
219回目の今日お届けしたのは、「Pops All Stars/Yellow Christmas」でした。
「友人に、よく、"お前は、出会いの才能に恵まれてる"と言われるんです。たしかに、音楽人生を振り返ってみても、僕が、特別に何かをしている訳じゃないんですが、幸運にも、バンド活動を本格的に始めた大学時代、そして、プロミュージシャンとして活動を始めてからも、たくさんのミュージシャンと出会って、交流を温め、一緒に曲を作るチャンスに恵まれてきたんです。だから、僕にとって"出会い"とは、音楽人生を語る上で欠かせない、魔法の言葉なんです」。
杉真理さんは、自身の音楽人生を語る上で欠かせないキーワードについて、こう語ります。
1954年3月、福岡市博多区に生まれた杉真理は、彼が10歳の時に、ラジオから流れてきたビートルズの「のっぽのサリー」を聴いて音楽の虜になり、中学に入ると、見よう見まねでギター片手に曲を作り始めます。1972年春、杉真理は、慶応義塾大学工学部に入学すると、音楽サークル「リアルマッコイズ」に入部。そこで出会った、安部恭弘、竹内まりやと共に、アマチュアバンド「ピープル」を結成します。杉達が結成した「ピープル」は、ジェームス・テイラーのコピーバンドとして活動を始め、結成から数ヵ月後には、オリジナル・ソングを作ってアマチュアバンドコンテストに出場するようになります。
1974年9月、杉真理率いる「ピープル」は、「ヤマハポピュラーミュージック・コンテスト関東甲信越大会」に出場。この大会には、後に、杉真理の音楽人生に大きく関わってくる、佐野元春も出場していました。ピープルは、予選を勝ち抜き、12月に行われた決勝大会で、杉が作曲賞を受賞。その後、ピープルは、ヤマハのサポートの下でデモテープを作っていきます。1976年、ピープルが作ったデモテープが、ビクター音楽産業のディレクターの手に渡り、その、ポップ感溢れるサウンドが評価されて、翌1977年3月、ピープルは「Mari&Red Stripes」とグループ名を改め、1stシングル「思い出の渦」と、1stアルバム『MARI&RED STRIPES』を同時リリースするのでした。
1977年3月、杉真理は、安部恭弘、竹内まりやら、総勢16名のサポートメンバーを従えたバンド「Mari&Red Stripes」でデビューします。
「僕を含む16名が参加していたMari&Red Stripesは、ほとんど僕のソロプロジェクトで、毎月、都内のライブハウス等でライブを行うのが主な活動だったんです。ところが、翌1978年春、2ndアルバム『SWINGY』発売直後に、僕が体調を崩して入院する事になって、バンド活動は一時休止に追い込まれたんです」。
メジャーデビューを果たしたものの、僅か1年余りの活動で休養を余儀なくされた杉真理でしたが、彼は、1年半に渡る病気療養期間中に、ソングライターとして、音楽仲間の竹内まりや、須藤薫らに曲を提供していきます。そして1980年、体調が戻った杉真理は、CBSソニーに移籍して、7月に、ソロ名義で、アルバム『SONG WRITER』をリリース。翌1981年に入って、杉真理にとって、運命とも言える出会いが訪れます。
「僕が知人の結婚式に招待された時、出席者の一人に、大瀧詠一さんも同席していたんです。僕は、"はっぴいえんど"が大好きで、全く面識の無い大瀧さんに、"僕、大瀧さんの音楽大好きです。僕も音楽作っています"と挨拶したんです。その場では、何も無かったんですが、その後7月に音楽仲間の佐野元春達と一緒に出演したライブ会場に、大瀧さんが突然やって来て、"ナイアガラ・トライアングルの2ndアルバム作ります。メンバーは、僕と、ここに居る、佐野元春と杉真理です"と、多くの観客が見守る中で宣言したんです。何も知らされていなかった、僕と佐野は、ただ驚くばかりでした。実は、つい最近、伊藤銀次さんから、僕が結婚式で大瀧さんに挨拶した後に、大瀧さんは僕の音楽を聞いて、気に入ってくれて、それでメンバーに選んでくれた、と聞かされたんです。嬉しいですよね」。
