギターを習っていたと言う武沢が、同じ中学に転校してきて、意気投合した僕らは、バンドを作ったんです」。
作家の志田歩さんが書いたノンフィクション本『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、玉置浩二自身は、当時をこう振り返っています。
1973年秋、バンド、インベーダーは、メンバー2人を加えて5人組となると同時に、バンド名を「安全地帯」と改め、その年のヤマハ ポピュラーソングコンテストの北海道地区大会に出場し、優秀賞を獲得します。アメリカのロック・バンド「ドゥービー・ブラザーズ」を意識した、アコースティック・ギターサウンドに、コーラス・ハーモニーを加えた安全地帯の評判は、地元・旭川を中心に拡がっていきます。
1976年10月、安全地帯はヤマハ ポピュラーソングコンテスト つま恋本選会に出場を果たし、その存在感を地元のみならず、北海道内へと拡げていきます。翌1977年には、同じ北海道のロック・バンド「六土開正グループ」のメンバーの3人が合流し、安全地帯は8人組バンドとなります。
1978年、新生・安全地帯は、旭川の郊外にあった廃屋を、バンド専用のスタジオに改造して合宿生活をスタート。デモテープを作る傍らで、およそ800人が収容できるホールを自分達で貸し切って、定期ライブを開催するようになります。
1978年11月、次のステップとして、東京への進出、プロデビュー考えていた彼らのもとへ、安全地帯のデモテープを聴いた、キティレコードのディレクター・金子章平が訪ねてきます。安全地帯の素直で洗練された音楽に可能性を感じた金子は、頻繁に旭川の彼らのもとを訪ねるようになります。
1981年7月、メンバーの脱退で、5人組となった安全地帯の下へ、金子章平が、自らがディレクターを務めていた井上陽水を連れて訪れ、彼らは井上陽水と数曲ほどセッションします。そして、その場で、金子は、安全地帯を井上陽水のライブツアーのバックバンドとして起用することを決めるのでした。
「井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです」。金子章平は当時のことについて、
『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、こう振り返っています。
一方の玉置浩二は、その時のセッションンについて、同じく、こう振り返っています。
「東京でのツアーリハーサルが始まった当初、プロとアマチュアの演奏レベルの差に驚き、自分達のオリジナル曲は演奏できても、井上陽水のバックバンドなんて、とても無理だと感じたんです。しかし、セッションを積み重ねる内に、これは絶対にチャンスだ、と思った僕は、自信を失いかけていた他のメンバーを必死で説得し、練習を積み重ねたんです。しばらくすると、自分達でも少しずつ満足できる演奏ができるようになり、音楽関係者も認めてくれるようになったんです。この時は自分達のデビューに向けたリハーサルも同時並行だったので、ほぼ丸二十四時間音楽漬けの生活を送っていました」。
こうして、安全地帯は、1982年2月に1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースするのでした。
1982年2月に、1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースした安全地帯は、自分達の作品作りの傍らで、引き続き井上陽水のバッックバンドとしても活躍。井上陽水のツアーの合間をぬって、10月に2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を、翌1983年1月には1stアルバム『安全地帯ⅠRemember to Remember』をリリースします。しかし、残念ながら、セールスは芳しくありませんでした。
井上陽水のバックバンドとしては、音楽関係者からの注目を集めていたものの、アーティスト安全地帯としては、その魅力を発揮することができない彼らに対して、スタッフは打開策として11月に発売を予定していたシングルの作曲を、井上陽水に依頼することを提案します。しかし、玉置浩二は、それを断り、自ら一週間部屋にこもって、曲を作りあげます。そして、その作り上げたメロディに、井上陽水が、ノート1冊丸ごと使うほど熟慮を重ねて歌詞を綴ります。こうして、1983年11月、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」はリリースされるのでした。
1983年11月にリリースされた、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」は、発売直後にサントリー「赤玉パンチ」のCMソングとして起用されたこともあり、ジワジワと売上を伸ばし、発売から4ヶ月が経った、翌1984年3月にセールスチャート1位を獲得し、売上も約71万枚を記録します。
その後も安全地帯は「恋の予感」「熱視線」などのヒット曲をリリース。1985年2月には、武道館での2日間のライブも成功させます。
1985年3月、玉置浩二は、初の香港でのライブツアー中に、宿泊先のホテルで、ある曲のアイディアを思いつきます。
「この頃の僕は、ライブ、レコーディング、メディア取材など毎日追われる生活が続き、曲のアイディアは、いつも滞在先のホテルで練る生活が続いていたんです。香港で作ったメロディに歌詞を書いたのは、アルバム『安全地帯Ⅱ』から作詞家として、安全地帯の曲作りに参加してくれていた松井五郎さんでした。松井さんが書く言葉の感性に惚れたスタッフが、僕に紹介してくれ、それ以来安全地帯の楽曲制作に加わってくれたんです。この曲も、松井さんが、井上陽水さんが歌詞を書いた「ワインレッドの心」や「恋の予感」から歌詞の書き方を学び、その経験をこの曲の歌詞に活かしてくれたんです」。
こうして、松井五郎が、井上陽水が書く歌詞の世界を参考に、シンプルな言葉で書いた、安全地帯9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、1985年6月にリリースされるのでした。
1985年6月にリリースされた、安全地帯の9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、セールスチャート1位を獲得、約44万枚の売上を記録します。
「アルバム『安全地帯Ⅱ』から始まった、玉置浩二のメロディアスな楽曲と、松井五郎が書くロマンチックな歌詞のコンビネーションというスタイルの完成形が、この曲だったと思います。安全地帯が目指していた、ジャンルや年齢も関係ない、誰もが認める普遍的なメロディが、聴く人に受け入れてもらえた証(あかし)でもあるんです」。玉置浩二は、ノンフィクション本『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、この曲についてこう振り返っています。
二人の天才クリエーターの出会いが、J-POPの名曲を産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Listen to the Music/ドゥービー・ブラザーズ
M2.萌黄色のスナップ/安全地帯
M3.ワインレッドの心/安全地帯
M4.悲しみにさよなら/安全地帯
181回目の今日お届けしたのは、「H2O/想い出がいっぱい」でした
「僕が初めてバンドを結成したのは、1973年の高校入学直後でした。中学時代の同級生、赤塩正樹君と、中島君の3人でビートルズのコピーバンド"スプリング・ブリーズ"を結成したんです。しばらくして、もう一人のメンバー藤森君が加わって、スプリング・ブリーズは、4人組となるんですが、月に1回、複数のバンドが地元の市民会館を貸し切って行うライブに出演するようになったんです」。
H2Oのメンバー、中沢堅司さんは、地元、長野県上田市で、はじめてバンドを結成した当時についてこう振り返ります。
「始めはビートルズのコピーばかり演奏していた僕らでしたが、少しずつ、オリジナル曲を作って演奏するようになったんです。東京で自分達の音楽の腕を試してみたい、と思った僕と赤塩君は、高校を卒業するときに、東京の大学で勉強したい、と親に嘘をついてそれぞれ東京の学校に進学しました。他のメンバーもそれぞれ上京して、しばらくの間は、みんなでバンド活動を続けていたんです。
でも、次第に他のメンバーとの練習スケジュールが合わなくなってバンドは自然消滅。どうしても、
音楽活動を続けたかった僕と赤塩君は、1976年にユニット「H2O」を結成したんです。全く別々の個性を持った人間が一緒になることで、化学反応を起こし、新しい個性が生まれる、という願いを、この、
ユニット名には込めました。
中学時代から、お互い、お気に入りの洋楽レコードを貸し借りしたりして、とにかく洋楽大好きだった僕と赤塩君は、英語で歌ったオリジナル曲ばかりを収めたデモテープを作ったんです」。中沢さんは、当時についてこう振り返ります。
試行錯誤を重ね、H2Oが作ったデモテープは、二人の知人を通して、キティレコードのスタッフの手に渡ります。
そして、そのデモテープがきっかけで、1980年6月、H2Oは、1stシングル「ローレライ」でデビューするのでした。
1980年6月にリリースされた、H2Oの1stシングル「ローレライ」は、薬師丸ひろ子主演の映画『翔んだカップル』の挿入歌として起用されます。
「この曲は、僕が16歳の時に初めて作った曲で、当時大好きだった、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」をモチーフに作ったんです。1stシングルの候補曲は数曲あったんですが、まさか、僕が16歳の時に作った曲が選ばれるなんて、正直驚きました。自分が作った曲が選ばれて嬉しい気持ちもあったけど、その曲以降に僕が作った曲が否定されているようで、複雑な気分にもなりましした」。
H2Oは、1stシングル「ローレライ」に続き、今度は10月からフジテレビ系で放送がスタートしたTV版『翔んだカップル』の主題歌を歌うことも決まります。「映画版の挿入歌は、僕らが作った曲が起用されたんですが、TV版は僕らの曲を含む、幾つかの候補曲が用意されていたんです。
番組プロデューサーの考えで、TV版では歌謡曲路線の曲を起用したいという方針があって、残念ながら、僕らが作った曲は使ってもらえず、最終的には来生えつこさんが作詞、来生たかおさんが作曲を手掛けた曲が選ばれたんです。自分達が作った曲を使ってもらえない悔しい気持ちもありましたが、小さい頃から洋楽志向だった僕らは、歌謡曲路線の曲は書けなかったので、半分諦めもありました」。
こうして、1980年11月、TV版『翔んだカップル』の主題歌に起用されたH2Oの2ndシングル「僕等のダイアリー』がリリースされるのでした。
2ndシングル『僕等のダイアリー』をリリース後も、H2Oの二人は、彼らが幼い頃から憧れてきたザ・ビートルズ、キャロル・キングなどの、洋楽を意識したオリジナル曲を作り続けていきます。
「自分達が作った曲でヒットを飛ばしたいと思っていましたが、なかなか簡単にはいかず、歌詞は作詞家の方々に書いてもらう場合が多かったんです。ジレンマとの戦いでもありました」。中沢賢司さんは、当時についてこう振り返ります。
ジレンマを抱えながら、歌い続けていたH2Oの下へ、1982年暮れ、再びアニメ主題歌を歌うチャンスが巡ってきます。
「所属レコード会社のスタッフから、翌年の1983年3月にフジテレビ系で始まるアニメ『みゆき』の主題歌とエンディング曲を歌って欲しい、という話が舞い込んだんです。『翔んだカップル』の主題歌を歌った実績が評価されて、僕等が指名されたんですね。ただし、この時も僕らが作った曲ではなく、あくまで作家が作った曲を歌うことが条件だったんです」。
「作曲家の鈴木キサブローさんが作ったデモテープを初めて聴かせてもらった時、いい曲だな、と思ったし、1970年代にアメリカで流行った、ウエスト・コーストサウンドを意識した、骨太で男っぽい雰囲気が印象的でした。サビのメロディも分かりやすく、いったいどんな歌詞が付くのか楽しみだったんです。
ところが、当時、山口百恵さんのヒット曲などを手掛けてきた阿木燿子さんが作られた歌詞は、メロディとは全く正反対で、女性っぽいイメージを感じたんです。歌詞とメロディのバランスは大丈夫なんだろうか、レコーディング当日まで僕等は心配していたんですが、その心配は直ぐに吹き飛んだんです」。
1983年3月にリリースされた、H2Oの5枚目のシングル「想い出がいっぱい」は、彼らにとっては初めてセールスチャートにランクインし、最高位6位、約40万枚の売上を記録します。
「阿木燿子さんが、思春期の恋人たちを主人公に、別れや旅立ちをイメージさせる言葉で綴った歌詞は、卒業式シーズンにレコードが発売されたこともあって、多く人達が、歌詞の主人公と自分達を置き換え、共感を呼ぶことになりました。翌年以降も卒業式や合唱祭で歌ってもらえるようになったんです。
1985年にH2Oを解散した直後は、余りにも曲が持っているイメージが強く、僕はこの曲を歌うことを封印していたんです。しかし、僕が30歳の後半に差し掛かったある日、偶然家の近所を散歩していた時に、近くにあった杉並中学校の教室から、学生達がこの曲を歌っている歌声が聴こえてきたんです。その瞬間、曲が発売された時は、まだ産まれてもなかった学生達が、こうやってH2Oの曲を歌ってくれていることに対して、嬉しい気持ちと、この曲を封印していた自分のカッコ悪さが同時に込み上げてきたんです。自分が作った曲ではないけれど、みんなに愛され続けているこの曲を歌ったことに改めて誇りを感じた僕は、それ以来、この歌を再び歌い始めて、今では宝物のように大切な曲になっています」。
中沢さんは最後にこう語ってくれました。
アーティストのこだわりさえも捨てさせる、J-POP卒業ナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ぺニー・レイン/ザ・ビートルズ
M2.ローレライ/H2O
M3.僕等のダイアリー/H2O
M4.想い出がいっぱい/H2O
180回目の今日お届けしたのは、「海援隊/贈る言葉」でした
「僕が彼らに初めて出会ったのは、1978年12月でした。僕は、その年の春に、ポリドールレコードに移籍してきた彼らのアシスタントディレクターを担当することになって、スタジオで挨拶を交わしたんです。当時は、彼らの名前と、数曲、曲を知っている程度でした」。
海援隊の担当ディレクターを務めている、中川さんは当時についてこう語ります。
1971年、西南学院大学に通っていた中牟田俊男は、高校の同級生・武田鉄矢らとアメリカン・フォークグループ「ヤングラディーズ」を結成。CSN&Yの曲を中心としたカバーバンドとして活動を始めたヤングラディーズでしたが、次第に、オリジナル曲も作って歌うようになります。
しかし、音楽性の食い違いからメンバーの脱退が相次ぎ、中牟田と武田の二人きりとなったヤングラディーズは、中牟田の音楽仲間だった千葉和臣を新たにメンバーに加え、バンド名を「海援隊」と改め、再スタートします。
「ヤングラディーズ時代から、地元福岡のライブハウス「照和」を中心に活動していた海援隊は、メジャーデビュー直前のチューリップと並んで、人気バンドのひとつだったそうです。1972年の1月に、チューリップはレコードデビューに向けて上京するわけですが、ライバルバンドの飛躍に刺激を受けた海援隊も、メジャーデビューのチャンスを虎視眈々と狙っていたそうです。
そんな時、博多で行われた泉谷しげるのライブの前座を、海援隊が務めることになって、その、ライブ終了後に、メンバーが泉谷さんに挨拶に行ったそうなんです。その時、泉谷しげるが、海援隊のメンバーに、レコードを出したければ、エレックレコードにおいで、と誘ったそうです」。
泉谷しげるの誘いを、絶好のチャンスと捉えた海援隊は、泉谷の言葉を信じて上京し、エレックレコードとメジャー契約を結びます。
「後に、泉谷しげる本人に確認したところ、彼は社交辞令のつもりで海援隊に誘いの声を掛けたそうなんですね。それなのに、泉谷の言葉を真に受けた海援隊がいきなり上京して来たので、エレックレコードのスタッフも困り果てたんですが、最終的には海援隊の音楽性を評価して、メジャー契約を結んだそうです」。海援隊以外にも、泉谷しげるの担当ディレクターを務めたこともある中川さんは、海援隊のデビューの真相について、こう振返ります。
こうして、海援隊は、ライバルのチューリップのデビューから遅れること4ヵ月後の1972年10月に、アルバム『海援隊がゆく』でデビュー。翌1973年10月にリリースされた2ndアルバム『望郷篇』に収録された、武田鉄矢の、実の母親・イクに宛てたメッセージソングが、海援隊の人気に火を付けることになります。
1973年10月にリリースされた、海援隊の2ndアルバム『望郷篇』に収録された曲「母に捧げるバラード」は、アルバム発売後に人気を集め、急遽12月に2ndシングルとしてリリースされます。
そして翌1974年大晦日、海援隊は、この曲「母に捧げるバラード」で、NHK紅白歌合戦に初出場を果たします。
「紅白出場を果たしたものの、海援隊はその後、レコードセールスが伸び悩み、翌1975年には心機一転、レコード会社をテイチクに移籍します。ただ、それでも、彼らを取り巻く環境は変わらず、武田、中牟田、千葉の3人は、歌手活動の傍らで、生活していくためにアルバイトを始めるんですね。紅白出場からわずか1年後の、1975年の大晦日に、武田は皿洗いのアルバイトをしていたそうです」。
バンドとしての存続危機に追い込まれていった海援隊でしたが、彼らは歌を歌うことを諦めず、地道に活動を続けていきます。そして1977年1月にリリースした、8枚目のシングルが、彼らを再浮上させるキッカケとなります。
1977年1月に海援隊がリリースした8枚目のシングル「あんたが大将」は、「母に捧げるバラード」以来、およそ4年ぶりにセールスチャートにランクインし、最高位40位を記録します。
「シングル「あんたが大将」のヒットをキッカケに、再び注目を集めるようになった海援隊ですが、この年1977年は、彼らにとって、もう一つの大きな節目となる一年となったんです。それは、この年の10月に公開された、高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』に、武田鉄矢が出演。俳優としては全くの素人だった武田鉄矢は、映画監督の山田洋次監督に徹底的に鍛えられて、役者としての才能が開花。その年の、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を獲得するまでになったんです。そして、歌手としてではなく、俳優として注目を集めるようになった武田鉄矢の下には、俳優としてのオファーが続々舞い込むようになったんです」。
1979年、歌手としての活動を続ける傍らで、俳優としても活動を続けていた武田鉄矢の下へ、あるテレビドラマ主演のオファーが舞い込みます。
「その年の10月からスタートする学園ドラマの主演に、武田鉄矢を抜擢することを決めたのは、TBSのドラマプロデューサーの柳井満さんと、脚本家の小山内美江子さんでした。この学園ドラマは、いわゆる1970年代前半に放送された、青春学園ドラマタイプのストーリー展開ではなく、中学3年生という多感な世代を主人公に、当時実際に社会問題となっていた、学校を取り巻く様々な問題をテーマにしたものでした。それで、柳井さんや、小山内さんは、二枚目的な俳優よりも、映画『幸福の黄色いハンカチ』で人間味溢れる演技力を魅せた、武田鉄矢がうってつけだと判断したそうです」。
ドラマの主人公に抜擢された武田鉄矢は、自らが率いるバンド海援隊が主題歌を手掛けることを提案。スタッフサイドから了承された、海援隊は武田鉄矢が歌詞を書き、千葉和臣がメロディを作ります。
「武田が、男女の別れをテーマに歌詞を書いたこの曲を初めて聴いた時、僕たちスタッフは、みんな、何か暗いイメージの曲だと言ったんです。ただ、当時は、主題歌の提供や、CMタイアップについてレコード会社も余り積極的ではなく、そのままリリースOKの指示を出したんです」。
「リリース直後は、僕もサンプルレコードを持って、全国のラジオ局を回ったんですが、反応が鈍く、この曲は売れないかもなぁ、とスタッフ一同諦めかけていたんです。ところが、発売1ヵ月後の、12月に入ってから、レコード売上が急上昇、毎日レコードの注文が入るようになったんです。初めは何が起こったのか分からなかったんですが、調べてみると、ドラマが、十五歳の妊娠をテーマに展開し始めた直後から、テレビの視聴率が急上昇し、その相乗効果でレコードの売上も上昇し始めていたんです」。
こうしてTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の視聴率の上昇と共に、11月に発売された、海援隊の17枚目のシングル「贈る言葉」のセールスも上昇していくのでした。
1979年11月にリリースされた、海援隊の17枚目のシングル「贈る言葉」は、セールスチャート最高位1位、発売から約9ヵ月もチャートにランクインし続け、約100万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「当時は、卒業式と言えば、まだ「仰げば尊し」を歌っていた時代で、J-POPで、卒業式に歌われる曲は全くと言っていいほどありませんでした。
もともとは、ラブソングとして生まれた曲が、ドラマの視聴率上昇と共に、相乗効果で主題歌を聴いた人の心を掴み、クラスメイトや、お世話になった人達に想いを馳せる卒業シーズンには、欠かせない歌として生まれ変わったんです。この曲が生まれた背景にあるのは、間違いなく武田鉄矢の俳優としての演技力です。歌手としての才能が巧く開花し切れない中で、その陰に隠れていた彼の演技力が評価され、この曲は生まれたんです」。
最後に、中川さんはこう語ってくれました。
個性派俳優、武田鉄也の人気を確立させた、J-POP卒業ソングの誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Teach Your Children/クロスビー,スティルス,ナッシュ&ヤング
M2.母に捧げるバラード/海援隊
M3.あんたが大将/海援隊
M4.贈る言葉/海援隊
179回目の今日お届けしたのは、「太田裕美/木綿のハンカチーフ」でした
1955年1月、東京都荒川区で町工場を営む太田家の長女として生まれた太田裕美は、幼い頃から、TVのバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』から流れてくる、ザ・ピーナッツ、森山加代子らの歌声に夢中になり、8歳の時からピアノを習い始め、小学3年の時には、ピアノで初めて曲を作ります。
音楽の世界に惹かれていった太田裕美は、1967年4月、東京・上野学園中学・声楽科に進学、中学三年になると渡辺プロダクションのタレント養成所「東京音楽学院」にも通い始めます。
「彼女が東京音楽学院に入った一番の理由は、当時、渡辺プロダクションに所属していた人気GSグループ"ザ・タイガース"に会うためだったそうです。」
太田裕美の担当ディレクターを務めた白川隆三さんは、デビュー後に彼女から聞かされた話についてこう語ります。
東京音楽学院で、歌やダンスなどを習い始めた太田裕美は、直ぐにバックダンスチーム「スクールメイツ」に加入、さらに1973年1月にNHKのテレビ音楽番組『ステージ101』のメンバーオーディションにも合格。番組の中で、洋楽のカバー曲やオリジナルソングを歌っていくようになります。
「僕が彼女に初めて会ったのは、1973年でした。渡辺プロダクションのマネージャーから、彼女を紹介され、ライブハウスで、ピアノの弾き語りで歌う彼女を観たんです。彼女は、清潔感溢れ、清楚なお嬢さんというイメージがピッタリでした」。
白川さんは、太田裕美との初めての出会いについて、当時をこう振り返ります。
翌1974年春、太田裕美はNHK『ステージ101』の放送終了と共に、渡辺プロダクションと新人養成契約を結び、その年の11月に、1stシングル「雨だれ」でデビューするのでした。
1974年11月、太田裕美は、元はっぴいえんどの松本隆が作詞、南沙織などを手掛けていた筒美京平が作曲を手掛けた、シングル「雨だれ」でデビューします。
「彼女は、僕がディレクターとして初めて手掛けたアーティストなんです。当時は、小坂明子など女性シンガーソングライターが脚光を浴び始めていた時代で、僕も最初は、彼女をシンガーソングライターとして育てていくつもりだったんです。ところが、当時僕の上司だった酒井政利さんから、"ディレクターとして初めて手掛けた新人が売れなかったら、ディレクターとして大成しない"と言われ、プレッシャーを感じた僕は、失敗しないためにも、太田裕美のデビュー曲は、作家が作った曲を歌わせることにしたんです」。
松本隆、筒美京平が手掛けた、太田裕美のデビュー曲「雨だれ」は、セールスチャートは最高位14位、約18万枚の売上を記録し、新人としては、まずまずのスタートを切ります。その後も太田裕美は、翌年の1975年2月に1stアルバム『まごころ』を、4月に2ndシングル「たんぽぽ」を発売。さらに、6月には「まごころコンサート」と題した初ライブも開催。清楚で愛らしいルックスだけでなく、独特の声質と歌唱力、さらにはギターや、ピアノの弾き語りをこなすなど多彩な魅力を持つ太田裕美は、歌謡界だけではなく、当時のフォーク界からも注目を集めるようになっていきます。
1975年8月に、太田裕美は3枚目のシングル「夕焼け」をリリースしますが、セールスチャートは最高位37位、売上も約6万枚という結果に終わります。
「6月の初ライブ以降、定期的にライブも行って、彼女自身の人気は高まっていたんですが、レコードのセールスは伸び悩んでいました。酒井さんから言われた"初めて手掛けた新人が売れなかったら、ディレクターとして大成しない"という言葉が、頭の中をよぎりました。売らなくちゃいけない、という焦りみたいなものを心の奥で感じていた中で、12月に発売を予定していたアルバムのレコーディング作業がスタートしたんです。そして、その作業中に、僕はある曲に注目したんです」。
当時、ディレクターを務めていた白川さんは、アルバム用に松本隆さんが歌詞を、筒美京平さんがメロディを書いた曲に注目します。
「僕はそれまで、アルバム用に作った曲をシングルカットするつもりはなかったんですが、この曲だけは違っていました。歌詞、メロディいずれも特長的で、思わずシングルカットしたくなったんです。
普通、歌詞というのは、ひとつの曲の中で、ひとつのストーリーを完結させるものです。ところが、松本さんが書いたこの曲の歌詞は、1コーラスの中で、ひとつのストーリーが起承転結する、珍しいスタイルだったんです」。
「またメロディも、普通は1コーラスの中で、同じ音楽コードを繰り返し使って曲を構成するケースが大半なんですが、この曲は1コーラスの中で、同じ音楽コードを全く使っていないんです。メロディを作った筒美さん曰く、彼が今まで3000曲近く作った中で、こんな形で作った曲は唯一この曲だけなんだそうです」。
「特長的な歌詞とメロディで作られたこの曲を、シングルカットしたいと思った僕は、他のスタッフと議論し、急遽この曲をシングルカットすることにしたんです。
ただ、もともとアルバム用として作られたこの曲の長さは、約5分もありました。当時、ラジオで流してもらうためには、1曲あたり約3分半の長さが適正だったので、急遽、アレンジャーの萩田光雄さんに直してもらうことにしたんです。歌詞とメロディの両方を短くすると、曲が持つイメージが壊れるので、萩田さんと、メロディを作った筒美さんの二人が相談しながら、曲を少し短くしたんです」。
こうして、3枚目のアルバム『心が風邪をひいた日』リリース直後の、1975年12月、太田裕美の4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」は、発売されるのでした。
1975年12月にリリースされた、太田裕美の4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」は、セールスチャート最高位2位、半年近くもチャートにランクインし続け、約87万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「歌詞、メロディ、そしてアレンジ。曲を作る上で欠かせない、三つの要素が、まるでパズルのようにピタリとはまったこの曲"木綿のハンカチーフ"は、文字通り、彼女を代表する曲へと成長を遂げていきました。ただ、その一方で、彼女は、この曲が持つ強いイメージに抵抗を感じて、歌うのが嫌な時期もあったようです。
しかし、時間の経過と共に、この曲を歌うことへの抵抗感も拭われて、今では、彼女自身も、この曲を歌うことに喜びを感じているようです」。最後に、白川さんは、こう語ってくれました。
筒美京平、松本隆、萩田光雄、そして太田裕美。4人の出会いが、J-POPの歴史を切り開いた名曲を、生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.花の首飾り/ザ・タイガース
M2.雨だれ/太田裕美
M3.夕焼け/太田裕美
M4.木綿のハンカチーフ/太田裕美
178回目の今日お届けしたのは、「チューリップ/虹とスニーカーの頃」でした
「僕の音楽の礎になっているのは、ビートルズです。実は、中学生の頃は、ラジオからビートルズの曲を流れてきても、ただ、うるさい、としか感じられなくて、余り好きではなかったんです。それが、16歳の時に映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』を観た時から、ビートルズに対する考え方が変わったんです。彼らの音楽が、なぜ人々を惹きつけるのか、その魅力がやっと分かったんです。それ以来、ビートルズの虜になった僕は、1966年に彼らが初来日した時も、浪人中にも関わらず、夜行列車に乗って東京までライブを観に行ったんです」。
チューリップのリーダー財津和夫さんは、当時をこう振り返ります。
1948年2月、福岡市に生まれた財津和夫は、彼が高校生の時にザ・ビートルズの初主演映画を観た事をキッカケに、音楽に夢中になり、独学でギターを弾くようになります。1967年春、西南学院大学に入学した財津和夫は、仲の良かった友人3人とフォークソンググループ「フォーシンガーズ」を結成します。
「「フォーシンガーズ」を結成して、地元のライブハウスを中心に活動を続けていたんですが、音楽性の違いからメンバーの一人が脱退し、新たなメンバーを加えた後に、バンド名を「チューリップ」に改めたんです。バンド名は、大好きだったザ・ビートルズが創ったレコードレーベル「アップル」に影響を受け、その「アップル」の語感に近い言葉を探した結果辿り着いたのが、この「チューリップ」だったんです」。
1971年、チューリップは東芝エキスプレス・レーベルから、福岡県限定で自主制作盤のシングルレコードをリリースします。
「高校生の頃から、プロのミュージシャンになる事を考えていた僕は、自主制作盤をリリースした頃から、上京してミュージシャン活動を本格化したいと考えるようになったんです。しかし、大学卒業も近づき、プロを目指すのか、就職するのか、進路に迷ったメンバー2人が、バンドから脱退してしまったんです。それで、新たにメンバーを加わえて、結局5人組となった、「チューリップ」は、当時入り浸っていた地元福岡のライブハウス「照和」で、試行錯誤しながら練習を積み重ね、それと同時にデモテープも作って、それを持って、1971年12月に、僕は単身上京し、当時の東芝レコードに飛び込みで売り込んだんです」。
こうして、翌1972年5月、チューリップは東芝エキスプレス・レーベルと専属契約。6月に、メジャー1stシングル「魔法の黄色い靴」をリリースするのでした。
1972年6月、チューリップは1stシングル「魔法の黄色い靴」と同名タイトルの1stアルバムをリリースします。
「メンバー全員、ビートルズが大好きだったので、当時は、日本では僕ら以外、誰もやっていないと思っていた、メロディアスでポップな、ビートルズを意識した曲作りに取り組んだんです。こんな音楽をやっているのは、僕らだけだという自負があったんですが、現実は厳しく、1stシングル「魔法の黄色い靴」のセールスチャート最高位は75位。音楽ファンに受け入れてもらえないこの結果には、ガッカリしました」。財津さんは、当時についてこう振り返ります。
しかし、翌1973年4月に発売した3rdシングル「心の旅」が、発売から5ヵ月後の9月にセールスチャートの1位を獲得、約90万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「シングル「心の旅」がヒットし、メンバーみんなも、さぁこれから、という気持ちになったんですが、その後発売したシングルは、ヒットしなかったんです。
でも僕らは、コーラスをする楽しさがあって、わかり易過ぎず、なおかつわかりにく過ぎない。そして世の中に、新しい楽器が生まれたら、すぐに取り入れて、聴く人達に常に新しさを感じてもらう。この三つのポイントを大切に、曲作りに励み、ライブで演奏し続けたんです」。
財津さんは、思ったようにヒットが続かなかった当時を、こう振返ります。
そして、1974年6月、チューリップは、彼らの音楽上の転機とも言える、6枚目のシングル「青春の影」をリリースするのでした。
「6枚目のシングル「青春の影」は、チャート最高位は46位で、売上も約7万枚。満足できる結果ではなかったですが、僕らはこの曲で、大切な事に気づかされたんです。それは、シングルが売れなくても、ライブをやり続け、曲を繰り返し歌い続けることで、曲の良さがファンに浸透していくということなんです。その事に気づいた僕らは、曲が売れなくても、ライブを大切にしていきたいという気持ちになったんです」。
ライブバンドとして成長し続けることに、自分達が進むべき道を見つけたチューリップは、その後も楽曲のリリースに合わせて全国ライブツアーを積極的に行い、1976年6月には、東京・中野サンプラザでデビュー5周年とワンマンライブ500回を記念したライブを開催。さらに、1978年7月には、岐阜県鈴蘭高原に約8000人を集めて、初めての野外ライブを行います。
こうして、日本を代表するライブバンドへと成長を遂げていったチューリップでしたが、財津和夫はあるひとつの悩みを抱えていました。
「ライブ動員は着実に増え続けていましたが、僕は、とにかく次のヒット曲が欲しいという焦りも、日々感じていたんです。そんな1979年春のある日、散歩をしていた僕の頭の中に、突然歌詞の出だしの部分が浮かんできたんです」。
「ちょうど次のシングル曲を選んでいた時で、最初にリストアップした候補曲の中からは決まらず、元々はシングル候補曲ではなかった、当時「わがまま」と仮タイトルを付けていた曲を試しに聞いてみたところ、サビの部分が、強烈に耳に残ったんです。そこで、このメロディと、散歩中に思いついた歌詞の両方をブラッシュアップして、重ね合わせて生まれたのが、この曲なんです。メロディ、歌詞、そしてアレンジ。曲作りには欠かせない、三つのポイントが巧くはまったんです」。
こうして1979年7月、チューリップ16枚目のシングルとなる「虹とスニーカーの頃」はリリースされるのでした。
1979年7月にリリースされた、チューリップの16枚目のシングル「虹とスニーカーの頃」は、セールスチャート最高位6位、約42万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「3枚目のシングル「心の旅」以降、なかなかヒット曲に恵まれなかった僕らが、やっと生み出したこの曲は、ヒットさせるために、色々な人達の意見を取り入れて、練り上げた曲です。この曲のリリース直後、テレビ出演などのプロモーションは一切行いませんでしたが、この曲をライブで聴いてくれた人達が気にいってくれ、レコードを買ってくたんです。それがヒットに繋がった一番の要因で、ライブバンドとしてやってきた僕らにとって一番嬉しいことでした。そんな意味を考えると、僕らにとっては第二の「心の旅」とも言える曲だと思います」。財津和夫さんは、最後にこう語ってくれました。
ライブのチカラを信じた積み重ねが、J-POPの名曲を生みおとした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.A Hard Day's Night/ザ・ビートルズ
M2.魔法の黄色い靴/チューリップ
M3.青春の影/チューリップ
M4.虹とスニーカーの頃/チューリップ
177回目の今日お届けしたのは、「イルカ/なごり雪」でした
「僕が彼女に初めて会ったのは、1974年のことでした。フォークグループ「シュリークス」の一員として活躍していた彼女が、ソロデビューすることになって、クラウンレコードに移籍してきたんです。僕がプロデュースを担当することになって、彼女と色々と話をしたんですが、彼女はどちらかと言うと女性的というよりも、中性的なイメージを受けましたね」。
クラウンレコードで、イルカの担当プロデューサーを務めた佐藤さんは、当時をこう振り返ります。
1950年12月、ジャズバンド「保坂俊雄とエマニアーズ」のバンマスを務めていた、サックス奏者の保坂俊雄の娘として生まれた保坂としえことイルカ。イルカは、幼い頃から、父親のジャズ演奏を聴きながら育ち、やがてビートルズや60年代アメリカンポップスの虜となって、自らも音楽の道を志すようになります。1969年春、女子美術大学に進学したイルカは、フォークソング同好会に入部。そして、音楽活動を通じて知り合ったフォークソンググループ「シュリークス」のメンバー神部和夫に誘われて、1971年にシュリークスに参加します。
「「シュリークス」は、1969年に、当時、早稲田大学フォーク・ソング・クラブのメンバーだった神部和夫と山田パンダこと山田嗣人、そして嘉屋泰雄の三人が結成したんです。結成1年ほどで嘉屋が脱退し、代わりに、同じフォークソンググループ「ザ・リガニーズ」の所太郎が加入し、その1年後の1971年に、イルカが加入して4人組となったんです」。
1971年4月、シュリークスは4人組となって初のシングル「君の生まれた朝」をリリースします。ところが、その直後、音楽性の違いから山田パンダと所太郎の二人がシュリークスから脱退。残されたイルカは、神部和夫と二人で、そのまま活動を続けることとなります。
1972年12月、シュリークスはイルカが参加して4枚目となるシングル「私は好奇心の強い女」をリリースします。しかし、この頃から神部和夫は、シンガーよりもプロデュース業に興味を持ち始め、イルカをソロシンガーとしてデビューさせることを考え始めます。
こうして、翌1974年2月、シュリークスはラストアルバム『イルカのうた』をリリースした後、解散。イルカは、ソロデビューすることが決まります。
「イルカのソロデビューが決まって、彼女と神部、そして僕は、彼女にいったいどんな歌を歌ってもらうかを考えたんです。そして、彼女の特長でもあるハスキーな歌声を活かすために、男性が作った曲を歌わす方がいいだろうという結論に辿り着いたんです。そこで、僕が担当し、イルカ自身もシュリークス時代にライブで何度も同じステージ立って仲良くなっていた、南こうせつとかぐや姫のメンバーの伊勢正三に曲を作ってもらうようにお願いしたんです」。
佐藤さんは、イルカのソロデビューについてこう振り返ります。
こうして、1974年10月、イルカは伊勢正三が作った曲「あの頃のぼくは」でソロデビューを果たします。
1974年10月、イルカがリリースした1stシングル「あの頃のぼくは」。
「デビューシングルをリリースして、もう一枚のシングルと1stアルバムを発売した後、事務所のスタッフが、次はシングルヒット曲を出したい、と言いだしたんです。そこで、僕らスタッフは、ヒット曲を狙うためには、ラブソングを歌っていくしかないと考え、候補曲の中から見つけた曲が、前の年の1974年にかぐや姫が発売したアルバム『三階建の詩』に収められていた、伊勢正三が作ったこの曲だったんです」。
佐藤さんがプロデュースを手掛け、1974年3月に発売された、かぐや姫のアルバム『三階建の詩』に収められていたこの曲は、同じくアルバムに収められていた「赤ちょうちん」や「22才の別れ」に続いて人気を集めていました。
「もともとこの曲は、大分県津久見市出身の伊勢正三自身が、高校時代に、大分市内にあった学校から、津久見市の自宅に戻る時の列車に乗る情景をモチーフに、歌詞の舞台を東京に置き換えて作った曲なんです。
伊勢正三が、かぐや姫解散後に、ユニット「風」を結成し、1stシングルとして「22才の別れ」を歌うことを決めたので、タイミングも良かったんですね。
ただ、イルカに、この歌を歌うように薦めた時、彼女は、既にかぐや姫の歌として音楽ファンから認められていたこの曲を、恐れ多くて自分は歌うことができない、と初めは戸惑っていたんです。しかし、その事を知った伊勢正三が、イルカに、自分の歌だと思って気楽に歌ってごらん、と声をかけたんです」。
「僕自身も、かぐや姫のイメージを消すことを考えて、この曲のアレンジを松任谷正隆さんにお願いしたんです。松任谷さんとは、音楽ユニット「ティン・パン・アレー」がクラウンレコードに在籍していたこともあって、僕とは旧知の仲だったんです。
当時は、それまでのフォークミュージックが、ニューミュージックと呼ばれるようになり始めた、ある意味音楽の転換期でもあったので、松任谷さんも喜んで、曲のアレンジを引きうけてくれました。
彼は、2パターンアレンジを用意してくれ、その内の1パターン目がピアノのイントロから始まる今のアレンジなんです。曲の頭を聴いた瞬間、これだ!と思った僕は、2パターン目のアレンジは聴かずに、直ぐに決めたんです」。
こうして1975年11月、イルカ3枚目のシングル「なごり雪」はリリースされるのでした。
1975年11月にリリースされた、イルカ3枚目のシングル「なごり雪」は、セールスチャート最高位4位、約55万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「伊勢正三が生みだし、かぐや姫のヒット曲となっていた曲が、松任谷正隆のアレンジで生まれ変わり、イルカが歌って、これもヒットした。曲を作った伊勢も、イルカが歌ってヒットした事についてとても喜んでくれたんです。
イルカにとっても、ソロシンガーとしての世界を切り拓く大きなキッカケとなった歌として、今も大切に歌い続けているんです」。
佐藤さんは、最後にこう語ってくれました。
彼女がソロシンガーとして音楽の世界に旅立った、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.キャント・バイ・ミー・ラヴ/ザ・ビートルズ
M2.私は好奇心の強い女/シュリークス
M3.あの頃のぼくは/イルカ
M4.なごり雪/イルカ
176回目の今日お届けしたのは、「スピッツ/君が思い出になる前に」でした
1986年春、東京造形大学に入学した草野マサムネは、共通の知人を介して知り合った田村明浩と音楽的な志向が一致し、もうひとりドラマーを加えて三人組のパンクバンド「チーターズ」を結成します。
チーターズは、水前寺清子の「365歩のマーチ」をパンクアレンジした曲や、草野が作ったオリジナル曲を中心に演奏。その後チーターズは、バンド名を「ザ・スピッツ」と改めますが、翌1987年春に、草野マサムネが武蔵野美術大学に移ると同時に自然消滅します。
しかし、その年の夏、草野は田村と再びバンドを結成することを決意。田村の幼馴染で、文化服飾学院に通っていたギタリストの三輪テツヤと、同じく文化服飾学院のフォークソング部に在籍していたドラマーの崎山龍男の二人が、新たにバンドに加わります。
草野と田村が新たに作った4人組バンドは、「ザ・スピッツ」から「ザ」を取って「スピッツ」と名付けられ、当時彼らが憧れていたザ・ブルーハーツも出演していた、名門ライブハウス「新宿ロフト」のステージに立つことを目標に、都内のライブハウスを中心に活動をスタート。バンド結成から約2年が経過した、1989年7月、スピッツは300人のオーディエンスを前に、念願の新宿ロフトのステージに立つことになります。
翌1990年3月、スピッツはインディーズレーベルからCD『ヒバリのこころ』をリリース。その音楽性は、音楽専門誌を中心に高い評価を集め、この年の夏に、音楽事務所「ロード&スカイ」とレコード会社「ポリドール」と契約。翌1991年3月に、1stシングル「ヒバリのこころ」と、1アルバム『スピッツ』を同時リリースするのでした。
草野マサムネは、デビュー当時について、デビュー20周年を記念した書き下ろし本『旅の途中』の中で、次のように語っています。
「デビューアルバムが発売された時、ほとんど反響は無かったんですが、僕は、事務所やレコード会社には悪いけど、こんなものなのかな、と思っていたんです。当時、ヒットチャートをにぎわせていたのは、CHAGE&ASKAやドリームズ・カム・トゥルーで、チャートにランクインしていたロックバンドはジュン・スカイ・ウォーカーズぐらい。スピッツの音楽と、あの頃のヒットソングとはあまりにも音楽の傾向が違い過ぎていたんです」。
スピッツは、ビートパンクを軸に、アコースティックサウンドを加えた自分達の音楽が、売れ線の音楽とはズレていたことを感じてはいたものの、あくまで自分達の音楽スタイルを貫き通し続け、11月に2ndアルバム『名前をつけてやる』を、翌1992年4月にミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』をリリースします。
しかし、CDをリリースする度に売上が下がっていくという不甲斐ない結果に、3枚目のアルバム『惑星のかけら』をリリースした、1992年9月頃から、草野マサムネは、彼らを支えていたスタッフに対する申し訳なさを覚えるようになります。
危機感から、デビュー以来、初めて、セールスチャートを真剣にみた草野マサムネは、ある一つの答えを導き出します。それは、ロックを聴かないような人でも、スピッツの曲を楽しんで聴けるような"ポップ"な曲を作るということでした。
こうして、1993年春、スピッツは、レコーディングプロデューサーに、ユニコーンやプリンセス・プリンセスを手掛けていた笹路正徳さんを迎えて、アルバム作りをスタート。
7月に、アルバムからの先行シングルとして「裸のままで」をリリースするのでした。
1993年7月にリリースされた、スピッツ6枚目のシングル「裸のままで」。
笹路正徳をプロデューサーに迎えて作ったシングル「裸のままで」は、セールスチャートにランクインこそしなかったものの、スピッツの音楽がそれまでのロック志向からポップス志向へと転換する大きなキッカケとなります。
さらに9月に、笹路正徳がプロデュースを手掛けた4枚目のアルバム『Crispy!』をリリース。
草野マサムネの清涼感溢れるボーカルに、シンセサイザーとホーンを大々的に取り入れたポップな仕上がりとなったアルバム『Crispy!』は、スピッツにとって初めてアルバムチャートにランクインし、最高位27位を記録、関係者はもちろん、スピッツのメンバー自身も少しずつ確かな手応えを感じるようになります。
翌10月、スピッツはこのアルバム『Crispy!』に収録していた曲を、7枚目のシングルとしてリリースすることを決めます。
「この曲は、シングル「裸のままで」とほぼ同じ時期に作った曲です。スピッツ本来のひねくれた感じが一切ない曲で、歌詞の内容もストレートで分かりやすく、曲を作った自分でも作りすぎたんじゃないかというぐらい、ホンネを隠して作った曲なんです」。
曲を作った当時について、書き下ろし本『旅の途中』の中で草野マサムネはこう振り返っています。
こうして、1993年10月に、スピッツ7枚目のシングル「君が思い出になる前に」はリリースされるのでした。
1993年10月にリリースされた、スピッツ7枚目のシングル「君が思い出になる前に」は、彼らにとって初めてセールスチャートにランクインし、最高位33位を記録、約12万枚を売上げます。
「初めてチャートにランクインし、いざ入ってみると嬉しいことは嬉しいけど、複雑な気持ちになったのも事実です。やっぱりこういった曲が売れるんだなということが、改めて分かった曲なんです」。
草野マサムネは、書き下ろし本『旅の途中』の中でこの曲についてこう振り返っています。
スピッツがブレイクする礎を作った、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.人にやさしく/ザ・ブルーハーツ
M2.ヒバリのこころ/スピッツ
M3.裸のままで/スピッツ
M4.君が思い出になる前に/スピッツ
175回目の今日お届けしたのは、「スキマスイッチ/冬の口笛」でした
1978年2月、愛知県名古屋市に生まれた常田真太郎と、同じ年の5月に愛知県東海市に生まれた大橋卓弥の二人。大橋は、幼い頃に、友達の家に電話をかけた際に流れたビートルズの「イエスタディ」を聴いたことをキッカケに、ビートルズに夢中になっていきます。もともと、クラシックピアノを習っていた大橋ですが、中学二年の時に、自分よりピアノを上手い人を見たことをキッカケにピアノを諦め、その後は、友人達とバンドを結成。高校を卒業した大橋は、バンドごと上京しますが、しばらくしてバンドは自然消滅し、大橋は自ら曲を作るようになります。
一方の常田は、高校時代、文化祭で組んだバンドから音楽活動をスタートし、卒業後に上京して専門学校に進学。在学中は、複数のバンドでキーボードプレーヤーとして活動したり、インディーズレコードのレコーディング・エンジニアとして、楽曲のアレンジ経験を積んでいきます。
そして1999年のある日。常田と大橋は運命の出会いを果たすこととなります。
「友人に誘われて観に行ったライブで、ピアノを弾いていたのが常田でした。正直、上手くなく、余り良い印象を持たなかったんです。後に本人から聞いた話では、当時、彼はピアノを弾き始めたばかりだったらしいんです」。
大橋卓弥は、常田真太郎との初めて出会った時の印象について、こう振り返ります。
しかし、その後、話を交わす内に、常田のアレンジの才能に魅かれた大橋は、自分の曲のアレンジを常田に依頼。これをキッカケに二人は、一緒に活動をスタートし、11月にユニット「スキマスイッチ」を結成。翌2000年、赤坂BLIZで行われたオーディションイベントに出演したスキマスイッチは、その音楽性を評価され、音楽事務所「オフィスオーガスタ」と契約を結ぶことになります。
その後、スキマスイッチは、楽曲の創作活動をしながら、新宿や渋谷を拠点にライブ活動をスタート。2002年8月には、千葉マリンスタジアムで行われた野外ライブイベント「AUGUSTA CAMP2002」のサブステージに出演し、およそ3万人の前で歌を披露します。親しみのあるメロディと、大橋の温かく聴く人を包み込むような独特の歌声は、会場を訪れたオーディエンスたちを魅了。スキマスイッチという、
一風変わった名前のユニットのうわさは、口コミで広がっていきます。
そんな中、スキマスイッチは、翌年の2003年8月に、1stシングル「view」をリリースするのでした。
2003年7月、スキマスイッチは、所属事務所「オフィスオーガスタ」が立ちあげたレーベル「オーガスタレコード」の第1弾新人アーティストとして、シングル「view」をリリースします。
「1stシングルをリリースして、まずは、やっとスタートラインに立った、と思いました。事務所からはデビューに関する話を詳しく説明されないままに「view」のレコーディングに臨んでいたので、正直自分達がデビューしたことに対して、余り実感は湧きませんでした」。
メンバーの常田真太郎は、当時についてこう振り返ります。
しかし、前年の「AUGUSTA CAMP2002」でのライブパフォーマンスをキッカケに、その音楽性を多くの人達から高く評価され、注目を集めていたスキマスイッチの1stシングル「view」は、全国の30ものFM局でパワープレイを獲得します。
さらに9月に発売したミニアルバム『君の話』が、セールスチャート最高位20位、約2万枚のセールスを記録したスキマスイッチは、翌2004年3月に、後に彼らの代表曲となる2ndシングルをリリースします。
「僕達が歌詞を書く上で一番大切にしているのは、等身大という言葉です。自分達に似合わない言葉は使わない、一つの曲でも裏テーマを作って、必ず聴く人それぞれの受取方が出来るように心掛けています。この曲を作る時も、僕と常田は二人とも、女性の気持ちが知りたくて、お互いの姉や妹、そして女友達に電話で話を聞いて、それを参考にして歌詞を書いたんです」。
2004年3月、スキマスイッチがリリースした2ndシングル「奏」は、発売前に全国のラジオ局や有線放送で流れると、リクエストが殺到し、最高位こそ22位だったものの、約9ヵ月間もチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
じわりじわりとファン層を広げていくスキマスイッチは、6月に3rdシングル「ふれて未来」と、1stアルバム『夏雲ノイズ』を連続リリース。特に、デビューから約1年の集大成となったアルバム『夏雲ノイズ』は、チャート初登場2位を記録します。
そして、初めての全国ツアーをスタートしたスキマスイッチは、その最中に、4枚目のシングルをリリースすることを決めます。
「この曲は、僕がその時作りたかったミディアムポップス感を重視して、曲をイメージしたんです。
そして、その曲のベースを軸に、大橋と曲を煮詰めていったんです。彼は、最初デモを聴いた段階では、地味だねって言ってたんです」
当時を、常田真太郎はこう振り返ります。
その後も、常田真太郎と大橋卓弥の二人は何度も何度も議論を積み重ねて、曲を完成させ、冬が始まる直前の10月に曲は完成します。
「曲が完成した瞬間、自分も常田も納得したつもりだったけど、実は僕は大丈夫なんだろうか、という不安な気持ちもあったんです。しかし、曲を何度も繰り返し聴く間に大好きな曲になっていきました」。
こうして、スキマスイッチの4枚目のシングル「冬の口笛」は、冬が始まる11月にリリースされるのでした。
2004年11月にリリースされた、スキマスイッチの4枚目のシングル「冬の口笛」は、セールスチャート最高位6位を記録。彼らにとって、初めてセールスチャートTOP10にランクインするヒット曲となります。
「改めてこの曲を聴き直してみると、当時考えた、入るだけの音色や楽器の音がたくさん鳴り響いて、今のスキマスイッチでは作らないような曲になっています。アレンジ的には甘いけど、スキマスイッチとしての個性を感じられる曲に仕上がったことが、聴く人達に受け入れてもらえた理由ではないでしょうか」。メンバーの常田さんは、この曲に関してこう振り返っています。
また大橋さんは、「スキマスイッチの曲の中では珍しい、季節をテーマにした曲だし、自分達の音楽の幅を広げるキッカケにもなった曲なので、忘れられない曲なんです」と話してくれました。
不安の中から、彼ららしさの幅を広げていった、J-POP、冬の名曲が生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.イエスタディ/ザ・ビートルズ
M2.view/スキマスイッチ
M3.奏/スキマスイッチ
M4.冬の口笛/スキマスイッチ
174回目の今日お届けしたのは、「Kiroro/冬のうた」でした
「僕が、当時、沖縄の専門学校生だった金城綾乃と、長崎の短大生だった玉城千春に初めて会ったのは、1997年の夏のことでした。東京・青山のビクタースタジオにやって来た二人は、東京の渋谷や原宿にいる、ふだん見慣れた女の子とは違う、明るさと元気さが表情に滲み出た、いかにも沖縄の女の子という感じだったんです。実際に会う直前に、彼女達が作った、インディーズ時代の曲やデモ曲を数曲聴いたんですが、強く印象に残っていたのは玉城千春の声でした。声に力があるというか、素直で伸びのあるボーカルがとても魅力的でした」。
Kiroroのデビュー前から3年間、アーティスト担当を務めていた、ビクターエンタテインメントの蘇武さんは、当時についてこう振り返ります。
共に1977年、沖縄県中頭郡読谷村に生まれた金城と玉城の二人。
「二人とも、小さい頃から沖縄に古くから伝わる民謡や流行歌、祭り歌などいろんな歌に囲まれて育ち、いつも気が付いたら、歌を口ずさんでいたそうです。玉城千春は、中学生の頃からドリームズ・カム・トゥルーに夢中になり、ボーカルの吉田美和さんに憧れていたそうですよ」。
地元の読谷高校に進学した二人が、運命的な出会いを果たすのは、高校二年になった1995年のある日、放課後の音楽室でのことでした。玉城が、自分で作った曲を、音楽室でひとりで歌っていたところに、金城がやってきて、遊び半分にピアノで伴奏をつけはじめます。すっかり意気投合した二人は、
ポップデュオ「Kiroro」を結成します。
翌年、1996年11月、Kiroroの二人は、沖縄のインディーズレーベルから、1枚のシングルをリリースします。
「当時、二人がお世話になっていた沖縄・北谷町のレンタルスタジオのオーナーが、彼女達に声をかけて沖縄限定発売でCDを作ったんです。これが沖縄のラジオ局や有線放送で流されると、リクエストが殺到して話題になり、沖縄だけで約1万枚近くのセールスを記録したんです。その噂を聞きつけたビクターの九州地区担当新人発掘スタッフが、二人に直接会ってメジャーデビューの話を進めて、メジャー契約を結んだんです」。
こうして、Kiroroの二人は、インディーズ1stシングルでもあった「長い間」を、1998年1月に、改めてメジャー1stシングルとしてリリースするのでした。
「メジャー1stシングルは、Kiroroにとって馴染み深く、彼女達の歌の特徴がまとまっていた曲「長い間」で、すんなりと決まりました。僕らスタッフは、Kiroro二人の素直な感性をそのまま薄めずに形にすることを考えて、玉城千春のボーカルと、金城綾乃が弾く優しいピアノのメロディラインが際立つように、曲のアレンジもできるだけシンプルにすることを心掛けたんです。」
蘇武さんを始めとしたスタッフは、Kiroroの声と曲を聴いてさえもらえれば、きっとKiroroの良さが多くの人達に伝わると考え、ラジオや有線放送、街頭ビジョンなど、音楽が流れるありとあらゆるメディアに対して積極的にプロモーションを展開。その結果、Kiroroの1stシングル「長い間」は、セールスチャート最高位1位、約120万枚の売上を記録し、約1年間に渡ってチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
続いてKiroroは、6月にインディーズ時代に作った曲「未来へ」を、2ndシングルとしてリリースするのでした。
1stシングル「長い間」がセールスチャートにランクインし続ける中、6月にリリースされたKiroroの2ndシングル「未来へ」も、セールスチャート最高位4位、約59万枚のヒットを記録。10月にリリースした、1stアルバム『長い間~キロロの森~』も、セールスチャート1位を獲得、約115万枚のセールスを記録します。
当時ダンス音楽が主流となっていたJ-POPの中で、Kiroroの曲は、心休まるオアシス的な音楽として、蘇武さん達の狙い通りにJ-POPの世界にゆっくりと、そして、しっかりと浸透していきます。
そして、11月に発売を予定していた3rdシングルに、Kiroroがメジャーデビュー直前に作った曲がリリースされることが決まります。
「この曲は、決して雪が降ることが無い沖縄に生まれた玉城千春が、小学生の時に、地域交流で北海道の池田町を訪れた時のイメージを素に作られました。彼女は、真っ白な雪が、しんしんと降り積もっていく時の様子が、幻想的で、頭からずっと離れなかったそうです」。
「曲自体は、デビュー前には完成していて、本当は、1stシングル「長い間」と両A面にして、実際のデビューの2ヵ月前の、1997年11月にリリースすることを考えていました。当時は、クリスマスの時期に、TVでスペシャルドラマが放送されていた時代で、僕らはその主題歌としてこの曲を使ってもらえないだろうかと考えていたんです。残念ながらその想いは実現せず、この曲を「長い間」と両A面扱いでリリースすることは見送りとなって、その影響で、Kiroroのデビューも2ヵ月遅れたんです」。
こうして、当初の発売予定から1年後の1998年11月に、この曲「冬のうた」はKiroroの3rdシングルとしてリリースされるのでした。
1998年11月にリリースされた、Kiroroの3rdシングル「冬のうた」。
「冬と言えば、山下達郎さんや広瀬香美さんなど、季節の訪れと共に必ず流れる名曲がありますよね。この曲を発売した当時、Kiroroの二人も冗談半分に、この曲も、冬になると必ず流れる曲になればいいねって話をしていたんです。この曲を、クリスマス・スペシャルドラマのタイアップ曲にすることはできなかったけど、曲を発売してから3年後の2001年に、お菓子メーカーの冬季限定チョコレートのCMソングに起用してもらい、彼女達の願いが少しだけ、現実になった気がします。
まだまだ名曲には及びませんが、冬の曲として取り上げてもらう機会が増えれば増えるほど、この曲はKiroroにとって大切な曲へと成長し続けていくんです」。最後に、蘇武さんは、こう語ってくれました。
深々と降り積もる雪のように、ゆっくりと人の心に響き渡っていく、J-POPの冬の名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.笑顔の行方/ドリームズ・カム・トゥルー
M2.長い間/Kiroro
M3.未来へ/Kiroro
M4.冬のうた/Kiroro
173回目の今日お届けしたのは、「Do As Infinity/深い森」でした
「中学一年の頃、『全米TOP40』を観て、洋楽を聴き始めた僕は、友達の影響でメタル音楽にはまっていったんです。中2の冬に、近くの高校の文化祭で、高校生たちが、キッスやナイトレンジャーをいとも簡単にコピーしている姿を見て、"俺にも出来るかも"と思って、直ぐに貯金をおろしてフェルナンデスのギターを買いました」。
Do As Infinityのメンバー大渡亮さんは、音楽人生の始まりについてこう振り返ります。
1971年4月、神奈川県横浜市に生まれた大渡亮は、中学時代に、同級生達とバンドを結成、歌を歌うことが好きだった彼は、ボーカル兼ギタリストを担当します。1990年春、高校を卒業した大渡は、プロのギタリストになる夢を見て、音楽専門学校のギター科に進学します。
「中学、高校とバンドを続けていくうちに、根拠のない自信というか、"自分は上手い"と思い込んでしまったんですね。"俺は絶対プロになる"と思っていたんですが、親からは進学を勧められ、"同じ勉強するなら"という思いで、音楽専門学校に進学したんです」。
1992年春、大渡は専門学校を卒業後に、仲間達と3人組バンド「Pee-Ka-Boo」を結成しメジャーデビューを果たします。しかし、「Pee-Ka-Boo」はほどなく解散。大渡は、アルバイト生活をしながら、先輩ミュージシャンのサポートギタリストなどをして音楽活動を続けていきます。
1998年、知人を通してエイベックスのスタッフを紹介された大渡は、それまでhitomiや浜崎あゆみらへ楽曲提供をしていたプログラマー兼ギタリストの長尾大、そしてオーディションで選ばれたボーカルの伴都美子の三人で、ロックバンド「Do As Infinity」を結成。1999年9月、1stシングル「Tangerine Dream」をリリースします。
1999年9月にリリースした、Do As Infinityの1stシングル「Tangerine Dream」。
「"解散"という同じ失敗だけは繰り返したくなかった僕は、デビュー直前、Do As Infinityが生みだす音楽の反応を確かめたくて、スタッフに路上ライブを行うことを提案したんです。東京・渋谷ハチ公前を皮切りに、約3ヵ月間、全国各地で99回の路上ライブを行いました。路上ライブを始めた頃は、立ち止まる人達も少なかったけど、回数を重ねる毎に少しずつ人も増え始め、手ごたえを感じることができたし、"何が起きてもへこたれない"という精神力も鍛えることができたんです」。
Do As Infinityのメンバー、大渡亮さんは、当時についてこう振り返ります。
Do As Infinityは、路上ライブを始めて約3ヵ月がたった1999年11月、通算100回目となる記念のライブを渋谷公会堂で開催。翌12月には、2ndシングル「Heart」をリリースします。
「最初の頃は、聴き人にアコースティックギターサウンドが心地良く伝わる音楽を目指していたんですが、何かもう一つ工夫が必要だと感じた僕らは、次に予定していた3rdシングルのサウンドプロデューサーに、椎名林檎のアレンジャーとして活躍し始めていた亀田誠治さんを迎えて、ロックとPOPSを融合した音楽を前面に出すことにしたんです」。
2000年1月に発売された、Do As Infinityの3rdシングル「Oasis」は、セールスチャート最高位25位、8週続けてチャートにランクインという結果を残します。
「シングル「Oasis」で、ロックとPOPSが融合した、聴く人の耳に馴染みやすいDo As Infinityならではの音楽の方向性が見え始め、ひとつの結果を残したことで、メジャーの世界でやっていけるという自信が、メンバー間にも少しずつ湧いてきました」。大渡さんは当時をこう振り返ります。
その後もDo As Infinityは、レコーディングの合間をぬって、精力的に全国各地でのイベントにも出演。ソウル、ハードロック、フォークロック、そして歌謡曲等のエッセンスが詰め込まれたDo As Infinityの音楽は、多くの人達から親しみを持って受け入れられ、2001年2月に発売した2ndアルバム『NEW WORLD』は、ついにセールスチャート1位を獲得します。
勢いに乗ったDo As Infinityは、2001年4月リリースの8枚目のシングル「遠くまで」を皮切りに、3ヵ月連続でシングルをリリース。その締めくくりに選ばれたのが、「深い森」でした。
「この曲は、デビュー直後に作った曲なんです。アコーステックサウンドで、ミディアムバラード調に仕上げ、曲が完成した時"こんな素晴らしい曲を、いずれ演奏する日がやってくるのか"と考えたら、作った自分達も身震いするほど、興奮したのを覚えています」。
こうして、Do As Infinity3ヵ月連続シングルリリースのラストを飾る、10枚目のシングル「深い森」は、2001年6月にリリースされるのでした。
2001年6月にリリースされた、シングル「深い森」は、日本テレビ系アニメ「犬夜叉」のエンディングテーマ曲として起用され、セールスチャート最高位5位を記録します。
「この曲はDo As Infinity歴代シングル24作品の中で、売上No1の記録を残しているんですが、
曲を作ってから約2年余りの間眠らされ、僕らメンバーの知らないところで発売が決定し、いつの間にかリリースされていたとうのが本音なんです。とにかく、当時の僕らは、レコーディング、ライブ、連日のプロモーションが続き、疲れ果てていましたから。ただ、この曲自体は、僕らが目指していた、ロックとPOPSの融合がピタリとはまった曲ですね。個人的にも、好きな曲だし、こんないい曲を演奏できるなんて誇りに思います」。
最後に、Do As Infinityのメンバー大渡亮さんは、こう語ってくれました。
Do As Infinityの存在意義を示すことが出来た、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ロックンロール・オールナイト/キッス
M2.Tangerine Dream/Do As Infinity
M3.Oasis/Do As Infinity
M4.深い森/Do As Infinity
172回目の今日お届けしたのは、「かりゆし58/オワリはじまり」でした
「僕が彼らに初めて会ったのは、バンド結成から半年余り経った2005年秋でした。彼らは、自分達で作ったデモテープを、僕が居る音楽事務所に送ってきたんです。デモテープを聴いて、彼らに興味を持った僕は、沖縄に他のバンドのライブを観に行く機会があったので、そのタイミングで、彼らのライブを、沖縄で観たんです。ただ、曲は良かったけど、演奏、MCはいまひとつだったんです」。
かりゆし58のプロデューサーを務めている後藤さんは、彼らに初めて出会った時の印象をこう振り返ります。
1981年7月、沖縄県島尻郡八重瀬町に生まれた前川真悟、同じ年の8月に糸満市に生まれた新屋行裕と中村洋貴の3人は、1999年、彼らが高校三年の時に、新屋と中村が通っていた高校の文化祭で初めて出会います。
「新屋と中村は、保育園時代からの同級生で、高校時代一緒にバンドを組んでいたんです。高校最後の文化祭のステージに、二人が組んでいたバンドが出演した時、文化祭を観に来ていた、当時、他の高校に通っていた前川が、突然ステージに上がり、バンドメンバーのベースを奪って、アンコール曲を無理矢理、演奏してしまったんだそうです。わけのわからない奴に、高校最後のステージを台無しにされてしまった新屋と中村は、当時、前川に激怒したと聞いています。」
このとんでもない出会いから5年が経過した2005年春、前川、新屋、中村の三人は、同級生達が集まった飲み会の席で、運命の再会を果たします。
「高校卒業後、トラックの運転手をしていた前川は、ラジオから流れてくる吉田拓郎やザ・ブルーハーツなど、メッセージ性を持った曲に魅かれ、自分も聴く人にストレートな想いが伝わる歌を歌いたいと思うようになっていたそうです。そこで、偶然再会した新屋と中村に声を掛け、まずは5年前の無礼を詫びて、改めて一緒にバンドを組むことを提案したんですが、新屋と中村は、初めはバンドを組むことに躊躇したそうです。ただ、前川が余りにも熱心に声を掛けてくるんで、ついに、口説き落とされ、バンドを結成したんです」。
こうして、2005年春、前川、新屋、中村の3人は、ロックバンド「かりゆし58」を結成します。
「「かりゆし58」を結成した彼らは、まずは、デモテープを作って、それをあらゆる音楽事務所に送ったんですが、最初に声を掛けたのが、僕だったんです」。
後藤さんのアドバイスの下、新たに楽曲作りに励んだかりゆし58は、2006年2月にミニアルバム『恋人よ』をリリースします。しかしミニアルバム『恋人よ』の売上枚数は、約700枚程度にとどまります。
「事務所としては、"CDが売れなきゃ、次のアルバムはリリースできない"ということになって、もう1枚だけ、シングルを出すことが許されたんです」。
こうして、かりゆし58の運命が託されたシングル「アンマー」は、2006年7月にリリースされるのでした。
2006年7月に、沖縄地区限定でリリースされた、かりゆし58の1stシングル「アンマー」。
シングル「アンマー」は、発売当初は、僅か3,000枚のプレスでしたが、地元FM沖縄を中心に頻繁にオンエアされると注文が殺到、8月に、急遽PVも作ってTVの音楽番組で流されると、その勢いは全国へと拡がっていき、シングル「アンマー」は、その年2006年の日本有線放送大賞新人賞を受賞します。
「"CDを発売できる最後のチャンスになるかもしれない"と考えた前川が、母親孝行の意味を込めて作ったのがこの曲なんです。この、前川の素直で、音楽に対する一途な想いが、曲を聴いた人の心を掴んだと思います」。プロデューサーの後藤さんは、当時をこう振返ります。
また、後藤さんは、当時、セールスの悪さに落胆していたかりゆし58のメンバーに、"せっかくCDを発売したんだから、例え契約が終わるとしても、何か足跡を残しておこうよ"と提案し、同じ事務所に所属する「ガガガSP」の九州5ヵ所ツアーに、彼らを同行させます。
「ガガガSPのツアーに同行する中で、ガガガSPのリーダー、コザック前田の音楽に対するどん欲な姿勢を間近に見た三人は、自分達の音楽に対する考えの甘さに気が付き、それ以来、三人はひたむきに取り組むようになったんです」。
沖縄音階にロック、レゲエなどのサウンド要素を加えた独創性溢れるメロディに、前川が書くストレートな歌詞で、かりゆし58のは、個性派のバンドとして、人気を集めていきます。
2008年には、ギタリストの宮平直樹が新メンバーに加入。2009年2月には、彼らにとって、初のドラマタイアップとなる6枚目のシングル「さよなら」をリリースするのでした。
2009年2月にリリースした、かりゆし58の6枚目のシングル「さよなら」は、日本テレビ系ドラマ『銭ゲバ』の主題歌に起用され、セールスチャート最高位10位を記録します。
「前川が書く、シンプルだけど聴く人の心を捉える歌詞は、彼ならではの感性によるものだと僕は思っています。この曲も、ドラマの主題歌というタイアップが付いたけど、曲の完成度の高さが評価されヒットに繋がったんだと思います」。
その後、4月から全国47都道府県58ヵ所を回るライブツアーを行ったかりゆし58は、翌2010年2月に発売を予定していた9枚目のシングル「雨のち晴れ」のカップリング曲として、前川がデビュー直後に歌っていたある曲を収めることを決めます。
「この曲は、デビュー直後に、ガガガSPとの九州ライブツアーの時、サビの4小節をライブのラストで1回か2回だけ歌ったんです。僕は"いい歌詞だなぁ"と思っていたんですが、その後、理由は不明なんですが前川はこの曲を歌うことを封印するんです。そして、あれから4年たって、9枚目のシングル候補曲として、前川はこの曲を作ってきたんですが、次に作った「雨のち晴れ」が、さまぁ~ず初主演映画『かずら』の主題歌になることが決まって、この曲は急遽カップリング曲に変更になったんです」。
こうして、この曲「オワリはじまり」は、2010年2月、かりゆし58の9枚目のシングル「雨のち晴れ」のカップリング曲としてリリースされるのでした。
2010年2月、かりゆし58 の9枚目のSg「雨のち晴れ」のカップリング曲として発売された「オワリはじまり」。曲の発売から3ヵ月が経った5月に、日本テレビ系バラエティ番組『行列のできる法律相談所』の中で流され、視聴者から大きな反響を集め注目されます。
「発売直後、曲を聴いた「行列のできる法律相談所」の番組プロデューサーが、番組司会者の島田紳助さんに曲を紹介し、紳助さんも"いい曲だね"と褒めてくれたんです。それで、番組で紹介したドキュメントの中でこの曲を使ってもらったんですが、ドキュメントの内容と歌詞の内容がオーバーラップしたこともあり、視聴者から曲に対して数多くの問合せが殺到して、後日、メンバーも番組に出演することになったんです。曲のプロモーションには色んなやり方がありますが、聴く人の心を掴む歌詞、そして耳に馴染むメロディを作っていれば、きちんと聴く人には伝わることが改めて分かったんです。曲を作った前川も、改めて曲を作る大切さが分かった曲だと言っています」。最後に、後藤さんはこう語ってくれました。
飾らない、ストレートな想いが生みだした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.人にやさしく/ザ・ブルーハーツ
M2.アンマー/かりゆし58
M3.さよなら/かりゆし58
M4.オワリはじまり/かりゆし58
171回目の今日お届けしたのは、「くるり/ばらの花」でした
1976年4月、京都府京都市で生まれた岸田繁と、翌1977年2月に京都府亀岡市に生まれた佐藤征史の二人は、1994年、お互いが通っていた立命館高校の複数のバンドが、京都市内のライブハウスを貸しきって行ったイベントで、それぞれ別のバンドのメンバーとして出会い、その2ヵ月後に、同級生と後輩一人を加えた4人組バンド"毒猿ペピヲ"を結成します。翌1995年、二人は、立命館大学に進学。大学の音楽サークル「ロックコミューン」に所属しながら、毒猿ぺピヲの活動を続け、京都を中心にライブ活動を続けていきます。その後「毒猿ペピヲ」は、メンバーチェンジでドラマーの森信行が新たにバンドに加入、バンド名を"マグネッツ"と改めます。
1996年9月、マグネッツはバンド名を「くるり」と改め、アマチュアバンドコンテストに出演して優勝。さらにくるりは、オリジナル曲を収めた自主制作カセットテープ「くるりの一回転」を作って、自分達のライブ会場で販売するようになります。そのカセットテープ「くるりの一回転」を聴いたインディーズレーベル「バッドニュース」の関係者が、くるりの独創性溢れる音楽に注目して彼らにアプローチをかけます。
こうして、くるりは翌1997年11月にバッドニュースから1stアルバム『もしもし』をリリース、さらに、翌1998年5月には、2ndアルバム『ファンデリア』を発売します。
70年代の洋楽を彷彿させるような、くるりの音楽は、地元京都のみならず、音楽関係者の間でも話題となり、この年、くるりはビクターと契約。10月にメジャー1stシングル「東京」をリリースするのでした。
1998年10月にリリースされた、くるりの1stシングル「東京」は、セールスチャートこそ、最高位64位と伸び悩みましたが、「FM802」のヘビーローテーション選ばれるなど、全国のFMステーションで頻繁にOAされ、音楽ファンの間で、くるりは、一躍注目を浴びる存在となっていきます。
翌1999年4月に、くるりは、1stアルバム『さよならストレンジャー』を、翌2000年1月には2ndアルバム『図鑑』を発売します。岸田繁は当時のことを雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2006年8月号のインタビューの中で次のように語っています。
「1stアルバム『さよならストレンジャー』を作る時、まだ学生だった僕等はプロデューサーの言う通りに曲を作って演奏し、ほとんど何も考えることは無かったんです。しかし2ndアルバム『図鑑』を作る時は、メンバーみんな大学を卒業、活動の拠点を東京に移し音楽に専念する環境は整っていた一方で、ネガティブなエネルギーに襲われて、誰も信じられなくなっていた時期でもあるんです。自分達がどう進むべきなのか、迷っていたんでしょうね」。
不安と葛藤を抱えながらも、くるりは自分達の音楽に対する熱い思いを全てアルバム『図鑑』の制作に注ぎ込み、結果的に彼らの音楽に対する熱意は、アルバム『図鑑』を聴いた人達の心を掴みとります。バリエーションに富んだ曲が収められた2ndアルバム『図鑑』は、ファンのみならず音楽関係者の間でも話題となり、全国12ヵ所で行われた発売記念ライブツアーも大盛況に終わります。
音楽ファン、関係者からの期待が高まる中、くるりは、夏の野外フェスへの出演と前後して、次のアルバムのレコーディングをスタートさせます。そのレコーディングの中で、冗談半分に、テクノ風に仕上げてみた曲が、スタッフの中で、思いの他、好評価を得ます。
こうして、くるりが、アルバムに先駆けて、急遽シングルとしてリリースすることになったのが、
6枚目のシングル「ワンダーフォーゲル」でした。
2000年10月にリリースされた、くるり6枚目のシングル「ワンダーフォーゲル」は、当時の彼らにとっては最高位となるセールスチャート20位を記録。広島FMを始め、全国各地のFM局でも、それまで以上に大量OAされ、くるりは、音楽ファンの誰しもが注目するロックバンドとして、その名を知られるようになります。また、「ワンダーフォーゲル」は、レコーディングの合間をぬって行われた、ライブツアーでも人気を集め、彼らのライブには欠かせない定番の曲へと成長していきます。
佐久間正英のプロデュースのもと、70年代のオーソドックスなロックサウンドをベースに制作されたメジャー1stアルバム「さよならストレンジャー」。自分たちのオリジナリティを模索する中、ジム・オルークとのコラボレーションなど、オルタナティブ・ロック色の強い、挑戦的なアルバムとなったセカンドの「図鑑」。そして、音楽ファンたちが、"次のくるり"への期待を高める中リリースされた「ワンダーフォーゲル」の、それまでのくるりにはなかったポップテイスト。
常に、ファンの想像を超えていくくるりの楽曲に、驚きと、歓迎の声が交錯する中、くるりは、3rdアルバム発売直前に、当初はアルバムの中の一曲として考えていた曲を、シングルとしてリリースすることを決めます。その経緯について、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2001年2月号のインタビューの中で次のように語っています。
「ポップ感溢れるメロディが先に完成し、歌詞を付ける段階で、僕の中にアルバムを作る時のテーマ"安心"という言葉が浮かんだんです。探究心が無いと安心は生まれてこない。その両方を"いかに巧くバランスとっていくのか"という事を、自分の中で巧くこの曲の詞の世界で表現することができたんです」。
こうして、くるり7枚目のシングル「ばらの花」は、2001年1月にリリースされるのでした。
2001年1月にリリースされた、くるり7枚目のシングル「ばらの花」は、前作「ワンダーフォーゲル」に続き、セールスチャート最高位20位を記録します。
「それまでは、聴く人に僕らの曲を押しつけるような雰囲気があったけど、この曲はアルバムを作っている途中から、僕らの曲を聴いてくれるそれぞれに"僕らの音楽を自由に感じてくれればいい"と思えるようになりました。力を巧く抜いて曲を作れるようになった、その象徴的な曲でもあるんです」。
雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2001年2月号のインタビューで岸田さんは、こう語っています。
天才、岸田繁が、迷いの中から抜け出した、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.紫のけむり/ジミ・ヘンドリックス
M2.東京/くるり
M3.ワンダーフォーゲル/くるり
M4.ばらの花/くるり
170回目の今日お届けしたのは、「倉木麻衣/Secret of my heart」でした
「初めて会ったのは、1998年夏、彼女が15歳の時でした。見た目はどこにでもいる普通の女子高生でしたが、話をしてみると"私は歌を歌いたい"とハッキリ言うんです。しっかりとした芯を持っている子だなという印象を持ちました」。倉木麻衣との出会いについて、レコード会社の担当制作ディレクターを務めた西室さんは、当時をこう振り返ります。
1982年10月、千葉県船橋市に生まれた少女・倉木麻衣。
「彼女は、歌が好きだった祖父母の影響で、小さい頃から歌を歌うことが大好きだったそうです。
小学校高学年の時に、ピアノの先生に"あなたは、ピアノを弾くよりも声楽の方が向いているんじゃない"と言われたそうです。ちょうど同じ頃に、マイケル・ジャクソンの映画『ムーン・ウォーカー』を観て、
マイケル・ジャクソンが音楽を体全体で表現する姿に感動して、彼女自身も歌の道を意識するようになったんだそうです」。
1998年春、高校に進学した倉木麻衣は、ローリン・ヒルの曲「To Zion」を歌ったカセットテープを、
知り合いを通じてレコード会社「GIGA studio」のスタッフへ渡します。
「彼女の歌声を初めて聴いた時、私はまだ磨かれていない原石のような印象を持ったんです。その歌声は、彼女にしか出せない、まさにオンリーワンの歌声だったんです」。
倉木麻衣の歌声に興味を持ったGIGA studioのスタッフは、彼女の学校の休みを利用して、レッスンとデモテープ作りを積み重ねていきます。そして翌1999年の夏休みに、デビュー曲のレコーディングのためにアメリカ・ボストンへ渡ります。
「デビューすることは決まったものの、はっきりとしたリリース日は未定のまま、ボストンでのレコーディングが始まりました。私達は、音のクオリティーを大切にしつつも、とにかく倉木麻衣のオンリーワンの歌声を活かしたサウンド作りを目指したんです。倉木麻衣、本人は、自分の夢が叶った一方で、ライフスタイルが急激に変わった状況に慣れることに必死で、自分だけの世界観を築こうと無我夢中でレコーディングに取り組んでいた姿が印象に残っています。そして、その必死な彼女の姿、歌声が、私達スタッフはもちろん、現地スタッフの心にも響いて、予想外の出来事が起こったんです」。
西室さんは、当時についてこう振り返ります。
倉木麻衣の歌声は、サラ・マクラクランやニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック等を手掛けたアメリカ人プロデューサー、ベリー・ガイヤーを中心とした制作チームをも驚かせ、彼らは倉木麻衣に「アメリカでもCDをリリースしないか」という提案をします。
倉木麻衣と日本のスタッフは、ベリー・ガイヤーの提案を受け入れ、1999年10月、"Mai-K"名義で日本デビューよりもひと足先に、アメリカでシングル「Baby I Like」をリリースします。
そして全米デビューから遅れること2ヵ月後の12月に、倉木麻衣は1stシングル「Love,Day After Tomorrow」をリリースするのでした。
1999年12月に、倉木麻衣がリリースした1stシングル「Love,Day After Tomorrow」は、セールスチャート最高位2位、デビュー曲にして約140万枚、ミリオンセラーを達成します。
「今振り返ってみると、彼女はデビュー曲でいきなり凄い事をやった訳ですが、当時はほとんど気にしていませんでした。確かに、ミリオンセラーを達成したことは嬉しかったんですが、それより次の曲の制作に追われ、喜んでいる暇が無かったんです。彼女自身も、あまり実感として湧いていなかったみたいで、むしろ、"タクシーに乗っている時に、ラジオから自分の曲が初めて流れてきた時や、実際にCDショップにCDが並んだ時の方が嬉しかった"と話していました」。
2000年3月、倉木麻衣は2ndシングル「Stay by my side」をリリース、さらに4月に3rdシングルをリリースすることが決まります。
「2ndシングルよりも、先に完成していたこの曲は、彼女がデビュー直後、友達にデビューした事を教えずに活動していた事、そして"自分はこれからいったいどうなっていくんだろうか"という、誰にも言えない不安な気持ちを抱えていたこと。そんな気持ちを歌詞に書いているんです」。
「彼女の歌詞は、彼女自身の実体験や想像を膨らませながら、書くことが多いんです。その時、注意しているのは、必ず前向きなメッセージを歌詞に入れることです。これは、彼女自身が"私は音楽から力をもらっている。だからこそ、私の曲を聴いてくれる人にも、ポジティブな気持ちを持ってもらえるようなメッセージを歌詞から感じとって欲しい"という彼女の願いが込められているからなんです」。
「曲は、J-POPではあるけど、雰囲気は洋楽に近い作り。曲全体を聴いてもほとんど気が付くことはありませんが、ドラムのループを何本も重ねて絶妙なグルーブ感を生みだしているのが特徴です。コーラスワークも、カラオケに行った時に、思わずサビの部分を一緒に歌いたくなるようなラインを意識して作っています」。
こうして、2000年4月に、倉木麻衣の3rdシングル「Secret of my heart」はリリースされるのでした。
2000年4月にリリースされた、倉木麻衣の3rdシングル「Secret of my heart」は、日本テレビ系アニメ『名探偵コナン』のエンディングテーマ曲として起用され、セールスチャート最高位2位、約97万枚の売上を記録します。
「この曲は、デビュー直後、新しい世界に戸惑いを覚えながらも、自分が選んだ道を歩き始めた彼女の複雑な心境を綴った内容で、当時の彼女だからこそ書くことができた歌詞、そしてその気持ちを一番理解している彼女しか歌えない大切な曲だと思います」。
最後に、制作ディレクターを務めた西室さんはこう語ってくれました。
一人の少女の素直な心情を綴った、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.マン・イン・ザ・ミラー/マイケル・ジャクソン
M2.Baby I like/倉木麻衣
M3.Love,Day After Tomorrow/倉木麻衣
M4.Secret of my heart/倉木麻衣
169回目の今日お届けしたのは、「佐野元春/CHRITMAS TIME IN BLUE-聖なる夜に口笛吹いて-」でした
「君のレコードを作ってみたい」。
1979年春、当時生まれたばかりのレコード会社「エピックレコード」ディレクター、小坂洋二は、何百本と送られてきたデモテープの中から、気になる一本のデモテープを見つけ、その歌声の持ち主にこう声を掛けます。声を掛けられた、その歌声の持ち主は、当時、広告代理店に勤め、FM東京でラジオ番組の制作を担当していた、佐野元春。
ディレクター・小坂から声を掛けられてから一週間後、佐野元春は、自らが"ミュージック・バンク"と名付けたトランクに、彼自身が作ったデモテープを目いっぱい詰め込んで、小坂の下を訪れます。ジャズ、ロック、ダンス、4ビート、ありとあらゆる幅広いジャンルの曲が収められたそのデモテープを聴いた小坂は、「どんなジャンルの音楽を作って、彼に歌わせるのがベストなのか」佐野元春本人と、何度もミーティングを重ねていきますが、結論はでません。
そんな時、佐野元春は、担当していたラジオ番組の取材で訪れたサンフランシスコとロサンゼルスで、現地のラジオDJから"自分が今一番やりたいことをやればいいのさ"と勇気づけられます。帰国後、佐野元春はすぐに、「僕は、ロックンロールをやりたい」と小坂に伝え、ついに、ロックアーティスト、佐野元春が、その一歩を踏み出します。
こうして、ラジオDJのひと言をキッカケに、自分の道を見つけた佐野元春は、翌1980年3月、ロックンロールのビートに日本語を乗せた、シングル「アンジェリーナ」を発売。その後も、佐野元春は、曲作り、ライブを積み重ねる中で、次第に自らが曲をプロデュースすることに興味を持ち初め、翌1981年6月、初のセルフプロデュースシングル「サムディ」をリリースします。
佐野元春初のセルフプロデュースとなったシングル「サムディ」は、スタッフみんなが"この曲は絶対に売れる。セールスチャートのベスト10にも入る"という期待感を抱きますが、セールスは伸び悩みます。"なぜ売れないのか?"佐野元春達は次第に不安を覚えるようになります。
その不安を解消するために、佐野元春とスタッフは、何度も何度も繰り返し議論を交わしていきますが、辿り着くのはいつも「マーケット的にはダメだけど、いい音楽と、いいライブを積み重ねていけば、必ず売れる」という答えでした。
事実、佐野元春は、試行錯誤を繰り返しながらも、ライブの観客の反応、佐野元春自身がDJを務めていたラジオ番組に寄せられたリスナーのメッセージから、少しずつですが、手ごたえを感じ始めていたのでした。
そんな中、1983年の春、佐野元春は単身ニューヨークへ渡り、現地で生活し、自ら感じたファンクやヒップホップなど、当時の最先端のブラックミュージックエッセンスを詰め込んだアルバムを、現地のミュージシャン、プロデューサー、エンジニアと約1年がかりで共同制作。この『Visitors』と名付けられたアルバムが、1984年5月に発売されると、それまで佐野元春のファンたちを驚かせると同時に、新たなファンを獲得。アルバム『Visitors』は、発売2週目で、セールスチャート1位を獲得し、それまでの日本のロックに対する考え方を大きく変えるキッカケを作ります。
こうして、日本のロックミュージックの新たな旗手となった佐野元春は、翌1985年2月に発売したシングル「ヤングブラッズ」で、さらに注目を集めることになります。
1985年2月、佐野元春がリリースした18枚目のシングル「ヤングブラッズ」。この曲は、この年、1985年の「国際青年年」のイメージソングとして起用されると同時に、当時はまだ珍しかったプロモーションビデオを東京・代々木公園で撮影。佐野元春が力強く歌う姿は、TVを通して繰り返し流され、音楽ファン以外にも、ロックアーティスト・佐野元春の存在を広く知らしめることになります。
さらに佐野元春は、5月にニューヨークで録音した曲と詩集、写真集、そして絵がセットになったカセットブック『Electric Garden』を発売。この作品が、ひとつの出会いをもたらすことになります。
「僕が初めて彼に出会ったのは、この『Electric Garden』の打ち上げの席でした。僕が作った銅版画をこの『Electric Garden』に収めてもらい、彼と打上げで挨拶を交わしたんです。前の年の、1984年に彼が発売したアルバム『Visitors』を聴いて"日本のロックアーティストの中にも、勢いのある曲を作れる人がいるんだ"と思っていた僕は、彼と話ができたことが嬉しかったんです」。
佐野元春と初めて出会った時の印象について、ジャケットの絵を手掛けたイラストレーターで、
版画家でもある牧野良幸さんは、こう振り返ります。
そして、初めての出会いから僅かな時間を置いて、牧野さんの下へ佐野元春からの一本の連絡が届きます。
「彼のマネージャーから、"今年の冬、佐野がクリスマスのレコードを作るから、ジャケットに使う絵を描いて欲しい"という連絡が入ったんです。最初の打合せで、マネージャーから手渡されたのは、カセットテープに収められた曲と、ワープロで打たれた一篇の歌詞でした」。
「佐野さんがこの曲に込めたのは、"世界を見渡してみれば、幸せな人、裕福な人、貧困に苦しむ人、戦争で家を焼かれ生活に苦しむ人、人種問題などに悩まされる人など、色んな人達がいるけど、クリスマスは一年で一番特別な日。どんな状況に置かれている人も、この日だけは幸せな気分に浸って欲しい"という思いだったんです。僕は、彼のその想いをジャケットに描くことを決め、カセットテープに収められた曲を聴きながらキャンバスに向かったんです。いかにもクリスマスらしい、高揚感溢れるそのメロディに、僕はワクワクしながらジャケットの絵を描いていったんです」。
こうして、牧野さんが聞いたトラックに、スライ&ロビーやB-52'sなどを手掛けたプロデューサー、スティーブン・スタンレーがレゲエ調にミックスを加え、1985年11月、佐野元春にとって、初めてのクリスマス・ソングとなる12インチレコード「CHRISTMAS TIME IN BLUE-聖なる夜に口笛吹いて」がリリースされるのでした。
1985年11月にリリースされた、佐野元春の「CHRISTMAS TIME IN BLUE-聖なる夜に口笛吹いて-」は、12インチレコードながらもセールスチャートの最高位7位、約13万枚の売上を記録します。
「知ってのとおり、クリスマスは1年のうちでも特別な日。僕は十代の頃、仲間達とのクリスマスパーティで、みんなは思い思いのガールフレンドを傍らに聖なる夜を楽しげに祝福しているのに、ピアノに向かって、バカみたいに何度も何度も繰り返し、ホワイトクリスマスか何かを歌っていて、あまり楽しくなかったんです。それが、いつの頃からか、毎年クリスマスの時期が近づくたびに、自分でも1曲、何かクリスマスについての歌を書いてみたい、そんなふうに思うようになっていました。
この曲のレコードを手にしてくれた誰もに、平和なクリスマスが訪れることを、そして皆さんの美しい夢が実現することを願って」
「CHRISTMAS TIME IN BLUE」のインナーに執筆した「ハートランドからの手紙」の中で、佐野元春は自ら、こう記しています。
世界中が幸せになることに願いを込めた、クリスマス・ソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アンジェリーナ/佐野元春
M2.サムディ/佐野元春
M3.ヤングブラッズ/佐野元春
M4.CHRISTMAS TIME IN BLUE-聖なる夜に口笛吹いて-/佐野元春
168回目の今日お届けしたのは、「クリスタル・ケイ/hard to say」でした
1986年2月、神奈川県横浜市に生まれたクリスタル・ケイは、"シンシア"や"シュンケイ"の名前で、シンガーとして活動していた母親の影響で、幼い頃からいつも音楽と触れ合っていました。
「家の中では絶えず音楽が流れていて、時には母親と一緒に音楽関係の仕事場に行く機会もありましたし、彼女にとって音楽は、小さな頃から身近な存在だったと思います。まだ、彼女が4歳の時、母親の仕事現場で遊んでいた時に、音楽関係者にスカウトされ、NECの家庭用ゲーム機「PCエンジン デュオ」のCMソングを歌ったのがCMデビューで、それ以降、彼女は、資生堂やスプライトのCMソングなどを歌うことになります」。
後にクリスタル・ケイの担当ディレクターを務めた大原さんは、当時のことについて、こう話してくれました。
クリスタル・ケイは、子供の頃からCMソングを歌うシンガーとして活動する一方で、プライベートでは、ジャネット・ジャクソン、TLC、デスティニーズ・チャイルドなど、当時アメリカのヒットチャートを賑わせていたR&B音楽にも夢中になっていきます。
1999年、クリスタル・ケイが13歳の時に歌ったサントリーの清涼飲料水「ビタミンウォーター」のCMソングに、"あの歌声は誰"という問合せが、音楽関係者や一般の人達から数多く寄せられます。
これをキッカケに、それまでプロのシンガーを目指すという訳ではなく、ちょっとした遊び感覚でCMソングを歌っていたクリスタル・ケイの人生は、大きく変わり、1999年7月、彼女は1stシングル「Eternal Memories」でデビューすることになるのでした。
1999年7月、クリスタル・ケイは1stシングル「Eternal Memories」をリリースし、セールチャート最高位47位を記録します。
「小さな頃から歌を歌っていた彼女は、メジャーデビューしたからと言って特にプレッシャーを感じるようなことはありませんでした。また、スタッフは、彼女の一番の特長である歌唱力を最大限活かすために、常に新しい事にチャレンジし続けようという気持ちを持っていました。そのために、いつも同じプロデューサーに頼るのではなく、常に新しいサウンドを求めて、その時代時代に流行っている音楽を聴いて、彼女のサウンドにとってプラスになるものは、取り入れていくことを考えていたんです」。
大原さんは、クリスタル・ケイのデビュー当時についてこう語ります。
その後クリスタル・ケイは、翌2000年3月に1stアルバム『C.L.L~CRYSTAL LOVER LIGHT 』を発売。14歳の少女でありながら、抜群のリズム感と、まったりとして、なおかつセクシーな趣のあるクリスタル・ケイの歌声は、注目を集めていきます。
「当時、彼女はまだ、楽曲のリリース以外には目立った音楽活動を控えていました。2001年に入る直前、僕が担当ディレクターになった時、スタジオで、彼女と、これからの音楽活動について話をしました。その時、彼女は、お気に入りのデスティニーズ・チャイルドのCDを持ってきて、CDから流れるメロディに乗せて歌ったんです。普通は歌声が若干ズレて聴こえるんですが、彼女はまったくズレることなく、完璧に歌いきりました。僕は、彼女の日本人離れしたグルーヴ感に魅力を感じ、"彼女に洋楽テイストの曲を歌わせたら、間違いなくヒットする"と確信したんです」。
2001年2月、音楽プロデューサー藤原ヒロシと大沢伸一から声を掛けられたクリスタル・ケイは、二人が共同プロデュースしたシングル「LOST CHILD」を発売。翌3月から公開された映画『サトラレ
』の主題歌としても起用されたこの曲で、クリスタル・ケイは知名度をあげていきます。
さらに5月に、アメリカ・アトランタ在住の日本人R&Bプロデューサー、T・KURAプロデュースによる
シングル、「Girl's Night」をリリースします。
2001年5月に、クリスタル・ケイが発売した6枚目のシングル「Girl's Night」。
「シングル「Girl's Night」は、セールスチャートこそ最高位100位。たった1週間でチャートから消えましたが、この曲をキッカケにクラブの関係者を中心にクリスタル・ケイの曲が話題になり始めたんです。プロデュースを担当してくれたT.KURAさんは、今でこそ安室奈美恵、EXILEなどの作曲やプロデュースに携わっていますが、当時は、まだまだ無名でした。しかし、この曲で手掛けた
斬新なアレンジが、クリスタル・ケイが追求しようとしていた洋楽テイストを、巧く引きだしてくれたんです」。
その後クリスタル・ケイは、7月に、同じくT.KURAプロデュースによるシングル「Ex-Boyfriend」を、8月には2枚目のアルバム『637-always and forever-』をリリース。特にアルバム『637-always and forever-』は、セールチャート最高位19位にランクインし、彼女の目指す音楽が、すこしづつユーザーに認知されていることを証明することになります。
さらにクリスタル・ケイは、12月に日本武道館で行われたJFNのイベント
『FM FESTIVAL'01 Dream Collaboration』出演し、ここである運命的な出会いを果たします。
「FM FESTIVALのライブでクリスタル・ケイは、当時、多彩な音楽性で話題となっていたm-floと共演を果たし、TAKU(m-flo)meets Crystal Kay meets YOU THE ROCK☆として、m-floの「come again」をセッションして、観客を沸かせたんです。そしてその日のうちに、彼女はm-floから"曲を作るから歌って欲しい"とオファーを受けるんです。それまでまったく面識もなかったアーティストからも、一夜にして気に入ってもらい、オファーを受けるなんて、よっぽど彼女の歌声に、何か引きつける魅力があったっていうことですよね」。
「年が明けて、TAKUが曲を作ってレコーディングがスタートしたんですが、このレコーディング自体、クリスタル・ケイにとって、斬新な体験でした。
普通、歌物の曲は、ほぼ完成したメロディにボーカルを吹き込み、曲を仕上げていくスタイルがほとんどなんですが、この曲は違っていたんです。TAKUが作ったトラックに合わせて、クリスタル・ケイがボーカルを吹き込み、さらにそのトラックにアレンジを加えて作っていったんです。セオリー通りではない、DJならでは曲の作り方に、クリスタル・ケイも初めは不安そうな表情を浮かべていましたが、曲のアレンジがどんどん変わっていく様子に、いつの間にかその不安も消え、気が付いたら彼女はノリノリでTAKUのアレンジ姿を見つめていました」。
こうして、2002年8月、m-floのTAKUがプロデュースを手掛けた、クリスタル・ケイの9枚目のシングル「hard to say」はリリースされるのでした。
2002年8月にリリースされた、クリスタル・ケイ9枚目のシングル「hard to say」は、セールスチャート最高位26位を記録します。
「1999年にメジャーデビューを果たしたクリスタル・ケイが、3年間の音楽活動の中で、自分の方向性を模索する中で見つけたヒントを、具体化したのがこの曲です。クリスタル・ケイは、同じ時期にデビューした宇多田ヒカル、MISIAらと同じ、J-POPのフィールドで活躍する女性シンガーだと思いますが、
抜群のグルーヴ感を持って、洋楽テイストが詰まったJ-POPを歌えるのは彼女しかいないという事を
この曲で確信することができたんです」。
最後に、大原さんはこう語ってくれました。
クリスタル・ケイが持つ、唯一無二のグルーヴ感を証明した、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.DAY AFTER DAY /Sincere
M2.Eternal Memories/クリスタル・ケイ
M3.Girl's Night/クリスタル・ケイ
M4.hard to say/クリスタル・ケイ
167回目の今日お届けしたのは、「大江千里/Bedtime Stories」でした。
「僕が初めて彼を観たのは、デビュー直前のライブです。"一体どんな新人なんだろうか"と楽しみにライブを観に行ったんですが、正直驚きました。彼は既にアーティストとして完成された気質を持っていたんです。演奏する曲は、彼が手掛けたポップ感溢れる、オシャレな雰囲気が漂うオリジナル曲ばかりでした。そして、何より驚いたのは、彼はまだアマチュアなのに、ライブの合間に衣装を着替えるんです。しかも、一回のライブで1度じゃなく、3度も。プロ顔負けのステージパフォーマンスには、本当に、びっくりしました。」
大江千里のライブを初めて観た時の印象について、後に担当マネージャーを務める松井徳彦さんはこう振り返ります。
1960年9月、大阪府に生まれた大江千里は、3歳の時に親のすすめでクラシック・ピアノを習い始めます。彼にピアノを教えた先生は、譜面に沿って弾くスタイルではなく、即興に近い形で、その時感じたことをイメージで弾き、大江千里にピアノを弾く魅力を伝えていきます。
大江千里がポピュラーミュージックの魅力に取り付かれていくきっかけは、小学校4年のときに聞いたギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」。中学時代には、オリジナルソングも作りはじめます。
1980年4月、関西学院大学に入学した大江千里は、軽音楽部に入部。友人達とバンド「トニオ・クレイガー」を結成して、自らが作詞、作曲を手掛けたオリジナルソングを歌うようになります。
1981年10月、大江千里は「トニオ・クレイガー」の噂をききつけたCBSソニーのスタッフに薦められて、CBSソニーオーディションを受け、見事、最優秀アーティスト賞を受賞します。その後、ボーカリストとしての才能を評価された大江千里は、バンドとしてではなくソロアーティストとして、1983年5月に、大村憲司プロデュースによるシングル「ワラビーぬぎすてて」、アルバム『WAKU WAKU』でデビューします。ちなみに、デビュー当時の大江千里のキャッチコピーは、当時人気コピーライターだった林真理子がネーミングした、"私の王子様、スーパースターがコトン"でした。
1983年5月、1stシングル「ワラビーぬぎすてて」でデビューした大江千里は、8月に2ndシングル「ガールフレンド」を、12月に3rdシングル「ふたつの宿題」をリリースします。
「結果的に、どのシングルもセールスチャートにランクインしなかったんですが、本人も、スタッフも特に悲観的にはなっていませんでした。当時、エピックレコードは、"ライブのエピック"とも呼ばれ、所属アーティストは、レコードのセールスよりも、ライブ動員をいかに増やしていくかを優先的に考える風潮があったんです。それは大江千里の場合も同じで、彼は東京なら「新宿ルイード」、関西なら「神戸チキンジョージ」でほぼ月1回のライブを重ねて、とにかく大江千里というアーティストを知ってもらうことにしたんです」。
スタッフ一丸となっての地道なライブ活動の積み重ねで、大江千里のライブ動員は少しずつ増え始め、1984年1月に、東京、大阪で初めてホールライブを成功させます。さらに、大江千里が味覚糖キャンディー「DATE KISS」のTMCMに提供した6枚目のシングル「十人十色」は、11月に発売後、最高位58位ながら、初めてセールチャートにランクイン、勢いにのった大江千里は翌1985年3月に7枚目のシングル「REAL」をリリースします。
1985年3月、大江千里3枚目のアルバム『未成年』に先行する形で発売された、7枚目のシングル「REAL」は、セールスチャート最高位35位、約2万9千枚の売上を記録します。
「6枚目のシングル「十人十色」のスマッシュヒットで、ファンのすそ野が広がって、このシングル「REAL」で、彼の人気に一気に火が付き、その勢いのまま、彼は東京・渋谷公会堂を含む、全国8ヵ所を回る初めての全国ツアーにも挑戦し、成功させたんです」。当時の様子について、元マネージャーの松井さんはこう振り返ります。
さらに大江千里は、12月に、4枚目のアルバム『乳房』を発売します。
「大学を卒業して、音楽に専念する環境が整った大江千里は、それまで以上に集中して曲を作り始めたんです。歌詞も、曲も、自分が納得するまで何度も何度も作り直し、アルバム『乳房』を作る時には、レコーディングの日になっても"歌詞が納得できない"という理由で、レコーディングが中止になったこともありました」。
1986年、大江千里は2月に9枚目のシングル「コスモポリタン」を発売した後、春から秋に発売を予定したアルバム制作に取り掛かります。
「この頃、大江千里は1950年代末に始まったフランス映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」に傾倒していて、次のアルバムは"スタンダードな作品を作りたい"と話していました。そこで、僕らスタッフは、スタンダードなポップス、バラード曲のアレンジでは定評のあったアレンジャーの大村雅朗さんに、アレンジをお願いしたんです」。
大江千里は、デモテープを作った後の8月に、ジャケット撮影と、歌詞の世界のイメージを膨らませるために、フランスへ渡ります。
「フランスでイメージを膨らませながら歌詞を書いている最中、彼はこの曲について、"純粋な天使が舞い降りてくるようなクリスマス・ソングにしたい"という気持ちを持ち始めたそうです。それまで、アルバム収録曲に、クリスマスをテーマにした曲を作ったことはあったんですが、シングルとしては発売していませんでした。そこで、当初はアルバムに収める曲として作っていたこの曲を、急遽アルバムから外して、限定12インチシングルとして、クリスマス直前にリリースすることが決まったんです」。
9月に、フランスから帰国した大江千里は、改めてこの曲のレコーディングを再開。語りかけるような、大江千里の優しい歌声、そして気持ちを温かくしてくれる子ども達のコーラス、さらには大村雅朗さんによる幻想的なストリングを加えて曲は完成。クリスマスをイメージした、緑色のレコード盤で作った、大江千里11枚目のシングル「Bedtime Stories」は、1986年12月にリリースされるのでした。
1986年12月にリリースされた、大江千里11枚目のシングル「Bedtime Stories」は、セールスチャート最高位13位、約3万2千枚の売上を記録します。
「大江千里がデビュー以来、ずっと作りたいと思っていたクリスマス・ソングのシングルレコード。その想いを込めたこの曲は、彼にとって間違いなく大切な1曲です。彼は、その後も、何曲かクリスマスをテーマにした曲を作ったんですが、この曲以上に、彼のこだわりが込められた曲は無いと僕は思っています。彼の歌声、子ども達のコーラス、そして大村さんのアレンジ。三つが巧くハマったからこそ生まれた、クリスマス・ソングだと思います」。最後に、松井さんはこう語ってくれました。
アーティスト、そしてスタッフのこだわりが、J-POPクリスマス・ソングの名曲を生み落した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アローン・アゲイン/ギルバート・オサリバン
M2.ワラビーぬぎすてて/大江千里
M3.REAL/大江千里
M4.Bedtime Stories/大江千里
166回目の今日お届けしたのは、「ハンバート ハンバート/夜明け」でした。
「僕が4歳の時に、10歳上の従兄が、買ってもらったばかりのエレキギターを持って嬉しそうにしていたのが忘れられなくて、僕も、中学卒業直前にヤマハのフォークギターを買ってもらったんです。嬉しくて仕方ありませんでした。実は、7歳の時にバイオリンを習い始めていたんですが、僕の音楽の原点は、やっぱりギターだったんです」。
ギターとの出会いについて、ハンバート ハンバートの佐藤良成さんはこう振り返ります。
1978年10月、神奈川県に生まれた佐藤良成は、小学校に入学と同時にバイオリンを習い始めます。
「バイオリンを習い始めた僕でしたが、よく聴いていた音楽は、ザ・ドリフターズや、CCRなどの、ちょっと懐かしめの洋楽だったんです。洋楽のメロディラインが大好きで、歌詞の意味は分かっていなかったけど、とにかくメロディに合わせて鼻歌を歌っていました」。
1994年春、佐藤は東京・和光高校に入学して間もなく、同級生2人と、ボブ・ディラン、ザ・バンドのコピーバンド「プランクトン」を結成します。
「フォークギターを買ってもらった僕がカバーし始めたのが、ボブ・ディランやザ・バンドでした。曲を聴く人に、どこか懐かしさを感じさせてくれる彼らの曲が、僕の心を捉えたんです」。
1994年、佐藤良成が作ったボブ・ディラン、ザ・バンドのコピーバンド「プランクトン」は、学園祭を中心に活動します。
「この時の活動は、今改めて振り返ってみると、今のハンバート ハンバートの原点にもなっているような気がします。特別何かに責め立てられるようにして音楽をやっていた訳ではなく、ただ自分達が好きな音楽を、時間がある時に自由にやっていただけ。でもそれが、いいリズムを作っていたんだと思います。ボブ・ディランに魅かれたのも、僕のリズムと彼の音楽のメロディのリズムがピッタリと合ったんでしょうね」。佐藤さんは、当時についてこう振り返ります。
1997年春、佐藤良成は高校卒業と同時にバンド「プランクトン」を解散しますが、早稲田大学に進学と同時に、すぐに、次のバンドを結成するために、仲間達に声をかけます。
「大学の同級生や、高校の同級生が進学していた和光大学の仲間達に声をかけてバンドを作ったんですが、そのメンバーの中の一人が、佐野遊穂だったんです。彼女は僕より2歳年上なんですが、年の差を感じさせない雰囲気で、すぐに打ち解けてバンドに入って来たんです」。
佐藤良成、佐野遊穂ら6人のメンバーが集まって、1998年、バンド「ハンバート ハンバート」が結成されます。
「バンド名は、ナボコフの小説『ロリータ』に出てくる、ハンバート ハンバート教授から名付けました。
幾つか思いついたバンド名の中で、一番おしゃれだと思って付けたのが、この名前でした。
結成当時演奏していたのは、自分達が作ったオリジナルのアップテンポな、ポップスです。
高校時代は、とにかくボブ・ディランにこだわっていた僕ですが、ハンバート ハンバートを結成前からは、オリジナル曲を作るようになったんです」。
後に、ファーストアルバムに収録されることになる、佐藤良成が18歳のときに作った
"僕はもう出て行くよ"。
「この曲をはじめ、数曲のオリジナル曲をレパートリーにして、ハンバート ハンバートは、渋谷、恵比寿、そして吉祥寺のライブハウスを拠点に活動していたんです。メンバーみんな学生だったし、音楽優先ではなく、どちらかと言えば、学業の合間をぬって音楽活動をしていたという感じでした」。
そして、結成から1年が過ぎた、1999年の暮れ、佐藤良成は友人の紹介でMIDIレコードのスタッフと出会います。
「他のメンバーがどんな気持ちだったのかは分かりませんが、僕はいつかCDを出してみたいと思っていたので、MIDIレコードの人と初めて会う時に3~4曲入ったデモテープを持っていったんです。
ところが、MIDIレコードのスタッフに、"3~4曲じゃだめだよ。アルバム1枚分10曲ほど作ってこなくちゃ"とあっさり言われたんです。拍子抜けと言うか、何というか。帰ってからすぐに、曲作りに取りかかりました」。
MIDIレコードのスタッフに言われたひと言を胸に、ハンバート ハンバートは一念発起し、曲作りに励みます。しかし、その一方で、大学卒業を控えたバンドのメンバーたちは、就職を理由に、続々とバンドを去っていきます。
「ひと足先に大学を卒業した佐野は、一度は就職したんですが、わずか半年余りで退職し、バンド活動に専念していました。他のメンバーが続々とバンドを去って、気が付いたら、残っていたのは、佐野と僕だけです。僕は、"音楽で勝負したい"と思っていたので、そのまま佐野と活動を続けることにしたんです」。
翌2000年、デモテープを制作中に、佐藤は、一人、ベトナムを訪れます。
「特に目的があった訳ではなく、あてのない、ギターを持っての放浪の旅でした。ある日、ホーチミンのゲストハウスに泊まった時、気晴らしに部屋でギターを弾いていると、"ふっ"と曲のメロディが浮かんできたんです。僕は、曲を意識的に作る時もあれば、無意識に浮かんでくる時もあります。この時は、無意識の内に、メロディが浮かんできたんです。何度も何度も、メロディを書き直し、足りない部分は新たに考えてメロディを作って、完成したのがこの曲です」。
この曲も含めて、全部で9曲を作った佐藤と佐野の二人は、改めてMIDIレコードのスタッフと会って、デモテープを聴かせたところ、見事CD化が決定。佐藤が、ベトナムで作ったこの曲「夜明け」が収められた、ハンバート ハンバートの1stアルバム『for hundreds of children』は、2001年6月にリリースされるのでした。
2001年6月に発売された、ハンバート ハンバートの1stアルバム『for hundreds of children』に収められた「夜明け」。
「1stアルバムは、僕と佐野であれこれ試行錯誤しながら作った作品です。レコード会社のスタッフからは、"いい意味で言えば素朴だけど、悪く言えばまだまだ未熟だ"と言われたけど、今改めて振り返ってみれば、この曲は、どこか懐かしさを感じさせてくれる作りで、フォーク、トラッド、童謡をベースにしている今の僕らの原点とも言える曲に仕上がっているんです。ある意味、この曲があったからこそ、今の僕らが存在しているとも言える曲ですね」。
最後に、佐藤さんはこう語ってくれました。
旅先で浮かんできた素朴なメロディが、個性派ユニット、ハンバート ハンバートの音楽スタイルを
産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1. 雨を見たかい/CCR
M2.風に吹かれて/ボブ・ディラン
M3.僕はもう出て行くよ/ハンバート ハンバート
M4.夜明け/ハンバート ハンバート
165回目の今日お届けしたのは、「SMOKY/Char」でした。
「僕は音楽好きだった兄の影響で、小学一年の頃からエルビス・プレスリーやベンチャーズを聴き始めたんです。また、同じ頃にクラシックピアノを習い始め、8歳の時にはビートルズの「I Feel Fine」のイントロに惚れて、兄に貰ったギターを弾くようになったんです」。
自らの音楽との出会いについて、Charさんはこう振り返ります。
1955年6月、東京都に生まれた竹中尚人ことCharは、小学校に入学して間もなく、5歳年上の兄にギターを貰ったことをキッカケにギターを弾くようになります。
「ギターを弾き始めたからと言って、ピアノを習うことを止めた訳ではないんです。実は、当時、兄が組んでいたバンドに入りたいと思っていた僕は、兄のバンドで、たまたま空いているポジションがキーボードだったので、必死にキーボードを練習していました」。
残念ながら、兄のバンドに入れてもらえることは叶わなかったCharですが、1966年、彼が11歳の時に、ついに、友人二人と初めてのバンド「FOX」を結成します。
「「FOX」は、ローリング・ストーンズや、ドアーズ、アニマルズ、そしてクリームのコピーバンドでした。特に、クリームのメンバー、エリック・クラプトンの"ピンッ"と跳ねる感じじゃなくて、"ギューン"って音で弾くギターの音を聞いた瞬間、"これはヤバい。あんな風に弾きたい"って思った僕は、とにかくクラプトンの曲を全部コピーしたんです」。1967年、FOXは、ヤマハ・ライトミュージック・コンテストに出場し、クリームの「I'm so glad」をカバーして、見事入賞を果たすのでした。
1967年、FOXはヤマハ・ライトミュージック・コンテストに出場し入賞を果たします。しかし、その3年後の1970年、Char達が中学を卒業する時、自分達の思い通りに曲をカバーできない事に我慢できなくなった彼らは、FOXを解散します。
翌1971年、Charは友人達と新たなバンド「GAS MASK」を結成すると同時に、知人の紹介で知り合ったスタジオミュージシャンのギタリスト萩原サトルさんから誘われて、Charはスタジオミュージシャンとしての活動をスタートします。
「初めて萩原さんに声を掛けられた時、僕は、"世の中にはこんな仕事もあるんだ"という不思議な感覚を覚えました。その頃、僕はギターの教則本のテープの録音や、あおい輝彦さんのLPレコードの中で、ギターを弾いたりしたんです」。
「バンドGAS MASKとしても、東京ローカルのアマチュア主催のライブや、大学の学園祭、そして夏場は海の家のハウスバンドなど、演奏できる場所ならどこへでも行って演奏していたんです。まさに四六時中ギターを弾いている感じでした」。
その後も、Charは、ほぼ1年毎にバンドを作り変える中で、音楽仲間を増やし続け、1973年には、伝説のバンド「SOMOKY MEDICINE」を結成します。
後に「金子マリ&バックスバニー」のメンバーとなる鳴瀬ヒロ、一風堂のメンバーとなる藤井章司、音楽プロデューサーとして活躍する佐藤準、そして日本の女性ロックボーカリストの草分け的存在である金子マリと共に作った「SMOKY MEDICINE」
「SMOKY MEDICINEは、ハードなロックンロールが大好きなメンバーが集まって作ったバンドでした。第2期ジェフ・ベックグループをコピーしながら、自分達のスタイルを作っていったんです。学園祭や、内田裕也さんが企画するロックコンサート。冬場は、渋谷のキャバレーで専属バンドとしても、演奏していたんです」。
当時の音楽誌は、彼らに注目し、音楽関係者の間でも話題になり始めますが、翌1974年、SMOKY MEDICINEは、メンバー間の音楽的志向の食い違いからわずか1年半余りで解散。Charは、自分の
ソログループのメンバーを探すために、単身アメリカへと渡ります。
その後Charは、渡米と帰国を繰り返す中で自分の気の合う音楽仲間を探し続け、
佐藤準と3人のアメリカ人ミュージシャンと共に作ったメジャー1stシングル「NAVY BLUE」を、1976年6月にリリースするのでした。
1976年6月に、Charがソロ名義で発売した1stシングル「NAVY BLUE」。
「SMOKY MEDICINE解散後、新たなバンドを作ろうと思ったけど、結局思い通りのメンバーが集まらず、ソロ名義で1stシングルをリリースすることになりました。でも結局は1stシングルを作ったメンバーで、その後アルバムを作っていったんです」。
「1stシングルを発売した後、すぐにアルバム制作に取り掛かかり、三重県・合歓の郷で曲作りを兼ねた合宿をしました。メンバーは、僕とキーボード・プレーヤーの佐藤準以外、3人全てがアメリカ人でした。それは、自分にとって一番良いのは、気の合うミュージシャン達かもしれないけど、全く知らないメンバーを1から捜しだして、1から音を作りだしていくのも面白いと思ったからなんです」。
「アルバム用に作った曲の大半は、基本的にはまずピアノでベースを作った後、アレンジを加えて仕上げていくスタイルだったんです。この曲は、歌詞も最初は一番だけ作ってレコーディングに臨み、途中でメンバーとボーカルパートを決めながら作りあげていきました。
実は、この曲は、レコーディングの直前に、当時愛用していたギター、ストラトキャスターを盗まれて、偶然近くにあったムスタングを手にして作ったんです。ギターコードのE9だと思ってネックを掴んだら、それは実はEm9で、気付かずに弾いてしまったら、いい響きの音がして、"これだ"と思った僕は、この曲をそのままムスタングで作ったんです」。
一度聞いたら忘れられない、印象的なフレーズで始まる、Charを代表するこの曲「SMOKY」は、1976年9月に発売された1stアルバム『Char』の一曲として発売されます。
1976年9月に発売された、1stアルバム『Char』に収められた「SMOKY」。
「発売から色々な形で、何度も演奏してきたこの曲は、聞く時によって、色々な感じ方があると思います。聞く人によって捉え方は色々とあると思うので、僕は聞く人がそれぞれの感性で感じてくれれば、本望です」。最後に、Charさんはこう語ってくれました。
災いが生んだ奇跡が、日本のロックの名曲を生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.I Feel Fine/ザ・ビートルズ
M2. I'm so glad/Cream
M3.NAVY BLUE/Char
M4.SMOKY/Char
164回目の今日お届けしたのは、「22才の別れ/風」でした。
「ごめんなさい。僕、音楽部に入部することが決まっているんです。応援団には入部できません」。
1967年4月、大分県立大分舞鶴高校に入学した伊勢正三は、所属クラブを決める場で応援団に勧誘されますが、とっさに出たひと言が、その後の彼の運命を決めるキッカケとなります。
「僕は、中学2年の時、両親に誕生日プレゼントでフォークギターを買ってもらったんですが、音楽はもっぱら聴くのが中心で、坂本九や、加山雄三、ザ・サベージなど当時流行りのGSを聴いていたんです。中学時代は美術部で、絵を描くことが大好きだった僕は、高校入学後も美術部に入るつもりだったんですが、応援団入部を断った手前、仕方無しに音楽部に入部することになったんです」。伊勢正三さんは、音楽活動を始めるキッカケについて、こう振り返ります。
「音楽部に入部して間もなく、音楽部の部長で2歳年上の南こうせつが、"君、ギター弾けるの?一緒にバンド組もうよ"と誘ってきたんです。多少ギターを弾けた僕は、南こうせつの誘いに乗って、僕の同級生と3人で、カレッジフォークグループ「ヤングフォークスリー」を結成したんです」。
ヤングフォークスリーは、オリジナル曲や、カレッジフォークのカバーを中心に演奏を行い、南こうせつが卒業した後は、「S&S」と名前を変えてフォークデュオとして活動を続けます。
「当時、S&Sは、ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト大分県大会で優勝するなど、地元では、まずまずの評価を集めていました。高校卒業した後、僕は九州の大学への進学を考えて、福岡で浪人生活を送っていたんですが、ひと足先に上京して音楽活動を始めていた南こうせつが、"伊勢君、君も上京して、僕と一緒に音楽活動をやらないか"と誘ってきたんです。最初、僕は音楽で飯を喰っていくつもりは全くなかったんですが、彼が何度も誘ってくるので、最後には根負けして、一緒に音楽活動することを決めたんです。ただ、普通に就職する事を望んでいた両親が、音楽活動を認めてくれるはずが無いと思った僕は、"東京近辺の大学で勉強したい"と嘘をついて上京を許してもらったんです」。
1971年春、伊勢正三は千葉工業大学に進学しますが、すでに、フォークシンガーとしてデビューしていた南こうせつと一緒に音楽活動をスタート。入学後、僅か3ヵ月で大学を中退します。
そして、8月には、南こうせつがフォークグループ「シュリークス」を脱退したばかりの山田パンダと一緒に作った「南こうせつとかぐや姫」に参加。9月に1stシングル「青春」をリリースします。
「1年前からデビューしていた南こうせつは、彼の持っていた独特のバイタリティで人気を集め、ラジオのパーソナリティを務めるほどになっていたんです。だから「南こうせつとかぐや姫」を作った頃は、僕と山田パンダの二人は、こうせつにただくっついているだけというイメージが強かったんです。でも僕は、そんなポジショニングに特に不満は無く、日々舞いこんでくる仕事をこなす事が楽しくて仕方なかったんです」。
1972年4月、南こうせつとかぐや姫は、当時フォークシンガーの代表的な存在になっていた吉田拓郎プロデュースで作った1stアルバム『はじめまして』を発売、セールスチャート最高位45位、約2万3千枚の売上を記録します。
「レコードセールスは今ひとつ伸び悩んでいましたけど、南こうせつの軽快なトークが人気を集めて、ライブ会場は、どこもほぼ満員。曲よりもトークの方が注目を浴びていたんです。"シングルヒットが1曲あれば、もっと売れる"と考えた僕らは、1973年のある日、当時、文化放送で放送作家をしていた喜多条忠さんに歌詞をお願いしたんです。翌日、喜多条さんは、電話で、南こうせつへ歌詞を伝えたんですが、こうせつは、歌詞を書きとっている最中に、頭の中にメロディが浮かんできたそうで、電話を切った後すぐに曲を作ったんです」。
喜多条忠の大学時代の実体験を描いたその唄は、1973年9月に、南こうせつとかぐや姫5枚目のシングル「神田川」としてリリースされるのでした。
1973年9月に、南こうせつとかぐや姫5枚目のシングルとしてリリースされた「神田川」は、セールスチャート1位を獲得、最終的には約160万枚近くの売上を記録する大ヒット曲となります。
「「神田川」の大ヒットで、今まで以上に注目を浴びるようになった僕らでしたが、南こうせつは、僕と山田に、"バンドをより成長させていくためにも、次のアルバムではみんなそれぞれが曲を作ろう"と言って、ノルマを課したんです。バンド名からも南こうせつをはずして、かぐや姫に変更しました。しかし、それまで僕は、歌詞は書いていましたけど、曲はアマチュア時代以来作っていなかったんです」。
「レコード会社と約束した締切も過ぎ、こうせつと山田の曲は完成していたんですが、僕だけ出来ない。とりあえず1曲、「なごり雪」は作ったんですが、もう1曲はどうしても浮かんでこない。レコーディング当日になって、「なごり雪」のレコーディングが終わっても、残る1曲を作り切れなかった僕は、スタッフに"もう1日時間をください"とお願いして、自宅に戻ったんです」。
「「なごり雪」が、長調を基本としたしっとりとした曲だったので、同じタイプの曲は作りたくないと考えた僕は、"短調をベースとしたメロディで曲を作ろう"と考え、ほぼ徹夜でこの曲を作ったんです」。
こうして、伊勢正三が、悩みに悩みぬいたこの曲は、「なごり雪」と共に、かぐや姫が1974年3月にリリースした4枚目のアルバム『三階建の詩』に収録されます。
アルバム『三階建の詩』は、セールスチャート1位を獲得、約36万枚の売上を記録して、かぐや姫のメンバーは、その成果に満足感を覚えます。しかしその一方で、3人は、前の年に発売したシングル「神田川」のヒットをキッカケに、メンバーの知らないところで、歌をモチーフにした映画化の話が進むなど、レコード会社のビジネス戦略に危機感を覚え、かぐや姫の解散を決意。南こうせつと山田パンダは、それぞれフォークシンガーとしての道を歩んでいくことを決めます。
「南と山田の二人が、さっさと進路を決めて、僕は取り残されたような感じだったんですが、同じタイミングで、ジョイントコンサートなどを通じて仲良くしていたフォークグループ「猫」も解散を決め、僕はメンバーの大久保一久とデュオ「風」を作ることを決めたんです。
それで、「風」の1stシングルを決める時、レコード会社は、かぐや姫のコンサートでも人気が高かったこの曲を、当然のように1stシングル曲の候補に挙げてきたんです。僕がかぐや姫で作ったもう1曲の「なごり雪」は、仲が良かったフォークグループ「シュリークス」のメンバー・イルカのソロ曲としてプレゼントしていたので、必然的に、この曲を風の1stシングルとして選ぶしかなかったんです」。
こうして、1975年2月に、風の1stシングル「22才の別れ」はリリースされるのでした。
1975年2月に、風がリリースした1stシングル「22才の別れ」は、セールスチャート1位を獲得し、約71万枚の売上を記録します。
「僕の頭の中で、自然に生まれてきたのが「なごり雪」。それに対して「22才の別れ」は、悩みに悩みぬいて作った、ある意味作為的な曲です。僕が曲を作る時、完成度にこだわって、集中するようになったのも、ある意味この曲が原点ですね。発売当初は、どうしてもかぐや姫の曲としてのイメージが強かったこの曲ですが、シンプルにアコースティックギター2本で奏でる"風スタイル"を長年積み重ねてきたことで、この曲は伊勢正三を象徴する曲へと生まれ変わっていったんです」。最後に、伊勢さんはこう話してくれました。
土壇場まで追い込まれた中から、日本のフォークソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.上を向いて歩こう/坂本九
M2.青春/南こうせつとかぐや姫
M3.神田川/南こうせつちとかぐや姫
M4.22才の別れ/風
163回目の今日お届けしたのは、「青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド」でした。
「俺達も、バンド組もうや」。1966年のある日、広島市立幟町中学校に入学した上綱克彦は、同級生5人を誘ってバンドを結成します。
「最初は、グループ・サウンズのコピーばかりでしたが、僕は姉の影響で、ローリング・ストーンズやレイ・チャールズを聴いていたので、次第に洋楽のコピーを中心に演奏するようになったんです。最初は、ギターを弾いていたんですが、上手く弾けなくて、途中からキーボードに変わったんです。小学生の頃からピアノを習っていたので、それはスムーズにできたんです」。
バンドを始めたキッカケについて、上綱さんはこう振り返ります。
1969年春、崇徳高校に入学した上綱克彦は、同級生の石井清登ら9人で、新しく、バンド「アール9」を結成します。シカゴや、BS&Tなど、ホーンセクションを取り入れた"ブラス・ロック"を意識して作ったアール9にも、ホーンセクションが参加。高校生ながら本格的ロックバンドとして、アール9は、地元・広島では知る人ぞ知るバンドになっていきます。
「中学時代に、広島フォーク村のコンサートで、吉田拓郎が在籍していたバンド、ダウンタウンズのライブを見て刺激を受けた僕等は、いつか彼らと同じように、東京へ行ってレコードを出す事が夢でした」
1972年、高校卒業と同時にアール9は解散しますが、上綱克彦と石井清登の二人は、地元・広島のディスコやキャバレーで演奏を続け、1973年、友人らと5人組バンド「メイフラワー」を結成します。
そして、結成から1年が経った1974年のある日、上綱克彦は一人のミュージシャンと運命の出会いを果たすのでした。
「メンバーの一人が、"知り合いのミュージシャン・柳ジョージがギタークリニックで広島に来ているから、一緒に会いに行こう"と誘ってくれたんです。そこで柳と、僕らは意気投合し、当時僕らが根城にしていたライブハウスに場所を移して一緒にセッションしたんです。セッションが終わった後彼は、"君達と一緒にやるのは楽しい。東京で一緒にやらないか"と誘ってくれたんです。"遂にチャンスがやって来た"と、僕は嬉しくてたまりませんでした」。
こうして、柳ジョージとの運命的な出会いを果たした上綱克彦、石井清登、ミッキー・ヤマモト、そして、四ツ田ヨシヒロの4人は翌1975年春に上京、バンド名を「レイニーウッド」と改めます。
「上京して、柳ジョージ&レイニーウッドとしての活動を本格化させました。R&Bをベースにしたサウンドに、英語の歌詞で作ったオリジナル曲は、音楽関係者の評判も良く、ライブも好評だったんです。
ただ、自由奔放な柳ジョージのキャラクターがネックになり、やっと所属事務所とレコード会社が決まったのは1977年のことでした」。
こうして、1978年2月、柳ジョージ&レイニーウッドは、1stアルバム『Time in Changes』をリリースするのでした。
1978年2月、1stアルバム『Time in Changes』をリリースした柳ジョージ&レイ二ーウッドは、翌3月に1stシングル「酔って候」をリリースします。
「僕は、曲を作る時、小さい頃から聴いていたレイ・チャールズのような、何年経っても色褪せない、誰からも愛されるスタンダードナンバーを作ることを基本にしていたんです。時代の流れで、アレンジは変えなくちゃいけないけど、メロディの"普遍性"だけは、守りたかったんです」。
柳ジョージ&レイニーウッドは、7月に2ndアルバム『WEEPING IN THE RAIN』をリリース、その直後から、ミュージシャン萩原健一のバックバンドとしてライブツアーを展開。この萩原健一との出会いが、彼らの運命を大きく変えるキッカケになります。
「当時は、いわゆるニューミュージックと呼ばれる、フォーク調の日本語ポップスの全盛期で、洋楽ロックにのめり込んでいた僕等にとって、日本語で歌った曲は軟弱に感じて、本当は全曲英語の歌詞でアルバムを作りたかったんです。しかし、"売れるレコード"を求めていた事務所とレコード会社の方針で、僕らは、仕方なしに日本語の曲も作ったんです。今振り返ると、生意気ですけど」。
「ところが、ライブツアーを終えたとき、僕らに萩原さんが、"お前達の曲は絶対売れる。でも英語の歌詞では難しい。12月から俺が主演するドラマの主題歌に使うから、歌詞を日本語にして歌い直して欲しい"と言われたんです」。こうして、1978年12月に始まったドラマ『死人(しびと)狩(が)り』の主題歌に、
柳ジョージ&レイニーウッドの曲「雨に泣いてる」が、起用されることになるのでした。
1978年12月、アルバム『WEEPING IN THE RAIN』のタイトル曲の歌詞を、日本語に書き換え、柳ジョージ&レイニーウッド3枚目のシングルとして発売された「雨に泣いてる」。
「シングル発売直後に、音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演したとたん、僕らの生活は一変しました。街を歩けば、どこからともなく僕らの曲が流れ、レコードも売れる。柳ジョージのボーカルと骨太なサウンド。僕らの音楽が、洋楽、ロックが好きな人の心を掴んだんです」。
日本を代表するロックバンドとしての階段を上り始めた柳ジョージ&レイニーウッドは、
1979年3月に3枚目のアルバム『Y.O.K.O.H.A.M.A.』を、11月に4枚目のアルバム『RAINY WOOD AVENUE』をリリース。中でもアルバム『RAINY WOOD AVENUE』は、セールスチャート初登場1位を記録。当時のロックバンドとしては、異例ともいえる快挙でした。
翌1980年、柳ジョージ&レイニーウッドは、徳間ジャパンからワーナーミュージックにレコード会社を移籍し、7月に2枚組のアルバムをリリースすることになります。
「このアルバムの収録曲は、ライブツアーの合間に作ることになって、この曲も、1週間ぐらいの制作期間で作ったんです。1日で8曲も作った中の1曲だったこの曲は、作詞家に"どこか懐かしさを感じさせてくれる世界観"というテーマを伝えて、歌詞を付けてもらったんです。
完成した曲をレコーディングする時、メンバーのミッキー・ヤマモトがボロボロ泣きながら歌っていたのが、今でも忘れられません。歌詞、メロディ、そして柳ジョージの哀愁溢れる歌声。全てが見事に組み合わさって、彼は故郷のアメリカの事を思い出していたんだそうです。曲が、想像以上の力を生み出していたんです」。
1980年7月、同時発売されたアルバム『Woman and I...OLD FASHIONED LOVE SONGS』にも収められた曲「青い瞳のステラ、1962年 夏...」は、7枚目のシングルとして発売されます。
1980年7月にリリースされた、柳ジョージ&レイニーウッドのシングル「青い瞳のステラ、1962年 夏...」。
「どの曲にも色んな思い出があるけど、この曲は柳ジョージ&レイニーウッドの代表曲として、発売から30年近く経った今でも、僕らの存在を知ってもらう、キッカケにもなっています。まさに、スタンダードナンバーですよね。また、曲を聴いた人達からも、"懐かしいという言葉がピッタリな曲"と言ってもらっているんです。柳ジョージとの出会い、萩原健一が言ってくれたひと言。運命とも言える出会いの中からチャンスを掴み、この歌で思いを実現することができたんです」。最後に、上綱さんはこう話してくれました。
運命の出会いがもたらした、日本のロックバラードのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Georgia On My Mind/レイ・チャールズ
M2.酔って候/柳ジョージ&レイニーウッド
M3.雨に泣いてる/柳ジョージ&レイニーウッド
M4.青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド
162回目の今日お届けしたのは、「DOWN BEAT STOMP/東京スカパラダイスオーケストラ」でした。
1985年頃から、東京・渋谷のストリートでゲリラ的な路上パフォーマンスを演じたり、新宿や六本木のクラブを中心にライブを積み重ねて、話題を集めていったスカ・バンド「東京スカパラダイスオーケストラ」。豪華絢爛なホーンと、最高級のグルーブ、圧倒的なライブパフォーマンスで動員を増やしていった東京スカパラダイスオーケストラは、結成から4年後の1989年11月に、ファイルレコードからアナログ盤「東京スカパラダイスオーケストラ」をリリースします。
「僕が、バンドに入ったのは、結成から2年後の1987年です。知人から、当時バンドのリーダーだったASA-CHANGを紹介され、"スカが大好きな人達を集めて作ったバンドがあるから、一緒にやってみない"と誘ってくれたんです。僕は別のバンドを辞めた後、音楽活動を休んでいた時期でもあったので、"面白そうだな"と思って、二つ返事で参加を決めたんです」。東京スカパラダイスオーケストラのメンバーの川上つよしさんは、バンドに入るキッカケをこう振り返ります。
「当時、"スカ"という音楽ジャンルは、どちらかと言えばアンダーグラウンド的なイメージだったんですが、ASA-CHANGを始めメンバーみんなは、そんなイメージは全く気にせず、インストであり、歌モノであり、とにかく、スタイルは問わずに"スカをいかに楽しむか"という事ばかり考えていたんです」。
1990年4月、東京スカパラダイスオーケストラは、アナログ盤をリリースから半年後に、1stシングル「モンスターロック」を、翌5月に1stアルバム『スカパラ登場』をリリースします。
アルバム『スカパラ登場』は、全曲インストゥルメンタルの作品でありながら、セールスチャート10位を記録して、音楽関係者を驚かせます。
また、その人気ぶりを見せつけていたのがライブで、1991年に、日本武道館におよそ1万人を集めたライブを成功させた後も、彼らが現れる会場はいつも満杯で、熱狂の渦が巻き起こっていました。
一方で、小泉今日子や小沢健二、高橋幸宏、山下洋輔など、自分達とは異なったジャンルのミュージシャンたちとも積極的にセッションを積み重ねて、その音楽の幅を拡げていくのでした。
1995年6月、東京スカパラダイスオーケストラは、それまで何度もセッションを重ねていた、小沢健二、高橋幸宏らをゲストボーカルに迎えたカバーアルバム『GRAND PRIX』をリリースします。
「当時、僕らの音楽に対するイメージは、インストが中心で、歌モノは余り注目されていなかったんです。しかし、アルバム『GRAND PRIX』で、多彩なジャンルのアーティストをゲストボーカルに迎えてカバーアルバムを作った事で、周りの見かたも、"彼らは何でもできるバンドなんだ"という風に変わってきたんです」。
その後、東京スカパラダイスオーケストラは、アルバム『GRAND PRIX』完成直後に、結成当時からのメンバーでフロントマンを務めていた、クリーンヘッド・ギムラが亡くなるという悲劇に見舞われますが、翌1996年9月には亡くなったギムラの実弟・杉村ルイをボーカルに迎えて作ったアルバム『トーキョー・ストラット』を発売。1998年8月には、杉村ルイをパーマネントボーカリストに迎えて作ったアルバム『ARKESTRA』を発売します。
こうして、少しずつボーカル色を強めていった東京スカパラダイスオーケストラは、2001年に彼らにとっては異例とも言える試みに挑戦します。
「2000年7月に、ヨーロッパでアルバム『FULL-TENSION BEATERS』を発売し、12月には、ヨーロッパ5ヵ国で11本のライブを行ったんです。国内はもちろんですが、海外でもインスト・バンドとしての自信を掴んだ僕らは、次の何にチャレンジとして、ゲストボーカルを迎えたシングルを作ることを考えたんです」。
2001年8月、東京スカパラダイスオーケストラは、歌モノ・シングル3部作の第1弾で「オリジナル・ラブ」の田島貴男をボーカルに迎えた「めくれたオレンジ」を、12月にはロックバンド「thee michelle gun elephant」のチバユウスケをボーカルに迎えた「カナリヤ鳴く空」を、そして、翌2002年2月には奥田民生をボーカルに迎えたシングル「美しく燃える森」をリリースします。中でも「美しく燃える森」は、セールスチャートの最高位6位を記録して、東京スカパラダイスオーケストラの新たなファンを掘り起こすキッカケとなります。
「スカパラのメンバーの間で交流があったミュージシャンの中から、"この人にスカパラのボーカルを任せたら面白いのでは"と思って、ピックアップしたのがこの3人です。それまでも歌モノは作ってはきたんですけど、この3曲で、どちらかと言うとインスト・バンドとしてのイメージが強かった、スカパラのイメージを払拭することができましたし、刺激にもなったし、自信にもなりました」。
歌モノ・シングル3部作で、大きな自信を掴んだ東京スカパラダイスオーケストラは、2002年5月に約2年ぶりとなるオリジナル・アルバムをリリースします。
「この曲は、2001年後半から、アルバム用に作っていた曲の中の一曲です。僕は普段メロディを作る時、まずはインストにするのか、歌モノがいいのか、曲を作りながら考えるんです。この曲は、"国内だけじゃなく、定期的になりつつあったスカパラの海外ライブでも盛り上げる曲を作りたい"という思いを込めて、歌モノで、歌詞も万国共通で理解してもらえる英語で書くことにしたんです」。
こうして2002年5月、「DOWN BEAT STOMP」が収録された東京スカパラダイスオーケストラ9枚目のオリジナル・アルバム『Stompin' On DOWN BEAT ALLEY』がリリースされます。
「DOWN BEAT STOMP」が収録された、アルバム『Stompin' On DOWN BEAT ALLEY』は、2002年5月にリリースされ、東京スカパラダイスオーケストラにとって初めてのセールスチャート1位を獲得します。
「歌モノ・シングル3部作で、スカパラの存在感を多くの人達に認知してもらった直後のこの曲は、狙い通りライブで盛り上がる曲になりました。それから、この曲は、その後、僕が親しくしていたJリーグ「FC東京」の石川直宏選手の応援歌としてサポーター達が歌ってくれるようになったんです。曲のイメージと、サッカーの応援歌としてのイメージが重なったのが理由です。最近では彼が、日本代表として選ばれ試合に出場した時にも、日本代表のサポーター達がこの曲を歌ってくれて、その場面を観た僕は思わず身震いしました。狙っていた以上に、この曲は大きく羽ばたいたんです」。最後に、川上さんはこう話してくれました。
世界の舞台でも盛り上がる、ライブナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.スキャラバン/東京スカパラダイスオーケストラ
M2.What A Wonderful World/東京スカパラダイスオーケストラ
M3.美しく燃える森/東京スカパラダイスオーケストラ
M4.DOWN BEAT STOMP/東京スカパラダイスオーケストラ
161回目の今日お届けしたのは、「ミモザ/ゴスペラーズ」でした。
「一緒にCDを作ってみないか」。
1994年に入って間もないある日、都内のライブハウスで歌っていた6人組のボーカル・グループ「ゴスペラーズ」に、誘いの声を掛けたのは、1980年代にボーカル・グループとして活躍した「ラッツ&スター」の元メンバーで、「ファイルレコード」の社長・佐藤善雄さんでした。
ゴスペラーズに、佐藤が声を掛けた日から遡ること、3年前の1991年。
早稲田大学のアカペラ・サークル「ストリート・コーナー・シンフォニー」に在籍していた・村上てつやは、高校の同級生・黒沢薫を含む6人で、ボーカル・グループ「ゴスペラーズ」を結成します。
ゴスペラーズは、リーダー・村上の"もっと知名度をあげて、もっと実力をつけたい"という考えの下、
