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2011年3月25日
「悲しみにさよなら/安全地帯」

182回目の今日お届けしたのは、「安全地帯/悲しみにさよなら」でした


1972年夏のある日、北海道旭川市立神居中学に通っていた玉置浩二は、同級生の武沢豊と、彼の兄・俊也を誘って、ドラマー抜きの3人組アコースティックバンド「インベーダー」を結成します。
「僕は、幼い頃から民謡が大好きだった祖母の影響で、歌を歌うことが大好きで、小学生の頃から将来は歌手になることを意識していたんです。中学に入学すると、小学校の頃から通信教育でギターを習っていたと言う武沢が、同じ中学に転校してきて、意気投合した僕らは、バンドを作ったんです」。
作家の志田歩さんが書いたノンフィクション本『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、玉置浩二自身は、当時をこう振り返っています。

1973年秋、バンド、インベーダーは、メンバー2人を加えて5人組となると同時に、バンド名を「安全地帯」と改め、その年のヤマハ ポピュラーソングコンテストの北海道地区大会に出場し、優秀賞を獲得します。アメリカのロック・バンド「ドゥービー・ブラザーズ」を意識した、アコースティック・ギターサウンドに、コーラス・ハーモニーを加えた安全地帯の評判は、地元・旭川を中心に拡がっていきます。

1976年10月、安全地帯はヤマハ ポピュラーソングコンテスト つま恋本選会に出場を果たし、その存在感を地元のみならず、北海道内へと拡げていきます。翌1977年には、同じ北海道のロック・バンド「六土開正グループ」のメンバーの3人が合流し、安全地帯は8人組バンドとなります。

1978年、新生・安全地帯は、旭川の郊外にあった廃屋を、バンド専用のスタジオに改造して合宿生活をスタート。デモテープを作る傍らで、およそ800人が収容できるホールを自分達で貸し切って、定期ライブを開催するようになります。
1978年11月、次のステップとして、東京への進出、プロデビュー考えていた彼らのもとへ、安全地帯のデモテープを聴いた、キティレコードのディレクター・金子章平が訪ねてきます。安全地帯の素直で洗練された音楽に可能性を感じた金子は、頻繁に旭川の彼らのもとを訪ねるようになります。

1981年7月、メンバーの脱退で、5人組となった安全地帯の下へ、金子章平が、自らがディレクターを務めていた井上陽水を連れて訪れ、彼らは井上陽水と数曲ほどセッションします。そして、その場で、金子は、安全地帯を井上陽水のライブツアーのバックバンドとして起用することを決めるのでした。
「井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです」。金子章平は当時のことについて、
『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、こう振り返っています。

一方の玉置浩二は、その時のセッションンについて、同じく、こう振り返っています。
「東京でのツアーリハーサルが始まった当初、プロとアマチュアの演奏レベルの差に驚き、自分達のオリジナル曲は演奏できても、井上陽水のバックバンドなんて、とても無理だと感じたんです。しかし、セッションを積み重ねる内に、これは絶対にチャンスだ、と思った僕は、自信を失いかけていた他のメンバーを必死で説得し、練習を積み重ねたんです。しばらくすると、自分達でも少しずつ満足できる演奏ができるようになり、音楽関係者も認めてくれるようになったんです。この時は自分達のデビューに向けたリハーサルも同時並行だったので、ほぼ丸二十四時間音楽漬けの生活を送っていました」。

こうして、安全地帯は、1982年2月に1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースするのでした。

1982年2月に、1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースした安全地帯は、自分達の作品作りの傍らで、引き続き井上陽水のバッックバンドとしても活躍。井上陽水のツアーの合間をぬって、10月に2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を、翌1983年1月には1stアルバム『安全地帯ⅠRemember to Remember』をリリースします。しかし、残念ながら、セールスは芳しくありませんでした。

井上陽水のバックバンドとしては、音楽関係者からの注目を集めていたものの、アーティスト安全地帯としては、その魅力を発揮することができない彼らに対して、スタッフは打開策として11月に発売を予定していたシングルの作曲を、井上陽水に依頼することを提案します。しかし、玉置浩二は、それを断り、自ら一週間部屋にこもって、曲を作りあげます。そして、その作り上げたメロディに、井上陽水が、ノート1冊丸ごと使うほど熟慮を重ねて歌詞を綴ります。こうして、1983年11月、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」はリリースされるのでした。

1983年11月にリリースされた、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」は、発売直後にサントリー「赤玉パンチ」のCMソングとして起用されたこともあり、ジワジワと売上を伸ばし、発売から4ヶ月が経った、翌1984年3月にセールスチャート1位を獲得し、売上も約71万枚を記録します。
その後も安全地帯は「恋の予感」「熱視線」などのヒット曲をリリース。1985年2月には、武道館での2日間のライブも成功させます。

1985年3月、玉置浩二は、初の香港でのライブツアー中に、宿泊先のホテルで、ある曲のアイディアを思いつきます。
「この頃の僕は、ライブ、レコーディング、メディア取材など毎日追われる生活が続き、曲のアイディアは、いつも滞在先のホテルで練る生活が続いていたんです。香港で作ったメロディに歌詞を書いたのは、アルバム『安全地帯Ⅱ』から作詞家として、安全地帯の曲作りに参加してくれていた松井五郎さんでした。松井さんが書く言葉の感性に惚れたスタッフが、僕に紹介してくれ、それ以来安全地帯の楽曲制作に加わってくれたんです。この曲も、松井さんが、井上陽水さんが歌詞を書いた「ワインレッドの心」や「恋の予感」から歌詞の書き方を学び、その経験をこの曲の歌詞に活かしてくれたんです」。

こうして、松井五郎が、井上陽水が書く歌詞の世界を参考に、シンプルな言葉で書いた、安全地帯9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、1985年6月にリリースされるのでした。

1985年6月にリリースされた、安全地帯の9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、セールスチャート1位を獲得、約44万枚の売上を記録します。
「アルバム『安全地帯Ⅱ』から始まった、玉置浩二のメロディアスな楽曲と、松井五郎が書くロマンチックな歌詞のコンビネーションというスタイルの完成形が、この曲だったと思います。安全地帯が目指していた、ジャンルや年齢も関係ない、誰もが認める普遍的なメロディが、聴く人に受け入れてもらえた証(あかし)でもあるんです」。玉置浩二は、ノンフィクション本『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、この曲についてこう振り返っています。

二人の天才クリエーターの出会いが、J-POPの名曲を産み落とした瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Listen to the Music/ドゥービー・ブラザーズ
M2.萌黄色のスナップ/安全地帯
M3.ワインレッドの心/安全地帯
M4.悲しみにさよなら/安全地帯