こうして、大瀧詠一、そして当時はまだ無名に近い存在だった佐野元春、杉真理が参加したナイアガラ・トライアングルは、もともと大瀧詠一がソロ名義でリリースを予定していた「A面で恋して」を含む、アルバム『NAIAGARA TRIANGLE Vol.2』を、1982年3月にリリースするのでした。
1982年3月にリリースされた、ナイアガラ・トライアングルの2ndアルバム『NIAGARA TRIANGLEVol.2』は、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録します。
「僕の音楽人生において、ナイアガラ・トライアングルに参加できた事は、大きな転機になりました。当時、僕は、ビートルズのようなポップとロックを融合させた曲を作りたかったんですが、既に解散していたビートルズの音楽は、古臭いイメージがあって、ただ、当時、売れていた音楽は、僕のやりたい音楽とは路線が違っていて、僕は、どんな曲を作ったらいいのか、迷っていた時期だったんです。そんな時に、大瀧詠一さんと出会って、"他人にどんな事を言われようが、自分がやりたい音楽を作ればいいんだよ"と、声をかけてもらえたんです。大瀧さんの言葉を聞いた僕は、開き直って、このナイアガラ・トライアングルで、ビートルズを意識した曲を作ったんです。それが、この「Nobody」です」。
大瀧詠一の言葉から、迷いを脱した杉真理は、自分が思うように曲をつくり始め、自らが歌うだけでなく、他のアーティストとセッションしたり、ソングライターとして曲を提供したり、そのポップスの才能を開花させていきます。そして、1986年に入ったある日、杉真理は、音楽仲間であり、彼の制作担当ディレクターを務めていた、CBSソニーのディレクター須藤晃さんと共に、1枚のアルバムを企画します。
「僕と須藤さんは、CBSソニーに所属していた安部恭弘、南佳孝、楠瀬誠志郎、浜田省吾らに声を掛け、全曲オリジナル・ソングで構成した、クリスマス・アルバムを作る事を考えたんですが、CBSソニーだけでなく、レーベルを越えて、音楽仲間の、飯島真理、epo、ピチカート・ファイブ、PSY'Sが参加してくれたんです」。
杉真理は、アルバムからのリード・トラックのアレンジをPSY'Sの松浦雅也に依頼します。
「僕は、楽しい音楽を作るなら、100回打合せをするよりも、まずは1回音を出して、その人の音楽観を掴むことを大切にやってきました。松浦さんともこの時初めて仕事をしたんですが、松浦さんを信頼し、アレンジを全てお任せしたんです。
それから、歌詞には、参加してくれた南佳孝、浜田省吾など、アーティストそれぞれを連想させる言葉を散りばめ、そのパートをそれぞれに歌ってもらったんです」。
こうして、1986年11月、杉真理がプロデュースを手掛けたPops All Starsのアルバム『Winter Lounge』と、シングル「Yellow Christmas」は、同時リリースされるのでした。
1986年11月にリリースされた、Pops All Starsのシングル「Yellow Christmas」。
「大瀧詠一さんに誘われて、ナイアガラ・トライアングルに参加した事がキッカケで、複数のミュージシャンが参加して、1枚のアルバムを一緒に作る楽しさや難しさを経験させてもらって、その経験をこのPops All Starsのアルバムに活かす事ができたんです。僕にとって魔法の言葉でもある、"出会い"が、大きな財産に生まれ変わった。そんな思い出深い曲ですね」。最後に、杉真理さんはこう振り返ってくれました。
音楽仲間との出会いが繋いだ、日本のクリスマスを盛上げる、J-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Long Tall Sally/ザ・ビートルズ
M2.思い出の渦/Mari&Red Stripes
M3.Nobody/ナイアガラ・トライアングル(杉真理)
M4.Yellow Christmas/Pops All Stars