サークルの定期演奏会以外にも、ストリートライブを頻繁に行ったり、代々木など都内のライブハウスにも定期的に出演するようになります。こうして、山下達郎、TAKE6などのカバー曲に、数曲のオリジナル曲をレパートリーに加えたゴスペラーズの名前は、単なる大学のサークルの域を飛び越えて、その人気、知名度をあげていくのでした。
佐藤義雄に声をかけられたゴスペラーズは、1994年8月に「ファイルレコード」から、オリジナル曲を収めたミニアルバム『Down To Street』を発売します。
ところが、ミニアルバムの発売から間もなく、就職活動を理由に、メンバー4人が脱退。ゴスペラーズに残った村上哲也、黒沢薫の二人は、サークルの後輩、北山陽一、酒井雄二、安岡優の3人を新メンバーに加え、新たにキューンレコードとメジャー契約を結び、1サークル時代から歌ってきた曲「Promise」で、1994年12月、メジャーデビューするのでした。
「ゴスペラーズは、学生時代から、ストリートライブとライブハウスで経験を積み、自分達なりに、歌う事に対しての自信を持っていました。しかし、彼らは、デビュー直後、より多くの人に歌を聞いてもらわなければならないというプロの壁に直面します。当時、楽器を持たず、5人だけで演奏するパフォーマンスは珍しく、ひとりでも多くの人に彼らの存在を伝えるために、DJや、ダンス、さらにはストーリー仕立てのステージ演出をライブに取り入れたり、個々のキャラクターを活かしたMCを工夫するなど、常にオーディエンスを引きつけることを考えていったんです」。現在、ゴスペラーズのマネージャーを務める伊藤さんは、当時についてこう語ります。
アマチュア時代から、ライブを積み重ねることで、ファンを増やし成長してきたゴスペラーズは、CDのセールス結果が伸び悩む中でも、1年に3~4回のツアーを行うなど、ライブ活動に取り組んでいきます。そして1997年8月、その積み重ねは実を結び、第一目標でもあった渋谷公会堂(現在の渋谷C.C.Lemonホール)でのライブを成功させます。
ライブでの評判は定着していったものの、中々ヒット曲に恵まれなかったゴスペーラズでしたが、
1999年、武者修行のつもりで訪れたアメリカ・アトランタを訪れた時に、当時マライア・キャリー、ジャネット・ジャクソンを手掛けていたプロデューサーに出会ったことが、彼らの運命を変えていきます。これまでとはまったく違うアレンジ、レコーディングスタイルでレコーディングされたシングル「永遠に」は2000年8月にリリースされ、ジワジワと売上を伸ばして、4ヵ月で3万枚を突破。最終的には、セールスチャート最高位14位、約40万枚の売上を記録するロングヒット曲となります。
さらに、翌2001年3月、ゴスペラーズは「永遠に」がセールスチャートにランクインし続ける中で、彼らの人気を決定づけるシングルをリリースするのでした。
2001年3月、ゴスペラーズは、5人の声以外の音はまったく入っていないアカペラ曲「ひとり」をリリースします。セールスチャート初登場3位を記録したこの曲は、日本の音楽史上初めてアカペラの曲がチャート3位以内にランクインするという、偉業を成し遂げます。
さらに9月には、日本武道館での初ライブを成功させて、ゴスペラーズの名前は一気に全国区へと登りつめていきます。
「日本武道館でのライブを成功させた後、普通なら、各地の主要都市で、大きい会場を中心にライブツアーを行うんですが、彼らは、少し、違っていました。彼らは、"俺達の事を知ってもらった今こそ、全国津々浦々、ライブができるところなら、どんな小さな街でも、そこへ行って、俺達の歌を聴いてもらおう"と言ったんです。学生時代から、お客さんの反応が直接分かるライブを積み重ねて、自分達の歌の力を磨いてきた彼らにとって、ライブは欠かせないものであり、そのライブで、ひとりでも多くの人に自分たちの歌を届けに行きたいと思ったんです。」
ゴスペラーズは、自分達の新たな誓いを実行するために、2002年には約3ヵ月半の間に、全国で50公演を実施します。街から街へ、ライブに明け暮れる中で、ゴスペラーズは、2003年の暮れから、翌2004年に発売を予定していた次のアルバム作りに取り組みます。
「この曲は、メンバーそれぞれが、自分のスタイルで曲を作っていく中で、黒沢が、ライブのサポートメンバーでもある佐々木真里さんと一緒に作った曲をベースに、歌詞は、メンバーの安岡にお願いしたんです。黒沢がタイトルだけを決めて、歌詞は"ラララ~"と歌っているだけのデモ音源を聴いた安岡が、決まっていたタイトルからイメージして、歌詞を書いたんです」。
「黒沢が考えたアレンジのイメージは、バラードでも、しっとりとした形ではなく、1980年代に流行った、少し大人びた、キラキラ感のあるブラックコンテンポラリーでした。安岡は、この曲のイメージと、曲のタイトルから、シャンパングラスをキーワードに、歌詞を膨らませていったんです」。
この曲は、3月発売のアルバム『Dressed up to the Nines』への収録は見送られますが、その完成度から、その年の10月に、シングルとしてリリースされるのでした。
2004年10月にリリースされた、ゴスペラーズの25枚目のシングル「ミモザ」は、トヨタ「アイシス」のCMソングに起用され、セールスチャート最高位3位を記録します。
「この曲は、発売直前からライブでも歌い始めたんですが、アカペラのバラードとはひと味違う、しっとりとした大人のバラード曲として、注目を集めたんです。街がイルミネーションで彩られ、華やかになってくる時期に発売され、文字通り彼らの中でも光を放ち続ける、ライブでは定番の曲となっていったんです」。最後に、伊藤さんは、こう話してくれました。
街を彩るイルミネーションのように、キラキラと輝き続けるバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Gospeller's Theme/ゴスペラーズ
M2.Promise/ゴスペラーズ
M3.ひとり/ゴスペラーズ
M4.ミモザ/ゴスペラーズ
160回目の今日お届けしたのは、「僕はここにいる/山崎まさよし」でした。
「僕が彼に初めて出会ったのは、1991年7月に行われた映画製作会社「キティ・フィルム」の新人俳優オーディションの最終審査会場でした。新人俳優の発掘が目的のこのオーディションを、彼は新人歌手募集オーディションと間違えて応募してきたんです。"ルックスが可愛い"という理由で九州地区大会に合格した彼は、最終審査に残っていたんです」。後に、山崎まさよしのマネージャーを務める所属事務所の穂刈さんは、当時をこう振り返ります。
1971年12月、滋賀県草津市に生まれた山崎まさよしは、彼が8歳の時に山口県防府市に引っ越しして、地元の中学、高校へ進学します。山崎まさよしは、中学の時に、親からドラムを買ってもらい、友達と見様見真似でバンドを結成。高校に進学すると、エリック・クラプトン、ローバート・ジョンソンなどのブルースを聴き始め、山崎まさよしはギター片手に弾き語りで曲作りを始めます。
「当時、僕は「キティ・レコード」のディレクターで、歌を歌える役者を探す目的で、最終審査の審査員を務めていたんです。オーディション内容を間違えて参加していた山崎まさよしは、後に1stシングルのカップリング曲になる「Rough Rock'n Roll Boggie」を含む2曲を弾き語りで歌って、抜群のリズム感と、力強い声で、僕ら審査員を釘付けにしたんです。このオーディションが新人歌手の発掘目的だったら、彼は間違いなく合格だったんですが、新人俳優募集オーディションだったので、残念ながら審査員特別賞でした」。穂刈との運命的な出会いを果たした山崎まさよしは、地元に戻ってデモテープ作りや、ライブ活動を続けた後、プロミュージシャンを目指して、翌1992年10月に上京します。
「本当は、1993年春に上京して、当時横浜にあったキティ・レコードの寮に入る予定だったんです。
予定よりも半年近く早く、半ば押しかけのような形で上京してくるなんて、よっぽど東京で音楽をやりたくて仕方なかったんでしょうね。こちらも準備が間に合わず、山崎はしばらくの間僕の家に居候していたんです。ところが、契約する予定だったキティ・レコードの経営状態が悪くなったため、僕はキティ・レコードを辞めて、別のレコード会社に山崎を売り込みに行ったんです。お互い生活を切り詰めながら、山崎は創作活動、僕は山崎の売り込みに励み、やっと契約の話がまとまったのが1995年の初めでした。でも山崎にとって、この不遇の時代に、後に彼が歌っていく曲が幾つも生まれていくんです」。
1995年9月、山崎まさよしは1stシングル「月明かりに照らされて」をリリースします。
「抜群のリズム感と、力強い特長的な声、そして卓越したギターとブルースハープのテクニック。彼はブルースとポップスを融合させた彼ならではの音楽を生み出そうと、デビュー後も弾き語りを基本にライブや曲作りに励みました」。
動員が着実に増え続ける中でも、山崎まさよしは彼の音楽の基本である"弾き語り"にこだわりながら、ライブ活動を続けていきます。1996年9月、山崎まさよしは後にSMAPがカバーしてヒットする楽曲「セロリ」を、3枚目のシングルとして発売、初めてセールチャートにランクインして、最高位68位、約3万5000枚のセールスを記録します。そして、翌1997年1月、山崎まさよしは4枚目のシングルとして、彼が主役を務めた映画『月とキャベツ』の主題歌「One more time,One more chance」をリリースするのでした。
「デビュー前に作ったこの曲は、完成した時から歌詞、メロディ、どちらからも力強いメッセージを感じていたので、"J-POPの世界で山崎まさよしの存在が認められ、勝負を賭けるタイミングでリリースしよう"と温めていた曲なんです。映画のキャストオーディション会場で、山崎がこの曲を弾き語りで歌ったら、共演予定の女優がポロポロ泣いたんです。それを見た僕は、"やった。これで主題歌は歌える"そう思ったんです。」。
1997年3月、山崎まさよしは彼の代名詞とも言えるライブで、ある一つの試みにチャレンジします。「この時、山崎まさよしが"もっとお客さんを近く感じるようなスタイル歌いたい"と言い出したんです。
それで僕らは、全ての会場で、弾き語りスタイルのライブを行うツアーを企画したんです。それまでは、東京・大阪など人が多く入る場所ではドラムとベースも加わったバンドスタイル。地方では、予算の問題もあって弾き語りスタイルでのライブがほとんどでした。しかし、場所に拘らず全ての場所で、弾き語りスタイルにすることで、山崎本人の力が試されるし、よりお客さんを近くに感じてもらえると考えたからなんです。結果的に、このライブツアーをキッカケに、彼のライブの真髄とも言える弾き語りが、多くの人達に知られることになりました」。穂刈さんは、当時をこう振り返ります。
そして翌1998年春、2度目の弾き語りツアーを控えた山崎まさよしの下へ、10月からスタートするTVドラマへの出演依頼と、主題歌提供の話が舞い込みます。
「もともとこの曲は、「One more time,One more chance」と同じく、デビュー前に作っていた曲で、「One more time,One more chance」と同じぐらい彼が大切にしていた曲です。彼の心の中でこの2曲は、将棋の駒に例えると"飛者と角"、そんな存在感を持っていた曲で、ライブでも歌っていなかったんです。バラード曲「One more time,One more chance」とは対照的なこの曲は、派手なロックではないけど、聴く人の耳にしっくりと入り込んでいく、弾き語りを得意とする、山崎まさよしの音楽とは何であるかを表すような曲だったんです」。
「この曲を初めて聴いた時、僕等は何故か"この曲はドラマの主題歌に使いたい"と考えてデビュー後も、敢えて封印していたんです。2度目の弾き語りツアーで、シンガーソングライター山崎まさよしの存在感が認められるようになったタイミングで、偶然にも舞いこんだドラマ主題歌提供の話。"ついに時が来た"そう思った僕等は、封印を解いて、この曲を主題歌としてリリースすることを決めたんです」。
1998年10月にリリースされた、山崎まさよしにとって8枚目のシングルとなる「僕はここにいる」は、山崎まさよしが主演を務めた読売系ドラマ『奇跡の人』の主題歌に起用されたこともあり、セールスチャート最高位3位を記録し、約40万枚の売上を記録します。
「デビュー前から、地道にライブ活動を続けてきた山崎まさよしにとって、弾き語りは長年変わらない、彼ならでのオリジナルスタイルであり、彼の音楽の源にもなっているんです。この曲は、長年山崎まさよしのライブに通って、彼の音楽に惚れ込んだ人にとってはダメ押し的な存在に。「One more time,One more chance」で彼を知った人にとっては、ますます彼の虜になるような、そんなシンガーソングライター山崎まさよしを象徴する曲になりました。今では、ライブでは欠かせない曲なんです」。最後に、穂刈さんは、こう話してくれました。
アーティストの唯一無二の存在感を、J-POPの世界に知らしめた名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Rough Rock'n Roll Boggie/山崎まさよし
M2.月明りに照らされて/山崎まさよし
M3.One more time,One more chance/山崎まさよし
M4.僕はここにいる/山崎まさよし
159回目の今日お届けしたのは、「ベジタブル/大貫妙子」でした。
「僕が初めて彼女に出会ったのは、1978年、彼女がソロ3作目のアルバムを作る作業の時、プロデューサーのサポート役としてレコーディング作業に加わった時でした。"面白い、いい曲書くなぁ"というのが、印象に残っています」。後に、プロデューサーとして大貫妙子のアルバムを手掛けた、宮田茂樹さんは当時をこう振り返ります。
1953年11月、東京都杉並区に生まれた大貫妙子は、彼女が20歳を迎える直前の1973年4月に、音楽仲間の山下達郎、村松邦男、鰐川己久男、野口明彦らとバンド「シュガー・ベイブ」を結成します。シュガ―・ベイブは、デモテープ作りとライブを中心に活動を続ける中で、結成から約2年が経過した1975年4月に、大瀧詠一がプロデュースを手掛けた1stアルバム『SONGS』とシングル「DOWN TOWN」をリリースします。
その後、シュガー・ベイブは、翌1976年4月に、メンバーの音楽の方向性の違いから解散します。「シュガ―・ベイブの解散が決まった時、大貫さんはこれからどうするか迷ったそうです。シュガー・ベイブ時代は、山下達郎の影に隠れてキーボードを弾き、時折ソロパートで歌うだけ。後は、他のアーティストのライブに、コーラスとしてゲスト出演していたぐらいでしたので、大貫さんは、ひとりのシンガーとしてソロとして活動していく自信は全く無く、考えてもいなかったそうです。
ところが、周りの人達が、彼女に、バンドの解散後も、音楽活動を続けることを勧めるので、彼女も、
シンガーソングライターとして活動することを決意し、それまで彼女が一緒に音楽を作ってきた、山下達郎、細野晴臣らと一緒にソロアルバム『Grey Skies』を作ったんです。その中のメンバーの一人が、後に、彼女の音楽的な盟友となる坂本龍一さんでした」。
1976年9月、大貫妙子は、シュガー・ベイブ解散から僅か半年余りで、1stアルバム『Grey Skies』をリリースし、セールスチャート最高位55位を記録します。
「1stアルバムのアレンジャーの一人として加わったのが、坂本龍一さんです。彼女は、1975年12月、シュガ―・ベイブのライブで、サポートミュージシャンとして参加した坂本龍一さんと初めて出会いました。彼女は、坂本さんがいち早く取り入れた、シンセサイザーを使ってのアレンジや、ハーモニーに魅かれて、1stアルバムの制作メンバーとして声をかけ、その後、坂本さんは、彼女の音楽には欠かせないパートナーになっていくんです」。
翌1977年7月、大貫妙子は、坂本龍一がトータルプロデュースを手掛けた2ndアルバム『SUNSHOWER』を発売。翌1978年9月には、レコード会社を移籍し、第1弾アルバム『Mignonne』をリリースします。「アルバム『SUNSHOWER』は、セールスチャートにはランクインせず、商業的には失敗したんです。1stアルバムが想像していた以上に売れて、変な期待感を持って作った2ndアルバムが売れず、さらに、レコード会社を移籍して、新たな気持ちで作ったアルバム『Mignonne』も、思った通りには売れませんでした」。
2作つづけてセールスが不調だったことで、大貫は、彼女自身の音楽活動を見直すために、山下達郎のライブツアーでバックコーラスを務めたり、作家として他のアーティストへの楽曲提供を行っていきます。
1980年7月、大貫妙子は約2年ぶりにオリジナルアルバム『ROMANTIQUE』をリリースします。
「彼女が書く、ファンタジー感溢れる私小説的な歌詞と、当時の日本のPOPS界には無い、個性的なコード進行で作るメロディ、さらに、坂本龍一の、クラシックをベースにしたような独特のアレンジ。これらをトータル的に活かすためには、いわゆる大衆的なPOPSサウンドでは無いだろうということで、プロデューサーが考えたのが、少し芸術的な匂いのするヨーロッパ的なサウンドでした。このアルバムで、彼女の新境地は開かれ、その後しばらく彼女はこの路線に傾倒していくんです」。宮田さんは、当時についてこう振り返ります。
1982年9月、大貫妙子は、イギリスの絵本作家が書いて、彼女もお気に入りだった絵本をモチーフに作った楽曲「ピーター・ラビットとわたし」を、9枚目のシングルとしてリリースするのでした。
1982年9月、大貫妙子はシングル「ピーター・ラビットとわたし」、アルバム『Cliché』を同時にリリースします。
「坂本龍一が、「ピーター・ラビットとわたし」を含むLPレコードのA面5曲を、B面の5曲は映画音楽などを手掛けていたジャン・ミュジーが手掛けたんです。この頃から音楽関係者の中にも"ヨーロッパの大貫"というイメージが定着しはじめていました」。
その後も、1年に1枚のペースで、流行りのJ-POPとは一線を画すような個性溢れる曲作りを続けていた大貫妙子は、1984年、坂本龍一らとともにレコード会社「MIDI」を設立します。そして同じ1984年の暮れ、彼女の下へ資生堂から翌1985年春のCMキャンペーンソング提供の話が舞い込みます。
「曲は、イタリア音楽が参考になっているんです。彼女が、幼い頃から聴いて育った、ザ・ピーナッツ、中尾ミエさん、小川知子さんなど日本の歌謡ポップスの大半は、哀しく情熱的なイタリアのカンツォーネのカバーが基本になっています。彼女はそこに注目、この時は当時彼女が好んで聴いて、頭の片隅の記憶に残っていた、イタリアのポップスグループ「MATIA BAZAR」の音楽をヒントに曲を作ったんです」。
「この曲のアレンジは、坂本龍一さんです。当時は、まず彼女が歌詞を書き、次にメロディを作り、それに、坂本さんがアレンジをほどこしていました。そこから、さらに、彼女は、坂本さんがアレンジした曲を聴きながら、曲のイメージを湧かせて、もう一度歌詞を書き直していたんです。信頼できる人が作った曲を、さらに良くするためには、手間を惜しまなかったんですね」。
こうして1985年2月、大貫妙子が盟友・坂本龍一と作った、シングル「ベジタブル」は、リリースされるのでした。
1985年2月にリリースされた、大貫妙子12枚目のシングル「ベジタブル」。
「J-POPの中で、ヒット曲を出し続けるアーティストと違って、彼女はどちらかと言えば地味な存在です。この曲も、セールスチャートにランクインしてヒット曲になった訳ではありませんが、聴く人の心を和ませて、発売から二十年以上も経った今でも聴き継がれています。それは、信頼している人のため、手間を惜しまず作ったからこそだと思います」。最後に、宮田さんは、こう話してくれました。
音楽のパートナーとの信頼から、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.いつも通り/シュガ―・ベイブ
M2.愛は幻/大貫妙子
M3.ピーター・ラビットとわたし/大貫妙子
M4.ベジタブル/大貫妙子
158回目の今日お届けしたのは、「ワダツミの木/元ちとせ」でした。
「1997年の3月のことでした。偶然見たテレビのドキュメンタリー番組で、"18歳の少女が島唄のチャンピオンに輝いた"というニュースを取り上げていたんです。僕は、そのニュースを見た瞬間、力強い彼女の歌声に魅かれて、直ぐにそのドキュメンタリー番組を録画して、翌日、上司にその映像を見せて、彼女に会うために奄美大島に行ったんです」。彼女を初めて見た時の印象について、担当プロデューサーを務めたエピック・レコードの青木さんは、当時をこう振り返ります。
1979年1月、奄美大島に生まれた、元ちとせは、幼い頃から母親の薦めで三線を習い始め、全校生徒が僅か4人しか居ない小学校に入学すると、自ら島唄を習い始めます。
1994年4月、地元の高校に入学した元ちとせは、5月に行われた「奄美民謡大賞」に出場し、新人賞を受賞します。そして、翌1995年4月には新人賞受賞を記念して、奄美大島のセントラル楽器から島唄を歌った自主制作カセット「ひぎゃ女童」を発売します。彼女の歌声は、奄美大島以外でも評判を呼び、奄美大島で撮影された映画『男はつらいよ 寅次郎紅の花』の中でも、彼女が歌った島唄が使われることになります。
1996年5月、元ちとせは再び出場した「奄美民謡大賞」で、史上最年少で大賞を受賞。18歳ながら、力強く、神秘的な彼女の歌声は、本土のマスコミにも知られることとなり、テレビ朝日やNHKなどが、彼女を取り上げたドキュメンタリー番組を作って話題となります。
「高校の卒業式が終わった直後に奄美大島に行った僕は、彼女と彼女の母親に会ったんですが、彼女の母親に"ウチの子は歌手に全く興味が無いんです。関西の美容室に就職します」とキッパリ断られたんです。しかし僕は、"ステージに立つ気持ちがあるのならば、彼女の心の中には、表現者になりたい"という気持ちが少なからずあるのではないかと思ったので、"気持ちに変化があったら連絡をください"と言い残し、名刺を置いて帰ったんです」。
エピック・レコードの青木さんは、一度は元ちとせを説得する事を諦めますが、1年後の1998年春、青木さんの下へ、今度は元ちとせ、本人から電話が入ります。
「電話を貰った後、東京で会ったんです。話を聞けば、"体調の問題で、美容師になる夢を諦めなくちゃいけない。でもその前に、歌の世界について話を聞いてみたい"という事でした。僕は、"貴女はまだ若いから、大学に行くつもりで数年間だけ、歌の世界を勉強してみたら"と話したんです」。
1998年秋、元ちとせは上京し、CDショップ「HMV」でアルバイトをしながら、歌の勉強を始めます。
「僕は、彼女にどんな歌を歌わせたら、彼女が持っている歌う力が発揮できるのか、当時は分からなかったので、まずは色んな歌を歌って探っていく方法を考えたんです。そして、知り合いのオフィス・オーガスタの森川社長に相談し、彼女を預かってもらうことにしたんです」。
流行りのJ-POPは知っていたものの、島唄ほど詳しく無かった元ちとせは、HMVでアルバイトをしながら、歌の勉強を積み重ねていきます。そして、2001年3月、彼女の歌の力を極限まで活かす方法を模索するために作った、カバーミニアルバム『Hajime Chitose』をリリースするのでした。
2001年3月、元ちとせがリリースした、カバーミニアルバム『Hajime Chitose』は、インディーズ扱いながらもセールスチャート最高位43位を記録します。
「彼女の歌声の活かし方を探るために、まず、カバーアルバムを作ったんですが、どうしても物真似に近い歌い方になってしまったんです。ところが、山崎まさよしさんの「名前のない鳥」だけは違っていました。この曲を歌う彼女は、島唄を歌って鍛えた、裏声の出し方や、こぶしの回し方で、抜群のセンスを見せてくれたんです。そこで僕らは、"この曲をイメージしながら他の曲を作ればいいのではないか"と考え、今度はイメージに近い曲を作ってくれる作家を探し始めました。そして、森川社長が選んだのが、「レピッシュ」の上田現さんでした。上田さんが作った曲は、聴く人の頭の中に情景を描かせることができるので、元ちとせが歌うことで、そのスケール感がより拡がって、歌の力強さが増していく感じがしたんです」。
2001年8月、元ちとせは、上田現を中心に作った全曲オリジナルで構成された、2ndミニアルバム『コトノハ』をリリースするのでした。
2001年8月にリリースされた、2ndミニアルバム『コトノハ』は、セールスチャート最高位37位を記録し、元ちとせはもちろん、青木さん達スタッフも手ごたえを掴みます。
「上田現さんが作った曲で、元ちとせ唯一無二の魅力である声が、発揮できると分かった僕等は、当然のように翌2002年2月に発売予定を予定していた、メジャー1stシングルも上田さんにお願いしたんです」。
「上田さんが作った候補曲の中から、この曲に絞った時、レコーディング前に上田さんは1枚の絵を元ちとせに渡しました。不思議な色をした海の中に立っている1本の木が描かれた絵を見て、元ちとせはこの歌の持っているイメージを湧かしながら、レコーディングに臨みました。その時にイメージした彼女の想像力が、この曲により強い力を込めることになったんです」。
「曲が完成し、タイトルを決める時、スタッフみんなが頭を悩ませる中で、オーガスタの森川社長が、日本神話に登場する海の神様"ワダツミ"を用いたタイトルを提案しました。初めは、スタッフが難色を示したんですが、結局そのまま決まったんです」。
こうして2002年2月、元ちとせの1stシングル「ワダツミの木」は、リリースされるのでした。
2002年2月にリリースされた、元ちとせの1stシングル「ワダツミの木」は、セールスチャート最高位1位を獲得し、約9カ月近くもランクインし続けるロングヒット曲となります。
「彼女にとって、この曲が大切な曲になっているのは、言うまでもありません。また、曲をリリースした後の2004年、彼女の出身地・奄美大島で新種の奄美大島固有の木が発見された時、彼女のこの曲にちなんでその木に「ワダツミの木」という名前が付けられたんです。この曲は、世の中に影響を与える、大きな力を持っている歌なんです」。
最後に、青木さんは、こう話してくれました。
唯一無二、彼女にしか歌えない力が詰まったJ-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.名前のない鳥/元ちとせ
M2.精霊/元ちとせ
M3.ワダツミの木/元ちとせ
157回目の今日お届けしたのは、「ひろしまから始めよう/原田真二」でした。
「僕は、オリジナル曲を作り始めた学生の頃から、"平和"へのメッセージが詰まった曲を、全ての人達に聴いてもらいたい"と思っていたんです。しかし、"アイドル"として売りたかった所属事務所とレコード会社の思惑で、自分が考えていた方向とは全く違う形でデビューすることになったんです」。
原田真二さんは、デビュー当時を振り返るとき、少し苦笑いしながら、こう語ります。
1977年10月、「てぃーんず・ぶるーす」でデビューした原田真二は、少女漫画の世界から飛び出したような可愛いルックスと印象的なハスキーボイスで、女子中高生を中心に、瞬く間に人気を集めます。当時としては異例の3ヶ月連続シングルリリースで、11月に2ndシングル「キャンディ」を、12月には3rdシングル「シャドーボクサー」をリリースした原田真二は、まさに、新しい時代のアイドルとしてセンセーショナルなデビューを果たすことになります。しかし、その状況に、原田真二は、大きな戸惑いを抱えていました。
「僕自身、自分の中では、デビュー前に憧れていた洋楽ロックの世界が、音楽の世界だと思っていたんです。"アイドル=軟弱な世界"というイメージを持っていた僕は、自分がアイドルとして売り出されることに対して、不安でいっぱいだったんです」。
1978年2月、原田真二が全曲の作曲・編曲を手掛けた1stアルバム『Feel Happy』が、オリコン史上はじめて、アルバムチャート初登場1位を獲得した直後、原田真二は、アイドル路線から脱却するために、所属事務所を移籍します。
1978年11月、原田真二は、彼自身が初めて作詞も手掛けた、6枚目のシングル「OUR SONG」をリリースします。
「シンガー・ソングライター的な作風から、ハードなギターサウンドに変わったこのロック・バラード曲で、新しいファンが増えたのと同時に、"アイドル"としてデビューした当時からのファンが離れていったのも事実です。しかし、僕の中ではハッキリとした手ごたえも掴んだんです」。
1980年、原田真二は所属事務所から独立し、レコード会社も移籍、さらに原田真二ソロ名義ではなく、「SHINJI&CRISIS」として、バンド名義での活動をスタートします。
「今のように、パソコンで自由自在に音楽が作れる時代ではなかった当時、僕は自分が伝えたいメッセージを明確にするためには、自分の生バンドで、想い通りの形を演出する事が必要だと考え、自らのバンドを作ったんです」。
さらに、原田真二は、1981年暮れに、長年彼自身が想い描いていた音楽スタイルを確立するために、アメリカへ音楽留学します。
「僕は、アメリカ音楽留学で、色々な表現方法を模索しました。そして、改めて日本の素晴らしさや個性にも気付くことができたんです」。1983年、約1年に渡るアメリカ音楽留学から帰国した原田真二は、日本人ならではのオリジナルなスタイルを確立するために、洋楽的な発想に和のテイストを融合させた音楽作りに取り組みます。そうしてリリースされたのが、「愛して、かんからりん」でした。
1983年9月、原田真二は15枚目のシングル「愛して、かんからりん」を発売します。作品へのチャレンジを続ける原田真二は、それを表現するライブにもこだわります。
「日本での活動を本格的に再開した僕は、曲に込めたメッセージを、どうやったらもっと多くの人達に伝えることができるのかを考え、今では当たり前ですが、ライブに映像を使ったり、演劇風パフォーマンスなどを取り入れたり、ステージで試行錯誤を繰り返すようになったんです」。
独りのシンガーとして、さらにはソングライターとして、多彩な音楽的な才能を開花していった
原田真二の下へ、1995年のある日、地元テレビ局、広島ホームテレビから、楽曲提供の話が舞い込みます。
「1995年、広島が被爆50周年を迎えたこの年。原爆記念日に「千本の傘プロジェクト」をテーマにした特番を作ることが決まって、"特番のイメージに合う曲を作って盛り上げよう"という話になったんです。歌詞は一般公募で集めて、曲は数年前に別の番組を通して知り合った広島出身の原田真二さんにお願いすることにしたんです」。
番組プロデューサーを務めた広島ホームテレビの野崎さんは、当時についてこう振り返ります。
一方の原田真二さんは、曲作りを依頼された時について、こう振り返ります。「野崎さんから話を貰うまで、僕の心の中には、広島をテーマにした曲を作る事に関して、"壁"のような抵抗感を持っていたんです。広島出身で、幼い頃から原爆に関する話を両親から聞かされてきた僕にとって、"広島"というテーマは"身近だけど、重みがあって、簡単には歌えない"とずっと思っていたんです。だから、それまでは、平和のメッセージを込めた曲は作ってきたけど、広島というリアルなテーマの曲は作ってこなかったんです。でもこの時は、せっかく野崎さんに声を掛けてもらったし、自分の気持ちの中でも整理が付いた時期もあったので、曲作りにチャレンジすることにしたんです」。
こうして原田真二は、広島ホームテレビを通じて"平和都市、広島の未来を世界にアピールする歌"をテーマに募集され、134篇の中から選ばれた歌詞に、曲を作ります。
「選ばれた歌詞を読んだ時、"広島からポジティブなエネルギーが出ている"と感じたんです。この頃から僕は、頭で考え曲を作っていくのではなく、アレンジを含め、自分の心の中のキャンバスに色づけをしていくようなイメージで、曲を作れるようになっていたんです。この時も、決まった歌詞を読んで、あっという間にメロディが浮かんできました。メロディが、すぐに浮かんでくる時は、いい曲が出来上がる時なんです。やりがいのある作品でした」。
1995年8月6日、被爆50周年を迎えた日、原田真二は広島ホームテレビの特番の中で、元安川の袂から、子ども達と一緒にこの歌を初めて歌います。そして、それは、翌1996年の春、原田真二29枚目のシングル、「ひろしまから始めよう」として、リリースされるのでした。
1996年4月、原田真二29枚目のシングルとしてリリースされた、「ひろしまから始めよう」。
「"ひろしま"と言う言葉を歌詞に全面に出して作ったこの曲は、作った当初は、"この曲を聴いた人達に、イメージを限定されるかな"と思っていたんですが、歌い続けていく内に、段々とそんな考えも無くなっていったんです。世界中で争いが絶えない今、僕は、"広島"という言葉が、世界平和のキーワードになっているような気がするんです。だからこそ、この曲の歌詞にある"広島"の部分を、歌う場所毎に変えて歌うことで、堅苦しくなく、誰もが一緒に楽しめるポップな曲として、多くの人達から親しまれているんです。時代と共に、この曲が果たす意味が、強くなっていると感じているんです」。
最後に、原田真二さんは、こう話してくれました。
原田真二が、はじめて"ひろしま"と向き合えた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.キャンディ/原田真二
M2.愛して、かんからりん/原田真二
M3.ひろしまから始めよう/原田真二
156回目の今日お届けしたのは、「OUR SONG/原田真二」でした。
「12歳の時、TVの衛星中継で「エルビス・プレスリー」のライブを観て、人前で歌を歌う魅力、そしてライブが持っているパワーに釘付けになったんです」。原田真二さんは、ミュージシャンを目指す原点について、こう振り返ります。
プレスリーのライブを観て、音楽の魅力に目覚めた原田真二は、同時に、自らもギターを弾き始めます。
その後、原田真二は、エルトン・ジョンやスティービー・ワンダー、ポール・マッカートニー&ウィングスなどに夢中になり、曲も書き始めます。「その頃の僕は、とにかく、早くうまくなりたいという気持ちで、独学で、ギターやピアノを弾きながら、メロディラインがきれいな、エルトン・ジョンや、ポール・マッカートニーの音楽を参考にして、曲を作るようになったんです」。
1976年、原田真二は、雑誌『月刊明星』で見つけたひとつの記事に、目を奪われます。
「曲を作り始めた僕は、"早く自分の曲を世の中に認めてもらいたい"と思うようになったんです。しかし、当時は、今とは違ってオーディションも少なく、"どうやったらデビューできるのか、どうやったらレコード会社とコンタクトを取れるのか"、僕にはさっぱり分からなかったんです。そんな中、デビューする方法を探すために、音楽雑誌を読み漁る中で見つけたのが、『月刊明星』に掲載されていたフォーライフ・レコードのオーディションの記事でした。記事を見つけた瞬間"これだっ"と思った僕は、楽しみにしていた修学旅行を休んで、デモテープを作ったんです」。
「デモテープは、リズムボックスとピアノとギターを使ってメロディをカセットテープに多重録音して、これにボーカルを加えて、全部で3曲作って、送りました」。
原田真二が、気合いを込めて作ったデモテープは、フォーライフ・レコードのスタッフの耳に留まり、デモテープを送って数日後に、原田真二の下へ、フォーライフ・レコードのスタッフが訪れます。
そして、翌1977年春、原田真二は青山学院大学に進学後、フォーライフ・レコードと契約を結び、
10月に、1stシングル「てぃーんず ぶるーす」をリリースするのでした。
1977年10月、原田真二は1stシングル「てぃーんず ぶるーす」をリリースします。
「元々この曲は、「君の世代へ」というタイトルで、当時社会問題になっていた暴走族の問題に、世界平和のメッセージを歌詞に盛り込んで作ったんです。しかし、歌詞の内容にレコード会社が難色を示して、僕が書いた歌詞をモチーフに作詞家の松本隆さんが歌詞を書き直したんです。当時、所属事務所とレコード会社は、僕を"アイドル"として売り出すつもりで、歌詞の内容とイメージがそぐわないと思ったんです」。
カーリーヘアーと、少女漫画の世界から飛び出したような可愛いルックス、そしてハスキーボイスで、原田真二は、事務所とレコード会社の思惑通り、新しいタイプのアイドルとして、女子中高生を中心に、デビューから瞬く間に人気を集めていきます。
「僕が自分の中で思い描いていた音楽の世界は、デビュー前に憧れていた洋楽ロックの世界なんです。当時、僕は、"アイドル=軟弱な世界"というイメージを持っていたので、自分がアイドルとして売り出されることに対して、不安でいっぱいだったんです」。
原田真二が作った曲の完成度の高さを評価した所属事務所の社長は、"1曲で真二の魅力は伝わらない。3ヵ月連続でシングルを発売しよう"と考え、当時の音楽業界では異例の形で、1stシングル「てぃーんず・ぶるーす」、2ndシングル「キャンディ」、3rdシングル「シャドーボクサー」を立て続けにリリースします。そして、この3曲いずれもが、セールスチャートのベスト10にランクインします。
さらに、翌1978年2月、原田真二が全曲の作曲・編曲を手掛けた1stアルバム『Feel Happy』が発売、オリコン史上はじめて、アルバムチャート初登場1位を獲得します。
「自分の音楽が世間に認められたことに対して、素直に嬉しく思ったんです」。原田さんは、当時をこう振返ります。
伝説的なデビューで、圧倒的な人気を獲得した原田真二でしたが、アルバムがリリースされた直後、原田真二は"アイドル路線から脱却し、自分の想いを込めた曲を自由に届けたい"という想いで、所属事務所を移籍します。「アイドル的なデビューは、事務所の方針で仕方なかったですけど、ライブで、女の子にキャーキャー騒がれる事が、自分自身苦痛でたまらなかったんです。軟弱に見られるのが、当時は、本当に嫌でした。」。1978年7月、原田真二は事務所移籍後初のシングル「サゥザンド・ナイツ」をリリースするのでした。
1978年7月、原田真二は5枚目のシングル「サゥザンド・ナイツ」を発売します。
「事務所を移籍し、自分の考えを貫き通すことができるようになってからは、少しずつ考え方が変わってきたんです。7月に5枚目のシングル「サゥザンド・ナイツ」をリリースし、その直後に、初の日本武道館ライブも成功しました。全ての物事が順調に回り始めたこの頃から、自分の中で、本気で"脱アイドル"の思いが強くなってきて、そのために何をすればいいのかを考えるようになったんです」。
原田真二は、"このままアイドルとして過密なスケジュールをこなしていくのか、或いはミュージシャンとして自分のリズムを取り戻すのか"自分が目指すものと、現実のギャップに悩みます。しかし、原田真二は、11月に発売を予定していた6枚目のシングルで、自分の中にひとつの方向性を導きだします。
「自分で全て作曲、編曲を手掛けた1stアルバム『Free Happy』で、ストリングス・アレンジにもチャレンジして、プロデュース業にも自信が湧いてきたんです。そこで、自分が元々書いていた、ハードで力強いメッセージを乗せた曲を作ることにチャレンジしました。ストリングス・アレンジは、同世代のミュージシャンからも絶賛されて、曲が完成した直後は、色んな人達に聴いて欲しかったので、知り合いのライブハウスに、わざわざ曲を聴かせに行ったんです」。
7月の日本武道館でのライブで、リリースに先駆けて披露されたこの曲は、11月に、6枚目のシングル「OUR SONG」として、リリースされるのでした。
1978年11月に発売された、原田真二の6枚目のシングル「OUR SONG」。
「僕の音楽が、それまでのシンガー・ソングライター的な作風から、ハードなギター・サウンドに変わっていく、今の僕の音楽の原点にもなっている曲です。僕は、どうしてもこの曲で、強いメッセージを込めたロックバラードを作りたかったんです。この曲以降"自分の試してみたいことは、音楽で表現する"という自分の音楽の信念が生まれたんです」。最後に、原田真二さんは、こう話してくれました。
本当の意味での、ミュージシャン・原田真二が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.土曜の夜は僕の生きがい/エルトン・ジョン
M2.てぃーんず・ぶるーす/原田真二
M3.サウザンド・ナイツ/原田真二
M4.OUR SONG/原田真二
155回目の今日お届けしたのは、「45℃/堂島孝平」でした。
1976年2月、大阪府大阪市に生まれた少年・堂島孝平は、生まれてすぐに、父親の転勤で茨城県取手市に引っ越しします。音楽好きの父親の影響で、幼い頃からエレクトーンを習い始めた堂島孝平は、小学四年の時、「ザ・ブルーハーツ」の歌う姿を観て、"音楽は学ぶだけのものではない。それぞれが、自由に表現していいものなんだ"という事を知ります。
こうして、音楽に目覚めた堂島孝平は、ブルーハーツ以外にも、父親のカーステレオから頻繁に流れていた佐野元春、フリッパーズ・ギターなど、邦楽、洋楽を問わず、ありとあらゆるポップスを聴くようになっていきます。さらに、堂島孝平は、自分が日々感じた事を、歌詞に書き留めるようになって、中学3年の12月には、見様見真似で覚えたギターコードで、初めてオリジナル曲を作ります。
「僕はその頃、作ったオリジナル曲をカセットテープに録音して、友人達に配っていたんです。それで、高校二年の時、そのカセットテープを聴いた友人に、"作った曲を大勢の人達に聴いてもらえるチャンスだから、挑戦してみたら"と言われたひと言が、僕の運命を大きく変えたんです」。
友人のひと言をキッカケに、堂島孝平は、その当時開かれていた、高校生のための高校生による手作り音楽祭「ヨコハマ・ハイスクール・ホットウェーブフェスティバル」に出場します。予選を突破した堂島孝平は、1993年8月、横浜スタジアムで行われた決勝大会に進み、彼が高一の時に作ったオリジナル曲「彼女はやきもち焼き」で、イメージソング賞を受賞。コロムビアレコードからの、メジャーデビューが決まります。
「メジャーデビューすることは、全く考えていませんでした。当時は、バンドブーム全盛期で、周りはコピーバンドだらけ。僕はただ、他の人の真似をするのが嫌で、"どうせ音楽をやるなら、自分が作ったポップな曲を聴いてもらいたい"その想いだけで、曲を作って歌っていたんです」。
こうして1995年2月、堂島孝平は1stシングル「俺はどこへ行く」をリリースするのでした。
1995年2月、堂島孝平は1stシングル「俺はどこへ行く」をリリースします。
「デビュー直後、僕は、誰にも真似できない、堂島孝平の曲を聴いた人がハッピーになれる、ポップ・ソングを作っていきたいと思っていたんです。けれど、レコード会社は、"社会派メッセージを盛り込んだ歌詞を書いて歌って欲しい"というリクエストを出してきたんです。当時、尾崎豊さんを中心にしたメッセージ色強いシンガーソングライターが注目を浴びていたので、僕にも、同じようなものを期待されたんです。しかし僕は、"大好きなポップ・ミュージックを作って歌いたい"という気持ちがあったので、その想いだけは曲げずに、時にはレコード会社とぶつかりながら、曲を作っていました」。
堂島さんは、当事を、こう振り返りますレコード会社と、自分自身のやりたい音楽の狭間に立ち、悩みながらも、堂島孝平は、その後も創作活動を続けていきます。
1999年1月、堂島孝平は所属事務所の突然の倒産というトラブルに巻き込まれますが、半年後、新たに「SMA=ソニーミュージックアーティスツ」と契約。そして、この事務所移籍が、堂島孝平の音楽人生の大きなターニングポイントとなるのでした。「2000年のある日、「SMA」の先輩で「東京スカパラダイスオーケストラ」のメンバーの大森はじめさんが、僕のライブを観に来てくれたんです。そのライブの終了後に、大森さんから、「GO GO KING RECORDERS」がフロントマンを探しているから、一緒にやらないか"と誘ってくれたんです。」
「GO GO KING RECORDERSは、大森さんや、同じくスカパラのメンバーの沖さんや茂木さんらが参加している音楽プロデュース集団なんですが、ちょうど大森さんに声をかけてもらったとき、僕はそれまでの作品作りにマンネリを感じていた所だったんです。実際、GO GO KINGのメンバーと出会って、彼らの音楽に触れてみると、僕がそれまでカッコいいと思っていた曲も、全然カッコ良くないんですね。GO GO KINGのメンバーは、もっとカッコいい、踊れるポップスを作っていたんです。僕は、"彼らと一緒に曲を作ることが、自分自身にとって大きな刺激になると確信しました」。
こうして、2001年3月、堂島孝平はGO GO KING RECORDSのメンバーとコラボレーションして作ったシングル「ルーザー」をリリースするのでした。
2001年3月、堂島孝平はGO GO KING RECORDSのメンバーと作ったシングル「ルーザー」を発売します。
「GO GO KINGのメンバーと一緒に、初めて曲を作って、今まで僕が作った曲は、僕が思っていた以上に、おとなしい曲だということに気づいたんです。彼らと一緒に作った躍動感溢れるようなメロディは、曲を聴いた人がドキドキするような感じで、まさに、僕が求めていたものでした。僕自身、自分の中で何か新しいエンジンが動き始めたような気がしたんです」。
翌2002年4月、堂島孝平はフジテレビ系音楽バラエティ番組『堂本兄弟』に出演し、番組を通じて交流を始めたKinKi Kidsへの楽曲を提供。さらに、11月には堂島孝平×GO GO KING RECORDERSとして、大瀧詠一のトリビュートアルバム『ナイアガラで恋をして』に参加するなど、音楽活動の幅を拡げていきます。そして、堂島孝平は、翌2003年に発売を予定していた、約1年ぶりの新曲の準備に取り組みます。
「それまで僕は、ダンスミュージックのようなメロディを作った経験が無かったんですが、この曲を作る時は、自分でも驚くほどダンスミュージックのようなメロディが湧いてきて、一気に曲を作ったんです。
完成した曲をGO GO KINGのメンバーに聴かせた時、"凄い曲作ったな"って褒められて、"やっと自分の中で、聴く人をドキドキさせる曲を作れた"と確信したんです」。
こうして、2003年5月、堂島孝平は18枚目のシングル「45℃」をリリースするのでした。
2003年5月にリリースした、堂島孝平18枚目のシングル「45℃」。
「誰にも真似できない、堂島孝平ならではのポップスを作りたいと思って、デビュー以来、曲作りをしてきた僕が、2000年にGO GO KING RECORDERSと出会ったことで、彼らから音楽に対する新しい意識を学び、彼らと一緒に音楽活動に取り組んだ経験から生まれたのが、この曲です。この曲から、堂島孝平というミュージシャンの中で、新しい音楽のエンジンが回り始めたんです」。最後に、堂島孝平さんは、こう話してくれました。
音楽人生の分岐点となる出会いがもたらした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.約束の橋/堂島孝平
M2.俺はどこへ行く/堂島孝平
M3.ルーザー/堂島孝平
M4.45℃/堂島孝平
154回目の今日お届けしたのは、「トイレの神様/植村花菜」でした。
「8歳の時、母親が持っていた『サウンド・オブ・ミュージック』のビデオを観て、"歌で人を感動させることは、何て素晴らしいことなんだろう"と思ったんです。それで、私は歌手になりたいと思うようになったんです」。
1983年1月、兵庫県川西市に生まれた植村花菜は、地元の高校を卒業後、歌手になる夢を実現させるために「大阪スクールオブミュージック専門学校」に進学します。
「実は私が進学したボーカルテクニックを学ぶコースは、真剣に歌手を目指している人がほとんどいなかったんです。"学校辞めるしかないなぁ"と思っていたんですが、同じ学校のシンガーソングライターコースの同級生と話をしていると、シンガーソングライターコースの生徒たちは、デビューを夢見て頑張っているっていうんですね。それで、直ぐにコースを変更することにしたんです」。植村さん本人は、当時についてこう振り返ります。
こうして、植村花菜は、シンガーソングライターコースに変わることで、オリジナル曲を作り始めることになります。また、同時に、友達と弾き語りでの路上ライブを始めることにもなるのでした。路上ライブをするようなってまもなくの2002年秋、植村花菜は路上ライブ中に、キングレコードのスタッフ声を掛けられ、10月に行われた「服部良一記念音楽祭 ザ・ストリートミュージシャン・グランプリ」に出場。応募数1,200組の中からグランプリに選ばれます。グランプリ獲得後、植村花菜は、キングレコードのスタッフともに、メジャーデビューを目指して、地元関西を中心に音楽活動を続け、まず、2004年6月にインディーズからシングル「花菜」をリリース、そして、翌2005年5月、メジャー1stシングル「大切な人」で、子供の頃からの夢、"歌手になる"ことを果たすのでした。
2005年5月、植村花菜は1stシングル「大切な人」をリリースします。
前向きな歌詞を、切ないメロディに乗せて歌う、シンガーソングライター植村花菜は、デビュー以降、音楽関係者から高い評価を受け、順調にリリースとライブを重ねていきます。しかし、関係者からの高い評価の割には、セールス結果は伴いません。
「結果はあくまで結果であり、私はその時常にベストを尽くしてきたつもりです。結果が出ない事に悩んだ時期もありましたけど、色んな要因がある訳で、自分ができる事は"その時その時のベストを尽くすことだ"そう思うようにしていました」。
2009年夏、植村花菜は、次のアルバムプロデュースを、寺岡良人に依頼します。
「アルバムテーマを"自分のルーツを、ありのままにさらけ出す"に決めたんです。自分のこれまでのことを寺岡さんにあれこれ話す中で、私が、小学三年の時から一緒に暮らしていた祖母に"トイレには女神様が居て、毎日きれいに掃除をしたら、べっぴんさんになるんやで"と言われ、それ以来、私はずっと毎日欠かさず、自宅のトイレ掃除をしているという話をしたんです。そうしたら、寺岡さんが"超いい話だね。曲にしてみたら"と言ってくれたんです」。
寺岡呼人の一言をキッカケに、植村花菜は、幼少の頃一緒に暮らした、祖母との思い出を歌詞にまとめます。そしてメロディは、当時、祖母と一緒に聴いていた「テネシーワルツ」を思い浮かべて、作っていきました。
「完成した曲は、普通の倍近い長さで、スタッフからは、"10分近い曲は、ラジオでは流れにくい。もう少し曲を短くできないか"と言われたんです。私も一瞬、曲を短くすることを考えたんですが、それでは、私の原点とも言える、祖母との想い出を書いたこの曲は成立しないと思ったんです」。
「私は、"全国のラジオ局の中には、私の思いが伝わる人達が絶対に居るはずだ"とスタッフを説得し、曲をそのまま収録することを押し通しました」。こうして、祖母との思い出を、ありのまま歌詞に込めた植村花菜の曲は、2010年1月に地元大阪のラジオから流れたのを皮切りに、その評判が少しずつ、全国へと拡がっていくのでした。
2010年3月に発売された、アルバム『わたしのかけらたち』に収録された楽曲「トイレの神様」は、9分52秒という曲の長さ、そして植村花菜が書いた詞の世界観が、多くのメディアに取り上げられ話題となり、アルバム『わたしのかけらたち』は、セールスチャート最高位10位、半年以上もランクインし続けるロングヒットとなっています。
「この曲は、私にとってかけがいのない祖母との思い出、そして祖母への感謝の気持ちが沢山詰まった、どんな曲よりも大切な曲です。その思い出が詰まった曲を、これだけの多くの人達に、興味を持って聴いてもらえたのは、何にも変えることのできない、宝物です。」。
最後に、植村花菜さんは、こう話してくれました。
自分のルーツと、その感謝をありのままに綴った、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.My Favorite Things/Julie Andrews
M2.大切な人/植村花菜
M3.トイレの神様/植村花菜
153回目の今日お届けしたのは、「涙そうそう/BEGIN」でした。
「もともとは、栄昇がライブのMCで"俺たちも「いか天」に出るよ"と言った冗談が、キッカケだったそうです」。
1988年12月、沖縄県・石垣島出身の、比嘉栄昇、島袋優、上地等の3人が東京で結成したバンド「BEGIN」。翌年、1989年に、東京・世田谷のライブハウス「ガソリンアレイ」のライブ中に、
比嘉栄昇が言った、そのひと言が、三人の運命を変えていきます。
当時、社会現象と言えるほど人気を集めていた、TBSテレビのオーディション番組『平成名物いかす!!バンド天国』、通称いか天。 BEGINは、当時、島袋と上地が住んでいたアパートの部屋で録画した応募用ビデオを番組に送り、1989年9月、"いか天"に、本当に出演することになります。
「「いか天」に出場した時、BEGINは、彼らがバンド活動を始める原点となった、70年代の洋楽やブルースのカバーと、彼らが影響を受けた音楽に、沖縄県出身アーティストならではの、島唄的な解釈を加えて作ったオリジナル曲を中心に演奏していたそうです。オリジナル曲の完成度の高さは、いか天の審査員を始め、TVを観ていた音楽関係者を驚かせ、番組OA翌日には、彼らの下へメジャー契約のオファーが次々と舞い込んだそうです」。
現在、BEGINの担当ディレクターを務める、前田さんは当時についてこう語ります。
その後、「いか天」で5週連続勝ち抜きを果たしたBEGINは、プロ・デビューのチャンスを掴み取って、翌1990年3月、1stシングル「恋しくて」をリリースするのでした。
1990年3月、BEGINは、日産自動車のCMソングにも起用された1stシングル「恋しくて」をリリースします。「1stシングルのリリース直後、彼らは、"自分達が作った曲が、プロのストリングスが加わるだけで、まるで別物のように重量感溢れる曲に生まれ変わる"そんなプロの演奏家の凄さに驚くと同時に、"本当に自分達は、こんな世界でやっていけるんだろうか"という不安を抱いたそうです」。
担当ディレクターの前田さんは、BEGINのデビュー当時の様子についてこう語ってくれました。
BEGINの1stシングル「恋しくて」は、彼らが「いか天」のグランドチャンピオンに輝いた話題と、日産自動車のCMソングに起用されたこともあって、セールスチャート最高位4位を記録し、およそ4ヵ月近くもチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。さらにBEGINは6月に、1stアルバム『音楽旅団』を発売し、その直後には全国を回るライブツアーも行います。
順風満帆に見えたBEGINの音楽活動でしたが、その一方で三人は、アマチュア時代と違って、曲作りやライブも自分達3人の力だけではできず、プロの作詞家や作曲家、サポートメンバーの力を借りないとできないという、厳しい現実の世界に、自信を失いかけていきます。
1992年3月、BEGINは、失いかけた自分達の自信を取り戻すために、新たな試みをスタートさせます。
「彼らは、常に"僕らは「いか天」で世間から注目され、デビューが決まって、すぐに売れ、あれよあれよという間に色んな事が動いていったから、明らかに音楽経験が不足している"と言っていたそうです。そこで彼らは、自分達が感じていた経験不足を補うために、東京・二子玉川アレーナホールでのマンスリーライブを始めたんです。バンドスタイルではなく、彼ら3人だけのライブを行うことで、少しずつ、自信を取り戻していったんです」。
その後、所属レコード会社のレーベルが無くなるという不運に見舞われながらも、ライブを通して多くの人達と触れ合って、自信を取り戻したBEGINは、所属レコード会社を移籍し、デビュー当事とは違った、地道な音楽活動を続けていきます。そしてデビューから6年が経った、1996年7月、10枚目のシングルとして「声のおまもりください」をリリースするのでした。
1996年7月に発売した、BEGIN10枚目のシングル「声のおまもりください」は、当時人気を誇っていたJリーガー、前園選手が出演していた「アステル東京」のCMソングに起用され、5年ぶりにセールスチャートにランクイン、最高位36位を記録します。
続いてBEGINは、スタッフと一緒に1台の楽器車に乗り込んで日本全国を回るライブツアーを始め、ライブバンドとしても、着実に力を付けていきます。同時に、"セールスというものは、音楽をやっていく上で大した問題ではない。もっと楽に音楽を楽しみたい"といった気持ちを抱くようになっていきます。
1997年、古巣のレコード会社に戻ったBEGINに、翌年、1998年、ひとつの出会いが巡ってきます。
「以前から、イベントやTVで一緒になる機会があって、仲良くしていただいていた森山良子さんのラジオ番組にBEGINがゲスト出演した際、森山さんから、"アルバムに収める曲を一曲書いて欲しい"という依頼があったんです。三人は大先輩のために曲が書ける、といううれしい思いと同時に、"俺達が書いた曲を気に入ってもらえるかな"という不安も持ったようです」。
「曲のベースとなったのは、優が書きかけていたメロディです。それを二人に聴かせ、3人でアイディアを膨らませて、栄昇がサビを加えたそうです。最後に、この曲を聞いて、沖縄に住む人達の事が頭に浮かんだという栄昇が、曲の最後の小節に、沖縄のわらべ唄の歌詞に使われていた一つの言葉を吹き込んで、曲を森山さんに渡したんです」。
「曲を聴いた森山さんは、栄昇が吹きこんだこの言葉に"涙がぽろぽろこぼれる"という意味があることを知って、若くして亡くした森山さんのお兄さんの事を思いだし、歌詞を書いたそうです」。
こうして、BEGINがメロディを作って、森山良子が歌詞を書いた曲は、1998年11月に発売された、森山良子のアルバム『TIME IS LONELY』に収められます。その後、森山良子がライブやイベントで歌って、多くの人達に親しまれることになります。そして、2000年3月、曲を作ったBEGINが、デビュー10周年記念のシングルとして、この曲「涙そうそう」をリリースするのでした。
2000年3月に発売された、BEGINの「涙そうそう」は、発売当時、セールスチャートこそ最高位159位と振るわなかったものの、後に同じ沖縄出身の夏川りみや、ハワイの歌手もカバーするほどのメジャーな歌へと成長していきます。
「BEGINは、この歌はあくまで森山良子さんの歌だと思っています。森山さんが作って歌い、多くの人達が親しむようになって、次にBEGIN、そして夏川りみが歌って、もっと広がっていきました。
"自分達は、あくまで裏方として曲を作っただけ"という気持ちなんです。2003年に、NHK紅白歌合戦に出場し、森山さん、夏川さん、そしてBEGINが一緒に"涙そうそう"歌った時、彼らは曲が成長した事に感謝し、"森山さんに恩返しができた"と言っていました」。最後に、前田さんは、こう話してくれました。
先輩のために綴ったメロディが、人と場所と時間を越えて、J-POPの名曲に育った瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Wonderful Tonight/BEGIN
M2.恋しくて/BEGIN
M3.声のおまもりください/BEGIN
M4.涙そうそう/BEGIN
152回目の今日お届けしたのは、「1/6000000000.feat C&K/九州男」でした。
1978年10月、長崎県に生まれた九州男は、彼が19歳の時に、レゲエと出会います。
「彼は、地元の美容室で美容師として働いていたんですが、仕事に対する興味が無くなって美容室を辞め、友達の誘いで度々レゲエのイベントに遊びに行くようになったんです。遊ぶに行く内に、ボブ・マーリーはもちろん、新旧問わずレゲエの持つ魅力に取りつかれた彼は、ただ単にレゲエを聴くだけでは満足できなくなって、いつの間にか自分がマイクを持って歌うようになっていったそうです」。やがて九州男は、地元・長崎のクラブで活動していた、音楽チーム「一撃SOUND」のメンバーに声を掛けられ、クラブDJとして活動し始め、21歳の時に、単身、レゲエの本場・ジャマイカへ渡ります。
「約2年間のジャマイカでの生活は、彼のレゲエに対する考え方を変えたそうです。それまで、彼は、ノリの良い、サウンドを重視した曲を作っていたんですが、ジャマイカでの日々の生活の中でレゲエに触れ、"一番大切にしないといけないのは、サウンドではなく、言葉の大切さ"だという事に気づいたそうです。そこで彼は、日本に帰国した後、それまで彼が作っていた曲を全て封印し、改めて一から曲作りに取り組むようになったそうです」。日本に帰国してからも、九州男は、度々ジャマイカに渡って、自分の音楽を模索します。
2005年には、音楽活動の拠点を横浜、東京に移して、積極的にライブ活動に励むようになります。
こうして、ライブ活動をする中で、クラウンレコードのスタッフの目に留まった九州男は、2007年、クラウンレコード傘下のインディーズレーベルから、1stミニアルバム『こいが俺ですばい』をリリースするのでした。
2007年6月、九州男は、クラウンレコード傘下のインディーズレーベルから、1stミニアルバム『こいが俺ですばい』を発売します。
「メジャー契約の前に、敢えてインディーズレーベルからミニアルバムを発売したのは、まずは、九州男の音楽を、多くの人達に知ってもらうために、全国を回る時間を作るためでした。TV、ラジオ、音楽雑誌など、あらゆるメディアを回ると同時に、CDショップなどでインストアライブを行って、多くの人達に彼の音楽に、直に触れてもらいたかったんです」。
クラウンレコードの小島さんは、インディーズデビューとなった経緯について、こう語ってくれました。
九州男の、地道なプロモーションの積み重ねに加えて、このミニアルバムに、湘南乃風のRED RICEとのコラボレーション曲を収録したことで、ミニアルバム『こいが俺ですばい』は、セールスチャートのインディーズ部門で、5週連続1位を獲得し、発売から僅か3ヵ月で約8万枚の売上を記録します。
「湘南乃風のRED RICEさんとのコラボレーションは、九州男がジャマイカに滞在中に住んでいたアパートで、RED RICEと偶然出会ったことがきっかけなんです。初めはお互い相手がどんな仕事をしているのかも知らずに、ただ同じ日本人同士という事だけで話をしている内に意気投合し、その後に、お互いに、ミュージシャンであることが分かったそうです。
2人は帰国後も交流を続け、彼が1stミニアルバムを作る事になった時に、"せっかくのチャンスだから"という事でコラボレーションが実現したんです。初めは、九州男の存在すら知らなかった人も、湘南乃風のRED RICEが参加しているという理由だけで、アルバムを買って、九州男の音楽の素晴らしさに出会って、ファンになっていった人も多いんです。ジャマイカでの出会いが、九州男のアルバムのセールス売上に大きく貢献したと言っても間違いないでしょう」。
小島さんは、当時についてこう振り返ります。
勢いに乗った九州男は、今度は、その年の夏の音楽イベントで知り合ったmihimaru GTのhirokoとのコラボレーションした曲を収めた、2ndミニアルバム『こいも俺ですばい』を、11月に発売します。
2007年11月、九州男は、2ndミニアルバム『こいも俺ですばい』を発売します。
「1stミニアルバム『こいが俺ですばい』が約20万枚近いセールスを記録し、2ndミニアルバム『こいも俺ですばい』も、チャート初登場5位を記録しました。ある程度は売れるとは思っていましたが、この結果には正直驚きました。湘南乃風のRED RICEや、mihimaruGTのhirokoとのコラボレーションも大きかったと思いますが、ファンの心を掴んだ、一番の理由は彼が書く歌詞でした」。
「九州男の曲は、歌詞の言葉数が多いんです。普通、歌詞は言葉をリピートして、言葉数を増やすパターンが多いんですが、彼の場合、言葉のリピートはほとんどなく、表現力を高めようとして言葉数が多くなってしまうんです。それが結果的に、曲のストーリー性を高めて、彼の曲を聴いた人から多くの共感を得ることに繋がったんだと思います」。
小島さんはこう話してくれました。
こうして、2枚のミニアルバムで多くのファンを掴んだ九州男は、翌2008年2月、クラウンレコードから、メジャー1stシングルをリリースすることが決まります。
「メジャー1stシングルをどの曲にするのかは、彼と出会った直後の2007年春に、すでに決めていました。それは、彼が、約2年に渡るジャマイカ滞在から、日本に帰国して、初めて作った曲でした」。
「日本に帰国した彼は、一度、故郷の長崎に戻ったんですが、大好きな音楽を諦めることができず、一念発起して、2005年に横浜に移り住んで、アルバイト生活をしながら、大好きな音楽を歌う道を探していたんです。
朝から晩まで、仕事に追われながらも、夜はクラブで大好きな音楽に触れていた。そこで、お互いの知人から紹介されて出会ったのが、湘南・横浜を中心に活動していた、ボーカル・ユニットの「C&K」だったんです。
お酒を飲みながら話をする内に、九州男とC&Kの3人は意気投合し、一緒に曲を作ることを決め、数日後、九州男のアパートで、九州男がすでに作っていた曲をベースにして、曲作りが始まったんです」。
こうして、既に九州男のライブでは歌っていた曲のアレンジを変え、歌詞も、カップルを時間軸で追っていくストーリー性を高めるために、新たに言葉を付け加えて生まれ変わったこの曲は、2008年2月に、九州男の1stシングル「1/6000000000 feat.C&K」として発売されます。
2008年2月に発売された、九州男の1stシングル「1/6000000000 feat.C&K」は、セールスチャート初登場12位、約10万枚を超えるセールスを記録。音楽配信でも40万ダウンロードを達成します。
「九州男が、単身、レゲエの本場ジャマイカに渡って見つけた、レゲエ・ミュージックが持っている本来の意味。レゲエ・ミュージックの原点とも言える、言葉の美しさに気付いたからこそ、彼はこの曲に巡り合えたんです。そして彼は、この曲が売れることで、不安と、戸惑いを感じながらも、それよりも大きな、自分の音楽に対する揺るぎない自信を、この曲で掴んだと思います」。最後に、小島さんは、こう話してくれました。
レゲエの本場で見つけた魂が、J-POPラブソングの名曲に生まれ変わった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ノー・ウーマン、ノー・クライ/ボブ・マーリー
M2.出会い。。/feat.RED RICE(湘南乃風)、BIG RON/九州男
M3.手紙。。/feat.hiroko(mihimaruGT)/九州男
M4.1/6000000000 feat.C&K/九州男
151回目の今日お届けしたのは、「上海ハ二ー/ORANGE RANGE」でした。
「僕が沖縄で経営していたインディーズ・レコードの専門店「スパイス・レコーズ」に、メンバーが1本のデモテープを持ってきたんです。そのテープは、スタジオで録音されたものではなく、恐らくメンバーの誰かの部屋で、マイクを立てて録音されたものだったんでしょうか、録音状態が最悪の仕上がりだったのを覚えています」。
メンバーとの出会いについて、オレンジレンジ所属事務所の崎原社長は、当時についてこう振り返ります。
1999年3月、中学校の卒業パーティで、ギターのNAOTOとドラマ―のKATCHANは、仲間達と結成したバンドでステージに立ち、それをキッカケに、二人は本格的にバンド活動をスタートさせます。
その後、二人は高校進学後も、メンバーチェンジを繰り返しながらバンド活動を続け、2001年3月に、同級生でベースのYOHと、ボーカルのHIROKIとYAMATO、さらにYOHの弟でラップ好きのRYOを加えた、6人組バンド「ORANGE RANGE」を結成します。ORANGE RANGEは、アメリカ軍基地内にあるライブハウスで演奏したり、ストリートライブを積み重ねながら、徐々にライブの本数を増やし、着実に動員を増やしていきます。
「彼らは、デモテープを持ってきた以降、度々お店に遊びに来るようになって、ある日、お店主催のライブイベントに出演してもらったんですが、彼らは、自分達の出番が終わった後も、最後まで残ってイベントの後片付けを手伝ってくれたんです。ほんとに素直で、いい子達で、僕は、少しずつ彼らとの付き合いを深めるようになったんです」」。
2002年2月、ORANGE RANGEは、崎原社長の薦めで、インディーズから沖縄限定ミニアルバム『オレンジボール』を発売します。
「彼らは、山嵐や、rage against the machineなど自分達が好きな音楽のコピーをレパートリーの中心にしていましたが、少しずつオリジナル曲も作るようになって、ライブで演奏するようになっていたんです。そこで僕は、"高校卒業記念にアルバムを作ろう"と彼らに声を掛け、CDを作ることにしたんです。当時、すでに、彼らが生み出すグルーブ感とセンス溢れるメロディ、そしてHIROKI、RYO、YAMATO3人のボーカルによる、軽快なラップのかけあいは、沖縄では話題になり始めていて、ライブも、常に200人程度は集まるようになっていたんです」。
「アルバム『オレンジボール』がリリースされ、さらに、ライブ動員が増え始めると、メジャーレコード会社が続々とデビューの話を持ってくるようになりました。ちょうど、「モンゴル800」や「HY」など、沖縄に在住しながら活動を行っていたバンドが、全国ヒットを生み、成功し始めた時期とも重なって、次の沖縄バンドとして、彼らにも目がつけられたんです」。音楽レーベルからの熱い視線が集まる中、ORANGE RANGEは、アルバムに続き、今度はシングル「ミチシルベ」をリリースします。
2002年8月、ORANGE RANGEは、インディーズからシングル「ミチシルベ」をリリースします。
「シングル「ミチシルベ」をリリースした直後、東京、大阪、名古屋のライブハウスを回るツアーをやったんです。沖縄でライブをやると、200人近く集めていた彼らも、この時の動員はまだまだ全然ダメで、東京では10人、名古屋ではたった2人の前でライブをやったんです。しかし、彼らは、特に気にする訳でもなく、自分達の大好きな音楽を演奏しながら、全国を回れることを楽しんでいました」。
その後、沖縄本土復帰30周年を記念した「オキナワミュージック・フェスティバル」など、沖縄で行われた様々なイベントにも出演し、沖縄では、若手を代表するバンドへと成長していったORANGE RANGEは、レコード会社各社の争奪戦の上、遂にソニー・ミュージック・レコーズとメジャー契約を結びます。
「ORANGE RANGEは、ソニーとメジャー契約を結んだ後も、仕事のベースは沖縄に置くことにしたんです。
それは、自分達がリスペクトしている沖縄在住のアーティスト「モンゴル800」を見習って、メンバーの家族や友人がいる沖縄を拠点に音楽活動することで、リラックスして音楽作りに取り組むことができる。開放感溢れる、ORANGE RANGEならではの音楽が作ることができると考えたからなんです。」
こうして、地元沖縄をベースに、音楽活動を続けていくことを決めたORANGE RANGEは2003年2月に、地元沖縄で、本人達主催の音楽イベント「テレビズナイト」を開催。彼らが持っている音楽志向さながらに、様々なジャンルのアーティストが集って行われたこのイベントには、約1000人近い人が集まり、ORANGE RANGEの沖縄での人気は、一気に沸騰していきます。
そして、その勢いのまま東京に乗り込んだORANGE RANGEは、2003年春、東京・原宿ラフォーレ前で、ゲリラライブを行うなどして話題を振りまき、音楽雑誌にも取り上げられるようになります。沖縄から、また個性的なグループが登場したことに、音楽ファンたちの期待が高まる中、メジャー1stシングル「キリキリマイ」は、6月、リリースされるのでした。
「この曲は、彼らがインディーズ時代に作っていた曲で、彼らのライブでは馴染み深い曲でした。まずは、この曲を聴いてもらって、沖縄以外の人達にORANGE RANGEがどんな音楽を演奏するバンドなのかを分かってもらうために、この曲を1stシングルにしたんです」。
シングル「キリキリマイ」は、セールスチャート最高位50位、約2万枚のセールス結果に終わりますが、彼らは、そのセールス結果に対しても、特に、悲観的になることなく、立て続けに、翌7月に2ndシングルを発売します。
「2ndシングルとして予定していた曲も、1stに続いてインディーズ時代に作っていた曲で、当時、SMAPなどを手掛けていたプロデューサーのシライシ紗トリさんが、アレンジを担当してくれました。シライシさんには、1stシングルからプロデュースをお願いしていたんですが、夏に向けて、みんなの気持ちが色んな面で盛り上がってくる時期に発売するシングルなので、聴く人に、いかにインパクトを与えるかを、メンバー、シライシさん、そして我々スタッフも考えていました。そして、もともとあった曲に、沖縄らしさを取り入れることを考え付いたんです」。
「それは、具体的には、沖縄民謡によく見られる、掛け声や拍子を、曲のリズムに合わせて入れることでした。レコーディング途中に、突然湧いたひらめきを取り入れたら、これが"ピタリ"とハマったんです」
こうして、2003年7月、ORANGE RANGEの2ndシングル「上海ハニー」は発売されます
2003年7月に発売された、ORANGE RANGEの2ndシングル「上海ハニー」は、ノンタイアップながら、セールスチャート最高位5位、約24万枚のセールスを記録します。
「2ndシングル「上海ハニー」は、発売直後に九州のFMラジオ局各局のパワープレイを獲得することが出来ました。
キャンペーンで初めて福岡に行った時に、溢れんばかりの人たちが、彼らを観にやって来たことに、メンバーみんなで驚いたことが印象に残っています。夏に向けて、気分が高揚する時期に、アッパーチューンなこの曲は、盛り上がるのにピッタリだったんですね。当然、ライブでもこの曲を演奏すると盛り上がりました。彼らにとっても、メジャーの世界で生きていくための大きな自信に繋がった曲ですね」。
最後に、崎原さんは、こう話してくれました。
沖縄出身の彼らならではアイディアを取り入れた歌が、J-POPの人気グループを生み出した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.山嵐/山嵐
M2.ミチシルベ/ORANGE RANGE
M3.キリキリマイ/ORANGE RANGE
M4.上海ハ二-/ORANGE RANGE
150回目の今日お届けしたのは、「鱗/秦基博」でした。
1980年11月、宮崎県日南市に生まれた秦基博は、7歳の時に父親の仕事の都合で、神奈川県横浜市に引越します。1992年、秦は、兄が買ってきたギターを弾き始め、1996年4月、高校入学後には軽音楽部に入部し、ミスター・チルドレンやエレファント・カシマシなどのコピーバンドを始めます。やがて秦は、リサ・ローブやシェリル・クロウなどの洋楽も聴くようになると同時に、オリジナル曲も作りはじめます。
1999年春、秦は、大学入学直前の春休みに、友人の紹介で、横浜・中華街近くのライブハウス「F.A.D YOKOHAMA」で行われた弾き語りライブに出演、店長に、その音楽性を見込まれた秦は、その後も、月に1、2度定期的に出演するようになります。
2004年1月、秦は、「F.A.D YOKOHAMA」の店長の薦めで、インディーズアルバム『オレンジの背景の静物』を制作。その年の夏には、ひとりで、関東近郊のライブハウスを巡るツアーを行います。
"インディーズアルバムを作ったら、メジャーへの扉が開けるのでは"-そう考えていた秦でしたが、彼を取り巻く音楽環境は変わらず、秦は引き続き自身の音楽スタイルを模索する日々を過ごします。
しかし、翌2005年の暮、ライブハウスで歌っていた秦をたまたま見かけた、音楽事務所・オフィス・オーガスタのスタッフが声を掛け、ついに、秦基博メジャーデビューへの扉が開きます。
「当時、事務所はスキマスイッチをデビューさせた後で、彼らに続くアーティストを探していたんです。普通、"デビューさせたい"と思ったアーティストを見つけた時、デモテープを作って、ライブで経験を積ませてと、メジャーデビューさせるまで約1年はかけるんですが、彼の場合は違っていたんです。"荒削りだけど、彼の場合は、完成されたアーティストとしてデビューさせるよりは、未完成のままデビューさせる方が面白いかもしれない"と考え、彼を見つけてから4ヵ月後の2006年3月には正式に契約を結び、7月には事務所主催の野外ロックイベント「Augusta Camp2006」のオープニングアクトとして出演させたんです」。現在、秦基博のマネージャーを務める堀越さんは、当時についてこう振り返ります。デビューを前にして、約1万人の大観衆の前に歌を歌い、注目を浴びる存在となった秦基博は、11月に1stシングル「シンクロ」を発売します。
2006年11月、秦基博は1stシングル「シンクロ」を発売します。シングル「シンクロ」は、いきなり全国43局ものFM局のパワープレイを獲得します。
「僕らスタッフは、秦のデビューにあたって、彼を、"シングルヒットを放つアーティストとして育てていくことよりも、秦が作った色んなスタイルの曲を、多くの人に聴いてもらって、コアなファンを掴みたい"と考えたんです。そこでまずは、彼がギター1本の弾き語りで歌った、「Augusta Camp」のライブ映像を収録したプロモーションビデオを、全国のラジオ局に配って、彼の音楽の良さを、多くの人達に知ってもらおうとしました。その計画は見事に成功し、広島FMをはじめとする、全国のFM局から支持を獲得し、デビュー曲「シンクロ」がラジオから大量にOAされるキッカケを作ることができたんです」
マネージャーの堀越さんは、当時を振り返ります。
翌2007年3月、秦基博は、次の作品としてミニアルバムをリリースします。
「それまでの秦は、デビューするまで、ずっとギター1本、独りで歌を歌ってきました。それが、秦の音楽スタイルの基本なので、その弾き語りを軸に作った色んなタイプの曲を聴いてもらうために、ミニアルバムを作ることにしたんです。しかも、秦自身のサウンドを、しっかり聴いてもらうために、彼自身にプロデュースしてもらいました。」
こうして、2007年3月、秦基博がセルフプロデュースしたミニアルバム『僕らをつなぐもの』は発売されます。
2007年3月に、秦基博はセルフプロデュース・ミニアルバム『僕らをつなぐもの』を発売します。
「『僕らをつなぐもの』リリース直後に、広島FM主催で行った『魁no.2』を含め、東京、大阪で初めてバンドスタイルでライブを行ったんです。他のメンバーを加えてバンドスタイルでライブを行ったのは、この時が初めてでした。
秦自身、他のミュージシャンと一緒に組む楽しさを覚え、それが自分にとって、音楽の幅を拡げるられることだと分かったんです。この経験が、その後の彼にとって大きな財産になりました」。
マネージャーの堀越さんは、当時をこう振り返ります。
その後、秦は、6月に発売を予定した次のシングルに、ある曲を選びます。
「この曲は、もともと、弾き語りのイメージが強く、いかにアレンジするのかがポイントだと思っていたので、アレンジを誰に頼むか考えて、秦本人、そしてスタッフの中で浮かんだ人物が、東京事変などのプロデュースを手掛けていた亀田誠治さんでした。それまで亀田さんとは、全く面識が無く、秦自身も、色んなアーティストのプロデュースを手掛け、多忙を極める亀田さんにアレンジをお願いすることに対して、遠慮と不安を感じていました。しかし、亀田さんにお願いすると、亀田さん自身も秦の音楽に興味を持っていてくれて、話はすんなりと決まったんです。
その後、デモテープを亀田さんに渡し、数日後に完成された曲が届いたんですが、その曲を聴いた瞬間、秦本人も含め、スタッフみんなが、その完成度の高さに驚いたんです。イントロ部分のピアノで曲に引き込まれ、ストリングスを加えたことで拡がったスケール感。曲がもともと持っていた力が、さらに拡がっていくのを感じたんです」。
マネージャーの堀越さんは、そのときの驚きをこう語ってくれました。
こうして、秦基博の2ndシングル「鱗」は、2007年6月に発売されるのでした。
2007年6月に発売された、秦基博の2ndシングル「鱗」。
「デビュー当時から、彼がライブで歌ってきたこの曲は、亀田さんのアレンジが加わったことで、今では曲のイントロが流れた瞬間に、ファンの顔色が変わっていくのがハッキリ分かるほど、彼のライブには欠かせない曲になったんです。亀田さんにアレンジを担当してもらって、曲のスケール感が拡がっていったことに秦自身も大満足し、それ以来、彼は他のアーティストと一緒になって曲を作っていくことにも、積極的にチャレンジするようになってくれました。この曲を通して、彼は色んな人達の力を借りて曲を作ることで、聴いてくれる人たちに、曲は、より伝わるものになるということを、実感することができたんです」。
最後に、マネージャーの堀越さんは、こう話してくれました。
1人の才能が、たくさんの手を経て、J-POPの名曲に生まれた変わった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Tomorrow Never Knows/Mr.Children
M2.シンクロ/秦基博
M3.僕らをつなぐもの/秦基博
M4. 鱗/秦基博
149回目の今日お届けしたのは、「ずっとそばに.../Metis」でした。
1984年3月、広島市に生まれたMetisは、小さい頃から歌を歌うことが大好きで、近所のビデオ屋で貰ったビデオテープの中に入っていた、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を観て、その踊りを真似ていたといいます。その後、小学校に入るとMetisは、洋楽のオムニバスCDを買ってきて、その中に収録されていた、ボビー・ブラウンやホイットニー・ヒューストンなど、R&Bやブラックミュージックに夢中になっていきます。そして、16歳の時、たまたま買った、ボブ・マーリーの追悼フェスティバルのビデオ『ONE LOVE THE BOB MARLEY ALL-STAR TRIBUTE』でレゲエ・ミュージックに出会った彼女は、その世界の虜になり、彼女自身も"レゲエシンガーとして、人にメッセージを伝えていきたい"と思うようになります。
2002年春、高校を卒業したMetisは、"歌手になる"という夢を実現するために、様々なオーディションにチャンンジしますが、簡単にその扉は開きません。しかし、「母さんにとったら世界一強い子じゃけん」という母親の言葉を励みに、オーディションにチャレンジし続けたMetisは、2005年、インディーズレーベル「JAMWAX」のオーディションに合格し、10月に1stミニアルバム『ANSWER』を、タワーレコード限定で発売します。アルバム『ANSWER』は、僅か400枚のリリースでしたが、パワフルな歌声とメッセージ性溢れる彼女の歌の評判は、口コミやインターネットを通じて広がり、彼女の名前は少しずつ、全国に浸透していきます。
2006年春、日本クラウンとメジャー契約を結んだMetisは、5月にインディーズ最後のミニアルバム『MUSIC』を発売。広島のことについて歌った曲「ANSWER」や、愛する全ての人たちが幸せになって欲しいと歌った曲「MUSIC」など、その歌の内容や、Metis自身の生き方に対して、少しずつ共感の輪が拡がっていきます。そんな中、Metisは満を持して、メジャー1stミニアルバム『WOMAN』を発売します。
「アルバム『WOMAN』発売直後の、10月から、Metisは約1ヵ月半で、全国40都道府県を回るインストアライブとキャンペーンを行ったんですが、おかげで、TV、ラジオ、雑誌など、さまざまなメディアが、彼女を取り上げてくれました。そして、キャンペーン直後の11月に、レゲエの本場ジャマイカで、レコーディングをすることになったんですが、初めてジャマイカを訪れたMetisは、ジャマイカの人達がレゲエ・ミュージックを糧に生活している姿を見て、彼女自身、彼女なりのやり方で、歌を通してメッセージを伝えていくことができればと、強く感じたそうです」。
当時のことについて、マネージャーの鈴木さんは、こう振り返ります。
そして、2007年1月、Metisがジャマイカでレコーディングした曲をカップリングに収めた、メジャー1stシングル
2007年1月、Metisは1stシングル「梅は咲いたか桜はまだかいな」を発売します。
「"梅は咲いたか桜はまだかいな"の歌詞が、受験生を後押しするような励ましの内容であったり、彼女自身が偶然にも菅原道真の末裔であったことなどもあって、2月に湯島天満宮で合格祈願ライブを行ったんですが、このことは新聞やテレビを通して、数多く取り上げられました。FMの各局でパワープレイにも選んでもらい、この曲で、Metisの知名度を一気に拡げることができました」。鈴木さんは、こう振り返ります。
さらに、2007年は"広島のシンガー"であることを大切に思うMetisにとって、節目の年となります。2007年5月、Metisはテレビ新広島の企画で、原爆ドーム前からの中継に生出演、さらに8月6日には全国ネットで放送された特別番組にも出演して、話題を集めます。
「Metis自身、家に帰ったら被爆体験を持つおばあちゃんが居て、小さい頃から、食卓で被爆体験について話を聞かされていたそうです。それで、彼女は、自分が歌手になる時に"平和や命の尊さについて、歌を通して訴えていく"と決めたんです。ただ、音楽活動を続ける中で彼女は、"もっと自分は原爆の事について知らないといけない"と感じて、改めて、語り部の沼田鈴子さんから直接話を聞いたり、被爆した建物を実際に歩き回るなどして、ひとつの曲を作ったんです。それが、アルバム『ONE LOVE』に収められた曲"アオギリの木の下で..."です」。
「アオギリの木下で・・・」が収められたアルバム『ONE LOVE』は、2007年8月15日にリリースされ、セールスチャート最高位20位、約6万5000枚の売上を記録します。また、10月には、初の全国ライブツアーも成功させ、Metisは一歩づつ、メジャーアーティストの階段を昇っていきます。翌2008年2月、Metisは、特別な想いを込めて、新曲をリリースします
「もともと、別の曲を歌う予定にしていたんですが、レコーディング直前になって、"もっとMetisらしい、聴く人にメッセージが伝わる歌を歌った方がいい"という事になり、彼女が改めて考えて、辿り着いたのが、自分の母親をテーマにした歌を作ることでした。彼女が、歌手になることを決め、上京した直後に病で倒れた彼女の母親は、その時点で余命を宣告され、彼女自身、それから、常に母親の事を考えながら歌い続けていたんです」。
こうして、Metisのストレートな母親への想いを歌詞に込めたシングル「母賛歌」は、リリースされるのでした。
2008年2月に、Metisが発売したシングル「母賛歌」。Metisが生まれた時から、ずっと支えてくれた母親が、天国へ逝ってしまう前に、母への感謝の気持ちを伝えようと書いたその歌は、その年の夏に全国各地で行われた音楽フェスやイベントでも歌われ、多くの人達に共感を呼んでいきます。そして、シングルリリースから半年以上が過ぎた頃、あるTV番組への出演依頼が舞い込みます。
「その番組は、10月から日本テレビ系で放送がスタートした『誰も知らない泣ける歌』でした。Metisは、テレビで"母賛歌"が取り上げられることに対し、初めは、"私はレゲエシンガーなのに大丈夫だろうか"という思いや、TVを観た人達から"やらせなんじゃないか"という、批判めいた意見が届くんじゃないかと心配していました。それで、Metisと僕等は、事前に彼女のブログで、"自分がなぜテレビ番組に出演し、この歌を歌うのか"説明したんです。実際11月に番組がOAされると、そんな心配は全く無く、むしろMetisのファンや、彼女と同じような境遇の人達から、たくさんの励ましのメッセージが寄せられ、それが、彼女にとって、大きな支えとなりました」。
しかし、番組が放送された直後の2008年12月、奇跡的に命を永らえていた彼女の母親は、ついに彼女を残して逝ってしまいます。
「彼女の下へは、"母賛歌"を通して彼女の事を知った多くのファンから、たくさんの励ましの声が寄せられました。母親を亡くした直後にはひどく落ち込んでいた彼女が、時間が経って、まず考えたことは、そんな、彼女に寄せられた励ましの声に応える、アンサーソングを作ることでした」。
「"自分自身を含め、それぞれ人にはみんな"大切な人""ずっとそばにいたい人"がいるはず。その人を、本当に大切にして欲しい"という願いを、彼女はこの歌に込めました。大切な人からの言葉、そして愛を大切にして、どんな困難にも立ち向かってほしい。そんな願いが、この歌には込められています」。
こうして、Metis5枚目のシングル「ずっとそばに...」は、2009年4月に発売されます。
2009年4月に発売された、Metisの5枚目のシングル「ずっとそばに...」。
「母親を失い、途方に暮れていた彼女を救った、ファンの人達、そして同じ境遇の人達からの励ましの声。彼女は、その声に応えるために、再び歌を歌い始めました。この歌を通して一番伝えたかったのは、励ましの声をかけてくれた人達への恩返しだったんです。
最後に、マネージャーの鈴木さんは、こう話してくれました。
数多くのファンの励ましに応えたいという思いが、J-POPの名曲を産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ワン・ラブ/ボブ・マーリー
M2.梅は咲いたか桜はまだかいな/Metis
M3.母賛歌/Metis
M4.ずっとそばに.../Metis
148回目の今日お届けしたのは、「サカナクション/セントレイ」でした。
「僕が、メンバーの山口一郎と、岩寺基晴の二人に初めて出会ったのは、2000年のことでした。当時、僕は札幌担当のビクターレコードのプロモーターで、札幌でイベントを企画した時に、二人がそれぞれ活動していたバンドに声を掛け、オープニング・アクトとして出演してもらったんです」。
現在、ビクターでサカナクションを担当する岡さんは、初めての出会いについてこう振り返ります。
1980年9月、北海道小樽市に生まれた山口一郎は、ヨーロッパに長年住んでいた父親の影響から、小さい頃からドイツのエレクトロニック・ミュージック・バンド「クラフトワーク」や、YMOなど、電子音楽をベースにしたポップミュージックを聴いて育っていきます。札幌市内の高校に進学した山口は、同級生の岩寺達と、UKロックのバンドを結成しますが、やがて解散。山口は、次第に打ち込みを重視した、テクノやクラブミュージックに傾倒するようになり、高校卒業後も、働きながら、独りで音楽活動を続けていきます。
2005年、山口は、テクノやクラブミュージックに、ロックやJ-POPのエッセンスを加えることで、"何か違う音楽が生まれるのでは"と考えはじめ、それを実践するために、別のバンドで音楽活動を続けていた岩寺を誘って、「サカナクション」を結成します。
「2000年に、山口と岩寺に初めて出会った後も、ちょくちょく彼らのライブは観ていたんです。それで、二人がバンドを結成したという話を聞いて、"一体、どんな音楽を作るのか"と興味を持っていたところ、二人からデモテープを貰ったんです。そのデモテープに収録されていた「三日月サンセット」と「白波ウォーター」の2曲を聞いた時、どちらも荒削りだったけど、テクノやハウス音楽の要素が詰まった独自の音楽性に、可能性を感じたんです。山口は、独りで活動していた時に、札幌のクラブで培った、サウンドの変調や、心地よいリズム感を、ロックミュージックに上手く活かしていたんですね」。サカナクションの曲を初めて聞いた感想を、岡さんはこう語ってくれました。
ロックバンドの世界に再び足を踏み入れた山口と岩寺の二人は、サポートメンバーとしてドラマ―の江島啓一、キーボードの岡崎英美、ベースの草刈愛美の3人を加え、地元北海道で、積極的にライブを積み重ねていきます。
2006年8月、サカナクションは、北海道最大の野外ロックフェスティバル「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」の公募選出枠に応募し、868組の中から、見事、出演枠を獲得します。これをキッカケに、サカナクションは、サポートメンバーを正式メンバーとして加え、5人組バンドとして活動を本格的にスタートします。
「RISING SUN ROCK FESTIVAL」の出演で注目を集めたサカナクションは、CD未発売ながら「三日月サンセット」が、地元北海道のカレッジチャートにランクイン、同時に「白波トップウォーター」もラジオから頻繁にオンエアされるようになって、ファンの間からはサカナクションのCD発売を求める声が、レコードショップに殺到します。
翌2007年、サカナクションは、こうしたファンの要望に応える形で、ビクターと正式に契約を結び、5月に待望の初CD『GO TO THE FUTURE』をリリースするのでした。
2007年5月にリリースされた、サカナクションのポップで、キャッチーな1stアルバム『GO TO THE FUTURE』は、地元北海道はもちろん、全国の音楽ファンからも注目され始め、彼らは8月に「SUMMER SONIC 」に、12月に「COUNTDOWN JAPAN」と、大型ロックイベントにも出演していきます。
「彼らは、クラブシーンにいるようなアンダーグランンドなリスナーと、J-POPのリスナー、この両方をターゲットにした音楽を作ることを目標にしました。音の質やアート性に拘りを持っているアンダーグラウンドのリスナーと、音には無関心だけど、歌には執着するJ-POPのリスナー。その中間の人達が気に入ってもらえるような音楽を作れば、自分達が目指した音楽ができるのではと考えたんです。1stアルバムに収められた"三日月サンセット""白波トップウォーター"を始めとした8曲は、どれも、彼らの過去の作品の中から厳選した曲ばかりで、どの曲もテクノ、クラブミュージックを基調としたサウンドに、日本語独自の言葉の響きや言い回しを上手くのせて、ロックファンも、クラブ系のファンも惹きつける魅力を放っていました」。岡さんは、サカナクションの1stアルバムについて、こう語ります。
子供の頃、読書家で俳句が好きだった父親の影響で、自らも寺山修司の作品や種田山頭火の俳句を読んでいた山口が書く、文学性の高い歌詞。そして、繊細なギターと、うねるようなベースのグルーヴ感。さらには抑揚感際立つドラムと、キラキラとしたシンセの音色。これら全てが融合したサカナクションのサウンドは、ジャンルを問わず、多くの音楽ファンに新鮮な感覚を与え、虜にしていきます。
そして、2008年1月、前作から8ヵ月というスピードで、サカナクションは、2ndアルバム『NIGHT FISHING』を発売します。
「彼らにとって1stアルバムは、名刺代わりのようなアルバムで、実は、音楽シーンに対して、どうアプローチしていけばいいのかが、全く分かっていなかったんです。でも、1stアルバムをリリースして時間が経っていく内に、"自分達が演ろうとしている音楽は間違いじゃなく、基本ターゲットは変えずに、サウンド面で進化させていくことが大切だ"という事に気がついたんです。その結果から生まれたのが、この2ndアルバムです」。
ロックファンのみならず、クラブ好きの音楽ファンからも支持を集めたサカナクションは、その後、全国8ヵ所を回る初めての全国ツアーを行った後、8月には2年ぶりの「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」を始め、8本もの野外ロックフェスティバルに出演します。
「野外ライブ出演が終わって、翌2009年に発売する予定のアルバム制作に入った時、「RISING SUN ROCK FETIVAL in EZO」で、未発表のまま演奏し、お客さん達の反応が良かったこの曲を、シングル化する話が持ち上がったんです。
それまで、彼らの頭の中には、シングルという概念はなく、幾つかの曲群が集まったアルバムを、一つの作品として捉えていました。しかし、僕は、アルバムを発売するにあたって、サカナクションをもっと盛り上げていくための、大きなうねりを作っていきたいと思っていたので、初めてシングル化することをメンバーに提案したんです。
次のアルバムに収める予定の曲の中でも、この曲はポップ感が際立っていて、メンバーからも、シングル化に対しての異論は出ませんでした」。
「ギターサウンドを全面に打ち出したこの曲は、アッパーなベースのグルーヴ感と、その二つを上手く融合させるためにアレンジ面にも工夫を凝らしていて、それまでのサカナクションとは違う、もう一つの新しいサカナクションの音楽が生まれたような感じがしたんです」。
こうして、2008年12月、サカナクションの1stシングル「セントレイ」は発売されます。
2008年12月に発売された、サカナクションの1stシングル「セントレイ」。
「"セントレイ"は、ギターサウンドを全面に出したことで、よりキャッチーな曲となり、多くの新しいファンを掴むことができました。発売直後に出演したライブイベント「COUNTDOWN JAPAN」でこの曲を歌った時には、会場に詰めかけた約5,000人のお客さんが、笑顔で踊りまくる、素敵な光景を目にすることができたんです。サカナクションが演ろうとしている、音楽の裾を広げるキッカケを作った曲ですね」。
最後に、ビクターの岡さんは、こう話してくれました。
バンドのチャレンジが生んだ楽曲が、J-POPの可能性を、また一つ拡げた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ショールーム・ダミー/クラフトワーク
M2.三日月サンセット/サカナクション
M3.ナイト・フィッシングイズグッド/サカナクション
M4.セントレイ/サカナクション
147回目の今日お届けしたのは、「BEAT CRUSADERS/DAY AFTER DAY」でした。
「元々僕は、インディーズのレコード会社で、制作ディレクター兼営業宣伝担当、いわゆる何でも屋のような仕事をしていたんです。それが、仕事で培った知識やノウハウを、学生時代から始めたバンド活動へ取り入れるようになって、いつの間にかバンド活動がメインになっていったんです。こうして、1997年に、高校時代の同級生・イワハラユキオと二人でBEAT CRUSADERSを結成しました」。
ギター兼ボーカルのヒダカトオルさんは、バンド結成の経緯について、こう振り返ります。
アメリカのロックバンド「ザ・モンキーズ」の大ファンでありながら、ザ・ストーン・ローゼス、オアシスといったブリティッシュ・ロック音楽にも傾倒していたヒダカトオルは、1997年高校時代の同級生でドラマ―のイワハラユキオとユニット「BEAT CRUSADERS」を結成します。
「BEAT CRUSADERS」は、"アメリカやイギリスのインディーズ音楽の世界にいる、POPなギターサウンドのバンド"というコンセプトの下、当初はギターとドラムだけのユニットとしての活動を始めますが、その後、イワハラが脱退。ヒダカは音楽活動を通じて知り合った、ウム、タイ、アラキの3人が加えて、4人のバンド編成でBEAT CRUSADERSとしての活動を続けていきます。
1999年6月、BEAT CRUSADERSは、インディーズレーベルからシングル「NEVER POP ENOUGH E.P.」を、翌7月には1stアルバム『HOWLING SYMPHONY OF...』を発売します。60'~'90年代までの、ロックのエッセンスを取り入れたBEAT CRUSADERSのサウンドは、洋楽リスナーを中心に多くの人々から支持を集めていきます。さらに彼らは、スタジオワークと並行して、ライブ活動も精力的に行い、インディーズバンドでありながら2001年6月には、アメリカ西海岸を、翌2002年4月にはオーストラリアを回るライブツアーも行って、海外のロックファンからも注目を浴びるバンドに成長していきます。
2003年8月、ベストアルバム『BEAT CRUSADERS』を発売した後、音楽の方向性の違いから、ヒダカ以外の3人のメンバーがバンドを脱退、バンド解散の危機が訪れます。しかし、ヒダカは、音楽仲間のクボタマサヒコ、カトウタロウ、マシータ、ケイタイモの4人を加えて5人編成の新生BEAT CRUSADERSとしての活動をあらたにスタート。
そして、翌2004年春に、メジャーレーベルのDefSTAR RECORDSと契約を結ぶのでした。
「メンバーチェンジの後、僕の動向を心配してくれていたレコード会社の人達が、声をかけてくれたんです。僕は、インディーズで3年半余り活動して、ある程度の実績も残していたし、インディーズのレコード会社に勤めていた時に、メジャーレコード会社の販売や宣伝面での、良い部分、悪い部分も分かっていたので、"僕らだったら、少しでもそのやり方を変えることができるのでは"と思い、メジャーレコード会社と契約することにしたんです」。
こうして、DefSTAR RECORDSと契約したBEAT CRUSADERSは、7月にミニアルバム『A PopCALYPSE NOW~地獄のPOP示録』を発売します。
「メジャー初のリリースは、映画『地獄の黙示録』と、POP音楽をかけ合わせてタイトルを付けました。
物事の消費されるスピードが年々早くなっていく今の時代、POP音楽の世界も、人気を集めている人達でさえも、2、3年経つと、あっという間にその立場が入れ替わってしまう。実は、"POP音楽は地獄から一番近い存在なのでは"、そう思ったんです。インディーズの世界も同じで、世の中に認知される速度が速くなって、セールスもあがり、ジャンルも活性化してはいるけど、メジャー音楽と同じように飽きられるのも早くなっている。純粋に音楽をやろうとしていた人達でも、会社の資本が入ってきた段階で、この"人気が落ちる"地獄に巻き込まれてしまうんです。
僕は、そんな構図を、インディーズレコード会社で働いていた時に、実際に見てきたので、インディーズで実績を積んできた僕らがメジャーデビューして、少しでもその構図を変える挑戦ができればという思いを、アルバムタイトルに込めたんです」。ヒダカトオルは、メジャーデビュー作への思いについて、こう振り返ります。
「それから、僕等は、自分達が聴いて育ってきたパンクやPOPな音楽、特に海外の作品と日本のインディーズ音楽それぞれのエッセンスを、J-POPという音楽ジャンルの中に潜り込ませていました。そうすることで、より多くの人達に、僕等の音楽に興味を持って欲しいと考えて、曲を作っていました」。
BEAT CRUSADERSは、邦楽、洋楽、ジャンルを問わず音楽ファンの心を掴むと同時に、ライブを始めとした公の場では、メンバー全員が、それぞれの似顔絵イラストのお面をつけて登場し、決して素顔を見せないという、謎めいた部分も話題を呼び、多くの人達に、その存在が知られるようになっていきます。
こうして、2004年10月、BEAT CRUSADERSは、テレビ東京系アニメ『BECK』の主題歌にも起用された、メジャー1stシングル「HIT IN THE USA」を発売します。
2004年10月、BEAT CRUSADERSはメジャー1stシングル「HIT IN THE USA」を発売します。さらに、翌2005年3月には、ヒダカが音楽総合プロデューサーを務めたアニメ『BECK』のサントラ盤を2枚同時に発売します。
「主人公の少年が、バンド活動の中で、失敗と挫折を繰り返しながらも、音楽への信念を原動力に一歩ずつ前進していく様を描いたアニメ『BECK』と、僕らBEAT CRUSADERSの音楽活動は、重なる部分もあって、このアニメを観た人達にも、BEAT CRUSADERSを浸透させていくことができました。おかげて、ロックファン以外にも、僕らの音楽を浸透させることができたんです」。
BEAT CRUSADERSの音楽の魅力を、アニメを通して浸透させることに成功した彼らは、5月にメジャー1stアルバム『P.O.A~POP ON ARRIVAL』を発売し、セールスチャート最高位3位、約18万枚のセールスを記録します。
さらに、アルバム発売後に全国28ヵ所でのライブツアー、そして8月には「ROCK IN JAPAN FES」「SUMMER SONIC」
など野外ロックフェスティバル4本に立て続けに出演して、BEAT CRUSADERSは、ライブバンドとしても高い評価を集めていきます。
「ライブツアーが終わって、野外ロックフェスティバルに出演する合間に、次のシングルの構想を練ったんです。そこで僕は、"アジアン・カンフー・ジェネレーションや、BUMP OF CHICKENと言った後輩バンドが演っている、ギターROCK感に、パンクロックの象徴のひとつ、2ビートに乗せて曲を作れないか"、そう考えたんです」。
「ところが、色々と模索しながら作った曲のレコーディング途中に、ドラマ―のマシータが、ライブツアーや夏フェスに出演し続けてきたことによる疲労と、レコーディングでドラムを激しく叩き過ぎたのが原因で、足を負傷してしまったんです。
それで、ほんの数日なんですが、バンド活動を休まなくちゃいけなくなったんですね。でも、その数日間休みを取ったことで、"自分達にとって本当に必要な事は何なんだろうか"という、忙し過ぎることで見えなくなっていた部分を、改めて考えることができて、バンドにとってはいい休養期間になったんです。そのせいか、曲自体、最終的には柔らかい雰囲気に仕上がりました」
こうして、BEAT CRUSADERSが作った曲「DAY AFTER DAY」は、2006年4月に、5枚目のシングルとして発売されます。
2006年4月に発売された、BEAT CRUSADES5枚目のシングル「DAY AFTER DAY」は、セールチャート最高位6位を記録します。
「結果的にBEAT CRUSADERSにとっては、メンバーのケガによる少しの休みがプラスに働きました。苦しみや悲しみと向き合って、それを素直に受け入れることで、新たな自分達を見つけることができたんです。それは、バンドにとって、大きな刺激を与えてくれたんです。
この曲は、ギターロックの疾走するような爽やかさと、パンクロックのスピード感、その両方を兼ね備えていて、ライブでも演奏すると、お客さん達も楽しそうだし、僕らも気持ち良いので、僕等のライブには欠かせない曲になっています」。
最後に、メンバーのヒダカトオルさんは、こう語ってくれました。
勢いのあるバンド活動の中で生まれた、アクシデントによる少しの休息が、J-POPの名曲を生み出した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.デイドリーム・ビリーバー/ザ・モンキーズ
M2.LOVE DISCHORD/BEAT CRUSADERS
M3.HIT IN THE USA/BEAT CRUSADERS
M4.DAY AFTER DAY/BEAT CRUSADERS
146回目の今日お届けしたのは、「HALCALI/Tip Taps Tip」でした。
東京都目黒区生まれのYUCALIと、HALCAの二人は、小学生の時、都内のダンススクールで出会い、意気投合します。
2000年、YUCALIとHALCAの二人は、テレビ東京系で放送されていたダンス番組「RAVE2000」の小学生大会に出場して優勝、さらに2002年春に行われたダンスコンテスト「FEMAIL RAPPERオーディション」に出場して優勝します。
「「FEMAIL RAPPER」オーディションで優勝した時、彼女達はまだ中学生だったんですが、RIP SLYMEのRYO-ZとDJ FUMIYAによるプロデュース・チーム「O.T.F」全面プロデュースの下、デビューすることが決まったんです。
当時、二人が憧れていたのは、R&Bシンガーのメアリー・J・ブライジや、女性ラッパーのミッシー・エリオットで、とにかく自分達の歌いたい曲を歌いながら、レッスンでいたそうです」。
担当ディレクターを務める、エピック・レコードの笠井さんは、当時についてこう振り返ります。
2002年7月、二人の名前をかけ合わせて作ったユニット名の「HALCALI」を結成した彼女達は、RIP SLYMEが日本武道館で行った無料ライブにゲストとして参加。ライブの途中、RIP SLYMEのメンバーの呼びかけに応じて、客席からステージに上がって、1万人の観客を前にして、曲を披露します。
「RIP SLYMEのライブ中に、突然ステージ上にあげられた彼女達は、1万人の観客を前にして、緊張することなく、O.T.Fが彼女達のデビュー曲として作った曲を歌ったんです。一瞬、"彼女達は誰"って顔をしていたRIP SLYMEのファン達も、脱力感満載の彼女達の歌声を聞いて、曲が終わる頃には、一緒に踊っていたそうです」。
こうして、デビュー前から注目を浴びていたHALCALIは、2003年1月、1stシングル「タンデム」を発売します。
2003年1月、HALCALIは、O.T.Fプロデュースによる、1stシングル「タンデム」を発売します。
YUCALIとHALCA、二人の現役女子中学生によるユニットHALCALIの曲は、しつこいほど韻を踏む意味不明の歌詞と、シンプルなメロディで構成され、脱力感たっぷりだけど、一度耳に入るとこびりついて離れない感覚で、同世代の女子中高生を中心としたティーンエイジャーから支持を集めていきます。
また、HALCALIの1stシングル「タンデム」のプロモーションビデオは、スペースシャワーTV、MTVなどBS・CSそれぞれのミュージックチャンネル4局のパワープレイ曲にも選ばれ、1stシングル「タンデム」は、セールスチャートで最高位19位を記録することになります。
「HALCALIは、当時、RIP SLYMEのプロデュースワークであったり、奇抜なアートワークだったり、サブカルチャーでの
アートな方向に振り切って活動していました。とにかく、"サブカルチャーに精通する2人組みの女の子"というキーワードは、今でも徹底しているところです」。エピックレコードの笠井さんは、こう語ります。
自由奔放で、絶妙にユルいHALCALIの音楽は、音楽ファン以外にも、彼女達の音楽を偶然耳にした人達の興味も引き付けていきます。
デビュー時は、2人とも中学生だったため、プロモーションビデオでの露出が中心だった活動も、少しずつ本格化し、4月に発売した2ndシングル「エレクトリック先生」は、セールスチャート最高位16位を記録。
さらに、6月には、彼女達の噂を聞きつけた、イギリスの国営放送BBCのライブ&トーク番組に、日本の10代の女の子に人気のヒップホップユニットとして、紹介されます。
そんな中、2003年7月、HALCALIは、3枚目のシングル「ギリギリ・サーフライダー」を発売します。
2003年7月に発売された、HARCALIの3rdシングル「ギリギリ・サーフライダー」は、セールスチャート最高位10位を記録します。
勢いに乗ったHARCALIは、二人が夏休みに入ると同時に、全国6ヵ所で初めてのライブツアーを実施。
さらに9月には、O.T.Fがトータルプロデュースを手掛け、スチャダラパーなど多彩なゲストが参加した1stアルバム
『ハルカリベーコン』を発売、最高位5位を記録し、日本の女性ラッパーとしては初めて、セールスチャートTOP10にランクインします。
その後も、HALCALIは、女子中高生の間で人気を集めていたストリートファッションブランド「ラバーズハウス」とコラボレーションしたつなぎや、Tシャツなどを販売して、音楽以外の分野にもチャレンジし、注目を集めていきます。
こうして、"脱力系ラップ"と呼ばれる音楽ジャンルを確立したHALCALIに、2005年、ひとつの転機が訪れます。
「2005年に入ってすぐ、所属事務所の方針で、HALCALIの二人を、"SONY MUSICのアニメマーケティング戦略に絡ませてアピールしたい"という話になって、レコード会社をエピックレコード移籍したんです。そのときの担当が僕です。
僕も、それまでは、一般の音楽ファンがHALCALIの音楽に対して抱いていた、"脱力系ラップ"と表現されるようなものと同じイメージを持っていました。でも、彼女達に実際会ってみると、違っていました。
彼女達は、二人で歌うと、ラップよりも、独特なハーモニーを奏でられることに僕は気が付いたんです。そこで、それまで
ラップ9割、歌1割だった歌の構成を、ラップ2割、歌8割に変えてみたんです。すると、それまでの"脱力系"という彼女達のイメージは変わって、"POPアーティスト"としての風格さえ感じることができたんです。"これだ"と思った僕は、この風格を上手く活かせば、HALCALIは、"ヒップホップだけでなく、POPな曲も歌えるアーティストへステップアップできる"、僕はそう確信したんです」。
笠井さんは、HALCALIの転機について、こう語ります。
こうして、HALCALIは、レコード会社移籍を機会に、それまでの彼女達の音楽スタイルを変えて、歌物にチャレンジすることになります。
「アニメマーケティングに絡ませる展開の皮切りとして、まずはTBS系アニメ『交響詩篇エウレカセブン』のエンディング・テーマを、秋から歌うことになったんです。それまでの彼女達のイメージを大切にしつつも、どうやったら、歌ってラップするオシャレな2人組みの女の子を作りあげることができるか、色々と考えて曲を作りました。それまで彼女達は、アルバムでは歌をメインとした曲もやっていましたが、シングルとしては発売したことがなかったので、二人ともハモリのパートでは、なかなか上手く歌えずに、何度もやり直しして、苦労しました」。
2005年12月、HALCALIが新しいスタイルにチャレンジして作った、シングル「Tip Taps Tip」は発売されます。
2005年12月に発売された、HALCALI7枚目のシングル「Tip Taps Tip」は、セールチャート最高位27位を記録します。
「それまでのHALCALIのスタイルを変えて作ったこの曲は、セールス的には今ひとつでしたが、その後の彼女達の音楽人生にとって、ひとつのターニングポイントになったと思います。歌の歌詞にもあるように、まるで足踏みをするかのように、彼女達二人の未来を照らした楽曲に仕上がっています。彼女達にとって、新たなチャレンジにもなった、意味の深い曲だと思っています」
最後に、担当ディレクターを務めた笠井さんは、こう言いました。
新たな世界にチャレンジすることで生まれた、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ラブ・イズ・オール・ウィ・二―ド/メアリー・J・ブライジ
M2.タンデム/HALCALI
M3.ギリギリ・サーフライダー/HALCALI
M4.Tip Taps Tip/HALCALI
145回目の今日お届けしたのは、「MONGOL800/小さな恋のうた」でした。
「彼らのライブを初めて観たのは、1999年1月でした。地元の先輩バンドが主催したイベントに彼らが出演していて、私はゲストバンド「ハスキング・ビー」目当てて、ライブを観に行っていたんです。そのライブのオープニングアクトとして出演したのが、当時高校3年生の彼らで、とにかく楽しそうに演奏する姿が初々しかったのが印象的でした。演奏していた曲も、キャッチーな曲ばかりで、初めは"誰かのカバー曲か"と思っていましたが、違っていたんです。ライブが終わって、声を掛けたら、全曲オリジナルという事が分かって、ビックリしたんです」
MONGOL800との出会いについて、マネージャーの比嘉さんは、こう振り返ります。
1998年7月、沖縄県浦添高校の軽音楽部の同級生、上江洌清作と儀間崇、そして高里悟の3人は、「Hi-STANDARD」や「ザ・ブルー・ハーツ」など、お互いが好きだった音楽を通して、バンド「MONGOL800」を結成します。上江洌、儀間、高里の3人は、直ぐにオリジナルを2曲作って、彼らの地元・浦添市のお祭り「てだこまつり」に出演します。地元での評判を集めたMONGOL800は、自主制作CDを作ってライブ会場で手売りしたり、12月に宜野湾で行われた「スネイルランプ」のライブに、フロントアクトとしても出演。"モンパチ"の愛称で、ティーンエイジャーを中心に、沖縄県内の音楽ファンから注目を集めていきます。
翌1999年春、高校を卒業したメンバー3人の内、上江洌と儀間の二人は、沖縄県内の大学に進学、ドラマ―の高里悟だけが、沖縄を離れ徳島の四国大学に進学します。沖縄に残った上江洌と儀間の二人は、高里が不在の時にはサポートドラマ―を加えて、地元のイベントに積極的に参加します。また、GWや夏休みなどを利用して高里が沖縄に帰ってきた時には、メンバー3人が揃わないとできない、レコーディングなどの作業を中心に、バンド活動を続けていきます。
1999年秋、MONGOL800は、「Hi-STANDARD」や、「BRAHMAN」の沖縄ライブのフロントアクトを務めるなどして、沖縄のロックファンの間で、さらなる人気を獲得する一方、アルバム制作作業を進め、12月に1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』を、沖縄県内限定で発売するのでした。
1999年12月、MONGOL800は、1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』を沖縄県内限定で発売、アルバム収録曲の「Party」が、沖縄県内の企業のTVCM曲として起用されたこともあって、『GO ON AS YOU ARE』は、発売直後に、タワーレコード那覇店で月間アルバム売上1位を獲得します。
「初め、彼らに"アルバムの初回プレスは、2,000枚だよ"と伝えたら、"こんなに売れないよ"って自信なさそうに言っていたんですが、蓋を開けてみたら、販売したショップはどこも完売。一旦、販売を中止することになったんです」。
アルバム『GO ON AS YOU ARE』は、発売期間わずか1ヵ月足らずながら、那覇店の年間アルバム売上チャートの8位を記録。モンパチは、沖縄で圧倒的な支持を集めるようになっていきます。
2000年に入っても、MONGOL800は、ライブ活動を積極的に展開し、その相乗効果もあって、アルバム『GO ON AS YOU ARE』は、発売3ヵ月で1万1000枚のセールスを記録。その噂をききつけた全国の音楽ファンからの問合せが殺到し、アルバム『GO ON AS YOU ARE』は、4月から全国発売されることになります。
「『GO ON AS YOU ARE』の全国発売で、またたく間にモンパチの知名度は、日本中へ広がっていきました。でも彼らは、あくまで自分達のペースを崩そうとはせずに、沖縄に残った上江洌、儀間の二人を中心に、沖縄をメインにライブ活動を続け、オファーがあると沖縄から出掛け、また戻ってくる、という生活を送っていたんです」。
MONGOL800は、2000年の夏に、「SUMMER SONIC 2000 OSAKA」や「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」など全国各地で行われた、野外ライブイベントにも出演。その後は、メンバーの高里悟の長期の休みの合間をぬって、レコーディングを続けていきます。
そして2001年春、MONGOL800が作った未発表の楽曲「あなたに」が、洗剤のCMソングに起用されます。
「この曲は、「RISING SUN ROCK FESTIVAL in EZO」に出演した時に、ライブで演奏したことがキッカケで、広告代理店の方から声を掛けていただき、CMソングとして使われることが決まったんです。初めは、メンバーの希望もあって、
CMをOAする時にはMONGOL800の名前は出さずにOAされていたんですが、CMを見た視聴者から、曲のリリースに関しての問合せがライオン側に殺到する騒ぎになったんです。」
そんな中、MONGOL800は、この未発表曲「あなたに」を含んだ、2ndアルバム『MESSAGE』を9月に発売します。
2001年9月に発売された、MONGOL800の2ndアルバム『MESSAGE』は、収録曲の「あなたに」が話題を呼んでいたこともあって、セールスチャート初登場8位を記録します。
「アルバムを発売した後、全国9都市で初めての全国ツアーを行ったのですが、それまで、口コミだけでしか知らなかったモンパチを、ライブで観られるとあって、どこの会場もティーンエイジャーを中心に溢れかえりました。シンプルかつ、ポジティブ、"夢をあきらめないで"といったストレートなメッセージが、彼らの心をキャッチしたんです」。
翌2002年、アルバム『MESSAGE』の収録曲の中から、CM曲として起用された「あなたに」に次いで、ある曲がアルバムからのリード曲として、TVやラジオなどのメディアを通して、OAされていくことになります。
「この曲は、1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』を発売した直後には、すでにあった曲でした。
彼らは、1stアルバムが売れたからと言って、自分達の生活のリズムを崩すのではなく、バンド活動よりもむしろ、学校に通いながら教職免許や自動車整備士の免許の取得に一生懸命で、その合間に音楽活動をしていました」。
「とにかくモンパチは、ゆっくりと時間が流れる沖縄で、自分達の日常に根差した等身大のことを、歌詞に書いているんです。あくまで趣味の延長線上のような感覚での音楽活動、そう言った感じでしょうか。だれに強制される訳でなく、大好きな音楽を作って、聴き手と共有することだけを、バンド結成当初から楽しみにしていました。そのリアリティ溢れる点が、聴く人の心に突き刺さったんでしょう」。
2002年4月、アルバム『MESSAGE』はセールスチャートでミリオンセラーを突破すると、翌週には、インディーズレーベルからリリースされた作品としては初めて、セールスチャート1位を獲得します。と同時に、アルバムのリード曲「小さな恋のうた」も、大きな反響を呼ぶことになるのでした。
アルバム『MESSAGE』に収録された、この「小さな恋のうた」は、メディアを通して大量にOAされ、カラオケチャートで
14週連続2位を記録するなど、若者たちの圧倒的な支持を集める曲となります。
「優しくて、切なくて、力強くて、メロディも、歌詞も心に残る。チャートは特に意識していませんでしたが、家族や親せき、友人など、自分たちの周りの人間からの、この曲に対する反響が大きかったことが、その後の彼らにとっては一番大きな支えになったんです」
最後に、マネージャーの比嘉さんはこう語ってくれました。
何をてらうことも無い、J-POPのラブソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.have you ever seen the rain/Hi-STANDARD
M2.Party/MONGOL800
M3.あなたに/MONGOL800
M4.小さな恋のうた/MONGOL800
144回目の今日お届けしたのは、「フラワー・カンパニーズ/深夜高速」でした。
「スタジオに入って、一緒に音を出してみようか」。
1989年春、中学時代の同級生で、一緒にバンド活動をしていたボーカルの鈴木圭介とドラマ―のミスター小西は、同じ中学時代の同級生で別のバンドで活動していた、ベースのグレートマエカワ、そしてマエカワの高校時代の同級生でギターの竹安堅一に、こう声を掛けます。そして、初めてのスタジオセッションで意気投合した4人は、バンド「フラワー・カンパニーズ」を結成します。
「僕は、セックス・ピストルズや、スターリンといったパンク・ロックばかり聴いていたし、他のメンバーは60年代から70年代のアメリカン・ロックや、ブリティッシュ・ロックばかり聴いていたんです。バラバラの音楽的志向の4人が、バンドを結成して目指したのは、当時、イギリスで人気を集めていた、パンクロックにケルト音楽の要素を持ち込んだロックバンド「ザ・ポーグス」のような音楽でした。でも、それはあくまで目標であって、実際のライブでは、ザ・ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンのカバー曲ばかり演奏していました」。
フラカン結成当初について、ボーカルの鈴木圭介はこう振り返ります。
1989年春、名古屋で結成された「フラワー・カンパニーズ」は、8月に、初ライブを行った後、11月には、後に彼らの拠点となる名古屋の老舗ライブハウス「E.L.L」で初めてのライブを行います。
また、フラワー・カンパニーズは、デモテープ作りにも積極的に取り組み、その作ったデモテープをライブ会場で販売してファン層を拡げて、結成から1年後には、ライブ動員も100人近くまで集めるまでに成長していきます。
1990年9月、フラワー・カンパニーズは、名古屋地区のミュージシャンを対象に行われたコンテスト「TOYOTA YOUNG MUSIC FESTIVAL」に出場し、優勝します。これをキッカケに、彼らは、ソニーミュージックの新人開発セクションSDのスタッフからも注目を集めるようになって、地元名古屋はもちろん、大阪、東京でもライブ活動をスタートします。
「初めて出たコンテストで賞をもらって、ソニーの新人発掘のスタッフの人が来るようになって...当時は、まだ大学生でしたから。そこから少しずつ本気度が増していって、そうこうしているうちに事務所に声をかけてもらって。でも、デビューが決まるまでは、結構、時間がかかりました」。
こうして、初めてのコンテスト優勝から3年半が経った1994年2月、フラワー・カンパニーズは、ソニー系のメジャーレーベル、アンティノス・レコードと契約し、5月に1stアルバム『フラカンのフェイクでいこう』を発売。そして、翌1996年2月に、1stシングル「孤高の英雄」をリリースするのでした。
1996年2月、フラワー・カンパニーズは、1stシングル「孤高の英雄」と、2ndアルバム『フラカンのマイ・ブルー・ヘブン』を同時発売します。
「メジャーデビューしたからと言っても、僕らに劇的な変化はありませんでした。自分達がやりたい好きな音楽を作って、ライブでその作った音楽が正しかったのか、間違いだったのかを確認する。一晩ごとに、常に全力投球で臨んでいたんです」。メンバーの鈴木さんは、メジャーデビュー当時について、こう振り返ります。
フラワー・カンパニーズは、テレビ、ラジオ、音楽雑誌などメディアへの露出に加え、彼らにとっては欠かせないライブを積み重ねていきます。鈴木圭介が大きな声で、ステージ上を転げ回りながら歌い、さらに、ベースのグレート・マエカワが暴れ回りながら演奏する姿は、音楽関係者はもちろん、多くの音楽ファンからも支持を集めます。
ライブ規模も、デビュー僅か1年半後の1997年10月に東京・日比谷野外音楽堂で初のワンマンライブを成功させ、翌1998年には初の全国ツアー、さらには8月に大阪球場でワンマンライブを開くまで拡大していきます。
しかし、ライブの規模が大きくなり、さまざまなメディアでとりあげられるほど、彼らは、自分たちの音楽活動に違和感を覚えていきます。そして、2001年3月、フラワー・カンパニーズは、アンティノス・レコードとの契約が切れるに伴い、自主レーベル「TRASH RECORDS」を立ち上げると同時に、彼らの原点とも言えるライブ活動重視の音楽活動に戻ることを決めます。「レコード会社との契約が切れ、約半年間、自分達だけで、ひたすら全国のライブハウスを回ったんです。その経験が、その後の自分達にとって、かけがいのない大きな財産になりました」。
2002年7月、フラワー・カンパニーズは、全国のライブハウス回りから生まれた、7枚目のアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』を、自主レーベル「TRASH RECORDS」から発売します。
「メジャーレーベルとの契約が切れる直前は、ライブ規模も大きくなって、体はスタッフの言われるままに流されていくけど、精神的には辛かったんです。だから、当時のアルバムには、半ばやけくそのような感じで、とにかく高音を出して、歌詞もはっきり聴きとれないような曲が多く、暴力的な作品が多かったんです。2001年に、アンティノス・レコードとの契約が終わった時、もう一度自分達の力だけで、大好きなライブを積み重ねていく中で、メジャーの世界がどれだけ恵まれているのかが改めて分かりました。もっと良く言えば、インディーズに戻って、自分達の力だけでライブをすることで、お客さんの顔がよく見られるようになったんです。ライブ動員は減ったけど、本当に自分達の音楽が大好きな人達が、やって来てくれる。その輪が、少しずつでも増えていけば、そんな思いで、毎晩ライブをやっていたんです。この自主レーベルから発売したアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』では、もう一度我に返って、そんな経験から生まれた、生活感を滲みだした、よりリアルな世界を歌詞に書いたことで、自分達でも納得できるものができたんです」。
その後も、フラワー・カンパニーズは、毎年、100本近くのライブを行い、アルバムを1枚、リリースしていきます。
そんな中、彼らが2003年に作ったある曲が、それまで作った曲と比べて、全く異なる売れ方をします。
「この曲は、2003年11月に発売したアルバム『東京タワー』の制作が終わって、ライブ活動の合間に、その次のアルバムを発売するまでの、つなぎの曲として作った、数曲の内の1曲なんです。2004年初めのライブでは、ライブ会場先行CDとして販売していたんですが、その売れ方が今までとは違っていたんです。それまでは、ライブ会場でCDを販売しても、1晩で数十枚売れれば良かったけど、この曲は1晩で100枚近くのCDが売れて、ライブ会場毎にCDを補充するような状態だったんです」。
「CDが売れれば、当然ライブで演奏しても盛り上がる。いつの間にか、話題が話題を呼んで、ライブでこの曲を演奏すると、お客さんの反応が変わってくるのが伝わってきたんです」。
「何かを特別意識して作った訳ではないけど、ライブを積み重ね、ライブハウスの人達と話をし、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり。僕らも色々な経験をさせてもらったおかげで、歌詞にリアリティが生まれ、その歌詞がこの曲を聴いてくれた人達の琴線に触れたんでしょう」。
こうして、2004年9月、フラワー・カンパニーズの16枚目のシングル「深夜高速」は、発売されます。
2004年9月に発売された、フラワー・カンパニーズの16枚目のシングル「深夜高速」は、発売から5年後の2009年9月に、バンド結成20周年を記念して、この1曲を斎藤和義、中孝介ら13組ものアーティストが一挙にカバーするという前代未聞のトリビュートアルバム『深夜高速~生きててよかったの集い~』として、新たな形で脚光を浴びます。
「バンドとしては、特に大きなメッセージ性もなく作った曲ですけど、この曲を聴いた多くの人達の心に、この曲のサビの歌詞"生きててよかった"という部分が留まり、色んな事を感じてもらえたんだと思います。それによって、フラワー・カンパニーズの存在を、さらに知ってもらうことができた。それだけでも、僕らは嬉しいんです」
最後に、メンバーの鈴木圭介さんはこう語ってくれました。
リアリティ溢れる言葉と、人生経験の積み重ねが生んだ、J-POPの名曲を生み落した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アイリッシュ・ローバー/ザ・ポーグス
M2.孤高の英雄/フラワー・カンパニーズ
M3.吐きたくなるほど愛されたい/フラワー・カンパニーズ
M4.深夜高速/フラワー・カンパニーズ
143回目の今日お届けしたのは、「平井堅/even if」でした。
「僕が彼と直接関わるようになったのは、制作ディレクターに就いた2000年春でした。それまで、直接的ではなく、間接的に彼の歌を耳にする機会は何度かあって、アーティストだから当たり前なんですけど、"本当に、歌が上手いな"という印象を抱いていたんです。僕は、ブラックミュージックが大好きなんですが、当時、邦楽の世界でブラックミュージックを歌いこなせるアーティストは数少なく、久保田利伸さんだけと言っても、過言ではないような状態でした。それで僕は、"久保田さんに続くアーティストを誕生させたい"と思っていたんです。だから、平井堅の歌声を聴いた時、"やっと、久保田さんに続くアーティストが現れた"、そう思いました」。
平井堅との出会いについて、デフスターレコーズで担当ディレクターを務めた平井さんは、こう振り返ります。
1972年1月、大阪府東大阪市に生まれた平井堅は、彼が小学校時代に観ていた、TVの歌謡番組に出演していた松田聖子や、中森明菜らアイドルに夢中になって、"いつの日か、自分もテレビに出て歌を歌いたい"という夢を膨らませていきます。その後、中学、高校に進学しても"歌手になる"という夢を諦めきれなかった彼は、1990年春、横浜市立大学に進学後、軽音楽部に入部し、仲間達と、当時、アイドルと同じように好きだったサザンオールスターズのコピーバンド「YAYA」を、結成します。さらに、平井堅は、軽音楽部の仲間を通じてビートルズやローリングストーンズといった洋楽を初めて耳にし、音楽の素晴らしさを改めて実感、さらに、学園祭のステージで大勢の観客を前に歌い、みんなの注目を浴びながら歌うことにますます夢中になっていきます。
「平井堅は、学生時代にサザンオールスターズのコピーバンドを結成していたかと思えば、松田聖子などのアイドル歌手も大好きで、それでいて、70年代のソウルシンガー、ダニー・ハサウェイも大好きなんです。一見、ジャンルが異なる音楽を、同じように好きになれるものかと思うんですが、彼の頭の中では、邦楽と洋楽などの区別はなく、大好きな音楽はすべて横並びなんです。制作担当になって分かった事なんですが、彼は自分が気に入った音楽が自らリスナー感覚で徹底的に聴いて、"なぜその曲が支持を集めるのか"を考え、その良さを、今度は自分の曲作りに活かしているんです」。
平井堅の音楽観について、ディレクターの平井さんはこう語ります。
1992年、平井堅は、周囲のすすめもあって、ソニーミュージックが、ボーカリストの育成を目的に行ったオーディション「SME AUDITION~Breath」に、ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を歌ったテープを送って合格し、翌1993年ソニーレコーズと契約します。そして、1年に渡って作詞、作曲、ボーカルトレーニングのレッスンを積んだ後の1995年5月、シングル「Precious Junk」で、デビューするのでした。
1stシングル「Precious Junk」は、フジテレビ系の人気ドラマ『王様のレストラン』のエンディング曲にも起用され、平井堅本人、そして周囲のスタッフも"ヒットは間違いない"と期待しますが、セールスチャート最高位は50位、約4万枚のセールスという結果に終わります。
その後も平井堅は、シングル、アルバムのリリースを積み重ね、シングル曲には、TVやラジオのタイアップが付きますが、セールス的には伸び悩み、次第にスタッフの間からは、平井堅に対して厳しい目が向けられるようになっていきます。
1998年5月、平井堅は、"どうせダメならば、開き直って自分の好きな音楽にチャンレジしてみては"というスタッフのアドバイスを受け入れ、その頃、彼が夢中になっていたゴスペルを取り入れたシングル、「Love Love Love」を、初めてセルフプロデュースします。
そして、時期を同じくして、"邦楽、洋楽を問わず、平井堅自身が敬愛するアーティストの歌で、彼が歌いたい曲をじっくりとい歌って、それをリスナーに聴いてもらう"というコンセプトの企画ライブ「Ken's Bar」をスタートします。
1999年、それまでは自分が作った曲のみをシングルとして発売していた平井堅に、スタッフは、"次が最後のチャンス。思いきって、自分が作った曲ではなく、作家が書いた曲を歌ってみてはどうだろうか"と提案します。戸惑いを隠せない平井堅でしたが、悩み抜いた末に、スタッフからの提案を受け入れ、初めて作家が書いた曲をシングルとして歌うことを決めます。こうして、2000年1月、8枚目のシングル「楽園」は発売されます。
2000年1月に発売された、平井堅8枚目のシングル「楽園」は、1stシングル「Precious Junk」以来およそ5年ぶりにセールスチャートにランクインし、最高位7位、約54万枚の売上を記録するヒット曲になります。
「平井堅にとって、背水の陣で歌ったシングル「楽園」がヒットしたことで、リスナーの彼を見る目が変わってきたんです。
それまで、彼が歌う曲に対してなかなか振り向かなかった人達も、当時流行っていたR&Bを意識した曲、そして日本人離れした彼の風貌。そのマッチングを、TVや雑誌などのメディアを通して見た人達が、彼の曲を意識して聴くようになって、それまで評価されていなかった、彼の過去の曲に対しても、目が向けられるようになってきたんです」。
開き直りの気持ちで歌ったシングル「楽園」をキッカケに、リスナーの心を掴みかけていた平井堅は、2000年6月に、3枚目のアルバム『THE CHANGING SAME』を発売します。そして、そのアルバム発売直後に、アルバム購入者特典として、全国主要都市で限定ライブハウスツアーを行い、そのライブの中で、平井堅が昔から歌っていたある曲に、スタッフの視線が注がれることとなります。
「元々この曲は、1998年に平井堅が初めて開いた企画ライブ「Ken's Bar」をスタートした時には存在していた曲、と聞いています。ライブの最後に、ピアノの弾き語りで、しかも「Ken's Bar」でしか歌わない曲で、彼のファンの間では"幻の曲"とも言われていたんです。
アルバム『THE CHANGING SAME』購入者特典で行ったライブハウスツアーの時に歌われ、偶然耳にしたレコード会社の営業スタッフから"平井堅の音楽の世界観が滲み出ている、情緒溢れるいい曲だ"と言う声が、数多く出てきて、スタッフの間でも評判になり始めていたんです」。
「その後、12月に「J-WAVE」とタイアップした曲を発売することが決まって、平井堅本人、そしてスタッフの間で意見を交わして、この曲を選びました。それまで、「バーボンとカシスソーダ」と名付けられていたこの曲は、改めてシングル化するにあたってアレンジし直したんですが、本当に情緒たっぷりのバラードに仕上がりました」。
こうして、2000年12月、平井堅のファンの間では"幻の曲"として、古くからその存在が知られていた曲は、タイトルを「even if」と変えて、発売されます。
2000年12月に発売された、平井堅の11枚目のシングル「even if」は、年内出荷のみの期間限定発売ながら、セールスチャート最高位3位、約33万枚のセールスを記録するヒット曲となります。
「売れなかった時期に作った曲でも、リスナーが平井堅の音楽に注目し始めてしまえば、"こんなに支持を集めるのか"とこの曲が売れた時に、改めて思いました。と同時に、平井堅がもともと持っていた歌唱力の高さを、再認識することができました」
最後に、担当ディレクターを務めた平井さんはこう語ってくれました。
平井堅の歌の魅力を決定付けた、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Everything Is Everything/ダニー・ハサウェイ
M2.Precious Junk/平井堅
M3.楽園/平井堅
M4.even if/平井堅
142回目の今日お届けしたのは、「山下久美子/赤道小町ドキッ」でした。
「もともと、小さい頃から"歌手になりたい"という夢を持っていた訳ではなく、とにかく人前で歌を歌うことが大好きだったんです。高校を中退して、博多のパブで働いていた時に、知り合いのソウル・バンドのリーダーから"うちのバンドで、ボーカルやってみない"と言われて、特に断る理由もなかったので、歌い始めたのがキッカケなんです。ジャズやソウルのスタンダードナンバーを中心に、博多市内のライブハウスや、ディスコを拠点に、久留米や東京でも歌っていました」。
人前で歌を歌い始めたキッカケについて、山下久美子さんは、こう振り返ります。
1959年1月、大分県別府市に生まれた山下久美子は、小さい頃から歌を歌うことが大好きで、小学生の頃には、当時TVで放送されていた歌番組『日清チビッコのど自慢』で歌を覚え、友達を前に、歌を歌っていたと言います。その後、地元の中学に進学した彼女は、カーペンターズやビートルズ、モンキーズなどの洋楽を聞くようになり、文化祭では、友達と、
カーペンターズのコピーバンドを結成します。1975年、山下久美子は、偶然遊びに出掛けたディスコで出会った、当時、博多を拠点に活動していたソウル・バンドのメンバーと意気投合し、彼女はそのソウル・バンドを追っかけるように、一人親元を離れ博多へと移り住みます。
「私がソウル・バンドに加入し、人前で歌うようになって、3年が過ぎた1978年のある日のことでした。ライブハウスに、渡辺プロダクションのスタッフが突然やって来て"やる気があれば、ソロシンガーとして、レコードデビューしませんか"と誘われたんです。バンドではなく、山下久美子ソロとしてやっていくことに、勇気が必要だったけど、思いきって大好きな歌の世界に飛び込む決意をしたんです」。
1979年春、山下久美子は、デビューに向けた本格的なレッスンをスタートさせるために上京し、ボイストレーナーの下で、レッスンを積み重ねていきます。さらに、山下久美子は、レッスンの傍らで、トレーニングの一環として東京・新宿ルイードなど都内のライブハウスでのライブ活動もスタートさせます。「デビュー前でしたけど、お客さんを前にライブを積み重ねていくことで、自分の中に"私は歌手になるんだ"というプロ意識が少しずつ芽生えてきたんです。夏からレコーディングも始まったんですが、私はレコーディングよりも、人前で歌うライブの方が大好きでした」。
山下久美子は、ボイストレーニング、レコーディング、そしてライブ、音楽漬けの日々を、およそ1年半に渡って過ごした後、1980年6月、シングル「バスルームより愛をこめて」で、デビューします。
1980年6月、山下久美子は1stシングル「バスルームから愛をこめて」と、同名の1stアルバムでデビューします。
「デビュー当時は、自分がこれからどうなっていくかなんて、全く分からず、とにかく"自分らしく、正直に、嫌な事はやらない。それだけは自分のポリシーとして貫こう"、そう思っていたんです。幸いにも、デビュー曲とアルバムのプロモーションは、"ライブハウスを地道に回って、多くの人達に山下久美子の唄を聴いてもらう"、という、人前で歌を歌うことが大好きな私にとっては、願ってもない形でした。デビュー前から、ライブを積み重ねることで、歌の持っている楽しさを実感してきた私にとって、このデビューの際のプロモーションは、とても幸せな時間で、"自分はやっぱりライブが好きなんだ"という事を実感できたんです」。山下久美子さんは、デビューの頃を、こう振り返ります。
全国のライブハウスを回っていくことで、山下久美子の名前は音楽ファンの間で浸透し始め、10月に2ndシングル「ワンダフルcha-cha」を発売した後の学園祭シーズンには、彼女の下へ出演依頼が殺到し、当時の新人女性歌手としては最多の13校もの学園祭に出演したことで、彼女は音楽関係者の間で"学園祭の女王"と呼ばれるようになります。
その後も、ライブ動員は着実に増え始め、翌年の、1981年1月には、東京・日本青年館で、初めてのホールライブを行うことになります。
「ライブハウスでのライブが、盛り上がっているのは実感していましたが、絶対的な自信はまだ掴んでいなかったんです。
その日は、ライブの初めから異様に盛り上がっていたので、"今日は何かが起きるんだろうか"という予感はありました。
それまで、ライブでは滅多にアンコールをやる事はなかったんですが、その日は、予定していた曲を全て歌い終えても、
一向に観客が帰ろうとしないんです。そこで急遽、エンディングでも歌った2月発売予定の新曲「恋のミッドナイトD.J.」を、もう一度演奏し始めた瞬間、会場に詰めかけた観客が一斉に立ちあがったんです。自分でも、一瞬、何が起こったのか分からなかったけど、すぐに"何かが動いた"そう感じたんです」。
1981年1月の、東京・日本青年館でのライブをキッカケに、山下久美子は、大きな自信を掴みます。ライブの動員は増え続け、彼女のライブは、ライブハウスからホールへとステップアップしていきます。
また、日本青年館での熱狂的なライブをキッカケに、山下久美子は"学園祭の女王"から"総立ちの久美子"と呼ばれはじめ、彼女は女性ロックシンガーとしての地位を、不動のものにしていきます。
「私がデビューした1980年頃から、佐野元春さん、ハウンド・ドッグといった新しい世代のロック・ミュージシャンが、新宿ルイードを中心としたライブハウスから、活動の場を広げていったんです。シンガーソングライターも少しずつ増え始めていたんですが、私の場合は、"自分で、無理に曲を作らせて歌わせるよりは、ライブで自由に、大好きな歌を歌うことに集中させた方がいい"という事務所の方針で、自分で曲を作らず、当時、作家として頭角を出し初めていた、康珍化さんや、シンガーソングライターとしての評価も高まっていた佐野元春さん、伊藤銀次さん達に曲を作ってもらっていたんです」。
自由奔放な山下久美子の性格を掴んでいた事務所の方針で、ますはライブを積み重ねることで、着実に女性ロックシンガーとしての階段を上り始めていた彼女の下へ、1982年に入って、化粧品メーカーの「カネボウ」から、"その年の夏のキャンペーンソングを歌って欲しい"という依頼が、舞い込みます。
この曲は、当時、松田聖子の曲を書いていた松本隆、細野晴臣の二人が手掛けることが決まります。
「キャンペーンタイトルを、サビの歌詞に使うことが決まって、松本隆さんが書いた歌詞に、細野晴臣さんが曲を作ってくれたんです。レコーディングスタジオで、松本隆さん、細野晴臣さん、ドラムを叩いてくれた高橋幸宏さん、ギターとアレンジを担当してくれた大村憲司さん達が、一緒になって作業する姿を見守った後に、私の歌入れが始まったんです。
ただ歌って終わり、というよりは、私を含め、一つのプロジェクトによって、この曲が生まれていったんです」。
「私はそれまで、どちらかと言うとロックナンバーばかり歌ってきたので、実は、YMOのようなテクノポップには、初めは違和感があって、完成した曲のリズムに乗って歌うことに、なかなか慣れず、何度も何度も歌い直したんです。ロックナンバーが、人間的な音楽とすれば、まるで"宇宙人のような音楽"そんなイメージでした。でも、諦めず、トライし続け歌いきったことで、自分の中で、"こんな歌も歌えるようになったんだ"という自信が芽生えてきたのも事実です」。
こうして山下久美子が苦労の末、歌いあげた、6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」は、1982年4月に発売されます。
1982年4月に発売された、山下久美子の6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」は、1982年カネボウの夏のキャンペーンソングとして起用されたこともあって、セールスチャート最高位2位を記録します。さらに、山下久美子は、音楽番組『ザ・ベストテン』にも、初出演を果たします。
「この曲がヒットした後、どこへ行っても"あの「赤道小町」の山下久美子"という肩書きが付くことに、違和感を覚えて、しばらくの間は歌うことが、嫌になっていた時期もありました。
でも、時間と、色々な経験を積み重ねていく中で、デビュー20周年を過ぎたあたりから、自分の中で、この曲に対するイメージが変わってきたんです。"この曲があったからこそ、今でも自分の名前を覚えてくれている人がいる。あの時、この曲に巡り合えたからこそ、今の自分があるんだ"そう思えるようになってきたんです。心の中に、余裕ができたんですかね。今の自分にとっては、とても大切な宝物のような存在です」
