FRESTA Bimi Smile presents 食卓ON楽

食卓音楽


« VOL.214「いちごのケーキ」メインVOL.215「広島県産 低脂肪牛乳」 »

2011年12月 2日
「Dance To Christmas/大澤誉志幸presents」

218回目の今日お届けしたのは、「大澤誉志幸presents/Dance To Christmas」でした。

「1976年に駒澤大学に入学して、音楽サークルに入るんですが、そこの先輩から誘われて結成したのが"クラウディ・スカイ"でした。最初、ギタリストになりたかったんですが、バンドにボーカルが居なかったので、メインボーカルに仕立てあげられたんです。」。
大澤誉志幸さんが、当時についてこう振り返るバンド「クラウディ・スカイ」は、その後、渡辺プロダクション主催したオーディションに合格し、1981年4月、デビューシングル「悲しきコケコッコ」をリリース。
その後、1stアルバム『明日はきっとハレルヤ』もリリースしますが、音楽性の違いから、その年の暮れ、わずか8ヵ月余りで解散します。

「"クラウディ・スカイ"は、寄せ集めのようなバンドで、強い絆があった訳ではありません。ただ、バンドを解散した事で、若さゆえの喪失感があった事は事実です。僕は、その喪失感を埋めるために、一人でニューヨークに渡って、ブッカー・T・ジョーンズやオーティス・クレイなど、大好きだったブラック・ミュージックを聴くために、"アポロシアター"やジャズ・クラブに通って、その経験の中で、日々感じた事を、反映させながら、曲を作り、デモテープをいろんなところに送ったんです」。
1982年暮れ、大澤誉志幸は、1年近くに渡るニューヨークでの充電生活を終え日本に帰国。クラウディ・スカイ解散直後から始めた他のアーティストへの楽曲提供を本格化し、沢田研二や山下久美子らへ楽曲を提供していきます。そして1983年、大澤誉志幸自身も、エピック・ソニーと契約し、6月に、ソロデビューシングル「彼女には判らない」をリリースします。

その後も、彼自身の作品を積極的にリリースする一方で、作曲家としても他のアーティストに曲を提供し続け、その中でも彼がソロデビュー直前に中森明菜のために書いた曲「1/2の神話」が、セールスチャート1位を獲得し、大澤誉志幸は、まず、作曲家として注目を集めるようになります。

翌1984年、大澤誉志幸は、3枚目のアルバム制作のために滞在していたニューヨークで、ひとつの曲を作ります。「元々この曲は、鈴木ヒロミツさんの為に作った曲で、レコーディングが進まず、一度僕の手元に戻ってきた曲です。その後、そのまま山下久美子さんに、この曲を提供したんですが、何故かまたレコーディングされず、再び、僕の手元に戻って来て、結局、僕自身がこの曲を歌う事に決めたんです」。
大澤誉志幸は、この曲の歌詞を、彼がデビュー以来、タッグを組んできた、作家の銀色夏生に依頼。1984年7月にリリースされた、3rdアルバム『CONFUSION』に収録します。そして、さらに、同じ年の9月に、この曲を5枚目のシングルとしてリリースするのでした。

1984年9月、大澤誉志幸がリリースした5枚目のシングル「そして僕は、途方に暮れる」は、日清カップヌードルのCFソングとして起用され、約30万枚のセールスを記録し、チャート最高位6位にランクイン。大澤誉志幸は、この曲で、作曲家としてのみならず、男性ソロボーカリストとしての地位も確立。自信を得た彼は、好きだったブラック・ミュージックの要素を取り入れた曲を、続々とリリースしていきます。

「僕は、ブラック・ミュージックの中でも、R&B、レーベルで言うと、モータウン、スタックスと言った、泥臭い音楽が大好きでした。そして、その趣味が高じて、1987年10月に、同じエピック・レコードに所属していて、やはり、ブラック・ミュージックが大好きだった鈴木雅之、鈴木聖美、バブルガム・ブラザース、岡村靖幸達と、"赤坂グラマラスナイト"と名付けた、ブラック・ミュージックのカバーソングを歌う音楽イベントを企画したんです」。

大澤誉志幸は、自らが企画しプロデュースした音楽イベントの成功をキッカケに、さらなる企画を考えます。「音楽仲間が、一緒に集まって歌う楽しさを知った僕は、同じように音楽仲間が集まって、一枚のアルバムを作ったら、楽しいだろう、と思ったんです。ちょうど、翌年の1988年が、エピック・レコードの誕生10周年だったので、それにちなみ、一年の中でも特別な日、クリスマスをテーマにしたアルバムを作る事を思い付いたんです」。

大澤誉志幸は、アルバム作りのため、同じブラック・ミュージック好きな、エピック・レコードのアーティストに、次々と声を掛けていきます。
「一番大変だったのは、歌入れです。参加するアーティストが増えるほど、スケジュール管理が複雑で、プロデュース担当の僕は、全てのアーティストの歌入れに立ち合わなければならず、限られた時間の中、参加アーティストにスケジュールを厳守させるのに必死でした」
「曲自体は、まずは、曲を楽しんでもらうために、ファンキーなノリを大切にしたんです。
色々迷った末、曲の頭はファンク調で、メインとなる部分は親しみのあるポップス調、最後はしっとりと聴いてもらうためにゴルペル調に仕上げて、ひとつの組曲のような曲が誕生したんです。」
こうして1988年11月、大澤誉志幸の他、鈴木雅之、鈴木聖美、バブルガム・ブラザース、GWINKO、アマゾンズらが参加した、クリスマス・アルバムのタイトルナンバー『Dance To Christmas』は、リリースされるのでした。

1988年11月、大澤誉志幸が企画・プロデュースしたクリスマス・アルバムのタイトル曲として、シングルとしてもリリースされた「Dance To Christmas」。
「同じレコード会社に所属していても、普段は交流の無いミュージシャン達と、このアルバムを通して繋がりを作れた事がいい思い出になっています。その後も、僕はクリスマス・ソングを数曲作りましたが、複数のミュージシャンが参加して、ひとつの曲を歌う事自体が、当時としては画期的だったので、同じクリスマス・ソングでも、この曲の方が印象深いですね」。
最後に、大澤誉志幸さんはこう振り返ってくれました。

ブラック・ミュージックを愛する仲間たちのキモチが、
日本で始めての、ファンキークリスマス・ソングを生んだ瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Green Onions/ブッカー・T・ジョーンズ
M2.そして僕は、途方に暮れる/大澤 誉志幸
M3.Dance To Christmas/大澤 誉志幸presents