最後に、山下久美子さんはこう語ってくれました。
ライブで大きな自信を掴んだ"総立ちの久美子"が、さらにJ-POPのヒットナンバーという宝物を手に入れた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Close to You/カーペンターズ
M2.バスルームから愛をこめて/山下久美子
M3.恋のミッドナイトD.J./山下久美子
M4.赤道小町ドキッ/山下久美子
141回目の今日お届けしたのは、「松田聖子/SWEET MEMORIES」でした。
「松本隆、呉田軽穂(松任谷由実)のコンビで作った、松田聖子10代最後のシングル「赤いスイートピー」は、彼女にとって6曲目となるセールスチャート1位を獲得し、売上も約50万枚を記録しました。この頃の彼女は、まさに乗りに乗ってきた感じがしていました。それに、"発売する曲は、何が何でもセールスチャート1位を獲らない"といけない、というプレッシャーはなく、むしろ、次はどういったイメージの曲を作って、売っていくのがいいんだろうか、というアイディアを考えることが楽しくて、仕方なかったですね」。
彼女のプロデュースを手掛けていた、若松宗雄さんは、当時についてこう振り返ります。
「シングル、アルバムの曲を問わず、松田聖子の楽曲を作っていく中で、大切にしていたのは、季節感です。日々、日常の変化の中から、創造力をわかせて、彼女の個性を活かすための言葉や、映像を想像していくんですが、僕は、それが、楽しくて仕方ありませんでした。そして、その浮かんだアイディアを、松本隆が書く歌詞の世界観、さらには、財津和夫やユーミン、大瀧詠一といった、そうそうたる作家陣が作るメロディに落とし込んで曲を作っていたんですが、実は、最も気を配っていたのは、アレンジなんです」。
若松さんは、当時の松田聖子の楽曲をプロデュースするにあたってのポイントについて、こう振り返ります。
「松田聖子のデビュー直後から、楽曲のアレンジをお願いしていたアレンジャーの一人が、大村雅朗さんでした。彼は、1978年に発売された、八神純子のシングル「みずいろの雨」のアレンジを手掛けた人ですが、当時はまだ無名に近い人でした。しかし、僕は、松田聖子がデビューする直前の1980年3月に、彼がアレンジを手掛けた、山口百恵のシングル「謝肉祭」を聴いた時、"凄いアレンジをする人だ"と、思わず惚れ込んでしまったんです。そこで、直ぐに、当時は全く面識が無かった彼の下へ出向き、"今度デビューする、松田聖子のアレンジをお願いします"と頼んだんです」。
松田聖子のデビューにあたって、当時CBSソニーのディレクターを務めていた若松宗雄は、山口百恵のシングル「謝肉祭」のアレンジを手掛けた大村雅朗を、アレンジャーとして起用します。こうして、大村雅朗は、松田聖子が2枚目のシングル「青い珊瑚礁」以降、彼女のシングル曲、アルバム曲のアレンジを数々手掛けていきます。
「僕が大村さんを、アレンジャーとして起用した一番の理由は、彼は作詞家が書いた詞の世界観をきちんと理解し、どうアレンジすれば、その歌を歌う歌手の個性をより活かすことができるのかを、きちんと分かってアレンジをしていたからなんです。僕は、歌は、歌詞とメロディ、そしてアレンジ、この三つのバランスがちゃんと成り立っていることが大切だと思っています。特に、歌詞の世界観は、アレンジによって大きく変わるんです。大村さんは、歌詞の持っている意味をきちんと理解し、歌詞が際立つアレンジをしてくれる。そんなアレンジャーだったんです」。
1982年夏、若松さんは、松田聖子の楽曲を手掛けるようになって、その才能を開花させ始めていた大村さんに、今度は作曲を依頼します。
「大村さんがアレンジを手掛けるようになって、しばらくして、"今度は作曲もお願いします"と僕は伝えたんです。しかし大村さんは、性格的に、表に立つタイプの人ではなく、どちらかと言えば控え目な人だったので、初めは遠慮していました。
それで、大村さんに"シングルではなく、アルバムに収める曲だったら作曲してもいいんじゃないですか"と改めてお願いし、アルバム用の曲を、1曲だけ書いてもらったんです」。
1982年11月に発売された、松田聖子6枚目のアルバム『Candy』に収められた、大村雅朗作曲の「真冬の恋人たち」。
「大村さんが作ったこの曲は、思った通りの完成度の高さで、僕は直ぐに、"次はシングルでもやりたいな"と思いました」。
「大村さんは、次のアルバム『ユートピア』でも、曲を作ってくれたので、僕はその勢いで"8月に発売する14枚目のシングル「ガラスの林檎」のB面に収める曲を作ってよ"とお願いしたんです。大村さんは、渋々受けてくれたんですが、お願いして、1週間経っても、"まだ1、2小節しかできていない"って言うんです。そこで僕は、大村さんを、東京・麻布台のスタジオ「サウンド・シティ」に呼び出して、一緒に曲を作ることにしたんです。」
若松さんと、大村さんの二人が、色々意見を交わしながら一晩かけて作った楽曲は、その後、サントリーCANビールのCMソングとして起用されることが決まり、そのCMのコンセプトから、歌詞の二番は、英語で書かれることになります。
若松さんによると、松田聖子自身は、英語の歌詞は歌いづらいという抵抗感はなく、むしろ、楽しんで歌っていたそうです。
また、この曲は、所属事務所のサンミュージックが、話題作りを考えて、はじめは、歌っているアーティスト名を、あえて伏せてCMを流しました。その結果、CMで彼女の歌声を聴いた別のレコード会社から、サンミュージックに"あのCMソングを歌っているアーティストは、誰なんですか。ウチのレコード会社から、デビューしませんか"という問合せが入るほど、話題を集めます。
この曲がB面に収められた14枚目のシングル「ガラスの林檎」は、1983年8月に発売され、当然のように、セールスチャート1位を獲得するのですが、CMの反響があまりにも大きく、当初はB面扱いだったこの曲、「SWEET MEMORIES」を、両A面扱いにして、発売から約1ヵ月半が経過した、9月に改めて発売されるのでした。
1983年9月に両A面扱いで改めて発売された、松田聖子の「SWEET MEMORIES」は、再びセールスチャート最高位1位を獲得し、最終的に約86万枚のセールスを記録します。
「この曲も、「赤いスイートピー」と並んで松田聖子の80年代を代表する曲です。天才作詞家・松本隆をはじめとする、日本のプップシーンを代表する数々の作家陣と、天才と呼ばれる彼らを支えた、もう一人の天才・大村雅朗というアレンジャーがいたからこそ、今の松田聖子がいる、と言っても過言ではありません。その抜群のチームワークが生んだ、代表曲がまさに、この曲です。才能を持った人達が集まって、松田聖子という原石を磨いたことで、彼女が光輝く、ダイヤモンドに代わっていったことを証明した曲ですね」最後に、若松さんはこう語ってくれました。
J-POPの原石が、永遠の輝きを手に入れた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.渚のバルコニー/松田聖子
M2.謝肉祭/山口百恵
M3.真冬の恋人たち/松田聖子
M4.SWEET MEMORIES/松田聖子
140回目の今日お届けしたのは、「松田聖子/赤いスイートピー」でした。
「当時、僕は百数十本近くあった、オーディション応募者のデモテープを、一本一本片っ端から聴いて
いったんです。そして、その中から、スーッと美しく伸びる透明な歌声で、品性、知性、哀愁を感じるこ
とができた1本のデモテープを発見し、"これだっ"と思った僕は、直ぐにその歌声の持ち主の女の子の
連絡先を調べて、彼女に会うために福岡へ向かったんです」。
後に、彼女のプロデュースを手掛けた若松宗雄さんは、松田聖子との出会いについてこう振り返ります。
1962年3月、福岡県久留米市に生まれた蒲地法子は、幼い頃から人前で歌を歌うことが大好きで、
テレビや雑誌などで活躍するスターに憧れ、自分も芸能界で活躍することを夢見るようになります。
1977年4月、久留米信愛女学院高校に入学した蒲地法子は、翌1978年4月に、CBSソニーと集英社
が、10代の女性を対象に歌手を発掘するために行った「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募します。
蒲地法子は、当時、彼女が最も得意としていた桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌って、九州地区
大会で優勝しますが、厳格な両親の猛反対にあって、全国大会への出場を断念します。
「彼女は、全国大会への出場を断念したけど、僕は自分の直感を信じて、彼女をコンテストとは別に、
歌手として育てるために、彼女の両親を説得することにしたんです」。当時、CBSソニーのディレクター
だった若松さんは、蒲地法子の両親を説得するために、何度も九州へ足を運び、およそ1年半後の
1979年夏、ようやく両親の説得に成功します。
若松さんの説得が実を結び、両親の承諾を得た蒲地法子は、"歌手になる"という幼い頃からの夢を
実現するために、1979年夏、上京し、芸能プロダクション「サンミュージック」に所属。翌1980年のデ
ビューに向けて、歌のレッスンをスタートします。そして、12月に、デビュー前のテストの意味で、日本
テレビ系ドラマ『おだいじに』に、主人公の恋人役・松田聖子で出演した彼女は、その名前を気に入っ
て、芸名を松田聖子に決めます。
さらに、翌1980年春に発売が予定されていた、資生堂の洗顔フォーム「ekubo」のCMタレントオーディ
ションに挑戦。その歌唱力が評価されて、CMタレントとしてではなく、歌手としてCMソングを歌うことが
決まるのでした。
1980年4月に、松田聖子が発売した1stシングル「裸足の季節」は、資生堂の洗顔フォーム「ekubo」の
CMソングとして、その印象的なサビのメロディが、TV、ラジオなどを通じて大量に流れていきます。デ
ビューシングル「裸足の季節」は、セールスチャートこそ最高位12位ながら、それ以上に、新しい、松
田聖子という"歌えるアイドル"の誕生を、多くの人々に印象付けていきます。「僕は松田聖子を、世代、
性別を超えて、多くの人達から支持される、大衆性のある、息の長いアイドルとして育てていきたかった
んです。くしくも、同じ1980年の春に、当時トップアイドルとして君臨していた山口百恵が芸能界からの
引退を発表したことで、松田聖子は、山口百恵とよく比較されました。しかし、僕は、松田聖子は松田
聖子であって、山口百恵の代わりではない、全く別のアイドルとして考えていたんです」。
1980年7月、松田聖子が発売した2ndシングル「青い珊瑚礁」は、セールスチャート最高位2位、約60
万枚のセールスを記録、翌8月に発売した1stアルバム『SQUALL』は、セールスチャート最高位2位、
アイドルのアルバムとしては当時異例の約55万枚の売上を記録します。
そして、10月にリリースした、3rdシングル「風は秋色」が、初のセールスチャート1位を記録すると、
その後は発売する曲が次々と、セールスチャート1位を獲得。その年の暮れに行われた日本レコード
大賞をはじめとした各音楽賞の新人賞を、軒並み獲得すると同時に、NHK紅白歌合戦にも初出場
を決め、一気に、女性トップアイドルとしての階段を駆け上がっていきます。
翌1981年、ディレクターの若松さんは、松田聖子の魅力をより引き立てるために、元チューリップの
財津和夫に曲作りを依頼。さらに、7月に発売を予定していたシングルの作詞家には、元はっぴい
えんどの松本隆を起用します。
「彼女の音楽性の評価を高めていく狙いがあったんです。当時、まだ彼女自身は優れた作家性を
持っていませんでしたが、歌唱力は抜群でした。だったら、その歌唱力を際立たせるために、優れた
作品を歌えば、"彼女はもっと光輝くはずだ"そう考えたんです」。
「松本隆を起用したのは、僕の直感です。松本隆の、情景描写を、独特の感性で言葉に綴る才能は
認めていましたが、正直、松田聖子の歌のイメージと合うかどうかは、分からなかったので、まずは
5月に発売したアルバム『SILHOUETTE~シルエット』に「白い貝のブローチ」という曲を書いてもらっ
たんです。結果、この曲は、僕が最初、想像していた以上に、松田聖子のイメージと重なったので、
次のシングルを松本隆にお願いしたんです」。
こうして、1981年7月、松本隆が初めて手掛けた、シングル「白いパラソル」は発売されます。
1981年7月に、松田聖子が発売した6枚目のシングル「白いパラソル」は、セールスチャート最高位
1位、約49万枚の売上を記録します。さらに、10月に発売した、7枚目のシングル「風立ちぬ」は、
作詞を松本隆が、作曲を大瀧詠一が手掛けます。また、同じ月に発売したアルバム『風立ちぬ』は、
松本隆の他、大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂といった元はっぴいえんどのメンバーに加えて、財津
和夫、杉真理といったJ-POPを代表するそうそうたるアーティストが参加して、話題を呼びます。
そして、若松さんは、翌1982年1月に発売を予定していたシングル曲の作曲を、ある女性シンガー
ソングライターに作ってもらうことをお願いします。
「当時、松田聖子のファンは男性が中心で、そろそろ女性ファンからも好かれるような歌を作って、
歌わせていきたいと思っていたんです。そこで、当時、恋愛の教科書代わりに彼女の歌を聴く
女性リスナーが増えていたユーミン(松任谷由実)に、曲を作ってもらうことを考えたんです」。
「僕は、デビュー当時から、松田聖子のイメージは、ピュアで清潔感溢れる女性という風に考えて
いたんです。色で例えるなら、白や薄いピンクです。それまで、その彼女のイメージと、曲を発売する
季節を重ね合わせて、連想される言葉から曲のタイトルを決めていたんです。この時も、ちょうど春に
向かってレコードを販売していく時期だったので、"春"からイメージして浮かんだ言葉で、曲のタイト
ルを決めました」。
若松さんが決めた曲のタイトルをもとに、ユーミンがメロディを作って、さらに完成したメロディと、タイ
トルから、松本隆が歌詞を綴ります。「ユーミンが作ったメロディは、1箇所だけ直してもらいました。
松本さんの歌詞は、イメージ通り。特に直す箇所はありませんでした。思っていた通りの曲が完成し、
"これで女性ファンを獲得できる"と、僕は確信したんです」。
こうして、ペンネーム呉田軽穂名義で松任谷由実が作曲、松本隆が作詞した、松田聖子8枚目の
シングル「赤いスイートピー」は発売されるのでした。
1982年1月に発売された、松田聖子の8枚目のシングル「赤いスイートピー」は、セールスチャート
最高位1位、約50万枚のセールスを記録します。
「女性のピュアな恋愛を綴った歌詞と、女ごころをくすぐるような、どこか切ないメロディ。そして
松田聖子の艶のある歌声。絶妙な三つのハーモニーから生まれたこの歌は、僕らが狙っていた通り、
多くの女性から共感を集めることができ、松田聖子のファン層を大きく拡げる事ができました。彼女
にとって、大きな転換期となった曲です」
最後に、若松さんはこう語ってくれました。
松田聖子、松任谷由実、松本隆。3人の天才が、日本のポピュラーミュージックの歴史に、
あらたな1ページを刻んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.気まぐれヴィーナス/桜田淳子
M2.裸足の季節/松田聖子
M3.白いパラソル/松田聖子
M4.赤いスイートピー/松田聖子
139回目の今日お届けしたのは、「サニーデイ・サービス/青春狂走曲」でした。
「曽我部恵一と田中貴の二人とは、1994年2月、下北沢のライブハウス『251』で開かれたライブ&DJのイベントで初めて出会ったんです。その夜、曽我部は、彼の友人がDJで出演していたので、ライブハウスに来ていたんですが、かなり酔っ払っていて、ライブハウスの中で騒いでいたんです。しばらくして、僕がレコード会社「MIDI」のディレクターだと知って、こっちに絡んできて、自信ありげに自分達の曲を収めたCDを渡してきたんです。僕は、「何だ、コイツは」って思ってたんですけど、なんだか憎めなくて、逆に「面白い奴らなのかもしれない」と思ってしまったんです」。
その後、サニーデイ・サービスの担当ディレクターを務める渡邊さんは、彼らとの出会いについてこう振り返ります。
1971年8月、香川県坂出市に生まれた曽我部恵一は、セックス・ピストルズ、ザ・ダムドなどのパンク・ロックバンドに影響を受け、中学時代には、友人達とパンク・ロックバンドを結成します。その後、立教大学に進学した曽我部恵一は、1992年、成城大学の学生で友人の田中貴ら4人で、バンド「サニーデイ・サービス」を結成します。
都内のライブハウスを中心に活動していたサニーデイ・サービスは、1993年から、1994年にかけてインディーズから2枚のシングルレコードと1枚のアルバムを発売します。
「曽我部に初めて出会った日の夜、自宅に帰って、曽我部から貰ったCDを聴くと、当時人気の、渋谷系音楽の代表的な存在だったフリッパーズ・ギターを彷彿させるようなキャッチーなメロディと、ポップな言葉を使った歌詞が飛び込んできたんです。曲と歌詞、そして曽我部の歌声。三つのバランスが上手くとれた彼らの音楽を聴いた瞬間、「彼らは面白い奴らかもしれない」という曽我部に対して抱いていた僕の予感は、間違っていないと感じるようになったんです。その後、僕は彼らと連絡を取って、MIDIと契約したんです」。
「元々彼は、パンク・ロックに影響を受けていたんですけど、聴く音楽の幅は広く、ビートルズやビーチボーイズ、さらにはキャロル・キングやジェームス・テイラーなども聴いていたんです。彼は、自分が興味を持った音楽を色々聴いて吸収し、良い部分をいかに自分達の音楽に引用するのかを常に考えていました。その柔軟性に、サニーデイ・サービスの奥底に眠る、光ものを感じたんです」。渡邊さんは、当時をこう振り返ります。
1994年春、MIDIと契約を結んだサニーデイ・サービスは、7月に5曲入りのレコード「星空のドライブ」を、さらに11月にも5曲入りのレコード「コズミック・ヒッピー」を発売します。
「サニーデイ・サービスは、MIDIと契約後、アナログ盤のリリースと、ライブを重ねながら、1stフルアルバムの楽曲制作にも取り掛かかりました。僕と曽我部は、色々議論を重ね、ポップだけど、サニーデイ・サービスの音楽の根本にある、パンク・ロックを意識した、1曲が3分以下。全10曲で、30分にも満たないアルバムを作ろう、というコンセプトで曲を作り始めました」。
こうして1stアルバムの制作に取り掛かったサニーデイ・サービスでしたが、「コズミック・ヒッピー」発売直後の11月に、メンバー2人が脱退。新たにドラマ―の丸山晴茂をメンバーに加え、サニーデイ・サービスは、3ピースバンドへと生まれ変わります。それと同時に、曽我部の音楽性にも変化が生まれます。
「メンバーチェンジの前後から、曽我部は、それまでのフリッパーズ・ギターに代表される渋谷系音楽への傾倒から少し離れて、「はっぴいえんど」や「はちみつぱい」といった70年代の日本のロックを頻繁に聴くようになったんです。
あくまで、サニーデイ・サービスの基本にある、パンク・ロックの部分は変えずに、はっぴいえんどらのアコースティックサウンドを自分達の音楽に積極的に取り入れて、曲を作るようになりました」。
渡邊さんは、当時を、こう振り返ります。
こうして、音楽面に新たな要素を取り入れたサニーデイ・サービスは、3ピースバンドとなって初めてのシングル「ご機嫌いかが?/街へ出ようよ」を1995年3月に発売、さらに翌4月には、1stアルバム『若者たち』を発売します。
1995年4月に、サニーデイ・サービスが発売した1stアルバム『若者たち』は、それまでの彼らのレコードでは最高となる約5,000枚の売上を記録します。
「セールス結果にこだわっていた訳じゃないですが、結果が出ないので、彼らは、自分達のやっている音楽に対しての自信を少し失っていました。それもあったんでしょうか、『若者たち』に収められた曲の歌詞は、後ろ向きで暗い内容が多いんです。実際、アルバムを発売するまでは、サニーデイ・サービスに対する音楽誌の評価も、決して高くはなく、彼らに対してなかなか興味を持ってくれなかったんです」。
「ところが、アルバム『若者たち』が、サニーデイ・サービスとして最高の売上を記録すると、音楽誌も彼らに対して興味を持ち始めてくれました。それまでサニーデイ・サービスは、売れるのか、売れないのかハッキリしないバンドというイメージだったのが、ひょっとしたら、サニーデイ・サービスは、音楽的に可能性を秘めているんじゃないだろうかという雰囲気に変わってきたんです。それと同時に、曽我部の気持ちの中にも、少しずつ自信のようなものが芽生えてきたんです」。
こうして、サニーデイ・サービスは、7月に、次のシングルとして、アルバム制作が終わった直後に曽我部が作った曲をリリースすることを決めます。
「この曲は、アルバム制作が終わった直後の2月のある日、曽我部に呼ばれて、僕が彼のアパートに行った時に、彼が"こんな曲を作った"と、ギターの弾き語りで聴かせてくれた曲なんです。彼は、「ボブ・ディランの曲を聴いて、触発されて作った」って言うんですが、柔らかい曲調で、歌詞も明るい。フルアルバムを作り終えたことで、曽我部の気持ちの中で、何か、吹っ切れるものがあったんでしょう。曲を聴いた瞬間、僕は、"これなら売れる"と感じたんです」
「歌詞は、同じメジャー契約でも、第一線で活躍している人達と、自分達を比較して、曽我部なりの言葉で揶揄しているんです。それが、柔らかい曲と見事にマッチしたんだと思います」。
こうして、1995年7月、サニーデイ・サービスのシングル「青春狂走曲」は、発売されます。
1995年7月に発売された、サニーデイ・サービスのシングル「青春狂走曲」は、セールスチャート最高位27位を記録します。「それまで、彼らは、自分達がやっている音楽は間違いではないけど、自信が持てなかったんです。それが、アルバム『若者たち』が少し売れて、自信が芽生え始めた時に、さらに、この『青春狂走曲』がセールスチャートにランクインした。
これで、彼らに芽生えた自分たちの音楽への自信が、確信に変わってきたんです。その意味でも、その後のサニーデイ・サービスの方向性を導いた曲ですね」。
最後に、渡邊さんはこう語ってくれました。
停滞していたバンドの気分が、ゆるやかな上昇カーブを描いた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アナーキー・イン・ザ・UK/セックス・ピストルズ
M2.素敵じゃないか/サニーデイ・サービス
M3.青春狂走曲/サニーデイ・サービス
138回目の今日お届けしたのは、「氣志團/One Night Carnival」でした。
「小学校の頃は、光GENJIに夢中で、ローラースケートで滑りながら歌う、彼らの華やかな
雰囲気に憧れていたんです。中学校に入ったら、バンドブームがやって来て、僕も同級生
5人でバンドを結成しました。バンド名は、当時大好きだったバラエティ番組『とんねるずの
みなさんのおかげです』の1コーナー「ロックンロール最高物語」に出てきた架空のバンド
「矢島工務店」と、メンバーの父親が偶然工務店を経営していたので、そこから「天満工務
店&THEししゃもヘッズ」と名付けました」。
音楽を始めるキッカケについて、綾小路 翔さんは、当時をこう振り返ります。
千葉県木更津市出身の綾小路 翔は、その後、1997年春に、「自分達の故郷・木更津の
良さを、音楽を通して発信したい」というコンセプトの下、友人で、同じ千葉県出身の早乙女 光、
白鳥雪之丞、そして東京都多摩市出身の西園寺 瞳の4人で、バンド「氣志團」を結成します。
「当時、僕達は、他のバンドと差別化するためにインストゥルメンタル音楽ばかり作って、
演奏していたんです。さらに、目立つための何かいいアイディアはないかと色々考えていた
ある日、自分達が、中学生の時に初めてバンドを作った時のような、"ヘアスタイルはリーゼ
ント、ステージ衣装は、学ラン"という格好でステージに立つことを思いついたんです。しかも
演奏する音楽は、その格好からイメージされる横浜銀蠅やクールスではなく、ベンチャーズ
のようなインストゥルメンタル。このギャップで、ライブを観に来た人達に「コイツら一体、何な
んだ」と言う雰囲気を作って、実際、多くの人達から評判を集めることに成功したんです」。
都内のライブハウスを中心に、ガレージ系や、パンクバンド、メタルなど、あらゆるジャンルの
バンドと対バン形式のライブを繰り広げ、少しずつファンを増やしていった氣志團は、1999年、
星グランマニエ、白鳥松竹梅の2人を、メンバーに新たに加え、計6人組となります。そして、
翌2000年6月、氣志團は、インストゥルメンタル曲ばかりを収めた1stミニアルバム『房総与太
郎路薫狼琉』をインディーズから発売します。2001年にはいると、毎月10本以上ライブを行い、
毎回200~300人を集めるようになっていた氣志團は、6月に、当時彼らがライブで演奏し、人
気を集めていたある曲を、マキシ・シングルとして発売。そしてその年の秋、東芝EMIとメジャー
契約を結びます。
東芝EMIとメジャー契約を結んだ氣志團は、デビュー曲を巡って東芝EMIのスタッフと議論を重
ねていきます。
「初めは、僕らのGIGには欠かせない曲を発売したかったんですが、6月に、インディーズからマ
キシ・シングルとして発売したばかりだったので、"半年後に同じ曲を発売するのはまずいだろう"と
いう話になって、改めて曲を何曲か作ったんです。それから、プロデューサーを誰にお願いするの
かということになって、色々候補者の名前が浮上し、その中の一人にユニコーンの阿部義晴さんが
いたんです。僕らも、ユニコーンが好きだったし、阿部さん自身もプロデュース業に興味を持ち始め
ていた時期でもあったので、うまくタイミングがあってお願いすることにしたんです」。
「新曲を4曲ほど作って、どの曲を選ぶか、メンバー間で話しをしたら、今度は意見が分かれてなか
なか決まらない。どうしようか困って考え出したのが「デビューは、必ずしもシングルという形に拘ら
なくてもいいんじゃないか」という結論でした。
さらに、そこで浮かんだのがX JAPANのデビューを真似たデビューのし方でした。X JAPANは
『X現る』というプロモーションビデオを作って、マスコミに配って話題を呼んだんですが、僕らにも、
当時同じようにマスコミ向けに配った『氣志團現象』というビデオがあったので、そのビデオに新曲の
PVや、GIGやインタビューを加えたVHSを発売することにしたんです」。
こうして氣志團は、『氣志團現象』と名付けたVHSビデオを、2001年12月から3ヵ月連続リリースす
るという、異例の形でメジャーデビューを飾ります。
VHSビデオ3ヵ月連続リリースという、異例の形でメジャーデビューを飾った氣志團は、翌2002年3月、
今度はテレビドラマ『木更津キャッツアイ』にメンバー全員がゲスト出演、さらにその1週間後には
NHKの『トップランナー』にも出演し、TVとの相乗効果もあって、それぞれ2万本限定で発売したVHS
ビデオ3タイトル全てが完売。氣志團は、音楽関係者はもちろん、多くの若者達から注目を集める存在
となっていきます。
勢いに乗った氣志團は、さらに、3月30日に東京・代々木公園野外ステージでフリーライブを行い、およ
そ2万人を集客。同じ3月に発売したメジャー1stアルバム『1/6 LONELY NIGHT』も、セールスチャート
初登場3位を記録します。
まさに"氣志團現象"が巻き起こる中、彼らは、メジャーシングル1枚目に、氣志團を代表する曲として、デ
ビュー前から注目されていた曲を発売することを決めます。
「もともとこの曲は、1999年、僕がまだ、フジファブリックの志村正彦らと一緒に、アルバイトをしながら音
楽活動をしていた頃に作った曲なんです。ある日、アルバイト中に、頭の中に浮かんだ、サビのメロディ
がずっと頭の中を駆け巡っていて、その日の夜、バイト仲間と夜通しカラオケに行って遊んだんですが、
明け方、家に帰る時に、暴走族がバイクで走り抜ける所に出くわしたんです。その場面を見た瞬間、自
分の過去の想い出と目の前の現実がオーバーラップして、ずっと頭の中を駆け巡っていたサビのメロディ
に乗せる歌詞が浮かんできたんです」。
「実は、この曲は、すでに作っていた"スカイデストロイヤー・ララバイ"という曲が元歌になっているんですが、
この曲を2つに分けて、1曲は「潮騒の子守唄」という曲にしたんです。そして、もうひとつを、「潮騒の子
守唄」のコード進行で、ディスコ調にアレンジした曲に、アルバイト中に浮かんだサビのメロディをくっつけて
作ったんです。それが、メジャーデビューシングルにもなったこの曲です。当時は、まだインストゥルメンタル
ばかりで、この曲は初めて歌詞をつけて、メンバーに聴かせたんですが、初めは"どうして、俺達がこんな
醜悪な80年代ポップスの焼き直しみたいな曲をやる必要があるんだ"って猛反対されたんです。インストゥ
ルメンタルの曲だけでも、支持を集めていた氣志團に似合わないと思ったんでしょうね。でも、僕は曲の完
成度に、絶対的な自信を持っていたので、"1回だけライブで演奏させてくれ。お客さんの反応が悪ければ、
二度と演奏しなくていいから"と言い切ったんです。実際、ライブ後にアンケートを募ったら、反応が良かった。
それで、他のメンバーも、渋々ライブで演奏することについて、OKしてくれたんです」。
その後、氣志團のライブでは欠かせない曲として成長していったこの曲は、メジャーデビュー直前にインデ
ィーズからマキシ・シングルとして発売されたこともあって、メジャーデビューアルバムには収録されません
でした。「メジャー1stアルバムに、この曲を入れなかったことに対して、色々な人達に"なぜこの曲は入って
いないのか"と言われたんです。それで、インディーズ盤も売り切れになっていたので、改めてレコーディングし、
発売することを決めたんす」。こうして、2002年5月、氣志團は1stシングル「One Night Carnival」を発売します。
2002年5月に、氣志團が発売したシングル「One Night Carnival」は、セールスチャート最高位7位、およそ
2年近くもチャートにランクインし続ける、ロングヒット曲となります。「この曲が完成するまで、見た目とのギャ
ップで勝負するために、インストゥルメンタルばかり演奏していたバンドにとって、この曲が生まれたことによ
って、音楽の幅がより広がって、バンドのアイコンとなったんです。さらに、ライブで演奏し、多くの人達から
支持を集め、今度はバンドを象徴する曲となった。氣志團の進化が、結成していた当時に考えていた以上
のスピードで、大きく加速していくキッカケとなった曲ですね」。
最後に、メンバーの綾小路 翔さんは、こう語ってくれました。
バンドの成長を大きく促すことになった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.サマースクール/光GENJI
M2.黒い太陽/氣志團
M3.One Night Carnival/氣志團
137回目の今日お届けしたのは、「嘉門達夫/替え唄メドレー」でした
1959年3月、大阪府茨木市のサラリーマン家庭の長男として生まれた、嘉門達夫こと本名鳥飼達夫は、彼が小学6年の時に、親に買ってもらったラジオで、当時関西を中心に人気を集め始めていたMBS毎日放送の『ヤングタウン』を聞くことに夢中になります。
さらに中学進学後、ラジオを聴くだけでは飽き足らず、自ら番組宛てにハガキを書くようになり、将来、自分もラジオDJになる夢を抱くようになります。また、ラジオから流れてきたアリスや、あのねのねの曲に影響を受けた鳥飼少年は、中学生の頃には、自らクラシックギターでオリジナル曲を作って、友達に聞かせるようになるのでした。
「僕は、中学2年からオリジナル曲を作り始めて、中学・高校時代で60曲近くを作っていたんです。人を笑わせる歌もあったし、ラブソングの真似ごとみたいな歌もあるし、泉谷しげるに影響を受けたメッセージソングもあったけど、情景を描写したりして笑わせる歌の評判が良かった。フォークシンガーになるのは大変そうだし、かと言ってフォークシンガーに憧れていた訳じゃないし、でも当時は落語家の人も歌を歌っていたし、笑楅亭仁鶴が人気を集めていたので「笑福亭」がひとつのブランドになって、『ヤングタウン』には売れ始めていた笑福亭鶴光師匠もいたんです。当時師匠が27歳、僕が16歳の時に、「この人の所に行ったら、ヤングタウンに連れてってくれるだろう」と思って、この世界に入ったのであって、落語をやりたいと思ってこの世界に入ったんではないんです。19歳の時に、オーディションを受け、師匠はヤングタウンに連れてってくれたんです。その後、原田伸郎さんの横にレギュラーで座ることができたんです。その時に初めて、僕は落語家になりたかったのではない、と自分で気がついた。そこで内出子修行中なのに、だんだんと嫌な態度が顔に出て、掃除なども嫌そうにしていると、師匠や、師匠の奥さんにも(その態度が)気づかれて、追い出された。謝っては、また入れてもらう...という事を繰り返していた。でもそれを繰り返していく内に、ウチに来るのが嫌なら番組も全部降りてしまえ、と言われ破門になったんです」。嘉門達夫さんご本人は、当時についてこう振り返ります。
1975年、高校在学中に笑福亭鶴光に弟子入りし、笑福亭笑光を名乗った達夫は、憧れの「ヤングタウン」のレギュラーも獲得しますが、落語家と、自分のやりたいこととの違和感から師匠と衝突し、1980年、笑福亭一門から破門されます。
ラジオのレギュラーもすべて失い、大阪に居場所が無くなった達夫は、日本全国放浪の旅に出て、スキー場のアルバイトをしながら、スキー場のお客さん相手に、再びギターを持って歌を歌うようになります。そして、その歌が、嘉門達夫の生みの親とも言える人物と彼を結びつけるのでした。
「スキー場でアルバイトしていた時に、お客さんを笑わせるカセットテープを作って『ヤングタウン』の堀江ディレクターに渡していたんです。そのカセットテープを堀江さんがアミューズの大里さんと一緒に車に乗っていた時に、「何か最近面白い奴いないの」と聞かれ、「こんな奴いますよ」とテープを聞かせて、それを聴いた大里さんが「すぐに僕に会いたい」と言われ、すぐに東京に来いという話になったんです。でもヤングタウンのプロデューサーの顔を立てて相談したら、「まだ東京は早い...。もう少し修行してからでも遅くない」と言われ、その話を大里さんにすると、「では、アミューズの大阪営業所で修業しながら有線放送所回りの仕事をしなさい」という話になったんです。そこでサザンオールスターズの「チャコの海岸物語」を有線に売り込むバイトをしていたんです。そしてサザンオールスターズが関西に来ると、金魚のフンみたいにくっ付いて歩いていたんです。あと打ちあげで盛り上げる役割も...。そして当時、桑田さんが、嘉門雄三バンドでライブをやった時に、大阪のライブの前座に出してもらったんです。その打上げの場で、僕が本名の鳥海達夫で活動していたことに対して、桑田さんが、「鳥海は硬いな」...という話になって、「じゃあ、名前を付けてください」と言うと、初めはカメリヤダイヤモンドと言われたけど、それは断ったんです。じゃあ、嘉門雄三の嘉門雄三はもう使わないからやるよ、と言って名前をくれた。でも全部貰うと紛らわしいから、嘉門だけを貰って、嘉門達夫になった。その時は、デビュー曲となる「ヤンキーのうた」はライブでは爆笑をとる歌になっていたんです。最初自主制作で200枚作ったのを、自分で有線に配ってチャートをあげる努力をしていた。でその後、メジャーからデビューしたのが、24歳の時ですね。また当時、僕は有線プロモーターで、放送所回りをする時に、駄菓子屋のくじなどを持って回り、有線放送所の中では面白い兄ちゃんとして人気ものだったんです。だから自主制作盤を手売りするのではなく、有線でかけてもらっていた。40~50箇所あった有線の放送局で人気を集めていましたね。
「ヤンキーの兄ちゃん」は曲が1分52秒しかなく、ライブではウケルけどレコード会社には人気が無かった。なので、制作費が17万円ほどかかったけど、自分で200枚ほどドーナツ盤作って、有線放送所を回ったんです。しかし実は当時は、レコードを作るお金も無かったので、17人の人から1万円ずつ売れたら返しますと言って集めて作りました。実際にレコードを持って有線放送所を回ると、問い合わせが殺到し始め、リクエスト1位の放送所が数か所出てきた。そんな既成事実を作ってしまうと、メジャーレコード会社も僕をほっておかなかったんですね」
1983年にリリースされた1stシングル「ヤンキーの兄ちゃんのうた」は、有線放送でブレイクし、その年の読売テレビ全日本有線放送大賞新人賞と、TBS日本有線大賞新人賞を相次いで受賞して、嘉門達夫の名前は一躍知られる存在となっていきます。
「もともと僕は、誰かを笑わせたいと思ってこの世界に入ってきたんです。デビューした翌年に2枚目のシングル「行け行け川口浩探検隊」を発売し、この曲もそこそこ売れて、僕の名前は全国まんべんなく売れることができた。ありがたいことに、こ後レギュラー番組が増えて忙しくなってきて、本当は歌いたいんだけども、歌うことよりも、レポーターのような仕事が増えてきた。29歳の時は、東京、名古屋、大阪で15本ぐらいレギュラーを抱えていました。最初の頃は、売れたい一心から楽しかったけど、29歳の時に「小市民」という歌が、数万枚売れた時に、アミューズの中で、ここまで来たら十分なのでは...という空気が流れてきたんです。自分の中では、まだいかないといけないのに、事務所の中では十分だ~みたいな感じになってきた。そんな時に、元スペクトラムというバンドのメンバーで、アミューズに居た新田一郎さんが代官山プロダクションを作って独立して爆風スランプなどを育てていたんですで。昔から、新田さんと気があっていたので、「ウチへ来て一緒にやろうよ」という話になって、アミューズと話をして円満移籍で代官山プロダクションに移籍したんです。そこから丸二十年新田さんと色々やりましたけど、ラジオ番組やライブで完成度の高いステージを作ることを教えてもらった。その中で、「替え唄メドレー」はライブで歌っていたんですが、許可取りが大変だった。替え唄は、オリジナルの曲の権利を持っている出版社に使用許可を取るんですが、ライブの動員も増えて自分も勢いづいていた部分もあったけど、勢いで押し切った部分もありますね」
音楽活動以外にもフジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』へ出演するなど、タレントとして活躍の場を広げ人気を集めていた嘉門達夫は、1989年7月、所属していた事務所アミューズを離れ、音楽プロデューサー・新田一郎が率いる代官山プロダクションに移籍し、新田一郎プロデュースの下、それまでのアドリブ的な芸を、何度でも同じクオリティで再現できるエンタテイメントへと進化させていきます。
そんな中、1991年、嘉門達夫は、それまで彼のライブでは非常に盛り上がっていたネタ「替え唄メドレー」を、シングルとして発売することを決めます。
「「替え唄」は、普通では伝わらないことが伝わって面白い。不思議な効果でもある。例えば「オザワ~オザワ~」と少し歌うだけで、皆が色んな事を想像して笑ってくれる。「4億円の出所は♪」だけで、社会風刺が成立しているんです。もともと歌が持っている力も借りつつ、それを変えることで化学反応を起こし、違うメッセージ性を持った歌になって、僕の口から出ていくという替え歌には魅力があると思っています」。
1991年5月に発売された、嘉門達夫15枚目のシングル「替え唄メドレー」は、セールスチャート最高位9位、約82万枚の売上を記録するヒット曲となり、翌1992年の大晦日に行われた「NHK紅白歌合戦」にも、嘉門達夫は「替え唄メドレー」を引っ提げて初出場を果たします。
そして、その後も現在まで「替え唄メドレー」シリーズとして、シングルとしては20作、アルバム収録曲も加えると22作も作られる名物シリーズとなります。
「モザイクとかコラージュが好きな僕にとって、「替え歌メドレー」は、二十何曲歌う人が全て違うし、歌詞も変わっているというモザイクという観点で、好きだし、当然それを表現するのも好きだし、編集するのも好きだし、楽曲を並べる順番がとても大事なので、その点が「替え歌メドレー」が売れた秘密ではないでしょうか」
最後に、嘉門達夫さんご本人は、こう語ってくれました。
オリジナルの魅力を土台に、替え歌の魅力をモザイク状に繋ぎ合わせたことで、
新しい、日本語のエンタテイメントソングスタイルが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.魚屋のオッサンの歌/あのねのね
M2.ヤンキーの兄ちゃんのうた/嘉門達夫
M3.替え唄メドレー/嘉門達夫
136回目の今日お届けしたのは、「LOOK/シャイニン・オン 君が哀しい」でした
「彼らと初めて会ったのは、1984年の夏頃だったと思います。当時のマネージャーが送ってきたデモテープを聴いて、興味を持った僕は、東京・目黒のライブハウス「鹿鳴館」に彼らのライブを観に行ったんです。ボーカルの鈴木トオルのアイドル的なルックスと、高音でハスキーなボーカル。そんな鈴木とは対照的な、千沢仁のボーカルと、ハーモニー。さらには、千沢が作り出す多彩なメロディ。多面的な要素を持った彼らは、それまで僕が見たことのないタイプのバンドで、実に斬新。ぜひ彼らをデビューさせて、多くの人達に知ってもらいたいと、僕は直ぐに思ったんです」。
デビュー当時、LOOKの制作担当ディレクターを務めた山本さんは、当時についてこう振り返ります。
1984年、東京・新宿のライブハウス「ACB」を拠点に、別々のバンドで活動していた4人の男達。AC/DCやSLADEといった、ハードロックバンドに影響を受けていた、ボーカル兼ギターの鈴木トオル。BILLY JOELなどのシンガーソングライター系のメロディメイカーに影響を受けていた、ピアノ兼ボーカルの千沢仁。パンク・ジャズバンド出身の、サックスのチープ広石。そして、プログレッシブ・バンドのドラマーとして活躍していた、山本はるきち。音楽のバックボーンが、全く異なる4人の男達は、売れるバンドを作ることを目的に意気投合し、新たなバンドを結成します。
4人のそれぞれの異なるキャラクター性を、いい意味でのバンドの魅力と捉えた彼らは、当時、4つの味が一つのパッケージで楽しめることで人気を集めていたチョコレートとオーバーラップさせて、バンド名を"LOOK"と名付けます。
「デモテープを聴き、ライブを観た僕は、メンバーが、同じ4人なので、ビートルズを意識し、彼らを目指すことにしたんです。バンドとして、しばらく活動した後は、ビートルズにならってメンバー個々のソロを視野に入れた活動を行っていくことも考えていました」。
こうして、1984年冬にエピックレコードと契約したLOOKは、翌1985年の春にデビューすることが決まります。
「LOOKは、千沢仁がメロディを書き、作詞をチープ広石が担当、そして山本はるきちが編曲を担当する―といったように、役割分担がはっきりしていたバンドなんです。普通バンドは、メンバーそれぞれが、あれこれ意見を出し合って曲を作っていくケースがほとんどですが、彼らの場合は作詞、作曲、編曲は完全分業制で、それぞれが責任を持ってプロフェッショナルな仕事をしようというのが特徴でした。その中でも、それぞれの基本に考えていたのは、ボーカル・鈴木トオルの高音ハスキーボイスを活かすために、どうすればいいのか。これだけを、それぞれが共通テーマとして、持っていたんです」。
「僕は、彼らと色々と話をする中で、鈴木トオルの高音でハスキーな歌声と、王子様的なキャラクターは、LOOKの強力な武器になると考えたんです。そこで、LOOK結成前のバンドでは、ギター兼ボーカルだった鈴木を、LOOKではボーカルとして専念させることにしたんです。
もともとハードロック系のギター小僧だった鈴木は、ハードロック以外の、ジャズ、プログレの要素を取り入れたLOOKの多様な音楽性を上手に弾き分けるほど器用ではありませんでした。ライブを積み重ねていく中で、鈴木自身、ギターとボーカルを両立させることが難しいことも実感していたと思うので、この提案に対しては割とすんなりと受け入れてくれたんです」。
デビューに向けて、着々と準備が進んでいく中で、LOOKは、彼らがアマチュア時代に作っていた「SMILE AGAIN」を、1stシングルの候補曲として決めます。
LOOKが、1985年4月に発売する1stシングルとして、準備していた楽曲「SMILE AGAIN」。
「LOOKは、メンバー4人がアマチュア時代に培ってきたハードロックやジャズ、プログレの要素を取り入れた、本当にバラエティに富んだ音楽性を持っていたので、僕ら制作スタッフは、デビュー後の展開方法を色々と考えて、徐々にその全貌を見せていく作戦を立てていたんです。そこでまず1stシングルとして選んだのが、ポップで明るい「SMILE AGAIN」という曲でした」。
「ところが、レコーディングも無事に終えた後、レコード会社の宣伝や営業チームと打合せする中で、LOOKの1stシングルは、ポップで明るい曲ではなく、当時から関係者の間では人気を集めていたバラード曲にして欲しいという意見が数多く寄せられたんです。メンバーも、僕ら制作スタッフも、土壇場での変更に困惑したんですが、宣伝や営業チームと幾度となく議論を交わし、結局、1stシングルを変更して、バラード曲で勝負する作戦に切り替えたんです」。
「もともとこの曲は、彼らがアマチュア時代から歌っていた曲で、僕が目黒のライブハウス「鹿鳴館」に彼らのライブを初めて観に行った時にも、歌っていたんです。バラード曲は、じっくり聴かせるというのが普通なんですが、この曲は、曲が最初からドラマティックに展開していくので、思わず聴き入ってしまうんです。そして何より、鈴木トオルのサビのボーカル力が衝撃的で、初めて聴いた時は鳥肌が立ちました。曲を作った時の話を詳しく聞いてみると、最初は曲を作った千沢がボーカルを担当する予定だったけど、曲のレンジ(音の高低差の幅)が広く、千沢では歌いきれなかったので、試しに鈴木が歌ってみたら、歌のキーが出たので、そこから鈴木がメインで歌うようになったんだそうです」。
こうして1985年4月、当初の予定を変更したLOOKの1stシングル「シャイニン・オン 君が哀しい」は、発売されます。
1985年4月に発売された、LOOKの1stシングル「シャイニン・オン 君が哀しい」は、セールスチャート最高位8位、約35万枚の売上を記録します。
「キャラクターも、音楽性も違う4人の魅力が、高度なポップナンバーに融合することで、最大限発揮された曲です。
その一方で、曲の持っているインパクトがあまりにも大きく、その結果、彼らはそれ以降どんな曲を書いても、思うような評価を得ることができず、この曲のために、本人達も苦しんだ部分があるのも事実です。結局、彼らにとってこの曲は、最後まで越えることができない、大きな壁になってしまいました。しかし、サビのメロディが、この曲を聴いた人達の記憶の片隅に深く刷りこまれ、今でも、カラオケなどを通して、幅広い人達にこの曲を歌ってもらえているのも事実です。
本人達は越えることができなかったけど、曲としては"時代の壁"を大きく乗り越えて、J-POPの歴史にその名前を刻んだのではないでしょうか」。
最後に、制作ディレクターを務めた山本さんは、こう語ってくれました。
時代という大きな壁を乗り越え、歌い継がれるJ-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Get Down And Get With It/SLADE
M2.SMILE AGAIN/LOOK
M3.シャイニン・オン 君が哀しい/LOOK
135回目の今日お届けしたのは、「矢野顕子/ひとつだけ」でした
1955年2月、東京に生まれた少女・鈴木顕子、後の矢野顕子は、彼女が3歳の時に、父親の仕事の都合で、青森市に引っ越しします。
「引っ越しした青森の、音楽教室で習い始めたピアノが私の人生を大きく変えたんです。ピアノを弾くようになって、いつの間にか自分の心の中に、将来は、プロになろうと、どこか決意した部分が芽生え始め、生活する中で、ピアノを切り離して考えることができなくなったんです。ピアノと矢野顕子は、一緒に育ってきたもの、そんな存在感になっていったんです」。
デビュー30周年を記念した雑誌のインタビューで、矢野顕子は、こう話しています。
その後、矢野顕子は、青森の中学校に進学した頃からジャズに興味を持ち始め、プロのミュージシャンを目指すため、1971年春、親元を離れ、青山学院高等部に入学。父親の知人であった安部譲二の家に居候させてもらいながら、青山のジャズクラブ「ロブロイ」で山下洋輔、坂田明といったジャズ・プレーヤーと連日セッションを繰り広げる日々を送ります。
1972年、彼女の噂を聴きつけた音楽関係者の目に留まった矢野顕子は、細野晴臣、鈴木茂、林立夫らが作っていた音楽ユニット「キャラメル・ママ」のセッションに参加。この頃から、自らも曲を作り始めます。
1973年、矢野顕子は音楽仲間とバンド「ザリバ」を結成し、シングル「或る日」を発売しますが、シングル発売直後に解散。その後、矢野顕子は、音楽プロデューサーの矢野誠、キャラメル・ママらと共にソロデビューの準備を進めます。
1974年、音楽プロデューサーの矢野誠と結婚し矢野顕子となった彼女は、長男を出産後、本格的にソロアルバムの制作に取り掛かります。
「1stアルバムを作る時、当時の担当ディレクターが矢野顕子に「どんなアルバムを作りたいの?」と聞いたんです。当時矢野さんは、夫でもある音楽プロデューサーの矢野誠さんと一緒に、日本人である自分と、音楽の関わりについて深く考えていた時期で、ルーツミュージックに興味を持っていたんです。そこで、アメリカでR&B、ブルース、カントリー、ジャズなどのルーツミュージックを融合させた作品で高い評価を浴びていた、リトル・フィートの名前を挙げたんです。そこで担当ディレクターが直ぐに彼らにコンタクトを取ったところ、リトル・フィート側も快諾してくれて、彼らをバックバンドに迎えてのレコーディングが実現したんです」。
矢野顕子30周年を記念したアルバム『いままでのやのあきこ』の制作担当ディレクターを務めた、篠崎さんは、当時の様子についてこう語ってくれました。
こうして1976年7月、矢野顕子は、1stソロアルバム『JAPANESE GIRL』を発売します。
1976年7月、矢野顕子は、リトル・フィート以外にも、ティン・パン・アレイ、鈴木慶一とムーンライダーズという錚々たるミュージシャンが参加して作った1stアルバム『JAPANESE GIRL』を発売。5ヵ月後の1976年12月には、1stライブの模様を収めたライブアルバム『長月・神無月』を、発売します。
音符の上を自由奔放に跳ね回るような歌い方と、変幻自在、かつ緻密な矢野顕子の音楽性は、デビュー直後から多くの人達から注目を集めます。
「彼女は、その瞬間、彼女が感じて良いと思った生の部分を、音として表現しているんです。つまり、演奏する場所、時間、ライブを観に来た人達の顔...その瞬間の雰囲気・空気を感じとって、音楽として表現しているので、ライブツアーでも、決して同じ物は無く、日々違っているんです。同じ音楽は二つとない、まさにひとつだけという事ですね」。
「歌詞も、怒りや後悔といったネガティブなテーマは多分ほとんどなく、愛についてが多いと思います。男女だけではなく、大きな意味での愛。多彩な音楽経験、そしてすばらしい歌詞。この二つが上手く融合することで、彼女ならではの唯一無二の音楽が生まれ、聴く人達の心を捉えるんだと思います。
2006年8月に発売した、デビュー30周年を記念したコンプリートアルバム『いままでのやのあきこ』を作るために、デビュー当時からの音源を全て聴き直して、私は改めてそう感じたんです」。
現在、矢野顕子の音楽制作ディレクターを務める篠崎さんは、矢野顕子の音楽の魅力について、こう語ります。
矢野顕子は、デビュー以降も、デビュー前から付き合いのあった音楽ユニット「ティン・パン・アレー」のメンバー細野晴臣、鈴木茂、林立夫、そして坂本龍一、高橋幸宏、山下達郎、吉田美奈子と言ったミュージシャンらとも積極的に交流を図ってアルバムを作っていきます。さらに1978年に入ると、ギタリストの渡辺香津美、ドラムの村上"ポンタ秀一、ベースの小原礼といったジャズフュージョン系のミュージシャンらと共に、同じ楽器に二人のプレーヤーを立てて、音楽的な"格闘技"を行うというコンセプトの基に、「格闘技セッション」と呼ばれるユニットを結成して活動します。
また翌1979年には、坂本龍一、渡辺香津美、村上秀一らとバンド「KYLIN BAND」を結成し、ライブ活動を行いながら、
4月には自身のソロライブアルバム『東京は夜の7時』を発売します。
「当時の彼女は、子供の母親として、そしてセッションミュージシャンとして、さらには一人のシンガーソングライターとして、本当に多忙な日々を送っていたんです。でも、幾ら忙しくても、音楽面では一切妥協は許さず、常に自分自身が納得できるまで曲を作っていたんです。そんな中、次に彼女は、それまでの音楽人生の集大成のような思いで、彼女自身のソロアルバムの制作に取り掛かったんです」。
当時、矢野顕子のマネージャーを務めていた佐藤さんは、こう振り返ります。
多彩な音楽活動の合間をぬって、ソロアルバムの制作に取り掛かった矢野顕子の下へ、楽曲提供の話が舞い込みます。
「依頼は、その年、1979年11月に、アグネス・チャンが発売を予定していたアルバムに収める曲を作って欲しい、という内容でした。矢野顕子は、曲を作った後、自らもこの曲をアルバムに収めることを決めて、アグネス・チャンに提供した曲の歌詞の一部を変えて、レコーディングしたんです。演奏には、アルバムの共同プロデュースを務めた坂本龍一他、
高橋幸宏、細野晴臣の、YMOメンバーが3人揃って参加しています」。
こうして1980年1月、当初は矢野顕子がアグネス・チャンのために作った曲「ひとつだけ」は、シングル「ごはんができたよ」のカップリングとして発売されます。
1980年1月、シングル「ごはんができたよ」のカップリング曲として発売された「ひとつだけ」は、同じ年1980年10月に発売されたアルバム『ごはんができたよ』にも収録されます。
「この曲は、最初は、シングルのカップリング曲として発売されたんですけど、長年歌い続けることで熟成されて、彼女にとってはもちろんですが、彼女の音楽を愛するファンの人達にとっても、大切な曲になっているんです。
ここ数年、彼女がライブでこの曲を歌うと、お客さんも一緒に歌うシーンを度々見かけることがあるんです。自然とお客が途中から歌いはじめ、最後は大合唱になった事もありました。普段矢野のコンサートでお客が一緒に歌うと言う事はまれなんです。でもそれは、彼女が促しているではなく、お客さん達が自然と一緒に歌ってくれているんです。ひとつだけは特別な曲なんだと思います」。
最後に、制作ディレクターを務める篠崎さんは、こう語ってくれました。
あふれる才能が産み落とし、日々、積み重ねられる経験が育んだ、J-POPスタンダードナンバー、
それが、矢野顕子の「ひとつだけ」なのです。
今日OAした曲目
M1.My Favorite Things/ジョン・コルトレーン
M2.電話線/矢野顕子
M3.ひとつだけ/矢野顕子
134回目の今日お届けしたのは、「中村 中/友達の詩」でした
「私は、今でこそ社交性を発揮できるようになりましたが、10代の頃は人と話をすることが大の苦手で、なるべくなら人との関わりを持たないで生きていきたいと思っていました。そうなると、必然的に言葉数も減って、いつしか同級生や家族に対しても、上手く言葉が出て来なくなってしまったんです。でも、10代の心って、感情の起伏は嵐のように激しいじゃないですか。もの凄く激しい気持ちだと思うけど、それをちゃんと外に吐き出さないと、自分の感情に、自分が押し潰されてしまう事に繋がっていくと思うんです。当時は、そんな感情を外に出す方法が分からなくて、途方に暮れかかっていた時に出会ったのが、研ナオコさんの音楽でした」
自分を救った音楽との出会いについて、中村 中さん本人はこう振り返ります。
1985年6月、東京都墨田区に生まれた中村 中は、幼い頃から、両親が聞いていた歌謡曲、特にその中でも研ナオコの音楽に親しみを覚え、自分も一緒に口ずさむようになります。
「TVなどで、研ナオコさんが歌う姿を観た時、私には、研ナオコさんの音楽が、口に出して言えない憤りや、悲しみを、歌で吐き出しているように見えたんです。このやり方ならば、自分でもできるのではと、浅はかだけど思うようになって、研ナオコの歌を歌うようになったんです。しばらくすると、感情を外に出す方法が見つからずに途方に暮れていた私も、歌を歌っている時間だけは、心が安らぐようになったんです。音楽の世界を目指したというよりも、私にはこれしかなかったんですね」。
しかし、中村 中は、その後、声変わりの時期を迎え、自分の声に違和感を覚えるようになり、人前で声を出す事に対して抵抗感を感じるようになります。そして、今度はその想いを、独学で弾くようになっていたピアノにぶつけることになります。
こうして、中村 中は、思春期特有の、日常の葛藤や自身の考えを、歌詞に書き、さらには独特の感性でピアノを弾いて曲を作り、都内のライブハウスを中心にライブ活動を始めるようになります。
やがて、中村 中の噂を聞きつけた、レコード会社のスタッフがライブを観に訪れます。
「当時は、とにかく、歌を歌える場所があれば何処へでも行っていました。そんなある日、お客さんが、たった2、3人しかいなかった私のライブを観に、レコード会社のスタッフがやって来たんです。それをキッカケに、デビューに向けた第一歩が始まったんです」。
2006年6月21日、中村 中は、21歳の自らの誕生日に、1stシングル「汚れた下着」でデビューします。"浮気"をテーマに、ただならぬ妖艶な雰囲気を醸し出しながら歌ったシングル「汚れた下着」は、セールスチャート最高位155位という結果に終わります。
「今では笑い話になっていますが、私は最初、この曲を1stシングルにすることに対して、本気で嫌がっていたんです。
曲のイメージから、色物扱いされる事は分かっていたんですけど、レコード会社の意向もあって、仕方なかったんです。
この曲が1stシングルに決まった時、音楽の世界で戦いながら生きていくのは、楽な事ではないな、そう思いました」。
「メジャーデビューに向けて創作活動を続けていく中で、私には「こんな歌手になりたい」という、具体的な目標はなかったんです。ただひとつ、自分の信念として、嘘を吐いているような音楽はやりたくない。そう思っていました。
また、幼い頃から、歌に親しんできた影響もあったので、誰もがすぐに口ずさめるメロディや、曲を聴いてくれた人の心の中に、ひっかかるような音楽を作る事を大切にして、歌う自分も真っ直ぐな気持ちでいたい。そう思っていたんです」。
中村 中は、自身の音楽観についてこう語ります。
音楽業界に対して、とまどいを抱えながらデビューした中村 中は、2ndシングルとして、2005年6月に、自主制作盤という形で、1度発売された「友達の詩」を発売することを決めます。
「もともとこの曲は、私が中学校を卒業する間際に作った曲です。
当時私は、人との関わりを避けていた時期で、自分が会話する相手はもっぱらノートでした。独り言のように、自分が日々感じていた事を、ノートに書きなぐっていたんです。その書きなぐっていた言葉に、ある日、ふとメロディを付けたくなって、ギターでメロディを作ったのがこの歌です」。
「曲が完成して、実際に歌い始めたんですが、自分の心にあまりにも近過ぎて、凄く怖く感じました。だからでしょうか、
この曲をおっかながって歌っていたんです。この歌を歌う事で、他人に訊かれたくない事も訊かれてしまう。でも、時間が経つにつれて、曲を聴いた人達が、「この歌を聞いて、励まされたよ」と言ってくれるようになってきて、自分でも「この歌は、人を励ます力を持っている曲なんだ」、そう思えるようになってきたんです。それからは、この歌と自分が、どんな風に向き合えばいいのかが、だんだんと分かってきたんです」。
こうして、中村 中が15歳の時に初めて書き下ろした曲「友達の詩」は、2006年9月、満を持して、2ndシングルとして発売されます。
2006年9月に発売された、中村 中の2ndシングル「友達の詩」は、セールスチャート最高位9位を記録し、およそ1年近くもチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「この曲は、私にとっては、まるで自分の人生の生き写しのような曲です。腐れ縁というか、私の良い部分も悪い部分も知っている、友達みたいな曲ですね」。
最後に、中村 中さんは、この曲についてこう語ってくれました。
15歳の日々の思いを綴ったその唄は、多くの人を勇気づけ、励ます、J-POPバラードの名曲となりました。
今日OAした曲目
M1.泣かせて/研ナオコ
M2.汚れた下着/中村 中
M3.友達の詩/中村 中
133回目の今日お届けしたのは、「T−BOLAN/離したくはない」でした
「僕は、アマチュア時代から、歌を歌うことが大好きで、バンドを作った時も、最初は曲を作るといったクリエイティブな部分よりも、バンドのボーカリストという部分に興味があったんです。しかし、当時のバンドのメンバーから、「歌詞は、ボーカルが書いた方がいいよ」と言われて、それから何も疑問も持たずに歌詞を書くようになったんです。」
曲を書くようになったキッカケについて、森友嵐士は音楽情報サイトのインタビューでこう答えています。
1965年10月、広島県府中市に生まれた森友嵐士は、彼が16歳の時に、友人からアコースティックギターを譲り受け、翌年の学園祭に出演し、はじめて歌で自分を表現する喜びを知ります。
その後、東海大学に進学した森友嵐士は、音楽サークルに入部し、バンドを結成します。
そして、1987年、森友嵐士はアルバイト先のライブハウスで出会った、ドラマーの青木和義とバンド「プリズナー」を結成し、本格的にプロの世界を目指します。
1987年11月、プリズナーは、レコード会社BEINGが新人発掘のために行っていた音楽コンテスト「第2回BADオーディション」にデモテープを送り、グランプリを受賞。翌1988年7月、プリズナーはバンド名を「BOLAN」と改め、BEINGのインディーズレーベルからシングルをリリースします。
その後BOLANは、都内のライブハウスを中心に年間150本以上のライブを行って、最盛期にはインディーズにも関わらず、ワンマンライブに約700名を集めるまで成長します。余談ですが、デビュー直後のB’zの稲葉浩志も、BOLANのライブにゲスト出演したこともあるそうです。
しかし、BOLANは、メンバー間で、音楽に対する考え方の違いが生まれ、森友嵐士はBOLANを脱退します。
BOLANを脱退した森友嵐士は、幾つかのバンドを掛け持ちして活動するようになりますが、そんな中で、ギターの五味孝、ベースの上野博文と知り合います。
1990年に入り、森友嵐士は、活動停止状態だった「BOLAN」の青木和義と再び一緒に音楽活動を始め、五味、上野の2人を加えてバンドを結成。イギリスのグラムロックバンド「T-REX」にちなんで、バンド名を「T-BOLAN」と名乗り、翌1991年7月、1stSg「悲しみが痛いよ」でデビューします。
「1stシングルの発売日、僕はその日がデビュー日というのも忘れるくらい、秋に発売を予定していたアルバムの曲作りに没頭していたんです。21歳の時に、T-BOLANの前身バンド、プリズナーを結成し、自分の気持ちの中で、「音楽の世界で勝負をしよう」と思って活動してきました。メジャーデビューが決まるまでの5年間は、自分が思い描いていた世界とは違っていたし、正直、まさかここまで時間がかかるとは思わなかったんです」。
森友嵐士は、当時について音楽情報サイトのインタビューでこう振り返っています。
オーディションの時から、定評のあった森友嵐士の歌声の魅力。それをいかに形にして、オーディエンスに届けていくのか? 課題解決に向け、BEING代表の音楽プロデューサー・長戸大幸をはじめとしたスタッフ、メンバーの試行錯誤が繰り返されます。
「プリズナーから、BOLAN、そしてT-BOLANと、バンド活動を続けてきたけど、プロデューサーの長戸さんは、なかなか僕らの作品を認めてくれませんでした。そんなとき、埼玉の「浦和ナルシス」というライブハウスでライブを行ったんですが、お客さんとして来ていた女子高生に「かっこいいけど、ひとつだけ良くないところがある」って言われたんです。改めて彼女に問いただすと、彼女は、「歌詞が良くない。曲を聞いても、全然響いてこない」って言ったんです。歌詞を書く人間としては正直ショックでしたけど、この言葉が、課題解決のためのヒントになりました」 。
「女子高生にキツイ言葉を言われて、悩み、考えていく中で、ある時、自分の置かれた状況をそのまま歌詞に書いてみたんです。すると、曲を作り終わった時、「コレかッ!」と思う何かが、自分の頭の中を駆け巡ったんです。それが、1stシングルのカップリングに収めた曲です。」
「アマチュア時代は、知り合いを含めて、ライブハウスを埋めるのが精いっぱいでしたけど、デビュー直後のライブでは、チケットが即日ソールドアウト。会場には、凄い数の人がうねっていたんです。アマチュアの頃とは全く違う景色で、新しく作った音楽の結果が目の前に広がっていたから、創作に対するエネルギーが自分の中でどんどん高くなっていったんです。曲を作るにもエネルギーは必要で、完成した時は嬉しいけど、それまではただ苦しいだけ。でも、ひとつの作品として、目の前の人達から笑顔という結果を貰えると、最初は作品に対して自信が無かったんですが、また作っていきたいという創作意欲が湧いてきたんです」。
ライブにやって来た人達の満足する表情に、ひとつの自信を掴んだ森友嵐士は、より貪欲に創作活動に力を注いでいきます。
「この曲も、最初はシングルのB面に収める予定で作った曲なんです。何気なくピアノに向かって弾いていたものを、ラジカセに録音して、そのデモテープを、プロデューサーの長戸さんに聞かせたら、「いい曲だ」と評価してくれ、急遽、シングルのB面から、アルバム収録曲に変更になったんです」。
1991年11月、T-BOLANはこの曲を含む1stアルバム『T-BOLAN』を発売します。「当初はシングルカットするつもりはありませんでしたが、10月からフジテレビ系でスタートしたドラマ『ホテル・ウーマン』の挿入歌として起用されたところ、有線放送にこの曲へのリクエストが殺到したんです。そこで慌ててレコード会社が、2ndシングルとして発売することを決めたんです」。
こうして1991年12月、T-BOLANの「離したくはない」は、2ndシングルとして発売されるのでした。
1991年12月に発売された、T-BOLANの2ndシングル「離したくはない」は、セールスチャート最高位15位、売上は約47万枚、さらには発売からおよそ1年に近くに渡ってセールスチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「1stシングルのカップリング曲として収録された「Hold On My Beat」で、自分の音楽に気が付き、次に作ったこの曲で、自分の中に軸がやっとできたと感じたんです。
出会って5年間、なかなか認めてもらうことができなかったプロデューサーの長戸さんからも、「いいね」って評価してもらうことができました」
森友嵐士は、最新のインタビューの中で、当時についてこう振り返っています。
ライブのお客さんの声に気づかされ、笑顔に勇気付けられ、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ゲット・イット・オン/T-REX
M2.悲しみが痛いよ/T-BOLAN
M3.Hold On My Beat/T-BOLAN
M4.離したくはない/T−BOLAN
132回目の今日お届けしたのは、「PUFFY/これが私の生きる道」でした
「1994年、最初に出会ったのは、大貫亜美でした。彼女は、前年の1993年に開かれたSDオーディションに合格して、エピックレコードからソロデビューの話が決まって、僕がデビューに向けてのプロジェクトチームに加わったんです。
どういった形で彼女をデビューさせるのがいいのか、試行錯誤しながら考えていく中で、ソロではなく、誰かとユニットを組んでみるのも面白い、と考え、彼女と話をしたんです。すると「事務所の後輩で、ピッタリの子がいますよ」と教えてくれたのが、吉村由美でした」。
デビュー直前から、レコード会社でPUFFYの担当責任者を務めていた廣瀬さんは、PUFFYの結成について、こう、話してくれました。
1973年9月、東京都町田市に生まれた大貫亜美は、高校入学後に友人達とバンドを結成、ハノイ・ロックスの曲をカバーしたデモテープを、SDオーディションに送ります。彼女の歌声に魅かれた、オーディションスタッフは、彼女にソロアーティストとしてデビューすることを提案。1993年、大貫亜美は、本格的に歌の世界を目指すようになります。
一方、1975年1月、大阪府寝屋川市に生まれた吉村由美は、1993年、友人の勧めで、10代の女性を対象にしたタレントオーディション、ソニーの「ちょっとそこまでオーディション」に応募し、合格します。ルックスとキャラクターを評価されての合格でしたが、スタッフの薦めもあって、吉村由美も歌の世界を目指すことになります。
「吉村由美に声を掛けたちょうどその頃、彼女のソロデビューに向けたプロジェクトも、立ちあがろうとしていた時でした。それぞれソロデビューの話を止めて、ユニットとしてデビューさせることにしたんです。同じ二人組ユニットのWinkが、活動を停止する直前で、他に女性二人組のユニットがJ-POPアーティストの中にはいなかったので、タイミングは良かったんです」。
1995年、大貫亜美と吉村由美の二人は、ユニット「PUFFY」としてデビューすることが決定。さらに彼女達のプロデューサーとして、彼女達と同じ事務所で先輩の、奥田民生が起用されます。「奥田民生が、ソロアルバム『29』と『30』を作り終えた直後で、プロデュース業に興味を持ち始めていたんです。時間的な余裕もあったので、彼に、PUFFYのプロデュースをお願いすることにしたんです」。
こうして、翌1996年5月、奥田民生初のプロデュースアーティストPUFFYは、1stシングル「アジアの純真」を発売します。
1996年5月、PUFFYは、井上陽水作詞、奥田民生作曲・プロデュースによる1stシングル「アジアの純真」を発売します。
「PUFFYがデビューするにあたって、プロデューサーの奥田民生、そして僕らスタッフは、二人を、歌謡曲の世界にいる一般的なアイドルではなく、日本のROCKとJ-POP界のアイドル的存在に仕立てることを考えたんです。奥田民生が初めてプロデュースを手掛けたアーティストという話題だけで、世間が騒ぐのは分かっていました。でも僕らは、PUFFYをそれだけで終わらせたくはなかったんです。そのために必要なのは、話題性だけでなく、音楽面でも、彼女達をしっかりとサポートしなくちゃいけない。そう考えた奥田民生は、彼自身の、音楽面での交友関係をフル活用し、デビュー曲の作詞を井上陽水さんにお願いしたんです」。
PUFFYの1stシングル「アジアの純真」は、二人が出演したキリンビバレッジ「天然育ち」のCM曲にも起用され、セールスチャート最高位3位、約119万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「奥田民生初のプロデュースアーティストで、デビュー曲の作詞は井上陽水。さらには、本人達がCMに出演。こういった十分な話題性に加えて、PUFFYの二人が受け入れられた理由を分析してみると、3つの大きな理由がありました」。
「PUFFYがデビューした当時は、安室奈美恵に代表される小室哲哉サウンド、いわゆる打ちこみ系サウンド全盛の時代でした。しかし、奥田民生は、PUFFYのサウンドに、敢えてシンプルで分かりやすい、アナログ録音によるロックサウンドを取り入れたんです。結果的に、それが、新鮮に感じてもらえたんですね。これが一つ目の理由です。二つ目の理由は、奥田民生やユニコーンのファンは女の子です。でも、彼らの曲は女の子がカラオケで歌うには難しすぎるんですね。そこで、同じ奥田民生が作った曲でも、女の子が気軽に歌えるPUFFYの曲の方が受けたわけです。そして三つ目の理由はファッションです。大貫亜美、吉村由美の二人は、アイドルのステージ衣装ではなく、ジーンズ、Tシャツ、スニーカーを基本としたで衣装でTV番組に出演しました。これで、ファンに、身近な存在として感じてもらうことができました。この三つの要素が、あいまって、パフィは、同世代の女性を中心に、多くの人達から、一気に支持を集めることになります」。
1996年7月に発売した、PUFFYの1stアルバム『amiyumi』は、セールスチャート最高位3位、約89万枚の売上を記録。
奇妙来天烈な歌詞と、のほほんとした雰囲気が受け入れられ、一気にブレイクしたPUFFYは、1stアルバムの発売とほぼ同じ頃に、その年の秋に発売が予定されていた2ndシングルの制作に取り組みます。
「2ndシングルは作詞・作曲、そしてプロデュースまで全てを奥田民生独りがやることになりました。資生堂のCMタイアップ曲になることが決まっていたので、彼には、そのことだけを伝えて、他の注文はせず、全て任せることにしたんです。僕らは、彼がどんな曲を作ってくるのか、楽しみにしていました」。
「しばらくして、奥田民生は、ビートルズを意識した楽曲を作ってきました。もともと彼は、ビートルズをリスペクトしていたし、この曲を聴いた人達が「古き良き時代を思い出してくれれば」という思いで作った、と言うんです。だから、曲を聴いた人に懐かしさを感じてもらえるように、レコーディングも、敢えてモノラル録音です。
さらに、曲のタイトルにも、ちょっとした仕掛けが加えられました。曲のタイトルに含まれる漢字3文字、「私」「生」「道」、この三つを続けて音読みすると、CMタイアップのスポンサー名、“しせいどう”となるわけです。こんな遊び心満載の曲を作れるのも、奥田民生ならではです」。
こうして1996年10月、資生堂の化粧品ブランド「ティセラ」のCMソングに起用されたPUUFYの2ndシングル「これが私の生きる道」は、発売されます
1996年10月に発売された、PUFFYの2ndシングル「これが私の生きる道」は、セールスチャート最高位1位、約156万万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。また、翌1997年、春の選抜高校野球大会の入場行進曲にも選ばれました。
「話題先行の1stシングルはミリオンセラーを記録し、単なる一発屋で終わることはできない、というプレッシャーの中で生まれたこの曲は、PUFFYの二人が、奥田民生、そして僕らスタッフがデビュー当時目指していた日本のROCK、J-POPのアイドル的存在として認知される、二人の代表曲になったのではないでしょうか」。
最後に、廣瀬さんはこう応えてくれました。
しっかりした音楽戦略と、たっぷりの遊び心が、時代を象徴するJ-POPの名曲を生み出した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Tragedy(白夜のトラジディ)/ハノイ・ロックス
M2.アジアの純真/PUFFY
M3.とくするからだ/PUFFY
M4.これが私の生きる道/PUFFY
131回目の今日お届けしたのは、「森本ケンタ/おしえてダディ」でした
「僕は、小学生の時、ユースオーケストラでバイオリンを弾いていたんです。でも、中学2年になったある日、なぜか突然歌を歌いたくなって、バイオリンを辞め、その代わりにギターを弾くようになったんです。バイオリンを弾きながら歌は歌えないけど、ギターなら弾きながらでも歌が歌えますから」。
クラシックの世界から、ポピュラーミュージックの世界に移ったキッカケについて、森本ケンタさんご本人は、当時をこう振り返ります。
1985年5月、兵庫県神戸市に生まれた森本ケンタは、幼い頃から、竹内まりや、荒井由実、松山千春、そして和田アキ子などの音楽を聴いていた母親の影響で、自然と歌を口ずさむようになります。「バイオリンを弾いていたので、外ではクラシックばかりを聴く生活でしたが、自分の頭の中には、ポップスを歌っている母親の姿が強く印象に残っているんです。僕が、突然歌を歌いたくなったのも、間違いなく母親の影響ですね」。
ギターを弾き、歌を歌うことに夢中になった森本ケンタは、高校進学後に、休みを利用して訪れた広島で、自分の進むべき道を見つけます。
「小学生の時、修学旅行で広島を訪れ、平和記念資料館を見学する機会があったんです。その時は、展示してある資料を見て、子供心に恐怖心を感じたんです。しかし、高校生になって、改めて平和記念資料館を訪れた時、今度は恐怖心ではなく、「大切な家族のために、自分は何ができるんだろうか」という、家族のことを想う気持ちが湧いてきたんです。
その後、色々と考える中で、自分は将来、歌手になって、家族を想う気持ちを歌詞に書き、多くの人達に、自分の想いを、メッセージとして届けることができるようになれば。そう思うようになったんです」
2004年、高校を卒業した森本ケンタは、本格的に歌手としての活動をスタートさせるために、自分が歌手になる決意を固めた地、広島に移り住みます。
「広島に移り住み、より多くの人達に、自分の歌を聴いてもらうために、最初に取り組んだのが、学校ライブでした。学校という場所で、生徒さんや先生、そして親御さんに揃って歌を聴いてもらい、何かを感じてもらいたい。僕の歌を、親子で、そして先生と生徒が一緒に聴くことで、コミュニケーションが生まれるキッカケになってもらえれば。そんな思いで始めたんです」。そして、翌2005年、学校ライブや、イベント出演など少しずつ活動の場が広がりつつあった森本ケンタの下へ、ひとつのチャンスが舞い込みます。
「学校ライブの回数も少しずつ増えて、多くの人達に存在感を知ってもらえるようになってきた9月のある日、フレスタモール「カジル横川」のテナント会のスタッフの方から、「カジル横川」のイベントスペースで、毎月ライブをやってもらえないだろうか」という話を頂いたんです。マンスリーライブを始めた当初は、20人ぐらいしかいなかったお客さんも、ライブを積み重ねるごとに増えていって、それと同時に、ライブを観た人達が、口コミで僕の音楽を、周りの人達に伝えていってくれたんです。僕にとっては、決して、忘れることのできない、音楽活動の原点とも言える場所が生まれたんです」。
こうして、広島で森本ケンタの歌の輪が少しづつ広がる中、2005年10月、森本ケンタは、自身初のシングル「スマイル」をリリースします。
「CDデビューは、あくまで、“歌に、家族を想う気持ちを込めて、多くの人々に届ける”という目標を達成するためのスタートライン」だという森本ケンタ。CDリリース後も、学校ライブを始め、イベントでのライブ活動を積み重ねていき、CDも1年に1枚のペースでリリースしていきます。
そして、昨年、森本ケンタにとって、もうひとつの出会いが巡ってきます。
「フレスタがスーパーマーケットとして第1号店を開業して、今年50周年。来年には、会社設立60周年を迎えることから、“これまで育ててくれた地域の方への恩返しをする”という観点から、社内にプロジェクトチームを立ち上げ、“形あるものを残す”をテーマに、社外向けの記念事業として、愛唱歌を作ることにしたんです。そこで、白羽の矢を立てたのが、森本ケンタさんでした」。歌の制作を企画した、フレスタマーケティング部の西名さんは、こう話します。
「2009年の2月に、社内で、森本さんにライブをしてもらった時、彼がこう言ったんです。「僕の夢は、似島学園の子供達に、お腹いっぱい焼肉を食べさせてあげることです」って。 後で、森本さんから詳しく話を聞くと、彼は、広島に来て間もない頃から、知人を介して知り合った、児童養護施設「似島学園」の子供達と交流を持ち、ボランティア活動を行っていたそうなんですね。そんなことから、常に似島学園の子供達の事を考えている、って言うんです。この言葉に、私を含め、プロジェクトチームのメンバーは共感すると同時に、「彼なら、誰もから愛される歌を作ってもらえるのでは」と思い、曲作りを御願いしたんです」。
2009年8月、「未来の子どもたちへのメッセージ」をテーマに、社内公募で集められた約50通余りの作文をモチーフに、森本ケンタは、曲作りに取り組みます。
「初めは、僕でいいんだろうかという想いもありました。ところが、集められた作文を読んでいく内に、大人達はみんな、子供達の将来(未来)の事を心配しているのが分かったんです。形は違うけど、僕も学校ライブなどを通して、家族や親子のコミュニケーションを図るためのひとつとして、歌にメッセージを込めて歌っています。だったら、僕が、この歌を作って、歌えば、その想いがもっと広がっていくのでは、と考えたんです」
「歌詞には、何もかもが目まぐるしく変わっていく今の時代。昔と違って、今は、父親が、子供達に、物が持っている本当の良さ、空気感、匂いなどを教えてあげるチャンスが少ないと思うんです。子供達も、父親から色々な事を教えてもらう機会が減っています。でも、それじゃいけません。「教えて欲しい」という子供達の願いを感じとって、親は、本物の良さを伝えていかないといけない。その伝えることを通して、親子関係の接点を見つけて欲しい。そんな願いを込めて曲を書きました」。
森本ケンタさんは、こう語ります。
「“真っ白な、君のキャンバス”という歌詞は、子供達の未来は、真っ白なキャンバスと一緒で、父親から色々な本物の良さを教えてもらうことで、色んな色が描かれていくものだということを表しています。クレヨンの使い方、つまり人生、未来の描き方を、父親から教えて欲しいという、子供からの願いも込めています」。
こうして、バックコーラスには一般から選ばれた10名の子供達が参加。地元企業と、地元アーティスト、地域の子供達が共同で作った、シングル「おしえてダディ」は、Bimi Smileブランド初のCDとして、いよいよ4月3日、発売されます。
いよいよ、4月3日発売される、フレスタと森本ケンタ共同プロデュースシングル「おしえてダディ」。
「僕は、この歌が、日本中の親子達の下に届いて、聴いてもらって、親子の共通の話題になってくれればと思っています。
また、多くの学校で子供達に歌ってもらい、学校から育っていくような歌になってもらえればと思っています」。
最後に、森本ケンタさんはこう話してくれました。
「似島学園」の子供たちへの想いが、未来を築く、親子の絆の歌として実を結んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.あの鐘を鳴らすのはあなた/和田アキ子
M2.スマイル/森本ケンタ
M3.おしえてダディ/森本ケンタ
130回目の今日お届けしたのは、「サンボマスター/世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」でした
「俺、新しくバンドを組むから、一緒に組んでロックと心中しないか」。
2000年2月、東洋大学を卒業後、アルバイトをしながらバンド活動を続けていた山口隆は、東洋大学の音楽サークル「作詞作曲研究会JAM」の後輩・木内康史に、こう呼びかけ、ロックンロールとソウル・ミュージックを融合させた新しいバンドを結成。その数日後に、同じサークルの後輩・近藤洋一もメンバーに加わります。
「400勝投手」「泪橋」など、あれこれと思案した結果、3人はバンド名を「サンボマスター」と名乗ることを決め、結成から3カ月後の2000年4月、東京・高円寺のライブハウス「Showboat」で、初ライブを行います。
およそ30人が集まった初ライブを終えたサンボマスターは、6月に東京・渋谷のライブハウス「渋谷ラママ」で自主企画ライブを実施。その後は都内のライブハウスで月に3〜4本のペースでライブ活動を行います。
翌2001年4月、後にスキマスイッチを結成する常田真太郎がエンジニアを担当した、自主制作CD『キックの鬼』を300枚限定で発売。そして、翌5月、サンボマスターは、あるバンドと運命的な出会いを果たします。
「自分達のデモテープを持って、当時大好きだったハードコアパンクバンド「QP-CRAZY」に会いに行ったんです。後日、ライブハウスの関係者を通して、QP-CRAZYから音楽イベントへの出演依頼があり、そのイベントで出会ったのが、パンクロックバンドの「オナニーマシーン」でした」。サンボマスターは、彼らと意気投合、その後、彼らのイベントライブにゲスト出演するようになります。さらに、ソニーレコードから、彼らと一緒にアルバムを作ることを提案されます。こうして2003年7月、サンボマスターはオナニーマシーンと一緒に作ったアルバム『放課後の性春』を発売、同じ月に「FUJI ROCK FESTIVAL’03」にも出演します。そして、ライブでのパフォーマンスを評価されたサンボマスターは、12月に、1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』を発売します。
2003年12月、サンボマスターが発売した1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』。
「アルバム『放課後の性春』を発売した後、表現者の欲求として、自分達のアルバムを出したいという気持ちを抱くようになったんです。ただ、僕らは、サンボマスターとしてのアルバムを発売しても売れないないだろうと思っていたんです。ところが、ソニーの林さんという方が、「君たちはいい音楽をやっているから、フルアルバムを作ってもいいよ」と言ってくれ、軽い気持ちで、アルバムを作ったんです」。メンバーの山口隆は、当時についてバンドのヒストリーを語った本「サンボマスターは世界を変える」の中で、こう答えています。
ソウル、ロックを基調に、山口の熱い想いを込め作ったサンボマスターの1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』は、発売後じわじわとセールスを伸ばし、あわせてライブの動員も増え続け、3カ月で約60本行ったライブツアー後半には、全国各地でソールドアウトが続出。山口の狂気じみた渾身のボーカルと、彼らのソウル魂が炸裂するファンク・サウンドは、たくさんの音楽関係者から絶賛されるようになっていきます。さらに、サンボマスターは2004年に入ると、自分達の音楽活動に加えて、ユニット「コザック前田と泉谷しげる」や、YO-KINGのバックバンドを務めるなど、幅広い音楽活動を展開。7月には、劇団・大人計画を率いる松尾スズキが監督を務めた映画『恋の門』の主題歌に起用された、2ndシングル「月に咲く花のようになるの」を発売します。
2004年7月に、2ndシングル「月に咲く花のようになるの」を発売したサンボマスターは、その勢いで「FUJI ROCK FESTIVAL’04」「ライジングサン」「ROCK IN JAPAN FES」などの野外音楽イベントに相次いで出演。若手ロックバンドとしての地位を、着実に築いていきます。
その後、2005年1月に2ndアルバム『サンボマスターは君に語りかける』を発売したサンボマスターの下へ、その年の夏に、フジテレビ系で放送が予定されていた、連続ドラマへの主題歌提供の話が舞い込みます。
「主題歌提供の話を貰った時、最初は少し抵抗感を感じていました。俺たちはロックンロールをやりたくて仕方ないのに、タイアップ曲になると、短い制限された時間の中で、俺達の音楽を初めて聴いた人の耳も、こっちに振り向かせないといけない。そもそも、ロックンロールは、時間で縛るものではなく、音を聴いた瞬間に、聴いた人達の心の中に、魂がぶわーって押し寄せてくるもんだと思っていたんです」。
「それから、番組内容の特性上、僕らにもオタクのイメージがつくのでは、という心配もありました。しかし、時間が経つにつれて、オタクのイメージがついたって、構わない。そんな事を思っている人たちのために、ロックンロールをやらない方が、ロックじゃない。そんな葛藤を持ちながら、曲を作っていったんです」。
「僕らは、一発録りが基本なんです。3ピースバンドでやっている以上、3人で一緒に音を出した方が分かりやすいし、一番いい形で出せる。レコーディングする時、10回演奏したら10回興奮が起きるぐらいに、ライブにいつ出してもおかしくないぐらいやらないと、やりたくないんです。レコーディングもライブと同じ感覚ですね。歌詞は、スタジオでみんなで演奏している時に、ワーッと出てくる言葉を歌詞に書いていきます。文章として成立していない部分も多いけど、自然と口に出てきた言葉をそのまま歌詞にしているケースがほとんどです」。
こうして、2005年7月にスタートした、フジテレビ系ドラマ「電車男」の主題歌に起用された、サンボマスター5枚目のシングル「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、8月に発売されます。
2005年8月にリリースされた、サンボマスター5枚目のシングル「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」は、セールスチャート最高位7位、約半年近くに渡ってセールスチャートにランクインし続けます。
「この曲は、自分としてはやらなくちゃいけない曲だと思って作ったんです。自分のテーマでもある“日本語ロック”と、番組作品の特性から「山口くんもオタクなの」と思われるかもしれなかったけど、ロックンロールとして差別をしたくなかった。たとえ秋葉原で寝っ転がってでも、コミュニケーションとしてのロックンロールをやろうと思って作ったんです」。
曲を作った、山口隆はこの曲に関して、後のインタビューでこう応えています。
葛藤の中から、自分達の音楽を表現することを貫いた、日本のロックの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.20th Century Boy/T.REX
M2.そのぬくもりに用がある/サンボマスター
M3.月に咲く花のようになるの/サンボマスター
M4.世界はそれを愛と呼ぶんだぜ/サンボマスター
129回目の今日お届けしたのは、「アンジェラ・アキ/手紙〜拝啓 十五の君へ〜」でした
「彼女の歌声を、初めて聴いたのは2004年でした。関係者が送ってきた、1本のデモテープを聴いて、僕はまず、彼女の歌声に惚れたんです。その直後、東京・南青山のライブハウス「マンダラ」へ彼女のライブを観に行ったんですが、ピアノの弾き語りで優しく歌う彼女からは、何とも言えない必死さが感じられました」
アンジェラ・アキとの出会いについて、担当ディレクターを務める比留間さんはこう振り返ります。
1977年9月、日本人の父親とイタリア系アメリカ人の母親との間に、生まれたアンジェラ・アキは、小学校までを徳島で過ごし、中学時代は岡山、高校からはハワイ、大学はアメリカ・ワシントンにあるジョージ・ワシントン大学へ進学します。
1997年、アンジェラ・アキは、サラ・マクラクランの学園祭ライブを観たことをキッカケに、自らもシンガーソングライターとしての道を歩むことを決意。アルバイトの傍らで、ジャズピアノを学び、クラブやライブハウスに出演しながら、デモテープを作っていきます。
2001年、アンジェラ・アキが作った曲が、日本の音楽関係者の耳に留まり、彼女の曲はヤクルトのCMソングに起用されます。それを機会に、彼女は日本で本格的に音楽活動を行うために、帰国するのでした。
「彼女の歌声、そして必死に“伝えよう”とする才能。この2点に魅力を感じた僕は、彼女と、音楽についてはもちろん、音楽以外の事についても色々と話をしました。話を重ねる毎に、彼女に感じた魅力の理由が少しづつ分かっていきました。
およそ10年近くに渡る下積み生活、日本人とアメリカ人の両親の下に生まれた彼女にしか分からない疎外感、葛藤など、彼女自身が持っていた何とも言い難い渇望を、彼女は歌に変えて表現していたんです。リアリティ溢れる歌詞は、聴く人への共感を呼び、それがファン層の拡大へと繋がっていったんです」。
こうして、2005年3月、アンジェラ・アキはミニアルバム『ONE』でデビュー。9月に、1stシングル「HOME」をリリースします。
2005年9月、アンジェラ・アキが発売した1stシングル「HOME」。
「アンジェラ・アキの1stシングル「HOME」は、徳島、岡山、ハワイ、ワシントン、そして東京と、様々な土地で生活し、色んな人達と出会い、経験を積んできた彼女を、無条件で愛してくれた家族や、彼女自身が愛した大切な人達を思って作った曲なんです。
インストアライブで彼女がこの曲を歌い始めると、自然と人が集まって、曲を聴き終わった後には、集まった人達が次々とCDを買っていく。発売日前後の1カ月に、全国約30ヵ所でインストライブを行ったんですが、およそ3,000枚近くが、その場で売れました。歌に込められた、彼女のメッセージが、聴く人の心にダイレクトに伝わったんでしょうね」。
比留間さんは、当時をこう振り返ります。
翌2006年3月、アンジェラ・アキ3枚目のシングル「Kiss Me Good-Bye」は、ゲームソフト『ファイナルファンタジーⅫ』の挿入歌に起用され、音楽ファン以外にも、その名が知られるようになります。さらに、6月に1stアルバム『HOME』を発売。アルバム『HOME』は、セールスチャート最高位2位、約60万枚の売上を記録し、発売から1年以上もチャートにランクインし続けるロングセラーアルバムとなります。
そしてアンジェラ・アキは、12月に、デビュー前からの念願だった、ひとつの夢を実現します。
「彼女が、デビューした時に決めた最大の目標は、日本武道館で単独の弾き語りライブを実現することでした。それは、彼女が、帰国して間もない2003年9月、日本武道館で椎名林檎さんのライブを観て、「自分も絶対ここでライブをやる」と心に誓ったことでした。日本のアーティストにとって、憧れのライブ会場、日本武道館でライブを行い、多くの人に自分の歌を届ける。CDの売上よりも、お客さんの顔が直接見えるライブ会場で、歌を届けたい。それだけを願ってきた彼女にとって、日本武道館でのライブは次への大きなステップになりました」。
日本武道館史上初となる、ピアノ弾き語りライブを成功させたアンジェラ・アキは、続けて大晦日に行われたNHK紅白歌合戦にも初出場します。さらに翌2007年に入っても、精力的に楽曲制作やライブを続けていたアンジェラ・アキの下へ、楽曲提供の依頼が舞い込みます。
「その依頼は、それまで森山直太朗や、ゴスペラーズといった人達も作ってきた、NHK全国学校音楽コンクールの、2008年度中学生の部の課題曲を作って欲しい、という内容でした。1stシングル「HOME」以降ずっと、自分の実体験をテーマに、自分が歌う曲だけを作ってきたアンジェラ・アキにとって、他の人が歌う曲を作るのは初めての経験で、おまけに歌うのは中学生。どう作るべきなのか、彼女は迷いながらも、チャレンジすることを決めたんです」。
「NHKからは、“そして未来へ”というテーマに添って、曲を作ることを要望されました。しかし、アンジェラ・アキは、そのテーマは、中学生にとっては壮大過ぎると感じていて、「一体どんな曲にしたらいいんだろう」と、迷っていました。そんなときに彼女は30歳の誕生日を迎えたんです。その彼女へ、母親からの一通の封筒が届きます。中に入っていたのは、15歳のアンジェラ・アキが、「30歳の自分へ」宛てた手紙でした。彼女の母親が、大切に保管し、アンジェラ・アキ30歳の誕生日に合わせて送ってくれたんです。この運命的とも言える出来事に、アンジェラ・アキは驚くと同時に、15歳の自分が書いた手紙を何度も読み返し、その内容をヒントに歌詞を書き、曲を作っていったんです」。
15歳のアンジェラ・アキが感じていた、不安な日々を書いた手紙を読んだ30歳のアンジェラ・アキは、不安や心配をずっと持ち続けるのではなく、「その不安を自分が素直に受け入れることで、何事も一歩前へ進んでいく」というメッセージに置き換え、歌詞を書いていきます。
こうして、アンジェラ・アキ8枚目のシングル「手紙〜拝啓 十五の君へ〜」は、2008年9月に発売されます。
2008年9月に発売された、アンジェラ・アキの8枚目のシングル「手紙〜拝啓 十五の君へ〜」は、セールスチャート初登場3位を記録、半年以上もセールスチャートにランクインし続けます。
「彼女自身、常々「この曲はみんなが育てた曲です」と言っています。学校音楽コンクールの課題曲として生まれた曲が、全国の中学生はもちろん、NHK『みんなのうた』でも流れ、さらにはTVのCMソングや、阪神淡路大震災の慰霊祭でも歌われ、幅広い世代の多くの人々によって歌い継がれてきました。この曲を聴き、歌った人達が、また別の場所で歌い、その輪が草の根のようにどんどんと拡がっていく。彼女自身の力もありますが、多くの人達が歌って育ててきてくれたから、曲がここまで成長してきたんでしょう」。
最後に、担当ディレクターの比留間さんは、こう答えてくれました。
一人一人に歌い継がれていくことで、一つ一つ成長し続けてきた
J-POPのスタンダード・ナンバーが誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.エンジェル/サラ・マクラクラン
M2.HOME/アンジェラ・アキ
M3.手紙〜拝啓 十五の君へ〜/アンジェラ・アキ
128回目の今日お届けしたのは、「mihimaru GT/気分上々↑↑」でした
「ライブ会場に来ていた彼女に「可愛いよね。歌を歌うことに興味はない?」と声を掛けたのが始まりでした。今から8年前の2002年、彼女がまだ17歳のときでした。私の誘いに、初めは戸惑っていましたが、ゆっくり話をすると、彼女は、もともと歌手志望で、色んなオーディションに応募はしていたけど、落ちてばかりで、歌手になる夢を半ば諦めかけていたって言うんです。結局、最後のチャンスだと思って、一緒にチャレンジしようということになりました」。
ボーカルのhirokoこと、阿久津博子との出会いについて、マネージャーの土子さんはこう振り返ります。
翌2003年1月、それまで作家としてSMAPやBOAなどに曲を提供していたmiyakeこと三宅光幸が、hirokoが所属する事務所に送った1本のデモテープが、今度は二人の運命を結びつけます。
「miyakeが送ってきた、ラップの曲が入ったデモテープの完成度が高かったので、仮歌を作ってhirokoに歌わせてみたんです。これがイイんですね。それで、miyakeと会いました。姿格好は今ドキの男の子だけど、音楽に対する考え方は真っ直ぐで、ひたむきなのが話をしていて伝わってきました。hirokoも、miyakeが作った歌に魅かれていましたし、miyakeもhirokoが歌う姿に惚れ込み、次々と曲を作ってきたんです。お互いに魅かれ合っていくのが分かったので、正式にユニットを結成することにしました」。
当時、BENNIE Kや、キックザカンクルーと言った、日本のHIP HOPアーティストに夢中になっていたhirokoと、洋楽のHIP HOPの虜になっていたmiyakeの二人は、こうして、ユニット「ミヒマルGT」を結成。
東京・渋谷のクラブ「渋谷ROCK WEST」を中心に、都内のクラブやストリートでライブを積み重ね、2003年6月にインディーズからアナログ盤アルバム『mihimaruGT』を発売します。
このアルバム『mihimaruGT』を、偶然TV局のスタッフが耳にした事がキッカケで、ミヒマルGTは、ユニバーサルミュージックとメジャー契約を結び、2003年7月に、シングル「約束」でメジャーデビューするのでした。
2003年5月、シングル「約束」でデビューしたミヒマルGT。
「hirokoとmiyakeの二人が、メジャーデビューするにあたって目指したのは、“HIP POP”、つまりHIP HOPとJ-POPをミックスした、ミヒマルGTならではのオリジナル音楽を完成させることでした。HIP HOP音楽に、POPSのキャッチーなメロディの要素をプラス。歌詞は、世代、性別を超え、誰もが気軽に口ずさめる親しみやすさを重視して書く。一見、簡単そうですけど、なかなかできるものではありません。二人はいつも、お互いに意見を出し合いながら、時間をかけて曲を作っていました」。
「それから、曲を主に作っているmiyakeが、いつも大切にしていたのは、「ミヒマルGTの曲を聴いた人達の欲情を、いつもそそるような曲を作りたい」という事でした。曲の、どの部分で盛り上げたり、逆にテンションを落としたりするのか。いわゆる、起承転結を、どう付けていくのが、その曲にとってベストなのか、そんなこだわりを持って作っていました」。
土子さんは、miyakeの曲作りに関して、こう教えてくれました。
hirokoとmiyakeが議論を積み重ねながら作った、ミヒマルGTの1stシングル「約束」は、二人の創作熱意も思うようには届かず、セールチャートは最高位156位という結果に終わり、自分達の音楽が正しいのか、正しくないのか、二人は悩むようになります。
「1stシングルでいきなり結果を求めるのは、二人にとっては酷な話でした。スタッフも、二人を励ましましたんですが、
しばらくの間、二人は「自分達が掲げた“HIP POP”とは、一体どんな音楽なんだろうか。演奏する自分達自身がちゃんと分かっていないといけないのに、巧く表現することができない」と悩んでいて、試行錯誤しながら曲を作っていました」。
こうして1stシングル「約束」の発売から、およそ9ヵ月が経った翌2004年4月、hirokoとmiyakeの二人が悩み抜いて作った、2ndシングル「帰ろう歌」は発売されます。
デビューシングルからおよそ9ヵ月ぶりに発売されたミヒマルGTの2ndシングル「帰ろう歌」。
事務所とレコード会社は、クラシックの名曲「ボレロ」をサンプリングし、帰り道をテーマに歌詞を書いたこの曲を、学校の校内放送で流してもらおうという、「下校ソング普及キャンペーン」を展開。広島エフエムを始め、全国のラジオ局を通じて呼びかけたこのキャンペーンは、スタッフの想像以上の結果を残すことになります。
「曲の冒頭に、応募のあった学校の名前をそれぞれ収録し、そのサンプルCDを配るという企画内容でした。
企画を立てた当初は、「全国で200校も集まればいいよね」とメンバー、スタッフの間で話をしていたんですが、反響は予想以上、なんと全国から1000校を超える応募があったんです。最終的に、hirokoとmiyakeの二人は、応募のあった学校全ての名前を吹き込んだサンプルCDを作って、配布しました。サンプルCDを延々と作る作業は大変でしたけど、ミヒマルGTの名前を、全国の人達に知ってもらえる、大きなキッカケになりました」。
そんな中、2006年に入って間もなく、ボーカルのhirokoの下へ、TV-CMのモデルとしての出演オファーが届きます。合わせてそのCMソングをミヒマルGTが歌うことになりました。
「miyakeが先に作ったキャッチーなメロディに、どう歌詞を乗せるのか。二人は、何度も議論を重ね、この曲に関しては、それまでの曲とは違って、音に合わせて誰もが気持ち良くなるような、ノリで楽しめる歌詞を書いていこう、という結論になったんです。2ndシングル「帰ろう歌」以降、リリースした曲にTV番組やCMのタイアップが付いたんですが、今一つ上昇気流には乗れず、セールスチャートは、最高位が16位止まりでした。だからこそ、二人は「今度こそ、TOP10に入る曲を作ろう」という強い思いで曲を作ったんです」。
「その中で生まれたのが、語呂合わせで歌詞を書くことでした。それまでの曲は、どの曲もそれぞれテーマを作って、それに沿った形で歌詞を書いていましたけど、この曲に限っては、アッパーな曲の雰囲気を大切にし、敢えてテーマを作らず、曲を聴いた誰もが歌える、単純な歌詞を書いていったんです」。
こうして、hirokoとmiyakeも一緒に出演した「ダリヤ」ヘアカラー「パルティ」のTV-CMソング、ミヒマルGT9枚目のシングル「気分上々↑↑」は、2006年5月に発売されます
2006年5月に発売された、ミヒマルGTの9枚目のシングル「気分上々↑↑」は、セールスチャート最高位7位を記録し、その後もおよそ半年に渡ってチャートにランクインし続けます。
「CM効果や、サッカーワールドカップの日本代表応援歌にも使ってもらうなど、この曲は色んな形で多くの人達に受け入れてもらうことができ、念願のセールスチャートTOP10入りも果たすことができました。ミヒマルGTが目指す“HIP POP”がこれで完成したとは思いませんが、二人が進むべき音楽の方向性が少し見えたような気がします」。
最後に、マネージャーの土子さんは、こう答えてくれました。
二人が目指す“HIP POP”への想いが、一つ実った、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Better Days/BENNIE K
M2.約束/mihimaru GT
M3.帰ろう歌/mihimaru GT
M4.気分上々↑↑/mihimaru GT
127回目の今日お届けしたのは、「YUKI/JOY」でした
「彼女と初めて出会ったのは、確か1992年でした。当時僕は、新人を発掘するSDオーディションのスタッフで、JUDY AND MARYのライブを観る機会があったんです。エネルギッシュなJUDY AND MARYのライブは、強く印象に残りました。翌年に、僕はTVの音楽番組「VIDEO JAM」の収録スタジオで、デビュー直前のJUDY AND MARYに再会したんですが、初めて会った時と変わらないエネルギッシュさに加え、聴く人に強く伝わる力を持った彼女のボーカルに、改めて魅力を感じました」
後に、JUDY AND MARY、そしてYUKIの担当プロデューサーを務めた玉田さんは、こう振り返ります。
1992年2月、北海道で、短大に通いながらレベッカのコピーバンドのボーカルとして活躍していたYUKIと、ヘビーメタルバンド「JACKS’N’ JOCKER」のメンバーとして既にデビューしていた恩田快人の二人を中心に、バンド「JUDY AND MARY」は結成されます。その後、JUDY AND MARYは、ドラマーの五十嵐公太、ギターのTAKUYAの二人を加え、4人組バンドとして、1993年9月に、シングル「POWER OF LOVE」でデビューします。
キャッチーなメロディ、個性溢れるYUKIのボーカル。JUDY AND MARYは、1994年12月に発売した2ndアルバム『Orange Sunshine』が、セールスチャート初登場5位を記録し、一気にブレイク。さらに、1996年2月に発売したシングル「そばかす」が100万枚を超える売上を記録し、人気バンドへと成長していきます。
「JUDY AND MARYのデビュー後、しばらくして僕はエピックレコードへ異動し、1995年からJUDY AND MARYの制作チームに加わったんです。当時のYUKIは、JUDY AND MARYの曲の歌詞を書いていましたけど、あくまでバンドのボーカル、そしてバンドの広報的な役割が中心で、その役割をきっちりと果たそうとしていました」。
玉田さんは、当時についてこう振り返ります。
その後も、順調に活動を続けていたJUDY AND MARYでしたが、1999年に1年間、バンドとしての活動を休止。
YUKIは、活動休止期間中に、アメリカのロックバンド「B-52’s」のメンバーとバンド「NiNa」を結成。さらには、charaとのユニット「chara+yuki」を結成するなど、精力的に活動します。
2000年、JUDY AND MARYは活動を一度は再開しますが、翌2001年3月に、解散を発表。
YUKIは、その年秋に、charaや、ちわきまゆみらと結成したガールズロックバンド「Mean Machine」のシングルとアルバムの発売と並行して、ソロデビューの準備にも取り掛かり、2002年2月に、シングル「the end of shite」でソロデビューします。
2002年2月、シングル「the end of shite」でソロデビューを果たしたYUKI。
「ソロデビューしたYUKIの中で大きく変わったのは、責任感です。歌詞を書くことはもちろん、音楽の方向性、ビジュアルの見せ方など、JUDY AND MARY時代は1/4の責任でよかったけど、ソロになると全部の責任を背負わなくちゃいけない。当然の事なんですが、責任感が強くなっていくことで、彼女が書く歌詞にも微妙な変化が生まれました」。
「具体的には、JUDY AND MARY時代よりも、YUKIの内面的な部分がより歌詞に描かれるようになりました。ヒットチャートを意識した曲を作って、歌詞を書くことよりも、まずは、どう自分が楽しめるのか、この点にポイントを置いてメロディを作っていました。また、彼女が感じた事をどう言葉にするのか。歌詞作りにも、彼女は常に変化を求めて、挑戦していました。レコーディング中でも、納得いかない歌詞があると、スタジオの中で歌詞を直すことも度々あったんです」。
玉田さんは、当時についてこう振り返ります。
2002年2月に、ソロデビューを果たしたYUKIは、その年だけでもシングル4枚、アルバム1枚を発売し、精力的に活動していきます。その中でも特に、11月に発売した4枚目のシングル「スタンドアップ!シスター」は、その後のYUKIの方向性を象徴する曲として、多くの女性から共感を集めることになります。
2002年11月に発売した、YUKIの4枚目のシングル「スタンドアップ!シスター」は、優しくも強く生きる一人の女性の生き様を書いた曲として、多くの女性から共感を集めます。
「この曲は、YUKIが自らを奮い立たせる意味を込めて作った曲でもあるんです。彼女自身、一人の女性として感じた、恋愛、女性の自立などの生き様を、世間と対峙する形で書いていました。女性ソロボーカリストとしてのポジショニングを、この曲で確立させようとしていたんです」。
翌2003年、YUKIは僅か2ヵ月間に2枚のシングルとアルバムを1枚発売しますが、出産のために一時活動を休止。翌2004年8月に、シングル「Home Sweet Home」でおよそ1年半ぶりに活動を再開します。
「2003年にアルバム『commune』を発売した直後に、すでに骨格を作っていた曲が1曲あったんですが、もともとこの曲は、タイアップ曲になる予定でデモテープを作ったものだったんです。ところが、曲とタイアップテーマが合わず、タイアップの話が見送りになったんです。
ただ、曲の完成度は高く、力強いエネルギーも感じていたので、「この曲は絶対に売れる」と、みんな確信していたんです」。「その確信の根拠は、YUKIが書いた歌詞でした。どんな困難に出会っても、素直に強く生きていこうとする女性の姿を描いた歌詞は、まるで人生論でした。この強いメッセージは、女性からの共感を得ることができる、そう思ったんです。
だから、この曲を発売するなら、ノンタイアップでも構わない。アルバムを発売する時に、YUKIを象徴する曲として売り出そう、という話になったんです」。
プロデューサーを務めた、玉田さんは、当時をこう振り返ります。
こうして、曲の完成から、1年近くも経った2005年1月に、9枚目のシングル「JOY」は、満を持して発売されます。
2005年1月に発売された、9枚目のシングル「JOY」。
「彼女は、JUDY AND MARY時代からずっと、どの曲も、その時彼女が持っている100%の力で、妥協せずに歌詞を書いてきました。この曲も、同じです。しかし、この曲が他の曲と違っていたのは、曲のタイトル「JOY」が表す、「喜び、幸運、成功」というポジティブなイメージと、女性の人生模様を書いた歌詞の内容がシンクロして、聴く人へ、メッセージとして巧く伝わったという点です。その結果、曲を聴いた多くの人たちが、YUKIによりいっそうの共感を覚え、彼女を代表する曲として認知させることになったんです」。
最後に、プロデューサーを務めた玉田さんは、こう答えてくれました。
個性的かつポップなソロアーティスト・YUKIの存在感を決定付けた、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.そばかす/JUDY AND MARY
M2.the end of shite/YUKI
M3.スタンドアップ!シスター/YUKI
M4.JOY/YUKI
126回目の今日お届けしたのは、「中 孝介/花」でした
「高校1年の時、彼は、奄美大島で開かれたクラシックコンサートで、当時、シマ唄歌手として活躍していた、元ちとせさんが歌うシマ唄を聴いて、「自分もあの唄を、口ずさめるようになりたい」と思ったそうです。それで、すぐに彼は、奄美大島在住のシマ唄の名人・坪山豊さんに弟子入りしたんです」。
レコード会社のスタッフの町原さんは、中孝介とシマ唄との出会いについてこう教えてくれました。
1980年7月、鹿児島県奄美大島 名瀬市(現在の奄美市)に生まれた中孝介は、幼い頃から姉の影響でピアノを習い始めます。その後も、中は、高校入学直後までピアノを習い続けますが、彼の心の中に漠然と芽生え始めた「人に唄を届けたい」と言う想いを叶えるために、ピアノを習うことをやめます。そして、その直後、元ちとせが歌うシマ唄の魅力に取りつかれた中は、シマ唄の名人・坪山豊さんに弟子入りし、三線を習ったり、シマ唄のカセットやCDを聴いたりして、シマ唄を自分の物にしていきます。
1998年5月、奄美大島で行われた「奄美民謡大賞」に出場した中は、努力賞を受賞。さらに、2000年に行われた「奄美民謡大賞」では、新人賞を受賞します。また、同じ2000年に行われた、「日本民謡協会」奄美連合大会では、総合優勝を飾り、中孝介の名前は、奄美大島の中で、新しいシマ唄の伝承者として知られる存在となっていきます。
その後も、シマ唄歌手として奄美大島を中心に活躍していた中孝介でしたが、今度は、「シマ唄だけじゃなく、ポップスも歌ってみたい」という気持ちが芽生え始め、シマ唄を習うことで培ってきた歌い方をポップスに取り入れた、ミニアルバムを作ります。
「シマ唄を歌い続ける中で、中は、一人のボーカリストとして、自分にしか出せないような音楽をやりたいという夢を持つようになったんです。そして、色々と考えていく中で、辿り着いたのが、ポップスでした。シマ唄を習うことで覚えた、コブシの回し方や、ビブラートのかけ方。特にコブシは、一歩間違えば演歌っぽくも聴こえる。どうすれば、その点をクリアにして、自分の持っている声を巧く活かしたアルバムが作れるのか、ずっと考えながら作っていったそうです」。
こうして2005年9月、中孝介が作った、ミニアルバム『マテリヤ』は、インディーズから発売されます
2005年9月、中孝介がインディーズから発売したミニアルバム『マテリヤ』は、全国で約7000枚のセールスを記録。
その歌唱力を認められた中孝介は、エピックレコードと契約します。
「中孝介は、どんなタイプな曲でも、まず自分の心に響く歌でないと歌えないんです。ようするにガンコというか、融通が利かないんですね。でも、ミニアルバム『マテリヤ』に収められていた楽曲「家路」を作った、シンガーソングライター江崎とし子さんの作った曲は、当時、鬼束ちひろや、中島美嘉のコーラスを担当しながら曲を作っていたこともあって、日本語をとても大事に作っていて、中自身、彼女が作った曲を気に入っていたんです。だから、「家路」と、ほぼ同じ時期に江崎さんが作っていた別の曲を聴いた時、中は、その曲に一目惚れし、「この曲を、絶対にデビュー曲にする」と決めていたんです」。レコード会社のスタッフ、町原さんは当時について、こう振り返ります。
ミニアルバム『マテリヤ』の成功で、いよいよメジャーデビューすることになった彼には、ひとつの思いがありました。
「彼にとってシマ唄は、かけがえの無い、とても大切な存在です。デビューするまで、彼が、ずっとシマ唄を歌い続けてきた理由は、彼が生まれ育った奄美大島で、長い年月をかけて育まれてきた素晴らしい音楽「シマ唄」を、これからもずっと伝えていきたい、という想いがあったからなんです。そして、そのシマ唄を大切に思う気持ちがあるからこそ、変にシマ唄を作り変えて、発信するようなことはしたくない。せっかく東京に出て、新しい音楽をやるなら、自分の声を活かした新しい歌にチャレンジしたい。彼はそう考えていました」。
こうして、中孝介は、江崎とし子さんが作った曲「それぞれに」で、2007年3月にデビューします。
2006年3月に発売した、中孝介の1stシングル「それぞれに」は、九州全県を含む、全国23局のラジオ局で、パワープレイを獲得。独特の優しい歌声で、中孝介の存在は、じわりじわりと全国に浸透していきます。
その後も、中は、6月に2ndシングル、10月にミニアルバムを発売します。さらに、11月には、日本よりも先行して台湾、香港、中国大陸でフルアルバムを発売し、なんと、台湾の音楽チャートで最高位1位を獲得。日本より一足先に、彼の人気は台湾でブレイクします。
そんな中、中孝介は、翌2007年春に発売を予定していた3枚目のシングルの楽曲制作を、森山直太朗に依頼しま
す。
「もともと中自身、デビュー前から森山直太朗さんの歌が大好きで、よく聴いていたんです。その事を知ったスタッフが、森山さんなら、優しいメロディ、そして聴く人の心に刺さる歌詞をきっと作ってくれるだろう、と考え、ダメもとで、楽曲作りをお願いしたんです」。
「すると、森山さんは意外にもスンナリOKしてくれて、直ぐに二人は直接会うことになったんです。中は、森山さんと会った時に、「自分は、奄美大島出身で、“奄美のシマ唄”という音楽を歌ってきたこと。そして今は、シマ唄ではなく、ポップスを歌っているけど、聴いている人達に、人の心の琴線に触れる歌を歌っていきたい、と伝えたんです」。
二人が、直接会ってから数日後、森山直太朗は、アコースティックギター1本で歌った、1本のデモテープを中の下に届けます。「デモテープに入っていた曲は、シンプルで優しい曲調でしたが、曲からは強さを感じることができたんです。中自身、曲を聴いた瞬間に、頭の中に自然と情景が浮かび、「これは絶対に歌いたい!」と思ったそうです。また、彼の頭の中には、曲の世界観と、彼の故郷奄美の風景がオーバーラップし、「自分は、自分らしくこの曲を歌えばいいんだ」と思ったそうです」。町原さんは、この曲ができあがってきた時のことについて、こう振り返ります。
中孝介は、森山直太朗が作った曲を自分自身のモノにするために、一度メロディを覚えた後、今度は、自分なりの解釈を曲に加ええていきます。まずは、彼の原点であるシマ唄。そのシマ歌を歌うことで身につけた、独特のコブシの回し方を。そして、デビュー曲「それぞれに」以来大切にしている、ひとつひとつの言葉のニュアンスを伝えるための歌い方。さらには声に出した時の言葉の発し方を、それぞれ、ひとつづつ、丁寧に意識して歌い込んでいきます。
こうして、森山直太朗の盟友・御徒町凧が詞を作り、森山直太朗がメロディを書いた曲「花」は、2006年11月に行われた中孝介初のワンマンライブで披露された後、翌2007年4月に3rdシングルとして発売されます。
2007年4月に発売された、中孝介3枚目のシングル「花」は、セールスチャート初登場19位を記録、さらに半年以上もセールスチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「この曲が、ロングヒット曲となった理由は、歌に込められた「優しさの中にある強さ」だと思っています。また、曲を聴く人の心境や状況によって、色々な受け取り方もされる。この曲を聴いたそれぞれの人が、それぞれの心の中でそれぞれの花を咲かせたんだと思います」。
最後に、レコード会社のスタッフの町原さんは、こう答えてくれました。
自分にしか歌えない、新しい歌を歌いたいと思い、奄美を離れたシマ唄の歌い手が
ひとつの答えに辿り着いた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ワダツミの木/元ちとせ
M2.家路/中 孝介
M3.それぞれに/中 孝介
M4.花/中 孝介
125回目の今日お届けしたのは、「Aqua Timez/虹」でした
「2000年のある日。別のバンドを組んでいた太志が、インターネット上のバンドメンバー募集サイトに、ベースの募集告知を出したんです。その募集告知を見つけた僕はすぐに応募し、池袋で、太志と初めて会ったんです」。
Aqua TimezのメンバーでベースのOKP-STARは、太志との出会いについてこう振り返ります。
2000年、インターネットのバンドメンバー募集サイトで知り合ったボーカルの太志と、ベースのOKP-STARの二人は、すぐに、意気投合。太志はそれまで在籍していたバンドを解散し、OKP-STARと一緒に音楽活動を始めます。
2003年、太志とOKP-STARは、OKP-STARの友人で、キーボードのmayuko、ギターの大介をメンバーに加えて、バンド「Aqua Timez」を結成し、東京都内のライブハウスを中心に活動を始めていきます。
「僕はMr.Children、OKP-STARはチェッカーズ、大介はhideと言った感じで、メンバーが影響を受けた音楽は5人ともバラバラなんです。だからこそ、Aqua Timezは、特定のジャンルにこだわって音楽を作るのではなく、自分達の音楽を聴いてくれる人達が「いい音楽だね」と言ってくれるような曲を作り続けていこう、と決めて活動を始めたんです」。
Aqua Timezのメンバーの太志は、バンドを結成した時についてこう振り返ります。
2004年、Aqua Timezは、新星堂主催のバンドコンテスト「CHANCE!」関東大会で、前年に続き2年連続で最優秀賞を受賞します。さらに自主制作アルバム『悲しみの果てに灯る光』を完成させたAqua Timezは、吉祥寺、渋谷、大宮、柏など都内近郊で路上ライブを繰り返し行い、少しずつ彼らのファンを増やしていきます。
その後、自主制作シングル「いつもいっしょ」を発売したAqua Timezは、吉祥寺のCDショップ「吉祥寺DISK INN」で、マンスリーインストアライブをスタート。翌2005年8月には、インディーズからミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』を発売します。このミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』に収められた曲「等身大のラブソング」は、ポップでキャッチーなメロディと、飾り気のない言葉で綴った歌詞に、多くの若者からの共感を集め、全国のUSENやFMラジオ局にリクエストが殺到することになるのでした。
発売当初は、僅か200枚しか作っていなかったAqua Timezのミニアルバム『空いっぱいに奏でる祈り』は、「等身大のラブソング」の評判が広がっていくとともに、アルバムの売上も急上昇、発売から半年後には、セールスチャート1位を獲得すると同時に、最終的には80万枚の売上を記録するロングヒットアルバムとなります。
「「等身大のラブソング」が、USENチャートで7週連続1位を獲得した」、という話をスタッフから聞いて、自分達が想像していた以上に、ファンの人達にAqua Timezの曲を受け入れてもらえたことが、不思議な感覚でした」。
メンバーの大介は、当時についてこう振り返ります。
そして2006年、Aqua Timezはエピックレコードと契約、4月にミニアルバム『七色の落書き』でメジャーデビューします。
「インディーズから発売したアルバムが売れて、その結果、エピックレコードと契約することができました。たくさんの人達に支持をしてもらえたことは、素直に嬉しく思いました。と同時に、自分達はまだまだ活動が短いバンドなので、色んな事にどんどんチャレンジしていきたい、と思っていました」。
メンバーの大介は、当時についてこう振り返ります。
2006年7月、Aqua Timezはアニメ映画『ブレイブ ストーリー』の主題歌として起用された1stシングル「決意の朝に」を発売。シングル「決意の朝に」は、セールスチャート最高位4位を記録すると同時に、音楽配信でも120万ダウンロードを記録するヒット曲となります。7月には、ドラマーのTASSHIが加入し5人組となったAqua Timezは、11月に2ndシングル「千の夜をこえて」とアルバム『風をあつめて』を発売。さらに、12月には、NHK紅白歌合戦に初出場を果たすのでした。
2007年11月、Aqua Timezは、ポップ、ロック、レゲエ、HIPHOPなど、さまざまなジャンルの音楽をAqua Timez流にアレンジした『ダレカの地上絵』を発売。セールスチャート発登場2位を記録します。
自分達の音楽に自信を深めたAqua Timezは、翌2008年に入って、春に発売を予定していた次のシングルの制作に取り掛かります。
「2007年にシングル、アルバムを続けて発売し、ライブも積み重ねてきたことで、自分達の音楽に自信がついてきたと同時に、創作に対する貪欲さも湧いてきたんです」。
「この曲の元々の原点は、ライブにありました。それまで、ライブで「ここで一緒に盛り上がろう」という曲はあったけど、曲の転調が目まぐるしいものが多くて、実際にライブを観に来てくれた人達が戸惑っているなぁ、と感じる部分があったんです。そこで、初めて曲を聴いた人でも、すぐに盛り上がれる「みんなが一緒になって歌える曲を作ろう」、という発想から新たな曲作りが始まったんです」。
メンバーのTASSHIは、この曲を作り始めたキッカケについてこう語ってくれました。
また、Aqua Timezの曲の大半を手掛ける太志は、この曲を作る時のことについて、こう振り返ります。
「曲を作る時に大切しているのは言葉です。メロディはもちろんですが、作詞には、毎回かなりの時間をかけています。せっかく大切に作ったメロディも、言葉を大事にしないと、全て台無しになってしまうので、いつも丁寧に言葉を紡ぐことを心掛けています。この曲も、まず初めに「大丈夫だよ」という言葉が、頭の中に浮かんで、そこから歌詞を書いていく中で、“晴れた空の下”以外のイメージを外し、書いていきました。敢えて、自分のイメージする世界を狭くすることで、自分の中にある歌詞の世界がはっきりと広がっていくような気がしたんです。悲しみと喜び、期待と不安など、日々生きていく中でのさまざまな感情や想い。そして、そこから生まれてくる、絆を大きなテーマに書いたんです」。
また、メロディについては、メンバーのTASSHIはこう語ります。
「最初、太志がサビのメロディを作ってきて、バンドのみんなが色々なアレンジに挑戦したんです。めちゃめちゃヘビーなパターンにもチャレンジしてみたけど、結局は、バンドにとって初めてとなる4つ打ちのビートに落ち着きました。でも結果的にこの4つ打ちのビートが、生演奏のグルーブ感と上手く融合して、聴く人の耳に気持ち良く伝わっていくメロディになったんです」。
こうして作られた、Aqua Timezの6枚目のシングル「虹」は、日本テレビ系ドラマ『ごくせん』の主題歌にも起用され、2008年5月に発売されます。
2008年5月に発売された、Aqua Timez6枚目のシングル「虹」は、セールスチャート最高位2位を記録。さらに、音楽配信で、初日だけで5万ダウンロード、その後も記録的なダウンロード数を数え、わずか5日間で30万ダウンロードを突破し、ソニーミュージックエンタテイメントの記録を塗り替えるヒット曲となります。
「僕達Aqua Timezのことをあまり知らない人達も、音楽フェスやイベントでこの曲のサビの部分を聴いただけで盛り上がってくれる。セットリストのどこにでも組み込むことができる、ライブでとても重宝する曲になりました。まさに、自分達が狙っていた通りの曲に仕上がり、ちゃんと聴く人の心に届いていることが嬉しいですね」。
最後に、メンバーを代表してTASSHIさんは、こう答えてくれました。
飾り気の無い言葉で綴られた歌詞が、多くの若者の共感を呼び起こした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.名もなき詩/Mr.Children
M2.等身大のラブソング/Aqua Timez
M3.小さな掌/Aqua Timez
M4.虹/Aqua Timez
124回目の今日お届けしたのは、「CHEMISTRY/Point of No Return」でした
「僕が二人と初めて言葉を交わしたのは、デビュー間もない、2001年6月頃、所属事務所の会議室でした。担当マネージャーになることが決まって、「初めまして。これからよろしく」と挨拶したんです。初めて言葉を交わした時に、二人とも僕の目をしっかりと見て喋ってくれ、「テレビで見る印象よりも、ずっと好青年だなぁ」と感じました」。
現在も、チーフマネージャーを務めている宮良さんは、当時についてこう振り返ります。
1978年11月、広島県高田郡八千代町に生まれた堂珍嘉邦は、地元の高校入学後、同級生とレッド ツェッペリンやMR.BIGのカバーバンド「チキンボール」を結成し、ボーカルを務めます。
一方、1979年1月、東京都葛飾区に生まれた川畑要は、中学・高校時代から人前で歌を歌うことが大好きな少年として、友達の中では、知られる存在となっていきます。
1999年10月、堂珍と川畑のふたりは、テレビ東京系のオーディションバラエティ番組『ASAYAN』が、“20世紀最後の年に、最強の男子ボーカリストをデビューさせる”をテーマに始めた、『20世紀最後 男子ボーカリストオーディション』に、それぞれ応募します。全国から、約2万人が応募したこのオーディションの地方予選を見事に突破した堂珍と川畑のふたりは、その後約1年近くに渡って行なわれた審査にも合格し、2000年12月、最終候補の4名の中に残ります。
2000年12月、4名の最終候補者によって争われることになった最後の審査は、4名の組み合わせで結成された3組のユニットが、それぞれ完全生産限定シングルを発売し、その評価を競うという企画でした。堂珍と川畑のふたりは、「ASAYAN超男子。川畑・堂珍」の名前で、シングル「最後の夜」で、仮デビューします。2人が組んだユニットは、トップの成績となる、セールスチャート最高位9位を記録。審査員からも、ボーカリストとして個々の持っている潜在能力と表現力の高さ、そしてこれからの音楽的な化学変化を期待された2人は、正式デビューが決定。ユニット名を「ケミストリー」と改
め、翌2001年3月にシングル「PIECES OF A DREAM」でデビューするのでした。
2001年3月、ケミストリーは、それまで久保田利伸や平井堅などの楽曲をプロデュースしたり、宇多田ヒカルやMISIAの音楽ブレーンも務めていた、松尾潔さんプロデュースの下、1stシングル「PIECES OF A DREAM」を発売。
「PIECES OF A DREAM」は、登場6週目にチャート1位を獲得すると、その後も10週連続でチャート5位以内をキープし続け、最終的には約113万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「松尾さんは、オーディションの途中、2000年春から審査員に加わったんです。初めは、オーディションに余り乗り気ではなかった松尾さんも、多彩な顔ぶれが揃った候補者を見て、「これは面白そうだ」とヤル気になったそうです。
最後、堂珍と川畑の二人に決まった時、松尾さんは、二人を、“日本のR&Bの新しいサウンドを提案し続けるアーティストとして育てる”、ことを目標に置きました。当時、持てはやされていたシンガーソングライターじゃなければアーティストではない、という考えを、ケミストリーの二人は変えることができるという思いで、育てることにしたそうです」。
宮良さんは、ケミストリーのデビュー当時について、こう話してくれました。
さらに、プロデューサーの松尾さんは、ケミストリーの音作りやビジュアル面において、様々なクリエイター達とケミストリーをコラボレーションさせ、二人が持っている音楽的潜在能力を引き出すことにも挑戦します。
そのひとつが、6月に発売を予定していた2ndシングルの作詞家として、広告コピーライターの麻生哲朗さんを起用することでした。
「既存の作家でなく、サントリーや富士通などの広告を手掛け、注目されつつあった広告コピーライターの麻生哲朗さんを、作詞家として起用したのも、松尾さんのアイディアでした。松尾さんは、通常の作詞家でない方にお願いすることで、ケミストリーの歌声に負けない、斬新な歌詞が生まれることを、期待していたんです」。
それまでの音楽業界の枠に当てはまらない、松尾潔のプロデュース。さらに、松尾さんは、ケミストリーをさらに覚醒させるための手段として、当時じわじわと話題を集めつつあった、HIP-HOPアーティストのケツメイシとのコラボレーションすること思いつくのでした。
「ケミストリーと同じ2001年4月に、メジャーデビューしたばかりのケツメイシを、キャスティングするアイディアを出したのは、やはりプロデューサーの松尾さんでした。当時、日本のHIP-HOP音楽シーンは、まだまだこれから、という黎明期でした。しかし松尾さんは、いち早くこれからの音楽シーンの動きをキャッチし、チャレンジしたんです。今思えば、他のアーティストとコラボレーションすることで、ケミストリーが持っていた、ポテンシャルの高さを音楽業界を始め、ファンの間にも示す狙いもあったと思います」。
「そして、この曲をキッカケに、ケミストリーはその後、ワールドカップの公式ソングを歌う企画ユニットを韓国の歌手と一緒に組んだり、川村結花やクリスタル・ケイなどともコラボレーションしていくことになったんです。
コラボレーションは、アーティスト毎に、そのアーティストなりの考え方やアプローチの違いもあって、コラボレーションする時は調整することも多いですが、デメリットはないと思っています。
むしろ、他のアーティストと一緒にクリエイティブな作業を行うこと自体が、色んな局面においてアーティスト本人達に良い影響を与えてくれる作業だと僕は思っています。アーティストにとっても、刺激的な作業ではないでしょうか」。
宮良さんは、ケミストリーと他のアーティストとのコラボレーションがもたらす影響について、こう言います。
こうして、2001年6月、その後のケミストリーの音楽活動面において、大きな影響を与えるキッカケにもなった、彼らの2ndシングル「Point of No Return」は、当時はまだ無名に近かったケツメイシとのコラボレーションバージョンも含めて、発売されるのでした。
2001年6月に発売された、ケミストリーの2ndシングル「Point of No Return」は、セールスチャート初登場1位を獲得、約70万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「ケツメイシとのコラボレーションはもちろんですが、ケミストリーの二人が、ただ単に歌が上手いだけでなく、ケミストリーのアーティストとしての音楽的側面を、グッと引き上げていった曲ですね」。
最後に、宮良さんはこう答えてくれました。
二人の音楽的可能性を覚醒するキッカケとなった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.To be With You/MR.BIG
M2.PIECES OF A DREAM/CHEMISTRY
M3.ファミリア/ケツメイシ
M4.Point of No Return(ケツメイシのremix)/CHEMISTRY
123回目の今日お届けしたのは、「キマグレン/LIFE」でした
「僕が二人に初めて出会ったのは、2006年の春でした。二人が、前の年、2005年から経営していた、神奈川県・逗子海岸の夏季限定のライブハウス「音霊OTODAMA SEA STUDIO」に出演するアーティストのブッキング依頼で、僕の音楽事務所にやって来たんです。
最初は、当時25歳のKUREIが、独りで事務所にやって来て、話をしたんでが、その若さでライブハウスを運営するなんて大変だろうなと、思いながら話を聞いたんです。ところが、音楽について楽しそうに話をする彼の表情は、大変なんてものとは全く違うもので、そのギャップが新鮮に映ったんです。そして、打合せが終わった帰り際に、KUREIが1本のデモテープを置いていったんです。それが、キマグレンの音源でした」。
キマグレンのプロデューサーを務める森田さんは、当時についてこう振り返ります。
1980年7月、新潟県に生まれたKUREIと、同じ年の10月に神奈川県に生まれたISEKIの二人は、それぞれ両親の転勤で引っ越しを繰り返しながら成長し、彼らが16歳になった1996年のある日、神奈川県逗子市のスイミングスクールで出会います。チャゲ&飛鳥、山下達郎など邦楽に影響を受けていたISEK、一方のKUREIは、SUGAR RAY、LINKIN PARKなど洋楽に影響を受けていましたが、二人は意気投合。それぞれ別々のバンドで活動を続けていたものの、音楽を通して友情を深め合っていきます。
2005年6月、KUREIは、「砂浜にライブハウスを建てたい」という自らの夢を実現するために、友人のISEKIを誘って、海の家兼ライブハウス「音霊OTODAMA SEA STUDIO」をオープンさせます。そして、ライブハウスのスケジュール表に、偶然あった空白の日を埋めるために、KUREIとISEKIは急遽ユニット「キマグレン」を結成するのでした。
「KUREIが置いていったデモテープには、3曲入っていましたが、正直、曲は全然ダメでした。音楽の基本はできていたけど、良く言えばまとまり過ぎて、個性がありませんでした。ただ、3曲目に収められていた、二人が始めて一緒に作ったという楽曲「君を忘れない」を聴いた時、僕は何か引きつけられるモノを感じたんです。
そこで、実際に「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」へ足を運び、キマグレンのライブを観たんです。デモテープ同様に、ライブの内容も酷く、音楽は全然ダメだったけど、ステージで楽しそうに演奏する二人の姿を観て、僕は「彼らは、自分達のやりたい音楽は分かっているけど、表現力が伴っていないだけかも。彼らは、「磨けば光る、ダイヤモンドの原石のような存在なのかも」と感じたんです」。キマグレンのライブを初めて生で観た時の印象について、森田さんは、こう振り返ります。
2006年夏、キマグレンの、何とも言えない魅力に取りつかれた森田さんは、その後も二人のライブを観るために「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」に、度々足を運ぶようになります。
「キマグレンのライブを数回観る内に、KUREI、ISEKIと、音楽について色々と話をするようになったんです。しばらくして、二人から、音楽に関するアドバイスを求められるようになり、夏が終わる頃には「僕らと一緒にやってもらえませんか」と打診されました。僕は二人に「全ての楽曲のプロデュースを僕に預け、曲作りに関して、僕の言うことをイチから聞いてもらえるなら」という条件を出しました。二人は、その条件に納得し、僕らは一緒に曲作りを始めたんです」。
一方、キマグレンの二人は、森田さんとの出会いについて、こう振り返ります。
「森田さんと出会ったのは、「音霊OTODAMA SEA STUDIO」を始めて数年が経ち、経営に苦しんでいた時期でした。それまでも、色々な人に出会い、裏切られてきた中で、出会ったのが森田さんでした。人を余り信用できなくなっていた時期でもあったので、この人は信用しても大丈夫なんだろうか、という不安な気持ちもありました。でも、音楽に関するアドバイスは的確だし、この人なら騙されてもいいかと思って、とにかく森田さんの指示の通りに、目の前にあることだけを集中してやろうと、曲作りに励んだんです」。
こうして2006年秋、キマグレンの二人に、森田さんを加えた三人での曲作りがスタートします。
「歌詞を書くISEKI、曲を書くKUREI。それぞれが作ってきた歌詞と曲に、さらに3人でアイディアを出しながら形にしていく作業を、1週間に1度のペースで続けていきました。二人が作ってきた歌詞と曲は、基本的には良かったけど、キマグレンとしての個性がなかったので、「もっとオリジナリティ溢れる曲を作らないといけないよ」とアドバイスしました。曲調もミディアムテンポばかりで、アップテンポの曲の必要性も伝えたんです」。
森田さんは、当時についてこう振り返ります。
2007年7月、森田さんと一緒に曲作りに取り組み、曲を完成させたキマグレンは、インディーズレーベルからミニアルバム『LIFE』を発売。ミニアルバム『LIFE』は、セールス的には振るわなかったものの、広島FMのパワープレイを獲得するなど、一部の音楽メディアから注目を集め、なかでもタワーレコードの音楽情報誌『bounce』で、高い評価を受けたことが、彼らに一つの転機をもたらします。
「『bounce』での高い評価の噂を聞きつけたレコード会社のスタッフが、その夏に逗子の「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」で行ったライブに、たくさん見に来てくれたんです。夏のライブが終わった後、数社からメジャー契約の打診があって、その中からユニバーサルシグマと契約を結びました」。
こうして、ユニバーサルシグマと契約を結んだキマグレンは、翌2008年2月、シングル「あえないウタ」でメジャーデビューします。
2008年2月、キマグレンはシングル「あえないウタ」で、メジャーデビューします。
「この曲も、僕とキマグレンが一緒になってから作った曲の一曲です。曲を作った時、曲の完成度に満足はしていたんですが、ミディアムテンポの曲だったので、ミニアルバム『LIFE』に収めるとアルバムの構成バランスがおかしくなると思ったので、敢えて収めなかったんです。メジャーデビューが決まって、レコード会社と発売スケジュールを調整する中で、「この曲をデビュー曲にしよう」という話になったんです」。
次にキマグレンは、2ndシングルとして、デビュー直前から自信を持っていたある曲を、5月にリリースすることを決めます。
「この曲は、もともと2006年の冬の初めに、キマグレンというアーティストの、名刺代わりになるような曲を作ろうという思いから作り始めた曲なんです。当時、キマグレンの二人がやっていた「音霊OTODAMA SEA STUDIO」の経営状態は、僕らが「大丈夫なんだろうか」と心配するぐらい、酷い状態でした。ところが、キマグレンの二人、そして「音霊OTODAMA SEA STUIDIO」のスタッフは、そんな心配を感じさせないぐらい、毎日楽しく働いていたんです。辛い現実がある一方で、楽しいこともいっぱいある。現実と理想の葛藤に揉まれながらも、楽しく音楽を続ける彼ら自身の、日々の生活の姿を、歌詞に綴っているんです。
レコーディング中に、アレンジ面を含め何度もメロディを直し、最初と比べてサビのメロディもかなり変わりました。でも完成した時は、充実感に満ち溢れていました」。
キマグレンと森田さんの3人が、完成度に自信を持ったこの曲は、インディーズからリリースされたミニアルバム『LIFE』に収録されます。そして、メジャーデビューが決まった時、レコード会社から、「この曲をシングルとして発売したい」と提案を受けます。
「メジャーデビューが決まって、曲の発売スケジュールを決めていく中で、この曲を、キマグレンをブレイクさせる勝負の曲として捉えたんです。アップテンポのこの曲と、季節感を考えたら、2008年5月ぐらいのリリースがいいだろう、という話になりました」。
こうして2008年5月、キマグレンの2ndシングル「LIFE」は、満を持して発売されます。
2008年5月に発売された、キマグレンの2ndシングル「LIFE」。
「キマグレンの二人が曲を作る時に大切にしているのが、Life・Love・Localという3つのLが付く言葉です。
二人が、普段のライフスタイルの中でも音楽をとても大切にしている、という気持ちを、この言葉で表しているんです。
この曲は、飾らないありのままのキマグレンの姿を、的確に象徴している曲ですね」。
最後に、森田さんはこう答えてくれました。
音楽好きの二人のリアリティが、多くの若者の共感を呼び起こした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.On Your Mark/CHAGE and ASKA
M2.君を忘れない/キマグレン
M3.あえないウタ/キマグレン
M4.LIFE/キマグレン
122回目の今日お届けしたのは、「YUI for 雨音薫/Good-bye Days」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、2004年2月に行われたソニーミュージックグループのSDオーディションの最終審査会場でした。この年のSDオーディションは、全国から10万通もの応募があって、一次審査となる書類審査、二次審査を経て、東京で最終審査が行われたんです。審査会場に現れた、彼女からは、「この子は、何かをやってくれるのでは」という期待感と言うか、独特の雰囲気、存在感を感じることができました。それは、僕以外の、他のオーディションスタッフも、同じように感じていたそうです」。
後に制作担当ディレクターを務める市原さんは、当時についてこう振り返ります。
1987年3月、福岡県・糟屋郡古賀町(現在の古賀市)に生まれたYUIは、幼い頃から歌を歌うことが大好きで、カーステレオやラジオから流れてくる松任谷由実、大黒摩季の曲に合わせて、歌を口ずさんでいたと言います。そして、彼女が15歳になった頃から、その時、彼女が感じた心情を、日記代わりに詩に綴って、その綴った詩に合わせて、ギターで弾き語りをするようになります。
2002年、YUIは、偶然耳にしたアヴリル・ラヴィーンのアルバム『LET GO』から、「10代の女の子でも、こんな音楽がやれるんだ」という衝撃を受け、彼女自身も音楽の道を志すようになります。その後、YUIは地元・福岡天神のストリートミュージシャンと出会い仲良くなり、やがて、自らもストリートミュージシャンとして街角に立つようになります。さらには音楽塾に入って作詞・作曲の勉強を始め、シンガーソングライターとしての道を歩み始めます。
こうして、2004年2月、YUIは、音楽塾のスタッフの薦めもあって、ソニーミュージックグループのSDオーディションに応募するのでした。
「他の参加者は、スタンドマイクを前に歌っていたんですが、彼女は違っていました。会場の中央に歩み寄ると、いきなりあぐらをかいて座り、アコースティックギター1本の弾き語りスタイルで歌い始めたんです。それはまさに、ストリートミュージシャンスタイルでした。
それから、最終審査は、参加者が2曲ずつ歌う予定だったんですが、彼女は2曲歌った後、「どうしても、もう1曲聴いて欲しい」と言って、3曲目を歌ったんです。本当はルール違反でしたが、その場にいた審査員は、すでに、彼女から何か引きつけられるものを感じたんでしょう、彼女だけ3曲目を歌うことを認めたんです」。
後に、制作ディレクターを務める市原さんは、当時のオーディションの様子を、こう語ってくれました。
2004年春、SDオーディションに合格したYUIは、ソニーミュージックグループ内の各レーベルが争奪戦を繰り広げた後、ソニーミュージック・レコーズと契約。その年9月に上京し、レコーディングをスタート。そして、12月に、九州地区限定で、インディーズシングル「It’s happy line」をリリースした後、翌2005年2月に、シングル「feel my soul」で待望のメジャーデビューを果たします。
2005年2月に発売した、YUIの1stシングル「feel my soul」は、フジテレビ系ドラマ『不機嫌なジーン』の主題歌として起用されます。
「SDオーディションに合格した後、夏頃から、デビューに向けて本格的な曲作りが始まり、作ったデモ曲の数は数百曲を超えていました。その中の一曲が、このデビュー曲です。YUIの透明感溢れる声、もがきながらも必死に前を向いて進んでいこうとする姿を描いた歌詞。新人アーティストのデビュー曲が、いわゆる“月9”ドラマの主題歌に起用されるという、異例の扱いで発売されたこの曲は、曲を聴いたファンはもちろん、関係者の中からの数多くの反響が寄せられました」。
「YUIは、中学生時代から始めた日記代わりに詩を書くことを、ずっと続けていました。YUIは、彼女自身の身の回りで起こった出来事や、感じたことをメモにして、折に触れて読み返していたんです。それが、曲作りの中でのヒントにもなっていました。YUI自身が日々の中で感じたことが、歌詞や曲になっていく。YUIの曲は、彼女からのメッセージでもあるんです」。市原さんは、こう語ります。
2005年6月に松竹映画『HINOKIO』の主題歌として起用された、2ndシングル「Tomorrow’s way」をリリース。さらに8月には、デビューわずか半年で、野外ロックフェスティバル「ROCK IN JAPAN FES.2005」に出演するなど、YUIは、まわりの期待に後押しされる形で、シンガーソングライターとしての道を一歩づつ歩んでいきます。そして、翌2006年1月、女性シンガーソングライターYUIの存在感を多くのファンに知らしめることになる、4枚目のシングル「TOKYO」がリリースされます。
2006年1月に発売した、4枚目のシングル「TOKYO」は、YUI自身が、デビュー直前に福岡から東京へ上京する際の気持ちを綴った歌で、彼女自身がDJを務めていたFMラジオ番組『YUIのGirl’s Fight!』で、デモ音源を流したり、ライブで、彼女がアコースティックギター1本でこの曲を演奏したりしていた曲でした。そして、この曲を聴いた、ファンの間から、「この曲を発売してほしい」というリクエストが、レコード会社に殺到したことでリリースされものでした。
YUIの歌が、少しづつ、しかし、確実に多くのファンの下に届いている実感をスタッフが感じる中、2月には、1stアルバム『FROM ME TO YOU』をリリース。そして、次のシングルとして、彼女自身が主演した映画の主題歌が発売されることになります。
「もともとこの映画にYUIが主演する話は、彼女がデビューした2005年に決まっていたもので、主人公が女性シンガーソングライターということで、YUIに白羽の矢が立ったんです。演技の経験など全くなかったYUIでしたが、新しいことにチャレンジしてみたい、という前向きな彼女の気持ちで、女優業にもチャレンジすることになったんです。それで、映画撮影と並行して、曲作りも始まりました」。
「テレビドラマや、映画の主題歌を作る時は、普通台本を読んで、曲のイメージを膨らませながら作っていくパターンが多いのですが、この曲は映画の撮影が進んでいく中で、彼女自身、シンガーソングライターとしてのYUIと、映画の主人公雨音薫をシンクロさせながら、彼女が直接感じたことを、何度も何度も書き直しながら歌詞に綴って、曲を完成させていったものです」。市原さんは、こう語ってくれました。
不治の病に侵され、余命いくばくもない一人の少女が、恋した男性のために、自分が生きた証を曲に込めていくという映画『タイヨウのうた』。
「映画が公開された当初は上映される映画館の数も少なかったのですが、この曲が発売され、ヒットすると同時に映画も話題を呼び、急遽、上映する映画館を増やしたんです。その反響に、映画配給会社も驚いていました」。
こうして2006年6月、映画『タイヨウのうた』の主題歌、YUI for 雨音薫のシングル「Good-bye days」は発売されたのでした。
2006年6月に発売された、YUI for雨音薫のシングル「Good-bye days」。
「YUIの音楽的な観点から見た場合、彼女は常にどの曲であっても全力投球で作って、歌っているので、この曲だけが特別な曲という訳ではありません。ただ、映画『タイヨウのうた』が、この曲とともにヒットしたのは、この曲が持っているストレートなメッセージ性が、曲を聴いた人に伝わったからではないでしょうか」。最後に、市原さんはこう答えてくれました。
演じることと、歌うことが見事にシンクロした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.コンプリケイテッド/アヴリル・ラヴィーン
M2.feel my soul/YUI
M3.TOKYO/YUI
M4.Good-bye days/YUI for 雨音薫
121回目の今日お届けしたのは、「MONKEY MAJIK/Around The World」でした
「1997年に、青森県の七戸町教育委員会に、外国語指導助手として来日したカナダ出身のメイナード・プラントが、来日後に習い始めた、少林寺拳法を通じて知り合った日本人の友人と、2000年にバンドを結成し、その後、外国語指導助手仲間のカナダ人と、イギリス人を加えた4人で作ったバンドが「MONKEY MAJIK」です。
結成当時のメンバーの一人だったイギリス人が、子供の頃にイギリスのテレビで見た『西遊記』の印象が強烈で、特に主題歌を歌っていた「ゴダイゴ」のことをずっと覚えていたんですね。それで、日本に来て、メイナードと一緒にバンドを結成することになった時、他のメンバーを説き伏せて、『西遊記』の主題歌のタイトルを、そのままバンド名にしたんです。
名付け親のイギリス人メンバーは、半年後に帰国してしまうんですが、バンドの名前と、そのもとになったゴダイゴの音楽の素晴らしさは、メンバーチェンジが繰り返されても脈々と受け継がれていきました。つまり、MONKEY MAJIKにとって、ゴダイゴは、全く新しい「Japanese Music Sense」を見せてくれた、偉大なアーティストとして、絶対的な存在なんです」。
バンド名の由来について、マネージメントスタッフの一人はこう語ってくれました。
2001年、メンバーの帰国により、2人組で活動を始めたMONKEY MAJIKでしたが、彼らが作ったデモテープが人づてに、仙台の音楽事務所の社長の手に渡り、彼らはスカウトされ、活動の場を仙台へと移すことになります。
そしてメイナードは、日本人ドラマーのtaxをメンバーに加え、さらにメイナードの弟で、ボーカル兼ギターのブレイズ・プラントをカナダから呼び寄せ、再び4人組のバンドとして活動をスタートします。
MONKEY MAJIKは、2002年5月、タワーレコード仙台店限定でミニアルバム『TIRED』を発売。仙台店のセールスチャートで6週連続1位を獲得します。ライブの集客数も安定し、少しずつ自分達の音楽に対する自信が芽生え始めたMONKEY MAJIKは、翌2003年9月、再びタワーレコード仙台店限定で1stフルアルバム『SPADE』を発売し、仙台店のセールスチャートでは13週連続1位、年間セールスチャートでも1位を獲得するのでした。
2003年9月に、タワーレコード仙台店のみでの発売されたアルバム『SPADE』でしたが、カナダ人のブラント兄弟のツインボーカル&ツインギターに、日本人二人のリズム隊が創り出す音楽は、洋楽や邦楽といった音楽の垣根を越えた新鮮さを生みだし、やがて、その人気は全国へと広がっていき、翌2004年4月にはアルバム『SPADE』が全国発売されることになります。
「MONKEY MAJIKの、日本語と英語が交じり合った独特の歌詞は、まずメンバー4人の頭の中にある世界観を共有することから、始まるんです。その後、歌に込める思いが、聴く人にきちんと伝わるかを考えながら、バランスを詰めながら書きあげていきます。メロディに、特にこだわりはなく、ロック、バラード、jazzyなものなど、とにかくジャンルにこだわらず、作っていますね」。スタッフの一人は、MONKEY MAJIKの曲の特徴についてこう話してくれました。
シンプルで耳に馴染みやすいメロディと、細やかなアレンジ、そして英語の歌詞の中に違和感なく溶け込んだ日本語の歌詞。聴く人に新鮮な驚きを与えていったMONKEY MAJIKの曲は、その後、TV・ラジオ・新聞などのメディアでも頻繁に取り上げられるようになっていきます。
「ブラント兄弟の作った曲が、注目を浴びたのは、彼らが何かひとつのことに固執するのではなく、毎回毎に、彼ら自身のステップを1つ上げる心構えで、新しいスタイルの曲作りにチャレンジしている、ポジティブな点だと思います。とにかく、
彼らは、思いついたことは、すぐに形にしたがりますね。そのスピードと対応力が、常に新しいサウンドを生んでいるのではないでしょうか」。
MONKEY MAJIKは、2005年に入ると、2月にミニアルバム『Lily』を、4月にもミニアルバム『Get Started』を立て続けに発売。9月には、2ndアルバム『eastview』を発売します。
アルバム『eastview』発売直後に、結成当時からのベーシストが脱退しますが、後任に、仙台の音楽シーンでは知られる存在だった、DICKを新たにメンバーに加え、MONKEY MAJIKは、レコード会社「エイベックス」のレーベル、binyl recordsと契約を結び、2006年1月に、メジャー1stシングル「fly」をリリースするのでした。
2006年1月に発売された、1stシングル「fly」は、広島FMを含め、全国のFM33局でパワープレイを獲得すると同時に、オンエアチャートでも4週連続で1位を獲得します。勢いに乗った、MONKEY MAJIKは、翌2月に早くも2ndシングルを発売します。
「1stシングルを作った直後の2005年秋だったでしょうか。2006年1月スタートのフジテレビ系ドラマ『西遊記』への主題歌提供の話が、MONKEY MAJIKの下へ届いたんです。曲の締切まで、余り時間の無い中での作業は、まずメイナードとブレイズの頭の中にあった曲の構想を、ドラマのストーリーの世界にシンクロさせていくことから始まりました。」
「限られた時間の中での作業でしたが、メンバー全員が思っていた曲のイメージが一致していたので、進むべき方向は一つでした。彼らは、曲の中で、『西遊記』という誰もが知っている、小説上での大きな世界観を、この曲で、本当に大きな意味での「World」として表現しようとしていました。メロディから、物語の舞台にもなっていた中国を感じてもらおうと、笛の音なども使った演出にもこだわるなど、とにかく、『西遊記』という物語を理解して、イメージの赴くままに曲を作ろうと必死でしたね」。
「カナダ人と日本人の混合バンドとして、それぞれが持っている文化や感性の違いを生かし、これまでの日本の音楽シーンにはなかった、新しいカラーを表現していきたい、というメンバーの意思を込めて作ったのがこの曲です。歌詞にもある「フミダスチカラで世界は変わるさ」「いつでも自分に負けている人は何も掴めない」等、実は歌詞の奥には、この曲を聴いてくれた人達が、ポジティブな気持ちになってくれるように、誰かを応援したいというメッセージが、たくさん込められているんです」。
こうして、2006年2月、フジテレビ系ドラマ『西遊記』の主題歌として起用された、MONKEY MAJIKにとって2ndシングルとなる「Around The World」は発売されます。
2006年2月に発売した、MONKEY MAJIKの2ndシングル「Around The World」は、セールスチャート初登場4位を記録、約25万枚のセールス売上を記録します。
「MONKEY MAJIKの2ndシングル「Around The World」がヒットしたのは、楽曲の持つ世界観と、ドラマ『西遊記』の世界観が上手くマッチしたことと、ドラマに寄り添いながらも、楽曲「Around The World」そのものに、一人歩きできるようなパワーがあったからだと思います」。
最後に、スタッフの一人はこう答えてくれました。
大きな世界観の中に込められたポジティブ感溢れる、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.モンキーマジック/ゴダイゴ
M2.すぐちかく/MONKEY MAJIK
M3.fly/MONKEY MAJIK
M4.Around The World/MONKEY MAJIK
120回目の今日お届けしたのは、「SEAMO/マタアイマショウ」でした
「彼は、中学生の時、当時日本テレビ系で放送されていたバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のコーナー「ダンス甲子園」を見て、ダンスに夢中になり、大学進学後には、地元名古屋のダンススタジオでインストラクターをするまでになったそうです。それと同時に、ダンス音楽として聞いたM.C.ハマーやBiz Markieらにも夢中になって、HIP HOP音楽の世界に飛び込むことになったんです」。
後に、SEAMOのマネージャーを務めることになる八木さんは、当時についてこう語ります。
愛知県一宮市生まれのSEAMOこと高田尚輝は、地元の大学に進学後、ダンスのインストラクターとして活躍する一方で、20歳になった1995年からは、自ら「シーモネーター」と名乗り、インディーズで音楽活動をスタート。さらに、名古屋・東海地区の、HIP HOPアーティスト達と共に、チーム「男塾」を結成します。
「どちらかと言えば、彼は内向的で、大人しい性格の持ち主なんです。ただ、その一方で、目立ちがり屋でもあったので、一緒に活動していたHIP HOP音楽仲間と『名古屋 男尻祭り』という、音楽イベントを、2001年にスタートさせたんです」。
「彼が、シーモネーターとして活動を始めた1995年から2000年にかけて、HIP HOP音楽は、まだまだ暴力的なイメージが強い時代で、J-POPの世界での認知度は低かったんです。その状況を打破したい、という考えで彼はイベントを立ち上げたそうです」。
シーモネーターが立ちあげた音楽イベント『名古屋 男尻祭り』は、HIP HOP音楽ファンを中心に話題を呼び、シーモネーターの名前は、一躍知られる存在となっていきます。
そして翌2002年、シーモネーターは仲間のDJ TAKI-SHITと共に結成したユニット「シーモネーター& DJ TAKI-SHIT」として、ソニー・レコードと契約。5月に、Sg「浪漫ストリーム」でメジャーデビューします。
2002年5月、シーモネーター&DJ TAKI-SHITはソニー・レコードからSg「浪漫ストリーム」でデビューします。
米米クラブの「浪漫飛行」を大胆にサンプリングして作ったこの曲は、全国のラジオOAチャートでも3位を記録するヒット曲となります。その後、シーモネーターは、同郷のnobodyknows+やHOME MADE家族、さらにはBENNIE.Kなどともコラボーレーション作品をリリース。さらに、ケミストリーの楽曲Rimixも担当するなど、数々のアーティストと音楽を通して、親交を深めていきます。
しかし、シーモネーター&DJ TAKI-SHITは1枚のアルバムと3枚のシングルをリリースした後、メジャーデビューわずか1年足らずで解散。彼は再びインディーズに戻ることになります。
「2004年、再びインディーズで活動を始めた時に、僕は彼と初めて出会い、一緒に仕事をするようになったんです。
当時は、レコード会社、所属事務所も決まっていなくて、音楽活動をするにも、まさに宙ぶらりんの状態でした。そんな中で、彼が作ったのが、さだまさしさんの「関白宣言」を大胆にリメイクした曲のデモテープでした。彼と僕は、この曲を発売するために、さださんの事務所に、一緒に通って話をしたんです。レコード会社も、所属事務所も決まっていなかったんですが、「関白宣言」をリメイクすることを、さださんは快く受け入れてくれて、その後、直ぐにいくつかのレコード会社にデモテープを送ったら、BMG JAPANとの契約が決まり、さらに所属事務所も決まったんです。」
マネージャーの八木さんは、当時についてこう振り返ります。
こうして、2005年3月、シーモネーターでは伝えきれなかったことを伝えるという名目の下、シーモネーター改めSEAMOは、Sg「関白」で、再デビューします。
2005年3月、SEAMOは、さだまさしの「関白宣言」をリメイクしたSg「関白」で再デビュー。7月には、2ndSg「DRIVE」を
リリースします。「「“DRIVE”は、FMラジオ局を中心に、全国で20局以上のヘビーローテーションを獲得することができました。さらに10月には、親交が深かったBENNIE.KとのコラボレーションSg「a love story」を発売して、セールスチャート最高位14位を記録します。当然、僕らスタッフの間では、SEAMOにとって、次のシングル曲が、彼のこれからの音楽人生のポイントになると考えていました」。
マネージャーの八木さんは、当時についてこう振り返ります。
2005年12月、SEAMOは、翌2006年春に発売を予定していた4枚目のシングルのデモテープを、スタッフに聴かせます。「SEAMOが、再デビュー後にコンビを組んで曲を作っていたのは、サウンドクリエーターのGrowthで、彼とは2004年頃に、地元の名古屋のクラブで出会ったそうです。楽器を弾けないSEAMOに代わって、彼が頭の中でイメージしたメロディを、具現化するのがGrowthの役割で、まさに二人は二人三脚で曲を作っているんです。
その時、二人が持ってきたデモテープに入っていたこのラブソングには、SEAMOが、インディーズ時代に付き合っていた彼女との別れが歌詞に綴られていました。初めてデモテープを聴いた時、僕らスタッフは「こんな女々しい曲は絶対売れないよ」と思ったんです。しかし、SEAMOとGrowthの二人だけは、「絶対に売れる」と主張していました」。
「今だからこそ言える話なんですが、実はこの時、夏に発売を予定していた5枚目のSg「ルパン・ザ・ファイヤー」のデモテープも既に完成していて、スタッフは、みんな「「ルパン・ザ・ファイヤー」は売れる」と思っていたので、4枚目のこの曲に対する思い入れはあまり無かったんです。本当に申し訳ない話ですが」。
その後も、SEAMOとスタッフは、幾度となく議論を交わし、最終的にはレコード会社も納得する形で、2006年4月、この曲は発売されます。
「発売数日後のある日、SEAMOは鹿児島でDef TechやAIと一緒にライブイベントに出演したんです。当時は、Def TechやAIの人気が昇り調子の時期で、彼らのライブを観たSEAMOや僕らスタッフも「彼らには敵わない」と、その人気に圧倒されたんです。ところが、ライブが終わって数日後、FM鹿児島に、SEAMOがライブで歌ったこの曲に対するリクエストが殺到したんです。それと同時に、鹿児島市内のCDショップでは、SEAMOのCD売上が、旧譜を含め急上昇し、セールスチャートをほぼ独占する勢いとなりました。そしてその勢いは、鹿児島から北上して九州一円に広がり、さらには全国へと広がっていきました」。
「売れた原因を考えてみると、やはり、SEAMOの書く歌詞だと思います。HIP HOPミュージシャンは、どちらかと言うと、自分の姿を大きく見せるために、かなり誇張した言葉を使うケースが多いのですが、SEAMOは違っていました。彼は、常に、飾り気のない言葉遣いで歌詞を綴っていたので、聴く人がリアリティを感じてくれて、それが心に上手く響いたんではないでしょうか」
こうして、2006年4月に発売されたSEAMO4枚目のSg「マタアイマショウ」は、桜前線の北上には一足遅れるかたちで、
じっくりと全国のヒットチャートで花を咲かせるのでした。
2006年4月に発売した、SEAMO4枚目のシングル「マタアイマショウ」は、セールスチャート最高位14位、発売から約1年近くチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「SEAMOのこの曲をキッカケに、他のHIP HOPミュージシャン達も、次々とラブソングを作って、ヒットを飛ばすようになったんです。SEAMOとサウンドクリエーターGrowthの、音楽の時流を読む力と、SEAMOのリアリティのある歌詞が見事に重なり合って、聴く人の心をキャッチし、結果的にSEAMOを大きく羽ばたかせることに成功したんです」。
最後に、八木さんはこう語ってくれました。
飾らない言葉で綴った、ジャパニーズヒップホップの新しいラブソングスタイルが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Here Comes The Hammer/M.C.Hammer
M2.浪漫ストリーム/シーモネーター&DJ TAKI‐SHIT
M3.関白/SEAMO
M4.マタアイマショウ/SEAMO
119回目の今日お届けしたのは、「リクオ&忌野清志郎/胸が痛いよ」でした
「元々、小さい頃から音楽、特に歌謡曲が大好きだったんです。小学生の頃からピアノを習い始め、高校に進学すると同時に軽音楽部に入部し、バンド活動を始めました。その後、関西大学に進学したんですが、大学3年生の頃には、あまり悩む事もなく、就職せずにプロのミュージシャンを目指すことを自分の中で、はっきりと決めていました」
音楽の道を志すキッカケについて、リクオさんはこう振り返ります。
大学を卒業したリクオは、関西を中心にバンド活動を本格化していきます。「自分が成長していく中で、邦楽、洋楽を問わず、色んな音楽を聴くようになっていましたが、僕にとって一番影響を受けた人物は、忌野清志郎さんでした。RCサクセション直撃世代の僕は、常に少数派であることを恐れず、自分の感性を信じ、自分の多面性に対しても素直で、ユーモアを大切にする、清志郎さんの生き方に、まず大きな影響を受けました。そして、歌唱法においても、日本語の響きやリズム、語尾を大切にする姿勢など、忌野清志郎さんを通して学ぶことがたくさんありました」。
1990年、リクオはイーストウエスト・ジャパンと念願のメジャー契約を結び、11月にミニアルバム『本当のこと』でデビューします。
「デビュー当時は、それまで身を置いたことのなかった、中央の音楽業界システムや、業界人と言われる人達との付き合いに随分と違和感を持ちましたけど、自分の中で、特に音楽の方向性を決めたりすることなく、アマチュア時代からと同じ、シンガーソングライターという立ち位置で、歌心とアコースティックな響きを大切にした表現を心がけたんです」。
ニューオリンズピアノ、R&B、ブルース、ジャズ等に影響を受けた、リクオのグルーヴィーなピアノスタイルと、ソウルフルなボーカルは、世代・ジャンルを超えて、多くの音楽ファンはもちろん、ミュージシャン仲間からも支持を集めるようになっていきます。
こうして、リクオは、シンガーソングライターとしての活動だけに留まらず、友部正人、有山じゅんじ、真心ブラザースなどのツアーや、レコーディングにも、キーボードプレーヤーとして参加。セッションミュージシャンとしての活躍の場も広げていきます。そんな中、リクオが出会った、ミュージシャンの中に、彼にとって憧れの存在、忌野清志郎がいました。
「デビューミニアルバムをプロデュースしてくれたのが、元RCサクセションのサポートミュージシャンだった梅津和時さんだったことと、僕のマネージャーが忌野清志郎さんの元スタッフだったこともあって、デビュー間もない頃、僕が友部正人さんのライブに、チャボさんと一緒にゲスト出演した際、清志郎さんがライブを観に来てくれたんです。その後、清志郎さんとセッションしたり、曲を作ったりすることになるわけです」。
「僕に音楽面や生き方において大きな影響を与えた、憧れの忌野清志郎さんは、僕が想像していた以上に、チャーミングで、子どもみたいに悪戯が好きで、えらそぶることが全然ない、シャイだけれどオープンな心を持った人でした。そんな清志郎さんが作った音楽、存在感はやっぱり圧倒的でした」。
1991年6月、リクオは、セッションミュージシャンとして全国を精力的に飛び回る合間に作った、1stアルバム『時代を変えたい』を発売します。その後も、真心ブラザース、ザ・ブルーハーツ等のレコーディングに参加したり、泉谷しげる率いるユニット「下郎」のツアーにも参加します。そして、リクオにとって憧れの存在、忌野清志郎がRCサクセション活動停止後に結成したバンド「忌野清志郎&THE 2・3’S」のツアーに、キーボードプレーヤーとして参加するチャンスに恵まれるのでした。
忌野清志郎&THE 2・3’Sツアーの合間をぬって、忌野清志郎さんは、デビューして1年足らずのリクオとも積極的に曲作りに取り組み、その中で、ある一つの曲が生まれます。
「この曲は元々は、僕が学生時代に作っていた曲がベースになっています。実は、自分の弾き語りソロライブ当日、あまりにもやるせない想いを持て余していた僕は、ライブのリハーサル時間の大半を、曲作りにあてていました。何かを心掛けたり、こだわったりという意識や余裕はなく、ただただ、自分の中にこみ上げてくる想いを言葉とメロディに託すような気持ちでいっぱいでした」。
「その時、一気に完成させた曲は、しばらく僕のライブでは重要なレパートリーになっていましたが、ある時期から、楽曲全体としては洗練さに欠けると感じて、歌うことを控えるようになりました。しかし、僕は、この曲が生まれた経緯に思い入れを感じていたし、歌い出しのフレーズも気に入っていたので、「いつかリメイクしよう」と思っていたんです。忌野清志郎さんと共作するチャンスが巡ってきた時、僕はすぐにこの曲のフレーズの一部を清志朗さんに見てもらうことを思いついたんです。曲のサビのメロディとコード、そして歌詞を忌野清志郎さんに渡すと、清志郎さんは、この歌の持つ「素直さ」「ナイーブ」な側面を十分に尊重した上で、そこに、新たな構成を加えることで、この歌を個人的な体験としてではなく、誰もが共有することができるラブソングとして、完成させてくれたんです」。
「曲が完成した当時、僕は東京に、風呂なしのボロアパートを借りていたんですが、偶然にも、そのアパートの近くに忌野清志郎さんが住んでいたんです。ある日の朝、そのアパートで寝ていたら、ドアを叩きながら「リクオ起きろ!」という叫び声がするんです。その声に目が覚めて、ドアを開けると、そこに清志郎さんが立っていました。
すると、清志郎さんは「あの曲を完成させたから」と言って、1本のカセットテープを僕に手渡すと、すぐにその場を立ち去って行きました。そのカセットテープには、清志郎さん自身が小声で歌いながらギターを弾き語る、その曲が収録されていたんです」。
完成した曲は、1992年4月に、リクオ3枚目のシングルとして、発売されます。そして、しばらくはリクオにとって大切なレパートリーとなりますが、時が経つにつれ、リクオの心の中に複雑な感情が芽生えるようになり、リクオはこの曲を歌うことを封印するようになります。
「短い期間でしたが、忌野清志郎さんと身近に接することができ、清志郎さんの存在は自分の中で増々大きなものになっていきました。それは、自分に大きな刺激と影響を与えると同時に、複雑な感情ももたらしたんです。一人のファンという関係から、同じ表現者であるという意識を持った時点で、清志郎さんに対するジェラシー、清志郎さんを乗り越えたいという思いが強くなっていったんです。その結果、自分は清志郎さんの存在から次第に距離を置くようになっていきました。
それは、自分自身の音楽を確立させたいと、もがき続ける期間の始まりでもありました。そして、清志郎さんの影響が強かったこの曲を、封印することにしたんです」。
「ところが数年前にFM802が主催したライブイベントに出演した時、「この曲を歌って欲しい」とリクエストされたんです。この曲は、実は1992年の発売当初、FM802のヘビーローテーション曲に選ばれていたんですが、発売から10数年の歳月が流れても、この曲に思い入れを持っていてくれる人がいることが自分にとっては素直に嬉しく、ありがたく思いました」
こうして、リクオが憧れの人忌野清志郎と共作した楽曲「胸が痛いよ」は、再び歌われ始めるようになるのでした。
長い封印の時を経て、再び歌い始めた「胸が痛いよ」を、リクオは今月20日に発売するアルバム『リクオ&ピアノ』でセルフカバーします。
「曲作りに向かい始めた当初の自分の気持ちを思い出させてくれる同時に、プロのミュージシャンになってから最初の節目を作ってくれた大切な曲です。今回、セルフカバーする気持ちになったのは、作った当初の当事者意識から少し離れて、この曲をクオリティの高いラブソングとして冷静に受け止めることができるようになったこと。それから、この曲を以前よりも納得できる歌唱、表現ができるようになったことが要因です。そして、何より、僕の音楽人生に多大なる影響を与えてくれた、忌野清志郎さんが亡くなられたことも、その流れの中にあります。今回のセルフカバーは、僕の、忌野清志郎さんとの18年ぶりのコラボレーションだと思っています」。
最後に、リクオさんはこう語ってくれました。
憧れのミュージシャンとのさまざまな想いを乗り越え、ラブソングの名曲が瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.時の過ぎゆくままに/リクオ
M2.トランジスタ・ラジオ/RCサクセション
M3.お兄さんの歌/忌野清志郎&THE2・3’S
M4.胸が痛いよ/リクオ&忌野清志郎
118回目の今日お届けしたのは、「松平健/マツケンサンバⅡ」でした
1953年11月、愛知県豊橋市に生まれた少年・鈴木末七は、地元の高校に入学したものの、石原裕次郎に憧れ、自らも俳優を志し、高校を中退して、上京します。
1969年、劇団フジに入団した鈴木末七は、まず、芸名を松本二郎と名のり、数本のTVドラマに出演。その後、1972年に芸名を松平健と改めます。
1975年、俳優・勝新太郎のプロダクション「勝プロ」に移籍した松平健は、勝新太郎の付き人を務めながら、同じ年の1975年3月にスタートしたフジテレビ系ドラマ『座頭市物語 心中あいや節』に出演します。
1978年1月、松平健は、テレビ朝日系の時代劇『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の主役に起用されます。松平健が主演した『暴れん坊将軍』は、TV時代劇のブームと重なって話題を呼び、松平健自身も人気時代劇スターとして、一躍注目を浴びる存在となります。そんな中、1980年の夏に届いたひとつのオファーが、時代劇俳優・松平健の新たな一面にスポットライトを当てる、キッカケとなります。
「『暴れん坊将軍』の主演がキッカケで、俳優としての知名度は着実にあがり、NHKの大河ドラマを始め、時代劇の出演オファーが数々届くようになっていました。そんな1980年の夏、その年の秋から放送予定の刑事ドラマへの
出演オファーが届いたんです。時代劇ではなく、現代ドラマへの出演依頼。しかも、ドラマのプロデューサーからは、「主演としてだけでなく、せっかくだから、主題歌も歌ってみませんか」という依頼でした。
松平健自身、もともと歌を歌うことは大好きで、俳優を志していた頃、稽古の合間にポール・アンカに憧れ、彼の歌をよく聞いていたので、直ぐにOKしたんです」。
マネージャーの長田さんは、松平健が歌手としてデビューするキッカケについてこう語ります。
こうして、松平健は、1980年11月、自らが主演したテレビ朝日系ドラマ『走れ熱血刑事』の主題歌「夜明けまで」で、歌手としてもデビューします。
1980年11月に発売した、松平健の1stのシングル「夜明けまで」は、セールス的には今ひとつでしたが、『暴れん坊将軍』の主役を務め、一躍時代劇のスターとなっていた松平健が、刑事ドラマに主演したことで話題を呼ぶと同時に、一人の歌手としても、知られるようになっていきます。
翌1981年、歌手・松平健は、4月に東京・渋谷公会堂で、6月には大阪・フェスティバルホールで1stコンサートを行ないます。また、自らが主演した時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』の挿入歌を始め、CMソングなども歌うようになります。
「確か、この頃からだったと思います。松平健の舞台公演の構成が、第1部はお芝居。第2部は歌謡ショーというスタイルに変わってきたんです。そして、第2部の歌謡ショーを盛り上げるための曲として、まず作られたのが、1984年の「松健音頭」でした」。
マネージャーの長田さんは、当時についてこう振り返ります。
「その後、第2部の歌謡ショーを盛り上げるために、1987年に「松健数え歌」と「マツケンマンボ」を、さらに1989年には「松健小唄」を作ったんです。また「マツケンマンボ」からは、歌謡ショーが一番盛り上がるエンディンングで、ショーを観に来たお客さん達が、楽しい音楽を聴いて、ハッピーな気分で帰ってもらえるようにと考え、これらの曲を必ず最後に歌うことにしたんです。そして、次は何がいいだろうか、と色々考えた末に作ったのが、1992年の「マツケンサンバⅠ」でした」。
1992年に発表した、「マツケンサンバⅠ」。
「翌年、1993年の、プロサッカーJリーグ誕生を控え、サッカーの本場、ブラジルの音楽のひとつサンバを使った応援スタイルが、徐々に一般の人達にも広がっていっていた時代です。‘マツケンサンバⅠ’は、すんなりと受け入れてもらうことができました」。
しばらく歌謡ショーのエンディング曲として起用された「マツケンサンバⅠ」でしたが、1994年9月、翌10月から大阪・新歌舞伎座で予定されていた、松平健・舞台公演の打合せの席で、「マツケンサンバⅠ」のリニューアルの話が、舞台プロデューサーから、音楽担当の、作曲家・宮川彬良さんに提案されます。それまで、劇団四季や東京ディズニーランドのショーの音楽などを手掛けていた宮川彬良さんは、OSK日本歌劇団所属の作家、吉峰暁子さんが、夏の恋をテーマにA4の紙いっぱいに綴った歌詞に、軽やかなラテンのリズムを乗せ、メロディを作っていきます。
1994年10月、大阪・新歌舞伎座で行われた舞台公演「松平健・唄う絵草紙」の会場で初めて歌われたこの曲は、その後も、松平健の舞台公演には欠かせない曲となります。さらに、1999年10月、ファンからの要望に応える形で、公演会場と通信販売のみで、「マツケンサンバⅠ」が自主製作盤として発売され、この曲はカップリング曲として収録されます。
その後も、ファンの間で密かな話題を呼び、松平健の舞台で実際にこの歌を耳にした人が、ラジオ番組へリクエストしたり、松平健自身がTVの歌番組に出演した際に、この歌を歌うなどして、じわじわと、この曲の存在が音楽関係者はもちろん、ファンの間に浸透していきます。
「新宿コマ劇場や、福岡・博多座で行われていた、松平健の舞台公演のフィナーレで必ず歌われていたこの歌は、総勢50名を超えるきらびやかなダンサーをバックに、松平健が華麗に歌うもので、その派手なステージは観た人達の間で話題となり、TVのワイドショー他、様々なメディアでも取り上げられるようになっていきました。
そこで、僕ら事務所のスタッフは、マツケンサンバを自主製作盤としてではなく、メジャー発売できないだろうかと考えました。ただ、単なるCDとして発売しても、面白くないので、ファンの人達にも喜んでもらえるようにと、松平健が実際に歌ったステージの模様を収めたDVDと合わせて発売することを考えました。
振付師の真島茂樹さんが考えた、この曲の振りを観た人達が、みんな楽しそうに帰って行くのを僕らは知っていたので、踊りのDVDと合わせて一緒に発売したら、絶対に売れると思い、直ぐに、数社のレコード会社に打診したんですがほとんどのレコード会社から断られ、唯一話に乗ってくれたのが、ジェネオン・ユニバーサルでした」。
こうして、曲が生まれてから10年後の2004年7月、松平健の「マツケンサンバⅡ」は、発売されます
2004年7月に発売された、「マツケンサンバⅡ」はセールスチャート最高位3位を記録、さらにこの年の大晦日に行われた、日本レコード大賞の特別賞を受賞します。また、松平健は第55回NHK紅白歌合戦にも出場します。
「この曲がキッカケで、松平健のファン層が広がって、新宿コマ劇場には、彼の舞台を観るために、若い人達も大勢訪れるようになったんです。
松平健自身も、俳優としてひと皮も、ふた皮も剥け、時代劇スターとしてだけではなく、俳優、歌手としての存在感を増すことができました」。
最後に、長田さんはこう語ってくれました。
ショーをいかに盛上げるかを考えたスタッフたちのアイデアが、J-POPきってのファンキーナンバーを生み出した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.マイ・ウェイ/ポール・アンカ
M2.夜明けまで/松平健
M3.マツケンサンバⅠ/松平健
M4.マツケンサンバⅡ/松平健
117回目の今日お届けしたのは、「稲垣潤一/クリスマスキャロルの頃には」でした
「小学生の時に初めて聴いた、ビートルズ。歌詞の内容は分からなかったけど、とにかくカッコ良かった。自分も歌手になろう、と決めたのはその頃です。そして、中学に進学して、友達とバンドを組んで、僕はドラムとボーカルを担当することになったんです」。音楽を始めた頃について、稲垣潤一さん本人はこう振り返ります。
1953年7月、宮城県仙台市に生まれた稲垣潤一は、中学校からバンド活動を始め、高校を卒業した1972年の春には、地元仙台のライブハウスなどで、セミプロバンドのボーカルとして活躍するようになります。やがて稲垣潤一の存在は、東京でも知られるようになり、1975年には、神奈川県横須賀市や、東京都立川市にある米軍基地内のライブハウスやディスコでも演奏するようになります。その後、再び地元仙台を中心に音楽活動をしていた稲垣潤一のもとに、1980年夏、プロデビューの話が舞い込みます。
「仙台のライブハウスで歌っていた時、事務所とTV局のスタッフが一緒にライブを観にやって来て、僕は1本のデモテープを渡したんです。後日、そのデモテープが、レコード会社に渡って、トントン拍子にデビューの話が決まっていったんです」。レコード会社、所属事務所のスタッフは、稲垣潤一の一番の魅力、個性的でハスキーな歌声を活かすには、ロックではなく、POPナンバーを歌うのがベストだろう、と考え、彼がセミプロ時代に頻繁に歌っていた70年代の洋楽「Your Song」「We are all alone」をカバーしたデモテープを作成。改めて、彼の声の響きの良さを確認したスタッフは、“大人のJ-POPを歌う、日本のAORシンガー”という位置づけで、稲垣潤一を売り出すことを計画します。
こうして、1982年1月、稲垣潤一はシングル「雨のリグレット」でデビューします。
「“大人のJ-POP”をテーマにデビューした後、楽曲を売ることを軸に考えるのではなく、ライブを中心に僕の歌を聴いてもらおう、という話になって、デビュー直後は、僕はスタッフと一緒にワゴン車に乗って全国のライブハウスを回ったんですよ」。デビュー当時を、稲垣さんはこう振返ります。
そして、その年の10月に発売した、稲垣潤一3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」が、彼の音楽人生の新たな扉を開くキッカケとなるのでした。
1982年10月に発売した、稲垣潤一3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」は、セールチャート最高位8位、約31万枚のセールスを記録、およそ半年近くに渡ってセールチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「この曲の作詞を担当してくれた秋元康さんは、当時、ニッポン放送で放送作家として活躍し始めていた時期で、作詞家としてはまだ作品を手がけた経験が無かったんです。たまたま、事務所のスタッフが彼を知っていたので、幾つか作品を見せてもらうと、歌詞の中に他の作詞家にない言葉遣いがあって、これは使えるんじゃないかと思い、彼にお願いしたんです」。
シングル「ドラマティック・レイン」は、発売直後から、全国各地のラジオ局で頻繁にオンエアされ、稲垣潤一の人気に一気に火がつきます。
その後、稲垣潤一はシングルは、ドラマティックレインほどのヒットにはならないものの、1年に1枚のペースで発売していったアルバムは、いずれも約20万枚近くの売上を記録、まずまずの結果を残します。
「シングルヒットは無かったけど、アルバムが毎回そこそこ売れていたし、ライブに足を運んでくれる人も増えていたので、
自分としては結果に納得していました。シングル曲は、アルバムを象徴する、名刺代わりのような曲と割り切って作っていたんです」。
1985年春、稲垣潤一の次のアルバムの楽曲候補曲の中にあった、秋元康が作詞した曲が、再び彼の音楽人生の扉を開きます。「レコーディングスタジオで、秋元さんから歌詞が送られてくるのを待っていたら、FAXで一枚の歌詞が届いたんです。でも、そのFAXに書かれた歌詞とメロディを合わせてみたら、言葉がうまくはまらなかったので、これはおかしい、と思って秋元さんに連絡しました。
「ドラマティック・レイン」の時と違って、この頃の秋元さんは、おニャン子クラブなどを手掛け、超売れっ子になって、忙しさのあまり、どうやら間違って、FAXを送ってきたみたいなんです。でも、歌詞のテーマや内容は良くできていたので、少しだけ歌詞を手直してもらって、曲として完成させ、アルバムからの先行シングルとして発売することになったんです」。
こうして1986年2月、1枚の間違いFAXから生まれた、稲垣潤一の10枚目のシングル「1ダースの言い訳」は発売されます。
1986年2月に発売された、稲垣潤一10枚目のシングル「1ダースの言い訳」は、三洋電機「SANYO CDミニコン」のCMソングにも起用され、多くの人々の記憶に、稲垣潤一の名前を刻み込みます。さらに翌1987年、稲垣潤一はその年の大晦日に行われた、第38回NHK紅白歌合戦に初出場し、さらに知名度をUPしていきます。
「知名度があがるにつれて、ライブの本数も増えて、僕を取り巻く音楽環境は随分と変わっていきました。でも僕は、“何年経っても色あせない、J-POPのスタンダードナンバーを作って歌う”というデビュー当初の自分の夢だけは、いつも心の片隅において曲作りに取り組み続けたんです」。
そんな稲垣潤一の下へ、1992年夏、ドラマの主題歌提供の話が舞い込みます。
「ちょうど、1年前に、アルバム収録曲のひとつとして集めていた曲の手直しが終わったタイミングだったんです。
曲が完成し、次は歌詞だ、と思っていた時に、ドラマ主題歌の話をいただいたんですが、話を聞いてみると、ドラマの企画スタッフに、秋元康さんも加わっていたんです。だから、ドラマのストーリーを把握している彼に作詞をお願いしました」。
「実は、秋元さんから届いた歌詞を見せてもらったとき、同じ言葉が、曲の中に8回も出てくるので、「ちょっとくどくないですか」と聞いたんですが、秋元さんは「そのくどさが、聴く人の耳に残っていいんです」と言うんです。最終的には
手直しせずに、そのまま歌詞として採用しました」。
「とにかく、この曲が、完成するのに1年もかかっていなかったら、ドラマの主題歌の話が無かったら、そして、秋元さんがドラマの企画スタッフに居なかったら、この曲は全く別の形で発表されていたと思います。偶然の重なりがあったからこそ、生まれた曲なんです」。
こうして1992年10月、TBS系ドラマ『ホーム・ワーク』の主題歌として起用された、稲垣潤一26枚目のシングル「クリスマスキャロルの頃には」がリリースされます。
1992年10月に発売された、稲垣潤一の26枚目のシングル「クリスマスキャロルの頃には」は、彼にとって初めてセールスチャート最高位1位を記録、およそ140万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「発売から17年経った今でも、この曲は、クリスマスが近づいてくると、オリジナルバージョンはもちろん、様々な形にアレンジされたバージョンが、TVやラジオから流れて、多くの人達に耳にしてもらえる。シングルチャート1位を獲ったのは嬉しかったけど、一番嬉しいのは“何年経っても色あせない、J-POPのスタンダードナンバーを歌う”という自分の夢を、この曲が叶えてくれたことです」。
最後に、稲垣さんはこう語ってくれました。
さまざまなタイミングが重なり、J-POPのクリスマススタンダードが誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.We are all alone/Boz Scaggs
M2.ドラマティック・レイン/稲垣潤一
M3.1ダースの言い訳/稲垣潤一
M4.クリスマスキャロルの頃には/稲垣潤一
116回目の今日お届けしたのは、「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT/世界の終わり」でした
1968年7月、神奈川県藤沢市に住むサラリーマン家庭に生まれたチバユウスケは、1984年春、高校進学後に、友人達とザ・モッズやルースターズのカバーバンド「ドランカー」を結成します。1988年春、明治学院大学に進学したチバユウスケは、大学内の音楽サークル「ソング・ライツ」に入部し、同級生たちと4人組バンド「ミッシェル・ガン・エレファント」を結成します。ミッシェル・ガン・エレファントは、イギリスのパンク・ロック・バンド「ザ・ダムド」や「ザ・ジャム」のカバー曲に加えて、チバが歌詞を書き、他のメンバーが曲を作ったオリジナル曲も演奏するようになります。
その後、ミッシェル・ガン・エレファントは、メンバー間の音楽性の相違からドラマーとベースが脱退、新たにドラマーのクハラカズユキ、そしてクハラの友人でベースの、ウエノコウジが加入します。
1991年4月、東京・下北沢のライブハウス「屋根裏」で初めて本格的なライブを行ったミッシェル・ガン・エレファントは、その後、下北沢や渋谷のライブハウスを中心に活動していきます。
1993年8月、ミッシェル・ガン・エレファントはライブハウス「屋根裏」の7周年記念のオムニバスCDに参加、これをキッカケにインディーズレーベル「UKプロジェクト」から声を掛けられ、11月にライブアルバム『MAXIMUM! MAXIMUM!! MAXIMUM!!』を発売します。結成直後は僅か数十人だったライブの動員も、回を重ねるごとに増え、アルバム発売記念のライブでは、およそ100人近くを集めるまで成長していきます。
翌1994年1月、ミッシェル・ガン・エレファントは、チバユウスケが敬愛するイギリスのパブロックバンド「DR.FEELGOOD」の元メンバー、ウィルコ・ジョンソン・バンドの来日ライブのフロントアクトとして、ステージに立ちます。
「高校時代からパンク・ロックに傾倒していたチバは、彼が20歳頃に、ウィルコ・ジョンソン率いるDR.FEELGOODの音楽の出会ってから、ウィルコ・ジョンソンが絶対的な存在となっていたんです。そんな憧れのミュージシャンのフロントアクトを務めたんですから、チバはもちろん、メンバー全員舞い上がっていたそうです」。
後に、バンドのマネージャーを務めた能野さんは、当時のことについてこう話してくれました。
同じ年の6月、バンドを脱退したギタリストに代わって、スタッフの紹介でアベフトシが、ミッシェル・ガン・エレファントに加入、伝説のメンバー4人がついに揃うことになります。翌1995年8月、それまで下北沢や渋谷のライブハウスを中心に活動していたミッシェル・ガン・エレファントは、初めて名古屋・大阪のライブハウスを回るツアーを行い、さらに東京・渋谷クラブクアトロで初のワンマンライブを行います。そして、そのライブを観に来ていたのが、後にマネージャーとなる能野さんでした。
「彼らのライブを初めて観た時、「なんて生意気なバンドだ」と思いました。当時も、メンバー全員スーツでビシッと決め、韋駄天のように繰り出す8ビートナンバーで、ライブに詰めかけたオーディエンスを圧倒していた姿が強く記憶に残っています」。能野さんは、当時についてこう振り返ります。
能野さんは、ミッシェル・ガン・エレファントのライブを初めて観た翌日、直ぐにメンバーに連絡し、マネージメント契約を結びます。さらに、コロムビアレコード・トライアドレーベルと契約したミッシェル・ガン・エレファントは、1995年10月、インディーズレーベルから、ミニアルバム『wonder style』をリリースします。
1995年10月、ミッシェル・ガン・エレファントが発売したミニアルバム『wonder style』。TVやCMタイアップ曲重視になっていたJ-POP全盛期の時代に、聴く人をまるで追い込んでいくような、ミッシェル・ガン・エレファントの激しいロックンロールは、新鮮に映り、純然たるロックファンから支持を集めるようになっていきます。
「彼らが目指していた音楽は、何もないんです。とにかく、その時自分達がやりたいと感じた音楽を、やりたいようにやる。それだけを考えていました」。能野さんはこう語ります。
約1ヵ月に渡るロンドンでのレコーディングを終えたミッシェル・ガン・エレファントは、11月から全国8都市を回るライブハウスツアーを行います。そして、翌年に控えた、メジャーデビュー1stシングルとして、ある曲が選ばれます。
「ミッシェル・ガン・エレファントの曲のほとんどは、チバが歌詞を書き、メンバー全員でメロディを作っていくスタイルです。チバが書く歌詞は、自虐的な部分とその裏返しにある攻撃性みたいなものを、人間臭くグチャグチャにして書いているのが特徴です。歌詞を書く時は、チバ自身、常に自分と向き合って、その時感じたことを、書いていました」。
「この曲も、チバが歌詞を書いていますが、曲はミッシェル・ガン・エレファントとして作った曲ではないんです。
チバ、アベ、ウエノ、クハラのメンバーになる前に、曲としてはあったはずです。作られた時期が、いつなのかははっきりとは分かりませんが、デビューアルバムを作るためのロンドンレコーディングで、ミッシェル・ガン・エレファントの曲として完成させたんです」。
「この曲を、1stシングルとして選んだのも、その時のミッシェル・ガン・エレファントとしての意思を象徴している曲だからこそ、デビューシングルとして選んだんです。この時点で他に、1stシングルになる曲は無かったと思います」。
こうして1996年2月、ミッシェル・ガン・エレファントの1stシングル「世界の終わり」は発売されます。
1996年2月に発売された、ミッシェル・ガン・エレファントの1stシングル「世界の終わり」は、7年後の2003年11月に行われた、彼らのラストライブでは、ラストナンバーとして演奏されました。
「ミッシェル・ガン・エレファントにとって、この曲は数ある曲の中のひとつであり、ひとつの歌でしかないんです。メンバーは、その時感じた欲望のままに、やりたいようにやる、という人間誰もが持っている能動的な気持ちで、この曲を1stシングルに選び、ラストライブでも、ラストナンバーとして選んだんです。
曲に対して、特別な感情を持っている訳ではなく、この曲を聴いた人達が、この曲に対してどんな風に感じてくれたのか。それが一番大切なことだと思います」。
最後に、能野さんはこう語ってくれました。
活動期間僅か6年。日本のロックシーンを駆け抜けたバンドが残した、ロックの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.GT400/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
M2.マシュマロ・モンスター/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
M3.世界の終わり/THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
115回目の今日お届けしたのは、「大塚愛/PEACH」でした
1982年9月、大阪市に生まれた大塚愛は、母親の勧めで4歳からクラシックピアノを習い始めます。
中学に入ると、ピアノの先生は彼女に、クラシックではなく、流行りのポップスを弾くことを提案。慣れ親しんだTVの歌番組や、ドラマの主題歌のピアノアレンジを弾くようになって、大塚愛のピアノの腕前はメキメキと上達していきます。
1997年春、地元の高校に進学した大塚愛は、ピアノの発表会で初めて作曲にチャレンジ。その曲は、ピアノの先生や友人からも高く評価されます。その後、大塚愛は、ドリームズ・カム・トゥルーやMISIAなどに憧れ、ピアノを弾くだけでなく、歌を歌うことにも興味を抱くようになっていきます。
2000年春、大阪芸術大学短期大学部保育学科に進学した大塚愛は、友人からの依頼で曲を作ったことをキッカケに、友人とユニット「Himawari」を結成し、彼女自身がボーカルを担当、音楽活動を本格化していきます。
「デビュー後、彼女の大きな財産となったのが、高校から短大にかけて、彼女がピアノの弾き語りで作った、およそ50〜60曲にものぼる曲の数々です。曲の完成度は高く、メジャーデビュー後に発表した、大塚愛の曲の原曲となっています」。
後に、レコード会社の担当ディレクターを務めた、澤村さんはこう言います。
2002年春、短大卒業と同時に自然消滅した「Himawari」でしたが、大塚愛は、自らのアーティストとしての可能性を試すために、それまで作っていた曲を収めたデモテープを、いくつかのレコード会社に送ります。
その中の一つ、エイベックスからアプローチを受けた、大塚愛は、翌2003年9月、シングル「桃ノ花ビラ」でデビューします。2003年9月、大塚愛が発売した1stシングル「桃ノ花ビラ」は、日本テレビ系ドラマ『すいか』の主題歌として起用されます。さらに、それから3ヵ月後の12月に発売した、2ndシングル「さくらんぼ」は、フジテレビ系バラエティ番組『めちゃ2イケてるっ!』のエンディングテーマ曲に起用され、発売後にじわじわとセールスチャートを上昇、チャート初登場こそ20位でしたが、発売12週目に9位を記録。さらにその後も上昇し、最高位5位、最終的には1年以上もランクインし続けるロングヒット曲となり、大塚愛の名前を広めるキッカケとなります。
「最初はスタッフの中で、「さくらんぼ」のような元気あふれる曲をデビュー曲に推す声もありました。しかし、「大塚愛は勢いでデビューして、消えていくタイプのアーティストではない。最初は、しっかりとした曲で彼女の魅力を伝えて、次に「さくらんぼ」のような楽しい曲で、新しい展開を考えていくべきだ」という声が大勢を占め、曲のリリースの順番が変更になったんです」。レコード会社の担当ディレクターを務めた、澤村さんは、デビュー当時をこう振返ります。
翌2004年、大塚愛は4枚のシングルと2枚のアルバムを発売。さらに、翌2005年に入ると、5月に発売した両A面シングル「SMILY/ビー玉」が、初めてのセールスチャート1位を獲得します。さらに、大塚愛は、この年、女優業にもチャレンジ。6月に発売されたDVDドラマ『東京フレンズ』に初出演し、瑛太や佐藤隆太、真木ようこといった新鋭の俳優たちともにメインキャストを務めます、
「女優を経験したことで音楽の幅が広がったのは間違いありません。彼女の曲は恋愛をテーマに作った曲が中心で、実体験もあれば、想像だけの曲もあると思います。色んな事を経験し、その経験を曲作りに活かしていく。例えるなら、女性漫画家ですね。自らストーリーを考え、漫画を描いていくように、歌詞を書き、次に、その歌詞が活きるような、メロディを作っていく。歌手だけじゃなく、女優を経験したことで、シンガーソングライターとしての彼女の創造力が、成長していったんです」。
2005年9月に発売された、大塚愛10枚目のシングル「プラネタリウム」は、「SMILY/ビー玉」に続いてセールスチャート最高位1位を獲得、約34万枚の売上を記録します。さらに翌2006年には、好評を集めたドラマ『東京フレンズ』の映画版にも出演し、精力的に活動します。そして翌2007年に入って間もなく、大塚愛はその年の夏に発売を予定していたシングルの制作に取り掛かります。
「彼女の曲は、同じ恋愛がテーマでも、2パターンあるのが特徴です。一つ目は、親しみやすい言葉を歌詞に綴って、同じ世代の多くの女性の心掴む、バラード曲です。感傷的に浸った内容ではなく、恋に対して前向きな気持ちで、真剣に取り組んでいる姿を描いた、曲を聴いた人達が曲に対して感情移入し、共感できるパターンです。そして、もう一つは、真面目なバラードとは逆の、明るいお遊び的な曲。歌詞も、言葉遊びをした内容が多く、このバリエーションが、彼女が、年齢、性別を超えて、多くの人達に親しみを持ってもらえる秘密だと思います」。
「この曲は、もちろん、明るいお遊び的なタイプの曲です。“ひっくり返ったハート”をテーマに、付き合いの長いカップルが頻繁に喧嘩をする、いわゆる倦怠期を迎えた時の様子を歌っている曲なんです。ハートがひっくり返ったら、桃の形や人間のお尻の形に見えますよね。その点を上手く、歌詞の中に言葉として当てはめて描いているんです」。
「逆に、両A面となったもう一方の曲のタイトルは、そのものズバリ「HEART」。こちらは揺れ動く女性の心をテーマに歌った、切ないミディアム・ナンバーに仕上がっています。両A面となった2曲が、“ひっくり返りながら”うまく結びつくように考えて作られているんです」。
こうして2007年7月、大塚愛15枚目のシングル「PEACH」は、「HEART」と両A面シングル扱いで発売されます。
2007年7月に発売された、大塚愛15枚目のシングル「PEACH」。
「切ないバラード曲を歌って、同じ世代の多くの女性から共感を集めている大塚愛ですが、その一方で、「PEACH」に代表されるように、明るくて御機嫌なPOPソングを歌えるのも、彼女の魅力の一つです。特に、両A面扱いで発売された「PEACH/HEART」は、1枚で大塚愛の魅力を両方感じることができるシングルです」。
最後に、澤村さんはこう語ってくれました。
女性シンガーソングライターとしての魅力を詰め込んだ、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.LOVE LOVE LOVE/DREAMS COME TRUE
M2.桃ノ花ビラ/大塚愛
M3.プラネタリウム/大塚愛
M4.PEACH/大塚愛
114回目の今日お届けしたのは、「二階堂和美/Lovers Rock」でした
「小学生の頃、ピンクレディーや松田聖子さんの歌真似をしたり、TVCMを一緒に歌ったり、とにかく歌に関するあらゆることの真似をするようになったのが、歌を意識し始めたキッカケです。中学に入学した後は、姉が持っていたザ・ブルー・ハーツやレベッカ、竹内まりやなどが入ったカセットテープを聴いて、同じように真似をしていました。とにかく、20歳頃まで、真似することで、色んな物を吸収していたんです」。
自らの音楽との関わりについて、二階堂和美さん本人は当時についてこう振り返ります。
1974年、広島県大竹市のお寺の娘として生まれた二階堂和美は、物まねをキッカケに音楽と触れ合うようになります。
その後、地元の高校に進学した二階堂和美は、友人からの誘いでガンズ・アンド・ローゼズのカバーバンドに加入します。「それまでは、バンドをやりたかったんですけど、自分からやる勇気が無かったんです。だから、「ボーカルが抜けたからバンドに入らない?」と誘いを受けた時は、ガンズ・アンド・ローゼズが、一体どんな曲を歌っているかは知らないままに、二つ返事で加入することを決めたんです」。
さらに、大学に進学後も、二階堂和美は、軽音楽部に入部し、ハードロックバンドで音楽活動を続けていきます。
1995年、二階堂和美は大学の友人達と結成した5人編成のバンド「ひなげし」にボーカルとして参加。学生生活の傍らで、中国地方や、九州のライブハウスに出演します。さらに、1997年に入ると、「ひなげし」の活動に加えて、弾き語りスタイルでのソロ活動もスタートさせ、翌1998年、二階堂和美は、プロミュージシャンを夢見て上京します。
「「ひなげし」の活動中、レコード会社からデビューの誘いを受けたんです。でもその時は、バンドメンバーみんな、プロになることを考えていなかったから、断ったんです。バンドは、そのまま卒業に合わせて自然消滅。私ひとり、歌を歌い続け、卒業と同時に上京したんです」。
あてもなく、上京した二階堂和美でしたが、思わぬ形でチャンスは舞い込み、翌1999年8月に、二階堂和美はアルバム『にかたま』を発売することになるのでした。
1999年8月、二階堂和美が発売した1stアルバム『にかたま』。
「「ひなげし」時代に誘いを受けたレコード会社のスタッフから、プロモーション用のデモテープを作ってみようと誘われ、
それで作ったカセットテープが、偶然にもロックバンド「筋肉少女帯」の事務所のスタッフの目にとまったんです。ちょうど、筋肉少女帯のメンバー、内田雄一郎さんが、彼自身のレーベルを立ち上げたいと考えていた時期と重なって、内田さんプロデュースで私の作品を発売してもらえることになったんです」。
念願のアルバムを発売した二階堂和美でしたが、発売間際になって彼女自身の中で、ひとつの疑問が湧き、1stアルバムは僅か600枚をリリースしただけで廃盤となります。
「アルバムを発売し、ライブを重ね、多くの人達と知り合っていく内に、私はプロのミュージシャンとしての意識が少しずつ芽生えてきました。しかし、自分が憧れたプロに一歩一歩近づくにつれて、自分のやりたい音楽とのギャップが大きくなっていったんです。『にかたま』の音質に対する自分のこだわりと、現実とのギャップに納得ができなくなって、その後の契約も全て白紙に戻して、改めて自分のペースで、自分のやりたい音楽を探すことに決めたんです」。
その後、二階堂和美は弾き語りでの活動を続け、2001年11月には2枚目のインディーズ・アルバム『たね1』を発売します。「曲を作る時意識するのは、まず、自分で歌いたくなるようなメロディです。歌詞は、聞き間違いをしないようなもので、普遍的で美しい言葉を選んで作るようにしています。また、歌詞とメロディ、両方を合わせた時に、言葉そのもののリズムやアクセントが損なわれないようにも心がけています。あと、もう一つ付け加えるならば、自分の言葉として歌えるようなものですね。それは、自分の体験を歌うということではなく、曲の中に自分を投影できるかどうかなんです」。
弾き語りによる、彼女ならではの独特の歌の世界観を、自分のペースで作り続けていた二階堂和美は、2003年4月に、3枚目となるインディーズ・ミニアルバム『また、おとしましたよ』を発売します。
2003年4月、二階堂和美が発売した、3枚目のインディーズ・アルバム『また、おとしましたよ』。
「1枚目のアルバムを発売した頃は、音楽が好きで無くなっていました。しかし、レコード会社を離れ、
インディーズからCDを発売するようになってからは、自分が好きだと思えることや、好きな人と出会えるようになって、周りにどんどん面白い人達が増えていったんです。アルバム『また、おとしましたよ』を発売した前年の2002年に出会った、ヒップホップのラッパーで、トラックメイカーのイルリメさんも、その一人でした。彼のライブを観た瞬間、この人は飛び抜けていると思いました。イルリメさんも私のライブに驚いてくれていました。お互いに自分にない要素を感じたのだと思います。その後、私が、彼のラップの曲を弾き語りでカバーした時、私は、
彼のラップに、笠置シヅ子さんの「買物ブギー」に近い感覚があることに気づき、私は彼に、私の曲を書いてくれるように頼んだのです」。
「それまで私は、シンガーソングライターを名乗っていましたけど、正直、作詞が苦手でした。
時にはメロディに歌詞を載せなかったり、歌謡曲のカバーをしたり、とにかく自分が作った曲では私の歌唱力が生かせていない、と感じていたんです。
そもそも私はシンガーソングライターになりたいと思っていたわけではないので、曲は曲。歌詞は歌詞。それぞれ分業して作る昔の歌謡曲のやり方に憧れがありました。イルリメさんに出会って、それが出来る、と思いました。彼にその話をすると、期待以上に乗ってくれ、どんどん先へ先へと駒を進めてくれました。
人の書いた歌詞なら、私はもっと演者に徹して歌を歌うことができると考え、作詞は全てイルリメさん、メロディは、私とイルリメさんの共作で作ることにしました。また演奏も、二人が好きな友人アーティストに依頼したんです」。
「アルバム作りは、2003年後半の企画段階から数えると、およそ3年、2005年までかかりました。その中で、終わりに近い時期に生まれたのが、この曲です。
この時、私は東京から広島に戻って音楽活動を続けていた時期で、イルリメさんは東京在住でしたので、曲のほとんどが、メールのやりとりによって進められました。
この曲も、一番最初は、私の携帯にイルリメさんが書いた歌詞のワンコーラスが送られてきたんです。
それまでの彼の作品の中でも、最もストレートな表現方法で綴られた歌詞を見た瞬間、私は「これは、歌謡曲だ」と瞬間的に思って、私は自分が子どもの頃、慣れ親しんでいた歌謡曲のような曲を、ついに生み出すことができる」という喜びでいっぱいでした」。「ただ、その後、イルリメさんが送ってくれたメロディを聴いたとき、私が歌詞から感じていたイメージとは少し違っていたんです。
それでもう少しメロディを考えさせて欲しい、とイルリメさんに頼みました。彼もいい気はしなかったと思いますが、私は数カ月かけて、ひとつひとつの言葉に一番ぴったりとはまるメロディを探って練り直しました。改めてイルリメさんに聴かせたところ、彼からもいい返事が返ってきました。
私は、かつてない手応えを感じました。間もなくして、イルリメさんから2番の歌詞が届き、お互いにメロディや歌詞の追加修正を繰り返して、曲は完成しました」。
「アルバムに収録するにあたって、私はこの曲をもっとポップスらしくしたかったので、バンド演奏をSAKEROCKにお願いしました。曲を弾き語りバージョンで聴いた彼らは、これはこれで完成しているけど、と言いながらも、コードを増やしたり、しゃれたアレンジを施してくれたんです。
細かいアレンジの修正を何度か図った後、完成したんです」。
こうして、二階堂和美が約3年かけて作った4枚目のアルバム『二階堂和美のアルバム』は、2006年8月に発売され、同じ8月にこの曲「Lovers Rock」は、7inchアナログ盤として発売されます。
2006年8月に発売された、二階堂和美の『Lovesr Rock』。
「私はこの曲が完成するまで、歌詞を書くことが苦手で、演者としての迷いがどこかにあったんです。でも、この「Lovers Rock」が完成したおかげで、私は、シンガーソングライターとしてではなく、「私は独りの歌手です」と、胸を張って宣言できました。私が仮に紅白歌合戦に出演しても、この歌なら自信を持って歌える。そう思いました」。
最後に、二階堂さんはこう語ってくれました。
独りの歌手としての大きな自信を掴むキッカケとなった、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.SWEET MEMORIES/松田聖子
M2.散髪ブギ/二階堂和美
M3.脈拍/二階堂和美
M4.Lovers Rock/二階堂和美
113回目の今日お届けしたのは、「TRICERATOPS/FEVER」でした
「「どうやったら、お客さんの数は増えますかね」。彼は僕と初めて会った時、いきなりこう聞いてきたんです。渡辺プロダクションのプロデューサーから、「面白いバンドがいるから、一緒にライブを観に行かないか」と誘われて、下北沢のライブハウス「251」で出会ったのが、彼らでした。ギター、ベース、ドラムで構成されているシンプルな3ピースバンドで、どこかぎこちなく、初々しさはありましたけど、逆に彼らのシンプルなロックが印象的でした」。
1996年の秋、TRICERATOPSの3人と初めて会った時の様子について、後にレコード会社の担当ディレクターを務めた中村さんは、こう言います。
幼い頃から、ビートルズを聴いたり、ディズニ—のミュージカル映画を観るなど、音楽に囲まれて育った和田唱は、1987年、彼が小学校6年の時に観た、マイケル・ジャクソンの来日コンサートで、音楽の素晴らしさを改めて実感し、本格的に音楽の道を志すようになります。1995年、和田は、友人の紹介でベースの林幸治と出会い、曲作りを本格化、さらに翌1996年には、知人の紹介で、当時CHAGE and ASKAのスタジオミュージシャンとして活動していたドラマーの吉田佳史と出会い意気投合します。そして、和田、林、吉田の3人は、3ピースバンド「TRICERATOPS」を結成し、7月に渋谷のライブハウス「La Mama」で初ライブを行います。
「初ライブの後、すでにマンスリーライブを始めていたTRICERATOPSでしたが、集客力が問題で、僕らが、下北沢の「251」で彼らのライブを初めて観た夜も、お客はたった数人でした。だから和田は、お客さんの数を増やすために、何をすればいいのか悩み、僕に聞いてきたんです。
僕は、和田が作っていたシンプルで、センス溢れるメロディならば、何かをキッカケに売れるのではないかと感じていたので、メンバー3人と、プロデューサーの木崎さんと僕、そしてマネージャーで、TRICERATOPSのメジャーデビューに向けたプロジェクトをスタートさせたんです」。
翌1997年5月、TRICERATOPSは、インディーズレーベルのbounce recordsからミニアルバム『TRICERATOPS』を、
タワーレコード限定で発売します。「ミニアルバムを、敢えてインディーズレーベルから発売したのは、実験でした。ある程度は売れるとは思っていたので、まずはインディーズで発売して試してみたかったんです。そして、CDを買ってTRICERATOPSを聴いてくれた人達の、彼らの音楽への熱が冷めない内に、直ぐにメジャーデビューさせたんです」。
ミニアルバム『TRICERATOPS』の発売から、僅か2ヵ月後の1997年7月、TRICERATOPSはシングル「Raspberry」で、エピック・ソニーからデビューします。
1997年7月、TRICERATOPSは、1stシングル「Raspberry」をリリースします。
「デビューシングル「Raspberry」は、最初は2曲目か、3曲目にしようか、という意見もありました。しかし、木崎さんと僕、マネージャーの3人でプロモーション計画を練っていく中で、やっぱりTRICERATOPSのデビューシングルは、彼らの持ち味でもある、ポップ感溢れるロックで攻めるしかない、という結論で、変更されたんです。デビューシングルで、初めてTRICERATOPSを聴いた人達に、その後もずっと彼らの音楽を聴いて、バンドとしての成長を楽しみにしてもらいたい、
そんな願いを込めることにしたんです。まずは、シンプルだけど、キャッチーな曲で、聴いた人達を振り向かせよう、という作戦でした」。
「TRICERATOPSがデビューした、1997年当時の音楽マーケットは、TV主題歌やCMタイアップが付きやすいポップスが主流で、ロックバンドにとっては、斜陽の時代でした。しかし、プロデューサーの木崎さんは、それまで木崎さんが手掛けた、アグネス・チャン、原田真二、沢田研二、大沢誉志幸などのプロデュース経験から、TRICERATOPSのシンプルなロックに売れる可能性を感じていたんです。“どんなミュージシャンでも、初めはシンプルな音楽でスタートし、長年音楽活動を続けている間に、色んな要素をプラスして、自分達だけのオリジナル音楽を作っていく。TRICERATOPSも、シンプルで、ポップ感溢れるセンスを持っている訳だから、ライブで聴いた音楽をそのままCDにするぐらいのシンプルな気持ちで、曲を作ればきっと売れる”と、木崎さんは話していました。」
ディレクターを担当した中村さんは、当時についてこう振り返ります。
TRICERATOPSは、作品を発売する傍らで、デビュー直前の5月から12月にかけて、同じ時期にデビューしたDragon AshやGRAPEVINEなどと一緒に、全国のライブハウスを回るライブイベントにも出演、それぞれ目指す音楽性は異なるものの、ライブを通して、自分達のスタイルを磨くための切磋琢磨をしていきます。そして翌1998年1月、TRICERATOPSは、3枚目のシングル「ロケットに乗って」を発売します。
1998年1月に発売した、TRICERATOPS3枚目のシングル「ロケットに乗って」。「デビュー当初に作ったプロモーション計画で決めた、リリースの最後がこの3枚目のシングル「ロケットに乗って」でした。発売当初、タワーレコード渋谷店の初回予約枚数が700枚で、当時、勢いのあったバンド「SUPERCAR」より売れたんです。これで僕らスタッフの頭の中にあった、TRICERATOPSは「売れる」という自信が、確信に変わりました」。
TRICERATOPSは、3月に1stアルバム『TRICERATOPS』を発売した後、東京・新宿「日清パワーステーション」を始め全国3ヵ所を回る、初めての単独ライブハウスツアーを実施。7月には、4枚目のシングル「MASCARA&MASCARAS」を発売。その直後には、再び、全国6ヵ所を回るライブハウスツアーを行います。そして、ライブツアーが終わったTRICERATOPSは、冬に発売を予定していた2枚目のアルバムのレコーディングをスタートさせ、リードシングルとして、11月にある曲を発売することを決めます。
「この曲は、1stアルバムを作っていた1997年の秋頃に、和田が作ったデモテープの中にありました。シンプルなギターリフと8ビートの組み合わせ、そしてディスコ調のリズムは、キャッチーで疾走感に溢れ、聴いた人の心を必ず掴むだろうと、デモテープを聴いたメンバーはもちろん、プロデューサーの木崎さんや僕もみんな一致した考えでした。ただ、1stアルバムまでは、シンプルで、ポップ感溢れるロックで攻めるというプロモーション計画だったので、敢えてお蔵入りにしていたんです」。
「デビューから1年が経ち、TRICERATOPSの認知度は広がっていました。その広がってきたTRICERATOPSの認知度を、より広く、確実なものにするために、みんなが「売れる」と確信を持っていたこの曲を、2ndアルバムに収めて、アルバムからのリードシングルとして発売しようと決めたんです。この時、何か必然的な運命を感じました」。中村さんは、当時をこう振り返ります。
こうして1998年11月、TRICERATOPSは、翌12月に発売される2枚目のアルバムに先駆けて、シングル「FEVER」を発売するのでした。
1998年11月に発売された、TRICERATOPS6枚目のシングル「FEVER」。
「TRICERATOPSの初期を代表する曲は、デビュー曲「Raspberry」と、この「FEVER」で間違いありません。
特に「FEVER」は、シンプルなギターリフと、8ビートの組み合わせで、聴いた人にも分かりやすい。
これこそまさに、TRICERATOPSが目指していた、シンプルなロックなんです」。
最後に、中村さんはこう語ってくれました。
彼らのロックバンドとしてのポジションを確立させた、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.The Way You Make Me Feel/マイケル・ジャクション
M2.Raspberry/TRICERATOPS
M3.ロケットに乗って/TRICERATOPS
M4.FEVER/TRICERATOPS
112回目の今日お届けしたのは、「EAST END×YURI/DA.YO.NE」でした
1985年春、高校に入学して、同じクラスになった、GAKU-MCとYOGGYの二人は、共通の趣味、ブレイクダンスを通
して仲良くなり、翌1986年には二人揃って、生ラップバンド「ファンキー・ニュー・スタイル」に参加します。
さらに1987年、GAKU-MCは、ラップ&DJコンテストで、ROCK-Teeと出会い、意気投合します。それから3年を経て、
1990年、GAKU-MC、YOGGY、ROCK-Teeの3人は、ヒップホップユニット「EAST END」を結成します。
結成間もなく、EAST ENDは、東京・浜松町のライブハウス「浜松町ワルシャワ」で行われたイベント「PEACE BALL」 に、DJ hondaら複数のアーティストと共に出演します。
「当時、日本のHIP HOPはまだ黎明期で、EAST ENDが初めて出演したイベントのお客は、たった二人でした。
それでも、EAST ENDの3人は、自分達がステージに立てるという、喜びを感じたそうです。
その後、EAST ENDは、自分達の身近にあることをテーマにした歌詞と、ダンサーを取り入れたエンターテイメント性の高いライブで評判を呼び、彼らの噂は、HIP HOP好きの間でじわじわと口コミで広がっていったそうです」。
当時の様子について、後にレコード会社の担当ディレクターを務めた浜野さんは、こう言います。
翌1991年秋、EAST ENDはライムスター、メロー・イエローといったHIP HOP系グループと共に、ライブハウス「代々木チョコレートシティ」で月1回の定期ライブをスタート。さらに、バブルガムブラザーズに誘われて、彼らの全国ツアーの
オープニングアクトを務めることになります。
初めは、彼らを知らない人達の前でのライブに、戸惑いを感じていたEAST ENDでしたが、時間が経つに連れ本領発揮、全国ツアーの終盤ではオープニングアクトでありながら客席を総立ちにさせていきます。
こうして、EAST ENDは、翌1992年、インディーズレーベルから、アルバム『Beginning of The END』をリリースするのでした。
1992年、EAST ENDは、元ラッツ&スターのメンバー佐藤義雄が社長を務めていたインディーズレーベル「ファイルレコード」から、ファーストアルバム『Beginning of The END』をリリースします。
「ファイルレコードからアルバムをリリースすることになったのは、川崎クラブチッタで行われたバブルガムブラザーズのイベントに出演していたEAST ENDを見た佐藤社長が、彼らのキャッチーな曲、ライブでのエンターテイメント性を、高く評価して、声を掛けたんだそうです」。
その後もEAST ENDは、数々のイベントに出演したり、「RUN DMC」の来日ライブで、オープニングアクトを務めるなど、一歩一歩、日本の音楽シーンの中で、その存在感を強めていきます。
そして1994年2月、EAST ENDにとっては大きな転機となる、一人の女性との出会いが訪れます。
1994年2月、新宿シアターアップルで行われた、アイドルグループ「東京パフォーマンスドール」のメンバー市井由理のソロライブに、EAST ENDがゲスト出演したんです。市井由理とEAST ENDはもともと個人的な知り合いで、市井が、ライブ中にラップコーナーを作って、EAST ENDにゲスト出演してもらったんです。気軽な気持ちでゲスト出演したのに、ライブは大盛況。GAKUのラップに、市井のラップが加わったライブは、それまで聴いたことのない、完全に新しいタイプの音楽でした」。
ディレクターを担当した浜野さんは、市井由理とEAST ENDとの出会いについて、こう振り返ります。
当日、会場でこのライブを観た、ファイルレコード社長佐藤さんは、EAST ENDと市井に「お前らいいよ。一緒にやってみろよ」とその場で提案、この言葉をキッカケにユニット「EAST END×YURI」が誕生。結成から4ヵ月後の6月には、ミニ・アルバム『denim-ed soul』をリリースします。
「女性アーティスト市井由理がEAST ENDの音楽に加わった事で、表現スタイルの幅が格段に広がっていったと思います。女性の市井の目線で感じたことが、歌詞によりリアルな表現を生み、そのお陰で女性からも共感を得ることができました。それまでのEAST ENDには無かった、とっても大きなプラス要素になったことは間違いありません」。
さらに、EAST END×YURIは、彼らが日常生活で感じたことを素直に綴った歌詞に、当時の日本のHIP HOP音楽では珍しかったある手法を用いて、曲を作っていきます。
「この曲は、当時のアメリカのHIP HOP音楽のヒット曲では当たり前で、今では日本のHIP HOPでよく取り入れられている「サンプリング」で作ったんです。アメリカでは当たり前でも、当時の日本のメジャー音楽シーンでは誰も取り入れてはいませんでした。ジョージ・ベンソンの「Turn Your Love Around’」という曲をサンプリングして作ったんですが、EAST ENDのこの曲がヒットした後、無知で心もないメディアには、「盗作」と呼ばれて、凄く腹が立ったことを覚えています」。
1994年8月、EAST END×YURIの1stミニ・アルバム『denim-ed soul』から、この曲は1stシングルとして発売されます。
「発売当初は、全く売れなかったのに、その年の冬、北海道のFMラジオ局のディレクターが、この曲を個人レベルで気に入って、担当する番組で何度もかけてくれたんです。やがて、その波は、タワーレコード札幌店にも波及、FMラジオ局とタワーレコードがタイアップして、北海道内でヒットし始めたんです。さらにその波は、年が明けると仙台、広島、九州と全国へ広まっていき、曲の知名度はぐんぐん上昇。あとにも先にも、経験したことのない、完全にラジオから生まれたヒット曲でした」。
春の訪れと共に南から到来する桜前線とは逆に、北海道から南下するようにヒットし始めたEAST END×YURIの1stシングル「DA.YO.NE」。
1995年春、「DA.YO.NE」は、日本のHIP HOP音楽としては初めてミリオンセラーという大輪を咲かせるのでした。
1994年8月に発売された、EAST END×YURIの1stシングル「DA.YO.NE」は、発売から4ヵ月経ったその年の12月からセールスチャートを急上昇、最終的に最高位7位、売上枚数も約102万枚を超える大ヒット曲となり、EAST ENDは、翌1995年の大晦日に行われた第46回NHK紅白歌合戦にも初出場します。
「当時は、まだアンダーグラウンドなジャンルであったHIP HOPを、この曲をキッカケに音楽のメジャーシーンに引き上げた彼らの功績は、大きかったと思います。彼らの音楽がヒットした最大の理由は、市井由理のラップ、歌が入ることで、男女の掛け合いの歌詞が、よりリアルに聴こえ、多くの人達から共感を呼んだんだと思います」。
最後に、浜野さんはこう語ってくれました。
日本の音楽シーンに、HIP HOPという新しい音楽ジャンルの花が開いた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.WON’T BE LONG/バブルガムブラザーズ
M2.Taxi/EAST END
M3.Turn Your Love Around’/ジョージ・ベンソン
M4.DA.YO.NE/EAST END×YURI
111回目の今日お届けしたのは、「クリスタル・ケイ/恋におちたら」でした
「彼女は、母親がシンガーだったので、家の中ではいつも音楽がかかっていたし、音楽関係の仕事場に行く機会も多く、物心ついた頃から音楽が身近にあったそうです。実際、彼女はすでに4歳の時に、NECの家庭用ゲーム機「PCエンジン デュオ」のCMソングでCMソングデビューをしていまして、それを皮切りに、その後も、資生堂やスプライトのCMソングを歌うようになったそうです」。
デビュー当時、レコード会社の担当ディレクターを務めていた小林さんは、こう言います。
1986年2月、神奈川県横浜市に生まれたクリスタル・ケイは、横須賀のアメリカンスクールに通いながら、CMソングを歌う歌手として活動を続けていきます。
「CMソングを歌う一方で、彼女はプライベートではジャネット・ジャクソン、TLC、ビヨンセなど、アメリカのヒットチャートを賑わしていた曲に夢中になっていたそうです。中でも、ジャネット・ジャクソンは、一番お気に入りだったそうでです」。
特に、プロのシンガーを目指すというわけではなく、ちょっと遊び感覚でCMを歌っていたクリスタルケイでしたが、1999年、彼女が13歳の時に歌った、サントリーの清涼飲料水「ビタミンウォーター」のCMソングの歌声に、「あの歌声は誰」という問合せが殺到。遊び感覚で歌っていた彼女の人生は、プロのシンガーへと大きくシフトし、その年の7月、彼女は、その「ビタミンウォーター」のCMソング、シングル「Eternal Memories」でデビューするのでした。
1999年7月、クリスタル・ケイは、シングル「Eternal Memories」でデビューします。
「小さい頃から歌っていたせいか、メジャーデビューしても、彼女は歌うことに対して抵抗感は感じていませんでした。」「とにかく、デビューするにあたって心掛けたのは、常に、彼女の一番の売りである歌唱力を最大限発揮できるように、新しいことに色々とチャレンジしようという気持ちでした。それと、固定したプロデューサーにこだわらずに、常に新しいサウンドを求めて、その時代時代に流行っている音楽を聴いて、取り入れていくことでした」。
ディレクターを担当していた小林さんは、デビュー当時をこう振り返ります。
2001年2月、音楽プロデューサーの藤原ヒロシと大沢伸一からの声がけで、クリスタル・ケイは二人が共同プロデュースしたシングル「LOST CHILD」を発売。翌3月に公開された映画『サトラレ』の主題歌として起用されたこの曲で、クリスタル・ケイは知名度をあげていきます。さらに、5月に発売したシングル「Girl’s Night」では、アメリカ・アトランタ在住の日本人R&Bプロデューサー、T・KURAのプロデュースで、R&Bナンバーにもチャレンジ。幅広い音楽を、自らのサウンドに取り入れていきます。そして、翌2002年8月に発売した、9枚目のシングル「hard to say」が、クリスタル・ケイの新境地を開く、キッカケとなります。
2002年8月に、クリスタル・ケイ9枚目のシングルとして発売した、ポップ・ダンス・ナンバー「hard to say」。
「この曲は、彼女が、ライブイベント「FMフェスティバル’01」のファイナルライブに出演した際、「m-flo」のTAKUさんと共演したことがキッカケで生まれた曲なんです。「ラップで始まるけど…」という、子供の声で始まる、斬新かつ、ポップ感溢れるこの曲は、ユーザーに対して、それまでのクリスタル・ケイのイメージとは違った、新鮮なイメージを与えることができました」。ディレクターを担当していた小林さんは、こう振り返ります。
新しいイメージを打ち出すことに成功したクリスタル・ケイは、さらに10月発売の3枚目のアルバム『almost seventeen』で、セールスチャート自己最高位2位を記録。
翌2003年6月には、m-floにゲストボーカルとして参加し、m-flo lovesクリスタル・ケイ名義で「REEEWIND!」を、さらにはクリスタル・ケイlovers m-flo名義でも「I LIKE IT」を、シングル2枚同時発売し、話題となります。
「m-floとコラボした経験が、彼女の音楽の世界観を大きく広げていきました。11月に発売した4枚目のアルバム『4 REAL』では、彼女のR&Bの歌のウマさを生かしながら、より多くの人に聞いてもらえるような曲を、と考えて曲を作り、ポップだけど、R&Bの要素も融合された音楽が生まれたんです」。
翌2004年、クリスタル・ケイは初めてのバラードシングル「Motherland」を含む2枚のシングルとアルバムを発売。その年の夏には、ボイストレーニングとダンスレッスンを兼ねて、ニューヨークへ渡ります。そして、秋も終わりかけた頃、ニューヨークから帰国したクリスタル・ケイの下へ、翌2005年4月にスタートするドラマの主題歌提供の話が舞い込みます。
「この曲は、僕らが何百本も集めたデモテープの中に、あった曲で、当時はまだボーカリストの卵で、作家にもチャレンジしていた坂詰美紗子さんの作品でした。有名、無名問わず、「いい作品を」という基準で選んだのが、この曲でした。 デモテープの段階では、ピアノの弾き語りで、今の曲とは形が違っていたんですが、それを、クリスタル・ケイ自身もアイディアを出して、完成させた曲が、結果的にドラマのプロデューサーからOKを貰って、主題歌に決まったんです」。
「彼女は、基本的に作家が作った曲を歌うことが多いんですが、作家の人達にはR&Bとポップスの融合を
全体的なテーマに置いた上で、二つのポイントに注意しながら、曲を作ってもらっています。」
「一つ目のポイントは、時代の先端を捉えるような、新しい感性を持った曲。そして二つ目のポイントは、曲を聴いた誰もが受け入れやすいメロディです。この曲も、楽曲が持っている強さが、ドラマの主題歌としてうまく噛み合った結果が、ヒットした最大の理由でしょう」。ディレクターを担当していた、小林さんはこう語ります。
フジテレビ系ドラマ『恋におちたら〜僕の成功の秘密〜』の主題歌に起用された、
クリスタル・ケイ18枚目のシングル「恋におちたら」は、2005年5月、発売されました。
2005年5月に発売された、クリスタル・ケイ18枚目のシングル「恋におちたら」は、ドラマタイトルとも上手くリンクした結果、セールスチャートでも最高位2位を記録、年間セールスチャートでも30位を記録するヒット曲となります。
「それまでのクリスタル・ケイは、どちらかと言うとコアなファンが多い女性アーティストでした。しかし、キャッチーで、誰にでも歌いやすく、ポジティブでやさしさに溢れた世界観を表現したこの曲で、クリスタル・ケイのイメージは、誰もが知っているポップアーティストに変わったんです」。
最後に、小林さんはこう語ってくれました。
彼女が、J-POP女性シンガーの代表の一人となった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.リズム・ネイション/ジャネット・ジャクソン
M2.Eternal Memories/クリスタル・ケイ
M3.Hard to say/クリスタル・ケイ
M4.恋におちたら/クリスタル・ケイ
110回目の今日お届けしたのは、「キリンジ/エイリアンズ」でした
「二人が作った曲を初めて聴いたのは、確か1996年の春から夏にかけてだったと思います。当時、私は、ヒップホップアーティスト「かせきさいだぁ」のマネージメント担当で、彼から「友達が作ったデモテープを聴いて欲しい」と1本のカセットテープを渡されたんです。デモテープを聴いた時「いいなぁ、このメロディ。彼らに、直接会って話をしたいな」と思ったんです」。
キリンジとの出会いについて、マネージメントスタッフの柴田さんは、こう振り返ります。
1996年秋、ゲームソフト会社ナムコで、ゲーム音楽を作りながら、音楽活動を続けていた兄・堀込高樹と、フリーターで音楽活動を行っていた弟・堀込泰行の兄弟は、兄弟ユニット「ホリゴメズ」を結成し、一緒に音楽活動をスタートします。
「二人が作った曲のメロディは、彼らが大好きだったスティーリー・ダンやビートルズを意識した作りになっているんですが、歌詞の方は、今の言葉を使って、分かりやすく書いてあるんですね。そして、兄弟ならではのハーモニー。当時から、二人ならではのポップな曲が完成されていました」。
柴田さんと出会った直後、ユニット名を「ホリゴメズ」から「キリンジ」に変更した二人は、1997年5月、トイズファクトリー傘下のインディーズレーベルから、シングル「キリンジ」でデビューします。
キリンジは、『ロッキンオンジャパン』を始め、複数の音楽雑誌で紹介されるなど、音楽関係者の間で話題となり、11月には、2枚目のシングル「冬のオルカ」を発売。そして、音楽マーケットで、やっていけると判断した柴田さんと、キリンジの二人は、メジャーデビューを決めます。
「インディーズ・シングルを2枚発売し、音楽マーケットの反応も良かったので、すぐにレコード会社とメジャーデビューの交渉を始めました。インディーズ盤を発売したトイズファクトリーには、レコード会社のカラーと合わないという理由で断られたんですが、他の4社が手を挙げてくれ、その中から選んだのが、ワーナー・ミュージック・ジャパンでした」。
1998年8月、キリンジはシングル「双子座グラフィティ」で、デビューします。
1998年8月、シングル「双子座グラフィティ」で、メジャーデビューしたキリンジ。
「堀込高樹、堀込泰行の二人が曲のデモテープを作って、アレンジャーの冨田恵一が曲の世界感を広げていく。それが、インディーズ時代から続けてきた、キリンジの曲作りのスタイルです。二人がこだわったのは、メロディ、歌詞、曲の骨格、この3つを大切にした、ポップスを作ることでした。ポップスは、時代に応じた曲もあれば、10年先でも、20年先でも、何時の時代に聴いても変わらない不変的な曲もある。キリンジの二人が目指したのは、何時の時代になっても変わらない不変的なポップスだったんです」。
ネージメントスタッフの柴田さんは、こう語ります。
「キリンジの特徴は、二人、それぞれがシンガーソングライターだという点です。お互いが、歌詞とメロディを持ち寄って一緒にひとつの曲を作るというスタイルではなく、二人が別々に曲を作って、レコーディングを終えるとキリンジの曲になっている、という点ですね。二人の違いといえば、弟の泰行よりも、兄・高樹の方が、作家的な点です。高樹は、曲を作る時、常に弟・泰行が歌うことを前提に曲を作っているんです。ちょっと言い方は悪いかもしれませんが、「この曲を歌ってみろよ」というような、挑発的な曲もあったりします」。
メジャーデビューした1998年にシングル1枚とアルバムを1枚をリリース、翌1999年もシングル1枚、アルバム1枚と、マイペースな活動を続けていたキリンジですが、2000年を迎えるにあたって、マネージメント担当の柴田さんは、ひとつの取り組みに挑戦することを決めます。
「デビュー2年間は、シングルとアルバムを作って、ライブをやって、と同じパターンが続いていたので、2000年はシングル4枚、アルバム1枚、その合間にはライブもやる、と攻撃的なスケジュールを作ったんです。そして2000年に入って最初に出したシングルが、この「アルカディア」でした」。
2000年1月、キリンジが発売した3枚目のシングル「アルカディア」。
「攻撃的に活動することを決めた2000年、その1発目となった、シングル「アルカディア」は、それまでのシティ・ポップス路線のキリンジが、ブルース・ロックにチャレンジした曲でした。レコード会社からは、「キリンジらしくない」と言われたんですが、キリンジの二人にとっては「俺たちはどんな曲にもチャレンジできるんだ」と自信を持った曲でした」。
その後も、キリンジは、4月に4枚目のシングル「グッデイ・グッバイ」を発売、その直後には初めての全国ツアーを行います。そんな、慌ただしいスケジュールの合間をぬって進められていた、ニューアルバム制作の中で、ある曲を先行シングルとして発売する話が決まります。
「この曲は、2000年に発売する曲のデモテープを、まとめて作った中の一曲でした。初めてデモテープを聴いた時、スタッフみんなが「いい曲だね」と褒めて、満場一致で、シングル候補曲になった曲です。
それまでのキリンジは、アッパーな曲ばかりだったんで、そろそろバラード曲が必要なのでは、と感じていたタイミングだったんですね」。
「この曲は、泰行が作った曲で、歌詞も彼が書いたんですけど、実は、難産でした。兄・高樹と弟・泰行の二人を比較した場合、兄・高樹の方が、歌詞を書くのが得意なんですね。この曲も、泰行が書いた歌詞を、高樹が読んで、ダメ出しして、泰行が何度も書き直したんです。泰行が書き直す時、高樹は決して手伝いませんでした。歌詞は、レコーディングギリギリのタイミングで、なんとか完成しました」。
こうして、3枚目のアルバム『3』のリリースに先駆けて、2000年10月、キリンジ6枚目のシングル「エイリアンズ」は発売されました。
2000年10月に発売された、キリンジ6枚目のシングル「エイリアンズ」。この曲も収録されたアルバム『3』は、セールスチャート初登場18位を記録します。
「アマチュア時代を含め、キリンジ二人のやりたい音楽が詰まったアルバム『3』は、先行シングル「エイリアンズ」が多くの人達から支持を集めたお陰で、ヒットしたと言ってもおかしくないと思います。それまでポップな曲ばかり歌ってきたキリンジでしたけど、しっとりとしたバラードも歌えるという、彼らにとっても大きな自信に繋がった曲です」。
最後に、柴田さんはこう語ってくれました。
二人にとって新しい世界を切り開くキッカケとなった、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.彩(エイジャ)/スティーリー・ダン
M2.双子座グラフィティ/キリンジ
M3.アルカディア/キリンジ
M4.エイリアンズ/キリンジ
109回目の今日お届けしたのは、「奥華子/ガーネット」でした
「5歳でピアノを習い始めた彼女は、小学校に入るとブラスバンドでトランペットを始めたそうです。ただ、プライベートではほとんど音楽は聞かなかったそうで、ピアノやトランペットを習っていたのも、彼女の頭の中では、単なる習い事のひとつでしかなかったようです」。
奥華子と音楽の出会いについて、レコード会社の担当スタッフはこう話します。
1978年3月、千葉県船橋市に生まれた少女・奥華子は、小学校でトランペットを習い始め、中学進学後には、地元のオーケストラに入り、演奏活動を続けます。「それまでJ-POPには無縁だった彼女でしたが、この頃から小田和正やオフコースの歌声に惹かれたり、槇原敬之が作った曲の歌詞を読んで、歌に魅力を感じるようになったそうです」。
1994年春、地元の高校に進学した奥華子は、高校3年の時に、友達が曲を作って歌う姿に、「ひょっとしたら自分でもできるかもしれない」と感じ、彼女自身も曲作りにチャレンジします。
彼女が初めて作った曲は、家族や友人からの評判も良く、奥華子の心の奥底に、「自ら曲を作って歌う」ことの小さな自信が芽生えます。
1997年春、音楽大学の器楽科に入学した奥華子は、自分が本当にやりたかった事が、歌を歌うことだと気が付き、翌1998年から、都内のライブハウスで、キーボードの弾き語りでステージに立つようになります。「ライブハウスで歌うようになった彼女ですが、まだこの時は音楽で生計を立てていく、という考えは持っていなかったそうです。
流れるままに身をまかせ、歌い続けていた彼女でしたが、しばらくすると「自分はこのままでいいんだろうか」という迷いが生まれ、ある日、その迷いを断ち切るために、路上ライブを行うことを思いついたんです。当時は、路上ライブ出身のアーティスト、コブクロやゆずが注目を浴びていた時期で、彼女は、ライブハウスで歌うよりも、路上で歌ったほうが、より聴く人達の目線に立って歌えるんじゃないか、そうすれば、自分が歌に込めた思いが伝わるんじゃないか、と考えたみたいなんです」。
2004年2月、奥華子は、「新しい自分にチャレンジするため」に東京・渋谷で初めての路上ライブに挑みます。優しい彼女の歌声に惹かれ、足を止めて聴いてくれる人々に、奥華子はライブハウスで歌うのとは違う、充実感を感じ、改めて歌を歌うことの素晴らしさを感じていくようになるのでした。
インディーズレーベルからCDをリリースする傍らで、全国各地で路上ライブを続け、着実にファンを獲得していった奥華子は、2005年7月、ポニー・キャニオンからシングル「やさしい花」でメジャーデビューします。
「ライブハウスで歌い始めてから、デビューまで、約7年がかかったわけですが、歌を歌い始めた当初は、簡単にメジャーデビューできるんじゃないかと、彼女は考えていたそうです。
ところが、ライブハウスに彼女の歌を聞きにくるお客さんはほとんどいない。迷いを断ち切るために始めた路上ライブで、ようやく、彼女の歌声に惹かれるファンを掴みとることができた。
だから、メジャーデビューが決まった時も、割りとあっさりとしてましたね。それよりも、ライブに来てくれるお客さんを、どうやったら自分の歌で感動させることができるのか。その事ばかり考えていました」。
レコード会社の担当スタッフは、当時についてこう振り返ります。
メジャーデビューを果たした後も、奥華子は創作活動と並行して、ライブハウスや、ショッピングモール、そして時間がある時には、彼女の原点でもある、キーボード弾き語り路上ライブを続けていきます。
デビュー翌年の2006年1月、奥華子は2ndシングル「魔法の人」を、2月には3rdシングル「恋つぼみ」を立て続けに発売、さらに3月には1stアルバム『やさしい花の咲く場所』を発売します。
そんな中、奥華子の曲を聴いた、映画監督・細田守さんから、その年の夏に公開が予定されていたアニメ映画『時をかける少女』への主題歌提供の依頼が舞い込みます。
「偶然、1stシングル「やさしい花」を聴いた、細田監督が、「こんな優しい歌声のアーティストが、日本にもいるんだ」と思って、オファーをくれたんです。映画もまだ完成していない時期だったので、最初はストーリーと絵コンテを渡されて、曲を作ることになったんです。細田監督から奥華子への要望は、「自分が思った事を、感じたままに曲にして作って欲しい」」というものでした。彼女はまず1曲を作りました。それを細田監督に聴かせると、気に入ってくれて、その曲は映画の挿入歌として使われることが決まりました。それが、カップリングとして発表された、「変わらないもの」です。そこからさらに、主題歌を作る作業に取り掛かかりました」。
「彼女は、ストーリーと絵コンテだけ、という数少ない映画の素材を基に、悩みに悩みぬいて、全部で5曲を作って細田監督に渡したんですが、なかなか満足できるものが出来きませんでした。困った彼女は、ヒントが欲しくて細田監督に電話をしたんだそうです。その時、細田監督からもらったヒントが、「せつなさの中に感じる前向きな気持ち」と、監督の頭の中だけで出来上がっていた、「エンディングの青空のシーンのイメージ」でした。
彼女は、細田監督のその言葉から、サビの歌詞「あなたと過ごした日々をこの胸に焼き付けよう 思い出さなくても大丈夫なように」を生みだし、後は一気にメロディと歌詞を綴っていったそうです」。
奥華子が、悩み抜いた末に作ったその曲は、細田監督からも高い評価を得て、2006年7月に公開された、劇場版アニメ『時をかける少女』の主題歌として起用され、映画の公開と同時に、奥華子4枚目のシングル「ガーネット」として発売されのでした。
2006年7月に発売された、奥華子4枚目のシングル「ガーネット」。
「この曲をキッカケに、それまで彼女のライブに足を運んでくれていた人、路上ライブを通して彼女をずっと応援してくれた人達以外の、特に若い人を中心に奥華子のファン層を広げることができました。彼女自身も、
その後、曲を作っていくという面で、何が一番大切なのか、とても勉強になったんではないでしょうか」。
最後に、スタッフは、ガーネットについてこう語ってくれました。
奥華子の魅力をさらに引き出すキッカケとなった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ラブストーリーは突然に/小田和正
M2.やさしい花/奥華子
M3.ガーネット/奥華子
108回目の今日お届けしたのは、「Every Little Thing/Time goes by」でした
小さい頃から、子役としてTVCMや雑誌モデルとして活動していた少女・持田香織は、1993年、高校入学後にアイドルグループ「黒BUTAオールスターズ」のメンバーとして芸能活動を本格化し、その年11月にはソロアーティストとしても、シングル「もう一度」を発売します。
一方、中学時代にビートルズやモンキーズで音楽に目覚め、その後、ディープ・パープルのキーボードプレーヤー、ジョン・ロードに憧れて、ミュージシャンを目指すようになった五十嵐充は、レコード会社「エイベックス」でスタジオ管理のアルバイトをしながら、創作活動に励みます。
1995年、エイベックスのスタッフから、持田香織を紹介された五十嵐は、持田のさわやかな声に惹かれ、彼女をボーカルにしてデモテープ作りを始めます。
「五十嵐と持田、二人がコツコツと作っていたデモテープが、ある日、現在のエイベックスの社長、松浦の目に留まったんです。松浦は、何度も何度もデモテープの作り直しを命じながら、二人を育てていきました。そのうち、初めは、持田のソロデビューだった話が、いつの間にか五十嵐と持田のユニットでデビューすることになったんです」。
その後、「曲に深みを加えるために生音が欲しい」という五十嵐のアイディアで、学生時代に五十嵐とともにバンドを組んでいたギタリスト・伊藤一朗がメンバーに加わって、3人組ユニットで結成された「Every Little Thing」は、1996年8月、シングル『Feel My Heart』で、デビューします。
1996年8月に発売された、Every Little Thingの1stシングル「Feel My Heart」は、セールスチャート最高位24位、約13万枚の売上を記録します。さらに、デビューから僅か2ヵ月後の10月には、持田香織自らも出演したTDKのTVCM曲「Future World」を発売し、音楽関係者の間で話題となります。
「デビューが決まってからは、全てがトントン拍子に進んでいくので、メンバー自身、右も左も分からない状態で、とにかくスタッフの指示通りに動くしかなかったんです。五十嵐も、本当は作家として裏からバンドを支えるつもりだったのに、いつの間にかバンドのメンバー、しかも中心的な存在になっていたことに戸惑いながら、曲を作っていましたね」。元スタッフは、デビュー当時のEvery Little Thingについて、こう振り返ります。
打ちこみと生音がミックスされることで、聞き心地の良さが増したメロディーに、持田が呼びかけるように歌う恋の歌詞は、親しみ安さを生み、Every Little Thingは、女性を中心にファンを獲得していきます。
そして1997年1月、Every Little Thingは、彼らの人気に火をつけるキッカケとなる、3枚目のシングル「Dear My Friend」を発売します。
1997年1月に発売された、Every Little Thing3枚目のシングル「Dear My Friend」は、スリムビューティハウスのTV-CMソングとして起用されたこともあり、セールスチャート最高位9位を記録、約49万枚の売上を記録します。そして、4月に発売された、1stアルバム『everything』は、セールスチャート最高位1位、約192万枚の売上を記録し、およそ1年近くもセールスチャートにランクインし続けるロングセラーアルバムとなり、Every Little Thingの人気を決定づけることになります。
「アルバム『everything』の大ヒットで、Every Little Thingに対する周りの期待が、一気に高まったんです。TV出演依頼や、CMタイアップ依頼、雑誌の取材、さらにはライブのオファー。次から次へとEvery Little Thingに仕事が舞い込んできたんです。しかも、その合間をぬって、創作活動もやらなきゃならない。もともと、「やるからには上を目指してやろう」と3人は言っていたので、休みは無くなりましたけど、何事にも意欲的に取り組んでいました」。
元スタッフは、当時についてこう振り返ります。
1997年6月に発売した、4枚目のシングル「For the moment」で、初のセールスチャート1位を獲得したEvery Little Thingは、この年だけで4枚のシングルと2枚のアルバムをリリース。この年の日本レコード大賞優秀作品賞も受賞し、さらには大晦日の「NHK紅白歌合戦」にも出場します。
そんなEvery Little Thingに、あるTVドラマ主題歌の話が舞い込みます。
「デビュー以来、ずっとキャッチーな曲ばかりが続いていたので、メンバー、スタッフの間で、いつ、どのタイミングでバラードを出すか、チャンスをずっとうかがっていたんです。ちょうどそのタイミングで、翌年の1998年1月からフジテレビ系で放送されるドラマ主題歌のオファーが、しかもバラードで作って欲しいと来たんです」。
「五十嵐は、いつも曲を作る時に、常に歌い手・持田のことを考えて、曲を作っているんです。
どんなメロディにすれば、どんな歌詞を書いたら、持田が歌いやすい曲となって、曲を聴いた人に、言葉がきれいに伝わるのか。僕ら周りのスタッフが、もう完成しただろう、と思っても、五十嵐は貪欲に、丁寧に丁寧に曲を考えて作っているんです。この曲も、余り時間は無かったのですが、学園祭ライブツアーの合間をぬって、作っていきました」。
こうして、1998年2月、1月にスタートしたフジテレビ系ドラマ『甘い結婚』の主題歌、Every Little Thing8枚目のシングル「Time goes by」は、発売されます。
1998年2月に発売された、Every Little Thing8枚目のシングル「Time goes by」は、セールスチャート最高位こそ2位ながらも、売上枚数約115万枚のミリオンセラーを記録、Every Little Thingの歴代シングルの中で、売上枚数はNo.1となります。
「2000年に、音楽プロデュースに専念するために、五十嵐はEvery Little Thingを脱退しますが、この曲は残った持田と伊藤の二人にとってはもちろん、曲を作った五十嵐にとっても素晴しい代表曲になったと思います。Every Little Thingは、キャッチーな曲だけじゃなく、しっとりと聴かせるバラードも歌うことができる。それまで以上に、Every Little Thingのファン層を広げるキッカケとなりました」
最後に、元スタッフは、この曲についてこう語ってくれました。
バンドをワンランク成長させるキッカケとなった、バラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.デイドリーム・ビリーバー/ザ・モンキーズ
M2.Feel My Heart/Every Little Thing
M3.Dear My Friend/Every Little Thing
M4.Time goes by/Every Little Thing
107回目の今日お届けしたのは、「ゴンチチ/放課後の音楽室」でした
「1978年のある日、共通の友人が、三上さんを連れて松村さんの自宅に遊びに行ったのが、二人がデュオを組むことになったキッカケです。それまでお互いに、それぞれの存在は知っていたそうですが、直接会うのはその日が初めてでした。しかし、それが、まさに運命の出会いで、会ったその日に、二人は意気投合し、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の「My Favourite Things」をセッションしたそうです。二人が弾くギターの音色は、当時、家に居た松村さんの家族も、「レコードがかかっていたのか」と思うほど自然に流れていたそうです」。
ゴンチチのマネージャー水上さんは、二人が初めて出会った日の様子について、こう語ります。
1953年12月、大阪府に生まれたゴンザレス三上こと三上雅彦は、幼稚園の時に耳にしたクラシック音楽やムード音楽に魅かれ、やがてピアノを弾いたり、ギターを弾いたりするようになります。その後、旧電電公社に就職した三上は、休日にはギター教室の講師を務めるようになります。いっぽうの、チチ松村こと松村正秀は、1954年9月、三上と同じ大阪府に生まれ、幼いころに聴いた賛美歌で音楽に目覚めた後、フォークミュージックに夢中になって、大阪ガスに就職後は、休日に地元のライブハウスでフォークシンガーとして活動するようになります。
1978年、共通の友人を介して知り合った二人は、インストゥルメンタル・アコースティック・デュオ「ゴンザレス三上とチチ松村」を結成します。三上と松村の二人は、平日はサラリーマンとして別々に仕事をする傍らで、休日限定のデュオとして、地元大阪を中心とした関西のライブハウスで活動します。
そして、デュオ結成から5年が経った1983年7月、ゴンザレス三上とチチ松村の二人は、アルバム『ANOTHER MOOD』で、デビューするのでした。
1983年7月、ゴンザレス三上とチチ松村の二人は、アルバム『ANOTHER MOOD』でデビューします。
「デビューアルバム『ANOTHER MOOD』は、制作予算も少なかったので、当時のマネージャーで現在の所属事務所の社長・佐脇のツテを頼って、大阪の松下電器のスタジオで、少人数のスタッフでレコ—ディングしたんです。今と同じように、三上がナイロン弦のギターを、松村がスチール弦ギターを弾くスタイルで、自主制作盤を家内制手工業のように作ったそうです」。
翌1984年7月、二人はデュオの名前を、ゴンザレス三上とチチ松村から、「ゴンチチ」と改め、2枚目のアルバム『脇役であるとも知らずに』を発売します。
「二人が曲を作るスタイルは、デビュー当時から今でも、ずっと同じです。コンセプトを何も決めないまま、自然体のまま曲を作っているんです。まずは、その時その瞬間、お互いが感じたイメージをメロディにして、デモテープを作り、その後、二人が持ち寄ったメロディを、一つの曲にしていくんです。偶然、間違って演奏したことをキッカケに、曲が生まれることだってあるんです。さらに、二人で作った曲に、二人がその時に欲しいと思ったアレンジを加えて、ゴンチチならではの曲が生まれていくんです」。
「それから、ゴンチチの音楽がインストゥルメンタルである理由。それは、二人の「僕らは歌詞で、自分たちのメッセージを伝える、と言うレベルの人間ではない」、という考えからなんです。言い換えれば、同じ音楽でも、聴く人、聴く時、聴く場所、シチュエーションによって、色んな事を感じることができる。僕らの曲を聴いてくれた人たちに、色んな事を感じとって欲しいという、二人の願いが込められているんです」。マネージャーの水上さんは、こう語ります。
デビュー後も、変わらぬスタイルで演奏を続け、作品を産み続けたゴンチチの音楽は、ゆっくりと水が流れるように、日本の音楽シーンに浸透していきます。
1991年10月、ゴンチチの音楽の心地良さに注目していた、俳優の竹中直人は、二人に声を掛け、竹中直人が監督・主演を務めた映画『無能の人』のサウンドプロデュースを、ゴンチチが手掛けることになります。
1991年10月に発売された、映画『無能の人』のサウンドトラック盤は、翌1992年、日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞、ゴンチチの音楽が注目を浴びるようになります。
その後も、1年に1枚のペースでアルバムを作っていたゴンチチですが、1996年11月に発売した、オリジナルアルバム『EASY BUSY』に収められたある曲が、ゴンチチの音楽が持つ魅力を、象徴する1曲となっていきます。
「この曲も、それまでと何ひとつ変わらないスタイルで、生まれた曲なんです。初めはアルバム『EASY BUSY』の単なる一曲だったこの曲は、アルバム発売直後から、化粧品メーカー「マンダム」のTV-CMに使われ、曲の存在がゴンチチファン以外の人にも知られるようになったんです。さらに、4年後の2000年8月には、コンピュレーションアルバム『image』に収録され、アルバムが大ヒットしたお陰で、この曲とゴンチチが結びついたんです」。
「実現していない話も幾つかありますが、実は、この曲は、発売から10年以上経った今でも毎年のように、「CMに使いたい」という要望が届いているんです。2004年には、韓国でもお茶のTV-CMに使われたんです。曲の持っている素晴しさが理解されて、韓国でも使ってもらえたことが嬉しかったです」。
さまざまな人達から、さまざまなシチュエーションでのBGMとして使われるようになった「放課後の音楽室」は、
ついに2003年には、音楽の教科書にも掲載されることになるのでした。
1996年11月に発売された、ゴンチチのアルバム『EASY BUSY』に収録された「放課後の音楽室」は、2003年からは、高校の音楽教科書「音楽2」にも掲載され、世代を越えて親しまれる曲となります。
「二人は、デビューした時から、まるで子どもがおもちゃに夢中になって遊ぶのと同じ感覚で、ギターを弾き曲を作っています。この曲も、二人が初めて出会ったあの日に通じ合った、二人の純真無垢、ピュアな気持ちで作った曲だからこそ、この曲を聴いたあらゆる人の心に沁み込んで、ゴンチチを代表する曲になったんだと思います。」
最後に、水上さんは、この曲についてこう語ってくれました。
今日OAした曲目
M1.My Favourite Things/ゴンチチ
M2.マルセルでさえも/ゴンチチ
M3.無能の人/ゴンチチ
M4.放課後の音楽室/ゴンチチ
106回目の今日お届けしたのは、「尾崎亜美/天使のウインク」でした
「まさか自分がプロの歌手になるなんて、デビューの話を貰うまで、想像していませんでした。しかし、レコード会社のスタッフから、実際にプロデビューの誘いを受けた時、私はアマチュアとプロの差を感じ始めていた時期でもあったので、もし自分がプロになったら、もっと色んなミュージシャンと出会うチャンスも増えて、自分にとって、もっと楽しい世界が開けるような気がして、プロデビューすることを決めたんです」。
尾崎亜美さんご本人は、デビューを決めた時の気持ちについて、こう振り返ります。
1957年3月、京都府京都市に生まれた尾崎亜美は、高校進学後に、軽音楽部に入部。女性3人で結成したバンド「どん」を皮切りに、「おしんこペイション」「エンプラ・ストリート」と3つのバンドを渡り歩きます。
1974年、尾崎亜美が在籍していたバンド「エンプラ・ストリート」は、KBS京都が放送していたアマチュア音楽コンテスト番組「アクションヤング大丸」に出演、ボーカルの尾崎亜美は、その歌唱力を審査員から高く評価されて、レコード会社・東芝エキスプレスのスタッフから、デビューの誘いを受けます。そして、プロデビューを決めた尾崎亜美は、彼女自身が作詞・作曲したデビュー曲のアレンジを、松任谷正隆さんにお願いします。
「デビューが決まった後、スタッフと話をして、ピアノが弾けて、歌が歌えるのであれば、同じタイプの人にアレンジをお願いするのが良いのでは、という話になって、松任谷正隆さんにお願いしたんです。松任谷さんは、私に「歌謡曲とは違う、シンガーソングライター尾崎亜美のカラーを作ろう」と言ってくれたんです。
その時から私は、自分が思った気持ちや想いを、歌詞に置き換え、メロディに乗せてみんなに聞いてもらう、ただその想いだけで、音楽を作ろう。そう考えたんです」。
1976年3月、尾崎亜美は、“第2のユーミン”をキャッチフレーズに、シングル「冥想」でデビュー。
そして、翌1977年の春には、予め決まっていたキャンペーンテーマを、曲のタイトルにする、という依頼に悩みながらも曲を作った、資生堂の春のキャンペーンソング「マイ・ピュア・レディ」を発売します。
1977年2月に発売した、尾崎亜美3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディ」は、発売2ヵ月目の4月に、セールスチャート最高位3位にランクイン、約40万枚の売上を記録するヒット曲となります。シングル「マイ・ピュア・レディ」のヒットをキッカケに、シンガーソングライター尾崎亜美としての、独自の世界を切り開いた彼女の下に、再び翌1978年春の資生堂キャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。
「2度目の依頼は、私自身が歌うのではなくて、私が作った曲を他のアーティストが歌うという内容でした。私自身、自分が作った曲を他のアーティストが歌う事自体が初めての経験で、面白いなぁ、と思って、二つ返事でこの話を受けました。しかも、作詞・作曲に加えて、曲のアレンジも私がやる事になったんです。それまでは、私が曲のデモテープを作った後、アレンジャーに渡して曲を仕上げてもらっていたんですけど、実際に完成した曲を聴いてみると、自分の思っていたイメージとは全く違う形の曲になることもあったので、今回、自分で曲を最後までアレンジできると考えたら、楽しくて仕方ありませんでした」。
初めて曲のアレンジを手掛けることになった当時について、尾崎亜美さん本人はこう振り返ります。
こうして、尾崎亜美が初めて、作詞・作曲、そして曲のアレンジまで手がけた1978年春の資生堂キャンペーンソング、南沙織のシングル「春の予感-I’ve been mellow-」は、1978年1月に発売されます。この曲は、その年6月に行われた「第7回東京音楽祭」国内大会の作詞賞を受賞します。
他人への楽曲提供や、アレンジの魅力にめざめた尾崎亜美に、今度は、新人アーティストのデビュー曲の依頼が入ります。それはまだ、当時16歳の少女・杏里でした。
1978年11月に発売された、杏里のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は、セールスチャート最高位65位、約5万5千枚の売上を記録します。
ソングライターとしての才能を開花させた尾崎亜美の下へは、その後も続々と他のアーティストからの曲提供の依頼が舞い込むようになっていきます。「曲提供の依頼があった時、まず私は、アーティスト本人と、依頼のあった曲のイメージが浮かぶかどうかを考えるんです。依頼に対して、私自身が発想と情熱を感じることができるか、なんです。テクニックだけで曲を書く自信はありましたけど、せっかく曲を提供するなら、その人のために心を注いだ曲をプレゼントしたかったんです。時間の許す限りレコーディングにも立ち会って、曲に魂を注ぎたかったんですね」。
そんな尾崎亜美の下へ、1984年12月下旬、ある曲提供の話が舞い込みます。
「クリスマスが終わった直後、年末の大掃除をしていた私に、松田聖子さんのスタッフから、次のシングルの曲を書いて欲しい」という話が届いたんです。松田聖子さんとは、彼女がこの年1984年6月に発売したアルバム『Tinker
Bell』の中で、松本隆さんが書いた歌詞に私がメロディを作った事もあって、再び話を持ってきてくれたんです。
詳しい話を聞いてみると、曲の締切は翌日。しかも、この時はメロディに加えて、歌詞も一緒に書いて欲しい、という内容でした。驚きましたけど、頑張って作ることにしたんです」。
「この頃、私は、自分自身の次のオリジナルアルバムを、神話をモチーフに作ろう、と考えて、幾つか神話を読みながら、アルバムの構想を練っている時期でした。松田聖子さんの曲を、どんなイメージで作ろうか、大掃除をしながら考え、窓ガラスにはたきを掛けた瞬間、ホコリが舞って、日差しと重なって、私は一瞬、まばたきをしたんです。その瞬間、「あっ。これだ」とひらめきが、頭の中を走って、「ウインク」という言葉が浮かび、さらに、神話の事を考えていたからでしょうか、日差し=天使と考えて、曲のタイトルを考えたんです」。
「曲は、メロディと歌詞を一緒に考え、組みたてていく中で、それまでの松田聖子さん曲と同じ路線の曲を作っていくのではなく、どうやったらいい意味で彼女の持っているイメージを崩すことができるだろうか、考えました。「オリビアを聴きながら」を歌った杏里は、彼女のデビュー曲という事もあって、透明感を杏里から感じていましたけど、既に活躍している松田聖子さんは、私の頭の中でスウィート、というイメージがあって、スウィート=バラードという考えが浮かんできたんんです。だから、メロディは敢えてリズミカルな曲調にしてみよう、と考えて、曲の冒頭AメロからBメロへ変わった時にリズムも変わる、バッハの対立法を参考にして曲を作ったんです。そのメロディに合わせて、歌詞もリズミカルな箇所は、女の子の目線で。曲の頭と、エンディングは男の子の振りをした天使の目線で、と変化
させてみました。「オリビアを聴きながら」が、自分の生活感を曲の中に描いているに対して、この曲は私が持っていない感情、憧れのような気持ちを描いているんです」。
1985年1月に発売された、松田聖子22枚目のシングル「天使のウインク」は、セールスチャート最高位1位、約41万枚の売上を記録します。そして、曲を作った尾崎亜美自身も同じ1985年9月に発売されたアルバム『10番目のミュー』の中で、セルフカバーするのでした。
1985年9月に発売された、尾崎亜美のアルバム『10番目のミュー』で、彼女自身がセルフカバーした、「天使のウインク」。
「それまで、私は「可愛らしい曲しか作れない」というイメージが自分の中にあったけど、松田聖子さんが歌ったこの曲「天使のウインク」がヒットした時、私は自分が「ポップスも作れるミュージシャンになった」と実感し、自分のソングライターとしての成長を感じることができたんです。その後、私のライブでも、この曲を歌ったら観客が立ちあがって一緒に歌ってくれる、今では欠かせない曲になっています。
オリジナルバージョンはもちろん、最近ではロックアレンジでも歌ったりしています。色んな尾崎亜美を見せることができる、聴いてくれた人を幸せにできる曲です」
最後に、尾崎さんは、この曲についてこう語ってくれました。
男女を問わず、世代を超えて愛され続ける、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.冥想/尾崎亜美
M2.マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美
M3.オリビアを聴きながら/杏里
M4.天使のウインク/尾崎亜美
105回目の今日お届けしたのは、「斉藤和義/ウエディング・ソング」でした
1966年6月、栃木県下都賀郡(現在の下野市)に生まれた斉藤和義は、小学6年の時に、母親が1本のアコースティックギターを買ってくれたことをキッカケに、音楽の道を歩み出します。中3の文化祭で、友達と組んだバンドで人生初のステージを踏んだ斉藤和義は、高校に進学後もギタリストとして活動します。その後、斉藤和義は、山梨学院大学に進学し、先輩の影響で、見よう見まねで曲作りを始め、1987年、プロの歌手になることを夢見て、大学を中退して上京します。
斉藤和義は数々の経験を重ねて、上京から6年が過ぎた1993年8月、シングル「僕の見たビートルズはTVの中」でデビュー、9月には東京・新宿のライブハウス「日清パワーステーション」でデビューライブを行います。翌1994年6月、斉藤和義は4枚目のシングル「歩いて帰ろう」を発売、子ども向けTV番組『ポンキッキーズ』のオープニング曲として起用されたシングル「歩いて帰ろう」は、斉藤和義にとって初めてセールスチャートにランクインし、約4万8千枚の売上を記録します。
その後、斉藤和義は、マツダなどのCMタイアップソングを含むシングルやアルバムを順調にリリース、ファン層を広げていく一方で、ライブ活動も積極的に行い、ライブアーティストとしても知られる存在となっていきます。
1997年2月、31歳となった斉藤和義は、作詞・作曲・演奏・アレンジ・プロデュースを、全て初めて一人で手掛けた5枚目のアルバム『ジレンマ』を発売、アルバム『ジレンマ』は、アルバムチャート初登場8位を記録します。
「彼にとって、デビューしたことが最初の転機なら、この5枚目のアルバム『ジレンマ』をセルフプロデュースで作ったことが、次の転機でしょう。彼は「30歳の頃は、別の人が作った歌詞やメロディを自分が歌うことは、悪だと思っていた」と、言ってました。当時の彼は、自分自身で、全てを消化しないといけない、と思っていたんでしょうね」。
後に斉藤和義の所属レコード会社宣伝担当になる、常盤さんはこう振り返ります。
1997年11月、斉藤和義は翌12月に発売を予定していた6枚目のアルバム『ビコーズ』に先駆けて、15枚目のシングル「歌うたいのバラッド」を発売します。
1997年11月に発売した、斉藤和義15枚目のシングル「歌うたいのバラッド」は、男も女も泣かせる究極のラブソングの名曲として、多くの音楽ファンに受け入れられると同時に、新たなファンを獲得するキッカケとなります。
デビューから6年が経過した1999年7月、斉藤和義はレコード会社を、それまでのファンハウスからビクター・スピードスターレコードへ移籍します。
「斉藤和義は、レコード会社を移籍したからと言っても、それまでの活動と何も変わらず、マイペースで活動していましたね。特にライブは、武道館からライブハウスまで、ときにバンドスタイル、ときに弾き語りと、様々なライブやイベントに、自由に参加していました」。
常盤さんは、移籍した直後の斉藤和義について、こう振り返ります。
翌2000年2月、移籍第1弾シングル「アゲハ」を発売した後も、斉藤和義は、コンスタントにリリースとライブ活動を並行して行っていきます。そして20006年春、その年の6月に発売を予定していたアルバムの制作作業に取り組んでいた斉藤和義の下へ、あるCMソングの依頼が入ります。
「3月頃だったでしょうか。広告代理店を通して、結婚情報誌『ゼクシィ』のTVCMソングを作って欲しいという
依頼があったんです。『ゼクシィ』のCMコピーライター一倉宏さんが作った歌詞に、曲を付けて欲しいという内容でした。それまで斉藤和義は、彼自身が歌う曲では、彼以外の作家が書いた歌詞に曲を作った経験がありませんでした。しかし、話を貰った直後に、斉藤和義が一倉さんと直接会って話をする機会があり、二人は直ぐに意気投合し、彼は曲を作ることにチャレンジすることを決めたんです。実は、元々斉藤和義のファンだった、一倉さんが、「ぜひ彼にメロディを書いて欲しい」という理由で、斉藤和義にこの話を持ってきたそうです」。
アルバムレコーディングの合間をぬって、斉藤和義は、一倉さんが書いた歌詞に、曲を付けていきます。
「最初は、TVCMに使われる「そのひとを選んだ 人生がいまはじまる」というサビの歌詞だけが斉藤和義に渡されたんです。歌詞を読んで、鼻歌で曲を作っていたら、いつの間にか、そのフレーズは完成していました。TVCMは、15秒と30秒バージョンがあったんですけど、どちらも簡単にできたんです。完成した曲を、一倉さんに聞かせて「OK」を貰って、「せっかくだから、1曲分にしたいですよね」と話しをしたら、実は一倉さんが残りの歌詞も作っていたので、結局、1曲丸ごと作ったんです」。
「曲が完成した直後の5月から、TVCMが流れ始め、直ぐにCMを見た視聴者からの反響がレコード会社に殺到しました。その後、6月に11枚目のアルバム『俺たちのロックンロール』を発売した斉藤和義は、10月から全国7ヵ所でライブツアーを行ったんです。そのライブの初日に、斉藤和義は、リリース予定の決まっていないこの曲を、公の場で初めてフルコーラスで歌ったんです。観客は、それまでTVCMで流れていた短いバージョンしか聞いたことがなく、初めてフルコーラスを聞いたんですけど、ギター1本弾き語りで演奏したこの曲が終わった時は、拍手が鳴りやみませんでした。それまでの彼の代表曲「歌うたいのバラッド」よりも、拍手は多く、その後、どの会場でも同じような感じになったので、急遽、シングル化を決めました。
CMバージョンとシングルには、ストリングスを入れているんですけど、ライブでは、ギター1本のみの、弾き語りで歌ったんです。斉藤和義にとって、久し振りの弾き語り曲であり、スローバラードという事もあって、聴く人達の心に見事にはまったんでしょうね」。
こうして2007年1月、斉藤和義31枚目のシングル「ウエディング・ソング」は発売されます。
2007年1月に発売された、斉藤和義31枚目のシングル「ウエディング・ソング」は、セールスチャート最高位16位を記録します。
「斉藤和義自身は、何も変わっていない。と言うけれど、僕らスタッフから見ると、40歳を過ぎて作ったこの曲をキッカケに、斉藤和義は人間的に少し柔らかくなったイメージがあります。それまで、他人が書いた歌詞に曲を書くことに抵抗感を感じていた彼が、この曲をキッカケに、どんどん色んな事にチャレンジしていくようになりました。2007年3月に、たくさんのカバーソングも収録したコンセプトアルバム『紅盤』を発売したのも、この曲がキッカケでした。彼自身が新しい事にチャレンジしていったことで、彼を見る周りの目が変わっていったんですね」。
常盤さんは、最後にこう振り返ってくれました。
斉藤和義を、アーティストとして、ひと回り大きく成長させるキッカケとなった、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.僕の見たビートルズはTVの中/斉藤和義
M2.歌うたいのバラッド/斉藤和義
M3.ウエディング・ソング/斉藤和義
104回目の今日お届けしたのは、「風味堂/愛してる」でした
「彼らのライブを初めて観たのは、確か2003年に入って間もない頃、下北沢のライブハウスでした。知り合いから「ピアノトリオの面白いバンドがいる」という話を聞いて、スタッフ数人と彼らのライブを観に行ったんです。ライブ当日は、お客さんが数人しかいなく、閑散とした中で、彼らのライブを観たんです。ライブを見終わって、一緒に行ったスタッフと、ライブの話で盛り上がったのが印象的でした」。
レコード会社の担当ディレクター中岡さんは、彼らとの出会いについてこう振り返ります。
2000年秋、福岡県内の音楽スタジオ「BE-BOP」の掲示板に、ドラマーの中富雄也が貼った、バンドメンバー募集の張り紙を見た、ボーカル兼ピアノの渡和久は、中富に直ぐに連絡します。意気投合した渡と中富の二人に、ベースの鳥口マサヤが加わって、ピアノトリオバンド「風味堂」が結成されます。翌2001年から、風味堂は、数々のアマチュアバンドコンテストに出場、その多くで優勝。その名を、福岡はじめ九州各地で名前を知られる存在となった風味堂は、2003年、次なる活躍の場を求め、上京します。
「下北沢のライブハウスで演奏する風味堂を観て、印象的だったのは、キャッチーなメロディと、渡の圧倒的な歌唱力でした。TVで、オスカー・ピーターソンがピアノを演奏する姿に憧れ、独学でピアノを弾くことを覚えた、という渡のライブパフォーマンスを観て、「これはひょっとして面白い存在になるかも」と思い、その後も、頻繁に彼らのライブを足を運ぶようになったんです。この年2003年の4月と12月に、風味堂は、インディーズレーベルから『花とりどり』と『sketchbook』の2枚ほどアルバムを発売したんですけど、そのアルバムを聴いた他のレコード会社も、彼らのライブに足を運ぶようになって、日に日に観客が増えていったんです」。
2004年7月、風味堂はインディーズレーベルからシングル「真夏のエクスタシー」を発売、2000枚以上のセールスを記録します。そして同じ年の11月、レコード会社の争奪戦の末、スピードスターレコーズと契約した風味堂は、1stシングル「眠れぬ夜のひとりごと」で、メジャーデビューを果たします。
2004年11月、風味堂はメジャー1stシングル「眠れぬ夜のひとりごと」を発売します。
「1stシングル「眠れぬ夜のひとりごと」は、残念ながら、セールスチャートにランクインせず、結果を残すことはできなかったけれど、メンバー、スタッフみんな、悲観的にはならなかったんです。
彼らは、デビューする時に「僕たちは、特別なこだわりを持った音楽をやっていくんじゃなく、ノンジャンル、ノンカテゴリーの音楽で、自分達のスタイルを作っていきたい」って、言っていました。
もちろん、売れることは大切ですが、彼らは、デビューするまで、3人が聴いてきた、ポップス、ソウル、ブルース、ハードロックなど色んな音楽の要素を、風味堂の中で消化して、バラエティ溢れる、自分達だけのオリジナル音楽を作ることを、まずは、目指していたんですね」。中岡さんは、デビュー当時について、こう振り返ります。
メジャーデビューシングルから大ヒットとはならなかったものの、デビュー前から行っていた、各地のライブハウスや、フリースペースでのライブパフォーマンスでの動員は着実に増えていき、風味堂の評判は、音楽関係者のみならず、全国の音楽ファンたちの間に広まっていきます。
翌2005年1月、風味堂は1stシングル発売から、僅か2ヵ月後に、2ndシングル「ナキムシのうた」を発売します。
2005年1月に発売された、風味堂2ndシングル「ナキムシのうた」は、複数の全国FMラジオ局のパワープレイ曲にも選ばれ、セールスチャート最高位28位を記録します。
「もともとこの曲は、彼らがインディーズ時代に作っていた曲で、当時からキャッチーな曲だったので、レコード会社の中では2ndシングルとして発売する話は決まっていたんです。曲が持っているポテンシャルも高く、サビが歌いやすいのも多くの人達に支持された理由でしょう。曲を発売した直後に、CDショップで行ったインストアライブで、彼らがこの曲が歌い出すと、多くの人達が彼らの周りに集まってきたんです」。
「ナキムシのうた」のスマッシュヒットで、一気に音楽ファンに名の知られる存在となった風味堂。その後も、コンスタントにリリースを続け、ラジオや音楽雑誌、テレビの音楽番組などにも登場、全国でのライブツアーも成功させて
順調にファンを獲得していった風味堂に、2006年に入ってすぐ、テレビ朝日のプロデューサーから、その年の夏に放送が決まっていたドラマ主題歌への楽曲提供の話が舞い込みます。
「ドラマのプロデューサーが、風味堂のライブを観て、彼らの曲を気に入って、楽曲提供の話を持ってきたんです。実は、渡は、いつもホテルの部屋に数日間缶詰め状態で、曲を作るケースが多いんですけど、この曲は神奈川県・三浦海岸の海の見えるコテージに数日間滞在して作りました」。
「渡以外、誰も居ないコテージで、彼はドラマのストーリーを参考にしながら、曲を作っていきました。渡はいつも、事実に基づいたような、ドキュメンタリータッチの曲を書くことが多いんですけど、この曲はいつもとは違っていました。ドラマのストーリーが、個性派刑事の“人情”を描いた内容だったので、歌詞の内容もフィクション的な内容になっているんです」。
2006年8月、1ヵ月前の7月からテレビ朝日系列で放送されたドラマ『ポリスステーション・羅生門』の主題歌として起用された、風味堂6枚目のシングル「愛してる」は、発売されます。
2006年8月に発売された、風味堂6枚目のシングル「愛してる」は、セールスチャート最高位10位を記録します。
「セールスチャートの記録を見れば、結果として曲が評価されたことが分かるけど、それ以上に風味堂にとってこの曲は、彼らの存在感を多くの人達に認めてもらうことができた、キッカケとなった曲です。風味堂の音楽が、ステップアップして、一歩大人の音楽を作ることに目覚めた曲でもあるんです」。
最後に、中岡さんはこう振り返ってくれました。
3ピースバンドとしての存在感を、多くの人達が認めるキッカケとなった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.酒とバラの日々/オスカー・ピーターソン・トリオ
M2.眠れぬ夜のひとりごと/風味堂
M3.ナキムシのうた/風味堂
M4.愛してる/風味堂
103回目の今日お届けしたのは、「Sing Like Talking/My Desire〜冬を越えて〜」でした
「僕は、中学1年の時、QUEENを聴いたことをキッカケにベースを弾き始め、高校進学後は軽音楽部に入部して、バンド活動を始めたんです。でも、将来、刑事になりたかったので、バンド活動は高校三年の春の文化祭を最後に止め、受験勉強に専念することにしました。ところが、その年のクリスマス、母親がビリー・ジョエルのライブアルバム『SONGS IN THE ATTIC』をプレゼントしてくれたんです。それが、僕の運命を変えました。演奏、歌の持っているパワー、そして観客の熱気、全てに圧倒された僕は、レコードを貰った日の夜は、何度も何度も繰り返しレコードを聴きまくって、夜が明ける頃には、俺はプロの歌手になる、って自分で決めちゃってました」。
ボーカリストとしてプロを目指すキッカケについて、メンバーの佐藤竹善さん本人は、当時をこう振り返ります。
1984年夏、高校の同級生、佐藤竹善、藤田千章、西村智彦の3人は、それまで彼らが所属していたバンドの解散をキッカケに、3人で新たなバンドを作ることを決意します。3人は、デモテープを作るかたわらで、メンバー募集を続け、1985年暮れ、ドラムマシーンを操る佐藤達郎、ベースの阿部鼓太郎、ドラマーの佐藤誠吾の3人を新たに加え、6人で「Sing Like Talking」を結成します。翌1986年、Sing Like Takingはアマチュアバンドコンテスト「サウンド・コンテスト」に出場、グランプリを獲得します。そして、そのコンテストの審査員として参加していたレコード会社「ファンハウス」のプロデューサーから、声を掛けられることになります。
「僕らが、当時、一番やりたかった音楽は、大好きだったAORでした。でも純粋にAORをやりたかった訳ではなくて、AORが持っている感覚、つまりロック、ソウル、ジャズ、クラシックなど、どんなものにもこだわらない、「自由さ」という、AORのスピリットを、Sing Like Talkingの音楽のコンセプトにしたかったんです。だから、1stアルバムを作る時も、ノンカテゴリーで、自分達の好きな音楽を、作品に反映さえることにこだわったんです」。
レコーディング途中に、バンドの運営上の問題から、3人のメンバーが脱退するアクシデントに見舞われながらも、佐藤竹善、藤田千章、西村智彦の3人は、彼らが納得できるまで何度も何度もレコーディングをやり直します。
1988年9月、Sing Like Talkingは、およそ1年近くの時間をかけて作ったシングル「Dancin' With Your Lies」でデビューします。
1988年9月、Sing Like Talkingは、レコーディングにおよそ1年近くの時間をかけて作ったシングル
「Dancin' With Your Lies」でデビュー、11月には1stアルバム『TRY AND TRY AGAIN』を発売します。
「1stアルバムを作っている時に、日本のレコードのミックス技術は、アメリカやイギリスとなぜ違うのか気になって、アメリカのエンジニアを起用することになったんです。その時、クインシー・ジョーンズのエンジニアだった、ブルース・スウェディンと知り合いました。彼は、「お前達は、ライブはやらないのか。お前達の音楽だったら、ロサンゼルスのミュージシャンとやったら、もっと聴く人の心に伝わるよ」って言ってくれ、僕らに紹介してくれたのが、アメリカのロックバンド「TOTO」のドラマー、ジェフ・ポーカロでした。その後、僕らは、ジェフ・ポーカロに自分達の曲と手紙を書いて送って、ライブへの参加OKの返事を貰ったんです」。
1988年12月、東京・渋谷クラブクアトロで2日間に渡って行われた、Sing Like Talkingのデビューライブには、ドラムにジェフ・ポーカロ、さらにジェフ・ポーカロの誘いで、ベースにはエリック・クラプトンのサポートメンバー
として知られていた、ネイザン・イーストが参加。世界を代表するTOPミュージシャンがサポートメンバーとして参
加したSing Like Takingのデビューライブは、音楽関係者はもちろん、邦楽、洋楽ジャンルを越えて音楽ファンたちの間で話題となります。
そんなセンセーショナルなデビューにも奢ることなく、Sing Like Talkingは、自分たちのぺースを守りながら、1年に1枚ずつ、コンスタントにアルバムを発売していきます。
「僕達は、常に今自分達が大好きな音楽を、しっかり作品に反映させるというスタンスで、曲を作っているんです。その気持ちは、今でも変わっていません。長い間音楽活動を行っていると、バンドに対して一定のイメージと要望が高まってきますが、それに惑わされることなく、まずは、今の自分達が得た感動に正直に、という気持ちを変えることなく、曲を作っています」。
「88年に発売した1stアルバム『TRY AND TRY AGAIN』から、90年に発売した『Ⅲ』までは、とにかく自分達が好きなように作っていたんです。そして、次のステップに向けて作ったのが4枚目のアルバムでした」。1991年2月、Sing Like Talkingは、4月に発売が予定されていた4枚目のアルバムに先駆け、6枚目のシングル「Steps Of Love」を発売します。
1991年2月、アルバムに先駆けて発売した6枚目のシングル「Steps Of Love」。「それまでは、自分達の中だけで深く考えながら曲を作っていたんですけど、この曲を含め、4枚目のアルバム『0』(ラヴ)からは、どちらかと言えば外に向かって僕らなりのポップスさと、頑固さを意識して作っていったんです。その結果、曲を聴いたリスナーがそれをうまく感じ取ってくれ、ファン層が広がっていったような感じがします」。
翌1992年2月に発売した、5枚目のアルバム『Humanity』は、Sing Like Takingにとって初めてセールスチャートにランクインし、最高位3位を記録します。洗練されたサウンドと、佐藤竹善の個性的なボーカルで多くの音楽ファンを魅了し始めていたSing Like Talkingの音楽は、J-POPの世界に新たな風を吹き込んでいきます。
そんな中、1992年夏、Sing Like Talkingのメンバーにとっては決して忘れることのできない、ある出来事が起こります。
1992年8月、Sing Like Takingの音楽性を高く評価し、さらにはデビューライブも支えてくれた、TOTOのメンバー、ジェフ・ポーカロは、突然、死去します。余りにも思いがけない出来事に、Sing Like Talkingのメンバーは、ショックを受けると同時に、彼らを支えてくれた恩人に捧げる曲を作ることを決めます。
「この曲を作る時、ジェフ・ポーカロが在籍していたTOTOのヒット曲「パメラ」のグルーブ感を直接的に意識して作りました。ピアノソロのパートは、作曲家の難波ひろゆきさんに、TOTOへのトリビュートとして弾いてもらっています。ドラマーには、1stアルバムを作る時に参加してくれた佐藤誠吾が参加してくれ、僕らのデビューライブの時にジェフ・ポーカロが叩いていたドラムセットを、佐藤誠吾がこの曲のレコーディングで使ったんです。色んな意味で、印象深いですよね」。
「ジェフ・ポーカロの存在は、僕らにとって、彼のドラムテクニックはもちろんですけど、彼の音楽への関わり方などを含めて、全ての部分で僕らの音楽の考え方の基礎になっています」。
Sing Like Takingが、敬愛するミュージシャン、ジェフ・ポーカロに捧げた曲「My Desire〜冬を越えて〜」は、1992年11月に発売されます。
1992年11月に発売された、Sing Like Talking11枚目のシングル「My Desire〜冬を越えて〜」。
「僕たちにとって、この曲は、これから起こるどんな悲しみも乗り越えて、また亡くなったジェフ・ポーカロを含めて、たくさんの音楽の先輩達が音楽に残した遺志を、しっかりと継承していこうと宣言した曲です」。
最後に、佐藤竹善さんは、こう語ってくれました。
彼らが、ミュージシャンとして生きていくことを決意した、J-POPの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.さよならハリウッド/ビリー・ジョエル
M2.Dancin' With Your Lies/Sing Like Talking
M3.Steps Of Love/Sing Like Talking
M4.My Desire〜冬を越えて〜/Sing Like Talking
102回目の今日お届けしたのは、「ORANGE RANGE/花」でした
1999年3月、中学校の卒業パーティで、ギターのNAOTOとドラマーのKATCHANは、仲間達と結成したバンドでステージに立ちます。それをキッカケに、本格的にバンド活動をスタートさせたNAOTOとKATCHANの二人は、高校進学後も、メンバーチェンジを繰り返しながらバンド活動を続け、2001年春、同級生で、ベースのYOHと、ボーカルのHIROKIとYAMATO。さらに、YOHの弟でラップ好きのRYOを加えて、6人組バンド「ORANGE RANGE」を結成します。ORANGE RANGEは、沖縄米軍基地内にあるライブハウスでの演奏や、ストリートライブを重ねながら、徐々にライブの本数を増やし、着実に動員を増やしていきます。
当時、GLAY、山嵐、Dragon Ashなどのコピーをレパートリーとしていた彼らですが、平行してオリジナル曲も作っていて、2002年2月には、インディーズレーベルからオリジナルアルバム『オレンジボール』を発売。8月には、同じくインディーズレーベルから、シングル「ミチシルベ/ミッドナイトゲージ」を発売します。ORANGE RANGEが生みだす、グルーブ感とセンス溢れるメロディ、そしてHIROKI、RYO、YAMATO3人のボーカルによる、軽快なラップのかけいあいは、地元沖縄で大きな話題となっていきます。
「モンゴル800、HYなど沖縄に在住しながら活動を行っていたバンドが、全国ヒットを生み、成功し始めていたこの頃、ソニー・ミュージックレコーズの中でも、沖縄在住で活動しているバンドを制作することを決め、探していたんです。その時に、当時高校生だった彼らの噂をスタッフが聞きつけ、制作スタッフが実際に彼らのステージを観るために、沖縄に行ったんです。勢いのあるORANGE RANGEのステージを観たスタッフは、すぐに彼らと契約を決めました」。レコード会社の担当スタッフの吉田さんは、当時についてこう振り返ります。
2002年、ORANGE RANGEはソニー・ミュージックレコーズとメジャー契約を結び、翌2003年6月、1stシングル「キリキリマイ」を発売します。
2003年6月に発売された、ORANGE RANGEの1stシングル「キリキリマイ」は、セールスチャート最高位50位、約2万枚の売上を記録します。さらに翌7月には、2枚目のシングル「上海ハニー」を発売。この曲は、ノンタイアップながらも、セールスチャート最高位5位、約24万枚の売上を記録し、ORANGE RANGEの名前を一気に、世に知らしめることになります。
「ORANGE RANGEは、デビュー当時、メジャーという領域に付いて行くだけで精一杯だったので、自分達がどんな音楽をやりたいのか、音楽の方向性などを考える余裕は無かったと思います。ただ当時は、彼らが作った曲のほとんどが、ミクスチャー系の音が主流でした。それに、今でも、彼らは同じ考えを持っていると思うんですが、彼らは、自分達の音楽の方向性を特に決めないのが特徴で、その時のメンバーの中で感じた旬の音楽が、音になればいいと思っているんです。それが、ORANGE RANGEの一番の良さでもあるんです」。レコード会社のスタッフ吉田さんは、彼らの音楽について、こう語ります。
2003年12月に、ORANGE RANGEはメジャー1stアルバム『1ST CONTACT』を発売。翌2004年2月に発売した、5枚目のシングル「ミチシルベ〜a road home〜」は、発売3週目にしてORANGE RANGE初のセールスチャート1位を獲得。さらに6月に発売した、6枚目のシングル「ロコローション」が、ORANGE RANGEの人気を決定づけるヒット曲となります。
2004年6月に発売された、ORANGE RANGE6枚目のシングル「ロコローション」は、発売2週目にセールスチャート1位を獲得し、約49万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「ORANGE RANGEにとっては、2ndシングル「上海ハニー」がブレイクのキッカケとなった曲ですが、「ロコローション」の成功が大きかったと思います。世間的には、「上海ハニー」に続く、夏のバカンスソングと思われがちですが、歌詞はバカンスでも、曲が持っているハッピーさであったり、盛り上がり度であったり、そういう部分で、高校生を中心に多くのファンを獲得できた事が大きかったと思います。それに、この曲があったからこそ、次のシングルが、そのギャップもあって、爆発的なヒットに繋がったんだと思います」。
シングル「ロコローション」のヒットで、夏のバンドとしてのイメージが高まったORANGE RANGEに、その年の秋に公開が予定されていた映画『いま、会いにゆきます』の主題歌のオファーが舞い込みます。
「映画の主題歌は、「バラード曲を作って欲しい」という依頼内容でした。依頼を受けた時、最初、メンバーは戸惑っていましたけど、「やってみよう」という事になり、そこから、映画の台本を読んで作詞に取り掛かったんです」。
「彼らは、曲を作る時、まず最初にNAOTOを中心にメロディを作っていきます。そして、出来上ったメロディのイメージを、ボーカル隊のHIROKI、YAMATO、RYOに伝え、今度はボーカル隊の3人がパート別に作詞をして、そこからさらにソロパート、ユニゾンパート、ハモリパートを話し合って決めて作っていくスタイルです」。
「この曲は、実際、メロディよりも、歌詞を作るのに時間がかかりました。この曲を作るまで、ORANGE RANGEは恋愛をテーマにしたバラードを作った経験が全くなく、ボーカル隊の3人も作詞に苦労していました。
それから、メインパートの「花びらの ように散りゆく中で〜」と言うヵ所を歌うHIROKIは、声の感情を出すために、自分の声をわざと、かすれ声にするために、ボーカルレコーディングの時には、いつも辛いキムチを食べて、声をかすれ声にしてレコーディングしていました」。
こうして、2004年10月、ORANGE RANGEにとって初めてのバラード曲、映画『いま、会いにゆきます』の主題歌「花」は、発売されます。
2004年10月に発売された、ORANGE RANGE8枚目のシングル「花」は、セールスチャート最高位1位を獲得、売り上げも100万枚を突破し、1年近くに渡ってチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「彼らにとって、この曲は一番のヒット曲だし、横綱的存在の曲ですね。しかし、それ以上に、彼らにとってこの曲が持つ一番の意味は、恋愛をテーマにしたバラード曲を作ることに対して、抵抗がなくなったことが一番大きな成果だと思います。そしてこの曲を作った経験が、翌年発売した「ラヴ・パレード」へと繋がっていくわけです。そういった意味で、この「花」が持つ意味は、ORANGE RANGEにとって“バラードという道を切り開いてくれた”曲ですね」。最後に、吉田さんはこう振り返ってくれました。
バンドを、大きく成長させるキッカケを作った、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.山嵐/山嵐
M2.キリキリマイ/ORANGE RANGE
M3.ロコローション/ORANGE RANGE
M4.花/ORANGE RANGE
101回目の今日お届けしたのは、「米米クラブ/sure danse」でした。
1982年10月、専修学校「文化学院」の同級生で、卒業後は、それぞれ別々の道を歩んでいたカールスモーキー石井こと石井竜也、ジェームス小野田こと小野田安秀、BONこと大久保謙作、ジョプリン得能こと得能律郎の4人は、それぞれの音楽仲間を集めてバンドを結成します。バンド名は、当時のアメリカの人気バンド「トーキンズ・ヘッズ」のメンバーが作ったバンド内プロジェクト「トムトムクラブ」の名前を、パロディ化し「米米クラブ」と名付けます。
1982年11月、米米クラブは、ファンク、ロック、フォーク、歌謡曲など雑多な音楽の要素を融合させて作ったオリジナル曲に、山本リンダの「狂わせたいの」のカバーを加えて、慶応義塾大学の大学祭「三田祭」のステージに立ちます。初めは、1回限りの約束でステージに立った米米クラブでしたが、カールスモーキー石井、ジェームス小野田らの圧倒的なパフォーマンスは、会場のファンを魅了、熱狂するファンの声に後押しされた米米クラブは、約束を撤回し、その後も活動を続けていくことを決めます。
「僕が初めて、米米クラブのライブを観たのは確か、1983年でした。彼らの個性的なライブパフォーマンスは、音楽業界の話題になり始めていたので、彼らのライブを観に目黒のライブハウス「鹿鳴館」に、スタッフと行ったんです。当時から、彼らのライブは、ショー仕立てで、ドラマ性があったり、笑いがあったり、ロックアーティストのライブとはひと味も、ふた味も違ったスタイルのライブで、観る度にステージ構成が違っていました。彼らは、エンタテイメント性をとても大切にしていたんですね」。
デビュー直後から、米米クラブの宣伝担当や、制作ディレクターを務めた村上さんは、当時についてこう振り返ります。
エンタテイメント性溢れるライブパフォーマンスで、人気を集めていった米米クラブは、アマチュアながらTVの情報番組や音楽雑誌にも登場するようになって、さらにその人気はヒートアップ。デビュー契約を巡って、13社ものレコード会社が争奪戦を繰り広げた後、1985年2月、CBSソニーと契約。1985年10月に、シングル「I・CAN・BE」、アルバム『シャリ・シャリズム』でデビューします。
1985年10月に発売された、米米クラブの1stシングル「I・CAN・BE」と1stアルバム『シャリ・シャリズム』。
「米米クラブは、ミュージシャンを目指したのではなく、映像なども含め自分達を立体的に表現できる、エンターテイナーを目指していました。彼らの中では、エンタテイメントショーのメインが音楽、という位置付けだったんです」。
「その音楽に関して、彼らは、誰もが親しみやすいPOPなメロディを作ったかと思えば、「これはどうなんだろう」と思うような、おかしなメロディを作ることもありました。また、歌詞を書くことに関しては、上手で、特に言葉の使い方がうまかったのが印象的でした。文学、映像、映画、ドラマなど、自分達が興味を持った事の中から、言葉に置き換えられるものを選んで表現しようと、常に考えていたんです。
例えば、デビュー曲の「I・CAN・BE」は、「アカンベー」と言う言葉をもじってありまして、ライブでは、曲の最後に観客と一緒に「アカンベー」をするパフォーマンスが、お約束事になってました。観客をショーに巻きこむ手腕は、アマチュア時代から一流で、客席とステージの一体感を味わうために、彼らはライブに色々な創意工夫をしていたんですね」。デビュー当時について、当時のディレクター村上さんはこう振り返ります。
全国の音楽ファンや、新しいモノ好きたちの注目が集まる中、1986年4月、米米クラブは彼ら自身もCMに出演した、清涼飲料水「TERRA」のCM曲として、2ndシングル「Shake Hip!」を発売します。
1986年4月に発売された、米米クラブ2ndシングル「Shake Hip!」は、CM曲として起用されたこともあって、初めてセールスチャートにランクイン、最高位54位を記録、約2万3千枚の売上を記録します。
さらに、同じ年の5月から全国12都市で行われた初のコンサートツアーでも、多くのファンから人気を集めたこの曲は、その後、彼らのライブには欠かせない曲となっていきます。
続いて10月には、2枚目のアルバム『E・B・I・S』を発売、翌年1月にかけては全国で21本のコンサート、また3月から今度は42本の全国コンサートツアーを行い、米米クラブの名前はまたたく間に、全国の音楽ファンの間に深透していきます。
「米米クラブの曲は、カールスモーキー石井を中心に歌詞を作って、メロディはメンバーのみんなが持ち寄った中から、選んで作っていくスタイルがほとんどでした。当時は、プロモーションビデオが少しずつ浸透し始めた時期でしたが、アーティストを露出する中心となっていたメディアは、ラジオでした。アルバムに収録する曲の中には、必ず1〜2曲、ラジオでオンエアしてもらえそうな曲を作って収め、その曲をシングルカット、それをキッカケにアルバムを売っていく、という感じでした」。
「米米は、シングル重視と言うよりも、アルバム重視のアーティストでした。この曲も、初めはアルバムに収める曲のひとつとして作り始めたんです。7割近く完成していたメロディをベースに、バンドメンバーみんなが意見を出し合って、曲を完成させました。その後、完成した曲にカールスモーキー石井が歌詞を書いたんです。曲のタイトルに使われている、sureという言葉は、男女間の恋愛には欠かせない、営みをカールスモーキー石井なりに、言葉を変えて、表現しているんです。彼は、人間がもともと持っている本能を、歌に託して表現したかったんだと思います。曲を聴いた若い人達を、開放的な気分にしたかったんでしょうね」。
人間がもともと持っている本能を、呼び起こさせるような歌詞を、ポップでダンサブルなメロディに乗せた、米米クラブ5枚目のシングル「sure danse」は、1987年9月に発売されます。
1987年9月に発売された、米米クラブ5枚目のシングル「sure danse」は、セールスチャート最高位19位、約3万7千枚の売上を記録します。
「米米クラブが、この「sure danse」を発売するまでは、恋愛や人間の人生感を描いた曲はあっても、男女の恋愛模様を、本能的に歌詞に綴った曲は、少なかったと思います。彼らは、日常にある、人間の本能を正直に描いて、それまでの、日本の歌の世界にあった既成概念を壊したかったんでしょう。それが、曲を聴いた人達の本能を見事に刺激し、人の心を上手にキャッチした最大の理由でしょう」。最後に、村上さんはこう振り返ってくれました。
男女の恋愛模様をストレートに描いた、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.狂わせたいの/山本リンダ
M2.I・CAN・BE/米米クラブ
M3.Shake Hip!/米米クラブ
M4.Sure Danse/米米クラブ
100回目の今日お届けしたのは、「サディスティック・ミカ・バンド/タイムマシーンにおねがい」でした。
「北山修と一緒にリリースしたシングル「あの素晴しい愛をもう一度」をヒットさせた加藤和彦は、今度はソロで、CM曲にもなったシングル「家をつくるなら」とアルバム『スーパーガス』を発売し、これもヒットしました。さらに翌年の1972年1月には、吉田拓郎の大ヒットシングル『結婚しようよ』のプロデュースもしたり、まさに充実した音楽ライフを送っていたんです。そんな中、加藤和彦の音楽的思考は、次第にフォークから、UKロックへと変わっていきました。僕は、当時、加藤和彦と当時の妻・福井ミカが一緒に住んでいた麻布の家に、間借りさせてもらって、生活していたんですが、その頃、彼が住んでいた麻布の家には、つのだひろや、高中正義らミュージシャン仲間が毎晩集まって、加藤和彦が誰よりも早く手に入れた、洋楽の輸入盤を聴いて、お気に入りの曲のコード進行をコピーして遊んでいたんです。そのことが、彼の気持ちをロックに傾けさせることになったと思います。」
当時の様子について、レコーディングディレクターの新田さんは、こう振り返ります。
「当時、加藤が僕に口癖のように言っていたのが、「世界に通用するロックを作ってみたい」でした。同時に、彼は、ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーのように、夫婦で一緒に音楽を楽しめる関係にも憧れていて、妻であるミカの個性的な声を活かして、一緒に音楽ができないか、と考えていたんです」。
1972年6月、加藤和彦は、プライベート・レーベル「ドーナツ・レーベル」を設立、同時にミカ、そして仲のよかったつのだひろの3人で、バンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成、シングル「サイクリング・ブギ」を発売します。
1972年6月に、1stシングル「サイクリング・ブギ」を発売したサディスティック・ミカ・バンドは、その後、加藤和彦、ミカ、つのだひろの3人に、高中正義、フォーク・グループ「ガロ」のバックバンドメンバーだった小原礼の2人がメンバーに加わり、9月に正式に活動をスタートさせます。その直後、つのだひろがバンドから脱退しますが、小原礼と共に「ガロ」のバックバンドを務めていた、高橋幸宏が、ドラマ—として加入します。
「メンバーが決まって、その年の12月から1stアルバムのレコーディングが始まったんです。今では当たり前になっている、レコーディングスタジオをずっと貸切状態にして作業を行う「ロック・アウト」を、彼らは初めてやったバンドなんです。当時のエピソードとしては、年末・年始のレコーディングで、お店が閉まっていたので、ご飯を食べるのに困っていたところ、仲の良かった、フォークグループ赤い鳥の山本潤子さんが、おせち料理を持ってスタジオに遊びに来てくれたんです。みんなが夢中になって食べていました」。
新田さんは、1stアルバムのレコーディング当時の様子について、こう振り返ります。
こうして、加藤和彦の「世界に通用するロックを作ってみたい」という夢が詰まったサディスティック・ミカ・バンドの1stアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』は、1973年5月に発売されます。
「1stアルバムリリース後、すぐに2ndアルバムの制作にとりかかったんですが、2ndアルバムを作る時に決めた
コンセプトは、「海外から見た日本」でした。それもあって、僕と加藤、高中、高橋の4人でロンドンに行ったんです。ロンドンでは、加藤が仲良くしていたイギリスのロックバンド、「ロキシー・ミュージック」のアルバムをプロデュースした、クリス・トーマスに会って、「サディスティック・ミカ・バンドの2ndアルバムのプロデュースをしてもらえないか」、とお願いしたんです。クリス・トーマスは、快諾してくれました」。
「それから、レコーディング作業中に、僕にはもう一つの使命が課せられました。「世界に通用するロックを作ってみたい」という加藤の夢を実現するために、僕は再びロンドンに向かいました。そして、東芝EMIのイギリスでのレーベルのひとつ「ハーベスト」のスタッフと交渉し、サディステック・ミカ・バンドの1stアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』をイギリスで発売させることに成功したんです」。こうして1974年5月、日本のロックバンド、サディスティック・ミカ・バンドのアルバムが、イギリスで発売されました。
1974年5月、イギリスでサディスティック・ミカ・バンドの1stアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』が発売となったちょうど同じ頃、日本ではクリス・トーマスをプロデューサーに迎えて作っていた、2ndアルバムの制作が佳境を迎えます。
「「海外から見た日本」をアルバムコンセプトに作っていた、2ndアルバムは、江戸時代末期、黒船が日本にやって来た時代と、日本の音楽の世界に、ロックが到来したことをリンクさせることにしたんです。2ndアルバムから新たに加わった今井裕が弾く、静かなエレクトリック・ピアノの演奏で始まる曲「墨絵の国へ」を、A面の1曲目に据えて、加藤和彦の歌と高橋幸宏の語りが重なって、黒船の到来を告げる。そして、このアルバムのポイントとなるのが、加藤和彦が作った3曲目のこの曲です」。
「この曲は、加藤が、どんなメロディを作ったら、個性的なミカの声を活かした歌ができるかを考えて、作ったんです。加藤の頭の中には、当時、常に仲良く音楽活動を行っていた、ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーの事があったんです。「自分達も、ポールとリンダのようになりたい」って想いが…」
こうして、レコーディング開始から、のべ400時間以上にも渡る時間をかけて作ったアルバムは完成、この曲「タイムマシーンにおねがい」も収められた、サディスティック・ミカ・バンドの2ndアルバム『黒船』は、1974年11月に発売されるのでした。
1974年11月に発売された、サディスティック・ミカ・バンドの2ndアルバム『黒船』に収められた「タイムマシーンにおねがい」。
翌年の1975年4月にアルバム『黒船』は、アメリカ、イギリスでも発売され、11月には、ロキシー・ミュージックのイギリスツアーのサポート・バンドをサディスティスティック・ミカ・バンドが務めたことで、この曲はイギリスでも高い評価を受けます。
「アルバム『黒船』を象徴する曲として、ライブでは必ず演奏したこの曲「タイムマシーンにおねがい」は、その後、サディスティスティック・ミカ・バンドの代表曲へと成長していきました。それは、まだ日本にロック音楽というジャンルが成立していない、あの時代に作られたにも関わらず、今、改めて聞いても全く違和感のないサウンドだからです。曲を作った、加藤和彦の抜群の音楽センスが大きく花開いた、曲ですね」。
最後に、ディレクターを務めた新田さんは、当時についてこう振り返ります。
日本の音楽が、世界に向かって扉を開いた、日本のロックの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アナザー・デイ/ポール・マッカートニー
M2.サイクリング・ブギ/サディスティック・ミカ・バンド
M3.ダンス・ハ・スンダ/サディスティック・ミカ・バンド
M4.タイムマシーンにおねがい/サディスティック・ミカ・バンド
第99回目の今日お届けしたのは、「加藤和彦と北山修/あの素晴しい愛をもう一度」でした。
1947年3月、京都府伏見区に生まれた加藤和彦は、父親の仕事の関係で、生後間もなく神奈川県鎌倉市に移り住み、高校卒業後に、龍谷大学に進学のため、再び京都で生活を始めます。
1965年、加藤和彦はバンドを作ることを考え、雑誌『メンズクラブ』にメンバー募集告知を掲載、その記事を見た同級生で当時医大生の北山修が加藤のもとを訪れます。その後、高校生の平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって、フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダース」が結成されます。
「僕は、小中学校時代は、音楽とは無縁の生活を送っていたんです。友達がいなかったから、プラモデルを作って、独りで遊んでいました。その後、高校2〜3年ぐらいの時、ラジオから流れたきたボブ・ディランの曲を聴いたのをキッカケに、何となく自分でもやってみたいなと思うようになったんです。当時、ギターがなぜか家にあったのでちょこちょこと弾いてはいたんですけど、本格的にやろうと思ったのは、大学進学後、京都に戻ったときで、それでメンバーを集めたんです。本格的に音楽活動を始めたのは、ザ・フォーク・クルセダースを作ってからですね」。
音楽情報Webサイトのインタビューで、音楽を始めたキッカケについて、加藤和彦さんは、こう振り返っています。
当初、5人で結成されたザ・フォーク・クルセダースは、メンバーの脱退と加入を繰り返しながらも活動を続け、関西アマチュアフォーク界では、知られた存在となります。1967年、就職を翌年に控えた加藤と北山は、ザ・フォーク・クルセダースの解散を決意、加藤、北山、平沼の3人のメンバーは、「解散記念に」と、自主制作アルバム『ハレンチ』を、およそ300枚作って、3人の友人や、知り合いの地元のラジオ局のスタッフに配ります。
この『ハレンチ』に収められていた曲、「イムジン河」と「帰って来たヨッパライ」が、地元関西のラジオ局でオンエアされる度にラジオ局にリクエストが殺到。ラジオで頻繁にオンエアされるようになったことで、ザ・フォーク・クルセダースの噂を耳にした、レコード会社が、ザ・フォーク・クルセダースに、プロデビューの誘いを持ち掛けます。
最初は、プロデビューに反対していた加藤でしたが、北山の度重なる説得に応じて、「一年限りで」という約束で、プロ活動をすることを決意します。
こうして、加藤和彦、北山修、そして平沼義男に代わって、加藤和彦の友人だった、はしだのりひこを新メンバーに加えた、ザ・フォーク・クルセダースは、1967年12月、シングル「帰って来たヨッパライ」でデビューします。
1967年12月に発売された、ザ・フォーク・クルセダースの1stシングル「帰って来たヨッパライ」は、この年に集計が始まった、「オリコン」で、初めてのミリオンセラー作品となり、約131万枚を売上げます。
しかし、翌1968年2月、ザ・フォーク・クルセダースが2ndシングルとして発売を予定していた「イムジン河」は、政治的な理由によって、レコード会社が発売を自主規制。すると、ザ・フォーク・クルセダースは、すぐに「イムジン河」に代わる、3枚目のシングル「悲しくてやりきれない」を作って、1968年3月に発売し、セールスチャート最高位6位を記録し、約26万枚の売上を記録します。
「僕が、ザ・フォーク・クルセダースに初めて出会ったのは、1968年の夏でした。当時僕は、早稲田大学フォーク・ソングクラブから生まれた「ザ・リガニーズ」というバンドのメンバーで、ザ・フォーク・クルセダースの担当ディレクター高嶋さんの目にとまって、ザ・フォーク・クルセダースと同じ東芝レコードからデビューしたんです。ザ・フォーク・クルセダースとは、ジョイントコンサートで一緒になって、年齢が近かったこともあり、メンバー同士すぐに仲良くなったんです」。後に、加藤和彦、北山修、はしだのりひこらがソロ活動を始めた時に担当ディレクターになる新田さんは、当時をこう振り返ります。
その後、ザ・フォーク・クルセダースは、デビュー当初の約束通り、デビューから1年後の1968年10月に大阪でさよならコンサートを行った後、解散。北山修は学業の傍らで作詞家として、加藤和彦は作曲家として、はしだのりひこは、新しいグループ「はしだのりひことシューベルツ」を結成して、活動します。
「ザ・リガニーズのメンバーとして、一度はプロデビューした僕ですが、高嶋ディレクターからの誘いで、歌手の道を諦め、ディレクターとして1969年春に、東芝レコードに入社したんです。そして最初に担当したのが、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人でした。僕は、再結成が難しいなら、加藤和彦と、北山修のコンビで、もう一度何かできないだろうかと考えて、二人を作詞家と作曲家のコンビで引っ張り出して、一緒に曲を作らせたら面白いのでは、と思いついたんです。ザ・フォーク・クルセダース解散後、加藤と北山の二人は、疎遠になっていたので、僕が二人それぞれ個別に会って話をし、当時、僕が担当していた「ト・ワエ・モア」の新曲を、作ってもらったんです」。
こうして、新田さんのアイディアから生まれた、ト・ワエ・モアの5枚目のシングル「初恋の人に似ている」は、1970年7月に発売されます。
1970年7月に発売された、ト・ワエ・モアの5枚目のシングル「初恋の人に似ている」。「この曲が、まずまずのヒットをしたので、二人も、作詞家、作曲家として、それぞれ自信を持ってくれました。じゃあ、次は、と考えたのが、今度は二人で曲を作って、一緒に歌わせる、という作戦でした」。当時のレコードディレクター、新田さんは、次の作戦を実行します。
「実は、最終的にこの曲を作ることになったキッカケは、二つの説があるんです。
ひとつは、1970年の夏、加藤和彦の結婚記念日祝いに、北山修が一つの歌詞を加藤にプレゼントし、その歌詞に加藤がメロディを付けて、その年のクリスマスプレゼントとして、その曲を加藤が奥さんに贈ったという説です。
もう一つは、ト・ワエ・モアの曲がヒットした事で、作詞家と作曲家として、お互いの素質を改めて認め合った二人が、再チャレンジして作った、という説です。お互い、この部分について、今だにちゃんと語ってくれないんですね」。新田さんは、曲が作られたキッカケについて、こう振り返ります。
「レコーディングは、当時のニッポン放送のスタジオで行ったんです。二人が作った曲に、サイモン&ガーファンクルの曲「ボクサー」のアレンジを参考にして、3フィンガーのギター、ドラムのキックを、取り入れることにしたんです。レコーディングでドラマーを務めた、つのだひろは、ドラムの他にも、加藤の自宅から持ってきたインド製のイスを叩いています」。
こうして1971年4月、ザ・フォーク・クルセダース解散後から1年半余りを経て、再び一緒に歌うことになった、加藤和彦と北山修のシングル「あの素晴しい愛をもう一度」は、発売されるのでした。
1971年4月に、加藤和彦と北山修名義で発売されたシングル「あの素晴しい愛をもう一度」は、セールスチャート最高位10位、約24万枚の売上を記録します。
「曲を作ったキッカケの真想は定かではありませんが、歌詞からは男と男の友情のような感じを受けますよね。
曲を作った当時も、この歌は加藤和彦、北山修を含めた、ごく限られた人達のパーソナルな歌、という要素が強かったんです。しかし、いつの間にか、多くのアーティストにカバーしてもらったり、学校の合唱歌としても歌い続けられています。この歌が、ここまで、成長するとは誰も予測していませんでした」。
最後に、ディレクターを務めた新田さんは、当時についてこう振り返ります。
世代を超えて愛され歌い続けられる、J-POPのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Don’t Think Twice,It’s All Right(くよくよするなよ)/ボブ・ディラン
M2.帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダース
M3.初恋の人に似ている/ト・ワエ・モア
M4.あの素晴しい愛をもう一度/加藤和彦と北山修
第98回目の今日お届けしたのは、「尾崎亜美/オリビアを聴きながら」でした。
1957年3月、京都府京都市に生まれた尾崎亜美は、高校進学後に、軽音楽部に入部。女性3人で結成したバンド「どん」を皮切りに、「おしんこペイション」「エンプラ・ストリート」と3つのバンドを渡り歩きます。
1974年、尾崎亜美が在籍していたバンド・エンプラ・ストリートは、KBS京都が放送していたアマチュア音楽コンテスト番組「アクションヤング大丸」に出演、ボーカルの尾崎亜美は、その歌唱力を審査員から高く評価されて、レコード会社・東芝エキスプレスのスタッフから、デビューの誘いを受けます。
「デビューの話を貰うまで、まさか自分がプロの歌手になるなんて、想像できませんでした。しかし、実際にプロデビューの誘いを受け、レコード会社のスタッフから話を聞いた時、私はアマチュアとプロの差を感じて、もし自分がプロになれば、もっと色んなミュージシャンと出会うことができて、自分にとって、もっと楽しい世界が開ける気がして、プロデビューすることを決めたんです」。尾崎亜美さんは、当時についてこう振り返ります。
こうして、プロデビューが決まった尾崎亜美は、彼女自身が作詞・作曲した曲のアレンジを、松任谷正隆さんにお願いすることを決めます。
「スタッフと話をして、ピアノが弾けて、歌が歌えるのであれば、同じタイプの人にアレンジをお願いするのが良いのでは、ということになり、松任谷正隆さんにお願いしたんです。松任谷さんは、私に「歌謡曲とは違う、シンガーソングライター尾崎亜美のカラーを作ろう」と言ってくれたんです。それから私は、自分の音楽が、どうあるべきなのかを考えて、私の音楽の方向性を決めたんです。その時、自分が思った気持ちや想いを、歌詞に置き換える。そして、その歌詞を、今度はメロディに乗せてみんなに聞いてもらう、ただその想いだけで、音楽を作ろう。そう考えたんです」。
1976年3月、“第2のユーミン”をキャッチフレーズに、尾崎亜美は、シングル「冥想」でデビューします。
その後、自分の想いを込めた曲作りを続けていた尾崎亜美のもとへ、1976年秋、翌年の春の、資生堂のキャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。予め決まっていたキャンペーンテーマを、曲のタイトルにする、という依頼に、尾崎亜美は悩みながらも曲を作り、1977年2月にシングル「マイ・ピュア・レディ」は発売されます。
1977年2月に発売された、尾崎亜美3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディ」は、資生堂春のキャンペーンソングとして起用されたこともあり、発売2ヵ月目の4月には、セールスチャート最高位3位にランク、約40万枚の売上を記録するヒット曲となります。「スタッフと一緒に、ホテルの部屋に缶詰め状態になって、どう曲を作ったらいいのか、半ばやけくそ状態になった時に、この曲のサビの部分“たった今 恋をしそう”という歌詞とメロディが浮かんできたんです。非現実的な言葉だからこそ、聞く人の心を上手く掴むことができるんじゃないかと考えたことが、この曲の大きなポイントでした」。
シングル「マイ・ピュア・レディ」のヒットをキッカケに、シンガーソングライター尾崎亜美独自の世界を切り開いた彼女は、4月から7月にかけて初めての全国ライブツアーを行います。そして、6月に2枚目のアルバム『MIND DROPS』を発売した尾崎亜美のもとに、再び、翌年、1978年春の資生堂キャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。
「今度は、私が歌うのではなくて、私が作った曲を他のアーティストが歌うという内容でした。私自身、自分が作った曲を他のアーティストが歌う事自体が初めての経験だったので、面白いと思って、二つ返事で受けました。しかも、作詞・作曲だけでなく、曲のアレンジも私がやる事になったんです。今まで、私の曲も、デモテープを作って、アレンジャーに渡して曲を仕上げてもらっていたんですけど、完成した曲を聴いてみると、自分の思っていたイメージとは違う形になることもあったので、今回、自分で曲を最後までアレンジできると考えたら、楽しくて仕方ありませんでした」。初めて曲のアレンジを手掛けることになった当時について、尾崎亜美さん本人はこう振り返ります。
こうして、尾崎亜美が初めて、作詞・作曲、そしてアレンジまで手がけた1978年春の資生堂キャンペーンソング、南沙織のシングル「春の予感-I’ve been mellow-」は、1978年1月に発売されます。
1978年1月に、尾崎亜美が初めて作詞・作曲、そしてアレンジを手掛け、他のアーティストに提供した、南沙織のシングル「春の予感-I’ve been mellow-」は、その年6月に行われた「第7回東京音楽祭」国内大会の作詞賞を受賞します。曲をアレンジする魅力に取りつかれた尾崎亜美は、2月に発売された、彼女にとって5枚目のシングル「ストップモーション」から、彼女自身が作詞・作曲はもちろん、曲のアレンジまでを手掛けるようになります。
そんなシンガーソングライターとして、着実にステップアップを図っていた尾崎亜美のもとへ、「新人女性歌手のデビュー曲を作って欲しい」という依頼が舞い込みます。
「彼女は、16歳の杏里という少女でした。曲を作る前に、実際に彼女に会って、話をして、曲のイメージを作っていったんです。この曲と、「Flying午前10時発」「中国人形」の、合わせて3曲を作って、渡しました。曲の完成度は、この曲が一番良かったんですけど、失恋ソングだから、デビュー曲としては難しいな、って感じてて、アップテンポの「Flying午前10時発」が選ばれるのかな、と思っていました。この曲がデビュー曲に選ばれた、と聞いた時はびっくりしたんです」。
「この曲を作った時、ちょうど私は東京でひとり暮らしを始めた時期でした。当時、体調を崩すことが多かった私は、ひとり暮らしを始めるにあたって、これからは自分で、ちゃんと生活していかなきゃいけない。でも、自分らしく、生きていきたいと思っていた時期でした。そんな気持ちが歌詞にそのまま表れています。
それから、杏里がオリビア・ニュートン・ジョンが大好きで、アルバム『MAKING A GOOD THING BETTER』が流行っていた時期でもあったので、それを、歌詞の一部に使うことを考えたんです。その他にも、私が家で飲む機会が多かったジャスミン茶など、ごく身近にある物を歌詞に使ったんです。身の周りにあったキーワードとなる言葉を組み合わせていくと、残りの歌詞も自然に浮かんできたんです」。
1978年11月に発売された、杏里のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は、セールスチャート最高位65位、約5万5千枚の売上を記録します。そして、曲を作った尾崎亜美自身も1980年9月に発売された6枚目のアルバム『MERIDIAN-MELON』の中で、セルフカバーします。
1980年9月に発売された、尾崎亜美の6枚目のアルバム『MERIDIAN-MELON』で彼女自身がセルフカバーした、「オリビアを聴きながら」。
「曲を作った自分が言うのもおかしい話ですが、この曲の歌詞には、いつの時代になっても変わらない普遍的な言葉が詰め込まれているんです。時代の変化とともに、曲のカラーも変化してきたし、杏里以外にも色んなアーティストの方にもカバーしてもらいました。私自身も、この曲から色々な事をインスパイアされてきました。この曲「オリビアを聴きながら」は、私自身を成長させてくれる歌です」。
最後に、尾崎さんは、この曲についてこう語ってくれました。
いつの時代になっても色褪せることなく歌い継がれる、J-POPのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.冥想/尾崎亜美
M2.マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美
M3.春の予感-I’ve been mellow/南沙織
M4.オリビアを聴きながら/尾崎亜美
第97回目の今日お届けしたのは、「ソウル・フラワー・ユニオン/満月の夕」でした。
「ボーカルで、バンドの中心的な存在の中川が、バンドを始める直接のキッカケは、「ローリング・ストーンズを聴いたのがキッカケ」と、中川本人から聞いています。彼は、他にも、パンクミュージックのクラッシュ、JAM、ストラングラーズなどもよく聴いていたそうです。トラッドミュージックに関しては、日本民謡を始め、1枚1枚挙げていたらきりがないくらい、色々な音楽を聞いていたそうです」。バンドのマネージャーを務めている、小林さんは、こう語ります。
1982年夏、高校2年生の中川敬は、中川が作ったオリジナル曲に加えて、ローリング・ストーンズ、ザ・フーのカバーを演奏するバンド「レモン・スクイーザー」を結成し、学園祭やライブハウスで活動します。1985年、レモン・スクイーザーを解散した中川は、友人2人とミクスチャー・パンク・バンド「ニューエスト・モデル」を結成します。
一方、関西出身の伊丹英子を中心に1984年に結成されたガールズ・ガレージ・バンド「メスカリン・ドライヴ」は、翌1985年に入ると、京都や大阪のライブハウスを中心に本格的なライブ活動を始めます。
1986年3月、大阪のライブハウス「西成エッグ・プラント」での対バンライブで、初めて出会った、ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴの2つのバンドは、その後、何度か顔を合わす内に意気投合し、1988年には、自主レーベル「ソウル・フラワー・レコード」を設立。翌1989年には、「ソウル・フラワー・レコード」そのものが、「キング・レコード」とメジャー契約を結びます。
その後、ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴ双方合わせて、1993年までに10枚のアルバムと、11枚のシングルを発売。パンクに始まり、モッズ・ミュージック、ソウル、ファンクなど様々な音楽を、自分達のサウンドに積極的に取り入れ、さらには痛烈な社会批判を伴った音楽スタイルで、2つのバンドは、日本のロックシーンを盛りたてる存在となっていきます。1992年2月に発売した、5枚目のアルバム『ユニバーサル・インベーダー』で、音楽性・人気の頂点を極めたと感じた中川敬率いるニューエスト・モデルは、9月にバンドを解散。同時に解散した、伊丹英子率いるメスカリン・ドライヴと統合する形で、新たなバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成し、1993年11月に、1stアルバム『カムイ・イビリマ』でデビューします
1993年9月、ニューエスト・モデルと、メスカリン・ドライヴ、2つのバンドが同時解散、統合という形で結成された新バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」は、アイヌ民族抵抗史をテーマに、当初はメスカリン・ドライヴのNewアルバムとして作っていたアルバム『カムイ・イビリマ』を、ソウル・フラワー・ユニオンの1stアルバムとして、11月に発売します。翌12月には、このアルバムから、1stシングル「世界市民はすべての旗を降ろす」を発売します。
「ニューエスト・モデルと、メスカリン・ドライヴが一緒になったのは、お互いのバンドメンバーが、レコーディングやライブなどに参加するようになって、融合が進み、わざわざ別々のバンド形態で活動する意味が無くなったからだと思います。また彼らは、ソウル・フラワー・ユニオンを結成する時、「自分達は、こういう音楽の方向性を目指したい」という考えを持って始めたんではないんです。2つのバンドが一緒になることで、結果的に、ミクスチャーバンドの色合いが増して、ソウル・フラワー・ユニオンならではの、唯一無二の音楽が生まれていったんだと思います」。
バンドマネージャーの小林さんは、こう語ります。
1994年10月、ソウル・フラワー・ユニオンは、日本の土着的グルーヴと西洋ロックンロールをミックスした2ndアルバム『ワタツミ・ヤマツミ』を発売、その後、全国ツアーを行います。そして、年が明けた、1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こります。
当時、関西を中心に活動していたソウル・フラワー・ユニオンは、メンバーの伊丹英子の発案で、震災地への出前慰問ライブをスタートします。ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーは、ライフラインが復旧していない被災地で、
エレキ・ギターを沖縄の三線に、マイクをメガホンに変え、ちんどん太鼓やチャンゴ、アコーディオンといった電気を使用しない楽器を使った、いわゆるチンドン・ミュージック・スタイルで、日本民謡・沖縄民謡・アイヌ民謡などを、連日に渡って演奏し、多くの人々を勇気づけていきます。
こうして、ソウル・フラワー・ユニオンが、被災地での出前慰問ライブをスタートさせ約1ヵ月が経った、震災当日と同じ満月の夜、神戸・長田地区で行った出前慰問ライブでの風景をモチーフに、メンバーの中川敬は、彼と親しかったヒートウェイブの山口洋と一緒に曲を作ります。曲のAメロを二人で作り、残りの部分を中川が完成させたこの曲を、ソウル・フラワー・ユニオンは出前慰問ライブで歌い始めます。その曲を聴いた、山口洋は、ソウル・フラワー・ユニオンバージョンとは一部歌詞を変えて、5月に発売したヒート・ウェイブのアルバム『1995』に、この曲を収録します。
1995年8月に発売された、ヒート・ウェイブ5枚目のアルバム『1995』に収録された、「満月の夕」。
「以前から、中川と山口の二人の間には、楽曲共作の約束があったんですが、中川がずっと神戸で慰問ライブを続けていた所へ山口が訪ねて行ったんです。そこで、この曲のメロディの一部を二人が作りました。山口が、中川より一足早く東京に戻った後、中川が曲の歌詞とメロディを最後まで完成させて、まずソウル・フラワー・ユニオン・バージョンの満月の夕が生まれたんです」。
「中川敬は、この曲を、さっそく被災地での出前慰問ライブで歌い始めるんですが、完成した曲を聴いた山口洋が、今度は、中川が作った歌詞とは違う歌詞をのせて、ヒート・ウェイブバージョンを完成させました。中川と山口、それぞれが作った歌詞の違う点は、震災後の現場に居合わせた中川と、東京から被災地への思いを馳せた山口の立場、この違いが反映されています」。
「中川がこの曲に込めた想いを一番表現しているのは、歌詞のサビの最後にある一節「解き放て 命で笑え」ではないでしょうか。単なる鎮魂歌に終わることなく、世界中のさまざまな「現場」に居合わせて、旅立ってしまった人達、生き残った人達に、その魂の解放を呼び掛ける、ポジティブなメッセージソングに、私には聞こえます」。
マネージャーの小林さんは、こう語ってくれました。
被災地の惨状、厳しい現実に向き合いながらも、復興に向けて生きる人々の姿を描いた、ソウル・フラワー・ユニオンの2ndシングル「満月の夕」は、1995年10月に発売されます。1995年10月に発売された、ソウル・フラワー・ユニオンの2ndシングル「満月の夕」は、発売後に、様々なアーティストがカバーすると同時に、毎年1月に放送される震災関係の報道番組などで、取り上げられる機会が増えていきます。
「ソウル・フラワー・ユニオンとしても、チンドンスタイルの別ユニット、ソウル・フラワー・ユニオン・モノノケ・サミットととしても、演奏した回数が最も多く、さらに、メディアで取り上げられた数も最も多く、カバーしたアーティストの数も最も多い、名実ともに世代を超えて愛されている、彼らにとっての代表曲だと思います」。
バンドマネージャーの小林さんは、最後にこう話してくれました。
震災後の、厳しい現実に立ち向かいながらも生きていく人々の中から生まれた、魂の名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ギミー・シェルター/ローリング・ストーンズ
M2.世界市民はすべての旗を降ろす/ソウル・フラワー・ユニオン
M3.満月の夕/ヒート・ウェイブ
M4.満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン
第96回目の今日お届けしたのは、「スキマスイッチ/奏」でした。
1978年2月、愛知県名古屋市に生まれた常田真太郎と、同じ年の5月に愛知県東海市に生まれた大橋卓弥の二人。高校の文化祭で組んだバンドで音楽に目覚めた常田は、卒業後に上京、専門学校に進学後も、複数のバンドにキーボードとして参加します。その後も、インディーズのレコーディング・エンジニアなども行いながら、さまざまな楽曲のアレンジを経験していきます。
一方の大橋は、幼い頃、友達の家の、電話の保留音から流れてきた、ビートルズの「イエスタディ」を聴いたことをキッカケに、ビートルズの虜になります。もともと、クラシックピアノを習っていた大橋でしたが、中学2年の時、自分よりうまくピアノを弾く人を見たことをキッカケに、ピアノを諦め、その後、友人とバンドを結成し、ボーカルを担当、高校卒業と同時に、バンドごと上京します。しかし、その後、バンドは自然消滅し、大橋はひとりで曲を作るようになります。
その後、共通の友人を通して知り合った常田と大橋の二人は、大橋が自分の曲のアレンジを常田に依頼したことから、一緒に音楽活動をスタートし、1999年11月、ユニット「スキマスイッチ」を結成します。そして、翌2000年、赤坂BLIZで行われたオーディションイベントで、現在の所属音楽事務所「オフィスオーガスタ」のスタッフから声を掛けられるのでした。
「初めて二人を見た時、伸びやかで特徴のある声と、高いレベルの楽曲、そして常田のアフロヘアが印象的だったんです。荒削りな表現なんですが、完成された世界観を持っている二人組だなぁ、と感じました」。
スキマスイッチのマネージャー樋口さんは、二人の第一印象について、こう振り返ります。
その後、スキマスイッチはオフィスオーガスタと契約、創作活動と並行して、ライブ活動を続け、デビューのチ
ャンスをうかがいます。
2002年8月、千葉マリンスタジアムで行われた、野外ライブイベント「AUGUSTA CAMP 2002」のサブステージ
ジに出演したスキマスイッチは、その歌声で、3万人の観客を魅了します。その歌の存在感は、その日を境に音楽ファンの間で口コミで広がり、彼らのライブの動員数も、飛躍的に増えていきます。
こうして、2003年7月、スキマスイッチは1stシングル「view」で、待ちに待ったデビューを果たします。
2003年7月、所属事務所が立ち上げたオーガスタレコード第1弾新人アーティストとして、シングル「view」でデビューしたスキマスイッチ。
「AUGUSTA CAMP2002」でのパフォーマンスをキッカケに、その音楽性を評価され、たくさんの人々から注目されていたスキマスイッチの1stシングル「view」は、30局もの全国のFM局で、パワープレイ曲に選ばれます。
「スキマスイッチは、デビュー前に、3万人もの人前で歌って注目を浴び、事務所が立ち上げたレコードレーベルの第1弾アーティストとして鳴り物入りでデビューしたように思われますが、実は、スキマスイッチを結成する前から、これまで、二人が目指しているものは何も変わっていません。二人が、ずっと、変わらず目指しているのは、時代と世代を超えて届けられる楽曲を作り続け、ライブで表現していくことなんです」。デビュー前から、二人を見守り続けている樋口さんは、こう語ります。
8月、スキマスイッチの二人は、彼らの存在を多くの人々に知ってもらうキッカケとなった「AUGUSTA CAMP」に2年連続で出演。常田のピアノの音色と、大橋の声で、再び多くの観客を魅了し、その勢いのまま9月に
ミニアルバム『君の話』を発売します。
2003年9月に発売された、スキマスイッチのミニアルバム『君の話』は、セールスチャート最高位30位、約2万枚の売上を記録します。その、ミニアルバム『君の話』のレコーディングの最中に、大橋が思いついた、ひとつの曲が、翌2004年春に予定していた、スキマスイッチ2枚目のシングルとして選ばれます。
「ミニアルバム『君の話』を作っていた時に、大橋がふと思いついたメロディをきっかけに、この曲は生まれたんです。曲が完成したのは、2003年の年末で、歌詞、メロディそれぞれにポイントがあるんです。
大橋が綴った歌詞のポイントは、曲の中に出てくる楽曲、つまり曲中曲ですね。音楽が、人と人を繋げてくれる、という思いで、書かれています」。
「また、常田が作ったメロディのポイントは、曲の中の登場人物の気持ちが、リスナーの気持ちとシンクロするように、前半は訥々と、そしてメロディの後半部分になってくるに従って、大きく展開する部分です。歌詞を綴った大橋、メロディを紡いだ常田。二人とも、大好きな人から離れていく時の、女性の気持ちが知りたくて、お互いの姉や妹、そして女友達に電話をして話を聴いて、それを参考にしていました」。曲を作っている時の二人の様子について、樋口さんは、こう振り返ります。
発売前から、全国のラジオ局や有線放送で流れたそのメロディを聴いた人達から、リクエストが殺到した、スキマスイッチ2枚目のシングル「奏(かなで)」は、2004年3月に発売されます。
2004年3月に発売された、スキマスイッチ2枚目のシングル「奏(かなで)」は、セールスチャートの最高位こそ22位ですが、その後、約9ヵ月近くチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。また、発売から2年後の2006年には、アニメ映画『ラフROUGH』の挿入歌としても起用されるなど、スキマスイッチを代表する楽曲となっていきます。
「「スキマスイッチ」という二人組が、この楽曲を通してたくさんの方と、触れ合うことができた大切な曲ですね。これからも、他の楽曲同様に大事にしていく曲だと思っています」。
最後に、マネージャーの樋口さんは、こう語ってくれました。
出会いと別れの季節を、色濃く描いた、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.イエスタディ/ビートルズ
M2.view/スキマスイッチ
M3.君の話/スキマスイッチ
M4.奏(かなで)/スキマスイッチ
第95回目の今日お届けしたのは、「Dragon Ash/Grateful Days」でした。
「小さい頃、父親の車に乗った時は、ビートルズをよく聴いていました。小学生になって、TVドラマの主題歌に使われていた、ブルーハーツの「情熱の薔薇」を聴いてからは、ブルーハーツに夢中になりました。その後、中学3年の時に、友達が「文化祭でバンド組むから、ベースをやらないか」と誘ってきたんです。当時、僕はラグビー部に所属していて、楽譜も全く読めないし、ドレミファソラシドも知らなかったんです。バンドは、ブルーハーツのコピーバンドだったんですけど、僕はCDを聴いて、曲を覚えるのが苦手で、いつの間にか、自分で曲を作るようになっていました。そして、最初に作った曲を、ギターを担当していた友達が、レコード会社に勝手に送ったら、いきなりレコード会社からデビューの誘いがあったんです」。
バンドを組んで、デビューするキッカケについて、ボーカル兼ギターのKJこと降谷建志は、音楽雑誌『ロッキン・オンJAPAN』のインタビューで、こう語っています。
「レコード会社の目にとまって、周りのみんなは「デビューできるかも」と言ってたけど、高校に進学した僕自身は、プロミュージシャンとして、やる気があまり無かったし、バンド活動に飽きていたんです。ところが、高校を退学することになって、「さすがに、このままじゃやばい」と思って、代わりになる事を考えた時に、「デビューの話に乗ってみようか」と、思ったんです」。
1996年5月、KJことボーカルの降谷建志、そして降谷の中学の同級生でドラムの桜井誠のふたりに、オーディションで選ばれたベースのIKUZONEこと馬場育三が加わって、3ピースバンドとして結成された「Dragon Ash」は、8月に「川崎CLUB CITTA’」で行われた初ライブを皮切りに、月に1〜2回のペースで、東京都内と横浜でライブ活動をスタートします。
翌1997年2月、ロックにラップやグランジ、ハードコアといったストリート・ミュージックの要素を詰め込んだ、3ピースロックバンドDragon Ashのデビューミニアルバム『The Day dragged on』は、発売されます。
1997年2月に、ミニアルバム『The Day dragged on』でデビューしたDragon Ashは、2ヵ月後の4月に、2枚目のミニアルバム『Public Garden』を発売。その後は、毎月のように全国各地のクラブイベントに出演し、精力的に活動します。さらに、10月に1stシングル「Rainy Day And Day」を、11月にはロック、ヒップホップ、ハードコアなど、あらゆる音楽ジャンルの要素を詰め込んだ1stフルアルバム『Mustang!』を発売します。
「デビュー当初は、ネガティブな言葉を使った歌詞が多かったけど、アルバム『Mustang!』を作ったことで、自分的には、一線を越え、充実感があったんです。人気が無く、ライブに人が入らなかった頃は、リスナーが僕らに対して壁を作って、僕らを受け入れてくれないんだ。と思っていたけど、『Mustang!』を作った頃からは、逆に僕らがリスナーに対して壁を作っているから、僕らの音楽を受け入れてもらえないんだ、と思うようになってきました。その壁を越えた、と実感したのが、シングル「陽はまたのぼりくりかえす」でした」。
1998年5月に発売した、7分を越えるシングル「陽はまたのぼりくりかえす」は、当時19歳のKJが、同じ時代を生きる人達に向けて、静かで、ポジティブで、熱いメッセージを込めたシングルとして話題となります。
その後も、単独ツアーに加えて、全国各地で行われたライブイベントにも積極的に出演するなど、精力的な活動を続けていたDragon Ashは、9月に、HIPHOP、パンク、テクノ、ロックなどあらゆる音楽ジャンルの要素を詰め込んだ2ndアルバム『Buzz Songs』を発売。そして、翌1999年3月にDragon Ashは、それまでサポートメンバーの一人だった、DJ・BOTSを正式メンバーに加え、4人となって初めてのシングル「Let yourself go,Let myself go」を発売します。
1999年3月に発売された、Dragon Ash4枚目のシングル「Let yourself go,Let myself go」は、セールスチャートに7位で初登場を果たすと、その後最高位4位、約70万枚の売上を記録します。
勢いに乗ったDragon Ashは、続くシングルとして、当時KJと交流があった、二人のミュージシャンとコラボレートしたシングルを発売することを決めます。
「曲を作るキッカケになったのは、前の年1998年に発売されたZEEBRAの曲に俺とBOTSが参加、その後、雑誌の対談でZEEBRAと一緒になる機会が増えて、お互い「もっとコラボレートしたいよね」という話になったんです。またシンガーソングライターのACOとは、以前彼女の曲に僕がギターで参加して仲良くなっていたんです。それで、せっかくだから、ZEEBRAとACOの二人に「今度マキシシングルを作るので、一緒にやりませんか」と誘って、一緒に作ることが決まったんです」。
「この曲を発売することが決まった時、同時にアッパーな曲「アイ・ラヴ・ヒップ・ホップ」という曲を発売することになったんです。アッパーに対して、こっちの曲は真反対のような曲ですね。
こっちの曲は、僕が考えた「日々への感謝の歌」をテーマに作ることにしたんです。僕から、ZEEBRAとACOの二人に「こんなリリック(叙情詩)を書いてください」という要望は、特に出していなかったけど、二人は素晴らしい歌詞を書いてきてくれました」。
この曲を発売した直後に、音楽雑誌『ロッキング・オンJAPAN』のインタビューで、KJはこう答えています。
ZEEBRAとACOをフィーチャリングし、自らが生きる日々への感謝を綴った、KJならではの優しいテイストが詰まった、Dragon Ash5枚目のシングル「Grateful Days」は、「アイ・ラブ・ヒップ・ホップ」と2枚同時に発売されます。
1999年5月に発売された、Dragon Ash5枚目のシングル「Grateful Days」は、セールスチャート初登場3位を記録し、翌週にはヒップホップシングルとしては初の1位を獲得、約93万枚のセールスを記録するヒット曲となります。
「この曲が、セールスチャートの1位を獲ったという事は、曲の良さが正当に評価されたということで、めちゃくちゃ嬉しいし、とても大きな出来事だと思うんです。自分にとっても、「できるもんだな」という自信にも繋がりました」。KJは、この曲について、当時の雑誌のインタビューでこう振り返っています。
J-POPのメジャーシーンに、ヒップホップと言う新しい音楽ジャンルの風が吹いた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.情熱の薔薇/THE BLUE HEARTS
M2.The Day dragged on/Dragon Ash
M3.Let yourself go,Let myself go/Dragon Ash
M4.Grateful Days/Dragon Ash featuring ACO,ZEEBRA
第94回目の今日お届けしたのは、「チャットモンチー/シャングリラ」でした。
「彼女達の担当になって、影響を受けた音楽について話を聞いてみると、バラバラなんですね。バンドのリーダーで、ボーカル・ギター担当の橋本絵莉子は、彼女が中学3年の時にボニーピンクを聴いて、自分でも音楽を作ろうと思ったそうです。ベースの福岡晃子は、スティービー・ワンダーの、メロディが体に溶け込んでくるような感じが大好きで、また、ドラムの高橋久美子は、ボン・ジョビが好きで、彼らの音楽を聴いて、「大学に入ったら絶対にドラムをやろう」、と思ったのが、バンドをやるキッカケだったそうです」。デビュー直前から、彼女達を担当しているキューン・ソニーの担当ディレクターは、こう教えてくれました。
2000年4月、徳島県内の高校に通っていた橋本絵莉子を中心に結成された、6人編成のバンド「チャットモンチー」は、2002年に入ると、高校卒業を控え、橋本以外のメンバーが全員、バンドから脱退します。3月、橋本は、同級生で、以前一緒に音楽活動をしたことがあった福岡晃子を、メンバーとして誘い、チャットモンチーは2人のユニットとして活動を再開します。その後しばらく、橋本と福岡の2人で活動を続けていたチャットモンチーは、2004年4月、福岡が通っていた大学の軽音楽サークルの先輩・高橋久美子をバンドのメンバーに誘います。そして、女性3ピースバンドとして新たなスタートを切った、チャットモンチーは、福岡と高橋が通っていた大学の軽音楽部の部室を主な練習場所にして、積極的な活動を行っていきます。
高橋が加入して間もなく、地元徳島で行われたバンドコンテスト「はな・はる・バンドコンテスト」に出場したチャットモンチーは、見事グランプリを獲得。6月には、自主制作ミニアルバム『チャットモンチーになりたい』を発売。地元徳島を中心に、関西や関東までの幅広いエリアで、月に5〜6本のライブを行うようになります。
地元・徳島のみならず、全国からも注目される女性3ピースバンドとなったチャットモンチーは、翌2005年9月、アマチュアながら、音楽雑誌『ROCKIN’ ON JAPAN』に、注目のアーティストとして紹介されます。
そして、女性3ピースバンドとしてスタートを切ってから、わずか1年半余り。チャットモンチーは2005年11月、ミニアルバム『chatmonchy has come』で、メジャーデビューを果たします。
2005年11月、チャットモンチーは、インディーズ時代に作っていた曲も収めた、ミニアルバム『chatmonchy
has come』でデビュー。リード曲となった「ハナノユメ」は、30を越える全国のラジオ局のパワープレイ曲にも選ばれます。「デビュー当時の彼女達は、まだインタビュー慣れもしていなかったので、取材の時も緊張して、おとなしく話をしていました。しかし、彼女達の話の節々からは、自分達の音楽を広く聴いてもらいたいという、並々ならぬ熱意と、その裏に隠れた自信が、静かに噴き出していたのが印象的でした」。キューンソニーの担当ディレクターは、こう振り返ります。
「根拠のない自信と言ったらそれまでですが、デビュー当時、既に彼女達はクオリティの高い楽曲のストックを、50曲近く持っていたんです。デビューミニアルバム『chatmonchy has come』が完成した直後、一足先に聴いた、媒体関係の人達は、彼女達の楽曲のクオリティの高さに驚きました。それが、多くのラジオ局からのパワープレイ獲得に繋がったんです」。順調なメジャーデビューを飾ったチャットモンチーは、12月には、全国各地で行われたライブイベントにも出演。2006年3月に1stシングル「恋の煙」を発売した直後には、札幌を皮切りに、初の全国ライブハウスツアー「smoke on the ご当地’06」をスタートさせます。
「メンバー3人みんなが、歌詞を書く、という事が、彼女たちの最も大きな特徴です。当然ながら、3人それぞれに個性や持ち味があって、それが、チャットモンチーの音楽の世界に広がりと深みを持たせている大きな理由だと思います。レコーディングでは、彼女達が作ってきた曲が元々持っている勢いや雰囲気を損なわずに、瞬間パックすることを、いつも心がけているんです。曲によっては、最初にレコーディングしたファーストテイクが、一番演奏がフレッシュで、生き生きとして、それを採用することもありますね」。初の全国ツアーを終えたチャットモンチーは、1stシングルの発売から、わずか3ヵ月後の6月に、2ndシングル「恋愛スピリッツ」を発売します。
2006年6月に発売した、チャットモンチー2枚目のシングル「恋愛スピリッツ」。ア・カぺラのイントロから始まるスケール感溢れるバラードナンバーとなったシングル「恋愛スピリッツ」は、チャットモンチーの新たな一面を見せ、関係者からも多くの評価を集めます。続いて7月には、1stアルバム『耳鳴り』を発売。アルバム『耳鳴り』は、セールスチャート初登場10位を記録、勢いに乗ったチャットモンチ—は、8月には、全国各地で行われた野外音楽イベントに出演し、9月からは、全国16ヵ所を回るツアーをスタートさせます。
2006年11月、チャットモンチーは、すでに彼女達のライブのアンコールのラストなど、ライブの重要な曲となっていた曲を、3枚目のシングルとして発売することを決めます。
「この曲は、高橋が、男性(僕)の視線で書いた歌詞なんです。「シャングリラ」とは、「桃源郷」という意味を持っていますが、この曲では外国の女の子の名前です。チャットモンチーの曲は、福岡と高橋が歌詞を書いた時は、それぞれが曲を作る橋本にそっとラブレターのように渡して、橋本が自宅で曲を作ってくるんです。そして、リハーサルスタジオで、橋本が作ってきたメロディをもとに、3人であれこれと細かくアレンジをほどこして、煮詰めていくんです。3人で、曲を煮詰めるという作業がとても大事で、そこではm普通は考えつかないようなアレンジが施されることも多々ありますね」。
「この曲も、最初は8ビートの曲で、飛び跳ねている感じの曲ではなかったのですが、Liveで演奏を重ねていくうちに、だんだんと乗りの良い、ダンスビートの、いわゆる4つ打ちの曲へと変化していったんです。5拍子という一風変わったリズムの部分も、3人のアレンジが生みだしたものなんです。一時、メンバー内では「5拍子はやめないか」という話も出たんですが、歌詞に合わせるとどうしても5拍子になるという事で、何度も演奏しているうちに、みんな病みつきになってきたんです」。チャットモンチ—のライブでは、お馴染みの曲となっていた、「シャングリラ」は、3枚目のシングルとして、2006年11月に発売されます。
2006年11月にリリースされた、チャットモンチー3枚目のシングル「シャングリラ」。フジテレビ系アニメ『働きマン』のエンディングテーマ曲にも起用され、セールスチャート最高位6位を記録します。
「この曲ももちろんですが、彼女達の曲が支持を集める理由は、音楽に対しての発想が自由で、かつ、真面目な姿勢が、ちゃんと音になって現れているからだと思います。3人それぞれが、しっかりと責任を負った表現者だからこそできる音楽だから、その世界観もしっかりとしていて、リスーナーへも真っ直ぐ届き、心に響いているんだと思います」。担当ディレクターは、最後にこう語ってくれました。
3人の音楽に対するひたむきな想いが、ファンの心のツボにはまったJ-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.リヴィン・オン・ア・プレーヤー/ボン・ジョヴィ
M2.ハナノユメ/チャットモンチー
M3.恋愛スピリッツ/チャットモンチー
M4.シャングリラ/チャットモンチー
第93回目の今日お届けしたのは、「エレファントカシマシ/悲しみの果て」でした。
「バンド活動を始めたのは、1982年、高校に入学する直前でした。友人が結成していたバンドに、「ボーカルがいないから、宮本に歌を歌って欲しい」と誘われて入ったのが、キッカケです。当時僕は、ディープ・パープルやレインボーを、のめり込むように聴いていたので、バンドに加入して初めの頃は、ディープ・パープル、レインボー、RCサクセションなどをカバーしていました」。
1988年、デビュー当時の雑誌のインタビューで、エレファントカシマシのボーカル宮本浩次は、音楽を始めるキッカケについて、こう述べています。
1982年、宮本浩次は、彼の中学時代のクラスメイトだった、ギターの石森敏行、ドラムの冨永義之らが結成していたバンド「エレファントカシマシ」に加入します。エレファントカシマシは、ディープ・パープル、レインボー、RCサクセションなどのカバーバンドとして活動していたのですが、宮本浩次が加入してしばらくすると、彼が作ったオリジナル曲を演奏するようになります。その後、エレファントカシマシは、メンバーの入れ替えで、冨永の高校時代の同級生でベースの高緑成治が加入、1986年、CBSソニーオーディションに出場します。
「オーディションに出場して、入賞が決まった時、素直に嬉しかったけど、僕らにとって入賞は当然の事だ、とも感じでいたんです。その時は、プロのバンドとしてデビューする事なんかは、何も考えていませんでした」。
1986年、CBSソニーオーディションで、ユニコーンと共に入賞を果たしたエレファントカシマシは、翌1987年大晦日に、全国各地で行われたライブイベント「ロックンロール・バンド・スタンド」に出演。宮本浩次が作った曲に対する評価はもちろん、宮本の威圧的なMCなどのライブパフォーマンスが、音楽関係者の間で話題となります。
こうして、1988年3月、エレファントカシマシは、シングル「デーデ」、アルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』でデビューします。
1988年3月、シングル「デーデ」、アルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』でデビューしたエレファントカシマシ。CDセールス的には、伸び悩んだものの、ボーカルの宮本浩次のオリジナリティ溢れる歌詞、明快なメロディ、そして力強いボーカル力で、エレファントカシマシは、熱狂的なファンを獲得していきます。「デビュー間もない頃は、ストレートなものの言い方をしない、ひねった言葉で歌詞を書くのが好きでした。1stアルバムに入っている曲は、僕が高校に入って、新聞を読み始めるようになった時、自分が感じた政治に対する問題意識や、怒りや、そして感じた事をそのままストレートに表現してます。売れなきゃいけないというプレッシャーがない、アマチュア時代だから自由に作ることができた曲です」。
デビュー10周年を記念したTV番組のインタビューで、宮本浩次は、デビュー当事についてこう振り返っています。
また、デビュー当時のエレファントカシマシに注目が集まった要因は、ライブでした。MCなし、アンコールなし、さらには宮本浩次が、ライブ中に観客に説教を行う、といった破天荒なライブは、音楽関係者の間でも話題を呼び、1991年1月には、3000人を集め初の日本武道館ライブも行います。
その後も、1年に1枚の順調なペースでアルバムを作っていたエレファントカシマシですが、宮本浩次は苦悩
していました。
「デビューしてある程度注目を浴びた後は、もっといいものを作らなきゃというプレッシャーに負けてしまって、いつの間にか、自分自身が硬くなって、がんじがらめになってしまっていました。デビュー当時の、怒りにまかせて、自然の力で曲を作っていた頃のエネルギーが失われていたんですね。他人に対しても、本当は相手にして欲しいのに、「俺に近寄ってくれるな」「誰も注目してくれなければ、僕はまた一人になれる」みたいなことを思っていた、複雑な心境だったんです。」。
そんな中、1993年4月に、エレファントカシマシは、7枚目のシングル「奴隷天国」を発売します。
1993年4月に、エレファントカシマシ7枚目のシングルとして発売されたシングル「奴隷天国」。
「デビュー以来、出す曲がまったく売れなくて、バンド活動は地下活動みたいな感じで、ずっと息苦しく感じていたんです。八方ふさがりになったところで、「自分一人の力じゃなくて、もう1回バンドとしてやってみよう」と思って作ったのが、この「奴隷天国」でした。曲を作って初めてメンバーに聴かせた時、痛快な曲調に、メンバーみんなに喜んでもらえました」。
宮本浩次が、開き直った気持ちで作ったシングル「奴隷天国」に続いて、5月には6枚目のアルバム『奴隷天国』を発売。しかし、翌1994年5月に発売した7枚目のアルバム『東京の空』をもって、エピックレコードとの契約が終了し、新しいレコード会社を探していた矢先に、今度は所属していた事務所までが解散してしまいます。
一旦、メジャーの音楽シーンから離れることを余儀なくされたエレファントカシマシでしたが、その間も曲作りや、全国のライブハウスを回る地道な活動を続けて、再び1995年秋に、新しい事務所とレコード会社ポニー・キャニオンと契約、再デビューに向けて動き出します。
再デビューに向け、エレファントカシマシは、初めて、外部プロデューサー、BOOWYなどを手掛けたことで知られる佐久間正英を迎えて作品作りに取り掛かります。そして、再デビュー曲として、メジャーから離れていた時代に作って、ライブハウスなどではすでに演奏していた、ある曲を選びます。
「レコード会社との契約が切れて、給料がもらえなくなって一番困っていた頃、当時住んでいた場所が、実家に近いこともあって、御飯は普通に食べていました。でも、やっぱり自分は職業としてバンドをやっていたんで、曲を作らなきゃと思って、たくさん曲を作って下北沢のライブハウスなどで演奏していました。この曲も、その時期に作った曲です。自分の気持ちの主流ではなかったけれど、その時期に自分が思った気持ちを、素直に綴っています。契約が切れたことや、それ以外に自分の中で色々な悲しみや苦しみがあったけど、この曲を含め、新しい曲を、希望を持ってライブハウスでお客さんに対して直接接して、試すことができたことは、新しい事をやっている、という実感がありました」
契約切れ、事務所の解散という挫折から這い上がってきたエレファントカシマシが、メジャー復帰第1弾シングルとして選んだ、約1年11ヵ月ぶりのシングル「悲しみの果て」は、1996年4月に発売されます。
1996年4月に発売された、エレファントカシマシ10枚目のシングル「悲しみの果て」。前作から、1年11ヵ月ぶりのシングルとして発売されたこの曲は、東芝のマルチメディア企業イメージCM曲として起用された「四月の風」との、両A面シングルとして発売されます。しかし、その後11月に、今度はこの「悲しみの果て」だけをA面曲として再発売、グリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングとして起用され、セールスチャート最高30位を記録します。
「再デビューが決まった時、僕はこの「悲しみの果て」をメインにして、シングルを出したかったんです。しかし、事務所の考えもあって、最初は「四月の風」と両A面扱いにして発売したんです。その後、もともと僕がこの曲を好きなこともあって、改めてシングルとして発売することになったんです。プロデューサーを入れての作業や、新しい宣伝活動、この「悲しみの果て」は、エレファントカシマシにとって新しいタイプの曲、新しいスタイルでの活動。全てにおいて、そこから再び突っ走り始めるキッカケになった曲です」。
エレファントカシマシが、唯一無二の存在を確立することになったJ-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ハイウェイ・スター/ディープ・パープル
M2.デーデ/エレファントカシマシ
M3.奴隷天国/エレファントカシマシ
M4.悲しみの果て/エレファントカシマシ
第92回目の今日お届けしたのは、「馬場俊英/ボーイズ・オン・ザ・ラン」でした。
「初めて買ったレコードは、アルバムがKISSの『地獄の軍団』、シングルがイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」でした。でも、衝撃を受けたのは、僕が小学校5年生の時、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」をテレビで観た時です。汗を流しながら、躍動感溢れるバンドの演奏シーンに、僕自身、何とも言えない高揚感を覚えて、それから音楽の魅力に、ますます惹かれるようになったんです」。音楽を意識したキッカケについて、馬場俊英さん本人は、こう振り返ります。
1967年3月、埼玉県に生まれた馬場俊英は、地元の高校に進学後、「いい音楽を作って演奏できるようになりたい」という思いから、バンドを結成し、月に2〜3度の割合でライブを始めます。1993年、馬場俊英は、バンド活動に区切りをつけ、ソロ活動をスタートすると同時に、デモテープを作って、音楽関係者へのアプローチを始めます。
このデモテープが、音楽ディレクターの目に留まり、1995年2月に発売された、佐藤聖子のシングルに彼の楽曲「Heartbeats Groove」が起用されます。こうして、馬場俊英は、まずは作詞作曲家としてプロ活動をスタートし、佐藤聖子や森口博子に曲提供しながら、自身もソロアーティストを目指して、曲作りを続けていきます。
そして、翌1996年2月、彼が28歳の時に、フォーライフレコードと契約し、シングル「星を待ってる」でいよいよデビューします。
1996年2月、シングル「星を待ってる」でデビューした、馬場俊英。「デビュー当時は、ボズ・スキャッグスのようなルーツ・ミュージック(民族音楽)をベースにした、ポップスを歌っていきたいと思っていました。ただ、時間が経つにつれて、自分自身の個性や、持っている資質と少し違っているな、と感じるようになっていきました」。デビュー当時、彼自身が目指した音楽の方向性について、馬場俊英さんは、こう振り返ります。
その後も馬場俊英は、シングル、アルバムのリリースを重ねていくと同時に、ライブを通して自分の音楽のスタイルを探し続けます。「最初に、まず具体的な音楽スタイルの目標があって、そこに向かって進んで行くというよりも、まずはとにかく曲を作って、ライブを続けていく中で、だんだんと本当の現場が見えてくるというか、経験を通して自分を知っていくし、やりたいことが分かってくるんだと思います。そういう意味で、当時、僕は、ただひたすら音楽を作って、オーディエンスに向い続けていました」。1998年12月、馬場俊英は、3枚目のアルバム『OVER THE MOUNTAIN』を発売。このアルバムに含まれていた曲「ロードショーのあのメロディ」が、その後、馬場俊英が曲を作っていく上での、ひとつのキッカケを作ります。
1998年12月に発売した、馬場俊英3枚目のアルバム『OVER THE MOUNTAIN』に収録された、「ロードショーのあのメロディ」。「この曲は、物語の情景を描きながら、登場人物の姿や息づかいを綴っていくスタイルの曲です。映画的というか、季節の青春群像のような曲になったなあ、と自分自身は感じたんです。この時の曲の作り方は、その後の僕の曲の曲作りに引き継がれています」。少しづつ、自分の音楽について、確かなものを掴み始めていた馬場俊英でしたが、2000年に、所属していたフォーライフレコードとの契約が終了します。音楽の道を諦めることができない馬場俊英は、翌2001年に自主レーベル「アップ・オン・ザ・ルーフ・レコーズ」を設立し、彼自身が、曲を作って、録音して、CDを制作して、通信販売の発送作業まで行う、インディーズ活動をスタートします。
彼自身のインディーズレーベルから、2001年に『フクロウの唄』を、2002年には『鴨川』を、そして、2004年に『blue coffee』と3枚のアルバムをリリースした、馬場俊英。地道ながらも、着実な活動を続けていたある日、あfるアーティストから突然のラブコールが送られます。偶然、ラジオから流れてきた馬場俊英の曲を聴いて、その唄に衝撃を受けたコブクロの二人でした。すでに、当時、関西や広島では人気者だった彼らに誘われて、2004年8月に大阪で行われた野外ライブイベントでコブクロと初共演を果たすと、10月には、TOKYOFMの全国ネット番組で、コブクロとのコラボレーションレコーディングが実現。さらに、11月に発売された、コブクロのアルバム『MUSIC MAN SHIP』で、コブクロが馬場俊英の曲をカバーされます。コブクロファンを中心に、馬場俊英の“うわさ”が全国を一気に駆け巡っていきました。
その“唄”が再評価された馬場俊英は、2005年5月、フォーライフミュージックエンタテイメントと再契約。メジャー復帰のシングルとして、ある曲を、改めてシングルとして発売することを決めます。
「この曲が完成したのは、2000年でした。この曲には、5人の登場人物が出てくるんですが、5人それぞれの生活の中にある、光と影の部分を描いて、様々な心の揺れの中で、なにかを信じようと思っている姿が滲み出てくれたら、と思って作ったんです。実は、僕の中で、「早く曲を完成させたい」という気持ちが先走って作ったので、曲が完成して、良く聴いてみると、サビが無いし、僕の中でも変わった曲になりました」。
インディーズ時代のアルバム『フクロウの唄』『鴨川』に、それぞれのバージョンで収録されていた曲であり、コブクロがカバーし、コブクロと一緒にレコーディングした曲でもある「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は、馬場俊英の再出発を飾る曲として、2005年8月にリリースされます。
2005年8月に発売された、馬場俊英9枚目のシングル「ボーイズ・オン・ザ・ラン」。約3ヵ月近くセールスチャートランクし、最高位59位を記録します。
「この曲は、最初、たくさんある曲の中の、単なる1曲という位置づけでした。しかし、曲を発売した後、ゆっくりと力を持ち始め、僕にたくさんの出会いや縁を運んできてくれました。今では、ファンと僕らの共通の思いを象徴する曲となって、僕のライブには欠かせない曲となっています」。
最後に、馬場俊英さんはこう振り返ってくれました。
地道な活動の中で、自らを励ましてきた唄は、その後、世の中の多くの人々を励ますJ-POPの名曲となりました。
今日OAした曲目
M1.勝手にシンドバッド/サザンオールスターズ
M2.星を待ってる/馬場俊英
M3.ロードショーのあのメロディ/馬場俊英
M4.ボーイズ・オン・ザ・ラン/馬場俊英
第91回目の今日お届けしたのは、「ル・クプル/ひだまりの詩」でした。
「恵美に最初に出会ったのは、1991年、東京・池袋のライブハウス「江古田マーキー」へ、僕が、ハーモニカ奏者を探しに行った時です。アンコールのステージに、恵美がゲストボーカルとして出演し、彼女がカーラ・ボノフの「悲しみの水辺」を歌ったんです。優しく、聴いた人を包み込むような歌声で、僕はハーモニカ奏者を探す目的を忘れて、思わず聞き入ってしまいました」。
ル・クプルの恵美との出会いについて、マネージメントスタッフの豊岡さんは、当時をこう振り返ります。
1963年、東京都に生まれた隆二と恵美の二人。恵美は、幼少期から、劇団ひまわりに所属し、ドラマへ出演、中学に入ると音楽活動を始めます。また隆二は、中学2年の時、ビートルズに憧れて、ギターを習い始め、19歳になった時に、カントリーバンドにベーシストとして加入します。1984年、当時、東京・新宿にあったライブハウス「ウィッシュボン」の専属バンドのベーシストとして活動していた隆二は、新たにメンバーとして加わった恵美と出逢い、6年後の1990年に、二人は結婚します。
「恵美のステージを観た数日後、僕は改めて恵美に会いました。その時、一緒に現れたのが、隆二で、二人の話を聞いた後、僕は改めて二人に対して「二人のマネージメントをさせてもらえないか」という提案をしました。二人を別々に売り出すのではなく、夫婦ユニットとして売り出すことを考えたんですね。カントリー音楽を中心にやってきた二人は、POPSが主流の日本の音楽業界の中では、どちらかと言えばマイナーな世界にいたんですが、僕は、楽天家だったので、二人が好きな音楽を、焦らず、ゆっくり地道にやっていけば、何とかなるだろう、と気軽に考えていたんです」。
豊岡さんの提案を受け入れ、夫婦ユニットとして活動を始めた隆二と恵美のふたりは、都内のライブハウスでライブを行ったり、ストリートライブを行いながら活動を続け、1993年、オーディンションに出場したことをキッカケに、レコード会社ポニーキャニオンと契約。ユニット名を「ル・クプル」と名付け、1994年7月にシングル「海の底でうたう唄」でデビューします。
1994年7月、シングル「海の底でうたう唄」でデビューした、ル・クプル。「デビューした時、隆二と恵美の二人とも31歳で、若年層が中心の日本の音楽業界では、異例とも言える新人歌手でした。デビュー曲は、どんな曲が一番二人にとって似合っているのかを考えて選んだのが、この「海の底でうたう唄」でした。1969年に、モコ・ビーバー・オリーブが放ったヒット曲のカバーで、昔から耳にした人も多いだろうから、ル・クプルの歌もまずは聴いてもらえるだろう、簡単な発想からでした」。
「ル・クプルの目指す音楽の方向性は、彼らの音楽を聴いた人達が、のんびり、リラックスできる音楽を作って行こうというスタンスでした。「売れなきゃいけない」という絶対的なスタンスではなく、聴いた人達に「いい音楽だね」と言ってもらえる音楽を作っていこう、というスタンスでした」。
マネージャーを務めていた豊岡さんは、こう振り返ります。
ル・クプルは、デビュー前から行っていた、原宿・竹下通りや、渋谷・ロフト前でのストリートライブを、デビュー後も毎週続けながら、少しずつ地道にファンを増やしていきます。8月に、1stアルバム『hide&seek』を、12月には2枚目のシングル「夢で待ち合わせしよう」を発売。さらに、翌1995年1月には2ndアルバム『ふたりぐらし』を発売して、7月には、3枚目のシングル「7月の感傷」を発売しました。
1995年7月に発売した、ル・クプル3枚目のシングル「7月の感傷」。「この3枚目のシングルを発売する時に、スタッフ皆で考えたプロモーションが、当時全国に631ヵ所あった有線放送の放送所を、本人達が直接回るキャンペーンでした。前代未聞とも言えるこのキャンペーンは、隆二と恵美二人のワゴン車を、キャンペーン・カーに仕立てて、10月からスタートしました。ガソリン代や宿泊費など、プロモーションに係る経費は、600万円近くかかる計算でしたが、ル・クプルを売り込むために、レコード会社を説得して、何とか費用を払ってもらうことができたんです」。
豊岡さんは、当時についてこう振り返ります。
全国631ヵ所の有線放送の放送所を回る、ル・クプルのキャンペーンは、スタートから9ヵ月後の翌1996年6 月まで続けられ、プロモーションの最終日、最後のキャンペーン場所となった東京・渋谷の有線放送の放送所には、全国の有線放送所から、ル・クプルに宛てた激励のFAXが届いたといいます。その後、ル・クプルは、12月に発売を予定していた、次のシングルの制作に取り掛かります。
「僕が、ル・クプルの担当になったのは、彼らが有線放送を回るキャンペーンが終えた直後の、1996年の夏でした。恵美の優しい歌声、隆二が作る飾らないメロディ、優しい心温まる夫婦ユニットだなぁ、というのが第一印象でしたね」。ル・クプルを担当した、レコード会社の担当ディレクター中西さんは、当時についてこう振り返ります。この中西さんと2人の出会いが、ル・クプルの運命を変えることになります。
「1997年4月からフジテレビ系で放送が予定されていたドラマ『ひとつ屋根の下2』のサウンドトラック盤を作る話がスタートし、僕が担当になったんです。フジテレビのプロデューサーと、作曲家の日向敏文さんの3人で打合せをして、サウンドトラック盤に、洋楽アーティストの曲に加えて、邦楽アーティストの曲も収録することが決まったんです。「誰に歌ってもらうか」、という話になった時、僕がル・クプルを推薦したんです」。
「結局、ル・クプルは、ドラマの挿入歌として2曲歌うことになって、日向さんが曲を作ってきました。ドラマティックなメロディではなく、ドラマのストーリーコンセプトに沿った、優しく淡々と流れていくメロディが印象的でした。レコーディングの時、ボーカルの恵美が、演歌のように、曲のサビの部分でこぶしを回す癖があったので、その点は注意しました。ル・クプルが歌った2曲、どちらも曲の完成度が高かったので、急遽、ル・クプルの次のシングルとして発売することが決まったんです。2曲の内、どらちをメインタイトル曲にするか、レコード会社、所属事務所のスタッフで意見が分かれ、最終的に、この曲がメインタイトル曲に選ばれたんです」。
「サウンドトラック盤は、シングルよりひと足早い5月2日に発売され、ル・クプルのシングルは16日の発売でした。シングル発売までの間、ル・クプルは原宿で行われたイベントで、この曲を歌ったんです。彼らの他の曲を歌っている時には反応しなかった人達も、二人がこの曲を歌い出すと、立ち止まって、じっくりと聴きこんでいました。
「ひょっとしたら、この曲は売れるかも」という雰囲気はありましたね」。
1997年5月16日、フジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下2』の挿入歌として起用された、ル・クプル5枚目のシングル「ひだまりの詩」は、こうして発売されます。
1997年5月に発売された、ル・クプル5枚目のシングル「ひだまわりの詩」は、発売後7週目に最高位2位を記録。さらに、発売2ヵ月後にはミリオンセラーを達成し、最終的に約180万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「この曲のヒットがなければ、年齢的な問題もあったので、ひょっとすると彼らはレコード会社とも契約打ち切りになって、音楽活動を止めていたかもしれません。ドラマの終わりが近づくにつれて、CDのセールスも右肩上がりなって、レコード店から、毎日2〜3万枚の予約注文が入って、嬉しい限りでした。また、ドラマが放送された翌日には、全国の有線放送局が、ル・クプルを応援するかのように、必ず1回はこの曲を流していました。その影響もあって、多くの人達に強い印象を与えたんでしょう。時間をかけて、地道に有線放送局を回ったのが、無駄ではなかったということですね」。最後に、中西さんはこう振り返ってくれました。
彼らの地道な努力が結果として実った、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.悲しみの水辺(The Water Is Wide)/カーラ・ボノフ
M2.海の底でうたう唄/ル・クプル
M3.7月の感傷/ル・クプル
M4.ひだまりの詩/ル・クプル
第90回目の今日お届けしたのは、「加藤いづみ/好きになって、よかった」でした。
「高校3年生の時、「高校生活の想い出作りに」という軽い気持ちで、女の子5人でコピーバンドを結成して、文化祭のステージに立ったのが、キッカケです。小さい頃から、エレクトーンを習っていた私は、キーボードとボーカルを担当することになって、当時流行っていたレベッカの曲をコピーしたんです。大勢の人の前で歌を歌うのは、「何て気持ちいんだろう」って感じでした」。プロの歌手を夢見る、第一歩について、加藤いずみさん本人は、こう振り返ります。
1968年7月、愛媛県松山市に生まれた加藤いづみは、彼女が小学生の時、エレクトーンを習い始める頃から、歌うことに夢中になっていきます。「エレクトーンにしても、歌うことにしても、特別上手という訳ではなかったんですけど、周りの人から「上手だね」って褒められて、子どもながら、「私には音楽の才能があるんだ」という変な自惚れを持っていたんです。でも、人前で歌う気持ち良さを感じたのは、高校時代にバンド活動を始めた時が、最初でした」。
1987年春、人前で歌う魅力に取りつかれた加藤いづみは、高校卒業後、アルバイトをしながら、地元・松山のライブハウスで歌う生活をスタートさせます。そしてある日、彼女の歌声に魅せられた、音楽事務所のスタッフから声を掛けられます。「いい声しているね。東京で音楽の勉強をしてみないか」。
加藤いづみは、東京で本格的な音楽の勉強をすることを決意し、1987年秋、上京します。
「上京して、ライブハウスで歌い続ける毎日が始まって、それまで、歌ったことの無い、シュープリームス、アレサ・フランクリン、ジャクソン5を中心に歌うようになったんです。初めは、慣れれば何とかなるだろう、という軽い気持ちでしたが、実際に歌ってみると上手く歌えない。歌を歌う難しさを感じました」。歌の難しさを、改めて感じた加藤いづみは、CDを聴いたり、ライブに足を運んで、歌の表現力について学びます。やがて、その成果は徐々に表れて、彼女の歌を聞くためにライブハウスに足を運ぶ人が増えていきました。こうして、1990年、加藤いづみは、レコード会社ポニーキャニオンと契約し、翌1991年5月、アルバム『テグジュぺリ』で、デビューします。
1991年5月、加藤いづみは、アルバム『テグジュぺリ』でデビューし、翌6月に、1stシングル「Zero」を発売します。「自分が歌った曲が、CDになって発売されて、嬉しかったけど、それ以外、特別な感情はありませんでした。自分の中では、自分が一生をかけてできる仕事がやっと見つかった、という気持ちの方が大きかったんです」。加藤いづみさんは、デビュー当時について、こう振り返ります。
「レコード会社と契約が決まった直後に出会った、高橋研さんの存在も、私にとっては大きな出来事でした。事務所の社長から、高橋さんを紹介されて、加藤いづみの音楽スタイルを探すめに、音楽について、色々と教えてもらいました。そこから生まれたのが、アコースティックサウンドに乗せて、歌を歌うスタイルです。それから、高橋さんと、一緒に曲を作って、自分が歌っていく中で、常に心がけたのは、私の歌を聴いてくれる人に、はっきりと分かる言葉で、曲に込めた想いが伝わる曲を歌っていきたい、ということでした。メロディに乗った言葉は、聴く人によって、どんな風にでも感じてもらえる。だから、例えば、ラジオから曲が流れてきた時に、「この曲、いい曲だね。誰が歌っているの」と言われるよりも、「この加藤いづみの曲、いい曲だね」って褒めてもらえる歌を歌いたいな、って思ったんです」。
ゆっくり、自分のペースで曲を作って、歌を歌うことを模索しながら、加藤いづみは、11月に2ndシングル「雨が降る靴」を発売。11月下旬からは、同じレコード会社に所属していたアーティストと一緒に、全国7ヵ所を回るライブツアーをスタートさせます。翌1992年5月、加藤いづみは、6月に発売を予定していたアルバムに先駆けて、3枚目のシングル「髪を切ってしまおう」を発売します。
1992年5月に発売した、加藤いづみ3枚目のシングル「髪を切ってしまおう」。「デビュー以来、アルバムを中心に曲を作って、歌ってきたので、シングルに対しては、強い意識を持って、歌っていませんでした。この曲は、シンプルなメロディに乗せた、歌詞のリズムのとり方が難しく、歌うのに苦労したんです。曲が完成して、スタッフは初めて「いい曲ができたね」と褒めてくれ、その言葉を聴いた瞬間、「歌っていいな」と改めて自分でも思いました」。
翌6月、2ndアルバム『星になった涙』を発売した加藤いづみは、東京のライブハウス「日清パワーステーション」を含む全国3ヵ所で、初めてのソロライブツアーを行います。さらに10月に発売した、4枚目のシングル「美しすぎて」が、彼女にとって初めてセールスチャートにランクンインし、最高位100位を記録します。そんな時、加藤いづみの下へ、翌1993年、その年の夏に放送が予定されていた、ドラマの挿入歌提供の話が舞い込みます。
「ドラマの挿入歌提供の話をいただき、高橋さんと一緒に、まずはドラマのストーリーに沿って、曲のコンセプトを作って、歌の世界観を広げていきました」。
「曲のポイントは、“好きになって、よかった 初めてそう思った”という、サビの歌詞です。普通に聴くと、男性は、別れた彼女から、まだこんな風に思ってもらっているんだ、俺は何て幸せなんだろう、という、ハッピーなイメージを抱いてしまいがちですが、実は全く逆なんです。歌詞の裏に隠されているのは、主人公の女性が持つ、小悪魔的な部分です。別れた後になって、“初めてそう思った”って言われて、ショックじゃないですか。じゃあ、別れるまでは、好きではなかったの、って。女性が持っているしたたかさを、歌詞の中に、少しだけ加えるのが、私は好きなんですよ」。曲を作った時の様子について、加藤さん本人は、こう振り返ります。
1993年7月、フジテレビ系ドラマ『悪魔のKISS』の挿入歌として起用された、加藤いづみの6枚目のシングル「好きになって、よかった」は発売されます。
1993年7月に発売された、加藤いづみ6枚目のシングル「好きになって、よかった」は、セールスチャート最高位22位、4ヵ月近くに渡ってチャートにランクインし続け、約19万枚の売上を記録します。
「大ヒットではなかったけど、自分にとっては、アーティストとして、その後も歌い続けていく、大きな自信となった曲です。最初の頃は、ステージの雰囲気、お客さんの顔、シチュエーションに合わせて、歌の雰囲気も変えていましたし、この曲を歌う事が嫌な時期もありました。しかし、今ではこの曲が大好きで、ライブでは欠かせない曲になっています。加藤いづみを代表する曲として、この曲を聴くためにライブに足を運んでくれる人もいるので、いつも同じ雰囲気で歌えるように、心がけています」。
女性POPSシンガーとして自立する、大きな自信を与えたJ-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.FRIENDS/レベッカ
M2.Zero/加藤いづみ
M3.髪を切ってしまおう/加藤いづみ
M4.好きになって、よかった/加藤いづみ
第89回目の今日お届けしたのは、「尾崎豊/I LOVE YOU」でした。
「18歳でデビューした彼は、20歳までの3年間に、3枚のアルバムを作って、およそ100本近くのライブを行って短い時間の中を、走り続けるかのように歌い続けていました。そんな彼の姿は、彼と同世代のティーンエイジャーから共感を得て、圧倒的な支持を集めていました。しかし、走り続けていた彼は疲れ果て、次に自分は、何をしたらいいのか分からなくなったんじゃないでしょうか。」
尾崎豊のプロデューサーを務めた、須藤晃さんは、1986年1月に無期限休業を発表した、尾崎豊の当時の様子について、こう振り返ります。
1983年12月、1stアルバム『十七歳の地図』で、日本のロックシーンにさっそうと現れた尾崎豊は、1985年3月に、2ndアルバム『回帰線』を、11月には3rdアルバム『壊れた扉から』を立て続けにリリース。2ndアルバム『回帰線』は、セールスチャート初登場1位を獲得、約27万枚の売上を記録して、尾崎豊を、一躍、日本のロックアーティストのトップクラスに仲間入りさせることになります。
しかし、サードアルバムをリリースした後の1986年1月、尾崎豊は福岡で行われたライブ終了後に、突然、無期限の活動休業を宣言して、単身ニューヨークへ旅立ちます。その後、およそ1年間日本の音楽シーンから、姿を消していた尾崎豊は、1987年に入って、所属レコード会社をCBSソニーから、マザー&チルドレンに移籍することを発表します。
「休業期間中、ニューヨークに渡っていた尾崎とは、僕も何度か連絡をとっていました。彼と話をした時、毎回感じたのは、「何かに迷っているなぁ」という印象でした。僕は当時、レコード会社の、ひとりのサラリーマンでしかなかったので、彼から求められる事に関しては、アドバイスを送ることはできても、物事を決めてあげる権利は無かったんです。彼から寄せられた質問に、僕なりの意見を出して、最終的に決めるのは尾崎本人でした。彼も、彼なりに色々な問題を抱えながら、悩んで、その結果、レコード会社を移籍することになって、僕の手から離れることになったんです」。須藤さんは、当時についてこう振り返ります。
1987年7月にスタートした、活動再開後初の尾崎豊の全国ライブツアーは、途中、広島でのピースコンサートや、どしゃ降りの雨の中、8万人を前に歌った野外ライブイベント「熊本ビートチャイルド」を挟みながら、続いていきます。しかし、尾崎豊は、9月のライブ開演直前に倒れて、そのまま入院。そして、翌1988年1月には、覚醒剤使用で逮捕され、再び音楽活動をストップしていまいます。
多くの尾崎ファンが混乱する中、彼は6月に、12インチシングル「太陽の破片」を発売して、活動を再開すると、9月には2年9ヵ月ぶりとなるアルバム『街路樹』を発売、9月には東京ドームでの復活ライブも行います。
「この頃、彼の音楽には、直接的に関わってはいませんでした。第3者として彼の曲を聴いた時、反戦、人間の生き方といった、人間の骨格になるようなことについて綴った歌詞が多くなって、必要以上に、物事をリアルに描写するようになっているなあ、と感じていました。彼はとても、真面目な人間なんです。だから、自分の作品が売れれば売れるほど、自分の音楽の方向性を考え過ぎて悩んでいたんでしょう。それが、この時期の曲に表れていると思います。彼が、誤ちを犯したのも、何かに寄り添っていたかったんでしょうね」。
須藤さんは、当時についてこう振り返ります。
1990年、尾崎豊は所属事務所をマザー&チルドレンから、ロードアンドスカイに移籍して、再び須藤さんと一緒に曲作りに取り組んでいきます。
「ディレクターとして、久し振りに彼の曲を手掛けることになって感じたのは、1stアルバム『十七歳の地図』を作っていた時と、音楽に対する考え方が変わっていなかった点です。彼が日常生活を過ごしていく中で、彼の目にとまったもの、心にとまったものを歌詞に綴って、曲を作っていくスタンス——。メロディは、新しいものを取り入れて、進化させようとしていましたが、基本は1stアルバムを作っていた時と、変わっていませんでした」。こうして、尾崎豊と須藤さんが再び一緒に作ったアルバム『誕生(BIRTH)』は、1990年11月に発売されます。
尾崎豊と須藤さんが再び一緒に作ったアルバム『誕生(BIRTH)』がリリースされた翌年の1991年、
尾崎豊の1stアルバムに収録されていた、ある曲が、JR東海の春の新幹線キャンペーンソングとして起用されることが決まります。「1stアルバム『十七歳の地図』には、この曲と、「OH MY LITTLE GIRL」という2曲のバラードが入っています。「OH MY LITTLE GIRL」は、1stアルバムのレコーディングがスタートした時、あらかじめ彼が作って持ってきた曲の中にありました。1stアルバムのレコーディングが進む中で、僕は尾崎に、「バラード曲は「OH MY LITTLE GIRL」があるけど、アルバムの構成を考えたら、もう1曲バラード曲を書いて欲しい」と彼に伝えたんです。それから数日後、彼が持ってきたのが、この曲でした。曲の出だしを、彼が口ずさんだ時、僕は英語の歌詞が嫌いで、できれば英語を使わずに、日本語にしたいと彼に言ったんですが、結局彼は変更せず、曲の出だしのフレーズは英語になったんです」。
こうして、尾崎豊の1stアルバム『十七歳の地図』に収められたこの曲は、翌1984年3月東京・新宿のライブハウス「新宿ルイード」で行われたデビューライブでも演奏され、以降、彼のライブでは欠かせない曲となり、尾崎ファンの間でも重要な曲となります。
そして、この曲は、1987年3月、フジテレビ系で放送されたドラマ『北の国から ’87初恋』の挿入歌として使われ、ドラマを見た多くの人たちに鮮烈な印象を残すことになります。
「ドラマを作る時、倉本さんが、主人公役の吉岡秀隆さんに「若者に人気のある歌手は誰なのか?」と聞いたとき、吉岡さんから勧められたのが、尾崎豊でした。倉本さんは、当時、尾崎豊の存在を知らなかったんですが、吉岡さんから送られたカセットテープを聞いて、尾崎豊を気に入って、ドラマの挿入歌として採用を決めました。その中でもこの曲は、主人公の恋愛を描く場面では欠かせない、象徴的な曲になりました」
この曲を起用したキッカケについて、倉本聡さんの事務所スタッフは、こう振り返ってくれました。
ドラマの挿入歌として起用され、尾崎ファン以外の多くの人々にも、その存在を知られるようになったこの曲
「I LOVE YOU」は、1stアルバム『十七歳の地図』で発表されてから、8年が経過した1991年3月、シングルとして発売されます。
1991年3月に発売された、尾崎豊のシングル「I LOVE YOU」は、セールスチャート最高位5位、約48万枚の売上を記録、約1年間に渡ってセールスチャートにランクインするロングヒット曲となります。
「尾崎豊の特徴であり、最大の魅力は、静と動の両面を持っていることです。激しく走り回るステージが動ならば、壊れそうで繊細な存在感は、静の方です。この「I LOVE YOU」は、その壊れそうで繊細な彼の存在感と相まって、聴く人達に哀愁を漂わせ、多くの人達の心を捉えて、共感を呼び起こしたんでしょう」。
最後に、須藤さんはこう語ってくれました。
伝説のアーティスト、尾崎豊の存在感を、語る上で欠かすことのできない
J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.僕が僕であるために/尾崎豊
M2.COOKIE/尾崎豊
M3.I LOVE YOU/尾崎豊
第88回目の今日お届けしたのは、「尾崎豊/卒業」でした。
「彼の歌声を初めて聞いたのは、1982年秋、当時、CBSソニーが主催していた「SDオーディション」の審査用ビデオでした。当時、16歳だった彼が歌っていた曲の歌詞が、妙に大人びているなぁ、というのが印象に残ったんです。これは、本人が書いた歌詞ではなく、別の誰かが書いたのではと思うぐらい、16歳という年齢とギャップのある歌詞が綴られていたんです。同じSDオーディションの参加者と比べても、彼の存在感は群を抜いていました」。
尾崎豊との初めての出会いについて、後に彼のプロデューサーを務めることになる、須藤晃さんはこう振り返ります。
1965年11月、東京都練馬区に生まれた尾崎豊は、小学4年生の時に、5歳年上の兄が買ったクラシックギターに触れ、音楽と出会います。やがてギターを弾くことに夢中になった尾崎豊は、中学に進学後、フォークソング・クラブに入部します。1980年、青山学院高校に入学した尾崎豊は、偶然耳にしたジャクソン・ブラウンのアルバム『RUNNING ON EMPTY』をキッカケに、作詞の魅力にとりつかれていきます。
そして、翌1981年12月、東京・新宿のライブハウス「新宿ルイード」で、高校生ばかりが出演したライブに、男女3人組ユニット「NOA」のメンバーとして出演した尾崎豊は、人前で歌うことの魅力にもとりつかれ、いつの間にか、彼の心の中に、「歌を歌っていきたい」というキモチが芽生えるようになります。
1982年秋、尾崎豊は、CBSソニー主催の「SDオーディション」と、ビクター主催のオーディションへ、彼がアコースティックギター1本で歌ったデモテープを送ります。しかし、尾崎豊は、ビクターのオーディションの2次審査の場で、彼が作った曲が評価されなかったことに腹を立て、SDオーディションも「同じように評価されるのでは」と思い、オーディション参加辞退を考えます。ところが、尾崎が歌った審査用ビデオを観て、彼が綴った歌詞の魅力に惹かれたSDオーディションのスタッフが尾崎を説得。結果、尾崎豊は、優秀アーティスト賞を受賞し、デビューに向けて制作ディレクターの指導を受けることになるのでした。
「彼は、大学ノートに歌詞を綴っていたんですが、その内容は、自分が抱えていたストレス的な事を、ただ書き殴っているだけ、という感じでした。僕は、大学ノートに綴られた歌詞を読んだ後、彼にこう言ったんです。「ただ自分が思っている、気持ちの表側だけを書くだけじゃなく、なぜそんな気持ちを持ったのか、気持ちの裏側にある物を整理して書いた方がいいよ。今のままでは、聞く人の心情に訴えかけるものが何もないから」と」。須藤さんは、当時についてこう振り返ります。
その後も、須藤さんは、尾崎と何度も打合せを重ね、曲を作っていくと同時に、曲のアレンジを、当時須藤さんが担当していた浜田省吾のバックバンドメンバーのひとり、町支寛二に依頼。さらに、佐野元春のバックバンドメンバーとして活躍していた、西本明にも依頼します。「当時、浜田省吾も、佐野元春も、アーティストとして一番のっている状態で、彼らのライブ感あるサウンドで、尾崎豊の曲をアレンジしていきたいと思い、二人にアレンジをお願いしました。7月に入って、尾崎は学校で問題を起こして、無期停学処分になったんですが、この時に、レコーディングを始めたんです」。
レコ—ディング開始から、約4ヵ月の時間をかけて作った、尾崎豊の1stアルバムは、プロデューサーの須藤さんが、小説家・中上健次(なかがみ・けんじ)の作品『十九歳の地図』に登場する、新聞配達の少年と、尾崎豊の姿を重ね合わせて、アルバムタイトルを『十七歳の地図』名付けて、1983年12月に発売されます。
1983年12月、1stアルバム『十七歳の地図』と、シングル「15の夜」でデビューした尾崎豊。
1stアルバム『十七歳の地図』は、わずか2000枚余りのプレスながら、音楽関係者の間で話題を呼び、翌1984年3月に、東京・新宿ルイードで行われたデビューライブには、彼の歌声を聞くためにライブハウスの定員の2倍にあたる、約600人が集まります。粗削りながらも、それまでのロックミュージシャンとは違った勢いで、狭いステージを走り回りながら歌う尾崎の姿に、詰めかけたファンは衝撃を覚えます。
さらに尾崎は、3月に、2ndシングル「十七歳の地図」を発売した後、6月から全国6ヵ所を回るライブハウスツアーをスタート。さらに8月に、東京・日比谷野外音楽堂で行われた反核ライブイベント「アトミック・カフェ」に出演した際、歌っている途中で、高さ7mの照明用機材の上から飛び降りて、左足を骨折し、入院します。
ライブの回数を重ねる毎に、より激しくなる尾崎のステージは、音楽関係者はもちろん、ファンの間で話題となっていきます。その後、退院した尾崎は、翌1985年春に発売を予定していた、2ndアルバムのレコーディングをスタートさせます。
「僕が、この曲を初めて聞いたのは、確か6月に行われたライブハウスツアーでした。1stアルバムを作る時には、無かった曲で、ライブで初めて聞いた時、「凄い曲だなぁ」と言う印象を受けました。そこで、僕は彼に「この曲は、ちゃんとレコーディングして、作品として発表しよう」と言う話をして、2ndアルバムに収める曲としてレコーディングをしたんです」。
「1stアルバム『十七歳の地図』を作っていた時も感じたんですが、彼が歌詞に綴る言葉の量はとても多く、この曲に関して言えば、原稿用紙で3枚近くに及ぶ言葉の量が詰め込まれていました」。
須藤さんは、尾崎豊が綴った歌詞を、彼と何度も議論を重ねて削り、短くシンプルにして、
よりリアルな情景描写と、尾崎豊が描いた世界を一体化させる作業を繰り返して、曲を作っていきました。
こうして、1985年1月、2ndアルバムに先駆けて、12インチシングル「卒業」は発売されるのでした。
1985年1月に発売された、尾崎豊の12インチシングル「卒業」は、彼のシングルとしては初めてセールスチャートにランクインし、最高位20位を記録。その後、約3ヵ月近くに渡ってセールスチャートにランクインし続けます。
「この曲は、一般的な社会の中でも、常に人は何か大きな物から支配されている。その支配されている物から、逃れるために、常に人は闘っているんだ。と言うイメージを持って、作ったのではないでしょうか。それが、この歌を聞いた多くの人から共感を呼び、尾崎豊を代表する曲となっている理由でしょう」。
最後に、須藤さんはこう語ってくれました。
世代を超えて歌い続けられる、日本のロックの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.孤独なランナー/ジャクソン・ブラウン
M2.15の夜/尾崎豊
M3.十七歳の地図/尾崎豊
M4.卒業/尾崎豊
第87回目の今日お届けしたのは、「岡本真夜/TOMORROW」でした。
「音楽との出会いは、私が小学校に入学して間もない頃です。当時、自宅にあったピアノを、私はおもちゃ代わりに触れるようになって、小学3年生からは、ピアノ教室に通って、バイエルから習い始めました」。
岡本真夜さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1974年1月、高知県中村市、現在の四万十市に生まれた岡本真夜は、地元の中学を卒業後、高知県内の高校に進学します。そしてある日、岡本真夜がたまたまラジオのスイッチを入れた瞬間に流れてきた、ドリームズ・カム・トゥルーの曲が、彼女の運命の扉をノックします。
「小学3年生で、ピアノを習い始め、高校1年生までずっとピアノ一本に取り組んで、将来はピアニストを目指していたんです。それまでは、クラシックを中心に音楽を聴いていたんですが、ある日、ラジオから偶然流れてきたドリームズ・カム・トゥルーの「未来予想図Ⅱ」を聴いた瞬間、私は全身に鳥肌が立つような感覚に襲われたんです。「未来予想図Ⅱ」の曲のエンディングの部分、吉田美和さんが高音で歌う歌声を聞いて、「これだ!」って私は瞬間的に思ったんです。次の日、直ぐにCDショップに行って、「未来予想図Ⅱ」が入ったアルバム『LOVE GOES ON』を買いました。この日から、それまでのクラシック一辺倒から、ドリカムに夢中の毎日になっていました」。
ラジオから流れてきたドリカムの曲をキッカケに、岡本真夜は、歌で人々を感動させる素晴らしさを覚え、ピアニストになるのではなく、歌手を目指すことを決意します。それからというもの、岡本真夜は、自分の部屋でラジカセから流れる音楽に合わせて歌ったり、週に何度もカラオケBOXに足しげく通って、毎日歌い続けたと言います。
1991年の夏、岡本真夜は、自らが歌ったデモテープを音楽事務所に送ります。そして、そのデモテープを聞いた事務所からの誘いを受けて、翌年3月、高校を卒業した岡本真夜は、歌手を目指して上京するのでした。
1992年3月、歌手を夢見て上京した岡本真夜は、ヴォイストレーニングとアルバイトに明け暮れる日々を過ごすします。「上京するまでは、いろいろな作家の人達に曲を書いてもらって、単なるひとりの歌手になることを目指していました。ところが、上京して間もなく、スタッフは私にこう言ったんです。「自分で、曲を作ってみたら」って。
それまで、曲を作った経験は全く無く、スタッフの言葉に初めは戸惑いを感じましたが、直ぐに「書いてみよう」、というチャレンジ精神も生まれてきました」。岡本真夜は、当時についてこう振り返ります。
「曲作りの経験は全く無かったので、初めは曲の作り方が分からず、「作曲入門」という本を買ってきて、曲作りを始めました。ただ、本には、コード進行の事しか書いてなく、クラシックばかり聴いていた私にとっては、コード進行がさっぱり分からなくて、初めは「どうしようか」と、頭を悩ませていたんです。ところが、ある日、頭の中に自然とメロディが浮かんで、気がついたら私は鼻歌を歌っていました。その、鼻歌で歌ったメロディを、カセットテープに幾つも録音し、パズルのように組み合わせて曲を作っていったんです。
「それから、色んなシンガーソングライターの曲も聞いて、良い部分を吸収しようとしました。中でも、キャロル・キングは特別でした。彼女の声の存在感、ピアノの弾き語り、彼女の曲には惹かれる部分がたくさんあり、「彼女のようになりたい」という憧れを持つようになったんです」。
その後、ヴォイストレーニングと作曲の日々を送っていた岡本真夜へ、スタッフからシンガーソングライターとしてデビューするための条件が提示されます。
「スタッフは、私に「100曲作る」事を、デビューの条件として出してきました。試行錯誤しながら、曲を作り、結果的に60曲ほどしかできませんでした。しかし、スタッフは、私が頭を悩ませながら曲を作っている姿を見ていてくれたんでしょうね。シンガーソングライターとしての、デビューを認めてくれました」。
上京から、3年近く経った1995年。シンガーソングライターとして、念願のデビューが決まった岡本真夜は、デビュー曲として、彼女が上京して間もない頃に作った、ひとつの曲を選びます。
「この曲は、曲を作り始めた、最初の頃に作った曲です。上京する前、私が住んでいた高知の、仲の良かった友達が、仕事や家族、恋人の事など、色んな悩みを抱えていたんです。その話を聞いて、私はすぐに友達のそばに行って、励ましてあげたい気持ちでいっぱいだったんですが、私は直ぐに行くことはできない。じゃあ、「私は、何ができるんだろうか」と考えた時、「私は、私の歌で友達を励ましてあげたい」と思って、曲を作ることにしたんです。先にメロディを書き、その後、友達に対する想いを歌詞に綴っていきました」。
「実は、初め、この曲は、ミディアムバラードで作っていました。ところが、デビュー曲に選んだ後、TVドラマ主題歌のタイアップが決まって、テレビ局からの要望で、アップテンポの曲に変更することになったんです」。岡本真夜が、故郷高知に住む友達を励ます想い綴った曲、「TOMORROW」は、TBS系テレビのドラマ『セカンド・チャンス』の主題歌として起用され、95年5月にリリースされました。
1995年5月に発売された、岡本真夜のデビュー曲「TOMORROW」は、セールスチャート初登場6位を記録した後、8週目に最高位1位を記録。その後も、約1年近くに渡って、セールスチャートにランクインし続け、約177万枚の売上を記録する、大ヒット曲となります。また、翌1996年3月に行われた、「第68回選抜高校野球大会」の入場行進曲にも起用されて、日本全国の、多くの人々に愛される曲となります。
「この曲があったから岡本真夜という存在を知ってもらうことができました。私から、この曲に対して“ありがとう”って、感謝を伝えたい曲ですね」。最後に、岡本真夜さんは、こう語ってくれました。
1人の友だちを励ましたいという想いが、日本中の人たちを勇気付けることになった、
J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.未来予想図Ⅱ/ドリームズ・カム・トゥルー
M2.A Natural Woman/キャロル・キング
M3.TOMORROW/岡本真夜
第86回目の今日お届けしたのは、「THE BOOM/風になりたい」でした。
バンドブーム真っ盛りの1986年11月、宮沢和史、小林孝至、山川浩正、栃木孝夫の4人が結成したバンド「THE BOOM」は、翌1987年夏から、東京・原宿で実施されていた歩行者天国での路上ライブ、通称「ホコ天ライブ」から、本格的に活動をスタート。翌1988年には、「CBSソニーオーディション」に見事合格し、その翌年の、翌1989年5月、シングル「君はTVっ子」、アルバム『A Peacetime Boom』でデビューします。
「デビュー当時のTHE BOOMは、「自分達はこんな音楽をやりたい」とか、「こんなバンドになりたい」と言う目標はなく、その時彼らが感じた音楽を、形にしていただけでした」。事務所のスタッフは、当時をこう振り返ります。
その後も、THE BOOMは、ホコ天出身バンドの中では個性的と言える、叙情的なメロディと歌詞で、幅広い音楽ファンから注目を集めていきます。
ただのタテ乗りバンドとは一線を画した音楽性をデビュー当初から発揮していたTHE BOOM。その音楽性をさらに拡げるきっかけとなったのが、1990年9月にリリースされたサードアルバム『JAPANESKA』のアルバムジャケット撮影のために訪れた沖縄でした。沖縄音楽の魅力に引き付けられた彼らは、その後も度々沖縄を訪れるようになります。
1991年冬、宮沢和史は、初めて「ひめゆり平和祈念資料館」へ足を運び、そこで「ひめゆり学徒」の生き残りだという、一人のおばあさんと出会います。本土決戦を引き伸ばす為の「捨て石」となった沖縄地上戦の事実を、おばあさんから初めて聞かされた宮沢は、沖縄の戦争の歴史に衝撃を受け、そんな事実も知らずに生きてきた自分へ怒りさえ覚えて、涙が止まらなかったといいます。宮沢和史が、資料館から一歩外に出た時、彼の目に飛び込んできたのは、静かな風に揺れるウージ(さとうきび畑)の風景でした。「おばあさんに聞いてもらいたい」という願いが込められた曲「島唄」は、1992年1月に発売された、5枚目のアルバム『思春期』に収められます。
1992年1月に発売された、THE BOOM5枚目のアルバム『思春期』に収録された「島唄」。同じ年1992年12月には、「沖縄の人に聞いてもらいたい」と言うバンドの願いを込め、沖縄の方言で歌ったウチナーグチ・ヴァージョンが、沖縄地区限定で発売されます。この「島唄(ウチナーグチ・ヴァージョン)」は、泡盛のCMソングとして起用されて、沖縄地区で大ヒット。翌1993年6月には、標準語で歌った「島唄」のオリジナル・ヴァージョンを、11枚目のシングルとして全国発売し、セールスチャート最高位4位、およそ91万枚の売上を記録。音楽ファン以外の多くの人にも、THE BOOMを認めてもらうキッカケとなります。
「“島唄”が、話題になり始めていた1992年8月から、約半年近く、THE BOOMとしては、バンド活動を休止していました。この活動休止期間中、メンバーは、それぞれソロ活動を行っていて、宮沢は、シンガポールのミュージシャン、ディック・リーからの誘いで、シンガポール、香港、日本で上演されたミュージカル『ナガランド』に、日本人唯一のキャストとして出演したんです。短い期間でしたが、宮沢が『ナガランド』に出演して吸収した、インドネシアの伝統的な器楽合奏音楽「ガムラン」などのアジア音楽は、THE BOOMの次のアルバム作りに大きな影響を与えました」。事務所のスタッフは、当時についてこう振り返ります。
翌1993年2月、THE BOOMは、全国ライブツアーから活動を再開。そして、宮沢がロックオペレッタ『ナガランド』に出演して影響を受けた、アジア音楽を中心に、沖縄音楽、ロック、ファンク、ゴスペルなど多種多様な音楽要素を詰め込んだ6枚目のアルバム『FACELESS MAN』を8月に発売します。また、アルバムに先駆けて7月には、ディック・リーが手掛けた、華やかなコーラス・ワークが印象的な、シングル「真夏の奇蹟」が発売されます。1993年7月、アルバム『FACELESS MAN』に先駆けて発売された、THE BOOM12枚目のシングル「真夏の奇蹟」は、セールスチャート最高位16位、約17万枚の売上を記録します。
同じ年の1993年、宮沢和史は、アルバムレコーディングの合間をぬって、以前から宮沢が大好きだった音楽「ボサノヴァ」に触れることを目的に、ボサノヴァの発祥の地ブラジルを、初めて訪問します。そこで宮沢は、「僕ら日本人の手で、日本で響かせられるサンバを作ってみたい」と思いを抱くようになり、彼自身が、自らの肌で感じたブラジルを、音で表現した、ひとつの曲を書き下ろします。
「THE BOOMとしては、初めて南米のリズムを取り入れた曲です。レコーディングの際、メンバー自身も使い方が分からないような物を含めて、様々な打楽器をスタジオに集めて、色々と試しながらレコーディングを進めていきました」。事務所のスタッフは、当時についてこう振り返ります。
延べ100人にものぼる大編成のパーカッション隊による演奏が圧巻のこの曲は、翌1994年11月に発売が予定されていた、THE BOOMの次のアルバムに収められることになります。
「ロックバンドとしてデビュー後、音楽活動していく中で、宮沢は「日本人である自分の音楽は、何だろうか」と考えていた時に、沖縄音楽と出会いました。そして、その沖縄音楽との出会いをキッカケに、今度はキューバやジャマイカなどへも旅に出掛け、現地で色々な音楽を吸収し、その吸収したものをTHE BOOMの音楽に取り入れてきました。どの場所との出会いも、THE BOOMにとってすべて音楽の魅力がキッカケです。「どうやって、この音楽が生まれたのか」。宮沢は、常に彼自身が旅をして、肌で感じたことを、音にするというスタンスを続けています」。
宮沢和史が、ブラジルを旅し、自分の肌で感じたことを音で表現したこの曲は、1994年11月に発売された、THE BOOM9枚目のアルバム『極東サンバ』に収録され、アルバム発売と同時にスタートした、ライブツアーでも、多くのファンから支持を集めていきます。そして、翌1995年3月、ファンの声にも後押しされて、THE BOOM17枚目のシングルとして「風になりたい」は、発売されるのでした。
1995年3月に発売された、THE BOOM17枚目のシングル「風になりたい」は、セールスチャート最高位19位、約26万枚の売上を記録します。
「この曲は、ステージ上で演奏するメンバーだけが主役になれる曲ではなく、ライブに参加しているお客さんも含め、みんなが主役になれる曲です。ライブでは、お客さんに手作りのシェイカーなどを持ち寄ってもらい、一緒に演奏したこともありました。THE BOOMのメンバーはもちろん、ファンのみんなにとっても、メンバーと一体となって楽しめる曲です」。最後に、事務所のスタッフはこう語ってくれました。
宮沢和史自身が肌で感じた音が、大きな風となって広がっていった、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.君はTVっ子/THE BOOM
M2.島唄(オリジナル・ヴァージョン)/THE BOOM
M3.真夏の奇蹟/THE BOOM
M4.風になりたい/THE BOOM
第85回目の今日お届けしたのは、「花*花/あ〜よかった(setagaya mix)」でした。
「おのまきことは、神戸の音楽専門学校「甲陽音楽学院」で出会いました。入学直後のオリエンテーションの日の朝、体調が悪く、不機嫌な顔をしていた私を見て、彼女は「こんな人とは、絶対に友達になりたくない」と思ったそうです。でも、いつの間にか二人は仲良くなって、気がついたら、ユニットを組んで音楽をやっていました。不思議な関係ですよね」。もう一人のメンバー、おのまきこ、との初めての出会いについて、花花のメンバーこじまいづみさん本人は、こう振り返ります。
1995年4月、専門学校で出会った、おのと、こじまの二人は、「音楽」を通して、交流を深めていきます。
「私は、中学時代に、近所の教会で生のゴスペルを聞く機会があったんですが、「何てカッコイイんだろう」って思って、それからソウルミュージックや、R&Bが好きになりました。おのは、高校時代にジャズバンドのピアノを担当していて、流行りの歌謡曲も聞くけど、もっぱらJAZZを聞いていたそうです」。
二人が大好きな「音楽」をキーワードに、意気投合したこじまとおの。やがて二人は、学校主催のスクールコンサートにユニット「RINCE」を結成し、出演。温かみのある二人の声を耳にした周囲から、高い評価を集め、いつの間にか、二人の活動の場は、学校から近隣のライブハウスへと広がっていきます。
「当時、音楽だけで生活することは考えていなかったので、その後、二人とも別々に就職し、仕事の合間に、神戸のライブハウス「チキンジョージ」など、京阪神のライブハウスで、月1回だったり、週に1回だったり、自分達のペースで、ライブを行っていました」。こじまいづみさんは、こう振り返ります。
1997年、二人が定期的にライブを行っていた、兵庫県尼崎市のライブハウス「ブラントン」が、彼女達の曲2曲を収めたオムニバスCD『CRYSTALS OF DREAM vol.2』を発売します。そのCDが、複数の人を介して、インディーズレーベル「エイジップミュージック」のスタッフの手に渡り、二人のユニットRINCEはインディーズレーベルからデビューの誘いを受けます。「最初は、怪しいと疑ったけど、CDを作って発売することは悪い話じゃないし、やってみようか!」。二人はそんな軽い気持ちで、1998年11月、ユニット名を「花花」と改め、インディーズ1stシングル「こたつと毛ガニの巻」を発売します。
「こたつと毛ガニの巻」でインディーズデビューした花花は、京阪神のライブハウスでの演奏活動や、CDショップでのインストアライブを中心に、活動の場を広げていきます。「インディーズとはいえ、自分達のCDが初めて完成して手元に届いた時は、あまりにも嬉しくて、両親、親戚はもちろん、友達にも配って、レコード会社の人から笑われました。まさか、自分達がプロになるんて夢にも思っていなかったし、CDを発売するなんて、考えてもいなかったので、嬉しくてはしゃいでいたんですね」。こじまいづみさんはこう振り返ります。
「CDショップで、インストアライブを行った時、自分達の演奏を聞いてくれたお客さんが、目の前でCDを買って帰ってくれる風景を見た時、改めて自分達がCDを発売したんだ、と言う実感を覚えました。と同時に、使い捨てのように曲を作って売るだけではない、どの時代になっても変わらない、普遍的で、スタンダードな曲を作っていくことを心がけよう、と心に誓いました」。
花花は、インディーズ1stシングルを発売した後も、翌年、1999年の1月、3月、4月と、ほぼ毎月のペースで曲を発売。6月には、1stアルバム『11songs』も発売、積極的な活動を続けていきます。
「アマチュア時代から、二人の曲作りの基本的な考え方は変わっていません。それぞれが別々に、曲を作って、ある程度曲が貯まった段階で、まず二人だけで曲の発表会を行って、曲を絞ります。その後、スタッフに聞かせて、曲を完成させるんです。歌詞も、特別な事ではなく、二人が普段生活している、半径5m以内で起こっている出来事をそれぞれが歌詞に綴っています」。1999年6月、花花はアルバム『11songs』と5枚目のシングルをリリース。そして11月には、6枚目のシングル「ずっと一緒に」を発売します。
1999年11月に発売した、花花のインディーズ6枚目のシングル「ずっと一緒に」。毎日放送の情報番組『ちちんぷいぷい』のエンディングテーマ曲として起用されたこの曲が、毎日TVから流れ始めた頃、花花に、ある話が舞い込みます。「シングル「ずっと一緒に」の発売直後に、ワーナー・ミュージック・ジャパンから、メジャーデビューの誘いがありました。実は、6月に発売した、5枚目のシングルが、FM802のヒットチャートで2位になったんですが、ラジオで頻繁に流れる来るこの曲を聴いた、ワーナー・ミュージック・ジャパンの担当者が連絡をしてきたんです」。
インディーズでありながら、FMラジオ局のヒットチャートを賑わし、関西では一躍注目を浴びる存在となっていた花花。突然舞い込んだメジャーデビューの話に、花花は、戸惑いもなくメジャーデビューの話を受け入れます。「インディーズデビューの時ほど、驚きはありませんでした。ただ、活動の場が関西から、全国へ広がっていくんだな、というぐらいの感覚でしたね」。
翌2000年、花花メジャーデビューに向け準備がスタート。花花は、1stシングルとして、メジャーデビューのキッカケを作った曲を、1stシングルとして選びます。「レコード会社のスタッフも、この曲を1stシングルとして発売することに賛成でした。「ラジオで多くの人たちの支持を集めたこの曲は、一度聴いた人を引き付ける力を持っている。デビュー曲は、絶対この曲しかない」と、賛成してくれました」。
「この曲は、専門学校を卒業した年、私の友人が結婚することになって、その御祝のために作った曲です。かわいいファンクを作ってみたいと思い、プチ「Jackson5」風で作った曲です。歌詞は、「こんな恋愛がしてみたいな」と言う、自分の恋愛願望を綴っています。歌詞のサビの部分は、歌った時に、その場に居る人達みんなが、合唱できるように作りました」。曲を作った時の様子について、こじまいづみさんは、こう振り返ります。
曲のアレンジを、より多くの人達に聴いて受け入れてもらうために、POPS調にアレンジし直した、花花のメジャー1stシングル「あ〜よかった(setagaya mix)」は、2000年7月発売されます。
2000年7月に発売された、花花のメジャー1stシングル「あ〜よかった(setagaya mix)」。オリコンセールスチャート最高位5位を記録、およそ半年近くに渡ってチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「二人が作った曲は、この「あ〜よかった(setagaya mix)」以外にも、まだまだ沢山ありますが、この曲は、かわいい自分の子どものような感じがします。自分達がライブで歌うのはもちろんですが、aikoさんがラジオ番組の中でこの曲をカバーしてくれたり、他のアーティストの方々も、カバーしてくれています。みんなに愛され続けられているこの曲へは、嬉しくて何とも言えない親心がいっぱい詰まっていますね」。
最後に、こじまさんはこの曲について、こう振り返ってくれました。
女性の素直な恋愛願望が生んだ、J-POPラブソングの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ナチュラル・ウーマン/アレサ・フランクリン
M2.こたつと毛ガニの巻/花*花
M3.ずっと一緒に/花*花
M4.あ〜よかった(setagaya mix)/花*花
第84回目の今日お届けしたのは、「尾崎紀世彦/また逢う日まで」でした。
「彼と初めて出会ったのは、確か1966年、四国で行われたライブだったと思います。当時彼は、カントリー・ウエスタン・バンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーで、僕は、コーラスグループ「ザ・タドポールズ」のメンバーでした。お互いのバンドと、佐良直美を加えた3組が共演したジョイントライブでした」。尾崎紀世彦との初めての出会いについて、後に彼の制作ディレクターを務める小栗俊雄さんは、こう振り返ります。
ジョイントライブで出会った尾崎紀世彦と小栗俊雄の二人は、小栗が在籍していた「ザ・タドポールズ」の、もう一人のメンバー朝紘一が、尾崎紀世彦と同年代だったことから、すぐに打ち解けます。それぞれ立場は違うものの、尾崎紀世彦と小栗俊雄、そして朝紘一の3人は、「音楽」と言う共通のテーマを通して意気投合、3人で新しいグループの結成を決意します。
「在籍していた、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」、「ザ・タドポールズ」に、3人とも不満はありませんでした。しかし、将来の事を考え、自分達で何か新しい事にチャレンジしてみたくなったんですね。3人で何度か話をし、出した結論が、新しいグループの結成でした」。当時について、小栗さんはこう振り返ります。
1967年1月、尾崎紀世彦、小栗俊雄、朝紘一の3人が結成した、コーラスグループ「ザ・ワンダース」。ザ・ワンダースは、銀座「タクト」や新宿「アシベ」と言ったジャズ喫茶や、全国各地の米軍基地での演奏を中心に音楽活動をスタートさせます。当初はザ・ウォーカー・ブラザーズ、ビートルズなどのカバー曲を中心に歌っていたザ・ワンダースでしたが、8月に、シングル「明日への道」とアルバム『ニューカマー・ザ・ワンダース』でレコードデビューします。そして、同じ年の10月に、ザ・ワンダースがバンド名を変えて発売したある曲が、後に彼らの存在を大きくクローズアップさせるキッカケとなるのでした。
1967年10月、ザ・ワンダースが、グループ名を「ジ・エコーズ」と改名して発売した「ウルトラセブンの歌」。「この「ウルトラセブンの歌」は、当時、僕らが契約していた事務所「日音」が、TBSテレビの仕事に携わることが多く、その関係で歌うことになりました。しかし、僕らが契約していたテイチクレコードとの契約上の問題で、ザ・ワンダース名義では曲を発売できないという話になり、急遽、グループ名を変えて発売することになったんです」。小栗さんは、曲を発売する時の経緯について、こう振り返ります。「曲の頭、「セブン、セブン、セブン、セブン」と言う歌詞の、3番目のセブンを歌っているのが尾崎紀世彦です。また、曲のメインボーカルを務めているのも、尾崎紀世彦です。当時から、尾崎紀世彦の声の張り、力強さなどボーカルとしての素質は際立っていましたね。ザ・ワンダースとしては、中々ヒット曲を出すことはできませんでしたが、後にジ・エコーズ名義でTV主題歌やCMソングを歌った話が世の中に知られるようになった時、ザ・ワンダースも再評価されるようになったんです」。その後も、ザ・ワンダースとしてライブ活動を行い、ジ・エコーズ名義でTV主題歌やCMソングを歌っていた尾崎、小栗、朝の3人は、1969年の秋、「日音」の村上プロデューサーから、ある提案を受けます。「村上さんからの提案は、「ザ・ワンダースを結成して2年半。思うように結果も出ないから、グループを解散し、それぞれ別々の道を歩んではどうか」ということでした。突然の話でしたが、3人は将来を考え、ぞれぞれ別々の道を歩むことを決めました」。
村上プロデューサーからの提案に、小栗は制作スタッフ、朝は作詞家への道を歩むことになります。そして、尾崎紀世彦は、彼が持つ声の太さ、張りに魅力を感じていた村上プロデューサーが、ソロボーカリストとしての道を歩むことをすすめ、翌1970年8月、シングル「別れの夜明け」でソロデビューします。
1970年8月、シングル「別れの夜明け」でデビューした尾崎紀世彦。本格派ボーカリストとしてソロ活動を始めた尾崎紀世彦の評価は、音楽関係者の間で話題となります。翌1971年、尾崎紀世彦2枚目のシングルを作るにあたって、村上プロデューサーは、彼の頭の中で気になっていた、ある曲を、尾崎紀世彦に歌わすことを考えます。「村上プロデューサーが、尾崎紀世彦に歌わそうとしていた曲は、もともと作曲家の筒美京平さんが、三菱電機のCMソングとして作った曲でした。しかし、曲を作ったものの、スポンサー側の都合で土壇場でキャンセル。日の目を見ることなく、消えていく運命にあった曲だったんです。ところが、その後、作詞家の阿久悠が歌詞を書き直し、1970年2月に、GSグループの「ズー・ニー・ヴー」が「ひとりの悲しみ」というタイトルで発売することになるんです。」
「ズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」は、日米安保で挫折した青年の孤独をテーマに描いたものでしたが、残
念ながら、ヒットはしませんでした。しかし、村上プロデューサーは、「メロディは問題ない。聴く人が分かりやすく歌詞を書き直し、尾崎の力強い声で歌えば、この曲が持っている良さは、必ず聴く人の心を掴み、ヒットする」、と考えていたようです。」「そこでまず、ズーニー・ヴーの曲を、尾崎がテスト録音したんですが、そのテスト録音を聞いた瞬間、村上プロデューサーも、僕も「これだ。絶対売れる」と確信しました。それで村上さんは、「ひとりの悲しみ」を作詞した阿久先生に、改めて歌詞を書き直してくれるように頼みに行ったんです」。小栗さんは、当時についてこう振り返ります。村上プロデューサーの、度重なる依頼に、「ひとりの悲しみ」を作詞した阿久悠は、歌詞を書き直すことを了承します。「歌詞は書き直しましたが、メロディアレンジは「ひとりの悲しみ」と同じです。唯一こだわった点は、曲のイントロに使われた、太鼓です。曲にダイナミックなスケール感を出すため、この部分は、太鼓の音の大きさにこだわり何度も録り直しました」。「尾崎が歌う、ボーカルパートも完成し、最後に曲のサビに、コーラスを加えることになりました。コーラスは、尾崎、僕、そして朝の3人、つまりザ・ワンダースの元メンバー3人が担当しました。曲をよく聞くと分かりますが、サビの部分は3人のコーラスを重ねているんですが、やはり尾崎の声が強く、まるで一人が歌っているようにしか聞こません。可笑しいですよね」。小栗さんは、レコーディングの時の様子について、こう語ってくれました。こうして、1971年3月、「ひとりの悲しみ」改め、「また逢う日まで」は、発売されます。
1971年3月に発売された、尾崎紀世彦2枚目のシングル「また逢う日まで」は、セールスチャート最高位1位を9週連続で獲得、約96万枚の売上を記録します。また、この年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞も受賞します。「この曲は、尾崎紀世彦を代表する曲であると同時に、彼がもつ声の強さ、張り、艶。ボーカリストとしては申し分の無い彼の魅力が、最大限詰まった曲です」。最後に、小栗俊雄さんはこう語ってくれました。
尾崎紀世彦のボーカリストとしての魅力を最大限に引き出した、日本歌謡界に燦然と輝く名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ダンス天国/ザ・ウォーカー・ブラザーズ
M2.ウルトラセブンの歌/ジ・エコーズ&みすず児童合唱団
M3.別れの夜明け/尾崎紀世彦
M4.また逢う日まで/尾崎紀世彦
第83回目の今日お届けしたのは、「SOFFet/Answer」でした。
「YoYoと初めて出会ったのは、小学5年生の時。転校してきた彼と、同じクラスになり、一緒にバスケットボールをして遊ぶようになりました。その後、当時流行っていたNBAのビデオを見て、BGMで流れるラップやヒップ・ホップを耳にし、「自分達も、こんな音楽を歌えたら格好いいな」と思い始めたんです。その後、僕らが中学に進学した頃、日本でもスチャダラパーや下町兄弟などのラップやヒップ・ホップミュージシャン達の存在感が出始め、僕もYoYoと一緒に、最初はお互いの家の中で、ギター片手に、ラップやヒップ・ホップを歌い始めました」。
ふたりの出会い、そして音楽と出会ったキッカケについて、GooFさん本人はこう振り返ります。
1995年、中学3年生になったGooFとYoYoのふたりは、ますますラップとヒップ・ホップの魅力に取りつかれ、独学でオリジナル曲を作るようなり、地元東京・吉祥寺のライブハウスで、ワンマンライブを行うようになります。翌1996年には、すでに、ライブハウスに200人近くを集める、ラップ・ユニットとして、地元では、一躍注目を浴びる存在になっていきます。しかし、1999年、YoYoがアメリカ・バークリー音楽院に単身留学。その間、GooFは、ひとりで音楽活動を続けます。
「2000年に、YoYoがアメリカから帰国したんですが、確か、その翌年2001年だったと思います。二人で作ったデモテープが、複数の人の手を介して、今の事務所のスタッフの手に渡っていったんです。ある日、デモテープを聞いた事務所のスタッフから、「デモテープを聞いたんだけど、ウチの事務所に入って、デビューしないか?」と連絡がありました。その後は、自分達でも驚くぐらいのスピードで、デビューが決まっていきました」。
GooFさん本人は、デビューが決まる時の様子について、こう振り返ります。
2002年7月、SOFFetはインディーズレーベルからミニアルバム『ソッフェのぽかぽかミュージック』を発売。インディーズ盤として、好調なセールスを記録したことで、SOFFetは音楽関係者の間で話題を呼び、翌2003年3月、注目が集まる中、SOFFetはシングル「君がいるなら☆」で、メジャーデビューします。
2003年3月、1stシングル「君がいるなら☆」でメジャーデビューした、SOFFet。
「デビュー当時、YoYoと僕は、他のラップやヒップ・ホップミュージシャンと同じスタイルで音楽をやっても、SOFFetとしての個性が無かったら、ダメだと考え、SOFFetの音楽に取り込もうとしたのが、YoYoがバークリーに留学した時に学んだJAZZでした。ラップとJAZZを融合させることで、SOFFetならではの、個性的な音楽スタイルが確立できるのではないかと考えたんです」。GooFさん本人は、デビュー当時についてこう振り返ります。
2003年3月に発売した、SOFFetの1stシングル「君がいるなら☆」は、チャート最高位50位、11週間にわたってセールチャートにランクインします。「メジャーデビューし、まずまずの結果が出て、とくに根拠は無かったけど、インディーズ時代には思わなかった「俺達はやれるぞ!」と言う自信が、不思議と湧いてきました」。デビューシングル発売から、2ヵ月後の5月、そして7月と立て続けにシングルを発売したSOFFet。8月には、1stアルバム『Carnival』を発売。アルバム『Carnival』は、セールスチャート初登場15位を記録し、SOFFetが感じていた、「プロの世界でも通用する」、と言う自信は、確信へと変わっていきます。
2003年11月、SOFFetは、デビューからわずか9ヵ月目にして、早くも4枚目となるシングル「人生一度」を発売します。
2003年11月、SOFFet4枚目のシングル「人生一度」。「この曲は、発売直後から、SOFFetのホームページのBBSに、曲に対しての賛否両論のメッセージが100通近く寄せられたんです。曲を作ったのは、2000年、デビュー前の大学生の時です。人生は、一度キリしか無い。やりたい事が見つかっている今、それを生涯貫いてやり通したい。簡単な道でないことは分かっているけど、必ずモノにしてやる。そんな気持ちから作った曲です。最初に、私小説的なシナリオを書き、最初から最後までしっかりとした時間軸を追って作ったのは、この曲が初めてで、この曲の具体的なストーリー展開が、ファンの間で賛否両論の評価に繋がっていったんでしょうね」。
SOFFetにとって、意義深い曲となった4枚目のシングル「人生一度」。その後も、順調に活動を続けるSOFFetは、2004年8月に、2ndアルバム『SWINGIN’ BROTHERS』を発売。ジャズ、クラシック、ロックと様々なジャンルの音楽の要素を取り入れ、歌とラップを自由に作りあげた音楽は、SOFFetのクオリティの高さを示すアルバムとして、音楽関係者から高い評価を得ます。2006年8月、SOFFetは、レコード会社をワーナーミュージック・ジャパンかえらrhythm zoneに移籍。同じ8月に発売した、移籍第1弾シングル「everlasting one」は、発売直後にFM各局で
支持を集め、週間OAチャートの1位を獲得します。
翌2007年1月、約2年半ぶりにアルバム『ココロフィルムノート』を発売。佐藤竹善、スキマスイッチなども参加したアルバム『ココロフィルムノート』は、SOFFetの個性溢れる音楽性の進化を感じとった、ファンのみならず、音楽関係者からも高い評価を得ます。そして、2007年5月末から6月にかけて、SOFFetと同じ事務所に所属するヒップ・ホップ・グループ「エイジアエンジニア」と、全国19ヵ所を回るライブツアーを終えた7月に、次のシングルを発売します。
「この時までに発表した曲で、SOFFetらしさは、ある程度完成された、と思っていました。そこで、敢えてもう一度「SOFFetの音楽とは?」という事を、世の中に問いただしてみたかったんです。GooFとYoYo、二人のスタイルから、世間では、SOFFetは若いミュージシャン、と言うイメージを持たれていると思ったので、そのイメージを払拭するためにも、新しい大人の音楽を作ってみたかったんです」。曲を作るキッカケについて、マネージャーの溝口さんは、こう振り返ります。
「この曲は、“偽りのこの世界 どこにも答えはない でもそれが答えじゃない”と書かれた曲のサビの歌詞がポイントです。一見、歌詞だけを読むと、ネガティブに捉えられますが、本当の意味は、閉塞感のある世の中だけど、世間で言われていることが、決して正しい答えではないんだよ。というメッセージを込めています」。
「また歌詞が、英語と日本語のミックスになっているのは、SOFFetらしさを出すためでもありました。YoYoは、留学経験もあり、日常会話なら、全く困らないほど英語を喋ることができます。日本語では巧く表現できない歌詞も、英語で表現すれば巧く表現できることだってあるんです。だったら、英語と日本語を巧くミックスした歌詞にすれば、SOFFetらしさが表現された曲になるし、より深いメッセージを発信できるのではと、考えたからです」。マネージャーの溝口さんは、こう語ります。
2007年7月、SOFFetが新たなチャレンジとして取り組んだ11枚目のシングル「Answer」は、発売されます。
2007年7月に発売された、SOFFet11枚目のシングル「Answer」。力強さ・メッセージ性のある歌詞で、話題を呼び、USENへの問い合わせが殺到。発売直後から、約3ヵ月に渡ってUSENチャートのTOP20上位にランクインし続けるロングヒットとなります。「曲を作る、産みの苦しみはもちろんですが、それまでオリジナリティを追求し続けてきたSOFFetの音楽を、どうPOPSに昇華させるか、最後の最後まで悩んだ曲です。ライブでお客さんがこの曲を聞いた時に見せる反応が、本当に、僕らの悩み抜いた気持ちを救ってくれました。SOFFetを次のステージへ導いてくれた曲です」。
最後に、GooFさん本人はこう語ってくれました。
SOFFetの音楽が、POPSのステージへ昇った、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ミモザの咲く頃/笹本安詞=下町兄弟
M2.君がいるなら☆/SOFFet
M3.人生一度/SOFFet
M4.Answer/SOFFet
第82回目の今日お届けしたのは、「ASKA/はじまりはいつも雨」でした。
「もともと僕は、ソロとして音楽活動を始めたんですが、ポプコンに出場するときに、ヤマハのディレクターからの提案で、チャゲとユニットを組んで出場することになったんです。それで、気がつくと「チャゲ&飛鳥」としてデビューが決まっていました。その後、チャゲ&飛鳥として活動していくわけなんですが、当初から「ソロとしての活動もしたい」と、何度となく事務所に話をしていました。しかし、周囲に誤解を与えてはいけない…という理由で、その頃は、却下されていたんですね。その後、ASKA個人名義で他のアーティストに提供した曲も増え始め、そろそろソロ活動してもいいんじゃないかと、改めて事務所にお願いしたんです」。1987年、ソロアーティストとしてデビューするキッカケについて、ASKAさん本人はこう振り返ります。
1958年2月、福岡市博多区に生まれたASKAは、17歳の時、同郷のミュージシャン井上陽水のアルバム『氷の世界』を聴き、音楽が持つ表現力の素晴らしさに感銘を受け、自らもギター片手にオリジナル曲を作り始めます。1976年、ASKAは7人組バンド「葡蘭湖」(ぶらんこ)のメンバーのひとりとして、ヤマハのアマチュアバンドコンテスト「第13回ポプコン」福岡大会に出場しますが、予選で敗退。その後ASKAは、バンドではなく、ソロアーティストとして、大学の学園祭やイベントで歌い始め、1978年春には、高校の同級生のチャゲも出場した「第15回ポプコン」福岡大会で、最優秀歌唱賞を受賞。チャゲとASKA、それぞれの歌唱力に注目したヤマハのディレクターからの提案で、ユニット「チャゲと飛鳥」として本選に出場し、優秀曲賞を受賞。翌1979年春の「第17回ポプコン」にも2人で出場、入賞したチャゲ&飛鳥は、終にデビューが決まります。
1979年8月、チャゲ&飛鳥は、シングル「ひとり咲き」でデビュー、ライブを中心に活動の場を全国に広げていきます。翌1980年9月、チャゲ&飛鳥3枚目のシングル「万里の河」が、セールスチャート最高位6位、半年近くに渡ってセールスチャートにランクイン。約53万枚の売上を記録するロングヒット曲となり、チャゲ&飛鳥は、当時のいわゆるニューミュージック代表するユニットとして、人気を集めていきます。
その後、ASKAは、チャゲ&飛鳥として活動する一方で、ソングライターとして、他のミュージンシャンへ曲提供を始め、1987年には、光GENJIに提供した「STAR LIGHT」「ガラスの十代」が、2曲連続でセールスチャート1位を獲得。ASKAは、ソングライターとしての才能を開花させていきます。
そして、1987年9月、ASKAは自らも俳優として出演したテレビ朝日系ドラマ『新撰組』の主題歌「MY Mr.LONELY HEART」で、ソロデビューします。
1987年9月、ASKAソロ1stシングル「MY Mr.LONELY HEART」は、セールスチャート最高位16位、約2万8千枚の売上を記録。翌1988年7月には、CHAGE&ASKAの活動と並行しながら、2枚目のソロシングルとして、
シブがき隊に提供した曲「MIDNIGHT 2 CALL」を、セルフカバーします。
「CHAGE&ASKAは、アルバムを作る時、まずCHAGE、ASKAそれぞれが、ある程度まで曲が完成した段階で、お互いの曲を持ち寄り、それから、ボーカル、コーラスの分担を決め、曲を仕上げていきます。ユニットと言えども、どちらかと言えば、それぞれのソロワークの延長線上にユニットがある、そんな感じですね。だから、ASKAが、彼自身のソロの曲を作る場合も、作業はほぼ同じです。曲作りの最終作業までを一人でやる、違いはそれだけです。ただ、ソロの場合、曲を作る時、歌う時の世界観も、ASKA自身の中で想像し、やりたいことを作って歌っていくので、CHAGE&ASKAの曲とは、自由度が全く違いますね」。
「それから、ASKAは、曲を作るとき、歌詞ではなく、メロディを先に作ります。まず曲のテーマを作って、そこからイメージ広げてメロディを作っていきます。そして、曲が完成した段階で、歌詞を書いていきます。歌詞も、一語一句、丁寧に言葉を選び、曲を聞いたみんなに歌詞の内容を理解してもらえるように、分かりやすい言葉で書いていきます。たとえ曲が8割近く完成し、残り2割になっていたとしても、ただその2割を埋める作業ではなく、完成していた8割を壊してでも、彼はいい曲を作ろうとしています。それだけ、ひとつの曲を作る作業に、こだわって作っているんです。いつも、「人間に喜怒哀楽があるように、言葉にも無限の広がりがあるから、これで終わり、と思ったらいけない」って、言ってます」。プロデューサーの越前さんは、ASKAの曲作りの特徴について、こう語ります。
1988年8月、ASKAは、ソロとしては初のアルバム『SCENE』を発売します。
「僕自身、それまでCHAGE&ASKAの一人としてしか見ることができなかった音楽を、ソロアーティストASKAとしても見ることができるようになり、音楽をより多面体的に見られるようになりました。それまでCHAGE&ASKAの音楽しか聞かなかったファンの人達も、色々な角度から僕の音楽を聞いてもらえるようになったと思います」。ソロとして初のアルバム『SCENE』を発売した当時の、自身の音楽観の変化について、ASKAさんはこう振り返ります。
ASKAが他のアーティストに提供した曲をセルフカバーした曲や、子どもの頃から大好きで、よく歌っていた「蘇州夜曲」も収められた、1stソロアルバム『SCENE』。このアルバムは、セールスチャート最高位3位、約11万枚の売上を記録します。
1990年の秋、引き続きCHAGE&ASKAとして活動するASKAの下へ、「ソロとしてTVCMソングを提供してもらえないだろうか?」という話が、舞い込みます。
「この曲は、TVCMソングとして作った後、シングル化するという話もありましたが、CHAGE&ASKAの活動中だったので、一度は断ったんです。しかし、再度依頼され、TVCMに使う、曲のサビ部分だけを作ることにしました」。
「実は、高校生の頃、父親が買った『映画音楽大全集』をいつも聴いていたんですが、この曲を作るときに、映画音楽をモチーフに曲を作ったら、どんな形で曲が流れていくのかって考えて、 映画音楽をよく聞いていた当時を思い出しながら、メロディを作っていきました」。
「曲が完成して、次に歌詞を作る時、雨をテーマに書いてみようと思いました。普段、人が生活する中で、「肝心な場面で、雨が降ったら嫌だなぁ」、って思う時がよくありますよね? そのシーンを頭の中でイメージし、歌詞を綴りました。CMで曲が流れ始めると、「だれの曲」って問い合わせが数多く寄せられたそうです。そこで、改めて曲のAメロ、Bメロを作っていきました。実際に作りだすと、あっという間、数日で完成しました」。
ASKAは、曲を作った当時の事についてこう振り返ります。
1991年3月、その夏に発売を予定していた2枚目のソロアルバムに先駆けて、ASKA3枚目のシングル「はじまりはいつも雨」は、発売されます。
1991年3月に発売された、ASKA3枚目のシングル「はじまりはいつも雨」。パナソニック「HALF(は-ふ)コンポ」のTVCMソングとして起用されたこの曲は、セールスチャート最高位2位を記録。また1991年5月に公開された映画『おいしい結婚』の主題歌にも起用され、発売から半年後の1991年9月には、ミリオンセラーともなり、現在までに約116万枚の売上を記録するヒット曲となりました。
「それまで、数多くの曲を作ってきたけど、この曲は、自分の中で、初めてイメージ通りに作ることができた曲です。そして、その曲が、ヒットし、世の中の人にも認めてもらうことができた。いい仕事ができたな、って納得できた曲です」。
ソロアーティスト、ASKAが本当の意味で独り立ちした、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.氷の世界/井上陽水
M2.MY Mr.LONELY HEART/ASKA
M3.蘇州夜曲/ASKA
M4.はじまりはいつも雨/ASKA
第81回目の今日お届けしたのは、「森山直太朗/生きてることが辛いなら」でした。
母親は歌手・森山良子、父親は元歌手のジェームス滝、そして祖父はジャズトランペッターの森山久、と言う音楽一家のもとに生まれた森山直太朗。直太朗は、小学校に入学すると、音楽ではなく、サッカーに夢中になります。それは、音楽の素晴らしさを、普通の人以上に知り、肌で感じていながらも、それ以上に音楽の仕事の難しさを、家族の背中を見て育った、森山直太朗自身がひしひしと感じていたからでした。
その後、テレビを通して、世界の一流選手の華麗なプレーに憧れた森山直太朗は、中学・高校では、サッカー部の主将を務めるほど、サッカーにのめり込みます。そんな中、直太朗の一年後輩、現在の御徒町凧との交流が、森山直太朗を音楽の世界へ引きずりこむキッカケとなります。
「きっかけは、文化祭とか学園祭があるじゃないですか。その時に、彼が「のど自慢大会に出るんだけど、みんなはカラオケを使って歌うけど、僕はみんなと違って自作の曲を作って出場したい」と言って、ある種みんなのやり方とは違う、逆手にとったやり方をしたい話になりました。そこで、「じゃあ何か曲を作ってみる?」という話になりました。御徒町凧は、サッカー部の一年後輩で、その前から、我が家に入り浸るようになっていました。僕の母親・森山良子の事も全然分かってなく、いつも夜、うどんを作ってくれる、優しいおばさんぐらいしか認識してなく、それぐらいあっけらかんとしていました。その流れで、「今度文化祭で歌うんだよね」「そうなんだ」「じゃあ、曲を作ってみようか?」というのが、キッカケだったような記憶がおぼろげながらあります。
その後、森山直太朗は、成城大学に進学後も、プロのサッカー選手を夢みて、毎日サッカー漬けの日々を過ごします。しかし、大学2年生の時、「同じ環境にずっと居座り続けると、いつか煮詰まってしまう。サッカーを嫌いになったわけではなく、向き合えば向き合うほど、同じ環境にいちゃいけない」という彼自身の考えから、サッカーと決別。“プロのサッカー選手”という目標を取り下げた森山直太朗は、「母・森山良子に歌ってもらいたい」という思いから、ある曲を作ります。それが、森山直太朗初期の代表曲「高校3年生」でした。
「情景としては、高校3年生の自分の事を回想しながら作ったのを覚えています。非常にオーソドックスだけど、ベタな設定ですよね。自分が初めてギターを奏でたような感覚、曲を作ることの響きに酔いしれながら作っていたちょうな気がします」。
「高校三年生に関しては、できあがった曲を御徒町凧と、一番最後に、この曲はどういう形がいいんだろうか、と話し合いをしましたが、しかし、その時御徒町凧は、「自分は手をつけられない。逆を言うと、責任がもてない。かかわりたくない」と言いました。もうこれは君のアルバム、いわゆる卒業写真達の並びだから、俺が手を加えて楽曲のクオリティはあがるかもしれないけど、曲が持っているピュアネスが失われた時に、音楽を失ってしまうものがあるかもしれない、という判断で、この曲だけ僕のクレジットです」。
2001年3月、森山直太朗は、「高校3年生」を含むミニアルバム『直太朗』を、本名ではなく、“直太朗”名義で発売、インディーズデビューします。翌2002年10月、本名の森山直太朗名義で、ミニアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』でメジャーデビュー。翌2003年3月に発売した、シングル「さくら(独唱)」が、セールスチャート最高位1位、120万枚の売上を記録、セールスチャートに2年半近くもランクインし続ける大ヒット曲となります。
その後も、森山直太朗は、叙情的な詞の世界と、独特な歌声で注目を集め、日本を代表するシンガーソングライターとなっていきます。そして、2007年秋のある日、御徒町凧の部屋を訪れた森山直太朗は、一編の詩に出会うことになります。
「御徒町凧の家に遊びに行き、僕がポエムを見ました。1枚の紙に縦に書かれたそのポエムは、考え抜いてもたどり着けないような圧倒感がありました。山を見るような感じがありましたね。僕らが生まれる前から、あったような宇宙がその詩の中にはあったような感じで。そこそこ生きてきたけど、こんな気持ちになったことはない。と感じました」。
御徒町凧が綴った、その詩の存在感に圧倒される森山直太朗。森山直太朗から歌が流れだします。
「その詩を読んだ後に、曲はできていました。口には出していないけど、曲が歌っているから、後は、メロディを吸い上げるだけ、という感じでした。詩が歌われようとしている、と言うような。これは歌詞ではなく、じゅんぜんたるポエムですから。そこにメロディをつけるという事は、おこがましく、出しゃばったことなんです。
ただ歌っているんです。また違う形に変え、キャッチしようとしているのが自分で分かったので、自分が聞いたことを形にして、聞いてもらうことにしました。「ちょっと聞いてみて」と。できた瞬間に、世に出すつもりはありませんでした。そこで、またひとつ不思議な歌ができたなぁ、って感じました。そんな気持ちで、他の人に聞かすつもりはなかったし、自分達のストックができた、というだけで。他の人に聞かそうとする気持ちが、この曲にとっては邪魔な事だったと思います。だから、そっと閉まっておきました」。
二人の中で、そっとしまっておくはずだったこの曲。しかし、TVCMへの曲提供の話から、この曲は世の中の人々の前に出ていくことになります。
「医療専門学校のTVCMの話があった時、候補曲へのスタッフの反応は今ひとつで、僕も森山直太朗も困り果て、「もう曲ないね」と悩んでいた時、忘れかけていたこの曲の事を思いだしたんです。「歌詞の中に“死ぬ”、という言葉があったし、医療専門学校のTVCM曲としてはどうなんだろかと思ったんですが、デモテープを聞いた、クリエイティブディレクターが「申し分ありません」と言ってくれたんです」。詩を書いた、御徒町凧さんは、こう振り返ります。
「申し分ありません」。CMディレクターのこのひと言で、TVCM曲として起用されたこの曲は、リリース日が決まっていない段階で、今度は、この曲を聞いた番組制作プロデューサーの強い要望で、NHKの音楽番組で、はじめて多くの人たちに披露されることになります。
「NHKの番組で、歌わせていただいたのが最初で、その時初めて世界に溶けた…感触がありました。歌う曲の候補を挙げた時、「とにかくこの曲を歌って欲しい、この番組で」、と言われました」。
2008年6月8日、森山直太朗がこの曲を歌ったNHK『SAVE THE FUTURE エコうた』が放送された当日、秋葉原であの通り魔事件が起こります。「生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい」と歌い始められる「生きてることが辛いなら」。様々なメディアで賛否両論の反響が飛び交う中、2008年8月、シングルとして発売されます。
2008年8月に発売された、森山直太朗16枚目のシングル「生きてることが辛いなら」。リリース当初は物議を醸したこの曲も、その歌の真意が少しづつ広まるにつれ、歌の評価は高まって生き、2008年の「日本レコード大賞」作詞賞を受賞。そして、大晦日に行われた「第59回NHK紅白歌合戦」で森山直太朗は、アコースティックギター1本弾き語りで、この歌を歌いあげます。
「この曲を歌う時は、いついかなる場所でも、己を消して歌わないといけないんです。聞いてくれ、と思って歌うと、曲の純度を低くしてしまうような気がします。だから、できるだけ、「光れ、響け」と思いながら歌っています。僕は肝っ玉が小さい人間なので、紅白のような大きな舞台に立った時、どこかで、挫けないように、凛として、寄りかからないように、曲を歌おうとしています。でも、紅白の映像を見直してみると、結構てん張っていますよね。でも、歌い手はてん張ってなんぼだと思います。そこを乗り越えて、どうやって歌を伝えようかという所に、作品にリアリティが交わり、曲に息吹、血が入るような気がします。自分が精いっぱい頑張っても、手が届くか、届かないか?という作品。この作品が、まさにそんな曲です。僕は、こんな歌に支えてもらって、成長してきたような気がします」。
1人のシンガーソングライターが1つの曲と真剣に向かい合った、J−POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.高校三年生/直太朗
M2.生きてることが辛いなら/森山直太朗
第80回目の今日お届けしたのは、「勝て勝てカープ/それ行けカープ〜若き鯉たち/燃える赤ヘル僕らのカープ」でした。
「カープの応援歌第1号は、球団誕生の翌年1950年1月に発表された『我れらのカープ』という曲だと言われています。歌詞は、一般から募集され、3753通の応募作品の中から、河西新太郎さんが書いた、「アトム広島、平和の空に」という、平和をイメージさせる歌詞が選ばれました。時代を感じますね」。広島東洋カープ球団誕生30周年を記念し、1980年に出版された『カープ30年』の著者、中国新聞社の冨沢佐一さんは、こう語ります。
1953年3月、第1号の応援歌『我れらのカープ』誕生から4年後、再び一般から募集された歌詞を使った新
たな応援歌が作られます。「この歌の歌詞も、266人が応募した作品の中から選ばれました。入選したのは東京
都江東区に住んでいた池田真琴さんという方でした。実は後でわかったことなんですが、池田真琴という名前はペンネームで、本名は池田誠一郎さんと言います。彼は、椿三平という別のペンネームで、巨人軍の応援歌『闘魂こめて』も作詞していて、広島やカープの事については、全く知らないままに歌詞を作って応募し、その作った歌詞が、入選作として選ばれたそうです」。中国新聞社の冨沢さんは、『カープ30年』を書くにあたって、取材した内容について、こう振り返ります。
球団創設4年目の1953年3月、池田真琴が書いた歌詞に、広島高等師範学校で音楽を教えていた山本寿が、躍動感溢れるメロディを綴った応援歌『カープの歌』。『カープの歌』は、その後、長年にわたって、多くのカープファンに親しまれ、歌い続けられます。
1975年8月、『カープの歌』として親まれてきたこの歌は、新しいカープの応援歌が発売される時に、球団職員のアイディアで、曲名を『勝て勝てカープ』と変えて、レコード発売されます
球団創設期から歌い継がれ、多くのカープファンに愛され続けた応援歌『勝て勝てカープ』。1975年8月、タイトルを変えて、発売される時に、レコードのA面には、新しく作った応援歌が収録されます。
「1975年5月、CBSソニー広島出張所の三野所長から、「ルーツ監督から、古葉監督へ代わり、チームも勢いに乗って調子がいい。カープの応援歌を作って、もっと応援しましょう」という話がありました。最初は、「カープ球団の了解も取っている」と言う話だったので、私は球団への挨拶と打合せを兼ねて、広島に向かいました。ところが、三野が「球団の了解を取っている」、と言っていたのは、嘘で、結局、私が改めて球団と交渉、応援歌制作の了解を取りました」。当時、CBSソニーで制作ディレクターを務めていた、市橋茂満さんはこう振り返ります。
1975年6月、新しいカープの応援歌作りは正式にスタートします。「作詞は、山口県防府市出身で、南沙織の「17歳」の作詞者、有馬三重子にお願いしました。有馬さんは、当時東京で結成されていた後援会「広島カープを優勝させる会」のメンバーのひとりで、二つ返事で作詞の話を受けていただきました。また、有馬さんは、六大学野球のファンでもあったので、他の球団の軍歌のような歌詞の応援歌とは違う、六大学野球の爽やかな応援歌のようなイメージで、とお願いしました。有馬さんは、完成した歌詞について「大好きな思いを綴った私から、“カープへのラブレター”です」と話されていました」。
有馬三重子さんが書いた「カープへのラブレター」を乗せる曲を、市橋さんは、当時コカ・コーラやネスカフェなどのTVCM曲を手掛けていた作曲家の宮崎尚志に依頼します。
「カープの応援歌は、流行歌のひとつとして作るのではなく、聞いた人の耳にずっと残るCMソングのイメージで作りたいという思いがあったので、当時、アメリカナイズされたTVCMソングを数々手掛けていた宮崎さんにお願いしました。有馬さんが書いた歌詞の思い、イメージを伝え、曲調はリズム感のある曲で、とお願いしました。宮崎さんが作ってきた曲は、1発OKでしたが、曲に1ヵ所だけ工夫を加えました。当時、カープで主力選手になりつつあった、山本浩二選手の母校・法政大学の応援歌を真似て、曲のサビのフレーズを、曲の冒頭にも使ったんです。この曲を聞いて、選手に奮いたってもらえれば、と思いました」。制作ディレクターの市橋さんは、こう振り返ります。
1975年7月、曲は完成し、市橋さんは古葉監督、球団関係者に聞いてもらいます。
「古葉監督はじめ球団の関係者は、「躍動感があり、今のチームの勢いにピッタリだ!」と、OKしてくれました。歌い手も、「選手はファンの身近な存在になるべきだ」、と言う理由でレコーディング直前までは古葉監督が歌う予定でした。ところが、土壇場で古葉監督から、「やはり、私が歌うと、その時は流行るかもしれない。しかし、この歌はずっとカープファンに歌い続けられるべき歌だから、ちゃんと歌手に歌ってもらった方がいい」という意見で、当時CBSソニー専属の歌手で、広島でラジオ番組のDJを務めていた塩見大治郎が選ばれたんです」。
1975年8月、球団創設期に発売された、『カープの歌』改め『勝て勝てカープ』を、B面に収めた新しい応援歌「それ行けカープ〜若き鯉たち」は発売されます。念願の初優勝に向け、カープの快進撃が続く中、応援歌『それ行けカープ〜若き鯉たち』も、中国地区だけで30万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「躍動感溢れる応援歌となった、『それ行けカープ〜若き鯉たち』は、カープの活躍と重なり、多くの人たちに愛され歌い続けられる、広島を代表する歌になったと思います」。当時の制作ディレクター、市橋さんは、こう語ってくれました。
そして、1975年の初優勝から2年が経過した、1977年3月。当時、次々と、プロ野球チームをテーマにしたり、選手が歌った曲が発売される中、再びカープをテーマにした曲作りが企画されます。
「プロ野球の応援歌が数多く作られ、当時、カープをテーマにした曲だけでも、20曲近くあったのではないでしょうか。私は、当時の古葉監督のファンだったので、カープの曲担当になりました。まず、歌詞も、曲も、広島出身者で作ることを考え、歌詞は、懇意にしていた広島出身の作詞家石本美由起にお願いしました」。当時、コロムビアレコードでディレクターを務めていた、矢部さんはこう振り返ります。
曲は、広島出身で、TVドラマなどで使う、シンフォニック調のメロディを作っていた作曲家横山菁児が手掛けます。「歌詞、曲、共に二人にお願いしたテーマは、「球場で誰もが歌えるような、スタンダードな応援歌を作って欲しい」という内容でした」。
曲が完成し、歌手は、オーディションの中から、広島出身の事崎正司が選ばれます。「レコードのB面には、冠二郎が歌う「広島じまん」の収録が決まっていたので、A面は、聞く人が元気が出るような、たくましい歌い方をする歌手がふさわしいと思っていました。オーディションで選ばれた事崎は、もともとスポーツマンで、歌声からたくましさを感じられ、歌で、チームを奮い立たせるにはピッタリだと思い、彼を選びました」。
1978年5月、カープの黄金期の開幕を告げる応援歌、『燃える赤ヘル僕らのカープ』は、発売されます。
「先に発売されていた2曲と一緒で、曲の歌いやすさ、親しみやすさで、多くのカープファンに受け入れてもらえたのが、歌い続けられている最大の理由でしょう。チームも曲のリズムに乗って、強くなっていく。この相乗効果もありましたね」。当時の制作ディレクター矢部さんは、最後にこう語ってくれました。
世代と時代を超えてカープファンに愛され続ける、3つの応援歌が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.勝て勝てカープ/塩見大治郎
M2.それ行けカープ〜若き鯉たち/塩見大治郎
M3.燃える赤ヘル僕らのカープ/事崎正司
第79回目の今日お届けしたのは、「荒井由実/海を見ていた午後」でした。
「彼女は、カトリック系の幼稚園に通った経験や、その後進学した立教女学院中学も、プロテスタントのミッションスクールだったためか、教会音楽に何らかの影響を受けていたと思います。実際、私は、彼女から、「中学時代に流行った、プロコル・ハルムの「青い影」を聞いて、「この曲は、教会音楽と似ているなぁ。こんな感じの曲なら自分も作れる」と思って、曲作りを始めた…」、と言う話を聞いたことがあります」。
デビュー直後から、10年以上にわたって、彼女の担当ディレクターを務めた、下河辺さんは、荒井由実の、ソングライターとしての原点についてこう振り返ります。
1966年4月、立教女学院中学に入学した荒井由実は、横田や立川の米軍基地へ遊びに行き、当時流行っていたロックの輸入盤を買って聴くようになります。そして1968年、荒井由実は、ロック・ミュージカル「ヘアー」の関係者や、当時、彼女が頻繁に通っていた麻布台のイタリアレストラン「キャンティ」のスタッフを通して、グループサウンズ関係者と知り合います。
音楽の素晴らしさを、様々な角度から吸収していった荒井由実は、やがて彼女自身も作曲家を目指すようになります。一方で、彼女は、中学2年の時から習い始めた日本画を本格的に学ぶために、美術大学の受験を決意。音楽と美術、ジャンルは異なるものの、厳しい受験勉強を通して、荒井由実は創作に対する強い気持ちを養っていきます。
そして1971年5月、荒井由実が作った曲に目を留めた、「タイガース」の元メンバー加橋かつみは、彼女が作った曲を、シングル「愛は突然に…」として発売。荒井由実は、プロの作曲家として、音楽の世界に第一歩を踏み出すのでした。
1971年5月、荒井由実が17歳の時に作った、加橋かつみのシングル「愛は突然に…」。作曲家として音楽の世界に足を踏み入れた荒井由実は、同じ71年7月、ロック・ミュージカル「ヘアー」に出演した、小坂忠のデビューアルバム『ありがとう』に、「はっぴえんど」のメンバー細野晴臣、松本隆、鈴木茂らと共に、ピアニストとして参加します。
翌1972年4月、荒井由実は、多摩美術大学美術学部絵画学科に進学、本格的に日本画を学び始めます。その一方で、イタリアンレストラン「キャンティ」の常連客のひとり、アルファレコードの社長村井邦彦から「これからの時代、作曲家ではなく、シンガーソングライターの方が活躍できる」とアドバイスされ、歌手としてデビューすることを決意。1972年7月、シンガーソングライター荒井由実は、シングル「返事はいらない」でデビューし、翌1973年11月には、1stアルバム『ひこうき雲』を発売します。
「荒井由実が、1stアルバム『ひこうき雲』を作る時に、村井邦彦の紹介で出会った、松任谷正隆、細野晴臣、鈴木茂、林立夫による音楽ユニット「キャラメル・ママ」(後の「ティン・パン・アレー」)の存在は、その後の彼女の音楽活動にとって欠かすことのできない、大きな財産となったはずです。特に、キーボードを弾き、アレンジャーとして彼女を支えた松任谷正隆の存在は格別でした」。
「教会音楽の影響からでしょうか。彼女は、ヨーロッパ志向の音楽を好んで聞き、フレンチポップスのようなコードを使って、曲を作っていました。そして、彼女が作った曲に、ウエストコースト系のサウンドを好む、アレンジャーの松任谷正隆が、コードについてアドバイスを送り、手を加えました。レコーディングの段階で、曲のコードが変わることも、頻繁にありましたが、結果的にコードが変わることで、音の幅が広がり、曲が進化を遂げていくんです」。下河辺さんは、荒井由実の曲作りの特長について、こう振り返ります。
「私が初めて制作に携わった、2枚目のアルバム作りも、アルバムの基本コンセプトは、1stアルバム『ひこうき雲』と変わらず、サウンド面にどれだけのプラスαを加えて、曲を進化させるかが、課題でした。曲のアレンジを、どう進化させるかですね。そこで、「キャラメル・ママ」改め、「ティン・パン・アレー」のメンバーに加えて、パーカッションの斉藤ノブと、さらに、バックコーラスに山下達郎や大貫妙子らがメンバーだった「シュガー・ベイブ」をレコーディングに参加させました。
ティン・パン・アレーとシュガー・ベイブという、卓越したミュージシャンたちが荒井由実をバックアップすることで、曲のアレンジが、より進化しました」。
荒井由実の2ndアルバムのレコーディングは、ティン・パン・アレー、シュガー・ベイブらが参加して、1974年7月中旬から行われます。そして、そのアルバムの中に、荒井由実が描き出す歌詞の世界観を象徴する曲が、収録されることになります。
「この曲は、荒井由実が書いた曲に、松任谷正隆がアレンジを加えて生まれる、独特のコード使いが特徴的になっています。それから、歌詞についても、彼女ならではのものです。彼女は、誰もが日常的に使う言葉を使い、しかも短い言葉で歌詞を綴ることが多いんです。2ndアルバム用に書かれた、この曲も、彼女が紙に書いた歌詞をスタジオに持って現れた時、余りにも短く歌詞が綴られていることに驚いたことを覚えています」。
アルバムのレコーディングが全て終了し、10月の発売を待つばかりとなった、夏も終わりに近づいたある日。下河辺さんは、偶然、この曲の歌詞に綴られたカフェレストランに立ち寄ります。
「横浜での仕事の帰り道、この曲に綴られた歌詞のことを思い出し、横浜・山手公園の丘をあがった場所にある、「ドルフィン」という店名のカフェレストランに足を運びました。すると、本当に、歌詞の通り、窓越しに海を見渡せる席があったんです」。
「店のオーナーは、彼女の事を知っていました。そして、話してくれたんです。店の常連客のひとりに、必ず窓越しに海を見渡せる席に座る女性客がいて、ある日、何気なしに彼女の顔を覗いた時、彼女が泣いていたんだそうです。彼女は海を眺めて、手元のノートに歌詞を書きながら、時折思いだすように、涙をこぼしていました。歌詞の世界に、感情が入りこんで、泣いていたんですね。その後、彼女が泣きやみ、落ち着いた時、オーナーが声を掛け話をすると、彼女は自分の事を話してくれたそうです。それが、荒井由実だったんですね」。
「その話を、レストランのオーナーから聞いた瞬間、僕は彼女の情景描写能力の高さに驚きました。“ソーダ水の中を、貨物船がとおる”という歌詞も、まさに彼女がソーダ水を飲みながら海を眺めていた時、目の前の海を、貨物船が通っている様子を描いているんです。目に映る出来事や、風景を、歌詞の主人公の気持ちとシンクロさせて綴る、彼女の独特の歌詞の作り方は、誰にも真似ができないと思いました」。
荒井由実独特の歌詞を、象徴する曲、「海を見ていた午後」は、1974年10月にリリースされたアルバム『MISLLIM』に収録されます。
1974年10月に発売された、荒井由実2ndアルバム『MISSLIM』に収録された「海を見ていた午後」。
「アルバム『MISSLIM』以後、彼女は数多くの曲を作ってきました。サウンド面は、松任谷正隆というパートナーによって、進化し続けています。そして、歌詞は、海や山、季節の移ろい、季節にちなんだ行事などをテーマや背景にして、数多くの世界を描いてきました。ユーミンの曲の良さは、曲と歌詞のバランスの良さ。これにつきるでしょう」。最後に、ディレクターの下河辺さんは、こう語ってくれました。
日本のポップスシーンに唯一無二の、ユーミンワールドが誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.青い影/プロコル・ハルム
M2.愛は突然に…/加橋かつみ
M3.ソバカスのある少女/ティン・パン・アレー
M4.海を見ていた午後/荒井由実
第78回目の今日お届けしたのは、「松任谷由実/最後の春休み」でした。
「彼女がデビューした1972年は、日本の音楽の中心が、“フォークソング”から、“ニューミュージック”に移り変わろうとしていた時でした。アメリカでも、リンダ・ロンシュタット、ジェームス・テイラーなどウエストコースト系のシンガーソングライターが活躍し始めていた時代です。アメリカから始まった新しい音楽の流れが、日本に辿り着き、時代が彼女のような、シンガーソングライターを求めていました」。デビュー直後から、10年以上にわたり彼女の担当ディレクターを務めた、下河辺さんは、当時をこう振り返ります。
1954年1月、東京・八王子の「荒井呉服店」の次女として生まれた荒井由実は、小学校で習い始めた、ピアノ、三味線を通して音楽に親しむようになります。その後、立教女学院中学に進学した荒井由実は、友人達と、横田や立川の米軍基地で、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、ジェファーソン・エアプレインなどの輸入盤レコードを買って聴いたり、六本木や麻布台などで遊ぶようになります。
1968年、荒井由実は、翌1969年に上演が予定されていたロック・ミュージカル「ヘアー」の関係者、そして当時、彼女が頻繁に通っていた麻布台のイタリアレストラン「キャンティ」のスタッフを通して、ゴールデンカップス、モップスなどのグループサウンズ関係者と知り合います。学生でありながらも、様々な角度から音楽の影響を受け、作曲家を目指すようになった荒井由実は、やがて彼女自身も見よう見真似で曲を作り始めます。
その後、荒井由実が作った曲に目を留めた、「タイガース」の元メンバー加橋かつみが、彼女の作曲でシングル「愛は突然に…」を1971年5月に発売。
荒井由実は、まずは作曲家としてデビューします。
翌1972年、荒井由実は、レストラン「キャンティ」の常連客のひとり、アルファレコードの社長村井邦彦から、曲作りの才能を評価され、「これからの時代、作曲家ではなく、シンガーソングライターの方が活躍できる」というアドバイスで、歌手としてデビューすることを決意。
1972年7月、シンガーソングライター荒井由実はデビューシングル「返事はいらない」を発売します。
1972年7月、シングル「返事はいらない」でデビューした荒井由実。翌1973年11月には、“魔女か!スーパーレディーか!新感覚派・荒井由実登場”をキャッチフレーズに、1stアルバム『ひこうき雲』を発売します。
「彼女の歌声を初めて聞いたのは、1stアルバム『ひこうき雲』のテスト盤でした。彼女の個性的な声が印象に残り、日本の歌手にも、こんな歌い方で表現できる人が出てきたんだ、と思いました」。
下河辺さんは、荒井由実との出会いについてこう振り返ります。
1974年10月、荒井由実は、松任谷正隆、細野晴臣らが参加していた音楽ユニット「ティン・パン・アレー」の全面サポートの下で作った、2枚目のアルバム『MISSLIM』を発売します。「私が、制作スタッフとして関わり始めたのは、この『MISSLIM』からです。この『MISSLIM』は、1stアルバム『ひこうき雲』に続き、「はっぴいえんど」の流れを組むティン・パン・アレーが、バックバンドとして全面サポートしました。自由自在に音を奏でる、洗練されたティン・パン・アレーの演奏は、荒井由実にとって大きなプラス材料となり、彼女は余計な事を考えず、安心して、歌を歌うことだけに専念することができました。その後も、ティン・パン・アレーは、彼女にとっては欠かせない存在になりました」。
1975年2月、荒井由実は次のアルバムに先駆けて、シングル「ルージュの伝言」を発売。この曲は、初めてセールスチャートにランクインし、最高位45位を記録。彼女をシンガーソングライターとして音楽ファンに認知させるキッカケとなります。そんな中、荒井由実は、6月に発売した3枚目のアルバム『COBALT HOUR』に、他のアーティストのために作ったある曲を、アレンジを変えて収録します。
1975年6月に発売された、荒井由実3枚目のアルバム『COBALT HOUR』に収録された「卒業写真」。「この曲は、彼女と同じレコード会社で、同じ村井邦彦プロデューサーが担当していたグループ「ハイ・ファイ・セット」のデビュー曲として書いた曲です。ハイ・ファイ・セットが歌い、高い評価を受けたので、アレンジを変えて、改めて彼女のアルバムにも収録することになりました」。下河辺さんは、当時をこう振り返ります。
1976年11月、荒井由実はアルバム『THE 14th MOON(14番目の月)』を発売。発売直後には、デビューから、音楽面で荒井由実をサポートしていた、松任谷正隆と結婚します。「実は、結婚直後、家庭と歌手活動の両立の難しさから、彼女は歌手活動引退を考えていました。しかし、周囲のスタッフの説得もあり、彼女は歌い続けることを決意したんです」。
1978年3月、松任谷由実名義としては初のアルバム『紅雀』を発売します。「結婚して環境が変わったせいか、結婚前と比べて表現力豊かな歌い方に変わってきたのを感じました。『紅雀』は、音楽関係者の評判は良かったのですが、セールスは、前作の『THE 14 th MOON1(14番目の月)』と比較し、伸び悩みました。それで、8ヵ月後の11月に発売したアルバム『流線形’80』では、再び荒井由実時代を彷彿させるような曲作りに取り組みました。また、アルバム発売に合わせて、久し振りに本格的なライブツアーも行いました。彼女自身、ライブで歌う姿をお客さんに見てもらうことが、大きな刺激になり、その刺激が新たな曲作りや、歌うことに生きてくる、と言ってました」。
全国20ヵ所でのツアーを終えた松任谷由実は、翌1979年に発売を予定していたアルバムの制作に取り組みます。「この曲は、ほぼ完成された状態で初めて聞きました。メロディを聞き、歌詞を読んだ時、彼女が以前に書いた「卒業写真」の続編に近い、イメージを受けました。彼女は、彼女自身の身近な人達から聞いた話をモチーフにイメージ、ストーリーを膨らませて歌詞に綴るケースが多いんです。この曲についても、女子校出身の彼女が、頭の中で思い描き、憧れた学生生活について、描いたのではないでしょうか。「卒業写真」が、中学生の卒業式の様子を描いているなら、この曲は、「卒業写真」で中学を卒業した子が成長し、高校を卒業する際に感じた世界を描いていると思います」。下河辺さんは、こう振り返ります。
松任谷由実が頭の中でイメージし膨らませた、1シーンを綴った曲、「最後の春休み」は、1979年7月にリリースされたアルバム『OLIVE』に収録されます。
「彼女が、シンガーソングライターとして高い評価を得ているのは、曲・歌詞の完成度が50%。そして残りの50%は、彼女ならではの個性的な声だと思います。普段、会話する時は、男性と喋っているような印象を受けますが、歌を歌う時は、優しさ溢れる女性の声に戻るんです。この不思議な彼女の声が、聞く人を引き付ける最大の魅力だと思います。この曲が、何年経っても色褪せることなく、聞くことができるのは、それが最大の理由でしょう」。最後に、ディレクターの下河辺さんは、こう語ってくれました。
松任谷由実ならでは、唯一無二の魅力が詰まった、J-POPの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Fire and Rain/James Taylor
M2.返事はいらない/荒井由実
M3.卒業写真/荒井由実
M4.最後の春休み/松任谷由実
第77回目の今日お届けしたのは、「リンドバーグ/every little thing every precious thing」でした。
「「バンドをやりたい!」。1987年、アイドル歌手としてデビューし、3枚のシングルをリリースした渡瀬麻紀ですが、いつの間にか、彼女の心の中には、アイドル歌手として成功をおさめるのではなく、“バンドのボーカリストとして活躍したい”、と言う気持ちが、芽生え始めます。
渡瀬麻紀の、バンドをやりたいと言う思いは、周囲を動かし、翌1988年、アイドル時代に彼女のバックバンドを務めていたギターの平川達也と、平川の音楽仲間でベースの川添智久、さらに、cherryことドラムの小柳昌法の4人で、バンド「リンドバーグ」を結成します。
“大きな夢に向かって前向きに進んで行く”をコンセプトに結成したバンド「リンドバーグ」。彼らは、ビートルズなどのUKロック好きの平川達也と、エアロスミスなどのアメリカン・ロックが好きの川添智久、ふたりが中心となって、とにかく元気キャラクターの渡瀬麻紀にふさわしい、躍動感溢れる音楽を生み出していきます。
彼らは、1989年4月、シングル「ROUTE 246」、アルバム『LINDBERGⅠ』でデビューします。
同じ年の89年11月、2枚目のアルバム『LINDEBERG Ⅱ』を発売したリンドバーグは、関東、関西を中心としたライブハウスツアーを行います。アイドル・渡瀬麻紀の華やかなステージを降りて、地道な音楽活動をスタートしたかに見えた彼らですが、翌1990年2月、その後の彼らのバンド人生を大きく変える、2枚目のシングル「今すぐKiss Me」を発売します。
「世界が一変する。まさに、この言葉がピッタリ当てはまる状況だった。とメンバーは言っていました。デビューから、この曲を発売するまでは、収容人数100人ほどのライブハウスで月1回ライブを行うのが、精一杯だったのに、この曲を発売した直後に行った、100人ほどしか入らない渋谷のライブハウス「TAKE OFF 7」でのライブでは、お客が会場に入りきらず、急遽翌日、隣の渋谷公会堂(現在の渋谷C.C.Lemonホール)でライブを行ったそうです」。後に、リンドバーグの担当ディレクターを務める、茂田さんはこう語ります。
1990年2月に発売された、リンドバーグ2枚目のシングル「今すぐKiss Me」。フジテレビ系ドラマ『世界で一番君が好き!』の主題歌として起用されたこの曲は、セールスチャート最高位1位を3週連続で記録。61万枚の売上を記録するヒット曲となります。また同じ1990年に発売した、4枚のシングルも全てセールスチャートのベスト10にランクイン。リンドバーグは一躍人気バンドへと成長していきます。
「当時彼らは、まだ別のレコード会社に所属していたバンドでしたが、外から見て感じたのは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い、バンドブームの象徴的存在でしたね」。茂田さんは、当時をこう振り返ります。
翌1991年7月、フジテレビ系バラエティ番組「夢で逢えたら」のオープニングテーマ曲に起用された、8枚目のシングル「BELIEVE IN LOVE」も、セールスチャート最高位2位、約40万枚の売上を記録。翌1992年4月には、コカ・コーラのCMソングに起用された、10枚目のシングル「恋をしようよ Yeah! Yeah!」を発売します。
1992年4月に発売された、リンドバーグ10枚目のシングル「恋をしようよ Yeah!Yeah!」は、リンドバーグにとって、2曲目のセールスチャート1位を獲得、約40万枚の売上を記録します。その後もリンドバーグは、数々のTV主題歌やCM曲を続々と発売します。
「後にリンドバーグの担当になって、メンバーと色々話をして分かったことは、彼らは求められた音楽に対して柔軟な対応ができる、ということでした。デビューするまでに、メンバーそれぞれスタジオミュージシャンやサポートミュージシャンとして、苦労してきたので、その経験が大きい分、レコード会社からの曲作りの要望を、素直に受け入れることができたわけですし、どんな曲がヒットするのか、音楽のアプローチ方法を理解していました」。茂田さんは、こう振り返ります。
1995年秋、リンドバーグは、10年近く在籍した徳間ジャパンから、テイチクレコードへ、レコード会社を心機一転移籍します。「彼らは、彼らなりに音楽に対して悩んでいたのではないでしょうか?バンドブームの申し子的存在だった彼らは、アルバム毎に色々なコンセプトを持ち、試行錯誤しながら曲を作っているなあ、と感じていました。その悩みを振りはらう意味で、環境を変え、何かを変えていこうとしていたのだと思います」。
1995年11月、移籍後初のシングル「もっと愛しあいましょ」を発売したリンドバーグは、翌1996年春、移籍後初のアルバム制作に向けて楽曲を作っていく中で、あるひとつの曲を生みだします。
「歌詞のモチーフとなったのは、渡瀬マキがが偶然見た、日本の陸上短距離、高野進選手を取り上げたテレビのドキュメント番組でした。彼女は、その番組で、スポーツ選手を一生懸命に支える奥さんの姿に感銘を受け、自分がアスリートの奥さんの立場なら、どんな気持ちになるんだろうか? その一心で歌詞を綴ったそうです」。
渡瀬マキが綴った歌詞に、他のメンバーが作っていたデモテープの中からメロディを重ねて曲は完成。この曲は、アルバム収録曲としてではなく、次のシングル候補曲となります。
「リンドバーグが発売したシングルで、過去にバラードは幾つかありました。ただ、いずれもTV番組やCMのタイアップ絡みで発売したものでした。しかし、この曲は、スタッフみんなが高い評価で、「リンドバーグは元気なロックを歌うバンド」というイメージを崩すことのできる勝負曲にしようということで、シングル発売が決まったんです」。
アスリートを支える人達の一生懸命な思いを渡瀬マキが歌詞に綴った、リンドバーグ25枚目のシングル「every little thing every precious thing」は、1996年7月に発売されます。
1996年7月、リンドバーグ25枚目のシングルとした発売された「every little thing every precious thing」は、セールスチャート最高位5位、約31万枚の売上を記録します。
「この曲がリリースされた時、当時の所属事務所の社長と話をした言葉が、強く印象に残っています。「リンドバーグは、デビュー2曲目で大ブレイクして、その後は勢いで突っ走ってきたけど、この曲で、バンドとしてひと皮剥けた感じがする。元気溢れるナンバーは、メンバーみんなが年を取ると、歌いづらいものがあるけど、この曲は10年経っても、歌い続けられる、リンドバーグにとってかけがいのない曲になるでしょう」と言ってくれたんです」。最後に、ディレクターの茂田さんは、こう語ってくれました。
いつの時代になっても色褪せることのない、J-POPバラードの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Dude(Looks Like A Lady)/エアロスミス
M2.今すぐKiss Me/リンドバーグ
M3.恋をしようよ Yeah! Yeah!/リンドバーグ
M4.every little thing every precious thing/リンドバーグ
第76回目の今日お届けしたのは、「ジッタリン・ジン/夏祭り」でした。
「「イカ天」出身バンド。彼らは、こう呼ばれることが、あまり好きではなかった、と思います。確かに彼らは、「イカ天」に出場し、キングに輝き、音楽ファンから注目を浴びましたが、実は彼らは、「イカ天」に出場する前の年の1988年に、当時TBS系のラジオ局が主催していたアマチュアバンドコンテスト「サウンドウイズコーク」に出場し、金賞を獲得していて、独創的な彼らの音楽は、すでに音楽関係者の中では評判をよんでいたんです」。
デビュー当時のレコード会社担当ディレクターは、当時をこう振り返ります。
1986年、ギターの破矢ジンタ、ボーカルの春川玲子を中心に、4人で結成されたロックバンド「ジッタリン・ジン」。ジッタリン・ジンは、バンド結成後、地元奈良を中心に関西で活動。1988年に「サウンドウイズコーク」で金賞を獲得したジッタリン・ジンには、複数のレコード会社からデビューの話が持ち掛けらるようになります。
1989年5月、ジッタリン・ジンは、TBS系音楽テレビ番組「いかすバンド天国」に出場し、イカ天キングに輝いた後、日本コロムビアと契約しデビューが決まります。「60年代音楽のエッセンスと、歌詞に綴られた叙情的な世界観、その独特のバンドスタイルは、アイドル全盛の、当時の音楽シーンの中では、まれな存在でした」。
地元奈良から上京したジッタリン・ジンは、東名阪を中心としたライブハウスツアーを行いながら、デビューに向けた本格的な準備を経て、1989年10月、1stシングル「エブリディ」をリリースします。
デビューシングル「エブリデイ」は、セールスチャート最高位9位、約5ヵ月近くもセールスチャートにランクインするロングヒット曲となります。
「ジッタリンジンは、パンクと、ロカビリーサウンドを混ぜ合わせたいわゆる“パンカビリー”のスタイルをベースに、彼らと同世代の人達にも親しみを持ってもらえる音楽を目指していました。デビュー曲では、初めてジッタリン・ジンの曲を聴く人にインパクトを与え、次のシングルでは、新鮮さを打ち出す。そして3枚目は、アップデートな曲で攻める。そんなシングルリリース計画を決めていました」。当時のレコード会社担当ディレクターは、ジッタリン・ジンのデビュー当時を、こう振り返ります。
ジッタリン・ジンは、デビューシングル発売の翌月の11月に、デビューアルバム『DOKI DOKI』を発売。同じ時期に行われた、日本青年館2daysライブのチケットは、即日完売します。翌1990年2月に、2枚目のシングル「プレゼント」と、アルバム『Hi-King』を発売したジッタリン・ジンは、3月、デビューわずか半年で、日本武道館でのライブを行います。
「とにかく、ジッタリン・ジンの曲を、ヒットさせたい。そのためには、どんな手段でも使いたい。その願いだけでした。TVを使った宣伝手法に摩耗されない、個性的なバンドを目指すために、ライブを通して彼らの良さを知ってもらうことに力を入れていました」。日本武道館に続いて4月には全国10ヵ所を回るツアーを成功させたジッタリン・ジンは、6月に3枚目のシングル「にちようび」を発売します。
3枚目のシングル「にちようび」はチャート初登場1位を記録し、その後も4ヵ月近くもセールスチャートにランクインし、約32万枚を売上を記録するヒット曲となります。
「東京・世田谷のスタジオで、次のシングルのプロモーションビデオ撮影をしていた時に、、「にちようび」がセールスチャートで1位を獲得した知らせを聞きました。売れると信じて発売した曲だったので、メンバー、スタッフみんなが大喜びしました」。当時のディレクターは、当時をこう振り返ります。
初めてセールスチャート1位を獲得したジッタリン・ジンは、続いて8月に、4枚目のシングルを発売します。
「基本的に、彼らは完成していない曲をスタッフに聞かせることは、あまりしないタイプのバンドです。しかし、この曲に関しては、曲が完成する前に、ジンタがギター1本で、「こんな感じの曲です」とメロディを聞かせてくれました。歌詞も、まだ全てが完成していませんでした」。
ジンタが、頭の中でイメージし描いた、どこか懐かしさを思い出させる歌詞の内容、そして祭りをイメージさせる躍動感溢れるメロディ。日本の夏の風景を歌詞に綴った、ジッタリン・ジン4枚目のシングル「夏祭り」は、1990年8月に発売されます。
1990年8月、ジッタリン・ジン4枚目のシングルとして発売された「夏祭り」。夏も終わる8月末に発売されたこの曲は、セールスチャート最高位3位、約15万枚の売上を記録。また、2000年には、Whiteberryがカバーし、こちらは約64万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「日本人が持つ独特の風情と文化が在り続ける限り、ジッタリン・ジンのこの曲は忘れ去られることのない、音楽の歴史のどこかに刻み込まれる曲になるでしょう。時が経ち、彼らに影響を受けたアーティストも音楽シーンに登場。ジッタリン・ジンの音楽が改めて評価され、彼らにとっても新しい音楽の活動の場ができたことは、楽曲作りに携わってきた僕らにとっても、本当に嬉しい限りです」。最後に、当時のディレクターは、こう語ってくれました。
子どもの頃の思い出の中の祭りばやしのように、日本人の心の奥底に響くJ-POP名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.涙のラナウェイ・ボーイ/ストレイ・キャッツ
M2.エブリデイ/ジッタリン・ジン
M3.にちようび/ジッタリン・ジン
M4.夏祭り/ジッタリン・ジン
第75回目の今日お届けしたのは、「FUNKY MONKE BABYS/Lovin’ Life」でした。
「僕は、中学から高校にかけてBOOWYのコピーバンドでボーカルを務めていたほどのバンドマンでした。ただ、その一方で、長渕剛などのフォークも聴いたり、色んなジャンルの音楽も聴いていました。モン吉は、高校時代にHIPHOPに目覚め、ラップやトランスミュージックをよく聴いていたそうです。DJのケミカルは、10代からDJとしてクラブに出入りするほどのクラブミュージック好きです。つまり、3人とも、好みの音楽はバラバラです。でも唯一、3人が共通で影響を受けたのは、サザンオールスターズです。」
FUNKY MONKEY BABYSのMC、ファンキー加藤は、メンバーそれぞれが影響を受けた音楽についてこう語ってくれました。
2003年12月、東京都八王子市を中心にソロラッパーとして活動していたファンキー加藤は、クラブイベントを通じて知り合った、同じ八王子出身のMCモン吉、さらに、モン吉の友人DJケミカルをメンバーに加え、HIPHOPグループ「FUNKY MONKEY BAYBYS」を結成します。「FUNKY MONKEY BABYSの結成前、僕は紙芝居ラップをやりながら、自分はこれからどんな音楽をやればいいのか、心の中で迷っていました。しかし、同じ街の出身で、プライベートでも仲良かったモン吉、ケミカルと一緒にグループを作ったことで、「とりあえず2年間、やりたい音楽をがむシャラにやって、もっと上のレベルを目指してみよう」と決めることができました」。
グループ結成翌年の2004年、FUNKY MONKEY BABYSは、関東地方のクラブを中心に精力的な活動を続け、4月にはフランスで行われたイベントにも出演。さらに、翌年の2005年3月、FUNKY MONKEY BABYSは、イベントで出会った「ケツメイシ」のDJ KOHNOのすすめで、彼らのFMラジオ番組『ナイトレンジャー』のデモテープオーディションに応募、準優勝に輝きます。「オーディションで準優勝し、プロデビューしたいという気持ちが高まりましたね。出演依頼があれば、あらゆる場所でライブパフォーマンスを行い、沢山の音楽仲間を作っていきました。そして、横浜のクラブ「LOGOS」に出演した時に、今の事務所のスタッフと出会い、デビューが決まりました」。2006年1月、ファンキー加藤が決めた、2年という期限が終わるタイミングで、FUNKY MONKEY BABYSは、シングル「そのまんま東へ」でデビューします。
2006年1月、シングル「そのまんま東へ」でデビューしたFUNKY MONKEY BABYS。タレント「そのまんま東」(現:東国原宮崎県知事)をジャケット写真に起用したシングルは、音楽ファンの間で話題を呼びます。
「デビュー曲の発売日、僕ら3人は、地元八王子のタワーレコードへ、自分達のCDが、ちゃんとお店に並んでいるか、買ってくれる人はいるのか、確認に行きました。CDを買ってくれた人を見つけた時、何とも言えない嬉しさが込み上げてきました。昔と比べ、HIPHOPと言う音楽ジャンルの認知度は高くなっていたけど、他のグループと同じ事をやっても、FUNKY MONKEY BABYSの存在感は薄れてしまう。僕らの存在・音楽を知ってもらうには、まずはCDを買ってもらわないと始まらない。そのために、何をすれば良いのか考え、出した答えが、インパクトあるCDジャケットで、ファンの心を掴もう、ということでした」。
HIPHOPやラップをベースに、自分達の好きな音楽を融合させ、特定の音楽ジャンルに縛られることないオリジナルのサウンドで勝負することを決めた、FUNKY MONKEY BABYS。続けて彼らは、4月に2枚目のシングル「恋の片道切符」を、6月に3枚目のシングル「ALWAYS」を発売します。
「メジャーデビューし、右も左も分からない世界で、スタッフに言われるがままに、無我夢中で仕事をしました。アマチュア時代と比較して、演奏してきた音楽に変化はなく、唯一変わったのは、ライブを行う場所でした。
アマチュア時代は、とにかく人が集まる場所ならどこでもライブを行っていましたが、メジャーデビュー後は、ショッピングモールのイベント広場、小さなホールなど、アマチュア時代よりも、多くの人達が集まる場所でライブを行えるようになりました」。こうして2006年7月、FUNKY MONKEY BABYSは、1stアルバム『ファンキーモンキーベイビーズ』をリリースします。
2006年7月、1stアルバム『ファンキーモンキーベイビーズ』を発売したFUNKY MONKEY BABYSは、
休むことなく、秋に発売を予定していた4枚目のシングル制作に取り掛かります。
「アルバムを作って、次のシングルの制作に入る時、メンバー、スタッフでミーティングを行い、次のシングルは、今まで敢えて作ることを避けてきたラブソングを、曲を聞いた人が、ハッキリ、これはラブソングだ、と分かる、王道のスタイルの曲を作ろう。という話になりました」。ファンキー加藤は、当時をこう振り返ります。
「FUNKY MONKEY BABYSの曲は、まず曲の大まかなコンセプトを決め、次にメロディを作ります。そして、完成したメロディに歌詞を載せ、メロディと歌詞が巧く合わない箇所は、メロディを直すスタイルで曲を作っていくんですが、この曲を作る時は、幾ら考えてもメロディが浮かんできませんでした。悩めば悩むほど、自分の頭の中で色々なことが混乱し、曲の軸となるコードさえ決めることができなくなり、時間だけがどんどん過ぎていきました。本当は、11月発売予定で制作スケジュールが進んでいたのに、締切に遅れてしまい、曲の発売を延期しなければならなくなりました」。「悪戦苦闘しながら、メロディを作り、何とか曲が完成。曲の頭の部分には、曲を覚えてもらうために、リフレインを使うことにしました。そのリフレイン部分のメロディに載せる歌詞(言葉)を考えた時、曲を聞いた日本人みんなが分かりやすい言葉は何だろうか?と考えて、浮かんだ言葉が、「さくら、さくら」という言葉だったんです」。
「曲が完成して、事務所のスタッフ、レコード会社のスタッフに聞いてもらうと、これまでに発売していた、どの曲よりも完成度は高いと言われたんです。」ファンキー加藤自身も、充実感を覚えたFUNKY MONKEY BABYSの4枚目のシングル「Lovin’ Life」は、当初予定していた発売日から、約2ヵ月遅れの2007年1月に発売されます。
2007年1月に発売された、FUNKY MONKEY BABYS4枚目のシングル「Lovin’ Life」。セールスチャート初登場21位からスタートしたこの曲は、発売6週目にセールスチャート最高位10位を記録します。
「デビューから約1年。まだまだ発展途中の僕らが、この曲をキッカケにして、小さな子どもから年配の人まで、FUNKY MONKEY BABYSの音楽を知らなかった多くの人達に、存在を知ってもらうことができた、印象深い曲ですね」。最後に、ファンキー加藤さんは、こう語ってくれました。
親しみやすい言葉のリフレインが生んだ、J-POP春の名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.希望の轍/FUNKY MONKEY BABYS
M2.そのまんま東へ/FUNKY MONKEY BABYS
M3.ALWAYS/FUNKY MONKEY BABYS
M4.Lovin‘ Life/FUNKY MONKEY BABYS
第74回目の今日お届けしたのは、「山崎まさよし/One more time,One more chance」でした。
「自分がミュージシャンとして、人前で歌いたい。そんな気持ちを持ち始めたのは、19、20歳ぐらいの時。地元のライブハウスで、週に一度、歌うようになってからです。それまでは、人前で歌う機会も無かったし、今みたいに、ハードディスクに自分の歌を録音して、人に聞かせるようなことも無かったので」。山崎まさよしは、彼自身がミュージシャンになる夢を持ち始めた時期について、こう振り返ります。
1971年12月、滋賀県草津市に生まれた山崎まさよしは、8歳の時に山口県防府市に移り住み、地元の中学、高校へ進学します。
「小学生の頃は、歌謡曲を聞く、どこにでも居るような普通の少年でした。中学生の時、親からドラムを買ってもらい、友達と見様見まねでバンドを結成。高校に進学後、エリック・クラプトン、ロバート・ジョンソン、マディー・ウォーターズなどのブルースを聞きはじめ、自分もギターで曲を作るようになりました」。
1990年春、山崎まさよしは高校を卒業後、アルバイト生活をしながら、毎週土曜の夜は、地元山口県周南市のライブハウス「ブギーハウス」に出演。ギター1本、弾き語りで、自分が作詞・作曲した歌を人前で歌うようになります。翌1991年、山崎まさよしは、偶然目にした雑誌に掲載されていた「キティ・グループ」の新人オーディションの記事を見つけ応募。山崎まさよしは、千人以上の応募者の中から、審査を通過し、最終審査に進む10数名に残ります。しかし、東京で行われた最終審査直前に、山崎まさよしは、このオーディションが新人歌手募集のオーディションではなく、新人俳優募集オーディションであることに気付きます。
しかし、山崎まさよしは自分の勘違いにも負けず、最終審査の場でギターを弾きながら、自分が作った歌を歌い、審査員を唸らせ、審査員特別賞を受賞。そのオーディションに、審査員として参加していた音楽プロデューサーの目に止まり、山崎まさよしは、ミュージシャンとしてデビューするために、1992年10月、上京するのでした。
「デビューするために上京し、約2年間は、東京や横浜のライブハウスで歌ったり、事務所の先輩、杏子さんなど他のアーティストへ楽曲を提供したり、CM音楽を作ったりしていました。もちろん、自分の曲も作っていましたが、この2年間は色々な音楽経験を積んでいました。正式にデビューが決まっても、自分の曲がCDとなってお店で発売されるまでは信じられず、店頭に並んでやっとデビューの実感が湧いてきたのが、正直な気持ちです」。デビュー当時にことについて、山崎まさよし本人はこう語ってくれました。こうして、1995年5月、“天才より凄いヤツ”をキャッチフレーズに、山崎まさよしは、シングル「月明かりに照らされて」でデビューしました。
その後、山崎まさよしは、「四谷フォーバレー」「原宿ルイード」などのライブハウスで、定期的にライブを行いながら、アルバム制作に打ち込み、シングルデビューから約1年後の1996年4月、2年間かけてじっくり制作したデビューアルバム『アレルギーの特効薬』を発売します。こうして、聞く人を、ノスタルジックで切ないメロディと声で魅了する山崎まさよしの歌は、少しずつ音楽ファンの心を掴んでいきます。
「僕は、曲はインストゥルメンタルでもいいと思うんですが、作ったメロディに歌詞を乗せ、より具体化された“歌”と言う表現方法を使えるチャンスがあるのなら、シンプルだけども、聞いてくれた人の心に響く、そんな歌を作って歌っていきたいと思っていました」。山崎まさよしは当時をこう振り返ります。
ライブハウスから、ホールクラスへ。山崎まさよしのライブ動員は、着実に増え続け、1996年夏には、全国各地で行われたライブイベントにも出演し、多くの観客をまた魅了していきます。そして9月には、後にSMAPがカバーしてヒットする楽曲「セロリ」を、3枚目のシングルとして発売します。
1996年9月に発売された、山崎まさよし3枚目のシングル「セロリ」は、彼にとって、初めてセールスチャートにランクイン、最高位68位、約3万5000枚の売上を記録します。しかし、山崎まさよしは、その直後の10月から、自らが主演を務めることが決まっていた映画『月とキャベツ』の撮影のため、一時音楽活動を休止します。
「映画『月とキャベツ』に主演として出演して欲しい、という話は、偶然、ライブを見た、映画監督・篠原哲雄さんが、僕を気に入ってくれ、話を持ってきてくれたものです。役者として出演するだけでなく、映画の主題歌、サウンドトラックも手掛けて欲しい、という話でした。96年の10月から、映画の撮影が本格的に始まり、約1ヵ月、群馬県に作られたセットに籠り、撮影しました。籠る、と言うよりも、まるで長いプロモーションに出掛けている、そんな感じでした」。
約1ヵ月の映画のロケが終わった後、山崎まさよしは、映画の主題歌として、彼が山口から上京して間もない頃に作った、ある曲を起用することを決めます。
「この曲は、僕が山口から上京し、横浜・桜木町に住む場所を構えた時に作った曲です。当時、夜は(横浜の)ライブハウス「横浜ビブレ」などで歌っていましたが、生活するために昼間は東京でアルバイトをしていました。毎日、横浜・桜木町から電車に乗って東京へ通う電車の中から、窓越しに見た街の情景。デビューするために上京したのに、なかなかデビューが決まらない日々。悶悶とした自分の気持ちを綴っています」。
「デビュー前に、曲は完成していました。ただ、スタッフはこの曲について、「この曲は歌詞、メロディ、どちらからも、強い力を持ったメッセ—ジを感じることができる。デビュー間もない時期ではなくて、ミュージシャン山崎まさよしの存在感が認められ、勝負を賭けるタイミングでリリースしよう」という考えで、しばらくは眠らせることになったんです。 映画『月とキャベツ』に主演することが決まったとき、映画のストーリーと、この曲の歌詞の一部が重なる部分があることが分かり、スタッフに相談すると、スタッフも同じ意見で、この曲を映画の主題歌として使うことを決めました」。
1996年12月に公開された、山崎まさよし主演映画『月とキャベツ』。隠居生活を送るミュージシャンと、ダンサー志望の少女との、出会いと別れを描いたラブストーリー映画の主題歌に起用された、山崎まさよし4枚目のシングル「One more time,One more chance」は、翌1997年1月に発売されます。
1997年1月、山崎まさよし4枚目のシングルとした発売された「One more time,One more chance」。発売と同時に、この曲はセールスチャート最高位18位、約31万枚の売上を記録、その後も、約半年近くに渡ってセールスチャートにランクインするロングヒット曲となります。
また、2005年大晦日に放送された「NHK紅白歌合戦」に山崎まさよしが初出場した際、彼はこの曲を、歌詞の中にも描いている横浜・桜木町からの中継で歌います。「人の心情を綴ったこの歌は、色々な場面で、色々な人達の前で歌い続けてきました。紅白でこの曲を歌うことになったのも、発売から年月が経つ中で、曲を聞いた人達の様々な想いが詰め込まれ、曲から、人の強い生命力を感じてもらうことができたからだと思います。曲に魂が宿っているんですね」。最後に、山崎まさよしさんは、こう語ってくれました。
歌に込められた、人の力強い生命力を感じることができる、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.コカイン/エリック・クラプトン
M2.月明かりに照らされて/山崎まさよし
M3.セロリ/山崎まさよし
M4.One more time,One more chance/山崎まさよし
第73回目の今日お届けしたのは、「平松愛理/部屋とYシャツと私」でした。
「彼女が3歳の時、隣の家に住んでいた仲の良かった女の子がオルガンを習っていた影響で、彼女もピアノを習い始めたそうです。小学生になると、彼女のお兄さんがよく聞いていたカーペンターズを一緒に聞きはじめ、やがて兄妹でギターとピアノを弾きながら、カーペンターズの曲を歌っていたそうです」。平松愛理の音楽との出会いについて、スタッフはこう語ります。
1964年3月、兵庫県神戸市に生まれた平松愛理は、地元の高校に進学。高校2年生の時に行われた学園祭で、軽音楽部のメンバーで結成したバンドで、初めて人前で歌を歌います。その時、「まるで雷に打たれたようだった」というほど、人前で歌を歌うことに快感を感じます。1982年4月、平松愛理は、神戸海星女子学院大学 文学部に進学。高校時代から始めたバンド活動も、地元神戸のライブハウス「チキン・ジョージ」を中心に、関西、そして東京のライブハウスなどに出演するほど本格的に取り組むようになります。
「高校の学園祭のステージで、人前で歌う気持ち良さに目覚めた平松愛理は、“私は絶対プロの歌手になりたい!と”思ったそうです。そして、プロになるためには東京に行かなければと、両親に相談すると、彼女の両親は、上京することにも、プロを目指すことにも反対でした。彼女は、何度も両親と話をして、結局最後は、大学の単位を一つも落とさずに卒業したら、東京に行っても良い、と言う条件で両親が折れたそうです」。
1986年春、両親との約束を果たして大学を卒業した平松愛理は晴れて上京。上京後は、デモテープを作り続け、神戸で活動していた時の知り合いを頼り、レコード会社にアプローチ。2年後の1988年、レコード会社ポニー・キャニオンが平松愛理の曲を評価し、女性シンガーソングライターとして契約。翌1989年2月、シングル「青春のアルバム」、アルバム『TREASURE』でデビューします。
1989年2月、平松愛理は、シングル「青春のアルバム」、アルバム『TREASURE』でデビューします。
「当時、日本の音楽シーンは、BOOWYをはじめとしたロックバンドブームの真っただ中で、女性シンガーソングライターが第一線で活躍するには、難しい時代でもありました。そんな中、平松愛理は、デビューするにあたって、“日本語をちゃんと使って、聴いた人に歌詞を理解してもらえる歌を届ける”ということをコンセプトに、曲作りをしていました」。当時のことについて、スタッフはこう振り返ります。
その年1989年、平松愛理は、7月にシングルを、11月にはシングルと2枚目のアルバム『とっておきの20秒』を発売。ラジオや音楽誌などでのプロモーションやライブなどを行い、多くの人々に、平松愛理の音楽を聴いてもらうための活動を続けていきます。
そして、翌1990年5月に発売された、平松愛理4枚目のシングル「月のランプ」が、フジテレビ系のバラエティ番組『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』のエンディングテーマ曲として起用されます。そしてこの曲「月のランプ」が、平松愛理の存在感を思わぬ形で広めることになるのでした。
1990年5月に発売された、平松愛理4枚目のシングル「月のランプ」。
「シングル発売ひと月に放送が始まった、フジテレビ系バラエティ番組『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』のエンディングテーマとして、この曲は起用されたんですが、平松愛理自身も毎週番組のエンディングに生出演したんですね。フジテレビ本社の屋上に組まれたセットで、雨の日も風の日も、平松の顔はほとんどTVに映らないのに、彼女は歌い続けました。このシングル「月のランプ」は、セールスチャートにこそランクインしなかったものの、番組のエンディングを観た人達が、確実に平松愛理の存在を知ってくれるキッカケになりました」。半年で終了した「誰かがやらねば」を引き継いでスタートした番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』のエンディングテーマにも、再び平松愛理の曲が起用されます。1990年12月、エンディングテーマ曲として起用された5枚目のシングル「素敵なルネッサンス」は、平松愛理にとって、初めてセールスチャートにランクインし、最高位13位、約20万枚の売上を記録します。さらに、同じ12月に発売したアルバム『MY DEAR』は、シングルとの相乗効果もあり、アルバムとしては初めてセールスチャートにランクイン、最高位21位、約40万枚の売上を記録します。翌1991年、楽曲制作や、次に発売を予定していたアルバム『redeem』のプロモーション活動に追われていた平松愛理の元へ、前年1990年12月に発売したアルバム『MY DEAR』に収録されたある曲が、音楽業界、そしてファンの間で話題を呼んでいる、という話が届きます。
「スタッフから聞かされた話は、平松愛理も驚くような話しでした。約1年前に発売したアルバム『MY DEAR』が、発売から約1年近くたっても、セールスチャートにランクインし続けていること。そして、その原因は、有線放送へ、アルバムに収録されている、ある1曲へのリクエストが殺到しているからだということでした」。
「有線放送へリクエストが殺到したこの曲は、もともとアルバム『MY DEAR』の制作前、平松愛理の友人の結婚が決まり、その友人を祝福するために作った曲でした。1990年の夏頃から歌詞を作り始め、平松は2ヵ月近くに渡って自分の両親、友達に結婚について話を聞き、歌詞を書いたそうです。一番の歌詞は、平松の両親の話、そして二番の歌詞はスタッフの話がモチーフに書かれています。実は、曲が完成し、アルバム収録曲を決める時、この曲は、それまでの平松の音楽路線とは少し異なっていたので、スタッフのほぼ全員がアルバムに収録することについて反対しました。しかし、平松は「絶対にアルバムに収録したい!」と泣きながら、スタッフに訴え、最後は、スタッフが平松の訴えに折れて、収録が決まったものなんです」。
「アルバム『MY DEAR』が完成し、プロモーション活動をする時、平松自身は他の曲の完成度よりも、この曲に自信を持っていたのですが、メディアの人達の反応は今ひとつでした。平松はがっかりして、いつの間にか曲の事を忘れかけていたんですね。ところが、気がついたら有線放送から火がつき、スタッフも「ひょっとすると、この曲は売れるのでは?」と思い立ち、急遽シングルとして発売することを決めたんです」。
1992年3月、平松愛理8枚目のシングルとして、「部屋とYシャツと私」は発売されます。
1992年3月、平松愛理8枚目のシングルとして発売されたシングル「部屋とYシャツと私」。アルバムに収録してから2年が経過し、改めてシングルとして発売されたこの曲は、発売後約10ヵ月に渡りセールスチャートにランクインし続け、最高位4位、約93万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「セールスチャートにランクインする曲のほとんどがTVドラマや、CMなどタイアップ曲中心になり始めた時代、この曲はタイアップ無しで約93万枚という売上を記録することができました。正直、よくもまあここまで長期に渡ってひとり歩きして売れてくれたなぁ、というのが印象です。平松愛理にとって、この曲は、愛おしく想えると同時に、人生を変えた同志のような存在の曲ですね」。最後に、スタッフはこう教えてくれました。
女性シンガーソングライターとしての存在感を広めるキッカケとなった、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.シング/カーペンターズ
M2.青春のアルバム/平松愛理
M3.月のランプ/平松愛理
M4.部屋とYシャツと私/平松愛理
第72回目の今日お届けしたのは、「今井美樹/PRIDE」でした。
「オーディオ専門店の一人娘として生まれた彼女は、JAZZが大好きだった父親の影響で、小さい頃から、いつもJAZZを聴いていたそうです。中でも、オスカー・ピーターソンやエラ・フィッツジェラルドが大のお気に入りで、その後、中学生になって、松任谷由実や矢野顕子の音楽に目覚め、JAZZと合わせて彼女達の音楽も夢中になって聴いていたようです」。
長年、今井美樹を見守り続けているスタッフは、彼女の音楽との出会いについてこう語ります。
1963年4月、宮崎県高鍋市に生まれた今井美樹は、地元の高校を卒業後、フライトアテンダントを目指し、東京の専門学校に進学します。そして専門学校に在学中の1982年の秋、女性ファッション誌『an・an』の読者モデルを務めたのをキッカケに、今井美樹は、『mc Sister』など数々の女性ファッション誌のモデルを務めるようになります。そして1984年5月には、TBS系テレビで放送されたドラマ『輝きたいの』で女優デビュー飾ります。
フライトアテンダントになる夢から一転、モデル、女優としての道を歩き始めた今井美樹は、こんどは、食品メーカー・ハナマルキや、本田技研工業『today』などのCMにも出演。一躍人気者となって行きます。
1986年4月、今井美樹は、映画監督井筒和幸(いづつ・かずゆき)が手掛けた映画『犬死にせしもの』で、スクリーンデビュー。さらに、その直後の86年5月、日本テレビ系ドラマ『妻たちの初体験』の主題歌として起用された『黄昏のモノローグ』で、今度は歌手としてデビューするのでした。
1986年5月、今井美樹は、彼女の声に聞き惚れた周囲のスタッフの勧めもあり、シングル「黄昏のモノローグ」でデビュー。セールスチャート最高位37位、約3万枚の売上を記録します。その後も今井美樹は、女優、モデルとしての活動と並行して、歌手としての活動を始め、毎年シングルを2〜3枚、アルバムを1枚発売していきます。87年に発売したアルバム『elfin』、88年に発売したアルバム『Bewith』が、2年続けて日本レコード大賞優秀アルバム賞を獲得。また88年8月に発売した4枚目のシングル「彼女とTIP ON DUO」は、今井美樹自身もキャンペーンモデルとして出演した秋の資生堂キャンペーンソングに起用され、セールスチャート最高位8位、約14万枚の売上を記録します。
女優、モデル、歌手、それぞれの分野でトップスターとしての道を歩き始めていた今井美樹は、1991年10月からTBS系で放送されたドラマ『あしたがあるから』に主演。翌11月には、このドラマの主題歌に起用された、シングル『PIECE OF MY WISH』が発売されます。
1991年11月に発売された、今井美樹7枚目のシングル「PIECE OF MY WISH」は、彼女自身がドラマの主人公を務めた相乗効果も重なり、彼女にとって初めてセールスチャート最高位1位を獲得、約125万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。「歌手としてデビューして約5年。初めは、自分の意思で歌っていたのではなかったんですが、この頃から少しずつ、女優今井美樹としてよりも、歌手今井美樹としての活動に力を入れるようになってきました。彼女自身、歌い手としての面白さが、分かり始めたんでしょうね」。当時のことについて、スタッフはこう振り返ります。
その後も、94年7月に発売した10枚目のシングル「Miss You」が、日本テレビ系ドラマ『禁断の果実』のエンディングテーマとして起用され、今井美樹にとって2枚目となるセールスチャート1位を獲得、約80万枚の売上を記録します。しかし、翌95年アルバム『Love of My Life』リリースと共に行った全国ライブツアー終了後、今井美樹は1年間の休養を取ることを決めます。
「長年、走り続けてきた今井美樹は、リフレッシュするため、1年間の休養をとる予定でした。ところが、フジテレビから、翌96年の秋に放送が予定されていた、ドラマの主題歌提供の話が今井美樹の元に届き、休養を取るどころの話ではなくなったんです」。
フジテレビからのドラマ主題歌提供依頼に対し、レコード会社の担当プロデューサーは、約3年前から今井美樹の楽曲作りに携わっていた、布袋寅泰に曲作りを依頼します。
「約3年前から、今井美樹の曲を作ってくれていた布袋さんは、歌手今井美樹の素質を理解してくれていたんでしょう。ドラマのあらすじなど詳しいことを何も伝えないままに、曲作りをお願したのに、今井美樹の楽曲としても、ドラマの主題歌としても完璧な曲を作ってくれました。当時、今井美樹は休養中でしたが、完成したデモテープを聞いた時、彼女の心に何か響くものがあったんでしょう。ボロボロと、涙を流し続けました」。
「結局、今井美樹は、一年の休養を取る予定でしたが、わずか半年で休養を切り上げて、当時、布袋さんが、彼自身のアルバム制作のために滞在していたロンドンに向い、現地でレコーディングを行います。
ミディアムテンポの楽曲なのですが、バラード的なムードのある歌唱法ではなく、リズムを感じる事を意識して、彼女は歌っています」。
フジテレビ系ドラマ『ドク』の主題歌として起用された、今井美樹12枚目のシングル「PRIDE」は、ドラマがスタートして1ヵ月後の1996年11月に発売されます。
1996年11月に発売された、今井美樹12枚目のシングル「PRIDE」は、発売から約半年近くもセールスチャートにランクインし続け、チャート最高位1位、約162万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「彼女の20代を代表する曲が「Piece Of My wish」ならば、30代を代表するヒット曲は間違いなく「PRIDE」です。
「PRIDE」が誕生するまで、彼女を代表する曲は「Piece Of My Wish」しかなく、一時期、彼女は、ファンからのリクエストがあっても、「Piece Of My wish」を歌うことを苦痛に感じていた時期もありました。しかし、「PRIDE」がヒットしたことで、彼女自身もその苦痛を取り払うことができました。彼女の心の中で、何かが吹っ切れたんだと思います。この「PRIDE」は、今井美樹の、歌手としての過渡期を脱出するキッカケとなった曲です。
発売から10年以上たった今でも、彼女はこの曲、「PRIDE」を大切にしています。この曲を愛し続けてくれる数多くのファンがいる。彼女はその想いに応えるためにも、ライブでは必ず歌う曲になりました」。最後に、スタッフはこう教えてくれました。
今井美樹が女性シンガーとして、しっかりとした一歩を踏み出すキッカケとなった、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.酒とバラの日々/オスカー・ピーターソン・トリオ
M2.黄昏のモノローグ/今井美樹
M3.PIECE OF MY WISH/今井美樹
M4.PRIDE/今井美樹
第71回目の今日お届けしたのは、「ユニコーン/大迷惑」でした。
「アマチュア時代の彼らのサウンドは、どちらかと言えば重くビートを刻んでくるのに、メロディや歌は覚えやすくてポップでした。そんな彼らの音楽の好みは、バラバラ。奥田民生は歌謡曲、ベースの堀内一史はパンク、キーボードの向井美音里はクラシックがそれぞれ大好きでした。そしてヘビーなロックが大好きだったのが、ドラマ—の川西幸一。ギターの手島いさむは、T-REXなど、ギターを重視した音楽が大好きでしたね」。
デビュー前から、ユニコーンを見守り続けるスタッフは、当時をこう振り返ります。
1986年3月、当時広島のライブハウスを賑わしていたアマチュアバンド「ストリッパー」のドラマー川西幸一は、同じバンドのメンバーでギターの手島いさむ、他のバンドで活動していた、ベースの堀内一史、キーボードの向井美音里を誘い、新バンドの結成を決意します。そして川西は、新しいバンドのボーカルとして、川西が当時ライバル意識を燃やしていたバンド「レディ」の奥田民生に声をかけます。奥田は、川西の誘いを、一度は断りますが、川西の再度の説得に折れバンドに参加することを決意します。
ギターの手島いさむが大好きだったT-REXのアルバムからバンド名を取った「ユニコーン」。個性的な音楽で異彩を放つバンド「ユニコーン」の噂は、瞬たく間に音楽関係者の間で話題となり、ライブハウス「広島ウディストリート」で行われた彼らのライブを見た、後にユニコーンの全作品を手がけることになる、CBSソニーのディレクター、マイケル河合さんは、「キャラはバラバラながら、バンドとしてひとつの方向を向いている、スピード感のあるいいバンドだ」と、ユニコーンを高く評価。「CBS・ソニーオーディション」合格を経て、結成からわずか1年足らずで、彼らはプロデビューの扉を開けるのでした。
1987年3月、広島を離れ上京したユニコーンは秋に発売が予定されていたデビューアルバムの制作に取り組み、10月、1stアルバム『BOOM』を発売。アルバムのリード曲となったのが、この「MAYBE BLUE」でした。
1987年10月、アルバム『BOOM』でデビューしたユニコーン。アルバム『BOOM』は、セールスチャート最高位77位、約2万3000枚の売上を記録します。しかし、その売り上げ以上に、ユニコーンは、メロディセンスの良さと、奥田民生の書く少し野性的な詞が、当時主流だったビートパンクバンドとは一線を画し、メンバーの個性的かつ甘いルックスともに、女性を中心に幅広い層から人気を集めていきます。
翌1988年2月、バンド結成当時からのメンバーのひとり、キーボードの向井美音里が、体調不良を理由に、バンドから脱退。次のアルバム制作に取り掛かっていたユニコーンは、新たにキーボードとして、1stアルバム『BOOM』にマニュピュレーターとして参加していた、阿部義晴をメンバーに加えます。
1988年7月、ユニコーンは、阿部義晴が加わって初のアルバム『PANIC ATTACK』を発売、10月から、全国ツアー「PANIC ATTACKツアー」をスタート。アルバム『PANIC ATTACK』は、ライブで彼らの音楽を気に入ったファンの後押しもあり、セールスチャートの最高位は19位ながら、じわじわと売れ続け、発売から約1年に渡って、チャートにランクインし続けるロングセラーアルバムとなるのでした。
1989年1月、前の年1988年10月からおよそ3ヵ月に渡っての全国ツアーを終えたユニコーンは、次のアルバム制作に取り掛かります。「当時、民生は、ミュージカルのサントラ盤をよく聞いていました。特にその中でも、演奏しているオーケストラに非常に興味を持ち、何かオーケストラを使ったアイディアを活かすことができないだろうかと考えていました」。当時のことについて、スタッフはこう振り返ります。
「民生を中心に、普通にものを作るのは止めよう、という流れになっていく時期でもあったので、次は少しオーバーで面白い、コンセプト・アルバムを作ろうということになりました。たとえば、ミュージカルには、必ず序曲=overtureがあり、劇中の曲が少しずつ盛り込まれていますよね。それをユニコーンもやりたくて、アルバム1曲目の“ハッタリ”が生まれました」。そして、アルバムの制作中、メンバー、スタッフの間で、ユニコーン初のシングルリリースが決まります。「当時のマネージャーが「なんでユニコーンは、今までシングルがないの?」って質問をしたんです。それまでは、ロックは歌謡曲とは違うから、シングルなんて出さなくていい。アルバムの中で自己表現をすればいいんだ、と言う考え方で、発売していませんでした。でも、マネージャーの素朴な疑問ひとつで、シングルの発売が決まったんです」。
その後、曲作りが進む中で、ある1曲がシングル候補曲に選ばれます。
「当初、この曲もアルバムの中の1曲として作っていました。マイケル河合さんの同僚、“アベ”という制作スタッフが、会社の人事異動で地方に飛ばされたことが歌詞のモチーフになっています。歌詞の「お金なんかは、ちょっとでいいのだ」というフレーズは、昔、ファーファという柔軟剤のCMで、熊のぬいぐるみが「お金なんかちょっとでふわふわ」というフレーズがあり、それをモチーフに書いています。メンバー、スタッフみんなで、熊がお金のことを言うなんて、生意気だ、みたいなことを真面目に語っていました。その事と、給料が減ってもいいから、転勤はしたくない、という意味をかけて作られています。そんなくだらない事を、ロックバンドが追及していること自体が、今考えてみても可笑しいですよね」。
「あと、歌詞について言えば、曲の頭の部分「町のはずれでシュヴィ ドゥバー」と言う部分がありますよね。これもかなりいい加減な歌詞ですが、これは、今日中に歌詞を作らなきゃいけないという時に、民生がマイケル河合さんの家で、お酒を飲みながら一諸に歌詞を詰めていたんですね。また翌朝、「出来た!」と思ったら、民生が「まだ一ヵ所残っています。“町のはずれで”の次の歌詞がない」と言い出したんです。マイケルさんもビックリです。でも、もう二人とも疲れ果てていたんで、「もう、“シュヴィ ドゥヴァー”でいいんじゃない」って、適当に言ったのが、そのまま歌詞になっています」。
そのいい加減さも含めて、独創的な発想から、生まれたユニコーン初のシングル「大迷惑」は、1989年4月にリリースされます。
1989年4月、デビューして2年余りが経って初めてリリースしたシングル「大迷惑」。翌5月に発売された3枚目のアルバム『服部』に先駆けてリリースされた、シングル「大迷惑」は、民生のアイディアから生まれたオーケストラをプロモーションビデオにも起用。オーケストラと共に、合成ハメコミの観客の前で歌う奥田民生と、オーケストラの中に混じったメンバーもプロモーションビデオに出演。ユニークなプロモーションビデオ作品として、話題となったこともあり、セールスチャート最高位12位、約12万枚の売上を記録します。
“個性的”バンド、ユニコーンの存在を、音楽ファンの隅々に知らしめるキッカケとなった、J-ROCKの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ユニコーン/T-REX
M2.MAYBE BLUE/ユニコーン
M3.SUGAR BOY/ユニコーン
M4.大迷惑/ユニコーン
第70回目の今日お届けしたのは、「広瀬香美/ロマンスの神様」でした。
「私は、4歳から、ピアノを習い始め、5歳で作曲の勉強もし始めました。どちらも、私自身が興味を持って始めたのではなく、両親の勧めで習い始めたのですが、抵抗感なくすんなりと習うことができました」。1966年4月、福岡県太宰府市に生まれた広瀬香美は、音楽とふれあうキッカケについて、こう振り返ります。
その後、広瀬香美は、地元福岡女学院音楽科を卒業後、国立音楽大学作曲科へ進学。クラシックの音楽家としての道を歩み始めます。「高校から大学、ずっと音楽を学び続けていましたが、大学に入学したある日、アメリカ・ロサンゼルスに旅行に行く機会がありました。そこで、マイケル・ジャクソン、ベビー・フェイス、ボビー・ブラウン、デヴィッド・フォスターなどのポップミュージックに出会い、私の音楽の世界観が変わりました。当時はポップミュージック全盛期で、ロサンゼルスの街の至る場所で、彼らの音楽が溢れていました。また、ちょうど同じ頃、大学の先生から「あなたはクラシックに向いていない」と言われ、悩んでいた時期でもあったので、余計に、ポップミュージックが、私にとって、刺激になりました」。
1988年、国立音楽大学を卒業した広瀬香美は、再びアメリカ渡り、マイケル・ジャクソンのボイス・トレーナー、セス・リッグスの下で、ボーカリストとしてのレッスンをスタートさせます。「学生時代、初めてマイケル・ジャクソンの音楽に触れた時、ポップスの魅力に取りつかれ、少しでも彼に近づきたいと思うようになりました。偶然にも、私の友人が、マイケル・ジャクソンのボイス・トレーナー、セス・リッグスを知っていたので、彼に会い、話をすると、「作曲家になりたいなら、ボーカリストとしてのトレーニングも受けておくべきだ」と、言われ、私は、セス・リッグスの下でボーカルレッスンを受けることにしたんです」。
約3年間、マイケル・ジャクソンのボイストレーナー、セス・リッグスの下でボーカル・レッスンを積んだ広瀬香美は、帰国後の1992年7月、ボーカリスト広瀬香美として、アルバム『Bingo!』でデビューを果たします。
1992年7月、アルバム『Bingo!』でデビューした広瀬香美。「元々私は、ボーカリストではなく、色々なアーティストの方々に、私が作った曲を提供し、歌ってもらうのが夢で、作曲家を目指していました。しかし、セス・リッグスに出会って、気がついた時には、私自身がボーカリストとしてデビューすることになっていました。人間、何があるか、分かりませんね。でも、自分がボーカリストとしてデビューすることが決まってからは、「自分の歌を聞いた人が元気になる、明るい曲を作り、歌いたい」、そんな気持ちになりました」。
アルバム『Bingo!』でデビューした広瀬香美は、12月に、1stシングル「愛があれば大丈夫」を発売。この曲は、12月に公開された映画『病は気から 病院へ行こう2』の主題歌として起用され、セールスチャート最高位42位、約11万枚の売上を記録します。
「デビューが決まった後から、ずっと、私は、自分自身に根拠のない自信を持つように心がけていました。
“私の歌で、世の中の人達を元気にしなくちゃ、いったい誰がみんなを元気にするの”、と、常に自分自身に言い聞かせていました」。
音域の広い歌声と、キャッチ—なメロディで、広瀬香美は次第に話題を集めるようになり、1993年3月リリースしたアルバム『“good luck”』は、初めてセールスチャートにランクインし、最高位50位、約2万6千枚の売上を記録します。そして、5月には、2枚目のシングル「二人のBirthday」を発売します。
1993年5月、デビューから約1年が経ってリリースされた、2枚目のシングル「二人のBirthday」。
「デビューから、1年が経ち、改めて振り返った時、私は、恵まれた音楽生活を過ごすことができているな、と思いました。自分がやりたいこと音楽に対して、スタッフから路線変更を命じられたり、反対された経験もほとんどありませんでした」。
そして、1993年、夏のある日、スポーツ用品専門店「アルペン」から、冬のキャンペーンソングへの曲提供の話が彼女の下へ舞い込みます。
「中学、高校時代、私は、メロディが頭の中に浮かんだ時、テストの答案用紙の裏側や、教科書、ノートはもちろん、喫茶店の紙ナプキンなど、とにかく目の前にある紙に片っ端から浮かんだメロディを書きこむ癖がありました。この曲は、中学時代、福岡の井尻交差点で信号待ちをしている時に浮かんだメロディでした。慌てて家に帰り、すぐに楽譜に書き留めました」。広瀬香美は、メロディが浮かんだ時の様子について、こう振り返ります。
「この曲もですが、中学時代に浮かんだメロディは、躍動的なものが多く、今でも、たまに引っ張りだして使うことがあります。この曲は、先に曲が完成。曲の中で、二回転調していますが、きれいに転調しているので、さらっと聴くと、あまり転調していない感じがするので、実は私のお気に入りの曲でもあるんです」。
「曲が完成し、次に歌詞を作る段階になった時。私は、あまり普通に人が使わないような、個性的な歌詞になるように気をつけました。例えば、サビの部分、「ロマンスの神様 ありがとう」という歌詞が浮かんだ時には、自分でも手応えを感じました。聴いた瞬間、耳に引っ掛かりのある歌詞にしたかったんです」。
広瀬香美自身も、曲の完成度に自信を掴んだ、3枚目のシングル「ロマンスの神様」は、1993年12月に発売されます。
1993年12月に発売された、広瀬香美3枚目のシングル「ロマンスの神様」。その年1993年、スポーツ用品専門店「アルペン」の冬のキャンペーンソングとして起用されたこの曲は、セールスチャートで5週連続1位を獲得、約175万枚の売上を記録するヒット曲となります。「デビューから約1年半。それまで広瀬香美の存在を全く知らなかった人にも、この曲「ロマンスの神様」で存在を知ってもらうことができました。また同時に、“広瀬香美=冬”というイメージを定着させ、いつの間にか私は、「冬の女王」とまで呼ばれるようになりました。家族から、「電車の中で「ロマンスの神様」を口ずさんでいる人を見かけたよ」と言ってもらった時に、初めて実感として嬉しさがこみあげてきたのを今でも覚えています」。
聞く人に元気になってもらいたい、と言う彼女の願いが込められた、J-POPウィンターソングの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.今夜はビート・イット/マイケル・ジャクソン
M2.愛があれば大丈夫/広瀬香美
M3.二人のBirthday/広瀬香美
M4.ロマンスの神様/広瀬香美
第69回目の今日お届けしたのは、「尾崎亜美/マイ・ピュア・レディ」でした。
「私が小学校に入学して間もない頃、姉がクラシックピアノを買ってもらい、ピアノを習い始めました。ピアノの先生が、我が家にやって来て、姉に教えていたのですが、いつも、姉のレッスンの準備ができるまで、私が、ピアノの先生に、ピアノで遊んでもらい、いつの間にか私も先生からピアノを習い始めていました。また、歌は、当時父親が、地元の合唱団の手伝いをしていたので、いつの間にか、一緒に歌うようになりました」。
1957年3月、京都府京都市に生まれた尾崎亜美は、こんなふうにして自然と音楽と触れ合うようになります。
尾崎亜美は、高校に進学すると軽音楽部に入部。女性3人組バンド「どん」を結成します。「「どん」では、オリジナルの曲を作り、学校の文化祭で演奏していました。また学校以外でも、レオン・ラッセル、カーペンターズ、セルジオ・メンデスなどをカバーする「おしんこペイション」と言うグループを友達と作り、活動していました」。
1974年、尾崎亜美が高校2年生の時、当時彼女が在籍していた3つ目のバンド「エンプラ・ストリート」は、KBS京都が放送していた、アマチュア音楽コンテスト番組「アクションヤング大丸」に出演します。
「コンテストに出場した目的は、ギターの弦を張り替える費用を捻出するため、参加賞の5千円の商品券が目当てでした。エンプラ・ストリートでは、審査員から高い評価をいただいて、週間チャンピオンに輝きました。実は、審査員の方は私の歌唱力を褒めてくれたのですが、バンドのメンバーひとりが、私だけが褒められたことが面白くないという理由で翌週の出場を辞退してしまったんです。仕方なく、翌週は、私を含め2人で出場することになりました。すると翌週も、審査員は、私だけを褒めたんです。結局、もう一人のメンバーも、月間チャンピンを決める時には出場辞退してしまい、最後には、私ひとりだけが出場して歌ったんです」。
コンテストで、審査員から高い評価を受けた尾崎亜美は、レコード会社、東芝エキスプレスのスタッフからデビューの誘いを受けます。「デビューの話を貰うまで、まさか自分がプロの歌手になるなんて、想像できませんでした。しかし、プロデビューの誘いを受け、話を聞いた時、私はアマチュアとプロの差を感じ、もし、自分がプロになれば、もっと色んなミュージンシャンと出会うことができて、自分にとって、もっと楽しい世界が開けるような気がして、プロデビューをすることを決めたんです」。
1976年3月、尾崎亜美は自らが作詞作曲したシングル「冥想」で、デビューします。
1976年3月、“第2のユーミン”をキャッチフレーズに、シングル「冥想」でデビューした、尾崎亜美。
「デビューが決まり、アレンジを誰にお願いするか、レコード会社のスタッフと話をしました。ピアノが弾けて歌が歌えるのであれば、同じタイプの人にアレンジを担当してもらうのが良いのではということで、白羽の矢が立ったのが、松任谷正隆さんでした。デビューの前の年の1975年の秋、松任谷さんが、荒井由実さんと婚約する直前に、レコード会社のスタッフから、松任谷さんを紹介されました。松任谷さんから、「歌謡曲とは違う、シンガーソングライター尾崎亜美のカラーを作ろう」と言われたのが印象的でした」。
シンガーソングライター尾崎亜美の、オリジナルカラーを作る。松任谷正隆から言われた言葉を胸に、尾崎亜美は、自分の音楽が、どうあるべきなのかを考え、ひとつの方向性を見つけ出します。「普通、ほとんどのミュージシャンは、子どもの頃に影響を受けた大好きなミュージシャンがいるんですが、私は、自分から積極的にレコードを買っていたタイプではなく、この人が好き、という特別なミュージシャンはいませんでした。だから、私、尾崎亜美の音楽は、その時自分が思った気持ちや想いを、歌詞に置き換える。そして、その歌詞を、今度は、メロディに乗せてみんなに聞いてもらう。ただその想いだけで、音楽を作ろう。そう考えました」。尾崎さんは、当時についてこう振り返ります。
その時々に感じた自分の想いを込めた曲作りで、シンガーソングライターとしての活動を始めた尾崎亜美。1976年8月には、尾崎亜美が高校時代に作詞作曲した曲を中心にした、1stアルバム『Shady』を発売します。
1976年8月、1stアルバム『Shady』を発売した尾崎亜美は、同じ月、東京・芝公園「ABCホール」、「新宿ルイード」で、立て続けにライブを行います。そして、11月に、2枚目のシングル「旅」を発売した尾崎亜美のもとに、翌1977年春の資生堂キャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。
「デビューして1年足らず。まだヒット曲もなく、世の中に、どれだけ尾崎亜美の存在を知っている人がいるのか分からない時に舞い込んだ、CM提供の話だったので、スタッフから話を聞いた時には、「正直、どうしようか?」という、不安な気持ちが頭の中をかけ巡りました。しかも、予め決まっていたキャンペーンテーマを、曲のタイトルにして作って欲しい、という依頼だったので、考えれば考えるほど、自分の頭の中で煮詰まってしまいました」。
尾崎亜美は、スタッフと一緒に、ホテルの部屋に缶詰め状態で、曲を作りはじめます。
「当時私は、仕事がある度に、住んでいた京都から東京へ、新幹線で通っていました。この曲を作る時も、ホテルのスイートルームを貸し切ってもらい、曲を作りました。どう作ったらいいのか、半ばやけくそ状態になった時、曲のサビの部分、“たった今 恋をしそう”という歌詞とメロディが浮かびました。曲のサビが完成すると、残りの歌詞、曲も、さっとできたんです」。「“たった今 恋をしそう”と言う、非現実的な言葉。この非現実的な言葉だからこそ、聞く人の心を上手く掴むことができるのでは?と考えたことが、この歌の大きなポイントでした」。
土壇場まで追い込まれた状況の中から生まれた、尾崎亜美3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディ」は、1977年2月に発売されます。
1977年、春の資生堂キャンペーンソングとして起用された「マイ・ピュア・レディ」は、発売から2ヵ月目の4月に、セールスチャート最高位3位を記録、約40万枚の売上を記録するヒット曲となります。「曲が売れ始めた頃、私は体調を壊して長期入院していました。ある日、病室のTVを見ていると、自分が歌っている曲が流れ、それまで私の存在を知らなかった、お医者さんや、看護婦さんが次々と病室にサインを求めに来たのが、思い出として残っています。シンガーソングライター、尾崎亜美の存在感を知ってもらうことができた曲ですね」。
最後に、尾崎亜美さんは、こう振り返ってくれました。
シンガーソングライターとして、彼女の音楽人生を切り開くキッカケとなった、J-POPの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.マスカレード/レオン・ラッセル
M2.冥想/尾崎亜美
M3.風の中/尾崎亜美
M4.マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美
第68回目の今日お届けしたのは、「スキップカウズ/赤い手」でした。
「僕は、中学生の頃、「有頂天」、「筋肉少女帯」といった、インディース系ロックバンドが大好きで、自分もバンドがやりたくてたまりませんでした。高校に入学し、同級生達と念願のバンドを結成。「SO-ON」を名付けたそのバンドは、大好きだったバンドのひとつ「ヴァン・ヘイレン」の「ユー・リアリー・ガット・ミー」「パナマ」といった曲をカバーしていました」。スキップカウズのボーカル、イマヤスは、ロックミュージックとの出会いについて、こう振り返ります。
1986年、イマヤスが当時住んでいた千葉県で結成された「SO-ON」は、その後も、メンバーの入れ替えを繰り返しながら、活動を続けます。そんな中、1988年、イマヤスは、高校3年生の秋、友人からの紹介で出会った、当時、茨城県つくば市を中心に活動していたビート・パンクバンド「少年倶楽部」のリーダー遠藤肇に、「ウチのバンドでもボーカルをしないか?」と誘いを受けます。イマヤスは、「2、3回ライブで歌うだけなら」と言う条件付きで、SO-ON、少年倶楽部、ふたつのバンドのボーカルを掛け持ちすることになります。
「初めの話では、“ボーカルが急に辞めたので、2、3回、ライブで歌って欲しい”と言うことでした。ちょうど、自分がバンドのリーダーとして活動することが嫌になっていたので、「いいですよ」と、軽い気持ちで引き受けたんです。その後、高校を卒業した時点で、SO-ONは解散し、僕は、ミュージシャンになるのではなく、お笑い芸人になりたくて、日本映画学校俳優科に進学しました。当時、日本映画学校は、ウッチャンナンチャンの師匠、内海好江さんが講師を務めていて、学校の漫才発表会で合格すると、卒業後、マセキ芸能社に入れるチャンスもありました。実は、僕は、その漫才発表会で合格したんですけど、そこでお笑い芸人になる夢に区切りをつけ、結局そのままボーカルとして参加していた、少年倶楽部での活動に本腰を入れるようになりました」。
「少年倶楽部で音楽をやり続けたのは、SO-ONと比べて居心地が良かったからです。SO-ONは、メンバーが同級生ばかりで、メンバー間の会話も、自然と愚痴が多くなり、メンバー間での人間関係に疲れるようになったんです。その点、少年倶楽部は、遠藤肇、小川雄二ら、リーダー的存在のふたりが僕より4歳年上で、僕はただ、歌っていれば良かったし、気持ち的に、すごく楽でした。」。
1991年、少年倶楽部は、ヤマハのアマチュアバンドコンテスト「バンドエクスプロージョン」関東甲信越大会に出場し、優秀賞を獲得。バンド・ブームとも重なり、少年倶楽部は、順調に活動していきます。
1991年、「バンドエクスプロージョン」で入賞を果たした少年倶楽部は、“プロになる”という目標を掲げ、心機一転、バンド名を「スキップカウズ」と改名します。同時に、新メンバーとして、ドラマーの大賀志健太が加入します。さらにスキップカウズは、音楽の幅を広げるために、スカやファンクと言った音楽ジャンルにもチャレンジ。11月にイマヤスの地元、千葉県で行われた「国民文化祭ちば ヤングミュージックフェスティバル」にも出場し、グランプリを獲得します。
その後、スキップカウズは、原宿のホコ天での路上ライブ、下北沢のライブハウス「屋根裏」などを中心に活動。1993年には、1stデモテープ「イイヤツ」を制作します。「当時、デモテープを1本作るために、10万円近く掛かりました。メンバーみんなが、費用を捻出するためにバイトをして、作ったデモテープ。想い出深いですね」バンドとして、軌道に乗りかけてきたスキップカウズでしたが、その年1993年に、ドラマーの大賀志健太が病で倒れ、2年後の1995年、帰らぬ人となってしまいます。メンバーを失ったスキップカウズは、一時活動を休止しますが、大賀志の入院中にサポートとしてドラムを叩いていた、直井茂雄が、新メンバーとして加入することが決まり、スキップカウズは、再び活動を再開します。
1996年、スキップカウズは、バンドコンテスト「ジャパンオープン’96」に出場、5曲入りミニアルバムを制作するなど、インディーズ・シーンで地道な活動を続けていきます。そんなスキップカウズを、1年前から見守り続けていた、ひとりのレコード会社のディレクターがいました。
「1995年暮れに行われたクラブイベントにスキップカウズが出演した時、ソニーレコードのディレクターと出会いました。挨拶をして、「いい音楽だね」と言われただけで、その時には、具体的なデビューの誘いはありませんでした」。
1996年秋、スキップカウズは、1年前に声を掛けられたソニーレコードのディレクターから、デビューの話を貰います。「ソニーレコードのディレクターは、初めて出会った後も、一年間ずっと僕らのライブを観に来てくれました。初めて出会ってから1年後に、デビューの誘いを受けた時、メンバーみんな純粋に嬉しく思いました。デモテープを作るのに、どれだけの苦労が必要なのか。メンバーみんな、その苦労が分かっているから、自分達のCDを発売できる。その喜びだけでも、とても大きな価値がありました」。
念願のデビューが決まったスキップカウズは、自分達がどのような音楽を目指すのか、担当ディレクターを交えての話し合いの末、「歌の歌詞に綴られている日本語を、聞く人がはっきりと理解してもらえる。そんなスタンダードな曲を作る」を合言葉に、プロとしてのキャリアをスタートさせます。
スキップカウズは、デビュー曲として、イマヤスが、その年1996年夏に書いた、ある曲に選びます。
「曲を書いた当時は、アルバイト無しでは生活していけないほど、生活は荒んでいました。そんな状態だから、人の心の奥に眠る、純粋な気持ちを忘れていました。歌詞を書いても、何かうまくまとまらない。なぜだろう、と考えていた時、自分の思う気持ちと、逆のことを書いたら、どう感じてもらえるだろうか?と浮かびました。もともと僕は、恋愛においても、人が来るのを待つタイプじゃなく、待たせるタイプ。
でも、本当は、逆に人を待つタイプなのでは、と考えて、歌詞を書いてみると、いい歌詞ができました。曲が完成しライブで歌うと、観客の反応も良かった。「これだっ!」、って思いました」。
イマヤスが、自分が思う気持ちとは、真逆の気持ちを綴った曲「赤い手」を、スキップカウズはデビュー曲として、1997年2月に発売します。
「2月にデビューシングルを。5月に2枚目のシングル「背筋」、6月にアルバム『バイソン』を発売しましたが、CDの売上は今ひとつでした。しかし、ライブの動員は、アマチュア時代は20人前後だったのに、デビューすると100人から200人へと、目に見えて増えていました。10月にマキシシングル「そんなヤツ」を発売した後、レコード会社から、「ファンの反応も良く、ライブの動員も着実に増えてきている。この波に乗っていこう。ファンからのリクエストも多い、デビュー曲を、ジャケットを変えて、もう一度発売しよう」と言われ、この曲の再リリースが決まったんです」。
スキップカウズは、ジャケット写真のみを変更し、再び冬が巡ってきた12月に、シングル「赤い手」を再リリースします。
1997年2月にリリースされ、同じ年の12月にジャケットを変えて再リリースされたスキップカウズのシングル「赤い手」。再リリース後には、全国各地のローカルTV番組のエンディングテーマ曲として使われるなどして、オリコン有線チャート最高位26位を記録するなど、多くのファンからの支持を集めるヒット曲となります。
「正直、この「赤い手」がいい意味で目立ち、嫌で歌いたくない時期もありました。しかし、いつの間にかその気持ちが変わり、メンバーみんな、とても大切な曲に変わっていきました。歌が頻繁に流れる冬になると、作った時の純粋な気持ちを思い出させてくれます」。最後に、イマヤスさんは、こう振り返ってくれました。
人の心の奥に眠る素直な気持ちから生まれた、ラブソングの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ユー・リアリー・ガット・ミー/ヴァン・ヘイレン
M2.イイヤツ/スキップカウズ
M3.背筋/スキップカウズ
M4.赤い手/スキップカウズ
第67回目の今日お届けしたのは、「L⇔R/KNOCKIN' ON YOUR DOOR」でした。
「僕が幼稚園の時、当時大学生だったふたりの従兄弟が、よく僕の家にレコードを持って遊びに来ていたんです。一人はビートルズ、レッド・ツェッぺリン、そしてプログレッシブ・ロックが大好で、もうひとりは、ビーチボーイズやイーグルスなど、アメリカンポップスが大好きでした。従兄弟達は、遊びに来る度にレコードをかけていたし、その従兄弟達が、僕を初めて映画に連れて行ってくれたんですが、子供向けのアニメではなく『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』『レット・イット・ビー』、そしてローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』の3本立を観に連れて行ってくれたんです。そんな感じだったので、歌謡曲よりも洋楽が自然と耳に入ってきました」。L⇔Rのメンバー、黒沢健一は、こうやって音楽と出会います。
1968年8月、茨城県日立市に生まれ、大学生の従兄弟たちによって、幼稚園時代から洋楽に目覚めさせられた黒沢健一は、高校に進学すると中学時代の同級生達とバンドを結成します。「中学生の時、従兄弟から貰ったギターを見様見まねで弾いていましたが、本格的に弾くようになったのは、バンドを結成してからです。結成当初は、メンバーのひとりの家に倉庫があり、そこを借りて練習していました。しばらくすると、もっと広い場所で大きな音を出してみたいなぁ、と思うようになり、じゃあ、自分達のオリジナル曲を作ってコンテストに出よう。そうすれば、大きな会場で、思いっきり音を出せる。そんな単純な思いで、コンテストに出ることを決めました」。
1985年、バンドの仲間達と初めてオリジナル曲を作り、コンテストに出場した黒沢健一は、偶然コンテストを見にきていた音楽事務所のスタッフに、「ボーカリストとしてデビューしないか」という誘いを受けます。高校卒業後の1988年、黒沢健一は、作曲家としての能力も評価され、南野陽子、島田奈美といったアイドル歌手への楽曲提供を行うようになります。
「僕は、元々、ボーカリストとして表に立つよりも、バックミュージシャンなど裏方の方が興味ありました。小学生の頃、『ザ・ベストテン』などの歌番組を見ていても、歌手よりもバックバンドの人たちの使っている楽器やアンプに興味が行くようなタイプでしたし、誰が歌っているかというより、この曲を誰が作ったのかという部分に目が行く変な子供だったので、人に曲を書く事はある意味とても自分で向いていると思いました」。しかし、彼のボーカリストとしての才能をあきらめきれない事務所は、1991年、黒沢健一の2歳年下の弟で、当時、別のバンドを組んでいた黒沢秀樹と一緒にバンドを組むことを提案。さらに、黒沢健一の友人から紹介された、ベーシスト木下裕晴を加えた3人で、バンド「L⇔R」(エルアール)を結成させます。
1991年11月、ポリスターレコードからミニアルバム『L』でデビューを果たしたL⇔R。「デビューの時、プロデューサーを務めてくれたのは、プログレッシブ・ロックバンド「四人囃子」の岡井大二さんでした。岡井さんと話をして、決めたのは、“自分達がやりたい、出したい音を曲にしよう。ジャンルは拘らなくてもいい”ということでした。だから、半年以上、ひたすらスタジオに籠り曲を作りました」。黒沢さんは、デビュー当時をこう振り返ります。
音楽ファンの反応を確認するため5000枚限定で発売されたミニアルバム『L』は、音楽ファンの間での口コミのみで話題を呼び、完売します。続く12月には、1000枚限定のプロモーションアルバム『R』を、音楽関係者に配布、これも好評を得ます。音楽関係者、ファンの反応の良さを感じたL⇔Rは、音楽性の幅を広げるために、女性コーラスメンバーとして嶺川貴子を加え、1992年4月、1stフルアルバム『LEFTY IN THE RIGHT〜左利きの真実』を、翌5月にデビューシングル「LAZY GIRL」を発売します。
その後、9月に2枚目のシングル「(I WANNA)BE WITH YOU」、11月にアルバム『LAUGH AND ROUGH』を立て続けにリリースしたL⇔Rは、翌1993年2月、全国5ヵ所を回る初のライブツアーを行います。「デビュー前から約2年間、とにかく曲を作ることが楽しく、没頭していました。そして、そろそろライブを…という話があり、本格的なライブとしては3〜4年ぶりにライブを行いました。元々、僕らはアマチュア時代から、ライブで育ってきたので、待ちに待ったライブでは、楽しくライブができました」。
その後もL⇔Rは、6月に両A面シングル「恋のタンブリング・ダウン/君に虹が降りた」と、プロモーション用アウトテイク等を編集したアルバム『LOST RARERITIES』をリリース。さらに、11月には、初の海外レコーディングアルバム『LAND OF RICHES』、翌12月にはシングル「君と夏と僕のブルー・ジーン」と精力的に作品を発売しますが、コーラスの嶺川貴子が、音楽の方向性の違いから、脱退。再び3人となったL⇔Rは、翌1994年4月、心機一転、レコード会社をポニーキャニオンに移籍し、シングル「REMENBER」を発売します。
1994年4月に発売された、L⇔R5枚目のシングル「REMENBER」は、初めてセールスチャートにランクインし、チャート最高位42位を記録します。「初めてセールスチャートに入って、嬉しかったですね。デビュー当初は、曲作りに夢中で、メンバー、そしてレコード会社も、僕らを支持してくれる音楽ファンがいるなら、それでいい。そんな気持ちだったので、作品を売らないといけない、というハングリー精神は欠けていたと思います。だから、セールスチャートに入り、評価されたのは、素直に嬉しく思いました」。黒沢健一は、当時についてこう振り返ります。
ただ、レコード会社を移籍してからは、TVの音楽番組への出演、雑誌の取材などの依頼が増え、L⇔Rは多忙な毎日を送るようになります。そんな、L⇔Rの元に、1994年秋、フジテレビの大多亮プロデューサーから、ドラマ主題歌提供の話が舞い込みます。「10月に発売されたシングル「HELLO IT’S ME」のプロモーション活動の真っ只中に、翌95年の春に放送が決まっていたドラマ『僕らに愛を!』の主題歌を、L⇔Rにお願いしたい。という内容でした。プロデューサーの大多さんが、夏に、偶然、シングル「REMEMBER」を聴き、僕らを気に入ってくれて、話をくれたんです」。
「最初、僕らが次にリリースしようとしたミディアムテンポの楽曲に主題歌は決まったという話を聞いていたのですが、その後、再び大多さんから、「ドラマの収録が始まってみると、やはりアップテンポの曲がいい。作り直しをお願いできないか?」とスタッフに打診があったんです。最初、スケジュールの都合上、曲作りが難しそうだったので、スタッフは僕らにそのことを伝えるのをためらったそうですが、再度、大多いさんからお願いされて、結局もう一度トライしてみようという事になったのです」。
「作り直すことは決まったんですが、大多さんへの再プレゼンの日まで、残された時間はわずか2日間しかありませんでした。スタッフからも、初めて曲作りで急がされました。自宅で、悩んでいた時、昔よく聴いた、エディー・ホッジスの「恋の売り込み(I’M GONNA KNOCK ON YOUR DOOR)」という曲のメロディが浮び、その瞬間、サビの歌詞が出来たんです。すると、今度は、曲全体の歌詞、メロディが浮かび、わずか30〜40分で一気に曲を書き上げました。それから、近くに住んでいた弟の秀樹とベースの木下裕晴を急遽呼び、テープレコーダーを使って、デモテープを、朝6時ぐらいまで作りました。その後、少しだけ仮眠をとった後、スタジオで曲を仕上げました。翌日、大多さんにプレゼンしたら、一発OKで、気分は最高でしたね」。わずか2日間。限られた時間の中から生まれた、L⇔R7枚目のシングル「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR」は、1995年5月に発売されます。
1995年5月に発売された、L⇔Rにとって7枚目のシングル「KNOCKIN’ON YOUR DOOR」。発売に先駆けて、4月からスタートした、フジテレビ系ドラマ『僕らに愛を!』の主題歌として起用されたこの曲は、セールスチャート最高位1位、約134万枚の売上を記録するヒット曲となります。「この「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR」のヒットで、それまでL⇔Rの存在を知らなかった人も、L⇔Rを知ってもらうことができました。実は、去年の12月に、シャ乱Q結成20周年ライブにゲスト出演した時、つんくさんと一緒にこの「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR」を歌ったんです。ライブで歌うのは、12年ぶりでしたが、観客の皆さんも、一緒に歌ってくれ、喜んでくれました。その表情を見ていると、僕も嬉しくなりました。自分にとっても、「メロディやアレンジにポップスの楽しさを詰め込んで作った出来た楽曲なので、とても大好きな曲です。」。
最後に、黒沢さんは、こう振り返ってくれました。
彼らにとっての音楽人生を切り開くキッカケとなった、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!/ビートルズ
M2.BYE BYE POPSICLE〜一度だけのNO.1/L⇔R
M3.REMEMBER/L⇔R
M4.KNOCKIN’ ON YOUR DOOR/L⇔R
第66回目の今日お届けしたのは、「鈴木祥子/優しい雨」でした。
「小学校3年生の時、両親が私にクラシックピアノを買ってくれました。それから、見よう見真似でピアノを弾いたり、クラシックのレコードを買ってもらい、聞いたりしていました。それが、音楽と私の出会いだと思います」。音楽との出会いについて、鈴木祥子さんは、当時をこう振り返ってくれました。
1965年8月、東京都に生まれた鈴木祥子は、中学に入ると、今度は洋楽に興味を持ち始めるようになります。「当時あった、『MUSIC LIFE』、『ROCK SHOW』といった洋楽音楽雑誌を買って、洋楽の事を知るようになりました。日本のアイドルのような感覚で、雑誌に、毎月載っていた、チープ・トリック、ベイ・シティローラーズ、クイーンが好きで、その中でも、一番憧れていたのが、クイーンのドラマー、ロジャー・テイラーでした。彼がドラムを叩く姿は、大好きでした」。
1980年4月、高校に入学した鈴木祥子は、同級生とレディースバンド「メルティーマーブル」を結成し、自らは、念願叶ってドラマ—として活躍します。「バンドを始めてしばらくする内に、プロになりたいなぁ、と思うようになりました。でも、プロミュージシャンと言っても、私の場合は、スタジオミュージシャンになりたいと思っていました。ちょうど、ボズ・スキャッグスのバックバンドを務めていたTOTOの曲がヒットし始めた頃で、やはり同じドラマー、パーカッションを務めていた、ジェフ・ポーカロに憧れていました。スタジオミュージシャンという仕事が、音楽業界の中で、確立し始めた頃です」
1983年、高校を卒業した鈴木祥子は、スタジオミュージシャンとしての仕事を始め、その評判はアーティストの耳にも届くようになり、1986年に行われた原田真二のライブツアーに、キーボード、パーカッションプレーヤーとして参加します。
そして、日比谷野外音楽堂で行われた原田真二のライブを見た、レコード会社のプロデューサーが、原田真二のマネージャーを通して、鈴木祥子をスカウトします。「ライブが終わって、原田さんのマネージャーを通して話がありました。楽器を弾けて、歌える女性ボーカリストを探している」と。
あくまでバックミュージシャンとしての活躍の場を夢見て、最初は自らが歌うことに戸惑いを感じていた鈴木祥子ですが、最後は自らも歌うことを決意。1988年9月、鈴木祥子はシングル「夏はどこへ行った」でデビューします。
1988年9月、シングル「夏はどこへ行った」でデビューした鈴木祥子。「元々、スタジオミュージシャンとして活躍したい、と思っていましたから、正直、まさか自分がデビューするとは思いませんでした。デビューするにあたり、プロデューサーから自分で曲を作ってみないかと言われ、それまで曲など作ったことはなかったのに、見よう見真似で、曲を作りました。テーマも無しで作った曲に、川村真澄さんが歌詞を書いてくれて、アレンジは佐橋佳幸さんが担当してくれました。ふたりには、本当に助けてもらいました」。
デビュー曲で、いきなり初めて曲作りに挑戦した鈴木祥子。
「私は、誰かに強制されてやるのが、苦手なタイプなんです。振り返ってみても、何でもやったこと、経験したことが無いのに、挑戦すれば、苦労するけど最後は何とかなる。それを繰り返していくことで、だんだんと挑戦することが楽しくなって、いつのまにか自然とできるようになっていくんです。自分の中で、自分のペースで物事を消化して、挑戦していくのが、私には似合っているんだと思います」。
1988年のデビュー後、鈴木祥子は1年に2〜3枚のシングルと、1枚のアルバムを順調にリリースしていきます。そして、1991年、アイドル歌手小泉今日子との再会が、鈴木祥子の音楽人生の扉を、大きく開くキッカケとなります。「小泉今日子さんとは、私がデビューする前年の1987年に、ライブのバックミュージシャンとしてお会いしたのが最初です。私がデビューしてしばらくした後、小泉今日子さんが所属していたレコード会社のプロデューサーの方から、今度発売するアルバムに曲を書いてもらえないだろうかという話がありました。それが、アルバム『afropia』に収録された「あなたがいた季節」という曲です。そして翌年の1992年に、もう一度、楽曲提供の話を貰って、書いたのがこの曲です」。
1993年2月、鈴木祥子が小泉今日子に書いた「優しい雨」は、シングルとしてリリースされます。
1993年2月にリリースされた、小泉今日子の34枚目のシングル「優しい雨」は、1月にスタートしたTBS系ドラマ『愛するということ』の主題歌に起用され、セールスチャート最高位2位、約95万枚を売るヒット曲となります。
「この曲を作る時、初めは、“シングルになるかもしれません。曲はドラマテックなバラードで、中山美穂の1988年のヒット曲「You’re My Only Shinin’ Star」のようなイメージでお願いします”というオーダーでした。私は、売れる曲を作りたい、というプレッシャーを背負いながらではなく、ただ、単純にいい曲を書きたい。その気持ちひとつで作りました。そして、私が作った曲に、小泉今日子さんが歌詞を書き、曲が完成しました。完成後、結果的にシングルとして発売されることになり、ドラマの主題歌としても起用され、ヒットしました。よどみのない気持ちで作った結果だと、その時、私は思いました」。
小泉今日子にとっても、1991年の「あなたに会えてよかった」以来のヒットとなった、「優しい雨」。その年1993年夏、鈴木祥子が所属するレコード会社エピックソニーは、鈴木祥子に、この「優しい雨」をカバーすることを提案します。「レコード会社のディレクターから、次のアルバムに収録する曲として、カバーをしてみないか、とリクエストされました。カバーすることに抵抗は無かったし、迷いもありませんでした」。
「ただ、自分がカバーレコーディングするにあたって、一つだけ気をつけたのは、小泉今日子さんが歌ってヒットしたこの曲のイメージを、壊さないことだけでした。あとは、いかに鈴木祥子らしく歌うことができるか、これだけに集中してレコーディングに取り組みました」。
鈴木祥子がカバーした「優しい雨」は、翌11月に発売されるアルバム『Radio Genic』に先駆けて、1991年10月に発売された、11枚目のシングル「ラジオのように」のカップリング曲として発売されます。
鈴木祥子11枚目のシングル「ラジオのように」のカップリング曲として収録された「優しい雨」。
「この曲「優しい雨」は、鈴木祥子のシンガーソングライターとしての道を、大きく切り開いてくれた曲です。自分の大きな自信にも繋がりました。去年の11月に、小泉今日子さんが久し振りに行ったライブでも、この曲を歌ってくれたんです。久しぶりに歌ってくれた、というその話を聞いて、改めて小泉今日子さんが、この曲を大事にしてくれているんだな、という気持ちが伝わってきました。作り手冥利につきますね」。鈴木祥子さんは、最後にこう語ってくれました。
彼女のシンガーソングライターとしての道を、大きく切り開くキッカケとなった、J-POPバラードの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.We Will Rock You/クイーン
M2.夏はどこへ行った/鈴木祥子
M3.優しい雨/小泉今日子
M4.優しい雨/鈴木祥子
第65回目の今日お届けしたのは、「ふきのとう/白い冬」でした。
「僕と歌との出会いは、1962年(昭和37年)、小学4年生のある日、担任の先生に音楽室に呼び出されたのがキッカケです。呼び出しの理由が分からないまま音楽室に行くと、先生が、「オルガンの伴奏に沿って歌を歌って」と言いました。言われるがまま歌を歌うと、「細坪君、合格」と言われ、ビックリして理由を尋ねました。
すると、先生は、「道内で開かれる独唱コンクールに出場する生徒を選ぶため、生徒を順番に歌わせた」って言うんです。それで僕は、独唱コンクールに出場し、結果は地区予選2位で終わったんですが、その時初めて「僕は歌がうまいんだ」という自信を持ったんです」。元ふきのとうの細坪基佳さんは、歌との出会いについてこう振り返ります。
1952年10月、北海道に生まれた少年・細坪基佳は、中学に入るとエレキギターを購入、同級生とバンドを結成します。「当時、あこがれていた特定のバンドはありませんでした。友達同士、持っていたレコードをみんなで貸し借りして、それぞれがお気に入りの曲をカバーするんです。ローリングストーンズの「テル・ミー」をはじめ、ベンチャーズ、スパイダース、加山雄三など、とにかくジャンルはこだわず、カッコいいと思った音楽をカバーして楽しんでいました」。
その後、高校に入学した細坪基佳は、ラジオから流れてくるサイモン&ガーファンクル、CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)などの、アメリカのフォークソングにも興味を持つようになります。
1971年春、北海道学園大学に入学した細坪基佳は、ロックバンドに憧れ、大学のロックバンドサークルに入部しますが、サークル内の音楽に対する考え方の違いから、わずか数カ月で退部。同じ年の1971年10月、
今度は、大学のフォークソング研究会に入部します。そして細坪基佳は、そこで、ひとり先輩部員と出会うのでした。「フォークソング研究会には、部員全員が一堂に集まる総会が月に一度ありました。その総会に初めて参加した日、みんなに挨拶をした後、60人ぐらいいた部員全員がバンドごとに別れて練習をし始めたんですね。
まだ、僕はどのグループにも入っていないわけですから、どうしようかと戸惑っていると、ジローズの「愛とあなたのために」を演奏しているグループがいたんです。「この曲なら、僕も一緒に歌える」と思い、そのグループの元へ駆け寄り、ハーモニーに参加しました。でも、何度歌っても上手くいかず、困り果てていると、ひとりの部員が近づいて来て「オレと歌ってみよう」といってくれたんです。一緒に歌ってみると、完璧にハーモニーが重なるんです。2、3度歌っていると、いつの間にか他の部員が歌うのを止めて、みんな、僕らの歌に耳を傾けているんです。それが、2歳年上の山木康世との出会いでした」。
運命的な出会いを果たした細坪基佳と山木康世の二人は、翌1972年、山木康世の友人二人を含む4人で、バンド「マッド・スライド・スリム」を結成、北海道厚生年金会館で行われたチャリティーコンサートへ出演します。しかし「マッド・スライド・スリム」は、チャリティーコンサート出演後に解散、次に細坪基佳と山木康世のふたりは、ユニット「メロディー」を結成し、アマチュア音楽コンテストに出場するようになります。
その後、ユニット名を「ふきのとう」と変えた二人は、札幌市内のライブハウスなどにも度々出演するようになります。そして1973年のある日、彼らが出演していた札幌市内のライブハウスに、偶然立ち寄ったレコード会社のスタッフとの出会いが、「ふきのとう」の音楽人生を変えることになるのでした。
「コンテストに度々出場、入賞も果たし、「ふきのとう」の名前は北海道では少しずつ知られる存在になっていきました。コンテストで頻繁に歌っていた「夕暮れの街」の評価も、自分たちの周りでは高かったし。でも、この時は、僕らは、音楽では、生活できないと思っていたので、プロデビューするつもりは全くありませんでした。ある日、ライブハウスにやってきたエレックレコードのスタッフからプロデビューの誘いを受けるまでは」。
プロデビューするつもりが全く無かった「ふきのとう」のふたりは、エレックレコードからの誘いを一度は断ります。しかし、その数か月後、再びそのレコード会社のスタッフが、北海道を訪れて、再び「ふきのとう」にプロデビューの話を持ち掛けます。「2度目に会った時、その人はエレックレコードを辞め、新しい事務所を立ち上げる準備をしていました。今度は、「CBSソニーが、ふたりの東京での生活の準備もするから、プロデビューしないか」と言ってきたんです」。
一度は断ったプロデビューの話ですが、度重なる誘いに、「ふきのとう」のふたりは悩んだあげく、今度は応じることにします。「僕は大学卒業が迫り、就職の事を考えないといけない時期でした。山木さんは大学を卒業して就職した直後でした。元々プロデビューする考えは全く無かったふたりでしたが、生活の準備をしてくれるなら、3年ぐらいは、社会経験を積む意味でも、やってみようと考え、プロデビューの誘いを受けることにしたんです」。1974年3月、プロデビューを決めた「ふきのとう」のふたりは、デモテープ作りのために上京します。
「デモテープ作りのために上京し、どの曲をレコーディングするかを考えた時、コンテストで何度も歌っていた「夕暮れの街」、「帰り道」の2曲はすんなりと決まりました。スタッフから、もう1曲レコーディングしようという話が出て選んだのがこの曲です。この曲は、もともと大学時代に作られていた曲で、当時、同じフォークソング研究会に所属していた工藤忠行さんが作詞をして、山木さんが曲を作っていたものです。僕自身も、大学時代にほんの数度しか歌った経験はなく、曲の存在すら忘れていました。でも、このデモテープ作りの時には、「この曲にしよう」と偶然にも、ふたりの頭の中に出てきたんです」。
「僕らふたりは、コンテストで何度も歌っていた「夕暮れの街」がデビューシングルになると思っていました。すると、事務所のスタッフから「CBSソニーが、デビューシングルは3番目の曲にしたい、と言っている。これからの長い付き合いの事を考え、レコード会社の話を聞いておこう」と言われたんです」。
「実は、これには後日談があって、2、3年前に、何十年ぶりかに、当時の事務所のスタッフに出会った時、そのスタッフが謝りながら話をしてくれました。あの時、CBSソニーが「夕暮れの街」ではなく、3番目の曲にして欲しい、と言ってきたと話したけど、実はあれは嘘で、本当は、事務所の考えだったそうなんです。
「ふきのとう」がデビューする直前に、同じようなフォークソンググループ「グレープ」の「精霊流し」がヒットしたんです。それで、「精霊流し」と似たイメージの「夕暮れの街」をデビューシングルにするのは良くないと考えたそうなんですね。人生は分からないものですよね」。
1974年9月、「ふきのとう」のデビューシングルとなった「白い冬」は発売されます。
「ふきのとう」デビューシングル「白い冬」は、セールスチャート最高位14位、約18万5000枚の売上を記録します。「「ふきのとう」18年間の活動は、僕の人生の中で、大きな交差点でした。そして、このデビュー曲「白い冬」は、その大きな交差点で出会った、34年来の旧友のような感じがします。正直、歌いたくない時期もありましたが、頭の中では、片時も忘れたことはありませんでした。でも今は、違います。細坪基佳=ふきのとう。ふきのとう=白い冬、というイメージを抱く人も多いと思います。だから、敢えてアレンジを変えないで、当時のままの曲を、デビューから34年経った今の細坪基佳が歌うのも、味が出ていいと思うんです。さくらぴあのライブでも、もちろん歌うつもりです。」。細坪基佳さんは、こう語ってくれました。
彼らの音楽人生を変えるキッカケとなった、J-POPフォークソングの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.TELL ME/ローリング・ストーンズ
M2.愛とあなたのために/ジローズ
M3.夕暮れの街/ふきのとう
M4.白い冬/ふきのとう
第64回目の今日お届けしたのは、「SMILE/IN EVERY PLACE」でした。
「小学生の頃、お小遣いを貯めては、TBSの音楽番組『ザ・ベストテン』で流れていた、歌謡曲、J-POP、ROCK…、ヒット曲のシングルレコードを買って聞いていました。その後、中学2年の時、小学校からずっと一緒だったクラスメイト5人で、サザンオールスターズ、RCサクセション、THE MODSの曲をカバーするバンド、「ビーフリー」を結成しました。その中でも、特によくカバーしていたのは、サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ」です」。
自身の音楽との出会いについて、SMILEの元リーダーの浅田信一さんは、こう振り返りました。
1983年に結成された、SMILEの前身バンド「ビーフリー」は、その後、メンバーチェンジを繰り返しながらも活動を続けます。「1986年、僕が高校2年生になった時、果たしてこんな状態でいいのか?と考えるようになり、僕は高校を中退しました。中途半端に音楽をやるのではなく、どこかで、プロを目指したい、という気持ちが自分の心の中に、芽生えてきたんでしょう。それからは、アルバイトをしながら、音楽活動を続けました」。
その後、地元静岡県浜松市のライブハウスを拠点に活動を続けていた「ビーフリー」は、1994年に静岡市で開かれたアマチュアバンドコンテスト「静岡フェスタ」に出場。会場で販売していた「ビーフリー」の自主制作カセットテープが、ひとりの音楽関係者の耳にとまります。
「偶然、ソニーSDオーディションのスタッフが「静岡フェスタ」を見に来て、僕らの演奏を聴き、自主制作カセットテープを買って、他のスタッフに聞かせ、興味を示してくれました。そこからデビューまでは、早かっような気がします。すぐに、「SDオーディション」のショーケースに出演して欲しい、と言う連絡があり、東京へ向かい、出演。すると、今度はそのショーケースを、僕らが後に所属することになる音楽事務所SMAと、ソニーレコードのスタッフが見て、「契約しよう」という話になりました。何か、信じられませんでしたね」。「ビーフリー」のプロデビューは、とんとん拍子に話がまとまり、翌1995年7月、「ビーフリー」はバンド名を
SMILEと変え、シングル「明日の行方」でデビューします。
1995年7月、SMILEはシングル「明日の行方」でデビュー、セールスチャート最高位39位、約12万枚の売上を記録します。「デビュー後は、TVの音楽番組に出演したり、雑誌の取材を受けたり、ライブを行ったりしていました。でも、どこか自分達の心の中では、釈然としないものを感じていました。僕らは、音楽活動をするためにプロデビューしたのに、何で音楽活動とは関係のないことをしないといけないんだろう、って。今は、自分が他のアーティストのプロデュースをすることもあり、音楽活動をする上で色んな場所へ露出することは、必要な事だと分かるんです。ただ、当時は若かったので、理解できなかったんですね」。浅田さんは、こう振り返ります。
音楽の世界で生き残っていくためには、商業的なプロモーション活動もしなければいけない。しかしそれが、自分達の音楽を作って、活動していく上で本当に、必要な事なのか? SMILEのメンバーは、葛藤を抱えながらも、自分達のやりたい音楽を模索しながら、制作活動を続けていきます。
1995年は、デビューシングルを含むシングル2枚、アルバムを1枚リリース。翌1996年は、シングル2枚、アルバム1枚をリリースしたSMILEでしたが、1997年は、シングルを1枚リリースするのみに終わります。
「バンドの中で、それまでの葛藤が我慢しきれなくなりました。もう一度、自分達のやりたい音楽を見つめ直してみよう、とバンドのみんなで考え、スタジオワークを中心に過ごしました。結果的に、自分達が納得できる、シングルができたので、良かったと思います」。
翌1998年1月、SMILEは、メンバーみんなが納得し作りあげたシングル「DRIVE」をリリースします。
1998年1月、SMILE6枚目のシングルとして発売した「DRIVE」。「バンドのみんなは、自信を持って曲を作りましたが、残念ながら商業的には成功とは言えず、周りのスタッフからの評価も、今ひとつでした。結果も出ず、正直、僕らに対して反感を持つスタッフもいました。何で言うことを聞かないんだって」。
スタッフからの厳しい言葉を受けながらも、SMILEは2月に3枚目のアルバム『RUB OF THE GREEN』を、5月にはマキシシングル「BUTTERFLY」、8月には7枚目のシングル「クラゲ」を立て続けにリリースします。「前の年、1997年は、リリースを抑えてスタジオワークを中心に活動していたので、逆にこの年1998年はリリースを立て続けに行っていました。そんな中、確か7枚目のシングル「クラゲ」をリリースする直前の夏頃だったでしょうか。翌1999年の春に、4枚目のアルバムを発売しようと考えた時、何かアルバムを作るキッカケとなる曲が欲しかったんです。スタッフと色々話をしていた時、クリスマスをテーマにした曲を作ったら?と言う意見が出てきたんです。」
浅田信一は、クリスマスをテーマの曲作りを考えていたある日、ひとつの情景を思い出します。
「曲を作る、ちょうど前の年の1997年、それまで冬の風物詩だった東京・表参道のイルミネーションが、環境問題に配慮するなどの理由で中止になったんです。浜松から上京して以来、僕らも冬になるとずっとその景色を見てきたから、何か寂しいな、って思っていたので、それをヒントに歌詞を作っていきました」。
冬をイメージさせるキーワードを、数多く歌詞に綴ったSMILE 8枚目のシングル「IN EVERY PLACE」は、1998年11月にリリースされました。
SMILE 8枚目のシングルとして、1998年11月にリリースされたシングル「IN EVERY PLACE」。「翌1999年4月に、SMILEにとって最後のオリジナルアルバム『FOR YOUR SMILE』がリリースしますが、この「IN EVERY PLACE」は、そのアルバムを作る足がかりとなった曲です。僕たちSMILEが、持っていた力を、アルバム『FOR YOUR SMILE』で全て出し切ることができた。その意味では、僕にとってもこの曲はとても思い出深い曲です。12月21日、22日に行うソロライブでも、久し振りにやってみようかな、と思っています」。
最後に、浅田さんはこう語ってくれました。
自分達の音楽観を貫き通す中から生まれてきた、J-POPクリスマスソングの隠れた名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.ミス・ブランニュー・デイ/サザンオールスターズ
M2.明日の行方/SMILE
M3.DRIVE/SMILE
M4.IN EVERY PLACE/SMILE
第63回目の今日お届けしたのは、「カズン/冬のファンタジー」でした。
「カズンのもうひとりのメンバー、古賀いずみと再会したのは、本当に偶然の出来事でした。僕の母親と、彼女の母親が姉妹で、小さい頃はよく祖母の家で一緒に遊んでいましたが、ふたりともが学校に通うようになってからは、会うことも次第に少なくなっていたのに、まさか同じ音楽スタジオで、同じトレーナーからボーカルレッスンを受けているなんて…、考えてもみませんでした」。カズンのメンバー、漆戸啓さんは、もうひとりのメンバー、古賀いずみと、カズンを結成するキッカケとなった再会について、こう振り返ります。
1992年、当時高校生だった漆戸啓は、自らが通っていた音楽スタジオのボーカルレッスン教室で、同じトレーナーの生徒だった従姉の古賀いずみと、ボーカル教室がたまたま休講になったことで、再会を果たします。その後、漆戸啓と古賀いずみのふたりは、再会して間もなく、お互いの共通の趣味でもあった音楽について頻繁に話をするようになります。やがて、漆戸啓は、古賀いずみが数か月に一度、シンガーとしてライブを行っていた、浅草のバー「1229」に、一緒に出演するようになります。
「彼女のライブに、何度か顔を出すようになった時、どちらともなく、「一緒にやろう」という話になりました。再会した翌1993年に、ふたりでデュオ「イトコーズ」を結成、浅草の「1229」や、四谷の「フォーバレー」、原宿の「ルイード」でライブをするようになりました。元々僕は、80年代R&Bや、ブラックコンテポラリ—音楽をよく聞いていたのですが、デュオを結成してから、ふたりが歌い始めたのは、「美女と野獣」「アラジン」などディズニーアニメソングのカバーソング、ダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイのデュエットソングなどが中心でした。お互いのハーモニーを活かした歌が中心でしたね」。
翌1994年、漆戸啓と古賀いずみが結成したデュオ「イトコーズ」は、彼らの歌を聞いた人たちを中心に話題を呼び始め、ふたりの噂は、音楽関係者の耳にも届くようになります。そして、それまではカバー曲を中心に歌っていた「イトコーズ」は、メジャーデビューに向けて、初めてオリジナル曲作りにチャンレジします
「初めてオリジナルで作った曲は、「おばあちゃんの誕生日」という曲です。ちょうどふたりが「イトコーズ」を結成して一緒に活動を始めた頃に、ふたりが子供の頃大好きだった祖母が亡くなり、その祖母の想い出を残したい、という気持ちも強かったので、初めてのオリジナル曲にその想いを込めました。この頃になると、僕らふたりは、メジャーデビューしても絶対成功する自信を持つようになり、曲ができたら、すぐにデビューだ、と思うようになっていました」。漆戸さんは、当時をこう振り返ります。
オリジナル曲をレパートリーに加えたことで、ふたりの絶妙なハーモニーを聞ける「イトコーズ」のライブは、よりいっそう評判を呼ぶようになり、その話を聞きつけた数社のレコード会社の関係者が、メジャーデビューの話を持ち掛けます。「最終的にキューンソニーと契約しました。決めた理由は、単純です。僕の母親が、ソニーなら、大きい会社だから大丈夫だよって言ったからです」。
漆戸啓と古賀いずみのふたりは、当時ソニーが行っていた「ライブオーディション」を受けた後、キューンソニーと契約。翌1995年春のデビューが決まります。「デビューが決まった時は、正直、俺たちは上手いんだから、デビューして当たり前。当然売れるだろう。ぐらいにしか思っていませんでした。今、振り返ると生意気ですよね。 でも、そんな生意気な僕らに、レコード会社のスタッフは、デビューしてアルバム3枚出すまでは、売れなくても大丈夫だから、それまでは、じっくり時間をかけて、ゆっくりとやっていこうよ。と優しく言ってくれました」。
1995年3月、従姉弟同士の2人は、「イトコーズ」を英語に置き換えた「カズン」に改名し、シングル「愛なんて信じない」で、念願のメジャーデビューを果たします。
1995年3月、カズンはシングル「愛なんて信じない」でメジャー・デビュー。5月には、デビューまでに書き溜めておいた曲で構成された1stアルバム『彼と彼女の夏』を発売。続いて7月には、2枚目のシングル「ベルが鳴った」を発売します。
「シングルも、アルバムもセールスチャートには、全くランクインしませんでしたけど、デビュー前にスタッフが言ってくれた、アルバムを3枚発売するまでは、ゆっくりはやろう。と言ってくれた言葉が、ふたりの気持ちを楽にしてくれました。あと、デビュー後も定期的に行っていた対バン形式のライブで、お客さんの反応がそこそこ良かったので、まぁ、いつかは何とかなるだろうと、悲壮感はありませんでした」。
そして1995年7月、2枚目のシングル「ベルが鳴った」発売直後に、初のワンマンライブを大阪バナナホールで成功させたカズンの下へ、ひとつの知らせが舞い込みます。
「最初に話があったのは、デビュー直前の、その年の春のことでした。レコード会社のスタッフから、サッポロビール「冬物語」のCMソングのオーディションがあるから、カズンも一曲出しておこういわれたんです。「冬物語」のCMソングと言えば、過去に槇原敬之さんの「冬がはじまるよ」が起用され大ヒットしました。そのメジャーなCMソングに、まさか自分達の曲が選ばれるとは思いもせず、気軽な気持ちで曲のサビの部分を作り出しました」。「どうせ無理だろう、と考えて作った曲だったので、曲を出したことさえ忘れていました。大阪でのワンマンライブ終わり、少し落ち着いた時、「そう言えば、あのCMの話はどうなりましたか」とスタッフに聞くと、最終候補に残っています、と返事が返ってきたんです。じゃあ、せっかくだから、CMソングへの採用がダメになっても、自分達の曲としてリリースすればいいや、ということで、曲のサビの部分しかなかったこの曲を、最後まで作り始めました」。
「曲のイメージは、もともと僕が、父親から聞かされていた話をモチーフにして作りました。青森県出身の僕の父親は、小学生の頃、体育の授業でスキーやスケートなどのウインタースポーツをしていた、という話を聞かされていて、その話を、頭の中で思い出して作りました。それから、歌詞のサビの部分「街の灯も、ざわめきも届かない」という部分は、一面の雪景色をイメージしています。一面が雪に覆われた世界は、静寂の世界でしょ。また、恋愛中のカップルが二人だけの世界に浸っている時は、周りでどんな事が起きていても、気にも留めない。その二つの世界観を重ね合わせているんです」。
冬の幻想的な世界観と、ふたりのためのラブソングを重ね合わせた、カズン3枚目のシングル「冬のファンタジー」は、1995年10月発売されます。
1995年10月に発売された、カズン3枚目のシングル「冬のファンタジー」は、セールスチャート最高位8位ながら、その後、半年近くに渡ってチャートにランクインするロングヒットとなり、約70万枚の売上を記録します。
「デビュー直後、プロの音楽の世界を簡単に考えて、生意気だった僕らが、改めて歌を作ること、そして歌うことの素晴らしさを分かることができた、アーティストとして、気持ちの上で再スタートを切ることができた曲です」。
漆戸さんは、最後にこう話してくれました。
男女、ふたりの絶妙なハーモニーが奏でる、J-POP冬の定番曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ビューティ・アンド・ザ・ビースト/セリーヌ・ディオン ウィズ ビーボ・ブライソン
M2.おばあちゃんの誕生日/カズン
M3.愛なんて信じない/カズン
M4.冬のファンタジー/カズン
第62回目の今日お届けしたのは、「辛島美登里/サイレント・イヴ」でした。
「私が、辛島美登里と、初めて直接会ったのは、1987年の夏のことです。当時、私は、永井真理子のレコーディングプロデューサーを担当していました。付き合いがあった音楽事務所の社長から、ソングライターとして辛島美登里を紹介されて、永井真理子の2枚目のシングルの曲作りを依頼。デモテープが完成し、辛島美登里本人が、スタジオにデモテープを持ってきた時に、初めて彼女と会いました。知的な人だなぁ…というのが、辛島美登里に出会った時の、第一印象です」。その後、辛島美登里のプロデューサーを務めることになる、金子さんは、当時をこう振り返ります。
1961年5月、鹿児島市に生まれた辛島美登里は、国立奈良女子大学在学中の1983年10月に行われた、「第26回ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト」通称・ポプコンに出場し、グランプリを獲得します。その後、辛島美登里は、1986年に、ポプコンでグランプリを獲得したシングル「雨の日」でデビュー。翌1987年には、オリジナルビデオアニメの主題歌を自らが歌う傍らで、他のアーティストへ曲を提供するソングライターとしても活動し始めます。
「辛島美登里に初めて会った後、当時、彼女が所属していた事務所の社長から、彼女のライブに誘われて、見に行きました。永井真理子へ提供した曲を初めて聞いた時にも感じましたが、彼女が作った曲の中には、女性の心理的描写、心情が丁寧に綴られているのが印象的でした。ひとつの曲が、一つのストーリー、物語として完成されていました」。
辛島美登里が描く歌の世界に秘められた、アーティストとしての可能性を感じた金子さんは、ソングライターとしてではなく、シンガーソングライターとして辛島美登里をプロデュースすることを、事務所の社長に提案。
1989年6月、辛島美登里は、シングル「時間旅行」で、改めてデビューします。
1989年6月に、辛島美登里は、シングル「時間旅行」で再デビュー。続いて7月には、1stアルバム『Gently』を、9月には2枚目のシングル「黄昏を追い抜いて」を発売します。
「シングルは、セールスチャートにはランクしませんでしたし、アルバムも、最高位は96位でした。しかし、レコードが売れなくても、辛島美登里の曲がラジオでオンエアされる回数や、雑誌などの取材が徐々に増えていたので、少しずつですが、手ごたえを感じていました。音楽業界の関係者を中心に、辛島美登里を評価してくれる人も増えてきていたので、焦りみたいなものはありませんでした」。金子さんは、こう振り返ります。
実際、金子さんは、過去の経験をひとつの教訓として、辛島美登里のプロモーション活動にあたっていました。
「1979年(昭和54年)、当時私はCBSソニーで、デビュー間もない久保田早紀を担当していました。デビュー曲「異邦人」が、いきなり145万枚を売る大ヒットを記録したのですが、その後、ヒット曲が続かず、ライブの集客も伸び悩み、久保田早紀は、アーティスト活動を続けていくことができなくなりました。その時の教訓で、息の長いアーティストを育てるには、セールスと、ライブの集客。この二つのバランスが、うまくとれないと成功しないと感じました。デビュー当時の辛島美登里は、セールス的には今ひとつでしたが、曲を聞いた音楽業界の関係者の間での評価が少しずつですけど高くなり、ライブへの動員も少しずつ増えてきていたので、ひょっとしたら、うまく成長してくれるのではと、この時期から思い始めていました」。
1989年11月、辛島美登里は、当時、同じレコード会社ファンハウスに所属していた、小林明子、永井真理子、麗美の3人の女性ボーカリスト達と一緒に、クリスマスをテーマにしたコンピレーション・アルバム『MERRY CHRISTMAS TO YOU』を発売。アルバムタイトル曲「Merry Christmas To You」を、シングルとして発売します。
1989年11月に、小林明子、永井真理子、麗美、そして辛島美登里の4人の女性ボーカリストによって歌われたシングル「Merry Christmas To You」。この曲は、セールスチャート最高位51位、約1万8千枚の売上を記録します。そして、この曲を聞いたTBSテレビのプロデューサーが、TVドラマ主題歌の話を、金子さんに持ち込んだのでした。
「ある忘年会の席で、TBSテレビのプロデューサーと一緒になったんですが、その席で、「来年の冬に、クリスマスをテーマにしたドラマを作ることを考えているんですが、4人が歌った「Merry Christmas To You」を、辛島美登里が一人で歌ったバージョンとして、主題歌に使えませんか」と持ちかけられたんです。その話を聞いた時、私は、この曲もいいけど、せっかくのチャンスだから、辛島美登里に改めて、クリスマスをテーマにした新しい曲を書かせてもらえませんか?とお願いしました」。
TVドラマ主題歌制作の依頼を受けた辛島美登里は、曲の制作活動に取り組む一方で、2月にシングル「ツバメ」を発売。シングルとしては初めてセールスチャートにランクインし、最高位49位、約1万6千枚の売上を記録します。また5月には、2枚目のアルバム『Good Afternoon』を発売。アルバム『Good Afternoon』は、セールスチャート最高位12位、約11万枚の売上を記録し、辛島美登里のファン層が、着実に広がっているのを、本人、そしてスタッフは実感していきます。そして、辛島美登里が曲作りを始めて、半年近く経った1990年夏。その年の10月からスタート予定のTBS系ドラマ『クリスマス・イヴ』の主題歌は、遂に完成します。
「辛島美登里と、TBSテレビのドラマプロデューサーを交えて、何度か曲についての議論をかわしました、曲のテーマが、クリスマスという、ある意味単純で分かりやすかったので、辛島美登里が作ってきたデモテープに対して、大幅な修正はありませんでした。ただ、ひとつ、TVドラマの内容と、できあがってきた曲を、巧くリンクさせることができるのか。これが、一番のポイントでした」。
「曲が発売された当時は、バブル景気も終わりを迎えていましたが、まだまだその余韻に浸って、クリスマスを豪華に過ごす人が多かった時代。でも豪華にクリスマスを過ごす人がいる一方で、クリスマスを、アンハッピーに過ごす人だっている。このドラマは、どちらかと言えば、アンハッピーな内容だったので、主題歌も、いかに切ない女性の恋心を描くことができるかが、ポイントでしたね。曲のイントロ部分で、雪がしんしんと降り積もっていくような様子描き、切なさを表現していく。この部分のアレンジには、苦労しました」。
ドラマ『クリスマス・イヴ』の主題歌として起用された、辛島美登里のシングル「サイレント・イヴ」は、11月に発売されます。
1990年11月に発売された、シングル「サイレント・イヴ」。10月からスタートしたTBS系ドラマ『クリスマス・イヴ』の主題歌として起用されたこの曲は、ドラマが進むにつれてセールスチャートを上昇、発売から3週目には、辛島美登里にとって初のセールスチャート1位を獲得します。そして、一度は、1位の座を明け渡しますが、ドラマがクライマックスに差しかかった12月に、再び、今度は2週連続で1位を獲得、最終的に約80万枚のセールスを記録するヒットとなります。
切ない、女性の恋物語を綴った、クリスマス・ソングの名曲が誕生した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.瞳・元気/永井真理子
M2.時間旅行/辛島美登里
M3.Merry Christmas To You/小林明子・永井真理子・麗美・辛島美登里
M4.サイレント・イヴ/辛島美登里
第61回目の今日お届けしたのは、「鈴木康博/1億の夜を越えて」でした。
「レコードデビューが決まっても、正直、音楽だけで生活していけるとは思いませんでしたし、何より、ちゃんと音楽の基礎を勉強しないといけない、って思いました。だから僕は、アレンジや作曲の学校にも通いました。他のメンバーは、まだそれ程プロになりたいとは思ってはいなかったんではないでしょうか」。
1969年7月、鈴木康博は、高校時代から一緒に音楽活動をしていた小田和正、地主道夫らと、バンド「ジ・オフコース」を結成。「ヤマハ・ライトミュージックコンテスト」仙台地区予選に出場し、予選を勝ち抜いたジ・オフコースは、11月に行われた「ヤマハ・ライトミュージックコンテスト」全国グランプリ大会で、グランプリを獲得した赤い鳥に続き2位入賞、レコードデビューが決まります。
中学生の頃から、ピーター・ポール&マリー、サイモン&ガーファンクルといったアメリカンポップスの影響を受け、音楽にのめり込んでいった鈴木康博は、ジ・オフコースが、デビュー当時目指した音楽の方向性について、こう振り返ります。
「デビューが決まっても、僕らは自分達の中で、どんな音楽をやっていきたいのか、目指す音楽の方向性が、はっきり決まっていませんでした。ただ、その当時流行っていた“カレッジフォーク”的な音楽には、抵抗を感じていたので、それとは違う方向性にはしよう、とは思っていました」。
ジ・オフコースがデビューを目前に控えた1970年は、3月に吉田拓郎も参加した広島フォーク村のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売されるなど、フォークソングが全盛期を迎えようとしていた時代です。そんな時代の流れに抵抗を感じていたジ・オフコースでしたが、自分達の音楽の方向性がハッキリと定まらないまま、1970年6月にシングル「群衆の中で」でデビューします。
1970年4月、シングル「群衆の中で」でデビューしたジ・オフコース。翌1971年2月に、結成以来のメンバーだった地主道夫が、音楽とは違う世界に進むことを目指し、ジ・オフコースを脱退。小田和正と鈴木康博のふたりになった、ジ・オフコースは、焦らず、まずは自分達のペースで音楽活動を続けることを決めます。翌1972年、グループ名をジ・オフコースから、オフ・コースへと改名し、9月に初めて単独ライブを行います。「デビューしてしばらくは、自分達はシンガーソングライターだという自覚はありませんでした。レコード会社が勧める音楽プロデューサーに、音楽の方向性を任せないといけない状態で、シングルのA面に収められる曲は、他の作詞家、作曲家が作った曲ばかりでした」。
1973年6月、オフ・コースはデビューから3年が経って、念願の1stアルバム『僕の贈りもの』を発売。「このアルバム『僕の贈りもの』は、叙情的な季節感を出したメロディと、僕と小田のコーラスが中心に作られたものです。オフ・コースとしての音楽の方向性を、初めて決めることができた作品ですね。売れる、売れないに拘わらず、自分達のやりたいこと、出来ることをやろう、と必死で作りました」。
その後も、オフ・コースは、小田和正、鈴木康博の二人でライブ活動を続けていきますが、次第に、5人組のチューリップ、3人組のハイ・ファイ・セットなどのバンドサウンドには、勝てないと感じるようになり、自分達もドラム、ベースを加えたバンドスタイルで全国を回ることを目標に活動を続けていきます。そして1977年4月、オフ・コースは、スタジオミュージシャンとしてオフ・コースのアルバム制作に関わっていた、大間ジロー、松尾一彦、清水仁の3人が正式メンバーに加入。5人組となったオフ・コースは、9月にアルバム『JUNKTION』を発売、全国を回るライブ活動を精力的に行い、ヒット曲が無くても地道に音楽活動していける自信を深めていきます。
1979年12月、オフ・コースは小田和正が、“売ることを意識して作った”というシングル「さよなら」を発売。シングル「さよなら」は、セールスチャート最高位2位を記録すると同時に、約71万枚の売上を記録します。それまでは、シングル1枚を10万枚を売るのがやっとだったオフ・コースとって、シングル「さよなら」は、彼らが一躍注目を浴びるキッカケとなります。翌1980年夏、オフ・コースは、当時、TOTOやボズ・スキャッグスを手掛けていたエンジニアと組み、海外レコーディングで11月に発売するアルバム『We Are』の制作に取り組みます。そして、このアルバム『We Are』に、元「紙風船」のあんべ光俊が作詞、鈴木康博が作曲を手掛けた曲、「一億の夜を越えて」が収録されます。
1980年11月に発売された、オフコース10枚目のアルバム『We are』に収録された、鈴木康博作曲の「一億の夜を越えて」。「作詞をお願いした、あんべ光俊は、彼が「紙風船」を解散した後、オフ・コースのライブのオープニングアクトを務めていた縁で、お願いしました。オフ・コースのそばにいる人間が、客観的に見たオフ・コースのイメージを作るのに、ピッタリだろうという考えからでした」。鈴木康博は、当時についてこう振り返ります。
アルバム『We Are』は、オフ・コースにとって初めてアルバムセールスチャートで1位を獲得。名実ともに、J-POPを代表するバンドへと成長を遂げていきます。「アルバム『We Are』が売れ、この曲も注目を浴びました。しかしこの「一億の夜を越えて」は、アルバムの中でというより、当時のオフコースのライブの中盤、お客を一気に盛り上げる、ライブには欠かせない重要な役割を持つようになりました」。
しかし、この1982年、オフ・コース結成当時からのメンバー鈴木康博は、6月に行われた日本武道館連続10日間公演終了後に、オフ・コースからの脱退を決意。翌1983年8月、アルバム『Sincerely』で、ソロアーティストとして道を歩んでいくことになります。
「オフコース=小田和正、というイメージが固まりつつある中で、その土俵の中にいて束縛されるよりも、新しい土俵を自分で作って活動をしようと思いました。そこからは、自分探しの旅です。今思えば、音楽の方向性も、何もかも漠然としてつかめなかったのが正直な気持ちです」。
ソロ・アーティストとしての活動をスタートさせた鈴木康博は、自身のアルバムの制作や、ライブ活動を続ける傍らで、コカ・コーラなど数々のCMソングも手掛けるようになります。そして1996年、鈴木康博はオフ・コース時代に、自分が手掛けた曲ばかりを集めたセルフカバーアルバムを作ることを決め、その中で、思い出深いこの曲を収録することを決めます。
「このアルバムは、初めてパソコンを使い、ホームレコーディングする形で作りました。今までスタジオでしか作れなかった音楽が、誰に気兼ねすることなくマイペースで作れるようになりました。この曲を選んだのは、オフ・コース時代から常に僕のそばにあり、ライブでは盛り上がる曲として欠かせない曲だったからです。実際、小田和正のカラーが強かったオフ・コースの音楽の中でも、この曲は鈴木康博の音楽として、ファンからも人気がありました。そんな理由もあって、僕はソロになっても、ライブでこの曲を演奏していたので、改めてセルフカバーすることに決めました。オフ・コース時代とは違って、思うがまま、気紛れな感じにアレンジしたので、ちょっと曲がカッコ良くなったかなと思います」。
1996年10月、鈴木康博がオフ・コース時代に作った曲ばかりをセルフカバーしたアルバム『BeSide』に収録された曲「一億の夜を越えて」は、リリースされます。
1980年に、オフコースのアルバム『We Are』に初めて収録されて以降、オフコース時代、そしてソロになってもライブには欠かせない曲となっている、この「一億の夜を越えて」。1996年10月に発売されたセルフカバーアルバム『BeSide』以降も、鈴木康博さんは何度もセルフカバーし、今年2008年に、還暦を記念して行われたライブでも演奏され、この模様を収録した最新のライブアルバム『Yasuhiro Suzuki Anniversary Live 1970-2008』にも収録されています。
長い音楽生活の中で欠かせない、彼を象徴するJ-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.風に吹かれて/ピーター・ポール&マリー
M2.群衆の中で/ジ・オフコース
M3.1億の夜を越えて/オフコース
M4.1億の夜を越えて/鈴木康博
第60回目の今日お届けしたのは、「槇原敬之/世界で一つだけの花」でした。
2000年にワーナーミュージックに復帰した槇原敬之は、再び精力的にソングライティング活動をスタートします。ただそのスタイルは、デビュー当初からの“ラブソングの伝道師”的なものとは少し異なり、人間の内面を見つめ直すような、のちに槇原敬之自身が語る、ライフソングのスタイルへと変化していきます。
それは、新たな音楽への挑戦でしたが、それまでの彼のソングスタイルに慣れしたんできたマッキーファンの一部からは、戸惑いの声すら聞こえてきました。
そんな頃、日本を代表するポップアイドルグループ、SMAPから、マッキーへアルバム楽曲の依頼が舞い込んできます。ただ、それは、あまりにもタイトなスケジュールでの楽曲依頼でした。
「SMAPは誰もが見ても素敵じゃないですか。僕も大ファンだったので、曲作りの話が来た時、やります!やります!っていう気持ちでした。でも…持ち時間が、何と!2週間だったんですね。でもその時僕は、なぜか書くぞ!って気持ちで、いっぱいでした。2週間の間に1曲書いたのですが、実はボツになってしまって…。残り時間が、何と!3、4日になってしまったんです。完全に、依頼してきたレコード会社は、僕が断るだろう…と思っていたみたいで。でも、その時、不思議とガッツがあり、やります!やります!って…」
一度ダメを出されても、なぜか楽曲制作を引き受けてしまった槇原敬之。モチロン、簡単に曲は生まれてきません。徐々に追い詰められていきます。しかし、締め切り直前のある夜、音楽の神様が、マッキーの枕元に舞い降りてくるのでした。
「初夏だったのか?夏の終わりだったのか? その日、僕はベランダ開けて寝ていたんです。曲作り、どうしようか?と途方に暮れて、犬を抱きながら寝ていました。当時、横浜に住んでいたんですが、薄ぐらい明け方の5時か、6時頃だったかな…。雨が木の葉にあたる音で目覚めたんです。テーブルの上のパソコンもつけっ放しで、その時に、何かサーッと自分の頭の中を駆け抜けていき、何か曲が書ける気がしたんです。紙芝居を見せられるように、絵が頭の中を巡っていきました。それを、僕は書きとめていきました。
だから、僕の中では、あの曲は、草木が雨で濡れる、という、生き生きとした、朝の歌というイメージが強いですね」。
2002年7月に、SMAP14枚目のアルバム『Drink! Smap!』に収録された、「世界に一つだけの花」。アルバム発売後、このアルバムを代表する曲として、テレビ番組『SMAP×SMAP』の中で、何度となく歌われるようになります。
「SMAPが、歌を歌う姿を見て、初めて眼差しを感じていきましたね」。
2003年1月、「世界に一つだけの花」は、SMAPのメンバーのひとり、草彅剛(くさなぎ・つよし)が主演したフジテレビ系ドラマ『僕の生きる道』の主題歌としても起用され3月にはSMAPの35枚目のシングルとして発売。セールスチャート最高位1位を記録し、最終的な売上は約267万枚にも及ぶ、21世紀最大のヒット曲となっていきます。そんな中、この曲を、槇原敬之自身も歌いたいと思うようになります。
「自分で作った感覚がないんですよね、この曲は…。SMAPのヒットで、曲を作った自分も嬉しくなって、歌わせてください、って感じでした。昔僕は、ラブソングばかり書いていて、その後、ライフソングを書くようになって…。頑張った自分へ、神様がプレゼントをくれたのかな?って思いました。自分で作った感覚がないから、自分も歌いたくなりました。いいなぁ…SMAPは素晴らしい曲を歌えて。僕も歌いたいなぁ…って。本当に子供みたいでしたね。周りからも、槇原君も歌ったら、って言われるようになって」
記録的なセールスを続ける「世界に一つだけの花」。SMAPの曲がヒットすればするほど、ソングライターの槇原敬之自身の唄で、この曲を聴きたいという声が広がっていきます。そして、「SMAP×SMAP」の特別番組でのSMAPと槇原敬之の競演を経て、ついに槇原敬之自身の歌声で、槇原敬之ファンのもとへ届けられる日がやってきます。それは2003年に行われた、広島でのライブ会場での出来事でした。
「そう言えば、広島でした。最初に歌ったのは…。曲の出出しをピアノで弾いた時、お客さんの反応が、えっ?って感じで。それが可笑しくて。でも、僕は、どうだっ!って感じでしたよ」
2003年4月1日、広島厚生年金会館2000人のファンの前に、その唄は響き渡ったのでした。
「今まで、色んな曲を作って、ライブで歌ってきましたけど、あの日、この曲のイントロを歌い出した時、お客さんの顔が、他の曲とは違う喜びに溢れているのが分かりました。良かったね、僕もみんなも喜んでもらえる歌があって、と思いました。僕もある意味で、リスナーの一人ですからね」。
とにかく、いろんな場面で歌われることの多いこの曲について、槇原さん自身はこんな風に話しています。
「“手の掌を太陽に…”って歌があるじゃないですか?あれと一緒で、聞いた人がなぜか元気になるんですよね。友達の会社の社長さんが、必ず言います。ウチの会社の忘年会の最後、みんなが最後にこの歌を歌って、宴会を閉めるんです…って。僕はこの歌で閉まりますか?って聞くと、閉まるって言うから、そうなのかな…って。
ある意味、みんな“ワンアンドオンリー”なんだよ、ということを知る歌で、一体感が生まれる元気な歌なんですね」
今日OAした曲目
M1.SHAKE/SMAP
M2.世界に一つだけの花/SMAP
M3.世界に一つだけの花/槇原敬之
第59回目の今日お届けしたのは、「槇原敬之/遠く遠く」でした。
「これだけ親や友達から心配されている。じゃあ逆に、心配されないためにはどうしたらいいのか?と思った時、
僕は歌を作る人なので、どこに住んでいてもラジオのチャンネルをひねれば僕の歌が流れてくる。あー、槇原くん今日も元気だな、ちゃんとやっているな、と思ってもらうことができればいいんだ、と考えました」。
1969年5月、大阪府高槻市に生まれた槇原敬之は、彼が小学6年生の時、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」の音楽に衝撃を受けます。シンセサイザーとコンピュータを駆使した、いままで出会ったことの無い音楽にとりつかれた槇原敬之は、自分自身も、音楽に関わりたいと思うようになります。
その後、高校生になった槇原敬之は、憧れのYMOのメンバー、坂本龍一が担当していた、NHKのラジオ番組に、自らが作ったデモテープを送ります。
「僕が、高校1年生の冬のある日。インフルエンザで学校を休んだ日の放送で使ってもらい、凄く褒めてもらったのが印象に残っています。それまで、何をするにも二番手…というのが当たり前で、なかなか褒めてもらうことがありませんでした。だから夢が叶った気分でしたね。生まれて初めてでしたね。その時に褒めてもらった言葉が、「僕は好きなんだけどなぁ…」と言ってくれたのが、凄く嬉しかったですね。初めは、どんな意味なんだろう?と思い考えてみると、リスナーはどういう風に感じたんだろう?という意味でした。特種な番組で、おかしなデモテープが番組には沢山届いていたんです。僕個人的には好きでしたが…。そんなデモテープの中においては、僕が作った曲は、ちゃんとした歌だったので。そんな中で、坂本龍一さんが、「僕は好きなんだけどなぁ…」と言ってくれたのが、今の僕を支えてくれているような気がします」。
その後も、槇原敬之は、敬愛する坂本龍一の音楽を通して、小田和正、松任谷由実といった、日本のアーティストたちの音楽に触れたり、当時、彼が入り浸っていた、近所の楽器店の店長を通して、カーペンターズ、ボニー・レイトと言った、洋楽も聴き始め、さまざまな音楽をタップリと吸収していきます。
1988年春、大学受験に失敗した槇原敬之は、浪人勉強をしながらも音楽活動を続け、1990年3月に行われた、アマチュア音楽コンテスト「AXIA MUSIC AUDITION」に応募。槇原敬之は、グランプリと、一万人審査員賞を同時に受賞し、メジャーデビューが決定します。
そして同じ年の1990年9月、槇原敬之はシングル「NG」、アルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビューします。
1990年9月、シングル「NG」、アルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビューした槇原敬之。翌1991年4月には、2枚目のシングル「ANSWER/北風」を発売しますが、セールス的には、今ひとつ波に乗り切れない状態が続きます。そんな槇原敬之に、ある映画の主題歌を作る話が舞い込みます。
「映画『就職戦線異状なし』の主題歌を作る仕事があるんだけど、槇原君も書いてみない?という話があり、もう全然仕事がない状態だったので、やる!やる!って感じで、怖いものなしでしたね。と言うか、怖いものがないくらい暇だったんですね。ただ…唯一怖いものは、親との電話でした。「そんな歌手なんかやっていても、やっていける訳はない。早く大学に入りなさい!」という感じで、いつも親と電話をしていました。自分が浪人中だったのもありますが。そして、映画のタイトル『就職戦線異状なし』を聞いた時、ひょっとしたらこの人達は、どこか僕と似た所があるんじゃないか?と感じて、やりますと伝えました。そして話を貰った珈琲店を出て、本当ならそのままお店に残って曲作りをすればいいですけど、お金がないから、丁度お店が乃木坂にあり、坂を登った場所に、「乃木坂」と書いた石の標識があり、そこに腰かけて、ノート開いて書き始めたのを覚えています。その時に、自分の頭の中に浮かんできたメロディが、“どんなときも。どんなときも。”です。自分の中では、YMOが好きで、なんか応援歌のようなメロディが、ダサイ!って初めは思っていましたが、家に帰り、寝ても覚めてもそのメロディが消えないので、作ってみたら、こんな感じになりました。不思議な出会いですね」。
1991年6月に発売された、槇原敬之3枚目のシングル「どんなときも。」。映画『就職戦線異状なし』のヒットと共に、この曲はチャートを急上昇。槇原敬之にとって、初めてセールスチャートにランクインすると同時に、発売から約1カ月後にはセールスチャート最高位1位を獲得。発売4ヵ月後の10月には、ミリオンセラーを達成、最終的に約167万枚を売り上げ、アーティスト槇原敬之の名前を広く知らしめるキッカケとなります。
その後も槇原敬之は、9月にアルバム『君は誰と幸せなあくびをしますか』を、11月には、シングル「冬がはじまるよ」を発売。アルバム『君は誰と幸せなあくびをしますか』は、セールスチャート最高位3位、約58万枚の売上を記録。シングル「冬がはじまるよ」は、同じ年1991年の冬に発売された、サッポロビール「冬物語」のCMソングに起用され、セールスチャート最高位5位、約76万枚を売り上げるヒットとなります。
翌1992年、槇原敬之は、春に発売を予定していたアルバムの制作にとりかかります。
「1曲、2曲売れただけでは、家族は納得していなかったんですね。まだそんなことをやって…という感じでした。でも、親を持つ誰もが経験していることだと思いますが、親って、嫌いなんだけど、実は好きなんですよね。めちゃくちゃ腹が立つんだけど、実は話をしたいんですよね。で、生まれてから実は素直な自分になっていないんじゃないかなぁ?って思いました。それは東京に出てきて以来、ずっとあった気持ちで、ある種の反抗期なんですよね。だからこの時、素直に気持ちを伝えたいな…。どういう自分になりたいのかなぁ…という気持ちがピークでしたね。ちょうど2軒目の家に引っ越しをした時で、引っ越しをした割にはいいのか?悪いのか分からない時期で。これからどうなるのかも不安でした。でもこれだけ親や友達から心配されている。じゃあ逆に、心配されないためにはどうしたらいいのか?と思った時、僕は歌を作る人なので、どこに住んでいてもラジオのチャンネルをひねれば僕の歌が流れてくる。あー、槇原くん今日も元気だな、ちゃんとやっているな、と思ってもらうことができればいいんだ、と考えました。そこで、ある日、僕が大好きな東京タワーに登って、2つのことを思いました。
ここからだと、家は見えないぞ。しめしめ!って気持ちと。もうひとつは、あー、僕はこんな場所に来てしまったんだ、という気持ちが重なって、今なら素直な気持ちで曲が書けるぞ、と思い作ったのがこの曲です。だから、今まで作ってきた曲の中でも、一番私小説的な曲ですね。他の人には好かれない曲だろうな、と思っていました」。
今年7月に、国営備北丘陵公園で開かれた野外音楽イベント『SETSTOCK’08』に、槇原敬之が出演した際に、槇原敬之は、ある想いを込めてこの楽曲「遠く遠く」を歌います。
「東京に住んでいる僕が、この曲「遠く遠く」を歌うのも大事なんですが、どこにでも“遠く遠く”の人はいるのは確信があって、隣町から来たら、それは“遠く遠く”であって。精神的な繋がりだけでいる人もいる。だから、この夏は、この曲を聞いて精神的な里帰りだぜ!ってという気持ちを出したくて、この曲を歌いました。
ただのラブソングではなく、ひとりひとりの幸せを願いながら、ライフソングを歌い続け入る槇原敬之。
ことしのセットストックで「遠く遠く」を歌ったとき、こんなことも考えたそうです。
「決局、“遠く遠く”って、本当に遠く遠くなんじゃないかな?って。それは例えば、宇宙飛行士の野口さんではないけど、宇宙から地球を見てみた時、凄く遠い世界から来たんじゃないか?と思いました。神様から、みんな
送りだされた感じですね」
今日OAした曲目
M1.ライディーン/YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)
M2.NG/槇原敬之
M3.どんなときも。/槇原敬之
M3.遠く遠く/槇原敬之
第58回目の今日お届けしたのは、「山本潤子/翼をください」でした。
「山本潤子が、音楽の道を目指そう、と志したのは、彼女が高校時代にバンド活動を始めてからです。学校の同級生と、当時、アメリカで人気のあったフォークソンググループ「ピーター・ポール&マリー」スタイルのバンドを結成し、学園祭で歌ったのがキッカケです。彼女達は、ピーター・ポール&マリーの他にも、セルジオ・メンデス、キャロル・キングなどもよく聞き、演奏していたそうです」。長年に渡り、山本潤子を担当している事務所のスタッフは、こう語ってくれました。
1969年、関西を中心に活動していたフォーク・ソンググループが集まり、定期的に開いていた演奏会に出演した山本潤子は、別のフォーク・ソンググループと出会い、一緒に新たなグループを結成することを決めます。「赤い鳥」と名付けられた新しいグループは、同じ1969年に行われた、「第3回ヤマハライトミュージックコンテスト」に出場し、見事グランプリを獲得、レコードデビューが決まります。「「赤い鳥」は、後藤悦治郎、平山泰代の2人に、山本俊彦、大川茂、山本潤子の3人が加わり、5人の声を活かしたコーラス・グループとして結成されました。ポップで洗練されたコーラス、つまり西洋の音楽と、日本の各地で古くから歌い継がれてきた伝承歌など、いわゆる日本の音楽。この西洋と日本、二つの音楽を融合したスタイルで歌うグループを目指していました」。
1970年6月、「赤い鳥」は、シングル「人生」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でデビューします。
その後「赤い鳥」は、全国各地を回るライブ活動の途中、1970年11月に三重県「合郷の里(ねむのさと)」で開かれた、「第2回ヤマハポピュラーソングコンテスト」にゲスト出演。「赤い鳥」のメンバーは、会場への移動途中、プロデューサーからある曲を渡され、移動するバスの中でこの曲を練習し、ぶっつけ本番で歌います。
翌1971年2月、「赤い鳥」は、この「ヤマハポピュラーソングコンテスト」で、ぶっつけ本番で歌った曲「翼をください」を、3枚目のシングル「竹田の子守唄」のカップリング曲として発売します。
1971年2月、「赤い鳥」3枚目のシングル「竹田の子守唄」のカップリング曲として発売された、「翼をください」。その後、「赤い鳥」が、1年間に約250本近くものライブをこなしていく間に、この曲はじわじわと売れ、発売から3年が経った1974年、100万枚の売上を記録します。「「赤い鳥」のメンバー全員は、「翼をください」がそんなに売れていることに気付いてはいませんでした。とにかく、日々のライブをこなしていくのに精一杯で、レコードが売れることよりも、とにかく、歌を直接聞いてもらえるライブにメンバーみんな、没頭していたそうです」。スタッフは、当時についてこう振り返ります。しかし、1974年9月。「赤い鳥」は、「日本の伝承歌と、ポップなコーラス、二つのバランスがとりにくくなった」という、メンバー間の音楽性の違いを理由に解散。翌10月に、後藤悦治郎と平山泰代の二人は、フォークデュオ「紙ふうせん」を結成。同じ10月に、山本俊彦、大川茂、山本潤子の3人は、新たなグループ「ハイ・ファイ・セット」を結成します。
「「赤い鳥」を解散した直後、次のグループ名をどうネーミングするか?レコード会社の中で議論が交わされ、最終的にレコード会社の全社員、所属アーティストの中から募集をして選ぶことになりました。そして、応募されたグループ名の中から選ばれたのが、この「ハイ・ファイ・セット」です。この名前を出したのは、当時同じレコード会社に所属していた細野晴臣さんでした」。
「グループ名も決まり、次はデビュー曲を決めようという時、「赤い鳥」のプロデューサーでもあった村井邦彦さんから、3人は、ある曲を渡されたそうです。村井さんが、「ハイ・ファイ・セット」に渡した曲は、村井さんの弟子で、もともとは作曲家志望だった荒井由実さんが書いた曲でした。「赤い鳥」時代にもこの曲は、村井さんを通じてメンバーは一度聴いていたそうなんですが、「赤い鳥」が歌うにはイメージが違っていたので、結局ボツになっていたそうです」。
1975年2月、「ハイ・ファイ・セット」は、荒井由実(後の松任谷由実)が書いた曲「卒業写真」でデビューします。
「「ハイ・ファイ・セット」は、「赤い鳥」とは全く逆のスタイルを目指していました。「赤い鳥」は、ジーンズにTシャツ姿で、ギターを抱えて歌うスタイルだったのに対して、「ハイ・ファイ・セット」は、ギターなどの楽器は持たず、タキシードにドレスなどの衣裳にも気を使い、見た目も楽しんでもらうためにダンスを取り入れたり、Show Upされたステージを目指していました。「ハイ・ファイ・セット」結成直後は、「赤い鳥」時代からのファンの中でも、そのスタイルには賛否両論あったみたいです…。でも、メンバー自分達が決めた路線なので、後悔をしないで歌い続けたそうです。」。その後も「ハイ・ファイ・セット」は、荒井由実が作詞・作曲を手掛けた「冷たい雨」や、ブラジルのシンガーソングライター、モーリス・アルバートのヒット曲をカバーした「フィーリング」など、数々のヒット曲をリリース。1974年10月の結成から、1994年9月までのおよそ10年間に、シングル26枚、オリジナルアルバム19枚を発売します。
しかし、「ハイ・ファイ・セット」は、メンバー間の音楽性の問題などで、1994年9月に活動を休止します。
「「ハイ・ファイ・セット」の活動を休止した時、山本潤子にレコード会社から、ソロデビューの誘いがありました。「ハイ・ファイ・セット」時代にもソロの話はあったのですが、その時は断っていたそうです。でも、「ハイ・ファイ・セット」が休止した、このタイミングならいいんじゃないか?ということで、ソロとして活動していくことになりました」。
1994年10月、山本潤子はシングル「鍵があわない」、アルバム『JUNKO YAMAMOTO』でソロデビュー。その後も山本潤子は、コンスタントにアルバムを発売、ライブ活動を行う傍らで、1995年には小田和正(おだ・かずまさ)のコンサートツアーに、ゲスト・ボーカルとしても参加します。
そして1995年秋、山本潤子は、次のアルバムの構想を練る段階で、プロデューサーからある提案をされます。「山本潤子自身を見直す意味で、「赤い鳥」「ハイ・ファイ・セット」それぞれの時代のヒット曲を、セルフカバーしたアルバムを作りませんか?という提案でした。1996年に入り、アルバムの制作の話が少しずつ進みだした途中、世間では殺伐とした殺人事件が頻繁に起こり、世の中が凄く暗いイメージになっていました。彼女自身、もし、この歌を自分が改めて歌うことで、聞いてくれた人達が、少しでも前向きになってくれたらいいなぁ、という思いで、決断したようです」。
一方、この歌は、アルバム制作とほぼ同じ時期の1996年に開かれていた、サッカーのワールドカップフランス大会のアジア地区最終予選で、日本代表チームの応援歌の1曲として、サポーターたちに頻繁に歌われるようになります。「本当に、偶然でした。曲の歌詞、メロディ。長年、小さな子どもから大人まで歌い続けられてきたこの歌が、歌う人、聞く人を前向きにさせてくれたから、サポーターの人達にも応援歌として選んでもらえたんでしょう」。
1997年11月、「赤い鳥」から数えて26年振りに、山本潤子は、今度はソロアーティストとして、この歌
「翼をください」をシングルとして発売します。
1997年11月に発売された、山本潤子3枚目のシングル「翼をください」。「この歌は、赤い鳥が歌ったとか、山本潤子が歌った、とかは関係ありません。1971年に発売されて以来、J-POPの曲として、初めて学校の音楽の教科書にも載り、長年みんなに親しまれてきた歌です。山本潤子自身も、常日頃ずっと言っています。この歌「翼をください」は、誰もが知っているし、落ち込んだ時に聞くと、気持ちが前向きになれる、そんな、みんなの歌です」と。
誰もの心の中にあった歌が、あらためてみんなの歌として実感された瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.花はどこへ行った/ピーター・ポール&マリー
M2.翼をください/赤い鳥
M3.卒業写真/ハイ・ファイ・セット
M4.翼をください/山本潤子
第57回目の今日お届けしたのは、「SPEED/White Love」でした。
「彼女達に初めて会ったのは、1996年1月。当時、彼女達が出演していた日本テレビ系の音楽バラエティ番組『THE夜もヒッパレ』で彼女達のグループ名を募集し、グループ名が決まった直後に、レコーディングスタジオで会いました。当時、彼女達はまだ小学生と中学生でしたが、四人とも大人びたオシャレな服を着て現れたのが印象的でした」。デビュー直後から、10年間に渡ってレコーディング担当ディレクターを務めた中西さんは、当時をこう振り返ります。
前年の秋、1995年10月に、沖縄から上京、日本テレビ系音楽バラエティ番組『THE夜もヒッパレ』に出演しながら、デビューに向けレッスンに励んでいた、島袋寛子(しまぶくろ・ひろこ)、今井絵里子(いまい・えりこ)、上原多香子(うえはら・たかこ)、新垣仁絵(あらかき・ひとえ)の四人の少女達。番組で募集したグループ名は、「SPEED」に決まり、1996年1月から、デビューに向けたレコーディングもスタートします。
「SPEEDは、安室奈美恵、MAXらを生んだ沖縄アクターズスクール出身で、安室奈美恵やMAXら先輩達を尊敬し、羨ましく思っていました。ただ、SPEEDは、邦楽市場はもちろんですが、もっと上の世界を目指していました。当時、アメリカのティーンエージャーを中心に人気を集めていた、歌って踊れるガールズR&Bグループ「TLC」を敬愛し、自分達もTLCみたいになりたい、とよく言っていました」。
SPEEDが、沖縄アクターズスクール時代から培ってきた、ダンス、そして歌唱力。デビューにあたって、SPEEDは、その歌唱力にさらなる磨きをかける努力をしていたと言います。
「1月にグループ名が決まり、デビューするまで8ヵ月近くかかったのには、理由があります。確かに歌唱力は、優れたものがありました。しかし、デビュー候補曲を何曲か歌っていると、彼女達には声が出ないキーが幾つかあったんです。曲のキーの高さを変えれば済む話でしたが、曲のイメージが変わるのもありましたけど、彼女達にプロの歌手としてキーを出す努力もして欲しかったので、声を出す練習を繰り返ししました。すると、次第に声が出るようになったんですね。それと、単に売れる曲をSPEEDに歌わすのではなく、5年先、10年先に聞いても、聞く人の中で、印象に残っているような歌をSPEEDには歌って欲しい。そんな思いがスタッフの間にはあったので、デビュー曲を選ぶのに時間がかかったこともあります」。
SPEEDのメンバーの努力、そして周りのスタッフのバックアップ。みんなの熱意の中から生まれた、SPEEDのデビュー曲「Body&Soul」は、1996年8月に発売されます。
1986年8月、満を持して発売されたSPEEDのデビューシングル「Body&Soul」。「発売当初の初回出荷枚数は7万枚でした。まぁ売れるだろう、という期待感はありましたが、当時、僕らのレコード会社は、アイドルやロックバンドを手掛けることはあっても、彼女達のような歌って踊れるグループを手掛けたことはなかったので、最初は“売れる”という確信は、持っていませんでした」。中西さんは、当時をこう振り返ります。しかし、SPEEDのデビューシングル「Body&Soul」は、周囲の不安を取り払うかのように、じわじわと売上を伸ばして、発売から1ヵ月にセールスチャート最高位4位を記録。その後も、半年近くに渡ってチャートにランクインし続け、最終的には64万枚もの売上を記録するヒット曲となります。
またシングル「Body&Soul」が、セールスチャートにランクインし続ける中、11月には、2枚目のシングル「STEADY」を発売。シングル「STEADY」は、10月から始まったテレビ朝日系のドラマ「イタズラなKiss」の主題歌として起用され、「Body&Soul」の好調なセールスとの相乗効果もあって、セールスチャート最高位2位を記録、売上も127万枚を記録します。そして、12月に発表された、第38回日本レコード大賞で、SPEEDは新人賞を受賞します。「たった2枚のシングルを発売しただけでしたが、この頃から“売れるだろう”…という期待感は、“売れる”という確信に近いものに変わっていくのを、スタッフみんなが感じていました。彼女達と同世代のティーンエージャーから共感を集めていたのはもちろんですが、ティーンエージャーの親も巻き込み、幅広い層からの人気を集めていました。それが、売れたひとつの理由でもあります。この頃になると、彼女達も、もっと売れる!と感じるようになっていました」。翌1997年3月、SPEEDは3枚目のシングル「Go!Go!Heaven」を発売します。
SPEED3枚目のシングル「Go!Go! Heaven」。彼女達にとって初めて、セールスチャート最高位1位を獲得し、64万枚の売上を記録します。また翌4月には、1stアルバム『Starting Over』を発売。アルバム『Starting Over』は、発売2ヵ月後の6月にセールスチャート最高位1位を3週連続で獲得、192万枚の驚異的な売上を記録します。
「この頃の彼女達は、もう立ち止まっている、という感じはありませんでした。レコーディング、プロモーション、そして学校。日々があっという間に過ぎていくような感じだったと思います。しかし、そんな忙しい彼女達でしたが、歌を歌う姿勢は凄かったですね。デビュー当初は、慣れないレコーディング作業に苦労していましたが、この時期になると、自分達がそれぞれ何をやらないといけないか?真剣に自分達の中で、課題を持って取り組んでいました。その姿勢にはビックリしました。また大人になると、何事に取り組むにも保守的、守りに入りがちですが、彼女達は、4人でやれば必ず何とかなる!怖いものなんかない!と言う、若さならではのパワー、エネルギーで何事にも積極的に取り組んでいました。とても、中学生には見えませんでした」。
その後も、アルバム『Starting Over』が好調なセールスを続ける中、SPEEDは7月に東京・お台場で初めての単独ライブ『Starting Over From ODAIBA』を開催。2日間、2万枚のチケットが、わずか1時間余りでソールドアウトします。翌8月には、4枚目のシングル「Wake Me Up!」を発売、セールスチャート最高位2位、67万枚の売上を記録します。
SPEEDのシングルやアルバムが、それぞれのセールスチャートを賑わす中で、その年の暮れに発売を予定していたシングル制作の動きがスタートします。
「ライブ直前の7月中旬頃から、SPEEDらしいクリスマスソングが発売できたらいいね、という話がスタッフの間で出てきました。そこで、デビュー当時からSPEEDの曲を手がけていた伊秩弘将(いぢち・まさひろ)さんに何曲か曲をお願いしたのですが、最初いただいたデモ曲はピンと来なくて、再度お願いして書いてもらった数曲の中にこの曲はありました。最初はサビのフレーズだけでしたが、そのサビを聞いただけで事務所、レコード会社、全てのスタッフが、この曲で行きましょう!という話になりました。満場一致でした」。
「レコーディングは、ライブが終わった8月中旬から始まったんですが、10月に発売を予定していたので、制作スケジュール的にはギリギリでした。でも、彼女達がレコーディングに高い意識を持って臨んでくれたので、レコーディングはあっさりと終わりました。この曲の特長は、歌詞ですね。歌詞の中に、“クリスマス”という言葉は、ひと言も出てきません。でも、年頃の女の子が好きな男の子の事を思い、切なくなる気持ちを綴った歌詞が、しっとりとしたメロディと巧く重なり、巧く表現できて雰囲気が出ています。具体的な言葉は無くても、聞く人にはちゃんと伝わっていくんでしょうね」。
デビューからわずか1年足らず。SPEED5枚目のシングル「White Love」は、1997年10月に発売されます。
1997年10月に発売された、SPEED5枚目のシングル「White Love」。彼女達にとって2曲目のセールスチャート最高位1位を獲得すると同時に、184万枚の売上を記録します。「SPEEDにとって、ここまで売れたのは、“リアリティある若さ”が、成功の秘訣だったと思います。同世代の女の子が華やかなステージで歌い輝く姿を見て、同じ世代からの圧倒的な支持を集めることができました。曲も、その時に売れればいい、という考えだけではなく、5年先、10年先に、曲がひとり歩きしても、歌い続けてもらうことのできる歌を、スタッフも一緒に作ってきました。その努力が、実を結んだんのでしょう」。
発売から10年経った今も、色あせることなく歌い続けられる、J-POP、冬のラブソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ウォーターフォールズ/TLC
M2.Body&Soul/SPEED
M3.Go!Go!Heaven/SPEED
M4.White Love/SPEED
第56回目の今日お届けしたのは、「JUDY AND MARY/RADIO」でした。
「ちょっとパンクっぽいガールポップをやろうと思っているんだけど、一緒にやってみない?」。
1991年6月、深作欣二監督の映画『いつかギラギラする日』の函館ロケに参加していた、ヘビーメタルバンド「JACKS’N’ JOCKER」のメンバー恩田快人は、映画のロケ現場で、エキストラとして参加していた、北海道の短大生・YUKIを、バンドのメンバーに誘います。地元の短大に通いながら、レベッカのコピーバンドのボーカルとして活躍していたYUKIは、恩田快人の誘いに乗り、映画の撮影終了後から半年後に上京。1992年2月、YUKIと恩田快人を中心に、バンド「JUDY AND MARY」は結成されます。JUDY AND MARYは、4月に、自主制作アルバム『BE AMBITIOUS』を発売、12月には、バンドのサポートメンバーだったドラマ—の五十嵐公太が、正式メンバーとして加入。恩田も、JACKS’N’ JOCKERを脱退し、JUDY AND MARYの活動を本格化させていきます。
翌1993年1月、メジャーデビューが決まったJUDY AND MARYは、オーディションで選ばれたギターのTAKUYAが加わり、5月からは、レコーディングの合間に、月1回、東京のライブハウスで定期的なライブをスタート。8月には、中西圭三が、大阪・岸和田に、5000人を集めて行った野外ライブに、オープニングアクトとして出演します。
「YUKIに初めて会ったのは、8月の岸和田の野外ライブが終わった、デビュー直前です。当時、僕は、エピックソニーの大阪営業所のスタッフでした。「今度、9月にデビューするバンド、JUDY AND MARYのボーカルのYUKIです」。大阪営業所で元気良くあいさつした彼女の、個性的な姿が強く印象に残りました。
JUDY AND MARYの音も聞かせてもらっていて、1991年に解散したレベッカのイメージでした。その当時は、数あるバンドの中でも、JUDY AND MARYと同じ感じのバンドはなかったので、上手くいけば、売れるぞ!って思いました」。その後、JUDY AND MARYの担当ディレクターを務めた、土蔵(とくら)さんは、デビュー直前のJUDY AND MARYについてこう振り返ります。
1993年9月、JUDY AND MARYは、シングル「POWER OF LOVE」で、デビューしました。
「デビュー当時のJUDY AND MARYは、1990年にイギリスで結成され、人気を集めたパンクロックバンド「デイジーチェインソー」を意識していたそうです。JUDY AND MARYと同じ4人組で、ボーカルは女性。パンクロック調のデイジーチェインソーを、JUDY AND MARYは音作りでも意識していました」。恩田快人のメロディアスなサウンド、個性溢れるYUKIのボーカル。スタッフの間では期待を懸けられていたJUDY AND MARYでしたが、デビューシングル「POWER OF LOVE」の売上記録は、わずか3千枚。続く11月に発売された2枚目のシングル「BLUE TEARS」は、セールスチャートにもランクインしませんでした。ただ、レコードのセールスでは結果が出なかったJUDY AND MARYも、11月に東京・渋谷Egg-manで行われた、初のワンマンライブは、ソールドアウト。じわじわと、JUDY AND MARYの存在は注目を浴びるようになります。
「JUDY AND MARYは、イメージ先行型でしたね。音を気に入ってJUDY AND MARYを好きになる、というより、メンバーの見た目の印象などから、JUDY AND MARYを好きになる人の方が多かったと思います。ライブでも、彼らの存在感がカッコイイ!…そして、次にJUDY AND MARYの音楽が好きになる…。そんなファンが多くいました。だから、曲は売れなくても、JUDY AND MARYのライブは常に人気がありました」。
1994年1月、JUDY AND MARYは、デビュー以前から彼らが演奏していた曲を中心に構成したアルバム『J・A・M』を発売します。
1994年1月に発売されたアルバム『J・A・M』に収録され、4月にJUDY AND MARY3枚目のシングルとして発売された「DAY DREAM」。「「DAY DREAM」は、1stアルバム『J・A・M』に収録した曲です。ファンからも人気を集めていた曲だったので、アルバムからシングルカット、という形で発売しました。もちろん、メンバー自身も気に入ってたのもありますが、JUDY AND MARYが目指していた、パンクロック調の音楽を、一番表現できていた曲です」。土蔵さんは、こう振り返ります。
「1stアルバム『J・A・M』の発売直前の1994年1月上旬、会社の人事異動で、僕は営業所のスタッフから、JUDY AND MARYの制作担当ディレクターになりました。異動して初めてJUDY AND MARY会った時、1stアルバムの発売直前にも関わらず、JUDY AND MARYは、もう次のアルバムのプリプロダクション(制作準備)に入っていました。この時、恩田快人はもちろんですが、TAKUYAもデモテープを持ってきていました。恩田は、ハードロックが大好きだけど、ZARDや松田聖子などのJ-POPも幅広く聞くタイプ。一方のTAKUYAは、もともとデビット・ボウイやXTCなどのUKロックを中心に聞いていたのですが、JUDY AND MARYを始めてJ-POPなども聞くようになったタイプ。僕は、二人が作ってきたデモテープを聴きながら、恩田とTAKUYAの二人が曲を作ったら、面白いアルバムができるんじゃないかな?と思いました」。
「また、2枚目のアルバム制作から、BOOWY、ブルーハーツなどをプロデュースしていた、佐久間正英さんがスタッフに加わりました。佐久間さんは、色々と口を出すタイプではなく、メンバーが悩んだ時、じっくりと話をして、その悩みをさりげなく解消していました。こじれた話をうまく交通整理ができる人で、メンバー、スタッフの中に自然に溶け込んでいってくれたので、心強く感じました」。
1994年1月に発売された、デビューアルバム『J・A・M』が発売直後のセールスチャートで、最高位23位を記録する中、JUDY AND MARYは2枚目のアルバム制作を本格化していきます。「この曲は、TAKUYAが作って持ってきたデモテープの中にありました。デモテープの中でTAKUYAが歌っていた歌詞が、良かったので、そのTAKUYAが作った歌詞に、YUKIが歌いやすいように歌詞を補足していく形で作りました。1月の終わりから、2月にかけて山中湖のスタジオで始まったレコーディングで、コーラスを入れることをメンバーに提案。実際に曲の頭の部分にコーラスを入れると、曲全体が、ぐ〜んと広がっていくのが分かりました。」
1994年8月、2枚目のアルバム『Orange Sunshine』からの先行シングルとして、「Hello!Orange Sunshine」とダブルA面扱いで、この曲「RADIO」は発売されました。
1994年8月に発売された、シングル「RADIO」は、「Hello!OrangeSunshine」とダブルA面扱いながら、セールスチャート最高位22位、約10万枚の売上を記録します。「それまでのシングル3枚合わせて、2万枚も売っていないバンドが、この1枚だけで約10万枚も売ったんです。当時のJUDY AND MARYにとっては、大ヒットです。アルバム『Orange Sunshine』は68万枚も売れ、JUDY AND MARYの人気に一気に火が付きました。このシングルが、彼らを勢い付けたことは間違いないです。「RADIO」も、初めは「Hello! Orange Sunshine」のサブ的な扱いだったけど、ライブで演奏するごとに人気が出て、気がついたら「Hello!Orange Sunshine」に負けないくらいの曲になっていました」。
その後の、バンドの人気を決定付ける、J-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.RASPBERRY DREAM/レベッカ
M2.POWER OF LOVE/JUDY AND MARY
M3.DAY DREAM/JUDY AND MARY
M4.RADIO/JUDY AND MARY
第55回目の今日お届けしたのは、「稲垣潤一/1ダースの言い訳」でした。
1953年7月、宮城県仙台市生まれた稲垣潤一は、小学生の時に聴いたビートルズに「歌詞の内容は分からないけど、とにかくカッコイイ」と衝撃を受け、音楽の道を志すようになります。その後、中学校に入ると稲垣潤一は、バンド活動を始め、ドラムとボーカルを担当します。
1972年春、高校を卒業した稲垣潤一は、地元仙台のライブハウスなどでセミプロバンドのボーカルとして活躍。稲垣潤一の存在は、東京でも知られるようになり、1975年には、神奈川県横須賀市や、東京都立川市にある米軍基地内のライブハウスやディスコでも演奏するようになります。その後、再び地元仙台を中心に音楽活動をしていた稲垣潤一のもとに、1980年夏、プロデビューの話が舞い込みます。「仙台のライブハウスで、個性的なハスキーな歌声で、聴く人達を魅了しているドラマーがいるという話を耳にして、実際にこの目で見たくなり、TV局のスタッフと一緒に仙台まで彼を観に行きました」。デビュー直前から、稲垣潤一を担当している事務所のスタッフのひとりは、当時をこう振り返ります。稲垣潤一は、仙台まで彼を観にきたTV局のスタッフに1本のデモテープを渡します。デモテープは、レコード会社と、音楽事務所のスタッフにも渡り、稲垣潤一のデビューはトントン拍子に決まっていきます。
「直ぐに、稲垣潤一をどうやって売り出すのか? 稲垣潤一本人はもちろん、レコード会社、所属事務所のスタッフみんなで知恵を出し合いました。彼の一番の魅力、個性的でハスキーな歌声を活かすなら、ロックじゃなく、POPナンバーを歌うのが、ベストだろう、という結論になりました。彼自身、仙台のライブハウスでセミプロとして活躍していた時は、70年代に流行っていた洋楽のカバーを歌っていたんですね。そこで、「Your song」「We are all alone」など洋楽カバー曲を歌ったデモテープを作ってみると、彼の持ち味でもある声の響きが凄く良かったんです。ちょうど、ボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルに代表される、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)という言葉が、流行り始めた時期だったので、“大人のJ-POPを歌う、日本のAORシンガー”という位置づけで売り出すことにしました」。1982年1月、稲垣潤一はシングル「雨のリグレット」でデビューします。
1982年1月、シングル「雨のリグレット」でデビューを果たした稲垣潤一。「デビュー当時、稲垣潤一の年齢は28歳。とにかく、どれだけ多くの人達に、稲垣潤一が歌う、大人のJ-POPを聴いてもらえるか?楽曲を売ることを軸とするのではなく、ライブを中心に、稲垣潤一の音楽を聴いてもらおうということで、デビュー直後は、ワゴン車に乗って全国のライブハウスを回りました」。当時について、事務所のスタッフはこう振り返ります。
1982年7月、稲垣潤一は、ライブ活動の最中に、2枚目のシングル「246:3AM」と、同名タイトルの1stアルバム『246:3AM』を発売。引き続き稲垣潤一は、10月に発売予定のシングルの制作に取り掛かります。「作詞を担当してくれた秋元康さんは、当時、ラジオ番組の放送作家として活躍し始めていた頃で、作詞家としてはまだ作品を手掛けたことはありませんでした。たまたま、事務所のスタッフの中に、秋元さんを知っているスタッフがいて、幾つか作品を見せてもらうと、歌詞の中に他の作詞家にはない言葉遣いがあったんですね。これは使えるんじゃないかと思ったので、稲垣潤一の作品を手掛けてもらうことになりました」。当時、ニッポン放送でラジオ番組の放送作家として活躍していた秋元康が作詞を手掛けた、稲垣潤一の3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」は、1982年10月発売されます。
3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」は、セールスチャート最高8位、半年近くに渡ってチャートにランクンインし続け、およそ30万枚近くの売上を記録します。「発売直後から、全国各地のラジオ局で頻繁にオンエアされ、一気に売れて、稲垣潤一の人気にも火がつきました。秋元さんの歌詞も大きかったけど、売れた最大の理由は、曲のサビのインパクトですね。筒美京平さん独特の、ロマンティックなメロディに、稲垣潤一のハスキーな歌声がうまくマッチして、曲がよりダイナミックになっていますよね。このインパクトが大きいんです」。「ドラマティックレイン」のヒットで、広く名前を知られることになった稲垣潤一ですが、その後は、中々シングルヒットには恵まれません。しかし、1983年2月に発売した2枚目のアルバム『SHYLIGHTS』以降、1年に1枚のペースで発表していったアルバムは、軒並み20万枚近くの売上を記録します。「シングル「ドラマティック・レイン」の後、シングルヒットは出ませんでしたが、不思議とアルバムは、売れていましたね。スタッフはみんな、「稲垣潤一は、アルバム向きのアーティストなのかなぁ?」という気持ちを持っていました。アルバムを作る時は毎回、良いアルバムを作りたいという思いから、旬の作家から大先生と呼ばれる大御所まで頼んで、候補曲を200曲近く集めて、その中から、アルバムのコンセプトに沿って、稲垣潤一の最大の魅力、彼の声を活かせる曲を探して、選んでいました。曲を選ぶだけでも、2ヵ月ぐらいかかっていたと思います。」
そして、1985年春、稲垣潤一とスタッフは、翌年に発売を予定していた、アルバムの制作に向けて動き出した中で、ある楽曲と出会います。
「この曲の作詞担当は、秋元康さんでした。秋元さんと、稲垣潤一は、1982年のシングル「ドラマティック・レイン」以降、とてもいいパートナー関係を築いていました。この時も、いつものように稲垣潤一と、僕らスタッフが次のアルバムの中に収める候補曲をたくさん集め、選んだ曲の1曲に、秋元さんに歌詞をつけてもらおうということになったんですね。それで、レコーディングスタジオで、秋元さんから歌詞が送られてくるのを待っていたら、秋元さんからFAXで一枚の歌詞が送られてきたんです。ところが、そのFAXに書かれた歌詞と、楽曲を合わせてみると、言葉の文字数がうまくかみ合わないんです。これはおかしいぞ、ということで、秋元さんに連絡すると、実は大変な事が分かりました」。「「ドラマティック・レイン」の時と違って、この頃すでに、秋元さんは、おニャん子クラブなどを手掛けて、売れっ子の放送作家兼作詞家になっていました。そんな秋元さんは、どうやら他のアーティストに送らないといけない歌詞を、間違えて僕らが待っているスタジオに送ったみたいなんです。「どうしよう?」と思ったんですが、送られてきたFAXに書かれていた歌詞をよく見てみると、歌詞のテーマや内容が良くできていたんですね。それで、この間違って送られてきた歌詞を、稲垣潤一が貰うことにしました。歌詞を貰った後、メロディに合うように、少し歌詞を直してもらい、曲が完成。完成した曲を聴いている内に、この曲はシングルで行けるぞ!という話になり、アルバムからの先行シングルとして発売することに決めました」。
1986年2月、稲垣潤一の10枚目のシングル「1ダースの言い訳」は発売されます。
1986年2月に発売された、稲垣潤一の10枚目のシングル「1ダースの言い訳」は、三洋電機「SANYO CDミニコン」のCMソングにも起用され、セールスチャート最高位20位、約7万6千枚の売上を記録します。「この曲は、不思議と大勢の人から支持を受けて、“稲垣潤一”=“1ダースの言い訳”、と言うように、彼にとっては、代名詞となっている曲です。歌詞、曲、アレンジ。そして、稲垣潤一の歌声。すべてのバランスが、巧くかみ合ったからこそ、ずっと歌い続けられているんだと思います」。
J-POPの名曲が1枚の間違いFAXがキッカケで、生まれたのでした。
今日OAした曲目
M1.WE‘RE ALL ALONE/ボズ・スキャッグス
M2.雨のリグレット/稲垣潤一
M3.ドラマティック・レイン/稲垣潤一
M4.1ダースの言い訳/稲垣潤一
第54回目の今日お届けしたのは、「遊佐未森/地図をください」でした。
1964年2月、宮城県仙台市に生まれた遊佐未森(ゆさ・みもり)。小さい頃から、日本歌曲や童謡などに親しんでいた彼女は、東京の国立音楽大学に進学後、本格的に音楽活動を始めます。
「彼女のことを初めて知ったのは、1986年だったと思います。当時、エピックソニーで働いていたスタッフが、「このデモテープを聴いて、感想聞かせてもらえませんか?」って、1本のカセットテープを持ってきました。カセットテープを聞いた時は、女性が歌う、和風プログレッシブロックか?という印象しかなく、頭の中にハッキリとした記憶では残っていませんでした。後から振り返ってみると、そのデモテープの歌声が彼女だったんです」。デビュー当初から、遊佐未森の制作担当ディレクターを務めていた福岡さんは、こう振り返ります。
文語調で書かれた歌詞、そしてプログレッシブロックのようなサウンド。デモテープを聴き、イギリスの女性アーティスト、ケイト・ブッシュを想像していた福岡さんは、初めてデモテープを聴いてから半年が経った1987年、マネージメント会社の社長から、遊佐未森を紹介され、デビューについての相談を受けます。
「実際、遊佐未森本人も、ケイト・ブッシュが大好きでよく聞いていたそうです。大好きな音楽と、自分が歌う音楽。カラーは似てくるんでしょうね」。その後、デビューに向けたコンセプト作りが議論されますが、福岡さんは「遊佐未森は、一から積み上げて、遊佐未森独自のカラーを作ろう。僕たちが考えたコンセプトではなく、彼女の特性を活かしたカラーを作ればいい」と、マネージメント会社が作った、遊佐未森のセールスコンセプトを、一度白紙に戻します。
「僕の心の中で、最初のデモテープの中の音楽が引っ掛かっていたんです。彼女の特性を活かすには、デモテープのようなスタイルは違う。遊佐未森の、声と歌い方をもっと活かす方法が絶対あるハズだ。と」。
福岡さんを始めスタッフは、遊佐未森の声と歌い方を最大限活かすための曲を求めて、遊佐未森とはこれまで会ったことの無い、作詞家、作曲家に曲作りを依頼することを決めます。そして、1988年4月、遊佐未森はアルバムとシングル、同名タイトルの『瞳水晶』でデビューします。
1988年4月に発売された、遊佐未森のデビューシングル「瞳水晶」。「作詞家は、以前、僕が交流していた工藤順子さんという方にお願いしました。当時、大分県に住んでいた工藤さんの元へ、僕と遊佐が出向き、遊佐未森のアーティストコンセプトを伝えて、作詞をお願いしました。工藤さんはもともと歌手でしたが、他のアーティストに歌詞を提供するのは、遊佐が初めて、不安はありましたが、ちゃんと遊佐の世界観を表現できる歌詞ができました」。
「作詞家が見つかり、次は作曲家だ。という段階で、遊佐未森がデビュー前に作ったデモテープの曲の歌詞を書いていた、外間隆史(そとま・たかふみ)が、「僕は、曲も作るので、良かったら聴いてもらえませんか?」と、作った曲を持ってきたんですね。君、曲作るの?と言うのが、外間に対する印象でした。と言うのも、遊佐未森の最初のデモテープを聞いて、外間が書いた文語調の歌詞を、気に入らなかったので、デビュー曲の作詞は、敢えて別の作詞家に頼んだのに、今度は曲かよ?ていう感じだったんです。ところが、外間が作って持ってきた曲を聞いて、驚きました。工藤さんが書いた歌詞ともピッタリはまったし、何より遊佐に歌って欲しいと思っていた、歌の世界観が描かれているんです。それで、外間が曲を作ることが決まり、改めて外間が、曲を2曲作りました。その1曲が、デビュー曲の「瞳水晶」です」。福岡さんは、当時をこう振り返ります。
デビュー曲、デビューアルバム共にセールスチャートにランクインはしませんでしたが、透明感溢れる遊佐未森の歌声と、聞く人を、優しく包みこむような音楽は、独自の世界観を生み出していきます。「デビュー前は、あまりこだわり過ぎるとマニア受けする音楽になるかな?とも思いましたけど、歌詞、曲、そして遊佐未森の歌声が、独特の夢溢れる、ファンタジーの世界を創りあげていきました。売れなくても、悲観的にはなりませんでしたね。当時のエピックレコードには、2〜3年は売れなくても、とにかくいい作品を作って、アーティストを育てていく、という社風があったので、許されたんでしょうね」。
遊佐未森、そしてスタッフは、セールス結果にとらわれることなく、あくまでも遊佐未森の独自の音楽を展開することに拘り、次のアルバムの制作に取り組みます。そして、1988年9月、2枚目のシングル「窓を開けた時」が発売されます。
遊佐未森は、1988年9月に2枚目のシングル「窓を開けたとき」を、翌10月に2枚目のアルバム『空耳の丘』を発売します。「2枚目のアルバムは、デビューアルバム『瞳水晶』を発売した直後から作り始めていました。とにかく、作曲を担当していた外間が、どんどん曲を作ってきていたので、曲はたくさんありました」。
1988年秋、2枚目のアルバムを発売したばかりの遊佐未森の元に、CM制作会社からアルバムに収録した曲を日清食品「カップヌードル」のCMソングに使いたい、という話が舞い込みます。「この曲をCMソングに使いたい、という話が来た時、僕らスタッフはアルバムの完成度に対して、充実感を感じていました。だから、何でこの曲をCMソングに使いたいの?というのが、最初の印象です」。「もともとこの曲は、外間が初めて作って持ってきた曲です。初めてこの曲を聞いた時、曲の完成度に驚いたし、このまま使えると思いました。でも、シングル向きの曲ではないと思ったので、1枚目のアルバムには収録せずに、2枚目のアルバムに収録しました。だから余計に、この曲をCMソングとして使いたいという話が来た時には、驚きました」。
翌1989年1月、アーノルド・シュワルツェネッガーが出演した日清食品「カップヌードル」のCMソングとして起用されたこの曲。CMの中で、大空をバックに広大な大地を、車を持って歩くアーノルド・シュワルツェネッガーのイメージと、遊佐未森の曲の世界観がピッタリとはまり、曲についての問い合わせが、日清食品に殺到します。「CMの中で、遊佐未森の名前、曲タイトルのクレジットは入ってなく、あの曲を歌っているのは誰だ?という反響が日清食品に殺到したそうです。その後、遊佐未森が歌っている、という話になり、エピックレコードが、急遽、シングルとして発売することにしました」。当初は、アルバムの中の1曲として考えられていた曲が、CMの反響を受けシングル化が決定。遊佐未森3枚目のシングルとして、1989年2月「地図をください」は発売されます。
■1989年2月に発売された、遊佐未森3枚目のシングル「地図をください」。セールスチャート最高位41位ながら、約4ヵ月、15週間に渡ってセールスチャートにランクインし続けます。「彼女にとっては、ラッキーソングでしたね。このタイミングで売れたのは…。でも、歌っている遊佐未森本人はもちろん、スタッフもみんな曲の完成度には自信を持っていたから、どういう形であれ、曲が売れたのは嬉しかった。遊佐未森の、アーティストとしての運命を決めるタイミングだったんでしょうね」。
音楽の世界へ、大きく羽ばたくことを運命づけた曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.嵐が丘/ケイト・ブッシュ
M2.瞳水晶/遊佐未森
M3.窓を開けた時/遊佐未森
M4.地図をください/遊佐未森
第53回目の今日お届けしたのは、「浜田麻里/Return to Myself〜しない、しない、ナツ。」でした。
1962年7月、東京都に生まれた浜田麻里(はまだ・まり)は、物心ついた頃から歌を歌い始め、自分の心の中で、夢や目標という形ではなく、これから先もずっと自分は歌っていくことになるだろう、ということを漠然と感じていました。そして、小学校六年生で、ボーカルスクールのオーディションに合格した浜田麻里は、15歳になるとスタジオミュージシャンとして、「日清サラダ油」などのCMソングを歌うようになります。1981年春、青山学院大学に入学した浜田麻里は、スタジオミュージシャンとして活動する傍らで、オリジナル曲のほか、パット・べネターなどをコピーする女性ロックバンド「MISTY CATS」にボーカルとして参加。「MISTY CATS」はアマチュアバンドコンテスト「EAST-WEST’81」に出場し、浜田麻里はレコード会社からボーカル力を評価されて、ソロアーティストとしてデビューすることが決まります。
1983年4月、浜田麻里は、あの糸井重里がネーミングしたキャッチコピー「麻里ちゃんはヘヴィメタル」を引っ提げて、ヘヴィメタルバンド「ラウドネス」の樋口宗孝(ひぐち・むねたか)がプロデュースしたアルバム『Lunatic Doll』でデビューします。「私がデビューした1983年当時は、松田聖子さん、中森明菜さんといったアイドル歌手全盛の時代でした。だから、私はそれまでの女性歌手に対するイメージの殻を破るような、新しい世界、本物の世界で活動したいと、思ったんです。それで、一体どんなスタイルがいいのか?と考えて、出した結論が、ハードロックサウンドで歌うというスタイルでした。その当時は、まだ日本にほとんど存在していなかった、ロックをベースとしたパワフルなボーカルスタイルに新しさを感じて、私はその方向性を目指しました」。デビュー当時、自らが目指した音楽の方向性について、浜田麻里は、こう振り返ります。
その後、浜田麻里は、1年に2枚のペースでアルバムを発売。合わせて全国ライブハウスツアーを行い、自らが目指した、パワフルな女性ボーカリストとしてのポジションを獲得するために精力的に活動します。「自分のためでもあったけど、若年層をターゲットにした、初期ヘヴィメタルブームの火付け役のひとりとしても、自分はやっていかないといけない。と感じていましたね。当時は、ヘヴィメタルやハードロックに対して、まだ偏見があった時代で、ラジオでもなかなかかけてもらえなかったし、プロモーションに行った場所でも、馬鹿にされることも度々あったし…。当時、まだ20代前半だった私は、ロックシンガーとして日本に新しい道を作る。といつも生意気言ってました」。それまでアルバムしか発売していなかった浜田麻里は、デビュー2年が経過して、初のシングルを発売することを決意します。「デビュー1年目は、シングルを作る必要性を感じていなかったし…。スタッフと話をして、最初はアルバム中心でしっかり浜田麻里の音楽性を打ち出し、その目標をちゃんとクリアしたら、シングルを出そうという話になっていました。1枚目、2枚目のアルバムは、どちらも1万枚も売れなかったのに、1984年に発売した3枚目のアルバム『MISTY LADY』が、約4万枚も売れたんですね。そこで、スタッフと話をして、よし!このタイミングだ!もっと多くの人に、浜田麻里の音楽を聴いてもらうために、ファン層を広げる手段として、シングルを出そう!という話になりました。結果的に、納得できるシングルができるまで、1年近くかかりましたけど…」。浜田麻里初のシングル「Blue Revolution」は、1985年10月にリリースされます。
「Blue Revolution」は、チャート最高位42位を記録。ハードロック、へヴィメタルシンガー、浜田麻里の一般的知名度もぐっと上がっていきます。その後も、コンスタントにアルバムやシングルを発売し続けた浜田麻里は、1987年、次のステップに進むために、あるチャレンジをします。
「6枚のアルバムを作り、ライブも精力的にやっていく中で、少しずつ“浜田麻里”のイメージも良くなりました。アルバムも売れるようになっていたけど、自分の中で”ヘヴィメタルの人”と呼ばれながら、国内で作品を作り続けることに、頭の中が飽和状態になっていたんです。自分を、次のステップに進めたかったんですね。それで環境を変え、アメリカでレコーディングをすることにして、プロデューサーを頼ってアメリカに向かいました」。環境を変えることで、自分をさらにステップアップさせることを決めた浜田麻里は、初めて海外レコーディングに取り組み、アルバムからの、先行シングル「999〜One More Reason〜」を、1987年8月に発売します。翌9月には、浜田麻里初の海外レコーディングアルバム『IN THE PRECIOUS AGE』を発売し、セールスチャート最高位8位を記録します。「結果的に、作品が評価されたことで、私の気持ちは、”ヘヴィメタルの牽引役”という縛りのようなものから、解き放たれ、楽になりました。とっても大きな転機になりましたね。でも、私が目指す音楽の方向性やスピリットは、全然変わりませんでした。むしろ、アメリカのミュージシャンに出会い、一緒に作ったことで、自分の音楽を広い視野でみつめることができるようになりました」。
翌1988年、音楽の幅を広げ、女性ボーカリストとしての大きな自信を掴みかけていた浜田麻里に、もう一歩、成長を成し遂げることができるチャンスが舞い込みます。1988年9月に行われることが決まっていた、ソウルオリンピックNHKイメージソングを、歌うことが決まったのです。1988年9月に発売された、浜田麻里8枚目のシングル「Heart and Soul」。ソウルオリンピックNHKイメージソングとして起用されたこの曲は、シングルとして自己最高のチャート7位を記録します。また、11月に発売されたアルバム『Heart and Soul』も、チャート最高位4位を記録します。「ヒット曲が生まれたのも嬉しく感じましたけど、それよりも、オリンピック中継のイメージソングと言う、大きなテーマソングの話を貰うことができた。頑張ってきたことが、やっとメディアにも浸透して、認めてもらうことができた。そのことが、嬉しかったです」。浜田麻里は、こう振り返ります。
メディアにも認められ、浜田麻里自身が目指した女性ボーカリストとしての地位を確立しつつあった、ちょうどその時。さらなるステップに進むためのチャンスが、再び舞い込みます。「「カネボウ」夏のキャンペーンソングへの曲提供の話をもらい、事前に「カネボウ」サイドから、私が1988年に発売したアルバム『LOVE NEVER TURNS AGAINST』に収録されて、シングルとしても発売された「CALL MY LUCK」のような曲を作って欲しいという具体的な要望がありました。この「CALL MY LUCK」は、私自身も気に入っていたので、喜んでこの要望を受け入れ、長年一緒に仕事をしていたギタリストに曲をお願いしました。」。「歌詞は、曲を作って欲しいという要望があった時、化粧品のキャッチコピー「化粧直し、しない、しない、ナツ。」という言葉を歌詞に盛り込むことが前提だったので、私が作る歌詞のパターンの中に、いかにマッチさせるか、苦心を重ねて、テーマとして考えたのが、「心を染め直さずに自分らしくあること」でした。ここから「Return To Myself」という歌詞、タイトルも生まれました」。
浜田麻里が悩んだ末に生み出したシングル、「Return To Myself〜しない、しない、ナツ。」は1989年4月、リリースされました。
1989年4月に発売された、シングル「Return To Myself〜しない、しない、ナツ。」は、前作の「Heart And Soul」を上回る、チャート最高位1位を獲得します。「単純に嬉しかったし、達成感がありました。シンプルな構成、メロディーだけど、実は転調にもこだわって作っています。単にひとつの時代を背景にしたヒットソング的なイメージで聴かれることも多いのですが、曲作りに参加してくれたプレーヤー達の生き生きとした演奏もプラスに働いて、商業的価値を狙っただけの曲じゃない、自分の中でも違った角度からでも誇りを持てる、自信にあふれた曲です」。浜田麻里が、デビュー当時から目指した、女性ボーカリストとしてのポジションを決定付けることになった、J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.CRAZY NIGHT/ラウドネス
M2.Blue Revolution/浜田麻里
M3.Heart and Soul/浜田麻里
M4.Return to Myself〜しない、しない、ナツ。/浜田麻里
第52回目の今日お届けしたのは、「ブレッド&バター/特別な気持ちで(I Just Called To Say I Love You)」でした。
1943年神奈川県茅ヶ崎市に生まれた兄・岩沢幸矢(いわさわ・さつや)と、1949年生まれの弟・岩沢二弓(いわさわ・ふゆみ)の兄弟は、それぞれ高校時代からバンド活動を始め、兄・幸矢は明治学院大学へ、弟・二弓は独協大学へ、それぞれ進学後も、バンド活動を続けていきます。
その後、大学卒業を控えた兄・幸矢は、「就職探しの旅」と題して、ひとりアメリカに渡ります。当時のアメリカは、“自由に生きよう”という思想が全盛の時代で、兄・幸矢もその影響を受けて、就職して束縛されるよりも、自由に好きな音楽をやりながら生きていこう、と心に決めます。
また、アメリカで観たサイモン&ガーファンクルの音楽に影響を受けた兄・幸矢は、「日本では珍しい、兄弟デュオで、フォーク・ロックをやろう」と決め、アメリカから帰国後、弟・二弓を誘い、二人で兄弟デュオ「ブレッド&バター」を結成、1969年、シングル「傷だらけの軽井沢」でデビューします。「筒美京平、橋本淳という、当時の歌謡界のヒットメーカーコンビのオーディションに合格し、デビューが決まったブレッド&バターの二人。
「デビュー曲「傷だらけの軽井沢」は、筒美京平、橋本淳というヒットメーカーによる作品でしたが、ブレッド&バターの二人がやりたい音楽という形ではなかったと思います。むしろ、翌1970年に、ブレッド&バターの二人が初めて作った曲として発売されたシングル「マリエ」の方が、ブレッド&バターにとってのデビュー曲のような感じがしますね」。ブレッド&バターのレコーディングスタッフとして関わりを持ち始め、今はマネージャーとして二人を支える村岡さんは、こう振り返ります。
1969年のデビュー後、シングルとアルバムを、それぞれ1年に1枚の割合で発売、そしてライブを中心に音楽活動をしていたブレッド&バター。「発売したレコードは、セールスチャートにランクインはしませんでしたが、二人はもちろん、周りのスタッフも、特に悲観的になる訳でもなく、気にはしていませんでした。彼らが納得できた作品を作ることができたら、それでOK。レコード会社としても、それで良かった時代なんです」。当時について、村岡さんはこう振り返ります。
その後も、マイペースな活動をしていたブレッド&バターは、1976年3月にライブアルバム『BREAD&BUTTER』を発売した後、活動を休止することを決めます。
「彼らは、デビュー後、一環して自分達がやりたい音楽活動を全てやりきったと感じて、しばらく音楽だけの生活から離れてみよう、という気持ちになったんです」。
音楽一辺倒の生活を離れたブレッド&バターは、彼らの故郷でもある神奈川県茅ケ崎にカフェ「ブレッド&バター」をオープン。ミュージシャン、モデルの卵、サーファーなど多くの仲間達に囲まれながら、ブレッド&バターは、今まで以上に自分達のペースで音楽活動を続けていきます。
「彼らは、茅ケ崎で、のんびりと音楽活動をやり始めると、かまやつひろし、松任谷由実など数多くのミュージシャンと交流を持ち始めました。しばらくすると、彼らの気持ちの中に、再び音楽シーンに戻る気持ちが湧いてきたので、「じゃあ再デビューだ!」という話になり、せっかくだから話題性のある作品を作ろう、という話になりました」。
1979年6月、ブレッド&バターは、カフェ「ブレッド&バター」の常連客だった松任谷由実が、ペンネーム呉田軽穂名義で、当時のカフェ「ブレッド&バター」の光景をもとに書きおろしたシングル「あの頃のまま」を発売。再び、音楽活動をスタートします。
「シングル「あの頃のまま」は、同時に発売されたアルバム『Late Late Summer』にも収録されているのですが、このアルバム『Late Late Summer』から、ブレッド&バターのイメージは、活動休止前と比べて変わりましたね。活動休止前は、自分達のやりたい音楽をただ単に勝手にやっているロック色の強い兄弟デュオ、というイメージがありましたが、活動再開後に発売した『Late Late Summer』、翌1980年に発売したアルバム『MONDAY MORNING』、そして1981年に発売したアルバム『Pacific』の3作に収録された曲は、どれもが夏や海…といった爽やかさを意識した作りで、ブレッド&バターのイメージが、爽やかな音楽をやるデュオに変わりました。彼らの音楽の方向性が、ハッキリしてきましたね」。
音楽の幅が広がり、夏のイメージが定着し始めたブレッド&バターの二人は、その後もマイペースで活動を続けます。そして1984年、ブレッド&バターは、彼らが心の中で気になっていた、ある曲をカバーすることを決めます。
「ブレッド&バターは、1973年に発売したアルバム『IMAGES』の制作する時に知り合った、ミュージシャンのスティービー・ワンダーと親しくなり、その後もずっと交流を続けていました。そして、1979年にブレッド&バターが、活動を再開するという話になった時に、スティービー・ワンダーが彼らに曲をプレゼントしてくれたんです」。
「スティービー・ワンダーから、曲のデモテープが届き、この曲をブレッド&バターの活動再開第1弾シングルとして発売するつもりでいました。カフェ「ブレッド&バター」の常連客であり、友人の松任谷由実が、ペンネーム呉田軽穂名義で歌詞を、同じく常連客の細野晴臣がアレンジを担当。レコーディング、アレンジ作業も無事に終わり、あとは発売を待つばかり、という段階で、曲を作ってくれたスティービー・ワンダー側から、「この曲を映画の主題歌に提供することになったから、曲を返してくれ」という話が届き、急遽、発売中止になりました。びっくりですよね」。
発売寸前で中止になったブレッド&バターの幻の曲。その後、スティービー・ワンダーが、1984年に公開された映画『ウーマン・イン・レッド』の主題歌として提供した「I Just Called To Say I Love You」(心の愛)は、収録された映画のサウンドトラック盤が全米アルバムチャートで3週連続1位を獲得、第57回アカデミー賞の主題歌賞を獲得します。
「ブレッド&バターの二人にとっては、再びビックリですよ。自分達が歌う予定だった曲が全米1位、しかもアカデミー賞まで獲得するのか?…ですから。でも、スティービー・ワンダー側から、オリジナル曲として発売するのはダメだけど、ブレッド&バターが、スティービー・ワンダーの曲をカバーするという立場で発売するなら、いいよ。という話になり、二人は改めて、レコーディング、発売することにしました」。ブレッド&バターの二人は、複雑な気持ちを覚えながらも、改めてこの曲をレコーディング、1984年12月、シングル「特別な気持ちで(I Just Called To Say I Love You)」として発売します。
1984年12月に発売された、ブレッド&バターのシングル「特別な気持ちで(I Just Called To Say I Love You)」。
「曲を、スティービー・ワンダー側に返した後、この曲をめぐって、スティービー・ワンダーは、当時の彼が歌詞を共作していたパートナーとの間で、著作権の問題で裁判になったんですね。その時、アメリカ大使館を通じてブレッド&バターに、「これは本当にスティービー・ワンダーが作った曲か?」という問い合わせがあり、スティービー・ワンダーがブレッド&バターに送ったデモテープが証拠となって、スティービー・ワンダーは裁判に勝ったんです」。
「裁判に勝ったスティービー・ワンダーは、喜んで、ブレッド&バターのふたりに改めて感謝をし、新しく別の曲をプレゼントしてくれました。そんなスティービー・ワンダーとの関係もあったので、ブレッド&バターの二人にとっては、余計に印象深い曲になったと思います」。村岡さんは、こう語ってくれました。
今日OAした曲目
M1.水曜の朝、午前3時/サイモン&ガーファンクル
M2.マリエ/ブレッド&バター
M3.あの頃のまま/ブレッド&バター
M4.特別な気持ちで(I Just Called To Say I Love You)/ブレッド&バター
第51回目の今日お届けしたのは、「楠瀬誠志郎/僕がどんなに君を好きか、君は知らない」でした。
1960年2月、東京都に生まれた少年・楠瀬誠志郎は、父親であり、声楽家の楠瀬一途(くすのせ・いちず)の影響を受け、幼少時代から聖歌隊に参加するなど、音楽に囲まれた生活を過ごします。「生まれたときから、音楽の道へ進むことが、決まっていたような気がします。父親が、オーケストラの楽しみ方を教えてくれ、いつもオーケストラの指揮者の真似をしていました。その写真も沢山残っています。指揮者が、まったく違う、色々な楽器の音色を束ねてひとつの音に作り上げるのが、素敵だなあ、と思っていました」。音楽との出会いについて、楠瀬さんはこう振り返ります。
高校に入学した楠瀬誠志郎は、東京・新宿のライブハウス「新宿ロフト」で、山下達郎や大滝詠一らが在籍していたシュガーベイブのライブを観たことをキッカケに、ドラマーの村上“ポンタ”秀一に弟子入り。杉真理、EPOのステージにコーラスとして参加するようになった他、来生たかお、松岡直也などのレコーディングにも参加、さらに自らも曲作りを手掛けるようになります。その後、楠瀬誠志郎が手がけたCMソングを偶然耳にした、レコード会社CBSソニーのスタッフからの誘いを受け、楠瀬誠志郎は、プロデビューをすることを決意します。
「僕は、自分がデビューする時、少しだけ非現実的な音作りを目指しました。リアルな音もきれいだけれど、美しい浮遊感を表現しようとしていました。デビュー当時は、高い声の男性シンガーが量産された時代で、槇原敬之(まきはら・のりゆき)、KAN、佐藤竹善(さとう・ちくぜん)らが、社会に受け入れられ始めたタイミングとも重なったんです。日本人は高い声が好きだし、何年かに一度はそんな時代があると思います。また僕は、ハーモニーも好きだったので、他のアーティストと違い、ハーモニーを大切にしました。コーラスの仕事もしていたので、仲間達とも親密になれたと思います」。1986年4月、楠瀬誠志郎は、シングル「宝島」、アルバム『宝島』でデビューします。1986年のデビュー後、一年に1枚のペースでアルバムを作り、ライブ活動をする楠瀬誠志郎は、その傍らで、作曲家としての才能も発揮、数々のアーティストに曲を提供します。「残念ながら自分の曲は、全くセールスチャートには入りませんでしたが、気にはなりませんでした。逆に、他のアーティストに曲を提供することで、自分らしいメロディーや、自分の曲のクセを知ることができました。曲を提供したアーティストが、僕の歌っている仮歌を聞いて、僕の曲のクセを素直に歌ってくれているのを聞いて、そう感じました。勉強になりましたね」。
その後も、数々のCMソングを手掛けるアーティストとして、また作曲家としても活動を続ける楠瀬誠志郎は、1991年TBS系ドラマ『ADブギ』の主題歌として、11枚目のシングル「ほっとけないよ」を発売するのでした。
1991年11月に発売された、11枚目のシングル「ほっとけないよ」は、初めてセールスチャートにランクイン。最高位6位、約61万枚の売上を記録します。「シングル「ほっとけないよ」が、これだけ売れたのは、単純にドラマの主題歌として起用されたことが、一番大きな理由だと思います。でも、それより何より、レコード会社の担当ディレクターはもちろん、僕のためにずっと力になってくれた人達の、「売れて欲しい」という想いがやっと評価されたことが、僕にとっては何よりも嬉しかったですね」。
翌1992年5月、日本石油のCMソングとして起用された12枚目のシングル「君と歩きたい」も、「ほっとけないよ」に続いて、セールスチャートにランクインし、最高位26位を記録します。「セールスチャートに連続して入るようになり、曲が売れるようになっても、僕は自分ができることをやっていたので、特に何も変わらなかったし、自分の音楽の方向性も変えようとは思いませんでした」。
続く1992年7月、楠瀬誠志郎は、スズキ自動車「アルト」のCMソングに起用された、13枚目のシングル「とっておきの季節」を発売します。1992年7月に発売した13枚目のシングル「とっておきの季節」も、セールスチャートにランクイン、最高位21位を記録します。11月に発売された、シングル「星が見えた夜」も、セールスチャート最高位35位と、それまでランクインしなかったのが、まるで嘘のように、4作連続でセールチャートにランクインします。「やっと自分らしい、曲が作れるようになった」と、楠瀬誠志郎本人も感じ始めていた、翌1993年1月、ある出来事が起きます。
「もともとこの曲は、4枚目のアルバムを作ろうと考えていた時に、自分の中で、ある試みを実践するために作った曲です。実は、デビューアルバム『宝島』から、3枚目のアルバム『Asia』(あいしあ)までは、自分の中では、洋楽志向でアルバムを作っていました。そして、3枚目のアルバム『Asia』(あいしあ)を作り終わった時に、4枚目はきちんと「邦楽(=ジャパニーズポップス)」志向で、日本語を重視したアルバムを作りたいと思ったんです」。
「具体的な作り方の違いと言えば、曲の中のどこが、というよりも、まず日本語のタイトルを先につけ、それから、曲を作り始めました。そんな曲作りをすること自体が、僕の中では初めての経験でしたね」。「もともと、同じアルバムに収録した曲「まだ見えない海をさがしている」が、自動車メーカー・ダイハツのCMソングとして、シングル発売を前提に作っていたので、この曲がシングルになる予定は、その後もまったく無かったんです」。
その後も、アルバムタイトル曲としての位置づけしかなかったこの曲が、郷ひろみによってカバーされることになり、1993年1月にスタートしたフジテレビ系ドラマ『正しい結婚』の主題歌にも起用され、約15万枚を売るヒットとなります。「カバーされた経緯は分からないんです。でも、自分の中では、初めて「邦楽」を作ろうという姿勢で作った曲だったので、その曲が、郷さんの力をかりて、認知されたことは、とても嬉しかったですね」。郷ひろみのヒットから半年余りが過ぎた、1993年10月、「曲は、アルバムを作った時と、まったく一緒で、変えていません。リリースも、僕の意見よりも、レコード会社の意見で決まったという感じなんです」と、楠瀬誠志郎本人がこう振り返る、シングル「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」は、発売されます。
1993年10月、楠瀬誠志郎14枚目のシングルとして発売された「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」。セールスチャートは、最高位69位に終わりますが、男女を問わず人気の高いラブソングとして、楠瀬誠志郎の代表曲のひとつとなりました。
今日OAした曲目
M1.宝島/楠瀬誠志郎
M2.ほっとけないよ/楠瀬誠志郎
M3.とっておきの季節(とき)/楠瀬誠志郎
M4.僕がどんなに君を好きか、君は知らない/楠瀬誠志郎
第50回目の今日お届けしたのは、「レベッカ/フレンズ」でした。
1981年秋、女性アマチュアロックバンド「DOLL」のボーカルで、当時高校3年生だったNOKKOは、埼玉県浦和市で行われたアマチュアロックコンサートの会場で、NOKKOの兄の友人で、別のバンド「STRAIGHT」で活躍していた、木暮武彦と出会います。
翌1982年2月、NOKKOは、木暮武彦が新しく作ったバンド「レベッカ」に加入し、3月に埼玉で行われたアマチュア・ロック・コンサートに出演します。そして、その日、レベッカは、レコード会社CBSソニーのスタッフから、プロデビューの誘いを受けるのでした。
1983年7月、東京都内のライブハウス「エッグマン」や「ラ・ママ」を中心に活動したレベッカに、ドラマー小沼達也が加入。さらに、8月、CBSソニーが立ちあげた新しいレーベル「FITZBEAT」のオーディションにレベッカは合格。プロデビューが決まったレベッカに、今度は、キーボードプレーヤーとして土橋安騎夫が加わります。
「僕は、レベッカと同じオーディションに、別のバンドのメンバーとして参加していました。オーディションには落ちましたが、レベッカを、ギター、ドラムを中心としたロックバンドではなく、キーボードを加えた新しいスタイルのバンドにしたい、と言うレコード会社の考えで、僕にレベッカに加わって欲しい、という話がきたんです。
ただ、新しいスタイルのバンドと言われても、メンバーみんな、どんな音楽がレベッカにとって良いのか?は全く分かりませんでした。レコーディングの合間に、ただひたすらライブをやり続け、観客の反応をうかがい、自分達のスタイルを探し続けました」。
1984年4月、自分達の音楽を探し続けるレベッカは、デビューシングル「ウエラム・ボートクラブ」を、翌5月に、デビューアルバム『VOICE PRINT』を発売します。
「デビューしても、僕らは、レコードのセールス結果よりも、ライブにどれだけのお客さんが来るのか? ライブに来た人が、レベッカの音楽を聞いてどう反応するのか?そっちが気になっていました」。レベッカは、デビューアルバム発売後4ヵ月で全国のライブハウスを40ヵ所回るツアーを行い、あわせて夏の野外音楽イベントへの出演もこなしながら、その合間をぬって、セカンドアルバム制作に取り組み、11月に2枚目のシングル「ヴァージニティー」と、アルバム『NOTHING TO LOSE』を発売するのでした。
ライブの集客も、順調に伸び始め、周囲からは順風満帆に見えていたレベッカでしたが、1985年1月、バンド結成以来、最大の危機が訪れます。レベッカ結成から、バンドのリーダーで、実質的なソングライターであった、ギターの木暮武彦と、ドラマーの小沼達也のふたりが、相次いでバンドからの脱退するのでした。
「木暮、小沼、ふたりのレベッカからの脱退は、今、改めて当時を振り返り、考えてみると、仕方のない事だったのではないかと思います。レベッカにとっては、大きな打撃でしたが、バンドのメンバーの中で、音楽の方向性が違っていたんです。音楽を一生懸命にやろう!という目的は同じでしたが、音楽に対する考え方が違っていました。メンバー、事務所、レコード会社、それぞれが別のベクトルを向いていた時期でしたから」。当時について、土橋さんはこう振り返ります。
その後レベッカは、ギターに古賀森男、ドラマーに小田原豊を迎え、最出発を図ります。「結成当時からのメンバーが脱退して大変だったけど、残ったメンバー、そしてスタッフ、逆にモチベーションは高まりました。もう、がむしゃらにやるしかない!やるぞ!って」。バンド解散の危機を、逆に、チャンスと捉えた新生レベッカの熱い思いは、ファンにも伝わっていきます。
約一年前、デビュー直後に行ったライブでは、たった4人の前でライブを行ったこともあるレベッカでしたが、熱い想いを胸に行った、1985年4月、東京・渋谷のライブハウス「渋谷ライブイン」での、新生レベッカとしての初ライブでは、約500人を集客するまでに成長。そして同じ4月、レベッカは、新生レベッカとして初のシングル「ラブ・イズ・Cash」を発売するのでした。
アルバム『WILD&HONEY』からの先行シングルとして発売された「ラブ・イズ・Cash」は、レベッカとしては初めてシングルセールスチャートにランクインし、チャート最高位54位を記録します。また5月に発売した3枚目のアルバム『WILD&HONEY』も、初めてアルバムチャートにランクインし、最高位8位を記録、その後も半年以上もセールスチャートにランクインし続けるロングヒットとなります。
「多分この頃からだったと思います。それまでのライブは、毎回、ただがむしゃらにやるだけだったのに、集客も増え、お客さんの反応も良く、自分達でも手ごたえを感じるようになってきました。と同時に、いい曲を作らなきゃと、いうプレッシャーも感じるようになってきましたけど…」。土橋さんはこう振り返ります。
その後、東京、名古屋、大阪でのライブハウスツアーを終えたレベッカは、秋に発売予定していた4枚目のアルバムの制作に入ります。
「曲は、ライブハウスツアーが終わると同時に作り始めました。曲作りは、NOKKOが書いた歌詞に合わせて、僕が曲を作るパターン。その逆で、僕が作った曲にNOKKOが歌詞を書いていくパターン。そのどちらかが、それまでの曲作りのパターンでした。でも、この曲の場合は違っていました。僕が曲を作った時、NOKKOも同時に歌詞を完成させていたんです。そして、お互いが作った歌詞と、曲を合わせたら、不思議とピタリとハマりました」。
「もともとは、シングル用の曲を作ろう、という目的で作っていたのではなく、アルバムに収録する曲を作っている中から生まれた曲です。色々なタイプの曲を作っている中で、この曲は、素直にシンプルな8ビートで作りました。結果的にそれが良かったんでしょうね」。
5月に発売した3枚目のアルバム『WILD&HONEY』が好調なセールスを続け、それに伴って1枚目のアルバム『VOICE PRINT』と2枚目のアルバム『NOTHING TO LOSE』、合わせて3枚のアルバムが、セールスチャートに同時にランクイン。音楽関係者の間で、“レベッカ現象”と呼ばれるブームが訪れている真っ只中の、1985年10月、レベッカ4枚目のシングル「フレンズ」は発売されました。
1985年10月、レベッカ4枚目のシングルとして発売された、「フレンズ」。同じ10月にスタートした、日本テレビ系ドラマ『ハーフポテトな俺たち』のエンディングテーマ曲として起用されたこの曲は、セールスチャート最高位3位、約30万枚の売上を記録します。
「シングル「フレンズ」のヒットをキッカケに、11月に発売されたアルバム『レベッカⅣ』は、約54万枚も売るヒットとなり、世間からは、「フレンズ」がレベッカの人気に火をつけたとよく言われます。しかし、メンバーの考えは違ってました。レベッカ結成から、3枚目のアルバムまで、全て前のアルバムを作った時の反省を活かして、次のアルバムを作ってきた。その繰り返しなんです。そして、メンバー脱退によるバンド解散の危機、がむしゃらにやり続けてきたライブ、その全てがあったから「フレンズ」が生まれた、と僕らは思っています」。
幾度となく、バンドに訪れた苦難を乗り越え生まれたその唄が、80年代J-POPの代表曲となったのでした。
今日OAした曲目
M1. ウエラム・ボートクラブ/レベッカ
M2. ヴァージニティー/レベッカ
M3. ラブ・イズ・Cash/レベッカ
M4.フレンズ/レベッカ
第49回目の今日お届けしたのは、「大江千里/十人十色」でした。
1960年9月、大阪府に生まれた少年・大江千里(おおえせんり)は、3歳の時、親のすすめで習い始めたクラシックピアノで、運命的な出会いをします。「デビュー間もない頃、大江千里から直接聞いた話なんですが、彼が習ったピアノの先生は変わった人だったんだそうです。普通は、譜面に沿ってピアノを弾き、教えていくんですが、その先生は、譜面に沿って弾くのではなく、即興に近い形で、その時感じたことをイメージで弾き、大江千里にピアノを弾く魅力を教えていたんだそうです」。デビュー直後から、大江千里のマネージャーを務めていた、松井さんはこう振り返ります。
幼い頃からピアノの魅力に取りつかれた大江千里は、小学校に入ると、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」を聞き、さらに音楽の魅力に取りつかれていきます。1980年4月、関西学院大学に入学した大江千里は、軽音楽部に入部、友人たちとバンド「トニオ・クレイガー」を結成、自らが作詞・作曲したオリジナルソングを歌うようになります。翌1981年、CBSソニーオーディションの最優秀アーティスト賞を受賞した大江千里に、プロデビューの話が舞い込みます。「デビュー前の大江千里のライブを観たことがありますが、もうアーティストとして完成されていたのが印象的でした。演奏する曲は、大江千里自身が手掛けたオリジナルばかり。曲は、当時からポップ感溢れる感じで、曲からオシャレな雰囲気も十分感じることができました。そして何より驚いたのが、アマチュアなのに、ライブの合間に、衣装を着替えるんです。しかも1回のライブで、1度じゃなく、3度も着替えるんです。プロ顔負けの、ステージパフォーマンスでしたね」。松井さんは、こう振り返ります。
1983年5月、関西学院大学4年生となった大江千里は、あの林真理子がネーミングしたキャッチコピー「私の王子様、スーパースターがコトン」を引っ提げて、シングル「ワラビーぬぎすてて」、アルバム『WAKU WAKU』でデビューします。
1983年5月に、シングル「ワラビーぬぎすてて」でデビューした大江千里。「デビュー直後、所属事務所、レコード会社が、大江千里を売るためのプロモーションとして考えたのは、大江千里が作るポップなサウンドを、どう活かしていくのか?どれだけ多くの人達に聞いてもらうかでした。スタッフみんなで考え出した結論は、大江千里のオシャレな雰囲気、甘いルックスを、アイドルの売り方ではないんですが、女性を中心に大江千里の良さを広めていこう!という作戦でした。音楽雑誌が、まだ発売されていない頃だったので、当時、20代前後の男性をターゲットに、ファッションや恋愛を取り上げていた人気雑誌『ポパイ』や『ホットドッグ・プレス』などのインタビューに頻繁に出ていました」。当時について、松井さんはこう振り返ります。
その後大江千里は、1983年8月に、2枚目のシングル「ガールフレンド」を、12月に3枚目のシングル「ふたつの宿題」を発売しますが、どちらのシングルも、セールスチャートにランクインはしませんでした。しかし、大江千里、周りのスタッフは悲観的にはならなかったと言います。「確かに、売れるのが一番良かったのですが、当時、彼が所属していたエピックレコードは、周りから“ライブのエピック”とも呼ばれていました。所属しているアーティストは、レコードが売れることよりも、ライブの動員をいかに増やしていくか?それが優先問題で、大江千里の場合も同じでした。東京なら「新宿ルイード」、関西は神戸「チキンジョージ」でライブをやりました。月に1回の割合で行われるライブは、とにかく大江千里を知ってもらうために、本人もスタッフも必死でした」。
1984年1月、ライブハウスを回る地道な活動を積み重ねてきた大江千里は、デビューから8ヵ月余りで、初のホールライブを、東京・日本青年館と、大阪厚生年金会館で行い、両日ともソールドアウトします。また大学卒業した3月には、4枚目のシングル「BOYS&GIRLS」と、2枚目のアルバム『Pleasure』を発売。合わせて、全国4ヵ所で初のライブツアーを行います。そして7月、新たなアレンジャーを迎えた5枚目のシングル「ロマンス」を
リリースするのでした。「全国4ヵ所で行われたツアーもソールドアウトし、ライブで動員する自信もついてきたので、次はヒット曲が欲しいね…という雰囲気が、大江千里はもちろん、周りのスタッフの間でも、この頃には出てきていました。“ヒット曲が出れば、大江千里の人気は、きっと火がつく。”そんな時に、大江千里が顔見知りだったことがきっかけで、同時期にエピックレコードからデビューしたTMネットワークの小室哲哉にアレンジをお願いすることになったんです」。1984年7月に発売、小室哲哉がアレンジを担当した5枚目のシングル「ロマンス」は、セールスチャートにランクインしなかったものの、大江千里は、小室哲哉から、曲作りに関しての大きな刺激を受けたと言います。そして、同じ頃、大江千里の元に、TVCMソングへの曲提供の話が届きます。
「普通アーティストは、曲を先に作り、完成した曲に歌詞を付ける場合と、その逆のパターンで、歌詞を先に作り、完成した歌詞に曲を付けるパターンのどちらかが多いのですが、大江千里の場合は違っていました。自分で作詞・作曲をする彼の場合、歌詞が頭の中に浮かんだら同時にメロディも浮かんでいると言っていました。逆にメロディが先に浮かんだら、その時歌詞も浮かぶ。3歳から習い始めた、クラシックピアノの先生が、浮かんだメロディを即興で弾いて、大江千里に教えていたことが、大江千里の曲作りに大きな影響を与えていたんですね」。「この曲も、大江千里の頭の中で浮かんだ曲のストックの中から、彼が選んで作ったんです。曲が完成した時、彼は、この曲を聞いた女の子が、どう感じるか?それを確かめるために、友人だったミュージシャンEPOにまず聞いてもらったそうです。曲を聞いたEPOは、「大丈夫。これなら女の子は、きっと胸キュン!だよ」と話したそうです」。友人のミュージシャンEPOの言葉で、曲の完成度に対して自信を持った大江千里。大江千里は、ルックスの良さも買われ、曲提供のみならず、大江千里本人も、CMに出演することが決まります。「実は、曲のアレンジは、TVCMバージョンと、シングルとして発売されたバージョンは違います。TVCMバージョンだけは、曲の締切の問題で、シングル「ロマンス」でアレンジを手掛けた小室哲哉が担当しているんです。その後、改めてレコーディングされて、発売となりました」。1984年11月、味覚糖キャンディー「DATE KISS」のTVCMソングとして起用された、大江千里6枚目のシングル「十人十色」は発売されます。
「曲の発売前に、本人も出演しているTVCMが流れていた影響もありますが、シングルを発売した翌月に発売した、ビデオクリップ集『CONCISE LOVE』の影響も大きいですね。当時エピックレコードは、全国300ヵ所のレコード店でビデオコンサートを行っていまして、TVCM、ビデオコンサート二つの相乗効果で、やっと、大江千里本人の顔と、歌声が一致したんだと思います。レコードの売上も伸び始め、スタッフみんな、やっと売れるぞ!って思いました」。
シングル「十人十色」は、大江千里にとって、初めてセールスチャートにランクイン、最高位58位ながら、約4ヵ月近くチャートに渡って、チャートにランクインし続けます。女性のみならず、多くの人々の胸をときめかせた、J-POPのヒット曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アローン・アゲイン/ギルバート・オサリバン
M2.ワラビーぬぎすてて/大江千里
M3.ロマンス/大江千里
M4.十人十色/大江千里
第48回目の今日お届けしたのは、「パーソンズ/DEAR FRIENDS」でした。
1983年秋、クリーム、エアロスミスなどのロックバンドに憧れ、それぞれ別のバンドで活動していた、ボーカルのJILLと、ギターの本田毅は、一緒に新しいバンド「NOTHING PERSONAL」を結成します。その後、本田毅の友人からの紹介でベースの渡邉貢が、オーディションでドラマ—の藤田勉が加わった「NOTHING PERSONAL」は、バンド名を「パーソンズ」と変えて、新たに活動をスタートさせます。
「パーソンズを結成した当初は、どうやったらパーソンズの音楽を知ってもらえるのか、とにかく試行錯誤の連続、毎日が必死でした。当時、新宿にあったライブハウス「新宿ロフト」で月に1回ライブを行っていたのですが、ライブが無い日は、時間も沢山あったから、バンドのメンバーが集まってミーティングと練習を繰り返し続けて、曲を沢山作りました。作った曲は、お客さんの反応が一番大事だと思っていましたから、完成したらライブで演奏して、お客さんの反応が悪ければ、その曲はボツ。また次の曲を作ろう…という感じで、パーソンズの音楽を探し続けていました」。パーソンズのベーシスト、渡邉貢さんは、当時をこう振り返ります。
1986年7月、インディーズレーベルから初のアルバム『Romantic Revolution』を発売したパーソンズは、翌1987年3月には、2枚目のインディーズアルバム『POWER-PASSION』を発売します。パーソンズの名前は、次第に全国のロックファンに知られることになり、アルバム『POWER-PASSION』は、インディーズの全国アルバムチャートで第1位を獲得します。そして、その評判を耳にしたレコード会社から、メジャーデビューの話が舞い込むことになるのでした。
1987年9月、アルバム『PERSONZ』でメジャーデビューを果たしたパーソンズは、10月から12月にかけて、全国の12ヵ所のライブハウスを回るツアーを行います。翌1988年2月には、ミニアルバム、「RomanEsque-HeartAche」を発売。「RomanEsque-HeartAche」は、パーソンズにとって初めてセールスチャートにランクインし、チャート最高位80位を記録します。
「メジャーデビューをしたと言っても、インディーズ時代と比べて特に変わったことはありませんでした。むしろ、インディーズで初めてアルバムを発売した時の方が、嬉しかったぐらいです。メジャーデビュー後、すぐにはセールス結果は出なかったけど、周りのスタッフが、ライブの動員は着実に増えているから大丈夫だ。と言ってくれていたので、自分達はセールスの結果よりも、ライブに来てくれた人達に、どうやったら、パーソンズの曲をもっと聞いてもらえるのか?そればかりを考えて、日々過ごしていました」。パーソンズのメンバー渡邉貢は、こう振り返ります。パーソンズは、1988年3月、BUCK-TICKやZIGGYなどと一緒に東北地方のホールを回るツアーを行った後、今度は単独で全国のライブハウスを回るツアーを行います。そして4月には、渋谷公会堂で単独でライブを行い、見事、ソールドアウトさせます。
「この時期も、ひたすらライブの繰り返しでした。ライブのない日には、東京に戻って、スタジオでレコーディング。アルバムやシングルも、ライブの合間に作るのが当たり前になっていました。でもそんな慌ただしい生活も、ライブに来てくれるお客さんの反応が良く、自分達にとっては充実していたので大変とは思いませんでした」。1988年7月、パーソンズは、全国各地で行われたロックイベントに出演しながら、2枚目のアルバム『MODERN BOOGIE』、シングル「BE HAPPY」を発売します。
1988年7月に発売されたシングル「BE HAPPY」は、セールスチャートにランクインしなかったものの、アルバム『MODERN BOOGIE』は、セールスチャート最高位26位を記録します。9月に、シングル「CAN’T STOP THE LOVE」を発売したと同時に、再び全国ライブハウスツアーに出たパーソンズの元に、今度は、TVドラマ主題歌への曲提供の話が舞い込みます。
「もともとこの曲は、インディーズ時代に作っていた曲で、昔からライブでは必ず歌っていて、ファンの間では知られた存在の曲でした。それまでも、ライブで実際にこの曲を耳にした、映画関係者やTV局の人達が、何度もこの曲をテーマ曲として使わないか?というタイアップの話を持ってきていましたが、ずっと断り続けていたんです。バンドのメンバーもですが、スタッフも、まだこの曲を出すタイミングじゃない!と。でも、この時は、そろそろリリースするタイミングかな?という話になりました。周りの状況が、変わってきていたんですね」。
「曲自体は、1986年にインディーズから発売した、アルバム「Romantic Revolution」を作る時に一緒に作っていたものです。当時は、月1回、新宿ロフトでライブを行っていたんですが、ある時、ボーカルのJILLが怪我をして入院することになり、しばらくの間、ライブが全くできなくなったんです。それで、曲を作る時間が沢山できて、その時に作りました。まず最初にメロディが頭の中に浮かんで、自分で口ずさんでいたら曲の最後まで自然にできたんです。自分で簡単なデモテープを作り、みんなに聞かせて、一緒に音を出して合わせていたら、もうほとんど今の曲の形になりました。曲ができた当初は、これほど存在感のある曲になるとは思わなかったけど、自分達のバンドにとって核になる曲だな、とは思っていました」。「インディーズ時代に曲が完成し、その後もパーソンズのライブでは欠かせない曲だったのに、何故かアルバムに収録したり、シングルとして発売はしてませんでした。それは、僕らにとっては大事な曲で、スタッフも僕らの気持ちを分かっていたから、あえてレコーディングする必要性を口に出さなかったんだと思います。」バンド結成当時から、ファンの声を大切にし、自分達の音楽を探し続けてきたパーソンズが、インディーズ時代から長年歌い続け、ファンにとっても欠かせない曲となっていたこの曲「DEAR FRIENDS」は、1989年2月、パーソンズ4枚目のシングルとして、まさに満を持して発売されます。「ドラマは、シングル発売から5ヵ月後の1989年7月にスタートしました。当時は、ドラマのスタートに合わせて曲を発売する今の時代とは違い、曲が先に発売されて、しばらくしてドラマが始まるのも当たり前でした。でも、結果的には、ずれて発売されたことで、長い期間売れて、パーソンズの知名度は確実にあがりました」。
1989年2月にリリースされた、パーソンズ4枚目のシングル「DEAR FRIENS」は、7月にスタートしたTBS系ドラマ「ママハハブギ」の主題歌として起用され、チャート最高位13位、約14万枚の売上を記録。一度はセールスチャート圏外に落ちますが、ドラマが始まると同時に再びチャートにランクイン。最終的には、1989年11月までチャートにランクインする、ロングヒットとなったのでした。
今日OAした曲目
M1. サンシャイン・ラヴ/クリーム
M2. RomanEsque-HeartAche/パーソンズ
M3.BE HAPPY/パーソンズ
M4.DEAR FRIENDS/パーソンズ
第47回目の今日お届けしたのは、「爆風スランプ/大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い」でした。
1981年8月、ヤマハが主催した音楽コンテスト「イーストウエスト’81」に出場し、グランプリを獲得したアマチュアバンド「爆風銃」(ばっぷがん)のドラマー、ファンキー末吉は、同じコンテストに出場していたバンド、「スーパースランプ」のボーカルのサンプラザ中野と、ギターのパッパラー河合に、「一緒にバンドを組まないか?」と声をかけます。翌1982年4月、ファンキー末吉と同じバンド「爆風銃」のメンバーで、ベースの江川ほーじんも誘い、新しいバンド「爆風スランプ」が結成されました。
1982年11月、爆風スランプは東京新宿のACB(あしべ)会館での初ライブを皮切りに、日本全国のライブハウスを回り、デビューのチャンスをうかがいます。「四人のお金を合わせて、中古のバスを買い、楽器や布団などをバスに積んで全国を回っていました。とにかく、がむしゃらにライブばかりやっていた記憶があります。デビューしたいなー、僕らは絶対に売れるのになー、と思っていました」。当時の思い出について、サンプラザ中野あらため、サンプラザ中野くんはこう振り返ります。全国のライブハウスでの評判を耳にした、レコード会社CBSソニーからデビューんp誘いを受けた爆風スランプは、1984年8月、シングル「週刊東京少女A」、1stアルバム『よい』でついにメジャーデビューします。続く12月には、シチズン「リビエール」のTVCMソングに起用された2枚目のシングル「うわさに、なりたい」をリリース。セールスチャート最高位63位にランクインし、約4万枚を売り上げます。
「デビュー間もないこの頃は、ロック界の大道芸人的な感じでした。ロック、ファンク、ポップ、パンク…。とにかく爆風スランプとして表現できることは、全て表現していました。例え、それがお笑いと混同されても全然構いませんでした」。攻撃的で、勢い溢れる爆風スランプの曲は、話題を呼び、1985年2月に全国10ヶ所を回るライブハウスツアーも、軒並みソールドアウト。さらに、5月にリリースした、12インチシングル「無理だ!決定盤」が、爆風スランプの存在感を決定的なものにします。1985年5月にリリースした、12インチシングル「無理だ!決定盤」。爆風スランプは、この曲のリリースに合わせ、相次いでTVの音楽番組に出演。フジテレビ系の音楽番組『夜のヒットスタジオ』では、ドラゴン花火を口にくわえながらスタジオで暴れながら歌い、さらにTBS系の音楽チャート番組『ザ・ベストテン』では逆さ吊りになって歌う、といったハチャメチャぶりを発揮します。話題となった12インチシングル「無理だ!決定盤」は、約4万8000枚の売上を記録、チャート最高位34位を記録します。また爆風スランプは、その年1985年12月13日には、デビュー1年足らずにして、初の日本武道館ライブを行います。
その後も爆風スランプは、1年に1枚のペースでアルバムのリリースし、春と秋には全国ライブツアーを行います。ライブの規模も、ライブハウスからホールへと、着実にステップアップし、動員を増やし続ける爆風スランプ。「バンドのメンバーみんな、デビュー前から、ライブをやることが楽しくて日本全国をずっと回ってきたので、プロになっても、ライブで爆風スランプの魅力を伝えることに必死でした。ライブハウスからホールへ、少しずつ動員が増えることに喜びを感じていたし。それから、デビュー翌年の1985年4月から、1987年10月までの2年半に渡り、「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めさせてもらい、番組の中でも色々と爆風スランプの宣伝をやらせてもらったのも、認知度を広める大きなキッカケでした」。サンプラザ中野くん本人は、当時についてこう振り返ります。1987年10月、爆風スランプは、デビュー初期のサザンオールスターズのアレンジなどを手掛けていた、新田一郎をプロデュサーに迎え、アルバム『Jungle』をリリースします。「新田一郎さんをプロデューサーに迎えて、それまでは余り積極的ではなかったホーンセクションを取り入れたことで、アルバム全体に音の厚みが増しし、ロックアルバムという感じが出てきました」。アルバム『Jungle』は、デビュー当初、ロック界の大道芸人とも呼ばれていたバンドを、本格的なロックバンドとして変わっていくきっかけを作ります。そして、翌1988年10月、爆風スランプは、バンドの人気を一気に押し上げることになる、9枚目のシングル「Runner」をリリースします。1988年10月にリリースされた、爆風スランプ9枚目のシングル「Runner」。日立のビデオ機器「マスタックス」のTVCMソングに起用されると同時に、日本テレビ系バラエティ番組『天才!たけしの元気が出るテレビ』の挿入歌にも使われたこの曲は、それまでの爆風スランプの売上記録を大きく塗り替える、チャート最高位6位、約34万枚の売上を記録します。
「バンドのメンバーや、周りのスタッフの中ではポテンシャルの高い曲が沢山あるので、ヒット曲さえあればバンドの人気に一気に火がつくと考えていました。だから、この「Runner」のヒットは、バンドにとってはひとつの転機でした」。シングル「Runner」のヒットで、バンドの人気に火がついた爆風スランプは、11月にアルバム『ハイランダー』をリリース、セールスチャート初登場2位を記録します。また大晦日には、『第39回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、この「Runner」を歌います。しかし、翌1989年1月に行われた、2度目の日本武道館でのライブを最後に、オリジナルメンバーのひとり、ベースの江川ほーじんが、音楽の方向性の違いを理由に、バンドを脱退します。
1989年4月、爆風スランプは、「コスモ石油」のTVCMソングに起用されたシングル「月光」をリリース。直後の5月には、脱退した江川ほーじんの代わりに、メンバーの友人だったバーベQ和佐田がバンドに加入します。7月には、再び「コスモ石油」のTVCMソングに起用されたシングル「リゾ・ラバ」をリリース、チャート最高位4位を記録し、爆風スランプは人気ロックバンドとして、誰もが知る存在になっていきます。そんな中、爆風スランプは、次のシングルとして、バラードをリリースすることを決めます。
「この曲は、デビュー翌年1985年12月13日金曜日に行った、初めての日本武道館ライブを盛り上げるために作りました。曲のタイトルにある、“大きな玉ねぎ”は、日本武道館のてっぺんにある、ネギの花の形をした擬宝珠(ぎぼし)のことです。今ではたまにあることですが、当時はデビュー1年目のロックバンドが日本武道館でライブを行うなんて、異例で、バンドのメンバーはもちろん、周りのスタッフも満員にはならないだろうと考えていました。でもライブに来てくれるお客さんの気持ちを考えたら、満員ではないライブはイマイチ盛り上がりに欠ける。そこで、空いている席をドラマにした曲を作ってみよう、と考えて曲を作りました。チケットを送ったけど、結局送った彼女は来てくれなかった…というストーリーで」。
「もともとは1985年11月に発売したアルバム『しあわせ』の中の1曲だったんですが、「Runner」「月光」「リゾ・ラバ」と、軽快なリズムのシングルが立て続けにヒットした時、次はバラードでいこう!、ということになったんですね。最初は驚かれるかもしれないけど、これがヒットすれば、もっとバンドとして成長できるんじゃないかと思った訳です。そこで、この「大きな玉ねぎの下で」を再びリメイクして、シングルとして出すことを決めました」。「曲のアレンジに、オーケストラの演奏を加え、キーを下げたことで、曲全体のスケール感が大きくなりました。周りのスタッフからも、改めてアレンジされた曲を聞くと、より歌詞の内容が引き立ち、雰囲気が良くなったと言われ、嬉しくなりました」。1989年10月、爆風スランプ12枚目のシングル「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い~」は、リリースされます。
「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」。セールスチャート最高位8位を記録、約17万枚の売上を記録。今でも爆風スランプの代表曲として、数多くの音楽ファンから愛されています。
地道なライブ活動を積み重ね、成長してきたバンドが生み出したJ-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.週刊東京「少女A」/爆風スランプ
M2.無理だ!決定盤(YOU CAN NOT DO THAT)/爆風スランプ
M3.Runner/爆風スランプ
M4.大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い/爆風スランプ
第46回目の今日お届けしたのは、「スガシカオ/愛について」でした。
1966年7月、東京に生まれた少年・スガシカオ。中学生まで、音楽には無縁の生活を送っていたスガシカオは、高校入学後に、“女の子にモテたい”その一心で軽音楽部に入部、バンド活動を始めます。また同じ頃、ラジオから流れてきた、スライ&ザ・ファミリー・ストーンやボビー・ウーマックなどに興味を惹かれたスガシカオは、ソウルミュージック、ファンクミュージックなどのブラックミュージックをむさぼるように聞き始めます。1987年、大学に入学したスガシシカオは、幾つものバンドを渡り歩き、ギター、ベース、キーボードなど、多彩なパートを経験します。そして、当時所属していたサークルの忘年会で、後輩に「シカオさん、歌うまいですね」と言われたことで、ボーカルに目覚めたスガシカオは、幾つかのバンドでボーカルを担当するようになります。しかし、大学卒業後は、ミュージシャンの道を諦め、デザイン・イベント系の制作会社に就職します。
スガシカオが就職して4年半が過ぎた、1995年10月。ミュージシャンになる夢を捨てきれずにいたスガシカオは、あてもないままに会社を退職し、もう一度プロのミュージシャンを目指しはじめます。スガシカオは、自宅近くの空き家を改造したスタジオで、デモテープを作り、レコード会社に送り続け、1996年初旬、Tower Recordsのインディーズレーベルより自主制作アルバムをリリースします。売上枚数、全国でわずか140枚という自主制作アルバムをリリースした後、スガシカオは、セルフアレンジ・セルフプロュースに制作スタイルを変え、デビューのためのオーディションを受けたり、音楽事務所にデモテープを送り続けます。そのうちの1本が、杏子、山崎まさよしが在籍していた音楽事務所「オーフィスオーガスタ」の社長の耳にとまり、スガシカオ念願のプロミュージシャンとしての、デビューが決まります。
1997年2月、デビュー決定から、わずか半年足らずという短い期間で、スガシカオは1stシングル「ヒットチャートをかけぬけろ」をリリースします。1stシングル曲「ヒットチャートをかけぬけろ」は、全国7局のFMラジオ局で、ヘビーローテション曲に選ばれます。「デビュー半年前の1996年の夏、ディレクターを通して初めてスガシカオの曲を聞きました。スガシカオ自身が、セルフアレンジ・セルフプロデュースで作ってきた、デモテープの完成度が非常に高いのもあったのですが、スガシカオ独特の声が強烈に印象に残りました。ハスキーな彼の声は、今まで聞いたことが無く、とても印象的で。歌詞にも惹かれました。当時のヒット曲には、歌詞の中に“頑張れ”的な言葉が使われることが多かったのですが、彼が書く歌詞の中には“頑張れ”的な言葉は使われていないけど、なぜか曲を聞くとポジティブになれる。新鮮でした」。当時、スガシカオの宣伝を担当していたレコード会社のスタッフは、こう振り返ります。
FMラジオ局や、関係者の間で評価の高かったスガシカオの1stシングル「ヒットチャートをかけぬけろ」ですが、曲タイトルのようにヒットチャートを駆け抜けることはなく、セールスチャートにはランクインできませんでした。スガシカオは、続いて1997年5月に、2枚目のシングル「黄金の月」をリリースします。1997年5月にリリースされた、スガシカオの2枚目のシングル「黄金の月」。1stシングルに続き、「黄金の月」は、全国7局のFMラジオ局の、ヘビーローテンション曲に選ばれます。また、初めて、セールスチャートにランクイン、最高位72位を記録します。
「スガシカオがデビューする時に、TVの音楽番組に出演して歌うプロモーションではなく、スガシカオの曲を気に入って流してくれるラジオ局に、積極的にアプローチしたり、CDショップのインストアイベントで自らが出かけて行き、歌うことを中心としたプロモーションにしよう、ということになりました。シングルを売るアーティストではなく、アルバムが売れるアーティストを目指していたので、「黄金の月」がセールスチャートにランクインしたのは、純粋にスガシカオの曲を気に入ってくれたという点で、本人はもちろん、周りのスタッフも嬉しくなりました」。当時、スガシカオの宣伝を担当していたレコード会社のスタッフは、こう振り返ります。
2枚目のシングル「黄金の月」が、発売後、7週間に渡りセールスチャートにランクインし続ける中、スガシカオは、7月に、3枚目のシングル「ドキドキしちゃう」をリリースします。三菱自動車「パジェロ・ミニ」のCMソングとして起用されたシングル「ドキドキしちゃう」は、セールスチャート最高位92位にランクインします。そして、いよいよ9月に、デビューアルバム『clover』をリリースします。
「元々、スガシカオは、デビュー前に10曲余りしかオリジナル曲を作っていなかったんです。でも、デビュー後の、シングルのプロモーションキャンペーンや、イベントの合間を縫って、わずか2週間でアルバムに収録する曲を作ったんです」。スガシカオ本人も、周りのスタッフも待ち望んだデビューアルバム『clover』は、本人もスタッフも驚くほどの好セールス、チャート初登場10位を記録します。
1997年10月、雑誌とFMラジオ局、それぞれの主催で、東京と札幌でワンマンライブを行ったスガシカオは、翌11月に、4枚目のシングルをリリースします。「実は、この曲の原型は、デビュー前に、初めて聞いたスガシカオのデモテープの中にあったもので、スガシカオ本人は、この曲をアマチュア時代から何回も歌っていた、と言っていました。この曲は、曲の頭から、いきなり彼の高い声で入ってくるんですが、こんな曲は聞いたことは無かったし、素晴らしい曲だな、って思ってました。それまでのシングル3曲とは、感じが全く違う曲だけど、今がスガシカオの売れ時だ。この曲で勝負をしよう!とディレクターが決めたんです」。「ところが、スガシカオ本人はこの曲を、その時点でシングルにすることは反対でした。デビュー以降、初めてスガシカオ本人と、スタッフの意見がくい違ったんです。彼がデビューした1997年は、男性ソロアーティストが何十人とデビューした年で、彼の音楽は、ロックにも、ポップスにも属さない、新しい音楽ジャンルというのが、スガシカオ本人はもちろん、スタッフも一致した考えでした。だから余計に、本人も、アルバムが売れ、せっかく勢いが出てきたのに、この曲ではないだろう…と思っていたんです。しかし最後は、ディレクターの押しに負けて、この曲をリリースすることが決まりました」。1997年11月、スガシカオの4枚目のシングル「愛について」は、リリースされます。
1997年11月に発売された、スガシカオの4枚目のシングル「愛について」。NHK総合テレビの音楽番組『ポップジャム』のエンディングテーマ曲として起用され、チャート最高位44位を記録します。それについてスタッフは、こう語ってくれました。「セールスチャートの結果としては今ひとつですが、スガシカオにとっては意義深い曲になったと思います。それまでのスガシカオの音楽路線を、覆すような曲をあえてリリースしましたが、結果的にスガシカオを聞く人々を掘り起こすことになりました。今でもライブでは、この曲のイントロが鳴っただけでも、観客が湧きます。スガシカオを象徴する曲になったわけです」。
今日OAした曲目
M1.Dance To The Music/スライ&ザ・ファミリー・ストーン
M2.ヒットチャートをかけぬけろ/スガシカオ
M3.黄金の月/スガシカオ
M4.愛について/スガシカオ
第45回目の今日お届けしたのは、「ポルノグラフィティ/ミュージック・アワー」でした。
1992年秋、広島県因島高校に通っていた、岡野昭人(通称アキヒト)と新藤晴一(通称ハルイチ)の二人は、音楽を通じて知り合い、一緒にバンドを組みます。その後、別の高校に通っていた白玉雅己(通称タマ)がバンドに加入し、BOOWYやZIGGYのコピーバンド「ノー・スコア」を結成します。
翌1993年春、2人が高校を卒業、進学で別々の道を歩き始めると、ノー・スコアは活動を一時休止します。
しかし、1年後の1994年、大阪で再会した3人は、名前を「ポルノグラフィティ」と改めバンド活動を再開します。ポルノグラフィティは、ストリートライブや通称・城天(しろてん)と呼ばれる大阪城公園の野外でのライブを積み重ね、1995年12月に、大阪のライブハウス「フリーバード」で初の単独ライブを行います。
初の単独ライブでは、80人余りしか集めることができなかったポルノグラフィティですが、翌1996年7月に大阪「ミューズホール」で行われた2回目の単独ライブでは、250人を集めるまでに成長。11月には、NHK-BSヤングバトルにも出場、いつしか3人の心の中には、プロデビューの夢が膨らみ始めるのでした。1997年3月、ポルノグラフィティは、ソニーミュージックSDオーディションに出場、4月には、大阪「心斎橋クラブクアトロ」での単独ライブを行い、550人を集めます。ライブを積み重ねることで、自信を掴んだポルノグラフィティは、1997年5月、レコード会社はソニーミュージック、マネージメント事務所はアミューズと契約します。その後しばらく、デビューに向けての楽曲制作や、レコーディングを行っていたポルノグラフィティは、1999年1月と4月に、東京で「東京ロマンスポルノ」と題した単独ライブを行った後、9月にシングル「アポロ」でデビューします。
セールスチャート74位で初登場した「アポロ」は、じわじわと売れ始め、発売5週目にしてチャート最高位5位にランクイン、約41万枚の売上を記録します。
「セールスチャート5位を記録した時、正直怖かったです。誰か止めて!って感じです。この後、自分達がどうなっていくのか、分かりませんでした。僕らの中で、「アポロ」は認めざるを得ない素晴らしい曲なんだけど、でも僕らはこの曲だけじゃないという思いもあり…。一発屋に見られるのが嫌だったんです。とにかくこの時期は、ライブをやって、生のポルノグラフィティを見て欲しいと思っていました」。ポルノグラフィティのインタビューをまとめた本「ワイラノ クロニクル」の中で、アキヒトはこう語っています。
1999年12月に、デビューしてから念願だった初の単独ライブ「東京ロマンスポルノVol.3」を、ライブハウス「渋谷オンエア・ウエスト」で行ったポルノグラフィティ。「この時期、“アポロ”と闘っていました。ライブのチケットは完売し、僕達のライブに来てくれた人達は、みんな“アポロ”をやることを期待してライブに来てくれている。でも僕らは、“アポロ”以外のポルノグラフィティの曲を、どうやったら聞いてもらえるか?そればっかりを考えてライブに集中していました」。メンバーのハルイチは、「ワイラノ クロニクル」の中で、こう語っています。
音楽をやるためにプロになったのに、デビュー前後から音楽以外の仕事が増え、ストレスを感じていたポルノグラフィティ。念願のライブを成功させることで、再びモチベーションを取り戻したポルノグラフィティは、翌2000年1月、2枚目のシングル「ヒトリノ夜」をリリースします。
2000年1月にリリースされた2枚目のシングル「ヒトリノ夜」。フジテレビ系アニメ「GTO」のオープニングテーマ曲に起用されたこの曲は、チャート最高位12位、約24万枚の売上を記録します。そして、続く3月には、アマチュア時代からライブで演奏していた曲を中心に作った、1stアルバム『ロマンチスト・エゴイスト』を発売します。
「アルバムを作る上で、どうしても頭から離れなかったのがやっぱりデビュー曲「アポロ」のヒットです。アルバムをヒットさせることで、ポルノグラフィティ=アポロというイメージを払拭したかったんです。そのためには、いいアルバムを作らないと、という気持ちでいっぱいでした。「アポロ」の時には、セールスチャートは気にならなかったけど、このアルバム『ロマンチスト・エゴイスト』は、初めて、売れて欲しい、聴いて欲しい、と思いました」。メンバーのハルイチは、「ワイラノ クロニクル」の中で、こう語っています。ポルノグラフィティが、満を持して作ったアルバム『ロマンチスト・エゴイスト』はチャート最高位4位を記録しますが、セールス記録は“アポロ”の売上記録に及びませんでした。そしてポルノグラフィティは、アルバムリリース後に、全国11ヵ所を回る初めてのライブツアーの途中に、次のシングルの準備に取り掛かります。
「この曲は、ツアーの途中段階で、骨格まではできていました。みんなで、次の曲は“夏”をテーマにしよう、というコンセプトも決まっていたし。でも、本当は4枚目のシングルになった「サウダージ」が先にリリースされる予定で進んでいたんです。曲の途中まで作っていた「サウダージ」の続きを、ツアーが終わって作ろうと思っていた時に、スタッフの間で、どちらが夏に向いているか?という議論になり、二つの曲を比べて、やっぱりこっちの曲が夏のイメージにはいいだろう、という結論になり、それから改めてこの曲の歌詞を書き始めました。
ストレートな言い方だけど、この曲を聞いた人が、海に行きたくなるような、なんかウキウキするような気分になれればいいな…。という、ただ楽しい気持ちになれる曲をイメージして、作りました」。歌詞を作ったハルイチは、当時の状況についてこう語っています。「所属事務所の先輩の福山雅治さんからも、“3枚目が勝負だ!”と聞いていたので、初めは怖さみたいなものもありました。でも、まず僕らがこの曲を楽しめるだけ楽しんで、ただ単純に夏に盛り上がれる感じになれればな…と思いました。それが聞く人にうまく伝わっていけば、この曲はいけるぞ!と思いました。だからプレッシャーはあったけど、スタンスとしては結構楽でした」。アキヒトがこう振り返る、
ポルノグラフィティ3枚目のシングル「ミュージック・アワー」は、2000年7月にリリースされます。
2000年7月にリリースされた、3枚目のシングル「ミュージック・アワー」。大塚製薬「ポカリスエット」のTVCMソングにも起用されたこの曲は、チャート最高位5位、46万枚の売上を記録し、半年近くに渡ってチャートにランクインするロングヒットとなります。この結果に、ハルイチは、こう振り返っています。「結果的に、これで「アポロ」の記録を抜くことができ、バンドとしての先が見えました。もう「アポロ」と闘わなくてもいい、目の前に自由が広がった気持ちになりました」。デビュー曲のイメージを払拭するために、もがき苦しむ中から生まれたその唄は、夏の開放感のように、J-POPの世界へ彼らが大きく羽ばたくキッカケとなりました。
今日OAした曲目
M1.GLORIA/ZIGGY
M2.アポロ/ポルノグラフィティ
M3.ヒトリノ夜/ポルノグラフィティ
M4.ミュージック・アワー/ポルノグラフィティ
第44回目の今日お届けしたのは、「杏里/CAT’S EYE」でした。
1961年8月、神奈川県大和市に生まれた、少女・川島栄子。小学生時代に、生まれて初めて買ったレコード、オリビア・ニュートン・ジョンのさわやかな歌声と、あどけなさを残す彼女の可愛いルックスにひかれた川島栄子は、自分も将来、歌手になることを夢見るようになります。川島栄子は、高校入学後に始めたモデルの仕事を通して、そのルックスを評価されるようになり、彼女の父親の知り合いの紹介で、アーティスト名を「杏里」と名付け、念願の歌手デビューが決まります。
「デビュー曲のタイトルの“オリビア”とは、オリビア・ニュートン・ジョンのことです。デビューが決まり、曲を作る時に、曲を作ってもらえることになった尾崎亜美(おざき・あみ)さんに会いました。その時に、貴女は、どんな曲が好きなの?と聞かれて、オリビア・ニュートン・ジョンが好きです、と答えました。そこから、この曲は生まれました」。デビュー曲の思い出について、杏里はこう振り返ります。
杏里が、音楽と初めて出会って以来、ずっとお気に入りだった、オリビア・ニュートン・ジョンが1977年にリリースしたアルバム『Making A Good Thing Better〜きらめく光のように』をモチーフに、シンガーソングライター尾崎亜美が作詞作曲を手掛けたデビューシングル「オリビアを聴きながら」は、1978年11月にリリースされました。
1978年11月に発売された、杏里のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は、セールスチャート最高位65位ながらロングヒットを記録し、およそ5万5000枚の売上を重ねます。杏里は、翌1979年4月に2枚目のシングル「地中海ドリーム」を、8月には3枚目のシングル「涙を海に返したい」を相次いでリリースしますが、「地中海ドリーム」はチャート最高位86位、「涙を海に返したい」は、チャートにランクインしませんでした。
セールス的には伸び悩んだ杏里ですが、12月にリリースされた4枚目のシングル「インスピレーション」が、テレビ東京系のドラマ「体験時代」の主題歌として使われるのと同時に、12月に行われた「第12回日本有線放送大賞」の新人賞、そして「第6回FNS歌謡祭グランプリ」の優秀新人賞を獲得。爽やかな杏里の歌声が、すこしづつ浸透し始めます。
「デビューをした、ということが自分自身の中では大きなターニングポイントでした。でもそこから、リリースを重ね歌い続けていく中で、次第にリゾートミュージックやダンスミュージックなどが、自分はやりたいと思うようになりました。その時は、他の人に作ってもらった曲を歌うのがほとんどでしたけど、自分の心の中では、自分も曲を作りたいと、いつも思っていました。でも、現実はなかなか難しかったですね」。
その後も、シングルやアルバムをリリースする中で、自分自身で曲を作り、歌いたい、という想いと、自分が目指す音楽の方向性が、ハッキリと見え始めた杏里。そして、1982年4月、前の年に続いて、花王コロン「リマーラ」のCMソングに彼女の歌が起用されることになり、杏里はその曲の歌詞を一部担当することになりました。
杏里自身が、初めてシングルの作詞を手掛けた10枚目のシングル「思いきりアメリカン」。爽やかでポップ感あふれる曲は、杏里にとっておよそ3年ぶりにセールスチャートにランクイン。最高位74位、およそ2万7000枚の売上を記録します。
杏里は、5月にベスト盤『思いきりアメリカン〜I Love Poping World,Anri〜』を発売。続いて、角松敏生が作詞・作曲を手掛けた2枚のシングルを11月と、翌1983年6月にリリースしますが、チャートにランクインできず、杏里、そして周りのスタッフは、再び彼女の方向性について議論を交わします。そんな中、杏里の元に、次のシングルとして、ある企画が持ち込まれました。
「当時は、毎日、分刻みの忙しいスケジュールの中で過ごしていたので、次の曲がどんな楽曲になるのか、事前の確認ができていませんでした。そんなある日、“今日はレコーディングだから”と、スケジュールを告げられて、スタッフと一緒にスタジオに向かいました。スタジオに向かう途中でも、一体どんな曲をレコーディングするのか、分からないままで、スタジオに着き、歌詞の書かれた譜面を渡されて、初めて曲の内容が分かりました。そこでスタッフに、“これはアニメの主題歌になるから”、と言われて、ビックリしました。アニメの主題歌を歌うの、私が?という感じです」。
当時、声優が歌うことが主流だった、アニメの主題歌。杏里自身は、戸惑いを覚えると同時に、周りのスタッフも、初めてのアニメ主題歌のレコーディングという事で、手探り状態、レコーディングの現場も混乱していたそうです。そんな混乱する周りの状況に、杏里自身も、実際に歌入れをするまで、不安を感じていたといいます。
「戸惑いと不安の中で、この曲は生まれてきました。初めは、アニメの主題歌という、正直良いイメージはなかったんですけど、結果的には、この曲を歌ったことで、大人はもちろん、小さな子ども達まで幅広い年代の人たちに、“杏里”を知ってもらうことができた、私にとっては、間違いなく、かけがいのない曲です」。1983年7月に始まった、日本テレビ系アニメ『キャッツ・アイ』の主題歌として起用された、杏里の13枚目のシングル「CAT’S EYE」は、1983年8月にリリースされます。
1983年8月にリリースされた、シングル「CAT’S EYE」は、発売から1ヵ月後の9月最終週のセールスチャートで1位を獲得し、その後も5週連続で1位になります。売上も、およそ82万枚を記録したシングル「CAT’S EYE」で、杏里はその年の大晦日に行われた、「第34回NHK紅白歌合戦」にも初出場。また「CAT’S EYE」は、翌年1984年3月に行われた「第56回選抜高等学校野球大会」の入場行進曲にも使われました。本人も、そして周りのスタッフもが、戸惑いと不安を感じる中生まれたこの唄は、J-POPの中に新しい風を吹き込みました。
今日OAした曲目
M1.そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン・ジョン
M2.オリビアを聴きながら/杏里
M3.思いきりアメリカン/杏里
M4.CAT‘S EYE/杏里
第43回目の今日お届けしたのは、「クレイジーケンバンド/GT」でした。
1960年7月、神奈川県横浜市に生まれた少年・横山剣。幼い頃から、父親の影響でジャズやソウルミュージックに親しむ機会の多かった横山剣は、自宅にあったピアノで遊ぶ内に、作曲の楽しさを覚え、将来、作曲家になることを夢見るようになります。中学生で初めてのバンドを結成し、音楽活動を始めた横山剣は、高校中退後に、友人の紹介で始めた古着の販売業を通して、当時人気絶頂だったバンド「クールスRC」のリーダーと出会います。
1981年、「クールスRC」の仕事を手伝い始めていた横山剣は、「バンドのボーカルをやってみろよ」と、リーダーに言われたことをキッカケに、バンドに加入。横山剣自身が作詞作曲、ボーカルを担当したシングル「シンデレラ・リバティ」を発売します。その後も、アルバム5枚、シングル3枚をリリースしますが、横山剣は、レコード会社の求める音楽と、自分の音楽性の違いに悩んだ結果、クールスRCを脱退してしまいます。
1984年、クールスRCを脱退した横山剣は、元シャネルズのピアニストだった山崎廣明らと、バンド「ダックテイルズ」を結成しますが、4年余りで解散します。地元横浜を中心に活動するバンド、ZAZOUを結成しますが、度重なるバンドメンバーの交代などに、「もうバンドはこりごり」と思うようになり、作曲家としての活動を重視するようになります。1991年秋、ZAZOUの元メンバーの廣石恵一に誘われた横山剣は、総勢15人編成からなるヴォーカル&インストゥルメンタル・グループ「CK’S」にボーカルとして参加します。CK’Sは、ジェームス・ブラウンなどのブラックミュージックのカバーや、橋幸夫のリズム歌謡などをレパートリーとし、横浜・本牧のクラブを中心に活動を行います。また横山剣は、CK’Sのボーカルとして活動する一方で、1995年に自分自身のレコードレーベル「ダブルジョイ」を設立、横山剣ソロ名義での自主制作盤「クレイジーケンワールド」をリリースします。
しかし、CK’Sは1997年2月に解散、横山剣はバンドの中心メンバーだった、廣石恵一、小野瀬雅生、洞口信也、中西圭一、新宮虎児とともに、新しいバンド「ゲロッパ1600GT」を結成します。
「CK’Sは、バンド自体がブラック・ミュージックや、それに似たサウンドという具体的なカラーを持っていたので、楽曲の自由性にも色々と制約がありました。だから、「もう、バンドなんてこりごりだ」と本気で思っていたのに、またバンドを組んでしまったんですよね。人生は分からないですよね」。横山剣本人は、当時の状況について、こう振り返ります。
東京・福生のライブハウスを中心に活動を始めたバンド「ゲロッパ1600GT」は、小野瀬雅生の発案で、バンド名を「クレイジーケンバンド」に変更。この時、オリジナルメンバーだった新宮虎児がバンドから脱退、5人となったクレイジーケンバンドは、翌1998年6月、アルバム『PUNCH!PUNCH!PUNCH!』でデビューします。
1998年6月、アルバム『PUNCH!PUNCH!PUNCH!』でデビューしたクレイジーケンバンドは、横浜のネオン街長者町のライブハウス「FIRIDAY」での月例ライブや、東京原宿のライブハウス「クロコダイル」での定期ライブを中心に活動するようになります。またこの年1998年秋には、箱根芦ノ湯の旅館を貸し切っての温泉大宴会ライブ「箱根ヨコワケハンサムワールド」を企画、好評を得たこのライブは、その後もクレイジーケンバンドの春、秋の恒例のライブイベントとなっていきます。
「今だからこそ言えるのですが、元々クレイジーケンバンドは、2本の営業をこなす為の暫定的なバンドで、その営業が終わったら、「ハイ、それまでよ!」ってなる予定でした。しかし、その2本の営業を終えた時、ある種の手ごたえを掴んだので、横浜本牧埠頭にある「USS SEA MEN’S CLUB」というレストランで、改めてクレイジーケンバンドの結成式を行ったんです。パーマネントバンドになるとは考えてもみなかったですね」。クレイジーケンバンド結成当時について、横山剣本人はこう振り返ります。
翌1999年、クレイジーケンバンドは、5月に2枚目のアルバム『goldfish bowl』を、12月にはピチカート・ファイブの小西康陽と組んだ12インチリミックスアルバム『ヨコワケハンサムワールド』をリリースします。そして翌2000年6月には、小西康陽のプライベート・レーベル「524レコード」から、クレイジーケンバンド、3枚目となるアルバム『ショック療法』をリリースします。「クレイジーケンバンドを結成して、3年あまり。この時期、バンドは倦怠期のような感じになっていたんです。正直、もういいか・・・て思っていた時に、小西康陽さんが立ちあげたレーベルの第1号作品としてこのアルバム『ショック療法』をリリースしたんです。僕を含めバンドのメンバーみんな“名盤を作れた!”という充実感を感じる一方で、クレイジーケンバンドとしては、もうこれ以上のものはできないかな?という空虚感にも襲われました。でも、この『ショック療法』を聞いて、潜在的に僕らを支持してくれるリスナーが増えたようにも感じられたので、じゃあ、まだやるか!って思いました」。
2000年9月、デビュー前に脱退した、新宮虎児がバンドに復帰。復帰後初のライブを収録した、ライブアルバム『青山246深夜族の夜』をリリース。翌2001年6月にシングル『肉体関係』と、9月にマキシシングル「せぷてんばぁ」をリリースしたクレイジーケンバンドは、11月から全国10ヵ所を回る初の全国ツアーを行い、さらに多くのファンを増やしていきます。翌2002年、5月にリリースしたシングル「まっぴらロック」は、セールスチャートは98位だったものの、有線放送のお問い合わせチャートで第1位を記録。さらに手ごたえを感じ始めたクレイジーケンバンドは、立て続けに次のシングルをリリースすることを決めます。
「曲は、2002年2月2日に、今も乗っている愛車「1965年式のFORD MUSTANG GT」を購入した後、その車でドライブしていた時に、自分の頭の中で浮かんできて、直ぐにレコーダーにアカペラで録音しました。曲は作ったというより、出来ちゃった…という感じかな。僕の場合、曲作りに関しては、小学生の頃に、初めて脳の中にメロディーやアレンジが浮かんで以来、“鳴ったから出す”というのが、基本的なやり方です。それは、ずっと変わっていません。この曲の時も、同じです。ただ、仮ミックス段階で、実際にクラブでかけてみたら、イメージしていた音よりも、少し低音が弱かったので、その点は修正しました。でも、トラックばかりに意識が集中してしまい、歌入れの時間が殆んど無くなり、実は仮歌がそのまま本番に使わているんです」。「それから、クレイジーケンバンドとして初めてホーン・セクションを使ったのが、この曲からなんです。それまでは、ホーンズを入れたいと思っていても、ずっと我慢していたので、やっとその念願が叶いました。だから余計に、曲ができた時、僕ひとりは“いい曲が出来た!”と興奮していたんですけど、周囲の反応は賛否両論でした。でもこの曲のリリースに合わせて、全国のラジオ局が僕らの曲を頻繁にかけてくれるようになった。それまでクレイジーケンバンドの曲を聴かずに、嫌いだった層が、聴く耳を持ってくれるようになったのは、大きな収穫でした」。2002年7月、クレイジーケンバンドにとって4枚目となるシングル「GT」は、リリースされます。
2002年7月にリリースされた、クレイジーケンバンドのシングル「GT」。チャート最高位は57位でしたが、この曲はバンドにとって大きな影響を与えた曲になったといいます。「クレイジーケンバンドの結成から4年間、編成上の問題もあって、胎内音楽と、実際のサウンドとのギャップを埋めることができないで、ジレンマを抱えながらの不完全燃焼な活動が続いていました。でもこの「GT」がリリースされた頃から、理想と現実が一致するようになりました。もしこの「GT」より前の曲がヒットしていたら、それがクレイジーケンバンドの音楽として認知されてしまったと思うので、今のような自由はなかったんじゃないかな、と思います。そういう意味でも、いいタイミングだったと思います」。バンドにとっても、大きな節目となったその唄は、その後の彼らの方向性を決める大事な歌となりました。
今日OAした曲目
M1.シンデレラ・リバティ/クールスRC
M2.葉山ツイスト/クレイジーケンバンド
M3.ハンサムなプレイボーイ/クレイジーケンバンド
M4.GT/クレイジーケンバンド
第42回目の今日お届けしたのは、「BARBEE BOYS/目を閉じておいでよ」でした。
1983年春、東京新宿のライブハウス「四谷フォーバレー」を中心に活動していたバンド「BARBEE BOYS」。バンドリーダーでギターのいまみちともたか(通称・IMASA)は、別のバンドの女性ボーカル杏子を、BARBEE BOYSに誘い、オリジナルメンバーでボーカル&サックスの近藤敦(通称・KONTA)との、男女ツインボーカルバンドとして11月に行われた「CBSソニーオーディション」に参加、全国大会でグランプリに輝きます。「CBSソニーオーディション」でグランプリ獲得したBARBEE BOYSは、1984年春、当時まだ大学生でIMASAの友人だったENRIQUEをベーシストに加えます。IMASA、KONTA、杏子、そしてドラムの小沼俊明(通称・KOISO)の五人組となったBARBEE BOYSは、1984年9月シングル「暗闇でDANCE」でデビューします。
「グランプリを獲得してからデビューするまでの間に何度かBARBEE BOYSのライブを観るチャンスがありまして、その当時から、IMASAが書いた、屈折した男女の恋愛模様を描いた歌詞と、杏子、KONTAの男女のツインボーカルは、他のバンドと比べて際立ってました。聞く人の耳に強く印象に残るBARBEE BOYSの音楽、絶対売れるロックバンドになるって思いました」。デビュー直後から、解散までレコーディング担当ディレクターなどでBARBEEBOYSに関わってきた、西岡さんはこう振り返ります。1985年2月、シングル「もォやだ!」と1stアルバム『1st OPTION』をリリースしたBARBEE BOYSは、リリースに合わせ行った全国ライブハウスツアー終了後、BARBEE BOYSは、9月に渋谷公会堂でライブを行うことを発表します。それまで、収容人数100人余りのライブハウスを中心に活動してきたBARBEE BOYSが、いきなり2000人近くのホールでライブを行うことに、周囲からは「無謀すぎる」という声をあがるのでした。しかし、周囲の不安の声をよそに、BARBEE BOYSは初の渋谷公会堂ライブを成功させ、翌1986年3月から全国18ヵ所を回ったライブツアーも、全会場がSOLD OUT、関係者はもちろん、ファンの間でもライブバンドBARBEE BOYSとしての存在感が高まっていきます。
1986年4月、BARBEE BOYSは初めての12インチシングル「負けるもんか」をリリース。「負けるもんか」は、初めてチャートにランクイン、最高位47位を記録します。勢いに乗ったBARBEE BOYSは「今年の秋は、日本武道館でライブをやる!」と宣言、再び周囲を驚かすのでした。1986年10月、日本武道館でのライブを直前に控えたBARBEE BOYSは、3枚目のアルバム『3rd BREAK』、シングル「なんだったんだ?7days」をリリース。シングル「なんだったんだ?7days」は、チャート最高位50位に終わりますが、アルバム『3rd BREAK』は、リリース2週目にして、チャート最高位4位を記録します。「デビューして2年余り。それまでレコードセールスの結果は付いてこなかったけど、彼らは自分達の音楽をひたすら信じて、全国をずっとライブで回ってきました。この3枚目のアルバム『3rd BREAK』で、やっとその成果が実を結んだんです。あと、ライブが満員になるのは勿論なんですが、何組かのビデオクリップを一度に上映するビデオコンサートを全国各地で行うと、どこへ行ってもBARBEE BOYSの人気が断トツ一番になりました」。当時のディレクター西岡さんはこう振り返ります。
1986年11月、スタッフの誰もが「無謀だ」と確信していた日本武道館での単独ライブを、BARBEE BOYSは、なんなくクリアします。「BARBEE BOYSの場合、ライブをやることで、バンドとしての幅が広がっていったような気がします。杏子がステージの上で縦横無尽に踊りながら歌う、一方のKONTAは同じ立ち位置でサックスをクールに吹きながら歌う。当時は珍しかった男女のツインボーカルが絡む斬新なスタイルが、聞く人を魅了し、引きつけていったんです。そのステージは、曲を作るIMASAにとっても、大きな刺激になり、曲作りにも影響を与えていました」。日本武道館でのライブ後も、東京・中野サンプラザ3daysを含む全31本の全国ツアーを成功させ、ライブバンドとしての頂点に向かって進んでいくBARBEE BOYSは、1987年4月、彼らにとって新たな挑戦となる、初めてのTVCMタイアップ曲をリリースします。
1987年4月、三ツ矢フルーツのTVCMソングとして、起用されたシングル「女ぎつね on the Run」。「このシングル「女ぎつねon the Run」は、僕が広告代理店の人と話をしていてBARBEE BOYSがやることが決まったんです。CMの絵コンテが先に完成、その中に“するどい目”ってフレーズがあり、その絵コンテをIMASAに見せたら、じゃあ、“女ぎつね”という言葉を使うのはどう?ってなりました」。シングル「女ぎつねon the Run」は、チャート最高位28位を記録、3ヵ月近くもランクインし続けます。またこの年1987年の夏には、RC SUCCESSIONや爆風スランプなどと共に全国各地で行われた、野外イベントにも参加、パワフルなステージで、他のアーティストのファンも魅了していきます。1987年9月、4枚目のアルバム『LISTEN』をリリースしたBARBEE BOYSは、今度は全70本の全国ライブツアーを行い、ますますライブバンドとしての地位を確立。アルバム『LISTEN』は、チャート最高位8位を記録、その後もツアーと並行して、およそ半年近くに渡ってチャートにランクインし続けます。1988年3月、BARBEE BOYSは、メンバー自身が選んだ曲ばかりを収録したアルバム『BLACK LIST』をリリース、チャート初登場2位を記録します。4月に国立代々木競技場第一体育館で2日間行われたライブも、チケット2万2000枚が1時間足らずでソールドアウト。また7月の阪神甲子園球場、8月の東京ドームを含む全国10か所回るアリーナライブツアーも、軒並みソールドアウト。さらに、翌1989年5月まで全60本の全国ツアーをスタートさせ、勢いが留まることのないBARBEE BOYSに、再びTVCMタイアップ曲の話が舞い込みます。
「IMASAの頭の中にあった、「いーじゃねぇか、やらせろよ、目を閉じてりゃ、アッというまに終わっちまうさ」という、考えたらかなり下劣なフレーズを、上手にアレンジして使いました。結果的に、曲が下品じゃなく、上品に仕上がったのは、BARBEE BOYSだからこそできたんだと思います。BARBEE BOYSの曲は、ほとんどIMASAが作っていて、僕らレコード会社は、「売れる曲を書いてくれ!」と、ずっとIMASAに言い続けてました。でもIMASAの曲作りに関しての考え方は、デビュー前から解散まで一貫して全く変わらなかった。IMASAは、最初は僕らの話を聞くけど、最終的に完成した曲は、IMASAの頭の中でイメージされた、男と女の屈折した恋愛模様になってました」。「だから、この曲が何で売れたか?という理由を聞かれても、ハッキリした原因は分からないんです。IMASA本人に聞く機会があったので、聞いてみたけど、本人も理由は分からないって言う。まぁ、あえて言うなら、デビュー以降、ひたすら自分達の音楽を信じ、ライブを続けてきたBARBEE BOYSの音楽に、ファンや時代が追いついたからではないでしょうか?」。1989年1月、BARBEE BOYSにとって10枚目となる、シングル「目を閉じておいでよ」はリリースされます。
BARBEE BOYSのメンバー自身も出演した、資生堂男性用整髪剤「TRENDY」のTVCMソングに起用された、シングル「目を閉じておいでよ」。チャート最高位7位を記録すると同時に、およそ16万枚の売上を記録します。男女の恋の駆け引きを、臨場感あふれる言葉で綴ったその唄は、彼らにしか歌えない、ロックナンバーの名曲となったのでした。
今日OAした曲目
M1.暗闇でDANCE/BARBEE BOYS
M2.なんだったんだ?7DAYS/BARBEE BOYS
M3.女ぎつねon the Run/BARBEE BOYS
M4.目を閉じておいでよ/BARBEE BOYS
第41回目の今日お届けしたのは、「徳永英明/夢を信じて」でした。
1961年、福岡県柳川市に生まれた少年、徳永英明。中学3年生になったある日、徳永英明は、友達が無理矢理貸してくれた3枚のLPレコードの中の1枚、井上陽水の『氷の世界』に心を奪われます。美しいメロディ、声、そして幾つもの身近な言葉で綴られた井上陽水の歌の世界に引き込まれた徳永英明は、やがて自らも音楽の世界に足を踏み入れることを夢見るようになります。
高校時代、ギター片手に、自分で作詞・作曲をすることを覚えた徳永英明は、高校卒業後、アルバイト生活のかたわらで、自分で作った曲を収めたデモテープを、レコード会社などに送るようになります。そして1983年春、22歳になった徳永英明は、“自分がミュージシャンになるための、コネを作る”目的で、TBSテレビ緑山スタジオにあった俳優養成所「緑山塾」に入ります。俳優志望の仲間達とともに、およそ1年に渡りボーカルレッスンなどを学んだ徳永英明は、緑山塾の卒業式の時、仲間にこう宣言します。
「僕は、必ずプロミュージシャンとしてデビューし、5年後には、日本武道館のステージに立つ」。
緑山塾を卒業した1年後の1984年、アマチュアながら、ライブハウス「新宿ルイード」で定期的にライブを行うようになった徳永英明の存在は、音楽関係者の間で話題を呼び、数社の音楽プロダクションから、プロデビューの誘いを受けるようになります。そんな中、1985年8月、徳永英明は、神奈川県・湘南海岸で行われた「第2回マリンブルー音楽祭」に参加。アマチュアのみならず、プロミュージシャンなども参加したこの音楽祭で、徳永英明はグランプリを獲得、念願のプロデビューが決まります。そして、半年後の1986年1月、徳永英明は、アマチュア時代から歌い続けてきた曲「レイ二—ブルー」でデビューを果たします。
1986年1月、シングル「レイ二—ブルー」、アルバム『Girl』でプロの世界に飛び込んだ徳永英明。渡部美里やレベッカがブレイクし、時代の音楽としてロックミュージックがもてはやされていた当時、バラードを中心に歌う徳永英明のスタイルに、一部の関係者からは「ロックを中心に歌った方が良いのでは…?」といった声も出ます。しかし、そんな雑音にもめげず、徳永英明のスタッフは、心に決めます。「徳永英明は、単なるレコード・アーティストでは終わらない。ライブでこそ、彼の魅力が最大限発揮される。ライブを中心に、彼の歌うスタイルの良さを広めていくんだ」。デビューからわずか3日後、ライブハウス「新宿ルイード」におよそ200人余りを集め行ったライブを皮切りに、徳永英明は全国各地のライブハウスを回るツアーをスタート。シングル「レイ二—ブルー」は、チャート最高位90位という結果に終わるものの、全国各地のライブハウスで定期的にライブを行うことで、徳永英明は、彼を支持するファンを着実に増やしていくのでした。翌1987年5月、徳永英明は3枚目のアルバム『BIRDS』(ばーず)をリリースします。「このアルバムを作る時、初めは全くメロディーが浮かんでこなく、全て外部の人に曲を作ってもらうことが決まりかけてたんです。オレは、ただ歌うだけの歌手でもいい…。気持ちも落ち込み、曲を作ることを、自分でも諦めかけた時、自然にお気に入りのレコードを聞きたくなったんです。お気に入りのELOのレコードを聞いた時、それまで曲を作れずに苛立っていた自分が冷静になっていくのが分かりました。すると、自分の心の中に、それまで全然浮かんでこなかったメロディーが浮かんできたんです。その後は、次々とメロディーが浮かんできましたね」。自らを綴った、徳永英明ストーリー『未完成』の中で、当時の心境について徳永英明自身はこう振り返っています。
できる限り自分が作った曲を歌いたい…そんな徳永英明の、ありのままの心、願いがメロディーに込められ、徳永英明自身へのメッセージ・ソングのような形になったアルバム『BIRDS』。そして、このアルバム『BIRDS』に収められ、アルバムリリース2ヵ月後の7月にシングルとしてリリースされた曲「輝きながら…」が、ミュージシャン徳永英明を、次のステージへと連れて行くのでした。
1987年7月にリリースした、4枚目のシングル「輝きながら…」は、「フジカラー」のTVCMソングに起用され、ロングセールスを記録。最終的にチャート最高位4位、およそ30万枚近くの売上を記録します。TBSテレビ『ザ・ベストテン』、日本テレビ『ザ・トップテン』などテレビの音楽チャート番組への出演も増え、徳永英明の知名度が上がっていく一方で、彼は「この曲が入ったアルバム『BIRDS』は、自分の心の中に浮かんできたメロディーや気持ちを、紡ぎ生まれたアルバムなのに、この曲「輝きながら…」は、他の作詞家・作曲家が作った曲で、僕の作ったメロディーじゃない。それがヒットするのは不思議な気持ち」という戸惑いを覚えていくようになります。また翌1988年2月にリリースされたシングル「風のエオリア」は、ナショナルのエアコンのTVCMソングとして起用され、前作「輝きながら…」に続きチャート最高位4位を記録。また4月には、初めてセルフプロデュースに挑戦したアルバム『DEAR』を、そして10月にはフジテレビ系ドラマ「直木賞作家サスペンス」の主題歌として起用されるシングル「最後の言い訳」をリリースしていきます。しかし、シングル「風のエオリア」「最後の言い訳」いずれもが、「輝きながら…」同様に、他の作詞家・作曲家によって作られた曲で、徳永英明は、「輝きながら…」の時に感じた、「自分はやっていけるんだろうか?」という戸惑いを、さらに強めていくことになります。しかし、そんな不安な気持ちを抱く徳永英明ですが、1988年12月には、遂にデビュー前からの念願だった日本武道館のライブを成功させ、再び自信を取り戻します。そして翌1989年4月、徳永英明が初めて自分で作詞・作曲を手がけたシングル「恋人」をリリース。チャート最高位は7位だったものの、曲作りに納得した徳永英明は、続いて5月にアルバム『REALIZE』 をリリースします。「アルバム『BIRDS』は、誰かに何かを伝えたい気持ちを込め作った。そして、シングルのヒットで、多くの人から支持される一方で、戸惑いを感じ、周りが変わる過程を表現し作ったのがアルバム『DEAR』。そして、念願の日本武道館でのライブも成功、自分の中にあった戸惑いが、自信に変わっていった、その時の自分の気持ちを素直に表現し作ったのがこの『REALIZE』なんです」。パーソナルブック『MYSELF』の中で、徳永英明自身は、アルバム『REALLIZE』についてこう振り返ります。
アルバム『REALIZE』をリリースした、徳永英明は再びライブツアーをスタート。半年間でおよそ50本近くのライブを行う中で、徳永英明は、“生もの”であるライブを通し、彼自身の歌を聞いてくれる人達に、「何かを伝えよう。何かを表現していきたい」という意識が、彼自身の心の中でどんどん強くなっていくのを感じるようになります。
「今、俺は生きているぞ!そんな誰もが、日常の生活の中に持っている小さな勇気。そして、もっともっと、普段の人生の中で、そして日々の生活の中で夢を信じていけたらいいなぁって、思う幸福感。この二つをテーマにして伝えていきたい、そう考えたら、あまりにも気楽に曲ができてしまった」と、パーソナルブック『MYSELF』の中で、この曲の想い出について語る徳永英明。徳永英明特有の優しいメロディーと、歌声でシンプルに綴られたシングル「夢を信じて」は、1990年1月リリースされます。
フジテレビ系TVアニメ「ドラゴンクエスト」のエンディングテーマとして起用された、シングル「夢を信じて」。チャート最高位3位を記録すると同時に、半年近くに渡ってランクイン、およそ40万枚のセールスを記録するヒットとなります。徳永英明が自分自身の経験を通し得た小さな勇気や、幸福感を綴った唄が、多くの人々の心を掴んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.心もよう/井上陽水
M2.レイ二ー・ブルー/徳永英明
M3.輝きながら…/徳永英明
M4.夢を信じて/徳永英明
第40回目の今日お届けしたのは、「TUBE/シーズン・イン・ザ・サン」でした。
1984年、東京・町田市で行われた、音楽制作事務所ビーイング主催のオーディション「シルクロード音楽祭」に出場した、3人の若者。ひとりは、どんな人達でも振り向かせるパワフルなボーカルが特長の前田亘輝。そして、前田亘輝と同じバンドで、ドラマ—として出場した、松本玲二。そしてもうひとりは、前田亘輝、松本玲二の2人とは別のバンドのギターとして、出場していた春畑道哉。残念ながら、前田亘輝と松本玲二が組んだバンドも、春畑道哉が組んだバンドもグランプリを獲得することはできませんでしたが、前田亘輝がベスト・ボーカリスト賞、春畑道哉がベスト・ギタリスト賞の、個人賞をそれぞれ受賞します。これをキッカケに、前田亘輝、松本玲二と春畑道哉は、以前から前田亘輝の音楽仲間だった角野秀行を加えて、新しいバンド「パイプライン」を結成、4人は、「シルクロード音楽祭」に審査員として参加していた、ビーイングのプロデューサー長戸大幸のもとで、プロデビューのチャンスをうかがうことになります。
4人の地元、神奈川県内のライブハウスを中心とした活動を重ねながらプロデビューのチャンスをひたすら待っていたパイプラインは、CBSソニーが行ったオーディションに見事合格します。「当時、私はCBSソニーのディレクターで、このオーディションで会ったのが彼らとの初めての出会いです。20歳そこそこの若い人達だなぁ、というのが第一印象だったんですけど、実際に歌う姿を見ると、歌のフィーリングが、ピタッ!とハマった。これは行けるぞって、思いました」。その後、15年に渡ってTUBEのレコーディングディレクターを務めた、小松久さんは、こう述べます。念願のプロデビューが決まったパイプラインは、自分達の数あるオリジナル曲の中から、どの曲がデビュー曲になるのか?夢と希望に胸を膨らませますが、プロデューサーの長戸大幸と、レコード会社がデビュー曲として最終的に決めたのは、職業作家が作った曲でした。プロの厳しい現実の世界を目の当たりにする、パイプラインの4人。パイプラインは、バンド名を「THE TUBE」と改められ、1985年6月にシングル「ベストセラー・サマー」でデビューを果たすことになります。
1985年6月、シングル「ベストセラー・サマー」でデビューを果たしたTHE TUBE。「ベストセラー・サマー」は、その年1985年のキリンビール「キリンびん生」のCMソングとして起用されたこともあり、リリース後もセールスは順調に伸びていきます。またTHE TUBEがデビューするにあたって、プロデューサーの長戸大幸やレコード会社は、メンバー4人のプロフィールに“特技はサーフィン”と記し、“夏バンド、THE TUBE”としてのイメージを作ろうとします。そんなTHE TUBEには、音楽誌はもちろん、アイドル誌、ティーン誌などの取材も殺到。その中には、音楽がやりたくてバンドを組んだ彼らにとっては違和感を覚えるような、音楽とは全く違うプライベートに関する取材などもあり、THE TUBEは戸惑いを覚えることもあったといいます。
「早く俺たちの音楽を聞きにきてくれる人達の前でライブがしたい」。自分達の思い描いていた音楽の世界とは違う現実に、複雑な思いを巡らせるTHE TUBE。そんな彼らに、小松さんを始めスタッフは、こう伝えます。「いい曲をたくさん作ろう。いい曲がたくさんできれば、それを持って好きなだけライブができる。今は、曲を作る時期なんだ」。
夏が近づくにつれ、シングル「ベストセラー・サマー」は順調にセールス売上も伸び、チャート最高位13位、およそ10万枚の売上を記録します。また、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』にも初出演。翌7月には、THE TUBEが、アマチュア時代にカバーしていた、織田哲郎(おだ・てつろう)も参加した初のアルバム『HEART OF SUMMER』をリリース。またアルバムリリース後にTHE TUBEは、江の島などで行われたイベントライブにも出演、照りつける太陽の下、彼らの音楽に気持ち良く乗ってくれるお客さん達を目の当たりにして、改めてライブの楽しさを実感するのでした。
1985年10月、2枚目のシングル「センチメンタルに首ったけ」をリリースしたTHE TUBEですが、「センチメンタルに首ったけ」は前作とは違いチャート最高位も64位、売上も1万枚に満たないセールス結果に終わります。“夏バンド、THE TUBE”というイメージをデビュー当初から植えつけられていた彼らにとって、季節が夏から秋に変わることで、周囲からその存在を忘れ去られていくのでした。
デビュー曲の時にはたくさんあった彼らへの取材も激減。さらに、12月にリリースされた2枚目のアルバム『OFF SHORE DREAMIN’』も、チャート最高位62位、わずか2週でチャートから消える結果に終わり、次第に彼らは「自分達は音楽の世界でやっていけるのだろうか?」という不安を覚えるようになります。
翌1986年、プロデューサー長戸大幸は、THE TUBEの次のシングルを、当時長戸が信頼を寄せていた織田哲郎に制作してもらうことを決めます。織田哲郎が作ったデモテープを聞き、実際にレコーディングを終えた時、THE TUBE、そしてスタッフは今までの2枚のシングルとは違う印象を覚えたと言います。「一番の決め手は、曲の頭の部分。前田君の声の魅力は、出会ったオーディションの時から感じていたけど、正直ここまでハイトーンの声が出るとは思わなかった。夏をイメージさせる、織田哲郎が作った曲、そして、その曲に見事にハマった前田亘輝の声。これは行けるぞ!って思いました」。当時レコーディングディレクターを務めていた小松さんは、こう話してくれました。2枚目のシングル、アルバムが売れず、「もうこの曲に賭けるしかない」と決意し、力強く歌いあげた3枚目のシングル。バンド名も、THE TUBEから、TUBEに改めた彼らは、バンドとしての原点にもう一度立ち戻る意味を込めて、初めての本格的なツアーに出ることを決めます。
1986年5月、この3枚目のシングルがリリースされた直後、TUBEのメンバーは、ワゴン車1台に機材を積み、北海道内12ヵ所回るツアーをスタート。最小限のスタッフ、そしてメンバー。楽器の搬出搬入も自分達で行いながらの過酷なツアーでしたが、TUBEの4人にとって、何より人前で歌える喜びの方がまさったのでした。また、ライブを終え、移動する車の中で聴くラジオのリクエスト番組で、自分達の曲が徐々にランクアップ。地道なライブ活動がもたらす結果に、メンバー、スタッフは狭い車の中で一喜一憂します。そして北海道でのツアーも終盤に迫ったある日、この曲「シーズン・イン・ザ・サン」は、北海道内のラジオ局のリクエスト番組のチャート1位を獲得、TUBEにとっての熱い夏が始まったのでした。
シングル「シーズン・イン・ザ・サン」は、デビュー曲に続き、再びこの年1986年のキリンビール「キリンびん生」のCMソングとして起用され、夏が近づくにつれセールスチャートも急上昇。最終的に、チャート最高位6位、およそ30万枚近くの売上を記録します。自分達の音楽を信じ、力強く歌いあげた声が、夏の太陽のように、熱く輝いた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ベストセラー・サマー/THE TUBE
M2.センチメンタルに首ったけ/THE TUBE
M3.シーズン・イン・ザ・サン/TUBE
第39回目の今日お届けしたのは、「BEGIN/島人ぬ宝」でした。
1989年9月、沖縄県・石垣島出身の3人、比嘉栄昇、島袋優、上地等が結成したバンドBEGINは、当時、社会現象といえるほど人気を集めていた、オーディション番組『平成名物TVいかす!!バンド天国』(通称:いか天)に出場します。BEGINは、彼らの音楽のルーツでもあるブルースを、沖縄県出身のアーティストならではの、島唄的な解釈で歌ったオリジナル曲「恋しくて」などを歌い、見事5週連続で勝ちぬきを果たし、プロ・デビューのチャンスを掴みとります。
翌1990年3月、BEGINは「いか天」に初出場した時に歌った曲「恋しくて」でデビュー。「いか天」のグランドチャンピオンに輝いた話題と、日産自動車のCMソングにも使われこともあって、「恋しくて」はデビュー曲にして、いきなりチャート最高位4位を記録、およそ4ヵ月近くに渡ってチャートにランクインし続けます。6月には、1stアルバム『音楽旅団』をリリース。そして全国ライブツアーを行うなど、順風満帆に見えたBEGINの音楽活動でしたが、その一方で、アマチュアと違い、曲作りやライブも自分達の力だけではできない、サポート陣の力がないとできないという、プロの厳しい現実の世界に、自信を失いかけていきます。1992年に入り、所属レコード会社のレーベルが無くなるという不運にも見舞われたBEGINは、「自分達には、下積みの経験が全く無い。ライブにしても圧倒的に経験が不足している…。不足している経験を補うためには、やるしかない!」と一念発起し、1992年3月から、東京・二子玉川アレーナホールでのマンスリーライブをスタート。バンドスタイルではなく、自分たち本来の姿、3人だけでのアコースティック感あふれるライブを行うことで、BEGINらしさを取り戻そうとしていきます。
やがてマンスリーライブを通して再び自信と実力を培ったBEGINは、日本全国、町の小ホールやライブハウスでも積極的にライブを行い、着実にライブバンドとしての力をつけていくのでした。
1997年5月、「原点に戻ろう」を合言葉に、古巣のレコード会社に戻ったBEGINは、メンバーの島袋優に姪が誕生した喜びの気持ちを歌った曲「Birthday Song」をリリース。この曲でBEGINは、ピアノとギターと声さえあれば、自分達の音ができるという、BEGINの「ひとり一音」の姿勢を改めて発見します。
「BEGINのメンバーが、曲を作る時に一番大事にしていることは、自分たちらしさですね。自分たちができることを、求められている中で最高のものを届ける。言葉にも、サウンドにも本当に思っていること、感じていることを込める。普段メンバーは言葉にこそ出しては言いませんが、制作現場にいる僕にはそう伝わってきます。生活の中から生まれた音楽、家族で聴くことのできる音楽、そんな感じですかね」。長年に渡り、BEGINの楽曲制作担当ディレクターを務めている前田さんは、こう語っています。また、前田さんはBEGINのライブについて、こう述べます。「BEGINにとって、ライブに対する基本的な考え方は、単純ですが、「うた」を直接届けることなんです。色々な楽しい感情を、ライブの雰囲気、そして「うた」からBEGINを聞く人たちに感じとってもらうために、全国各地を回っているんです。だから、リリースした作品の内容によって、ライブのテーマも変えたり、スタイルも変える。そしてもちろん、やってくるお客さんのタイプによっても変わる、とにかくBEGINのライブは、本当に生もので、例えセットリストが同じツアーでも、同じことをすることがないのが、特長です」。
1998年、BEGINは、ライブを通じて知り合った、歌手・森山良子から、森山良子自身のアルバムに収録する楽曲の制作依頼を受けます。1998年11月にリリースされた森山良子のアルバム『TIME IS LONELY』に収録されたこの曲は、2年後の2000年3月、BEGINが自分達のデビュー10周年の記念シングルとしてセルフカバー、リリースされます。曲を作った当時、「すぐに売れなくてもいい。ゆっくりと時間をかけて、じわじわと聞く人の心に沁み入るような曲になれば…」という願いが込められたこの「涙そうそう」。その曲に込められた想いと同じように、翌2001年には、BEGINと同じ沖縄県石垣島出身の夏川りみがカバー、その後も日本はもちろん世界各地のアーティストにもカバーされて、BEGINにとってデビュー曲「恋しくて」以来の代表曲となっていきます。2001年、BEGINは、地元沖縄で、かつて沖縄の人々が、戦時中、大声を出して歌う事が許されない中で、ひっそりと歌い踊ることで、お互いを励ましあって乗り越えてきたことを想い、改めて「うた」に感謝し、「うた」そのものをお祝するという意味を込めたコンサート『うたの日カーニバル』をスタートさせます。そんな時、沖縄に深くこだわった活動を行うBEGINに、彼らの高校時代の同級生から、声がかかります。
「BEGINの高校の同級生で、地元石垣島の中学校の先生がいるんですが、その人が担任をしている中学生が「島への想い」についての想いを歌詞に書き、その書いた歌詞を、卒業式で歌う“歌”としてBEGINに作って欲しい、という依頼があったんです。BEGINもOKして、中学生が作詞に挑戦したんですけど、残念ながらそのまま使える歌詞はありませんでした。でも中学生が書いた詞をよく見てみると、「島は宝」「海は宝」…など”宝”って言葉を使った子が多かったんですね。じゃあ、この“宝”という言葉を使って歌を作ろう、ってなったんです」。
「NHK沖縄放送局で21年間にも渡って放送されていた『あたらしい沖縄のうた』という、沖縄独自の歌ばかりを集めた音楽番組があったんです。2001年秋、沖縄の人たちの誰もが親しんできた、この音楽番組で歌われてきた歌を歌うコンサート企画があり、BEGINも出演することになったんですね。じゃあ、せっかくだからこの完成したばかりの、この曲を歌ってみよう、ってなりました」。前田さんはこう語ります。
沖縄の人たちの前で初めて歌われたこの歌は、聴く人の心に深く響き、世代を超え、多くの人たちからの支持を集めることになります。翌2002年の春には、沖縄各地の中学校の卒業式など、多くの人たちが集まる場所で、歌われるようになるのと同時に、NHK沖縄放送局の“沖縄本土復帰30周年”イメージソングにも選ばれます。2002年5月、すでに沖縄の多くの人たちに支持を集めていたこの曲「島人ぬ宝」は、全国に向けてシングルとしてリリースされるのでした。
シングル「島人ぬ宝」は、チャート最高位47位ながらも、およそ1年あまりに渡ってチャートにランクインし続けるロングヒットになります。また2002年大晦日の、第53回NHK紅白歌合戦にBEGINは初出場、この歌「島人ぬ宝」を歌います。沖縄独特の三線(さんしん)の音、そして石垣島の子供たちの言葉を紡ぎ生まれた曲が、海を渡り、たくさんの人々の心に届いたのでした。
今日OAした曲目
M1.恋しくて/BEGIN
M2.Bithday Song/BEGIN
M3.涙そうそう/BEGIN
M4.島人ぬ宝/BEGIN
第38回目の今日お届けしたのは、「村下孝蔵/初恋」でした。
1953年2月、熊本県水俣市で映画館を営む家庭に生まれた少年・村下孝蔵。村下孝蔵は、実家の映画館で上映される、映画『若大将シリーズ』の主演・加山雄三がギターを演奏する姿に魅了され、自らもギターを弾くことに夢中になります。そして、地元・熊本の高校を卒業した村下孝蔵は、家族と共に、当時、吉田拓郎(よしだ・たくろう)らを生み、音楽を愛する若者の多くが憧れた街・広島にやって来ます。
憧れの地、広島にやってきた村下孝蔵はデザイン系の専門学校を卒業後、ピアノの調律師や、ホテルのラウンジで歌うアルバイトをしながら、地道な音楽活動をスタートさせます。1972年には、わずか300枚余りですが、初めての自主制作シングル「ひとりぼっちの雨の中」をリリース。1978年には、当時の広島在住のフォーク系のミュージシャンたちが結集して立ち上げた第2期フォーク村にも参加します。そして、1979年、自主制作としては初のLPレコード『それぞれの風』をリリースしたこの年、村下孝蔵は、当時のCBSソニーレコードが行った「第1回SDオーディション」に応募。見事、地方予選を勝ち抜き本選大会に出場、ハウンド・ドッグ、堀江淳、五十嵐浩晃らとともに合格、念願のプロ歌手としての扉を開くのでした。
「第1回SDオーディションの時、CBSソニーレコードとしては、当時流行っていた山下達郎)や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探していたんです。でも村下孝蔵は、その当時26歳で、それなりに年齢も重ねていたし、やっている音楽が、どちらかと言うとフォーク系だったので、SDオーディションに合格した時は、正直どうなるのかな?大丈夫かな?というのが印象にありました」。1979年の第1回SDオーディションから3年後に、村下孝蔵の担当マネージャーとなる、島田さんは、当時をこう振り返ります。
1980年5月、村下孝蔵は、自身がかつてリリースした自主制作LPに収めていた曲「月あかり」でデビューしますが、チャートにランクインすることは、ありませんでした。「村下孝蔵の場合、プロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化があった訳ではないんです。デビュー後も、基本的には広島を拠点に活動して、打合せや、レコーディングの度に上京していたんです。全国各地でのイベントの時には、スタッフとは、現地集合もありましたね」。結局、デビューした1980年、村下孝蔵がリリースしたのは、シングル1枚、アルバム1枚という結果に終わるのでした。
1981年1月、デビュー曲からおよそ8ヵ月後に、村下孝蔵は2枚目のシングル「春雨」をリリースします。「デビューシングル「月あかり」をリリースして間もない頃は、SDオーディションで一緒に合格した、ハウンド・ドックや五十嵐浩晃らと一緒にキャンペーンをやっていたんですが、2枚目のシングル「春雨」からは、村下孝蔵だけは少しプロモーションのスタイルを変えてました。彼の曲は、いきなりドッーン、と売れる、というスタイルではなく、演歌のようにジワジワと浸透させ、売っていこうと。だから、まずは大々的に露出をするプロモーションではなく、演歌歌手のように町のレコード店を回ったり、有線放送局を回ったり、そんな地道なキャンペーンがいいんじゃないか、ってなってました」。当時のスタッフ、島田さんはこう振り返ります。村下孝蔵が、産まれ育った熊本時代の想い出や、その後、生活をしていた広島での情景を綴った曲の数々。プロデューサーの須藤晃と一緒に、毎回、曲のテーマを決め、そのテーマに沿って、聞く人の心に深く沁み込んでいくように綴られた歌詞、そしてメロディ。須藤晃との二人三脚で生まれた曲を、さらに、地道なプロモーションを重ねて、多くの人々に聞かせることで、村下孝蔵は徐々に支持を集めていきます。1981年1月にリリースされた、2枚目のシングル「春雨」は、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクインし続けるのでした。
「82年に4枚目のシングルがリリースされるタイミングかな…。僕が担当マネージャーになったのは。1979年の第1回SDオーディションにも僕は関わっていたので、村下孝蔵を3年ぶりに直接観たんですが、オーディションの時から比べたら、良くなったなぁ、という印象を受けましたね。改めて彼の曲を聴き直してみても、オーディションの時には感じなかった、村下孝蔵ならでは、実直な性格が曲ににじみ出ている。そう感じました」。
島田さんが担当マネージャーになった直後の、1982年4月にリリースされた、4枚目のシングル「ゆうこ」。村下孝蔵は、それまでと同様に、広島に拠点を置きながら、全国の有線放送局回りや、レコード店回りなど、演歌歌手のような地道なプロモーション活動を続けていきます。そしてその甲斐あって、有線放送を中心にヒットの火がついたシングル「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、およそ7ヵ月半に渡ってチャートにランクイン。その年10月には、フジテレビ系の音楽番組「夜のヒットスタジオ」にも初出演します。地道で粘り強いプロモーション活動が、実を膨らませていくのでした。
そして村下孝蔵と、プロデューサーの須藤晃は、続くシングルのテーマに、新しい方向性で挑みます。
「デビューから「ゆうこ」までは、どちらかと言えば大人の恋愛模様を描いた曲が多かったから、今度は若い人の恋愛模様も描いてみようよ」。プロデューサーの須藤さんから、次の曲のテーマを告げらた村下孝蔵は、自身が中学2年生の頃。水泳部だった自分が、好意を寄せていたテニス部の女の子に、気にかけ振り向いてもらうために、水泳部の練習でグランドを走る時、わざとサッカーボールを蹴ってテニスコートに入れ、ボールを彼女にとってもらっていた実体験を、歌詞に綴っていきます。
「村下孝蔵の、性格そのものを映し出していますよね、この曲は。ピュアで真面目な村下孝蔵の性格が本当によくにじみ出て、初めて聞いた時に、僕らスタッフの反応も良かった。 リリース前に、コンサートで演奏してもお客さんの反応も良かった。これはヒットするな…って思いました」。村下孝蔵とって5枚目となるシングル「初恋」は、1983年2月、リリースされます
2月に、5枚目のシングルとしたリリースされたこの「初恋」。リリース直後の春先に、全国およそ30ヵ所近くでのプロモーションが予定されますが、村下孝蔵本人が体調を崩しプロモーションは全てキャンセル。しかし、有線放送を中心にリクエストを集めた「初恋」は、夏前からTBS系の音楽チャート番組「ザ・ベストテン」のTOP10に初めて入ると同時に、セールスチャートも最高位3位を記録、およそ7ヵ月半に渡ってチャートにランクインし続けます。誰もが、心の中に淡い思い出として残している情景を、素直な言葉で綴った名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.松山行フェリー/村下孝蔵
M2.春雨/村下孝蔵
M3.ゆうこ/村下孝蔵
M4.初恋/村下孝蔵
第37回目の今日お届けしたのは、「プリンセス・プリンセス/DIAMONDS<ダイアモンド>」でした。
1983年春、TDK主催の、「女性ロックバンド」結成を目的としたオーディションで選ばれた、奥居香、中山加奈子、渡辺敦子、富田京子、そして今野登茂子の、5人の少女。
出身地も年齢も違う5人が組んだバンドは、「赤坂小町」と名付けられ、1983年5月、東京銀座・山野楽器ホールで、握手会とライブが一緒になったデビューイベントを行います。当初、事務所の意向で、5人のルックスを重視し、ロックバンドでありながら、アイドル路線で売り出そうとしていた赤坂小町ですが、イベント会場やレジャー施設などで、「サティスファクション」「プリティー・ウーマン」といった洋楽のカヴァーを演奏するうちに、いつしか彼女達の心の中に「自分達は、アイドル路線のバンドではなく、ロックバンドになりたい!」と言う意識が芽生えるようになります。
1984年3月、それまでベース担当だった奥居香が、ボーカル・ギター担当に代わり、赤坂小町は、デビューシングル「放課後授業」をリリース。デビューから1年間にシングル3枚、ミニアルバム1枚をリリースしますが、翌1985年に入ると、バンド名を「赤坂小町」から「JULIAN MAMA」(ジュリアン・ママ)に変更。さらに、所属事務所の移籍問題も起こり、楽曲リリースはもちろん、ライブ活動もままならない状態に陥り、彼女達5人はひたすら練習スタジオに通う毎日を過ごすのでした。
そんな中、85年の秋に、東京・代々木公園野外音楽堂で行われた彼女達にとって久しぶりのライブを観た、レコード会社CBSソニーのディレクターの誘いをキッカケに、レコード会社をCBSソニーに移籍。バンド名も、「JULIAN MAMA」から「プリンセス・プリンセス」と変えて、再デビューを果たします。1986年5月、プリンセス・プリンセスは、ミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』を、CBSソニーからリリース。しかし、再び所属事務所の移籍問題が発生、楽曲のリリースはもちろん、ライブ活動さえ満足のいく活動ができない状態となります。しかし、その年の12月にようやく事務所の移籍問題も解決、CBSソニーの担当者も代わり、プリンセス・プリンセスは心機一転、再スタート切ります。
「それまでプリンセス・プリンセスは、隣のセクションの先輩が担当していたんですが、ある日突然、お前がやれ!って言われて…。それまでフュージョン系アーティストしか担当していなかった僕が、しかも女性のロックバンドの担当と言われても、どうしていいのか分からず、困ったんですよ。それで、学生時代に一諸にロックバンドを組んでいた友人で、のちにユニコーンを一緒に手掛ける笹路正徳(ささじ・まさのり)に相談したんです。どうやったらいいんだろうか?って」。その後長年に亘りプロデューサーとして、プリンセス・プリンセスを手掛けることになる河合マイケルさんは当時をこう振り返ります。プリンセス・プリンセスメンバー5人が思っている音楽に対する考え、事務所の目指す方向性…河合さんは、メンバー5人と、これからの作品作りについてじっくり話をしました。「赤坂小町時代から、売り方はアイドル路線だな…って思っていたんですけど、メンバー5人と話をしていくと、実は彼女達は自分達で曲を作って歌う、ロックバンドを目指したい!っていうクリエィティブな考え方をもっているのが分かりました。じゃあ、自分達で曲を書いてみようよ!」ってなりました。
1987年4月、シングル「恋はバランス」をリリースした直後のライブハウスツアーでは、前売券が十数枚しか売れなかったプリンセス・プリンセス。しかし、メンバー全員で作詞・作曲を手掛け、バンドスタイルを確立させたアルバム『TEREPORTATION』を、5月にリリースした後のライブハウスツアーでは、どの会場も倍以上の前売券が売れるようになり、メンバーは、小さいながらも手ごたえを感じるようになります。
11月にリリースされたシングル「MY WILL」が、スキー用品販売店「ヴィクトリア」のキャンペーンソングに起用され連日TV-CMで流れ始めると、プリンセス・プリンセスの名前は、お茶の間にも浸透し始め、「MY WILL」は、シングルとしては初のチャートイン、最高位75位を記録します。プリンセス・プリンセスは、1988年2月にシングル「19 GROWING UP」とアルバム『HERE WE ARE』をリリース。ライブを意識した曲を詰め込んだアルバム『HERE WE ARE』は、チャート最高位8位を獲得。4月には、念願の渋谷公会堂でのライブを行い、チケットも、わずか2時間で完売します。「当時のロックバンドは、ライブハウスを満員にできるような力がついてくると、次は渋谷公会堂。そしてその次は日本青年館。そして、日本武道館…。というのが夢であり、目標でした。彼女達も、地道にライブ活動を続けて、やっと渋谷公会堂を満員にすることができた。その充実感が、自分達の音楽への自信になり、楽曲作りにもプラスにはたらいていったんだと思います」。当時のプロデューサー河合マイケルさんは振り返ります。
ライブで手ごたえを掴んだプリンセスプリンセスは5月にシングル「GO AWAY BOY」をリリース。資生堂春のキャンぺーンソングにも起用され、チャートは最高19位を記録します。さらに、7月から8月にかけて行われた全国ホールツアーも、軒並みソールドアウト。8月31日、横浜のアメリカ軍施設内に、およそ1万3000人を集め行われたライブも、なんと1時間あまりで完売。 10月リリースのシングル「GET CRAZY!」は、フジテレビ系ドラマ「君が嘘をついた」の主題歌に起用されチャート最高位13位を記録、11月にリリースされたアルバム『LET’S GET CRAZY』は、チャート初登場で2位を記録。プリンセス・プリンセスは、女性ロックバンドの頂点に向かって加速していくのでした。
翌1989年1月、女性バンドとしては初めて日本武道館での単独ライブを成功させたプリンセス・プリンセスは、春にリリース予定のシングルの制作を始めます。
「年明けに、奥居香がデモテープを持ってきて、スタッフみんなで、そのデモテープを聞いた瞬間、なんかモータウン調の曲だね。これってロックバンドがやる曲か?って初めは思ったんですね。でも、何度も聞いている内に、まぁ、こんな曲もありかな…って思うようになって。奥居香は、それまでも自分に楽しい事があった時には、パッ、とひらめきのように曲が浮かぶタイプだったんですが…。この曲も、お正月に、奥居香が友達のお母さんからお年玉を貰ったらしいんですね。いい大人なのに…。その嬉しさのあまり、メロディが浮かんだらしいんです」。「奥居香は、洋楽の中でも割とポップス調な曲が大好きな女の子です。でも逆にギターの中山加奈子は、ギンギンのロックが大好きな女の子。だからこの曲も、志向が違うふたりが歌詞と作曲で組むことで、いいものが生まれるのでは?と考え、歌詞は中山加奈子に任せました」。河合マイケルさんから歌詞を任された中山加奈子は、およそ20時間近くに渡って歌詞の内容について河合さんと話し合います。
デビュー当時、大人たちの都合で、自分たちの思うようにはまったく活動ができなかったプリンセス・プリンセス。しかし、そんな苦しい中でも、ひたすらライブを通して、自分達の一番大好きな音楽、やりたい音楽を表現し続け、それを応援し続けてくれた人達がいる。たった数人の前で演奏していた時代からは考えられない、日本武道館でのライブも成功させることができた。そんな彼女達自身が、まさに成功への階段を昇っていく瞬間を、身近な言葉に置き換えて、歌詞の中で表現していったこの曲。奥居香が、「お年玉」と仮タイトルを付けたこの曲は、自分たちがライブを通してファンに磨かれ、光を放ち始めたという意味を込め、「DIAMONDS<ダイアモンド>」と名付けられ、1989年4月にリリースされました。
リリースから2ヵ月後の6月に、シングルとしては初のチャート1位を獲得したこの「DIAMONDS<ダイアモンド>」。その後も着実に売れ続け、100位以内に67週もランクイン、1989年の年間シングルチャート1位に輝きます。自分達のやりたい音楽を信じ、作り続けてきた結果が産んだ、光輝くJ-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.放課後授業/赤坂小町
M2.Kissで犯罪(クライム)/プリンセス・プリンセス
M3.19 GROWING UP/プリンセス・プリンセス
M4.GET CRAZY!/プリンセス・プリンセス
M5.DIAMONDS<ダイアモンド>/プリンセス・プリンセス
第36回目の今日お届けしたのは、「19/あの紙ヒコーキくもり空わって」でした。
1978年8月、広島県に生まれ、賀茂郡黒瀬町(現在の東広島市黒瀬町)で育った岩瀬敬吾と、1979年3月、長崎県に生まれ、両親の仕事の関係で呉市に移り住み、育った岡平健治。同級生のふたりは、17歳の夏、1996年7月に、呉市民会館で行われた音楽コンテスト、ヤマハ「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」の会場で、初めて出会います。
音楽好きな両親の影響もあり、フォーク系を中心とした音楽を好んで聞き、エリック・クラプトンのギターテクニックに憧れていた岡平健治。一方、CHAGE&ASKA、TMネットワークといったJ-POPを中心に聞きながらも、中学生の時に買ったエリック・クラプトンのアルバム『UNPLUGGED』に酔いしれていた岩瀬敬吾。音楽の志向は少し違う二人でしたが、お互いの存在価値を認め、次第に意気投合、一緒にバンドを組むことを決めます。
バンド名を「少年フレンド」と名付けたふたりは、地元、呉の駅前や中央公園を中心に路上ライブを行い、オリジナル曲や、ビートルズのカバー曲などを演奏、多い時には30人ほどの客を集める、地元ではちょっとした人気のバンドになります。しかし翌1997年3月、高校卒業で、岩瀬敬吾は東京の音楽専門学校へ、岡平健治は、大阪で働くことになり、少年フレンドの活動は、一時休止することになります。
一時は音信不通になったふたりですが、2ヵ月後には再び連絡をとり始め、岡平健治と岩瀬敬吾は、電話越しにお互いが作った曲を聞かせあうようになります。そして、別れて5ヵ月後の1997年8月、岩瀬敬吾を追っかけ東京に上京した岡平健治は、岩瀬敬吾と一緒に、再び少年フレンドとしての活動をスタートさせるのでした。
少年フレンドとしての活動を再開させた岡平健治と岩瀬敬吾のふたりは、11月に、専門学校の学園祭で、上京後初となるライブを行った後、デモ・レコーディングを行います。翌年98年からは、東京・下北沢ガレージや、原宿ルイードなどでの定期的なライブもスタート。そのライブ会場に現れたのが、当時、若者を中心に人気と話題を集めつつあった詩人、イラストレーターの326(みつる)こと中村満でした。
1998年4月、下北沢ガレージで行われたライブ会場に、知人を介して現れた、イラストレーターの326は、少年フレンドを紹介され、「ファンは少ないけど、曲はすごくいいね」と印象を語り、岡平健治、岩瀬敬吾のふたりと意気投合。326(みつる)は、作詞やイラスト担当として少年フレンドに加わることになります。
1998年7月、少年フレンドは、岡平健治と岩瀬敬吾ふたりが音楽活動を再スタートさせた時の年齢にちなみ、326が考えた「19」(じゅーく)にバンド名を変え、いよいよ、メジャー・デビューすることが決まります。
「岡平健治と岩瀬敬吾のふたりは、出会った最初から“自分たちはメジャーデビューできる”って、かなり強気に思ってました。でも、メジャーデビューした後に起こる、色んな苦労なんかは、全く想像していなかったと思いますよ」。当時、所属していたレコード会社ビクターで、19の宣伝担当をしていたスタッフは、デビュー直前の19(じゅーく)の印象について、こう振り返ります。1998年11月、19は、シングル「あの青をこえて」で、念願のメジャーデビューを果たすのでした。
「メジャーデビューをしたからと言って、19をとりまく環境がすぐに変わった訳ではなかったし、19本人達も、メジャー・デビューをした、という実感は感じてはいなかったですね。変わったと言えば、インディーズ時代にはなかった雑誌などのメディアの取材が、たまにあったぐらいで・・・。でも売る側の僕らスタッフは、どうやったら売れるか必死で考えていました。とにかく、多くの人達に19の歌を聞かせることができれば、聞いた人はきっと彼らの歌に反応する!そう思っていましたから。どうしたら、多くの人達に19の音楽を聞いてもらえるか?色々方法を考えました」。当時の宣伝担当スタッフはこう振り返ります。19の存在を多くの人達に知ってもらうために、メンバーとスタッフが考えた方法。それは、とにかく全国のレコード店を回り、インストアライブを積極的に行うことでした。デビュー曲発売直後から始まった、全国のレコード店でのインストアライブ。それは、年が明け、2枚目のシングルの制作が始まっても続くのでした。
1999年1月、インストアライブの合間をぬって始まった2枚目シングルの制作。「いい曲をつくろう!」その思いだけで、岡平健治と岩瀬敬吾は、ふたりが貯めておいた数あるデモ曲の中から、幾つか候補曲を選びます。そして、その曲が「春のTBSキャンペーン・ソング」に起用されることも決まり、曲の長さの制約などに苦労しながらも、メロディを完成させていくのでした。そして完成したメロディに、今度は326を交えて、歌詞について何回も議論を交わす、岡平健治と岩瀬敬吾。学生時代、わら半紙で作られたテスト用紙の裏に落書きをしたり、そのテスト用紙を使って紙ヒコ—キを折って遊んでいた思い出。そして、一定の条件が揃わないと、きれいに飛ばない紙ヒコ—キと、人間が持つ不安な気持ちとを、かけ合わせたイメージで綴られる歌詞。2ヵ月近く、試行錯誤を重ね、ギリギリのスケジュールの中で作られた2枚目のシングル「あの紙ヒコ—キくもり空わって」は、1999年3月にリリースされます。
「曲がリリースされても、デビュー曲の時と同じで、とにかく全国のレコード店を回りインストアライブを行っていました。でも、デビュー曲とこの曲が違っていたのは、聞く人の反応ですね。レコード店でインストアライブを行うごとに、お客さんが増えていく。デビュー直後は、3人のお客さんの前で歌ったこともあったんですが、この曲の時には、イベントを行うごとに何十人単位でお客さんが増えていく。そして、お客さんが増えればCDも売れる、そしてまた話題になる。そんな相乗効果もあって、6月にTBS系の歌番組『うたばん』に出演した後、一気に人気に火がつき、7月には『ミュージックステーション』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』とたて続きに出演して、気が付いたら、CDもどんどん売れているって感じでした」。
シングル「あの紙ヒコ—キくもり空わって」はチャート初登場46位でしたが、発売から4ヵ月経った7月に最高位6位を記録。その後も、12月まで37週に渡ってチャートにランクインし続けるロングヒットになり、その年1999年大晦日に行われた、『第50回NHK紅白歌合戦』にも出場します。19の、自分達の唄を、直接届けるという信念が、聞く人の心に響き渡ったJ-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Lalya〜unplugged/エリック・クラプトン
M2.笑った/少年フレンド
M3.あの青をこえて/19
M4.あの紙ヒコーキくもり空わって/19
第35回目の今日お届けしたのは、「ウルフルズ/ガッツだぜ!!」でした。
1988年、大阪・中津の喫茶店「カンテ・グランデ」のバイト仲間、松本敦(トータス松本)、岩本圭介(ウルフルケイスケ)、黒田利博(ジョン・B・チョッパー)の3人は、同じ「カンテ・グランテ」のアルバイト仲間の送別会で、3人の共通の趣味が音楽であることを知り、意気投合。バンド結成を目標に、レンタル・スタジオでのセッションを重ねるようになります。
その年、4月のある日、岩本圭介の自宅で、岩本と松本敦は、それぞれのお気に入りの音楽について語っていました。その時目に止まった1つのレコード、KC&ザ・サンシャイン・バンドの帯に書かれていた、キャッチコピー、ソウルフルを二つの言葉に分けた、“SO”と“ULFUL”から、バンド名を「ウルフルズ」と名付けることを、2人は決めます。正式なドラマーが不在のまま大阪のライブハウス「ファンダンゴ」でライブ活動をスタートさせたウルフルズ。やがてウルフルズは、関西一帯のライブハウスでコアなファンを獲得するようになります。翌1989年夏、岩本圭介の友達の弟、佐子博幸(サンコンJr)を正式にドラマ—に迎えた頃には、ライブの評判が各地に広がり、ウルフルズのもとには数多くのライブハウスから出演依頼が舞い込むようになります。
1990年6月、新宿ロフトでのライブを観た、レコード会社東芝EMIのディレクターから、ウルフルズはメジャーデビューのオファーを受けます。そして、翌、91年1月から、ウルフルズのデビューに向けた、レコーディングが始まるのでした。デビュー直前の2月、ウルフルズのメンバーは、大阪時代から自信をもっていたライブを、新宿・日清パワーステーションで行いますが、観客はわずか200人余り。さらに、5月にリリースされたデビューシングル「やぶれかぶれ」、6月にリリースされたアルバム『爆発オンパレード』のセールスも散々で、アルバム『爆発オンパレード』は、チャートにランクインすることなく、リリースからわずか数か月後には、廃盤になることが決定。追い打ちをかけるように、レコード会社は2枚目のアルバムの制作中止を決め、ウルフルズはバンドとしての実力の無さを感じるようになります。翌1993年、5月に「マカマカ BUN BUN」、10月に「世の中ワンダフル」とシングルをリリースする、ウルフルズ。しかしどちらも、チャートにランクインすることなく。ウルフルズは次第に追い込まれていくのでした。「もうレコード会社との契約は切られるかもしれない。そんな不安がありました…。でも、好きなライブをやっていれば、自分達が仕事をしているという気分ではいられるから、とにかくライブだけは途切れずにやらないといけない。そんな気持ちでした」。当時について、自らの記憶をたどり、語った本『歌いたいんや!』で、トータス松本はこう振り返っています。
翌1994年1月。ライブ活動を地道に続けていたウルフルズのもとに、レコード会社東芝EMIのディレクターは、ウルフルズを売るための、最終企画「ウルフル大作戦」を提案します。“ウルフルズの持っている陽気さと植木等さんがダブって見える”、“大瀧詠一の曲をカバーしたらどうか?”様々なアイディアが盛り込まれた企画「ウルフル大作戦」。その中ひとつにあったのが、大瀧詠一、山下達郎らと一緒に音楽活動をしていた伊藤銀次(いとう・ぎんじ)をプロデューサーに迎えることでした。伊藤銀次は、それまでのウルフルズの楽曲を聞き、メンバーにこう伝えます。「君たちの今までの曲を30曲ほど聞いたけど、使えるのは2曲ぐらいしかないよ」。手厳しい伊藤銀次の言葉。その後、何度も何度も、曲作りについて伊藤銀次と議論を交わした、トータス松本をはじめとしたウルフルズのメンバー。さらに伊藤銀次は、曲作りの中心となっていたトータス松本にこう言います。「自尊心は捨てて、トータス松本という怪人を作ろう。おまえは、ロック界のナインティナインにならないといけない」。
伊藤銀次と出会い、レコード会社を説得し作った2枚目のアルバム『すっとばす』は、1994年8月にリリースされます。初回プレスわずか1700枚という枚数ながら、アルバム『すっとばす』はリリース後、アルバム収録曲「借金大王」のプロモーションビデオのユニークさも手伝って、関西のFM局を中心に頻繁にOAされるようになります。またアルバムタイトル曲「すっとばす」は、フジテレビ系のバラエティ番組「さんまのまんま」のオープニングテーマ曲として起用され、11月に5枚目のシングルとしてもリリースされます。アルバム『すっとばす』は、その年の暮れまでに再プレスを重ねて、8000枚まで売り上げを伸ばすのでした。
翌1995年3月、その年の1月にロンドンで録音された6枚目のシングル「トコトンで行こう!」をリリース。その直後の、4月に行われた新宿・日清パワーステーションで行われたライブでは、それまで数百人しか集まらなかった動員が、一気に膨れ上がりほぼ満員に。また同じ4月からは、CATVの音楽専門チャンネル・スペースシャワーTVに、トータス松本がユースケ・サンタマリアと一緒に出演する番組『夕陽のドラゴン』も始まるなど、ウルフルズの人気は、徐々に広がっていくのでした。7月にリリースした、シングル「SUN SUN SUN’95」は、最高位96位ならがら、ウルフルズとしては初めてチャートインを果たします。手ごたえを感じ始めたレコード会社のスタッフは、ウルフルズのメンバーに伝えます。「年末に、勝負のシングルを出そう!」。しかし、「どんな曲が、ウルフルズにとって勝負の曲なんだろうか?」。悩んだメンバーは、フジテレビの音楽番組『TK MUSIC CLAMP』に出演した際、収録の合間に、番組MCの小室哲哉に、曲作りの手法について尋ねます。「ウルフルズは、ディスコ調の曲とかやらないの?ABBAとか嫌い?もし好きだったら、あんな曲もやったら面白いよ」。小室哲哉のアドバイスを頭の片隅に置きながらトータス松本は、再び曲作りを始めます。そして、テープにデモ曲を入れていた時、たまたま部屋に流れていた、KC&ザ・サンシャイン・バンドの「That’s The Way(I Like It)」を聞いた瞬間、あるひらめきが浮かびます。
シングル候補曲6曲を収録し、最後に「おまけ」と仮タイトルを付けた7曲目が入ったカセットテープを、スタッフ会議に持っていったトータス松本。1曲目から曲をかけながら順番に説明しますが、関係者の反応はイマひとつ。そして「おまけ」と書かれた7曲目を、トータス松本は「今からかける曲は、本当におまけです。ひとつのアイデアということで聞いてください」と前フリし、ラジカセのスタートボタンを押しました。「That’s The Way(I Like It)」に合わせて、トータス松本が空耳で歌ったその曲が流れた瞬間、会議に出席していたスタッフの口々から声があがります。「いいじゃない!」「おもしろいじゃない。これ絶対シングルだよ!」。「おまけ」と書かれたデモテープに入った曲を、シングル化するためにスタジオに入ったウルフルズ。しかし、トータス松本は、最後まで悩み考えていたと言います。「この曲がシングルと言われても、あのカセットの中には、もっと他にも自分の好きな曲があるのに…。僕は、最後の最後まで、これはひとつのアイデアであって、こんなもん売れるわけないし、売れたら困るかもしれへん。そんな感じて作ってました。他のメンバーも、これ絶対売れるで!って興奮しながら言いましたけど、僕だけは、え〜っ?て感じでしたね」。トータス松本が、葛藤と戦いながら作ったシングル「ガッツだぜ!!」は、1995年12月にリリースされます。
シングル「ガッツだぜ!!」は、12月にリリース後、年明けからじわじわと売り上げを伸ばし続け、チャート最高位6位、およそ5ヵ月近くに渡ってチャートにランクインし続け、約66万枚の売上を記録します。またその年1996年12月31日大晦日に行われた、第47回NHK紅白歌合戦にウルフルズは初出場、白組のトップバッターとしてこの「ガッツだぜ!!」を歌います。「勝負のシングルを作る!」というプレッシャーの中、ひとつのひらめきによって生まれた、運命の名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.That's The Way(I Like It)/KC&ザ・サンシャイン・バンド
M2.やぶれかぶれ/ウルフルズ
M3.借金大王/ウルフルズ
M4.ガッツだぜ!!/ウルフルズ
第34回目の今日お届けしたのは、「鈴木雅之&菊池桃子/渋谷で5時」でした。
1956年9月、東京都大田区大森に生まれた鈴木雅之は、小学校の頃から、4歳年上の姉・聖美の影響で、R&Bを中心にアメリカンポップスを聞くようになります。中学に入り友人とロックバンドを結成、ドラムとボーカルを担当していた鈴木雅之は、高校を3年で中退した後、父親が経営する旋盤工場を手伝いながら、幼なじみ達と音楽活動を続け、1975年、中学・高校時代の幼なじみとドゥワップ・グループ「シャネルズ」を結成します。シャネルズは、翌1976年に当時の人気TV番組『ギンザNOW』に出演し、番組内で募集されたアマチュアグループ人気投票で、見事NO.1を獲得します。さらに、1977年、1978年と、2年連続でヤマハのアマチュアバンドコンテスト「イーストウエスト」入賞を果たしたシャネルズは、1978年からは新宿のライブハウス「ルイード」で、定期的なライブを行うようになります。月に1度の新宿「ルイード」でのライブは、話題が話題を呼び、毎回満員の大盛況となり、ライブを通して山下達郎、大瀧詠一らとも交流を持つようになったシャネルズのもとにはCMソングの仕事も舞い込むようになります。関係者の間では、“スーパー・アマチュア・グループ”と呼ばれるようになったシャネルズは、1980年2月、シングル「ランナウェイ」でついにデビュー。黒塗りの顔をした、和製ドゥワップ・グループは、またたく間に若者の心をつかみ、連日連夜テレビやラジオに出演。シングル「ランナウェイ」は、チャート1位を獲得、売上も110万枚を記録します。
1981年2月にリリースされた3枚目のシングル「街角トワイライト」で、再びチャート1位を獲得したシャネルズは、アメリカ・ロサンゼルスの名門ライブハウス「WHISKY A GOGO」にも出演、デビューから3年間で、6枚のオリジナルアルバムと2枚のベストアルバムをリリースします。1983年3月からはグループ名を「ラッツ&スター」に改め心機一転。4月にリリースされた、シングル「め組のひと」は、資生堂の夏のキャンペーンソングにも起用され、またまたチャート1位を獲得します。
すっかり人気者になったラッツ&スターですが、1986年に入ると、フジテレビのバラエティ番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」にメンバー2人が出演するなど、メンバー個々の活動も行うようになります。そして1986年2月、今度は鈴木雅之が、大沢誉志幸プロデュースでシングル「ガラス越しに消えた夏」、アルバム『Mother of Pearl』を、ソロとしてリリースするのでした。
「僕はそれまで、大沢誉志幸の担当していたんです。ある日大沢に、“今度、友人の鈴木雅之のソロを手伝うから、手伝ってくれ”って言われて、初めだけ手伝うつもりでかかわったんですが、大沢は曲だけ書いて、いつの間にか鈴木さんから外れて…。鈴木さんからは「これからも一諸にやろう!」と言われるし…。初めは迷いましたけど、しばらく考えて、どうしたらシャネルズ/ラッツ&スターの鈴木雅之のイメージを、ソロアーティスト鈴木雅之に変えられるか?って思い、そこから、色々考えました」。当時、鈴木雅之を担当していたレコード会社のプロデューサーは、こう振り返ります。
鈴木雅之初のソロ・シングルとなった「ガラス越しに消えた夏」は、日清食品「カップヌードル」のCMソングとして起用され、チャート最高位15位を記録。ドゥワップを基調としたポップスを歌うグループ、シャネルズ/ラッツ&スターのリードボーカルとしての鈴木雅之から、大人の男女の物語を熱く歌うソロ・アーティスト・鈴木雅之として、新たな魅力を切り開くことになります。「その時、鈴木雅之は、ハッキリは言いませんでしたけど、グループとしての活動に行き詰まりを感じていたんでしょうね。」と、当時のプロデューサーはふりかえります。
続けて鈴木雅之は、数年前からラッツ&スターに、コーラスとして参加し、コンサートでは、一部ソロで歌を歌っていた実の姉・鈴木聖美の作品を、ラッツ&スター名義でプロデュースします。1987年4月にシングル「シンデレラ・リバティ」を、続いてアルバム『WOMAN』を5月にリリース。そして7月には、兄弟でのデュエット曲「ロンリーチャップリン」をリリース。「ロンリ—チャップリン」は、およそ半年近く、チャートにランクインするロングヒットとなります。「ロンリ—チャップリン」がヒットする中、鈴木雅之は本格的に、ソロとしての活動に取り組むようになります。「初めだけの約束が、いつの間にか鈴木雅之と一緒に仕事をするのが楽しくなりました。彼自身、音楽は聞く人達へのメッセージ、だと考えていました。そして、メッセージソングは色々あるけど、究極は、愛するってことを全面に打ち出すことなんじゃないか?って。だから、自分なりの解釈でラブソングを届けていきたい、と彼は思ってるんです。それは、ソロになってからずっと変わらない鈴木雅之の歌のコンセプトです。だからプロデュースする側は、個性の強い鈴木雅之を、どうしたら、その個性を殺さずに、うまくプロデュースできるか考えるんです」。鈴木雅之の、ソロアーティストとしての個性を伸ばす手段。鈴木雅之と、レコード会社のプロデューサーは、個性派揃いのアーティストが手掛けた曲を、あえて鈴木雅之が歌うことで、彼自身の個性をさらに伸ばすことを考えていきます。山下達郎、小田和正、大沢誉志幸といった、古くから、鈴木雅之が親しくしているアーティストたちが手掛けた、ラブソングを積極的に歌い続ける鈴木雅之。シングルとしてのセールスは伸び悩むものの、アルバムは好調なセールスを記録。1991年6月にリリースされたベストアルバム『MARTINI』は、100万枚を超えるセールスを記録し、92年9月にリリースされたアルバム『FAIR AFFAIR』は、チャート初登場1位を記録します。
1993年、次のアルバム制作に取り掛かった鈴木雅之に、プロデューサーはある提案をします。「アルバム収録曲を考えていた時、当時洋楽で流行っていたバネッサ・パラディを聞いて、“この声面白いな”、鈴木の曲に使えないかな?と思ったんです。日本人なら、声の感じは誰が近いんだろう…と考え浮かんだのが、菊池桃子さんだったんです」。デュエット曲に対して、「ロンリ—・チャップリン」のアダルトなイメージがあった、鈴木雅之とプロデューサーは、あえて同じカラーで染まることを選択せず、“アイドル”菊池桃子とのデュエットに挑戦することを決めます。曲のイメージは、古くからデュエット曲の名曲として親しまれてきた『銀座の恋の物語』。ただ、時代は1993年、待ち合わせ場所も、おしゃれなOL達がデートの待ち合わせに使っていた渋谷。待ち合わせ時間は、仕事が終わった6時とか、7時じゃなく…デートなんだからちょっと仕事をサボっちゃえ。ということで、5時に設定されます。
1993年9月にリリースされたアルバム『Perfume』の中に収録された楽曲として作られたこの曲「渋谷で5時」は、話題を呼び、翌94年1月に、ブティックJOYのTV-CMソングとして起用された「違う、そうじゃない」と両A面扱いで、シングルとしてリリースされます。
もともとアルバムの中の、ひとつの曲として作られたこの曲は、デュエット曲として、多くの人々の支持を集め、シングルとしてリリース後、チャート最高位9位、約30万枚の売上を記録します。そして、リリースから2年後の1996年には、バージョンを変えて、「渋谷で5時」だけでシングルとして改めてリリースされます。ソウルフルな歌声でラブソングを歌い続けてきたソロ・アーティストの、ポップな魅力を発見することとなったJ-POPデュエットの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.ランナウェイ/シャネルズ
M2.ガラス越しに消えた夏/鈴木雅之
M3.ロンリーチャップリン/鈴木聖美&ラッツ&スター
M4.渋谷で5時/鈴木雅之&菊池桃子
第33回目の今日お届けしたのは、「藤井フミヤ/TRUE LOVE」でした。
「自分もバンドをやってみたい」。1975年冬、福岡県久留米市に住んでいた当時中学一年生の藤井郁弥は、テレビで、その年の春に解散したロックンロール・バンド「キャロル」の解散コンサート番組を見て、音楽の素晴らしさのとりこになります。藤井郁弥は早速ギターを買い、中学校の友人4人と「キャロル」のコピーバンド「ポパイ」を結成、文化祭で演奏をするようになります。高校進学後は、今度は映画『アメリカン・グラフィティ』の世界に憧れ、軽音部の先輩達と、R&Rバンド「カルコーク」を結成。週末に、地元・久留米市で他のR&Rバンドなども集まって行われていた、通称「ダンパ」(ダンスパーティー)で演奏をするようになります。
「カルコーク」はやがて、同じ久留米市で活躍していた別のR&Rバンド「シェイク」と合流、1980年春、新たに「THE CHECKERS(ザ・チェッカーズ)」と名付けたバンドを結成します。その後、幾度となくメンバーチェンジを重ねながら「THE CHECKERS」は、1981年3月「リーダー役のトール(武内享)、フミヤ、タカモク(高杢禎彦)、ユウジ(大土井裕二)、マサハル(鶴久政治)、クロベエ(徳永善也)、ナオユキ(藤井尚之)」の7人メンバーになり、1981年9月に行われたヤマハのアマチュアバンドコンテスト「第8回ライトミュージックコンテスト」本選大会に出場、ジュニア部門グランプリを受賞し、プロデビューの誘いが舞い込みます。しかし、メンバーのクロベエとナオユキの2人がまだ高校生だった「THE CHECKERS」は、2人の高校卒業を待って、1983年にデビューすることになるのでした。
1983年3月、クロベエとナオユキの高校卒業を待って、福岡から上京した「THE CHECKERS」の7人は、半年に渡るレッスンなどデビュー準備を終え、1983年9月、シングル「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。翌1984年1月にリリースした2枚目のシングル「涙のリクエスト」がリリースされる頃には、アイドル風の全身チェック柄の衣装に身を包んだルックスと、歌って踊れるポップな楽曲で、女子高生を中心とした多くのファンの心をつかみ始めるのでした。シングル「涙のリクエスト」が、3月にTVの音楽チャート番組の1位を獲得すると、人気は一気にブレイク。5月に3枚目のシングル「哀しくてジェラシー」がリリースされると、デビューシングル「ギザギザハートの子守唄」、2枚目のシングル「涙のリクエスト」もチャートに返り咲き、3曲同時に、テレビのチャート番組のベスト10にランキングされる快挙をなしとげます。
1984年11月にリリースされた4枚目のシングル「ジュリアに傷心」は、翌、85年のシングル年間チャート1位を獲得するなど、「THE CHECKERS」は押しも押されぬトップアイドルとしての地位を確立させます。しかし、その一方で、アルバムの収録曲には、自分達が作ったオリジナル曲が使われるものの、シングルには自分達の曲を使ってもらえない状態に、「何でシングルに、自信を持って作った自分達の楽曲を使ってもらえないのか?」といういら立ちを覚えるようになり、次第にスタッフとの距離感やストレスなどを感じるようになります。そして1986年秋、「もう自分達のオリジナル曲だけでやっていける」と主張する「THE CHECKERS」のメンバーと、作曲家が作った曲を歌うことを主張するスタッフと対立は爆発。何度となく激しい議論を積み重ねた結果、ついに、藤井郁弥が作詞、実の弟藤井尚之が作曲した楽曲「NANA」が、11枚目のシングルとしてリリースされることになります。
スタッフとメンバーの対立の中から生まれた、「THE CHECKERS」のメンバー作による初のシングル「NANA」は、歌詞の内容の過激さから、NHKで放送禁止になり、その話題性もあって、チャート最高位2位を記録。自分達の曲作りに自信を深めた「THE CHECKERS」は、「NANA」以降解散までシングル曲は全て自分達で手掛けることになります。また翌1987年5月には、全曲メンバーが手掛けたアルバム『GO(ごー)』を、リリース。『GO』もチャート初登場1位を獲得し、「THE CHECKERS」は、アイドルから、アーティストへ、と成長をとげていくことになります。ただ、その一方で、この年1987年10月には、メンバーのひとり藤井尚之が、メンバー初のソロシングル「NATURALLY」と同名のアルバムをリリースし、シングルはチャート最高位2位、アルバムはチャート最高位1位を獲得します。これをキッカケに「THE CHECKERS」は、翌1988年から、グループとして初の東京ドームコンサートを成功させる一方で、メンバーそれぞれもソロ活動を行うようになります。
そして、1988年12月には、遂に藤井郁弥が、自らもCFに出演することになったライフィックス胃腸薬のCF曲「Mother’s Touch」を、「THE CHECKERS」としてではなく、藤井郁弥ソロ名義でリリースすることになります。
「藤井郁弥ソロ名義の「Mother’s Touch」は、あらかじめCFタイアップ曲としてリリースすることが決まった後で、郁弥が歌うことになったんです。だから郁弥自身も、この曲は企画性あっての曲だから、藤井郁弥のソロの曲ではない、と思っていましたね」。当時、「CHECKERS」を担当していた、レコード会社のディレクターは、こう振り返ります。藤井郁弥名義としてリリースされたシングル「Mothers’ Touch」は、藤井郁弥自身の考えでプロモーション活動を行わなかったにもかかわらず、チャート最高位2位を記録します。
その後も「THE CHECKERS」は、メンバーそれぞれがソロ活動を行いながら、グループとして活動を続けます。そして、デビュー10周年を迎え、誰もがこのまま「THE CHECKERS」は続くものだと思っていた矢先の1992年10月、、突然の解散宣言を発表。大晦日に行われたNHK「紅白歌合戦」への出場を最後に、チェッカーズはバンド活動に終止符を打ちます。
「これから何をすればいいのだろうか?」という戸惑いを感じながら、休養期間に入った藤井郁弥の元に、1993年5月、「THE CHECKERS」時代のレコーディングディレクターを通して、フジテレビ亀山千広プロデューサーから、その年の秋にスタートする、柴門ふみ原作『あすなろ白書』の主題歌制作の依頼が舞い込みます。「亀山さんは、『あすなろ白書』をドラマ化するにあたって、ビッグな新人に主題歌をお願いします」という話だったんです。初め「ビッグな新人って誰?」って、しばらく考えて、あー、郁弥か。って思いましたね」当時のレコーディングディレクターはこう振り返ります。「サイモン&ガーファンクルのような、ピュアなミディアムテンポな曲で展開したい」。フジテレビ亀山プロデューサーからの楽曲制作の依頼に、藤井郁弥は「分かりました。『あすなろ白書』は原作も分かるし、曲も僕が作りましょう」と宣言。「THE CHECKERS」時代、歌詞を手掛けたことはあっても、作曲は手掛けたことはなかった藤井郁弥の言葉を聴いた時、スタッフのほとんどは、半信半疑だったといいます。「やっぱりできませんでした、っていうまさかの時もあるし…、と思い、曲作りを外部に頼む準備もしていました」。
数週間後、藤井郁弥から渡された1本のデモテープを、自宅のカセットデッキで聞いたディレクターは、聞いた瞬間こう感じたといいます。「この曲はもう何も直す必要がない」。「THE CHECKERS」時代にはできなかった作曲に関わることで、ソロデビューをする自分の、内面的な部分から変わろうとしていた藤井郁弥。人間の純粋でピュアな気持ちを歌ったこの曲は、アコースティックギター1本で奏でられ、一瞬にしてディレクターの心に響き渡ります。バンドサウンドやダンスミュージックなどがヒットチャートの上位を占める当時の音楽状況の中、レコード会社のスタッフの中では「曲が真面目すぎる。デビュー1曲目はもっと派手でインパクトのある曲の方がいいんじゃないか?」という声もあがったといいます。しかし藤井郁弥と親しいスタッフは、それを振り切り、郁弥の名前もカタカナに変えて、ドラマ『あすなろ白書』の主題歌「TRUE LOVE」は、藤井フミヤのソロデビューシングルとして、11月にリリースされます。
チャート初登場1位を記録し、202万枚というセールスを記録した「TRUE LOVE」。「「藤井フミヤにとって「TRUE LOVE」は、THE CHECKERS時代からずっとフミヤを信じ、応援し続けてくれたファンに対しての感謝の気持ち。そしてこれからもずっと変わらない気持ちで応援し続けて欲しい・・・というメッセージ的な歌なんです。だからこの曲は、今もフミヤの生命力でもあるし、ファンにとっても、ずっとエネルギーを与え続けてくれる曲だと思います」。ソロとして独り立ちする藤井フミヤの、過去へのケジメと感謝を込めたJ-POPの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.ファンキー・モンキー・ベイビー/キャロル
M2.Mother's Touch/藤井郁弥
M3.TRUE LOVE/藤井フミヤ
第32回目の今日お届けしたのは、「大沢誉志幸/そして僕は、途方に暮れる」でした。
1957年10月、東京都杉並区高円寺に生まれた、大沢誉志幸。中学に入ると大沢誉志幸は、GSを聴いていた2歳年上の兄の影響で音楽に興味を持つようになり、エルトン・ジョン、ジョン・レノンといったポップスを聴くようになります。
高校2年生になった大沢誉志幸は、音も声も全く知らずに買ったボブ・ディランのアルバム『The Free wheelin’ Bob Dylan』を聴き、衝撃を受けます。しわがれた声、とげとげしい歌い方、そして戦争のことや人間の生き方などを歌った歌詞、それまで大沢誉志幸が聴いていた音楽とは異なる、異質なボブ・ディランの音楽すべてに驚きを感じるのでした。何度も何度も擦り切れるまで聴きこんだボブ・ディランのアルバム『The Free wheelin’ Bob Dylan』。ボブ・ディランのコピーをしながら音楽にのめり込んでいく大沢誉志幸は、駒沢大学に入学後、大学の音楽サークルに入部、大学3年の時、サークルの先輩から「プロを目指したバンドを作りたい。一諸にやらないか?」と誘われ、バンドを結成します。そして、ギタリストを希望しながらも、ボーカルがいない、という理由でメイン・ボーカリストに仕立てあげられるのでした。バンドは、「クラウディ・スカイ」と名付けられ、ライブハウスなどで活動する傍ら、いくつかのアマチュアコンテストへも応募。本人たちや周囲も予想外、という渡辺プロダクションのオーディションに合格し、プロデビューのチャンスをつかみます。リズム&ブルースをベースに、当時流行っていたパンクの要素も取り込んだバンド「クラウディ・スカイ」は、1981年4月シングル「悲しきコケコッコ」でデビューします。
シングル「悲しきコケコッコ」でデビューを果たした「クラウディ・スカイは、その後アルバム『明日はきっとハレルヤ』をリリース、地方のライブハウスや学園祭ライブに出演するようになります。「クラウディ・スカイ」は、原田真二がメインを務めた東京大学の大学祭「五月祭」では、前座としてデビュー直後のハウンド・ドックと対バンライブなどを行ったりします。しかし「クラウディ・スカイ」は、アルバム1枚、シングル2枚を出すものの、バンドの方向性を巡って意見のくい違いがおき、わずか8ヵ月余りで解散するのでした。
「「クラウディ・スカイ」は、最初にプロを意識したバンドでした。僕が黒人音楽が好きだったので、アニマルズや初期のローリング・ストーンズのサウンド・イメージで演奏する部分は好きだったのですが、歌詞のイメージはコミカルな部分が誇張されて、時代にそぐわなかったことを覚えています。確か当時は、レコード会社のディレクターの方向性に沿って、歌っていましたし。ただ、「クラウディ・スカイ」は、寄せ集めのようなバンドで、強い絆があったわけじゃあありませんね」。「クラウディ・スカイ」の思いでについて、大沢誉志幸はこう語ります。
1981年暮れに「クラウディ・スカイ」を解散した大沢誉志幸は、単身ニューヨークに渡り、黒人音楽の殿堂アポロシアターや、ジャズ・クラブ、美術館巡りなど、刺激的な日々を送り、その受けた刺激を楽曲作りに反映させていきます。「クラウディ・スカイ」解散直後から始めていた、他のアーティストへの楽曲提供も本格化、1982年5月にリリースされチャート最高位8位を記録した沢田研二の「おまえにチェックイン」ほか、山下久美子などへも曲を提供するようになります。「クラウデイ・スカイ」を解散したことに対しての、自らの損失感を埋めるために多くの曲を書き、何社ものレコード会社にデモテープを送り、他のアーティストへも楽曲提供を積極的に行っていた大沢誉志幸。およそ1年のニューヨークでの生活を経て帰国、今度は「洋楽的なアプローチで歌うことに、自分なりの強い個性を感じていたのでソロで歌うことにチャレンジしてみたかった」という思いもあって、1983年にエピック・ソニーと契約します。そして6月、シングル「彼女には判らない」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』で、ソロデビューを果たします。
大沢誉志幸のデビューアルバム『まずいリズムでベルが鳴る』は、作詞に、それまでに沢田研二の作品でも手を組んだことのある銀色夏生、アレンジには大村雅朗を起用、そして沢田研二のバックバンドを中心にレコーディングされます。大沢、銀色、大村の3人で半年近くもミーティングを繰り返し、大沢自身が描くサウンドを実現するために粘り強く作り上げていかれました。
1983年6月のソロデビューから、およそ1年間にシングルを4枚、アルバムを2枚、と自分自身の作品を積極的にリリースしていく大沢誉志幸。その一方で、ソロデビュー直前の大沢誉志幸が、中森明菜に提供した「1/2の神話」が、チャート1位を獲得するなど、大沢誉志幸の作曲家としての才能も開花するのでした。
1984年、大沢誉志幸は、3枚目のアルバム制作のため向かったニューヨークで、ある曲をレコーディングすることを決めます。「最初、この曲は、AメロとBメロの部分しかなかったんです。しかも、メロディーは現在の曲とは少し違っていて…。当時僕は、作曲の依頼を受けていて、この楽曲を最初「鈴木ヒロミツ」に提供したんです。しかし、なかなか彼のレコーディングが進まないので、一度僕の元に戻ってきました。すると今度は、山下久美子にこの楽曲をほぼ同じ形で提供することになって…。でも、この時もやはりレコーディングされなかったので、結局また僕の元に戻ってきたんです」。
二度に渡り、他のアーティストに提供することが取りやめになり、大沢誉志幸の元に戻ってきたこの曲。大沢誉志幸は、デビューアルバム以来ずっと彼の歌に詞を付けてきた銀色夏生に歌詞制作を依頼、銀色夏生から出来上ってきた歌詞に合うようにアレンジ、さらに、大サビ部分の歌詞とメロディーを変更し、曲は完成します。
ミックスダウンなど全てのレコーディング作業を終えた、大沢誉志幸は、ニューヨークのホテルのベッドの上で、ひとりウォークマンから流れるこの曲を聴いた瞬間、銀色夏生の手がけた歌詞の素晴らしさと曲の完成度に思わずガッツポーズをするのでした。
楽曲「そして僕は、途方に暮れる」は、日清カップヌードルのCFソングとしても起用され、およそ30万枚の売上を記録、チャートも自身最高位の6位を記録します。「それまで、作曲家的なヒット曲ばかりだったので、初めて自分の作った楽曲を自分で歌ってヒット、感慨深いものがありました。この曲「そして僕は、途方に暮れる」は、=僕、大沢誉志幸だと思います」。若さゆえに覚えた損失感をバネに、曲作りを重ねた上に掴んだ、J-POPの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.風に吹かれて/ボブ・ディラン
M2.悲しきコケコッコ/クラウディ・スカイ
M3.彼女には判らない/大沢誉志幸
M4.そして僕は、途方に暮れる/大沢誉志幸
第31回目の今日お届けしたのは、「trf/survival dAnce〜no no cry more〜」でした。
「ロックという土俵に乗ると、欧米人のパワーには勝てない。だけど、ダンス・ミュージックなら、特にその中でもテクノ系なら、世界水準のことができる」—そう考えた小室哲哉は、1988年頃からTMN(TMネットワーク)の音楽を通して、意識的に踊れる曲を作りはじめます。それをより具体化するために、1992年秋、小室哲哉は、日本初のテクノ・レイヴ・ユニットをプロデュースすることを決めます。
小室哲哉は、1992年に行われたダンスコンテスト「TKトラックスナイト」の出場者で、存在感のある独特の声が印象に残っていたYU-KI(本名:木村夕起)をメインボーカリストに、それまで数多くのリミックス・プロデュースを手掛けていたサウンドクリエーターのDJ KOO、ダンスクリエーターのSAM、CHIHARU、ETSU、この5人によるユニット、Tetsuya Komuro Rave Factoory名付けて「trf」を結成します。
結成間もない1992年12月25日、trfはその当時、横浜のコンテナ置き場にあった倉庫型のディスコ「横浜ベイサイドクラブ」で、翌1993年1月23日までのおよそ1ヵ月の間9回に渡り、trfのデビューイベントを開催し、延べでおよそ6300人を動員します。当時J-POPには存在しなかった、ボーカル、ダンサー、DJが融合した形態で、小室サウンドによる楽曲のヒットを目指したtrfは、1993年2月にアルバム『trf〜THIS IS THE TRUTH』、シングル「GOING 2 DANCE」同時リリースでデビュー。ディスコ「ジュリアナ東京」で流れる曲を集めたオムニバスアルバムがJ-POPアルバムチャートにランキングされていた当時、時代の波に乗ったtrfのアルバム『trf〜THIS IS THE TRUTH』も、チャート初登場14位を記録します。
「メンバーとしては、このユニット形態がまったく新しい試みだったので、色々と探りながら、またステージを重ねながら、どの方向性がいいのかを模索していました。それまでメンバーそれぞれが積み重ねてきた、ボーカル、DJ、ダンスの経験を、このtrfに全てぶつけてました。すべてが勉強で経験だったと思いますよ」。当時、trfを担当していたマネージャーはこう振り返ります。
1993年6月、ディスコ「ジュリアナ東京」で、1000人を集めたプロモーションコンサートを成功させたtrfは、同じ月、化粧品「シーブリーズ」シリーズのCFタイアップ曲として、次のシングル「EZ DO DANCE」をリリースします。開放的な夏のイメージと、躍動感溢れるtrfのダンス・ミュージックがうまくマッチした「EZ DO DANCE」は、チャート最高位15位を記録、その後も1年近くもチャートに入り続け、およそ80万枚もの売上を記録します。翌7月には、ミニアルバム『EZ DO DANCE』をリリース、こちらもアルバムチャート初登場4位を記録し、それまでのJ-POPには無かったダンスミュージックというジャンルを、定着させるキッカケとなります。
その後もtrfは、8月に東京ドームにおよそ5万人もの人を集めたダンスイベント「avex rave’93」出演、海外からのアーティストも参加したこのイベントでトリを務めます。また翌9月からは沖縄から北海道まで全国9ヵ所のCLUBを回るTOUR「EZ DO DANCE」行います。当時のこのTOURにtrfと一緒に回ったマネージャーは、こう振り返ります。「全国どこへ行っても盛り上がったこのツアー。trfのダンスミュージックで楽しそうに踊る人たちをみた瞬間、絶対ブレイクするぞ!って確信しましたね」。
シングル、そしてアルバムのヒット、CLUB TOURの成功。順風満帆に進むかと思われたtrfは、11月に2枚のシングル「愛がもう少し欲しいよ」、「Silver and Gold dance」を同時リリース。両A面4曲のうち3曲が、日本テレビのバラエティ番組「吉本印天然素材」の番組テーマ曲や、JALのSKIキャンペーン曲に起用されますが、「愛がもう少しほしいよ」はチャート最高位29位、「Silver and Gold dance」はチャート最高位25位、と前作「EZ DO DANCE」ほどの売上は伸びませんでした。そしてtrfは、「この曲はダンスミュージックじゃないけど、あえてこの曲を投げかけることで、trfはダンスミュージックだけのアーティストではない、というのを証明したかった」という、シングル「寒い夜だから…」を、12月にリリースします。
前作からわずか1ヵ月という短い期間でリリースされたシングル「寒い夜だから…」。1993年暮れのチャートに16位で初登場すると、じわじわとチャートを上りつめ最高位8位を記録、その後も連続チャートイン32週という「EZ DO DANCE」に続く息の長いヒット曲になっていきます。翌1994年2月には、アルバム『World Groove』をリリース、trfとして初のチャート初登場1位を記録します。再びスターダムへの階段を登りつめていくtrfですが、その一方で、ダンスミュージック=洋楽というイメージがまだまだ強かった当時、メンバーの中ではダンスミュージックをやっているという感覚は持っていなかったといいます。ダンスひとつとっても、会場中に美しいウェーブを巻き起こす、今ではおなじみになった片手を上げ左右に振る動きも、「これはダンスなんだろうか?」と悩み、理想と現実の中の間での試行錯誤を繰り返し続けるのでした。
楽曲がヒットすることによって、メンバーひとりひとりのキャラクターや役割が認知され始め、ステージ演出もやりやすくなったきた、と感じ始めた1994年春。それまでのダンス・ミュージックよりも、親しみやすく印象に残りやすい曲で、新たな方向性を探っていたtrfは、サビの部分が印象的で、かつノリやすく、聞く人たちが盛り上がってくれるだろう思いで、1994年4月から始まった、フジテレビのドラマ「17才 at seventeeen」の主題歌にも起用されることになった、「survival dAnce〜no no cry more〜」を、5月にリリースします。
シングルとしては初のチャート1位を記録。その後も、売上を伸ばし続け、現在までにおよそ140万枚もの売上を記録している「survival dAnce〜no no cry more〜」。それまでは洋楽が中心だったダンスミュージックが、J-POPの世界でも通用することを証明した、名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.GOING 2 DANCE/trf
M2.EZ DO DANCE/trf
M3.寒い夜だから…/trf
M4.survival dAnce〜no no cry more〜/trf
第30回目の今日お届けしたのは、「KAN/プロポーズ」でした。
1962年9月、福岡県福岡市に住む木村家の次男として生まれた木村和(きむら・かん)。彼は、幼稚園時代にはヤマハ音楽教室でオルガンを、小学校に入ると今度はクラシックピアノを習い始めるなど、小さい頃から音楽に親しむ生活を送っていました。やがて中学に進むと木村和は、家にあったガットギターを自然に持ち、友人とビートルズの楽曲をコピー、物マネで歌い始めるようになります。
1976年秋、小学校時代から習い続けてきたクラシックピアノを高校受験を理由に辞めた木村和ですが、今度は中学校の同級生3人と、ビートルズのコピーバンド「ザ・ミートルズ」を結成。自分たちの演奏をカセットテープレコーダーに録音して楽しむようになります。しかし高校進学で「ザ・ミートルズ」のメンバーが別々の学校に進学することになると、「ザ・ミートルズ」はあえなく自然消滅。その後、木村和は、高校の同級生から借りたビリー・ジョエルのアルバム『52nd Street(ニューヨーク52番街)』の、ピアノロックのコードやフレーズの複雑さに驚くと同時に衝撃を覚え、自らピアノでオリジナル曲を作るようになります。
1981年、法政大学に進学した木村和は、今度は大学の友人5人でバンド「CANRIO on New York Band」を結成。新宿のライブハウスなどで、演奏をするようになります。しかし、「CANRIO on New York Band」はたった半年で解散、次に木村和はフュージョン系の別バンド「ANNETTE」に加入し、ライブハウスでの演奏の傍ら、数々の音楽コンテストにチャレンジします。1984年、ヤマハのコンテスト「East West’84」決戦大会で、優秀賞を、また同じ年に開かれた集英社ヤングジャンプ「Sound Contest’84」でもヤングジャンプ奨励賞を獲得、木村和のバンドのデモテープも、レコード会社の関係者の目に止まるようになります。その中のひとり、ポリドールレコードのディレクターと出会った木村和は、映画監督・大林宣彦が1988年に公開を予定していた映画『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』のサウンドトラック盤に参加。同時にアーティスト名をアルファベット表記のKANと改め、1987年4月、アマチュア時代に書きためた曲で構成された、アルバム『テレビの中に』で、デビューを果たします。
KANは、デビューから1989年にかけての2年間の間に、アルバム4枚、シングル6枚というハイペースなリリースを続ける一方、他のアーティストへの楽曲提供も積極的に行っていきます。しかし、1988年6月にリリースした3枚目のアルバム『GIRL TO LOVE』がチャート最高位88位にランキングされた以外、全くといっていいほどセールス的には結果は出ませんでした。
「確かに、この時期、売上という結果はついてきませんでしたが、じゃあ作品として聴いてみた時に、それが悪かったかと言うと、またそれは別問題でしたね。自分で“このアルバムはカッコいい!”と思ってましたし、またどのアルバムも作品としては納得して作っていたし…。確かに売れないから悲観的になることもあったけど、自分が憧れてなった歌手だからと、売れないから歌手を辞めよう、とは思わなかったですね」。当時について、KAN本人はこう振り返ります。
1990年、KANは、今度は過去4作の完成度や結果を踏まえ、「自分の感性や自分の作品を本当に守れるのは、自分しかいない」という考えのもと、次の作品を自分ひとりの感覚で作ろうと決意。KAN自身の強い思いを込めたアルバム『野球選手が夢だった』を、1990年7月にリリースします。そして、アルバム『野球選手が夢だった』の冒頭を飾った曲で、アルバムリリースから1ヵ月半後の9月にシングルカットされた曲「愛は勝つ」が、フジテレビのバラエティ番組の関係者の目に止まり、10月からバラエティ番組「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」の挿入歌として起用されます。
「シングル「愛は勝つ」が、テレビバラエティ番組「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」の挿入歌として使われ始めて2ヵ月ぐらいたった、その年1990年の暮れぐらいから、テレビなどメディアでの露出も徐々に増え始めたんですね。「歌手になりたい」と自分で望んで入ったこの世界なので、売れることは正直、嬉しく、楽しい時期でもありました。でも、今、売れるてる、と実感していても、曲を作る作業は僕の中では全く別の話だったんですね。自分の憧れを、現実にすることができたのだから、曲は丁寧に作らないといけない、って思ってました」。
1991年1月、シングル「愛は勝つ」が、KAN自身初のチャートインシングルにして、チャート1位を獲得する中、KANは春にリリース予定のアルバムの制作に入ります。その制作活動は、今までと何ら変わりはなく、KAN自身が曲のイメージを作っていたストックの中から、選び仕上げていく作業でした。
「曲は、固まって一度に何曲もできることもあるし、逆に追い詰められてギリギリで作る時もあるんです。この曲は、デビュー直後の1988年頃にはできていたかな・・・。当時、スティービー・ワンダーのアルバム『IN SQUARE CIRCLE』の中にある「オーヴァージョイド」という曲を聴いて、衝撃を受けて、作ったんですね。打ち込みを重視した作りで、どちらかと言うとなんか無機質な感じがしますけど…」。KANは、ストックとして貯めておいたこの曲に、当時自分が住んでいた近所にある東京・駒沢公園を舞台に、歌詞を作り、曲を仕上げます。この曲を含むアルバム『ゆっくり風呂につかりたい』は、1991年5月にリリース、そしてアルバムからの2枚目のシングルとして、この曲「プロポーズは」リリースされるのでした。
1991年にシングルとしてリリースされたこの「プロポーズ」、昨年2007年11月にリリースされたベストアルバム『IDEAS〜the very best of KAN』では、KAN自身のアイデアで、別のアレンジで収録されます。
「当時シングルとしてリリースされたのは、僕の考えではなくレコード会社の意向でした。でも、2007年に、スティービー・ワンダーのライブを観て、そこでまたこの「プロポーズ」について、自分の中で発見があったんです。当時は無機質だった音を、ジャズぽっい作りにすることで、今度は限りなく生に近い音にすることができた。何年経っても、僕のアーティストとしての存在価値を示してくれる曲だと自分では思います」。突然のヒット曲の誕生で感じていた、戸惑いとプレッシャーをも跳ね返す志のもとに生まれたこの唄は、何年経っても色あせることのないJ-POP名曲になりました。
今日OAした曲目
M1.マイ・ライフ/ビリー・ジョエル
M2.テレビの中に/KAN
M3.愛は勝つ/KAN
M4.プロポーズ/KAN
第29回目の今日お届けしたのは、「TM Network/Get Wild」でした。
小学校の同級生で、高校時代から一緒に音楽活動をしていた、宇都宮隆と木根尚登。ふたりは、ウエストコースト系のバンド「SPEEDWAY」でデビューを果たしますが、2枚のアルバムをリリースしたのち、バンド「SPEEDWAY」は解散。宇都宮は木根のいない別のバンドにボーカルとして、木根はオリジナル曲を作りながら、バックバンドミュージシャンとして、それぞれ別々の活動をしていきます。
そんな宇都宮と木根に、「SPEEDWAY」時代から交流のあった、小室哲哉が、「シンセサイザーをメインにした音づくりで、三人の個性を打ち出していく、今までの日本にはなかったユニットを作ろう」と、
声を掛け、3人は1983年5月、新たなユニット「TMネットワーク」を結成します。
彼らは8月に行われたアマチュア音楽コンテスト「コカ・コーラ フレッシュサウンズコンテスト」に応募。のちに、2枚目のシングルとなる「1974」で、審査員全員から満点を獲得する快挙で、グランプリに輝きます。
グランプリに輝いたTMネットワークのもとに、数多くのレコード会社からの誘いが舞い込む中、彼らは、当時、佐野元春をデビューさせJ-POPの新しい旗振り役になりつつあった、EPICソニーと契約。佐野元春を手掛けた、小坂洋二氏のもと、デビューに向けてのプロジェクトがスタートし、翌1984年4月にシングル「金曜日のライオン」、アルバム「RAINBOW RAINBOW」でデビューを果たします。
「新しいものを作りたい」という小室哲哉が作る曲は、特長的なビートとメロディ、そしてコンピューターを駆使した画期的なサウンドで注目を浴びますが、バービーボーイズ、ハウンドドッグといったロックバンドブームの真っただ中、広島や北海道など一部のFMリスナーからは熱狂的な支持を集めますが、全国的な知名度にはほど遠い状況でした。
そんな中、1986年1月、小坂洋二氏が新たに手掛け始めた女性アーティスト渡辺美里に小室哲哉が提供した曲「My Revolution」が、シングルチャート1位を獲得。小室哲哉のメロディーメーカーとしての才能が、開花し始めるのと同時に、TMネットワークも、新たな曲作りの方向性を模索。当時はまだ主流ではなかったダンス・ミュージックとコンピューターサウンドを融合、ブラックミュージックのファンキーなノリを、曲に取り入れていきます。その先駆けとして1986年4月にリリースしたのが、シングル「Come on Let’s Dance」でした。
「それまでの2枚のアルバムは、方向性を試行錯誤しながら作っていたんですが、この「Come on Let’s Dance」や、続いてリリースされるアルバムに、その当時はまだ珍しかったダンスミュージックを取り入れたことで、TMネットワークのサウンドが、ぐ〜んと力強く外に広がっていくのを感じましたね」。当時、TMネットワークを担当していた、レコード会社のディレクターはこう話しています。
ライブでの手ごたえを感じながら、踊れるTMネットワークの音楽、そしてその音楽を創造し演奏するTMネットワークを支持する人たちを総称する「FANKS」という言葉を作りだします。その「FANKS」を、TMネットワークの新たなキーワードに、初めて海外ミュージシャンも参加したアルバム『GORILLA』を1986年6月リリース。TMネットワークの独自性とその魅力が、少しずつではありますが、認められるようになります。
それまで、メンバーを含めスタッフの誰もが感じていた「これは売れるだろう」思いが、少しずつ確信に変わろうとする中で1986年8月、5000人を集めた初の野外ライブを成功させたTMネットワークは、前作『GORILLA』と同じように、FANKSを意識したシングル「Self Control」、アルバム『Self Control』を作り上げます。
「アルバム『Self Control』は、前作の『GORILLA』と比べても、作っている時からサウンド面で、今までよりクリエイティンブ感が広がっていくのが分かりました。『GORILLA』の時にも、これで売れる!という確信ができたんですけど、結果はまだ付いてこなかった。でもこのアルバム『Self Control』は、その確信が、やっと現実になる自信がありましたね」。当時、TMネットワークを担当していたレコード会社のディレクターは、こう話します。
アルバム『Self Control』に先駆けてリリースされた、シングル「Self Control」のヒットで、J-POPのトップステージの階段を昇りかけたTMネットワーク。そのトップステージに立つために、「次も売れるシングルを」というプロデューサーサイドの要請に、小室哲哉はさらに新たな試みを加えて、曲作りにチャレンジすることを決めます。
「小室さんが、「次のシングルも新しい試みをするよ」って話をもってきて。初めは「何かな?」って思っていると、「今回は、スネアドラム無しで曲を作るから」って。今でこそよくある話ですけど、曲のテンポを取るのに必要なスネアドラムを無しで曲を作るなんて、その当時は「えっ?」って感じですよ。みんな最初は驚きだったのが、実際に曲ができあがっていくと、「なるほど」ってみんな納得していましたね」。
常に新しいものを追い求め、よりクリエィティブ感を広げようとする小室哲哉が、「売れる曲」を、という要請に新たにチャレンジで応えようとしたシングル「Get Wild」は、1987年4月にリリースされます。
シングル「Get Wild」はリリース直後から、アニメのエンディング曲として起用され、そのアニメ人気も手伝い売上も50万枚を記録すると同時に、チャート最高位9位を記録。それまでの「売れるかも」というTMネットワークの3人、そしてスタッフの思いが、現実となったJ-POP名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.1974(16光年の訪問者)/TM Network
M2.Come on Let’s Dance(This is the FANKS DYNA-MIX)/TM Network
M3.Self Control(方舟に曳かれて)/TM Network
M4.Get Wild/TM Network
第28回目の今日お届けしたのは、「ゆず/栄光の架橋」でした。
神奈川県横浜市磯子区岡村町出身、幼なじみで同級生の岩沢厚治と北川悠仁。16歳の誕生日を迎えた直後、岩沢は親や周りの友達には内緒で、ひとり路上ライブを始めます。やがて岩沢は、「オレ、自分で作った曲を路上で歌っているんだ」と、当時、仲の良かった北川にだけ話をするようになります。“歌を歌う魅力”について、時には朝まで語り続ける岩沢。そんな岩沢に、ある日北川はこう言います。「じゃあ、一緒にやろう」。
1996年3月、岩沢と北川のふたりは、ユニット「Light’s」を結成、地元、横浜・伊勢佐木町の松坂屋前の路上で、ストリートライブを始めていきます。その後、しゃぶしゃぶ屋で、北川が食べていたゆずシャーベットから、名前を「ゆず」と変え、路上ライブを続けていきます。ふたりが、ゆずとして本格的に活動をスタートさせてから、数ヵ月後の翌1997年4月、ふたりは偶然その場所を通りかかったひとりの音楽関係者の目に止まります。
「ふたりの歌を聴いてて、自分がすごくシンプルになったり、浄化されていくような感じを覚えたんですね」。自分の体の奥からわき起こってくる感動に自分で驚きを覚えたという、その音楽関係者は、のちにゆずの事務所の社長となる、稲葉晃一でした。稲葉は、ふたりにこう伝えます。「君たちは、ライブハウスに連れて行ってライブをするよりも、その場所のよさを伝えていくことの大切さをもち続ける方が絶対にいい。ふたりは、路上でやり続けた方がカッコイイ」。ふたりは、ゆずを結成しおよそ1年が経った1997年5月から、それまで不定期だった伊勢佐木町の松坂屋前での路上ライブを、毎週日曜日23時開始の定期ライブとしてスタートさせます。開始当初、時にはお客がゼロの日もあったその路上ライブは、彼らの音楽人生を大きく変え、また、日本の音楽シーンにも大きな影響を与えていくものとなります。
1997年10月、ゆずは、稲葉らの提案でホームグラウンドでもある路上でレコーディングした、ミニアルバム『ゆずの素』を、インディーズからリリース。翌1998年2月には、2枚目のミニアルバム『ゆずマン』をリリースします。また彼らの原点でもある路上ライブの舞台も、地元横浜だけでなく全国へと広がり、1998年の5月から6月にかけて広島を含む全国7ヵ所で行われた路上ライブサーキットでは、各地でデビュー前のアーティストとしては異例の1000人を超える集客を数え、まさに“ゆず現象”ともいえる状態が始まったのでした。全国路上ライブサーキットの合間をぬって、1998年6月シングル「夏色」でメジャーデビューを果たした、ゆず。この年、広島で行われた「セルラーサウンドマリーナ’98」など夏の全国野外ライブにも数多く出演したゆずは、夏も終わる8月30日、それまでおよそ2年半、毎週日曜日の夜に行っていた横浜・伊勢佐木町の松坂屋前での路上ライブにひと区切りをつけます。最後の路上ライブ、という話を耳にしたファンが全国から集まりその数は、およそ8000人近くにもなったといいます。
ゆずは、その後12月には、ふたりの弾き語りというシンプルな編成で、体育館ツアーを行います。しかし、会場が路上から体育館へと大きくなっても、彼らの全員参加型のライブスタイルは変わらず、今も続く、観客も含めて全員のラジオ体操でスタートし、みんなで歌ったり、拍手をしたり、跳ねたり、全身で楽しむライブは、すでにこの頃から確立されていくのでした。
その後も順調なリリースに加えて、わずか二年あまりで、アリーナクラスでライブを行えるようにまで成長したゆず。2001年6月には、「ゆずにしかできない、自分たちがいいと思えるものを二人でやってみたらいい」という、事務所の社長の考えのもと、東京ドームに、たった二人だけで、聴く側ががっちりと聴くことができるライブ「ふたりのビッグ(エッグ)ショー」を行います。過剰な演出もなく、客電をつけたままの状態で、ゆずの音楽の魅力だけで5万4000人の観客の心をつかんだのでした。東京ドームのライブで、ゆずにしかできないものの原点を再発見したふたりは、翌2002年には再び体育館ツアーを行い、ライブの楽しさを再認識。そして2003年の大晦日には、NHK紅白歌合戦に初出場、ふたりは原点でもある、横浜・伊勢佐木町の松坂屋前から全国に向け、ゆずの音楽を発信していきます。
翌、2004年初め、ゆずにTV番組の楽曲オーディションの話が持ち込まれます。「この時、テーマソングを作ってもらうにあたっては、4年間が凝縮された瞬間に全力で挑む選手への共感や、感動を素直に表現でき、さらに世代を超えて支持をされる方。このふたつのイメージに合うアーティストを、まずはレコード会社や音楽プロダクションの方から推薦してもらったんですね。その後、そこからオーディションを行ったんです」。当時、この番組を手掛けたTV局のプロデューサーは、こう振り返ります。
「選考段階では、編曲前のギターのみ、弾き語りだったんですけど、曲の力強さは文句なかったですね。一度聞いたら忘れられない力強いメロディとストレートな歌詞。最終的に、ピアノのイントロ部分に松任谷正隆さんの編曲が加わり、選手たちを見守るやさしさといったものも感じられる曲に仕上がりました。このことが、視聴者の皆さんに、支持されたのではないでしょうか?」。番組の事務局の担当プロデューサーが、当時をこう振り返ったシングル「栄光の架橋」は、2004年夏ギリシャ・アテネで開かれるNHKオリンピック放送のテーマ曲として、7月リリースされます。
「自分の中では、ホントに初めて、人から「こういうのが欲しい」って言われたものに関して、精一杯のものを作ることができた。その中でも、自分の言葉、考え、思いは十分出せるっていう自信がつきました。世に出る前に、この曲は、いままでゆずを知らなかった人の耳に絶対届くはずだ、って強く確信しましたね」。曲を作った北川がこう振り返るこの唄は、アテネオリンピックを超え、カープ野村謙二郎 2000本安打達成セレモニーの際にも使用されるなで、いまでも多くの人たちの気持ちを奮い立たせる、J-POPの名曲となったのでした。
今日OAした曲目
M1.地下街/ゆず
M2.夏色/ゆず
M3.栄光の架橋/ゆず
第27回目の今日お届けしたのは、「aiko/カブトムシ」でした。
“誰からも愛される子供でありますように”。両親の優しい願いが込められた名前の少女aikoは、幼いころから音楽好きな両親の影響を受け、ひとり部屋にこもり、テントウ虫型のレコード・プレーヤーでレコードをかけては、歌を歌っていました。
高校生になったaikoは、友達とJ-POPのカバーバンドを結成、人前で歌う喜びに目覚めます。
1994年、高校を卒業したaikoは、大阪音楽短期大学ポピュラー・ボーカル科に進学、学内はもちろん、学外でも本格的な音楽活動をスタートさせます。短期大学で音楽理論を学ぶ一方で、aikoは、家では中学時代から大好きだったKANの「TOKYO MAN」などを何回も何回も繰り返し聴き込み、曲に合わせてピアノの弾き語りを練習、やがてオリジナル曲を作り始めるようになります。aikoは、初めて作った曲で、ヤマハの音楽コンテスト「TEENS’ MUSIC FESTIVAL’95」に応募、全国大会で、ティーンズ大賞を受賞します。その様子を見たFM OSAKAのプロデューサーが、aikoを深夜の音楽番組のDJに起用、aikoは、自分が担当するラジオ番組を通して、ゲスト出演した歌手に、「私は歌手になりたい!」という夢を語りはじめます。
短期大学卒業後、ラジオDJの傍らで本格的な音楽活動をするようになったaikoは、今度は同じヤマハの別のコンテスト「ミュージック・クエスト・ジャパン・ファイナル」に出演、優秀賞を獲得します。これをキッカケに、ヤマハと1年間の契約を結んだaikoは、デビューに向けてのレッスンをスタートさせます。そして1年後の1997年、ヤマハとの契約が切れたaikoは、誘われていた音楽事務所から、それまでにaiko自身が学生時代の恋などをテーマに作っていたオリジナル曲を収録した、インディーズアルバムを2枚リリース。2枚目のインディーズアルバム制作途中に、映画の主題歌をaikoが歌うことが決まり、1998年7月シングル「あした」でaikoはメジャーデビューを果たします。
映画『新生トイレの花子さん』の主題歌として、1998年7月にリリースされたaikoのデビューシングル「あした」。「作詞は自分でしたけど、曲は自分の曲じゃないんです。詞についても、「子どもが聴くから、作る時、難しい言葉は使わないでくれ」とか言われて。そもそも私は、作詞をして、曲を作るほうだから、逆に作曲された曲を聞いて詞を書くなんて、初めてのことだったので、気持ちはいろいろと揺れ動きました。デビューしたと言っても、自分の曲という感じもなかったので、ピンとこなかったのが正直な気持ちかな」。aikoは、自らを振り返った「aiko bon」の中で、こう話しています。自らが、作詞・作曲をすべて手掛けるaikoにとって、現在まで唯一、他の人が作曲したシングル「あした」。当時、aiko自身がDJを務めていたFM OSAKAをはじめとしたラジオ局のパワープレーとなり、当初、この曲のみだったレコード会社との契約は、継続することとなります。DJ aikoを育てたラジオ局が、今度は歌手aikoを育て始め出します。
aikoは、当時住んでいた大阪から東京へレコーディングの為通いながら、歌詞を書き溜めていきます。しかし、書けども書けども、OKが出ないaiko独特の歌詞の世界。aikoは、曲作りへの自信を失いかけますが、事務所のスタッフの励ましもあり、「歌いたい曲を作らないといけないんだ」と、さらに曲作りに没頭します。
悩みに悩みぬき、aikoは、泣きながら作ったシングル「ナキ・ムシ」を1999年3月に、4月にはデビューアルバム『小さな丸い好日』(ちいさなまるいこうじつ)をリリース。続いて、それまで毎年行っていた花火大会をモチーフにした曲を、次のシングルとしてリリースすることを決めます。「デビュー間もない頃、それまで毎年行っていた花火大会に、仕事で行けないことが分かって…。いいなぁ。行きたいなぁ。ひとりぼっちだなぁと思いながら、深夜2時とか3時くらいに、寝ようとして1回電気を消しベッドに入って、ぽーっとしていたら、曲のフレーズがパンっと出てきて。そのまますぐにピアノの前に向かって作りました。あと、好きな人がいて、でも思いは伝わらない、それも悲しい。このふたつが一緒になったんですね」。aiko自身が、「aiko bon」の中でこう語る、シングル「花火」は1999年6月リリースされます。「歌手っていうのは、3枚目が勝負なんだよ、3枚目が当たらないと厳しいよ」スタッフからの、強いプレッシャーのもと生まれた3枚目のシングル「花火」。aikoは、リリースに合わせ全国をプロモーションで回り、九州を中心に、全国18のラジオ局のパワープレイを獲得。念願のTV音楽番組にも出演が決定、チャートも最高位10位を記録し、aikoはJ-POP人気女性アーティストの仲間入りを果たします。
「元気でアップテンポな「花火」で、チャキチャキな大阪娘というaikoのキャラクターが、このヒットのおかげで全国に広がっていきました。じゃあ、次にどう攻めていくかを直ぐに考えた時、同じ路線で売り出すのもいいけど、もうひとつのaikoを売りだすのもいいかな?という考えになりました」。当時、aikoを担当していたレコード会社の宣伝スタッフはこう語ります。インディーズ時代、恋をテーマに曲を作っていたaikoを知るスタッフの意見のもと、次のシングルとしてバラードを出すことを決めます。aikoは、当時DJを務めていたラジオ番組の生放送が終わり、家に帰り着いた瞬間に浮かんだメロディを忘れない内に、そのままピアノに向かい作ります。「昆虫の中でもいちばん強い、ライオンみたいな存在じゃないですか、この虫って。甲羅もすごく硬いし。でも甲羅なんて、1枚はがしてしまえば、すっごい柔らかくてもろくて、強いがゆえにすごく単体で生きている、実は寂しいい虫なんじゃないかなぁって思って。甲羅は、自分を守るためでもあるけど、虚勢を張っているようにも見える。自分を何かに例えた時に、そんな連想ゲームが、しゅしゅしゅしゅしゅ、って頭の中に浮かんできたんです」。女性が、愛する者と共に生きる今という一瞬を切り取り、心に刻み込む模様を唄ったミディアム・バラード「カブトムシ」は、1999年11月にリリースされます。
当時の宣伝担当者はこう振り返ります。「結果的に、同じ路線で攻めなかったことが、aikoという女性を一番素直に表現することができたんですね」。「カブトムシ」は、チャート最高位8位を記録。自分を守る硬い甲羅をぬぎすて、愛する人への素直な気持ちを唄った、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.あした/aiko
M2.花火/aiko
M3.カブトムシ/aiko
第26回目の今日お届けしたのは、「平井堅/瞳をとじて」でした。
「将来は歌手になりたい」。小学生当時、TVの歌謡番組に出演する松田聖子や、中森明菜といったアイドルに夢中になり、「いつの日か、自分もテレビに出て歌を歌いたい」という夢を膨らませていた少年、平井堅。
平井堅は、中学生、高校生時代も、歌手になることが、どんなに果てしなく大きな夢だと自覚していても、決してその夢を忘れることなく、ずっと歌手になる夢を持ち続けます。そして大学入学後、軽音楽部に入部すると、平井堅はアイドルと同じように大好きだった、サザンオールスターズのコピーバンド「YAYA」を、軽音楽部の仲間と結成します。平井堅は、軽音楽部の仲間を通して、ビートルズやローリングストーンズといった今まで聞く機会のなかった洋楽を初めて耳にし、カルチャーショックを受けます。J-POPや歌謡曲しか聞いてこなかった平井堅にとって、初めて聞く洋楽のどれもこれもが、衝撃でした。平井堅は、教えてもらった洋楽を聴き込み、それまで以上に音楽の素晴らしさを実感し、その虜になっていきます。やがて、学園祭のステージに立った平井堅は、みんなの注目を浴びる中で歌い上げる気持ちの良さを体験し、ますます「歌手になりたい」という夢を膨らませていきます。そんな平井堅の思いを知った友人たちは、平井堅に、オーディションの情報を教えたり、デモテープをレコード会社に送ることをアドバイスするのでした。
そして、大学3年生になった平井堅は、ソニーミュージックのオーディション「SME AUDITION’93~Breath」に、ビリージョエルの「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」を歌ったテープで応募し、合格。作詞作曲、ボイストレーニングなど1年がかりの育成期間を経て、1995年5月、シングル「Precious Junk」でデビューします。「将来は歌手になりたい」という、幼い頃からの夢の扉を開いた平井堅。明るいPOP調のデビューシングル「Precious junk」は、TVドラマのエンディングテーマのタイアップも決まり、周りのスタッフはもちろん、平井堅本人も「ヒット間違いなし」と期待しますが、彼らが思うほど売れ行きは伸びませんでした。「デビュー曲がだめでも、次で挽回すればいい」。スタッフは、平井堅を力強く後押しします。
6月に2ndシングル、7月にはデビューアルバム、11月には3枚目のシングルと、立て続けにリリースしていく平井堅。いずれのシングルにも、TVやラジオのタイアップが付きますが、ヒットに恵まれず、やがてスタッフのたちからは平井堅に対し、厳しい目も向けられるようになります。1998年、「どうせダメなら、好きなことをやってみよう」というスタッフの意見のもと、平井堅は、その頃夢中になって聞いていたゴスペルを取り入れたシングル「LOVE LOVE LOVE」を、初のセルフプロデュースシングルとしてリリースします。また同じ年の5月からは、お酒を飲みながら、良質な音楽にゆったりと耳を傾けられる企画ライブ「Ken’s BAR」をスタートします。オリジナル曲に加え、スティービー・ワンダーやビリー・ジョエル、エリック・クラプトンのカバー、のちにシングルとしてリリースする「大きな古時計」なども歌うようになります。たとえ、売上が伸びなくても、「自分が歌いたい曲をじっくりと歌い、聞いてもらいたい」という思いを平井堅は強くしていくのでした。
そして迎えた2000年、スタッフから「次のシングルは、外部の人が作った曲を」という意見が出ます。他人に自分が歌う曲を頼むことに、最初は戸惑う平井堅ですが、「新しいやり方を考えてくれるのは、スタッフにやる気がある証拠」と気持ちを切り替えます。当時流行りの、R&Bを意識したシングル「楽園」は、じわじわとチャートを登り始め、発売3カ月後には最高位8位を記録。最終的に、売上も60万枚を突破。平井堅の目の前に立ちふさがっていた、ヒットという壁が崩れた瞬間でした。「初めて人に委ねた曲がヒット。自分の力なんていうものはわりと微力なんだなっていうのを感じました。でも、皆で話し合って進めていくことが楽しく感じるようにもなりましたね」。当時の気持ちの変化について、平井堅は雑誌のインタビューで、こう述べています。ようやく日のあたる場所に踊り出た平井堅は、この年立て続けに3枚のシングルをリリース、いずれもヒットし、大晦日には、紅白歌合戦にも初出場を果たします。
ヒットがない時は、いつ契約を切られるか、世の中に認められなく悔しい思いをした平井堅ですが、今度は逆に、つねに走っていないといけないというプレッシャーに押しつぶされそうになるのでした。
そんな中、レコーディングでニューヨークに向かう平井堅に、事務所の社長が1冊の本を手渡します。飛行機の中でその本を読み、「自分が歌にしたい世界観と近い」と感じた平井堅は、涙をこぼします。小説のタイトルは「世界の中心で、愛をさけぶ」。「曲は、もともとモチーフになる曲のAメロがあったり、イメージに近い曲の断片があったりしたので、その中で合うものを広げて作りました。歌詞は、最初、もう少しジメットした男女の恋歌だったんです。それを、本を読んで書き換えたりしました。もともとは、未練っぽい歌詞だったんですが、映画が小説で描かれたその先をテーマにしていたので、やっぱり前向きなフレーズも入れなきゃ、って思い書き換えましたね」。雑誌のインタビューで、平井堅はこう述べています。ベストセラー小説「世界の中心で、愛をさけぶ」の映画主題歌として起用された平井堅にとって約1年ぶりの曲は、映画の公開に先駆けて、2004年4月にリリースされます。
2004年年間シングルチャート1位を記録した「瞳をとじて」。映画の主人公の喪失感に、平井堅が思いをはせた、バラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Precious Junk/平井堅
M2.楽園/平井堅
M3.瞳をとじて/平井堅
第25回目の今日お届けしたのは、「一青窈/ハナミズキ」でした。
台湾人の父親、そして日本人の母親のもとに生まれた、少女・一青窈。生まれた直後は、東京と台湾を行ったり来たりしていた一青窈は、幼稚園卒園後、父親をひとり台湾に残して、母親、姉とともに日本を安住の地として選びます。大好きな父親と、日本と台湾で離れ離れで暮らすことになった一青窈は、父親が買ってくれたディズニーのレコードを聴きながら寝るのが日課となります。「寝る前に歌うと、父親と離れている距離を忘れ、自分の気持ちを和らげることができたから」と彼女はいいます。そして、一青窈は、その大好きだった父親に、日記代わりのように、手紙を頻繁に書き記すようになります。
しかし、彼女が小学2年生の時に、大好きだった父親は亡くなってしまいます。「自分だけ何でこんな境遇なんだろう」。一青窈は、悲しみ、ねたみ、そねみを、あて先の無くなった手紙の代わりに、詩という表現で書き記すようになるのでした。小学校高学年で宮沢賢治の詩と出会った一青窈は、よりいっそう詩を書き記すことに没頭していきます。さらに、高校一年で、今度は母親を亡くした彼女は、詩の中に自分の想いをいっそう閉じ込めていくようになります。
慶応大学に進学した一青窈は、アカペラサークル「K.O.E」に入部、或る日、先輩のひとりに声を掛けられます。「お前の詩、おもしろいよ。俺にファックスしてくれたら、曲をつけてやるから歌え!」。一青窈に、そうアドバイスをしたのは、現在ゴスペラーズのメンバーとして活躍する、北山陽一でした。北山陽一との出会いから、オリジナルで曲を作ったり、歌を歌うようになった一青窈。やがて、彼女自身が小学生のころから長年に渡って書き溜めていた詩が、レコード会社の目に留まり、自らを、「詩(うた)を歌う人」と呼ぶ一青窈は、2002年10月、シングル「もらい泣き」でデビューすることになるのでした。「この「もらい泣き」は、デビュー直前に、旅行から帰ってきて溜まっていた100件近いメールの中に、「窈ちゃん、段ボールの中から出られないんだ」という、たった1行だけのシンプルなメールを読んだのがきったかけで、書いたんです。そのメールの送り主は、その昔、私が失恋した時に、私のために隣で、ただひたすら一緒に泣いてくれた友人だったんです。その友人からの叫び声のような、メールを読んだ時、その友人が流してくれた涙を、自分の頭の中にフラッシュバックして思い出し、今、自分はその友人に何もしてあげられないで、旅行に行ってたんだ、と思うと、悲しくて泣いたんです。やがて、泣いた切なさが、グルグルと頭の中を回りだし、その時の気持ちを書きました」。ある音楽番組のインタビューで、一青窈自身はこの曲ができるキッカケについて、こう語っています。一青窈自身が、頭の中で描いたシーンは、オリジナリティ溢れる詩となって、じわじわと多くの人々に共感の輪を拡げていき、デビューシングル「もらい泣き」は、チャート最高位4位というヒットとなります。
そして2002年12月に、アルバム『月天心(つきてんしん)』をリリースした一青窈は、続いて翌2003年3月に、ある想いを込めたシングル「大家」(ダージャー)をリリースします。「大家(ダージャー)っていうのは、中国語(北京語)で“みんな”っていう意味を表すんです。みんな、家族、そしてEVERYBODYという意味ですね。でもこの歌に込められたのは、大家(ダージャー)、みんなの中にいるお父さん。っていう意味です。つまり、亡くなった父の代わりに、みんなが私を支えてくれている、そんな意味ですね。小学生の時に父親、そして高校生で母親、両親を亡くしている私ですが、その両親がいないからこそ、私はこんな歌が歌えると思っています。幸せだったらたぶん書けない。書けないし、書かない」。音楽番組のインタビューで、一青窈自身は、このシングル「大家」(ダージャー)について、こう語っています。
父から贈られたレコードを聴き、手紙や詩を書き、涙をこらえて自分の想いを歌い始めた一青窈。彼女は、デビュー直前から書き留めていたある詞を、2003年4月の東京・池上本門寺で歌として披露します。
「デビューの前の年の2001年9月11日、ニューヨークで起こったテロ事件当時、実際に事件の映像も衝撃だったんですけど、ちょうどその時、ニューヨークに友達が行っていて、事件翌日から、その友達から毎日メールが届くようになったんです。事件は、日が経つにつれ、印象がだんだんと薄れていくのに、反対に、メールを読んでいると友達の気持ちはどんどん辛くなっている。この反比例な気持ちを何か形に残したい、という気持ちに駆られるようになったんです」。まるで他人事のように、それまで、戦争のことについてちゃんと考えたことがなかったという一青窈は、大切な人が実際に戦争に巻き込まれないと考えられないというその事実に、自分の愚かさを感じ、詩を通して、もっと優しい気持ちを交換できないか?と考え始めるようになります。コピー用紙3枚にまとめたその詞には、テロ、散弾銃といった挑発的な歌詞が初めは並べられていたそうですが、一青窈は、言葉を削って、また削って最終的に、ひとつの歌詞にまとめるのでした。憎しみや怒りに抗うことの出来る言葉として、切実な愛への祈りを込めた歌詞で綴られ、友達の幸せを願うだけではなく、その友達の彼女までの幸せを願う、そんな深い愛が込められたその唄は、初めて人前で歌われてからおよそ1年後の2004年2月、シングルとしてリリースされます。2004年2月にリリース後、約2年半近く125週間に渡って連続チャートインを記録したシングル「ハナミズキ」。桜が散った後に、大輪の花を咲かせる「ハナミズキ」が、J-POPという世界に、名曲という花をゆっくりと咲かせたのでした。
今日OAした曲目
M1.もらい泣き/一青窈
M2.大家(ダージャー)/一青窈
M3.ハナミズキ/一青窈
第24回目の今日お届けしたのは、「森山直太朗/さくら(独唱)」でした。
母親は歌手、祖父はジャズトランペッター、そして父親も元歌手、音楽一家のもとに生まれ育った少年・森山直太朗は、小学校に入学すると、音楽ではなく、サッカーに夢中になります。それは、音楽の素晴らしさを、普通の人以上に知り、肌で感じていながらも、それ以上に音楽の仕事をしていく難しさを、家族の背中を通して、ひしひしと感じていたからでした。
テレビを通して、世界の一流選手の華麗なプレーに憧れた森山直太朗は、中学・高校では、サッカー部の主将を務めるほど、サッカーにのめり込んでいきます。やがて、森山直太朗は、プロのサッカー選手を夢見るようになり、大学に進学後も、毎日サッカー漬けの日々を過ごしていきますが、大学2年生になり、突如、サッカーとは決別します。
「同じ環境にずっと居座り続けると、いつか煮詰まってしまう。サッカーを嫌いになったわけではなく、向き合えば向き合うほど、同じ環境にいちゃいけない」と思う、物事に対して常にひたむきに考える、森山直太朗自身の考えからでした。“プロのサッカー選手”という目標を失った森山直太朗は、暇つぶしにギターに触るようになり、「母に歌ってもらおう」という目的で、ひとつの曲を作ります。「この「高校三年生」は、もともと自分で歌うつもりなど毛頭なかったんです。良い意味でも、悪い意味でも、こんな曲は二度と作れないのでは。母親に、直接感想を言われるのが怖くて、デモテープをそれとなくリビングに置いて、それを母親に聞いて感想をもらうと言うような、まるで冷えきった夫婦間のやり取りみないな不思議な楽曲制作進行でしたね」、のちにアルバム『傑作撰 2001-2005』の楽曲解説で、森山直太朗自身は、こう話しています。
母親であり、歌手の森山良子は、息子、森山直太朗が作ったその楽曲のレベルの高さに驚き、歌手としての道に進むことをアドバイスします。母親のアドバイスを受けた、森山直太朗は、本格的なボイストレーニングを始め、自分の母親が、歌手の森山良子であることは伏せて、名前を「直太朗」として、路上でのライブ活動をスタートさせます。
「当時の直太朗は、東京・井の頭公園や代々木の路上でのライブが中心で、月に1〜2回のペースで東京のライブハウスでも活動をしていました。そのほとんどは、独りでしたが、時には高校のサッカー部の1年後輩で、音楽仲間でもあった御徒町凧(おかちまち・かいと)とも一緒にやっていましたね」。デビュー前から、森山直太朗のプロモーションを担当してきた、当時のスタッフはこう語ります。「直太朗が、路上ライブを行うと、歌う目の前で、泣いている女性がたくさんいるんです。初めは何でだろう?って思ってると、それは直太朗の歌の世界の情景を、聞く人それぞれが頭の中に浮かべて泣いてたんですね。直太朗が書く、日本語独特の言い回しの歌詞が、彼女達の涙腺を刺激して泣いていることが分かったんです。応援ソングとは違う、直太朗の孤独感のある歌の世界が、聞く人それぞれに自分の癒しの空間を作っていたんですね」。叙情的な詩の世界観と、その独自の歌声で、路上ライブを続けていく直太朗は、次第に注目を浴びるようになります。
2001年、インディーズ・ミニアルバム『直太朗』と、インディーズ・マキシシングル「ワスレモノ」を相次いでリリースした、直太朗は、名前を本名の、森山直太朗として2002年11月に、ミニアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』で、メジャーデビューをするのでした。
「ミニアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』は、直太朗の特長でもある、語り部的な歌を集めた作品だったのに対して、ミニアルバムに続いてリリースしたシングル「星屑のセレナーデ」は、流行りのJ-POP的なアレンジを効かせた作りでした。実際に、シングルのセールスは伸び悩み、今思えば、森山直太朗の特長が余り出ていない、ちょっと違った曲だったかな?とも思いますね」。当時のスタッフはこう振り返ります。
すぐに次のシングルリリースが予定され、スタッフは、何が森山直太朗にとっていいのか?を模索、結論として出たのは、森山直太朗の特長を活かした、語り部的な歌をシングルとしてリリースすることでした。そして、リリースが3月に予定されていることから、インディーズ時代から歌い続けて、ミニアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』にも収録されていた、ひとつの曲がシングルとしてリリースされることになります。その曲は、インディーズ時代に、森山直太朗が、御徒町凧(おかちまち・かいと)と、卒業式に、気軽にみんなが一緒に歌える歌があればいいよね、という発想から、じゃあ、みんなに気軽に歌ってもらえる歌を作ろう、という思いを込めた曲で、初めは自分が歌うつもりではなかったといいます。
リリースが卒業式シーズンということもあり、あらたに合唱バージョンが収録されることが決まったその曲は、合唱に相対するいうことで、「独唱」という言葉がメインのバージョンには付けられ、2003年3月、シングルとしてリリースされます。「初回出荷分は、たった1200枚近く。レコード会社は、当時無名に近かった森山直太朗には、宣伝費をかけてくれず、僕は森山直太朗と二人三脚で、全国をキャンペーンで回りました。会場で歌って、その後は手売りをするキャンペーンは、桜前線の北上と一緒で、3月中旬の福岡から始まり、小倉では、たった20人の観客。でも、4月中旬の、キャンペーン最後の札幌では、1000人近くものお客さんが集まったんです。正直、直太朗も、この曲が自分の物では無くなったような感じがするって、戸惑っていました」。キャンペーンで、森山直太朗と一緒に全国を回った、当時のスタッフはこう語ります。発売2ヵ月後には、チャート1位を獲得、売上も120万枚を超える大ヒット曲になったこの「さくら(独唱)」。語り部森山直太朗が描く、等身大の出会い・別れ・旅立ちの世界観。それは、聞く人それぞれの心の中に眠る、様々な“卒業”の場面を、思い起こさせてくれるJ-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.高校三年生/森山直太朗
M2.レスター/森山直太朗
M3.さくら(独唱)/森山直太朗
第23回目の今日お届けしたのは、「アルフィー/メリーアン」でした。
1973年の冬のある日。東京・白金にある、明治学院大学の学食の片隅で、アマチュア・フォーク・グループ「コンフィデンス」のメンバーは、アマチュア・フォーク・コンテストで優勝したことがきっかけで手に入れた、プロデビューの誘いを、受けるか、あるいは断るか、でメンバーで議論を交わしていました。
「とりあえず、やってみるか!」。誰となく言った、この一言に、「コンフィデンス」のメンバー桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦は、プロデビューの誘いを受けることを決めます。翌年、1974年8月、「コンフィデンス」は、グループ名を「アルフィー」と変え、シングル「夏しぐれ」でプロデビューを果たします。
“浪漫派アルフィー”を、デビューキャッチフレーズに、プロデビューしたアルフィーですが、「テレビ出演よりも、ライブを中心にやりたい」という、自分たちの思いとは逆に、その当時の新人アイドル達が多数出演していたTVのバラエティ番組に、事務所の方針でレギュラー出演することになります。自分たちの思いとは逆に、アイドル路線でアルフィーは売り出されていくのでした。
1976年12月、アルフィーは、予定していた3枚目のシングルが、発売日前日になって、レコード会社の方針と合わない、という理由で発売中止に追い込まれたのをキッカケに、レコード会社との契約を打ち切ります。
再び、アマチュアバンドに戻ったアルフィーは、「少しでもたくさんの人に、自分たちのステージを見てもらおう」という気持ちを胸に、自分たちがラジカセで録ったテープを、直接ライブハウスに持ち込み出演を交渉、ライブハウスでの活動をスタートさせます。わずか4〜5人からスタートした、アルフィー再出発のライブは、やがて20〜30人の集客へ。「今度のライブは何をやろうか?」「早くホールでもコンサートをやりたいなぁ」。そんな思いを胸に、アルフィーはひたすら、ライブを行っていきます。
約3年間、新宿や渋谷のライブハウスで活動をしていたアルフィーに、再び数社のレコード会社から再デビューの誘いが舞い込みます。アルフィーは、レコード会社の規模でなく、どれだけアーティストに思いをもって動いてくれるか、を考え、キャニオンレコードと契約を結びます。そして、ライブハウスで人気のあった曲や、新たに作ったオリジナル曲の中から、アルフィーの原点ともいえる、コーラスを活かしたアコースティックサウンドが特長の、シングル「ラブレター」で、1979年1月アルフィーは再デビューを果たします。
再デビューを果たしたアルフィーは、レコードを売るために、まずは多くの人の前に出て、自分たちの名前を知ってもらうことが大切だと思い、当時のアルフィーにとって一番自信のあったコンサートで売り込むこと