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2010年11月12日
「青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド」

163回目の今日お届けしたのは、「青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド」でした。

「俺達も、バンド組もうや」。1966年のある日、広島市立幟町中学校に入学した上綱克彦は、同級生5人を誘ってバンドを結成します。
「最初は、グループ・サウンズのコピーばかりでしたが、僕は姉の影響で、ローリング・ストーンズやレイ・チャールズを聴いていたので、次第に洋楽のコピーを中心に演奏するようになったんです。最初は、ギターを弾いていたんですが、上手く弾けなくて、途中からキーボードに変わったんです。小学生の頃からピアノを習っていたので、それはスムーズにできたんです」。
バンドを始めたキッカケについて、上綱さんはこう振り返ります。

1969年春、崇徳高校に入学した上綱克彦は、同級生の石井清登ら9人で、新しく、バンド「アール9」を結成します。シカゴや、BS&Tなど、ホーンセクションを取り入れた"ブラス・ロック"を意識して作ったアール9にも、ホーンセクションが参加。高校生ながら本格的ロックバンドとして、アール9は、地元・広島では知る人ぞ知るバンドになっていきます。
「中学時代に、広島フォーク村のコンサートで、吉田拓郎が在籍していたバンド、ダウンタウンズのライブを見て刺激を受けた僕等は、いつか彼らと同じように、東京へ行ってレコードを出す事が夢でした」
1972年、高校卒業と同時にアール9は解散しますが、上綱克彦と石井清登の二人は、地元・広島のディスコやキャバレーで演奏を続け、1973年、友人らと5人組バンド「メイフラワー」を結成します。
そして、結成から1年が経った1974年のある日、上綱克彦は一人のミュージシャンと運命の出会いを果たすのでした。
 
「メンバーの一人が、"知り合いのミュージシャン・柳ジョージがギタークリニックで広島に来ているから、一緒に会いに行こう"と誘ってくれたんです。そこで柳と、僕らは意気投合し、当時僕らが根城にしていたライブハウスに場所を移して一緒にセッションしたんです。セッションが終わった後彼は、"君達と一緒にやるのは楽しい。東京で一緒にやらないか"と誘ってくれたんです。"遂にチャンスがやって来た"と、僕は嬉しくてたまりませんでした」。
こうして、柳ジョージとの運命的な出会いを果たした上綱克彦、石井清登、ミッキー・ヤマモト、そして、四ツ田ヨシヒロの4人は翌1975年春に上京、バンド名を「レイニーウッド」と改めます。

「上京して、柳ジョージ&レイニーウッドとしての活動を本格化させました。R&Bをベースにしたサウンドに、英語の歌詞で作ったオリジナル曲は、音楽関係者の評判も良く、ライブも好評だったんです。
ただ、自由奔放な柳ジョージのキャラクターがネックになり、やっと所属事務所とレコード会社が決まったのは1977年のことでした」。
こうして、1978年2月、柳ジョージ&レイニーウッドは、1stアルバム『Time in Changes』をリリースするのでした。

1978年2月、1stアルバム『Time in Changes』をリリースした柳ジョージ&レイ二ーウッドは、翌3月に1stシングル「酔って候」をリリースします。
「僕は、曲を作る時、小さい頃から聴いていたレイ・チャールズのような、何年経っても色褪せない、誰からも愛されるスタンダードナンバーを作ることを基本にしていたんです。時代の流れで、アレンジは変えなくちゃいけないけど、メロディの"普遍性"だけは、守りたかったんです」。

柳ジョージ&レイニーウッドは、7月に2ndアルバム『WEEPING IN THE RAIN』をリリース、その直後から、ミュージシャン萩原健一のバックバンドとしてライブツアーを展開。この萩原健一との出会いが、彼らの運命を大きく変えるキッカケになります。
「当時は、いわゆるニューミュージックと呼ばれる、フォーク調の日本語ポップスの全盛期で、洋楽ロックにのめり込んでいた僕等にとって、日本語で歌った曲は軟弱に感じて、本当は全曲英語の歌詞でアルバムを作りたかったんです。しかし、"売れるレコード"を求めていた事務所とレコード会社の方針で、僕らは、仕方なしに日本語の曲も作ったんです。今振り返ると、生意気ですけど」。

「ところが、ライブツアーを終えたとき、僕らに萩原さんが、"お前達の曲は絶対売れる。でも英語の歌詞では難しい。12月から俺が主演するドラマの主題歌に使うから、歌詞を日本語にして歌い直して欲しい"と言われたんです」。こうして、1978年12月に始まったドラマ『死人(しびと)狩(が)り』の主題歌に、
柳ジョージ&レイニーウッドの曲「雨に泣いてる」が、起用されることになるのでした。

1978年12月、アルバム『WEEPING IN THE RAIN』のタイトル曲の歌詞を、日本語に書き換え、柳ジョージ&レイニーウッド3枚目のシングルとして発売された「雨に泣いてる」。
「シングル発売直後に、音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演したとたん、僕らの生活は一変しました。街を歩けば、どこからともなく僕らの曲が流れ、レコードも売れる。柳ジョージのボーカルと骨太なサウンド。僕らの音楽が、洋楽、ロックが好きな人の心を掴んだんです」。
日本を代表するロックバンドとしての階段を上り始めた柳ジョージ&レイニーウッドは、
1979年3月に3枚目のアルバム『Y.O.K.O.H.A.M.A.』を、11月に4枚目のアルバム『RAINY WOOD AVENUE』をリリース。中でもアルバム『RAINY WOOD AVENUE』は、セールスチャート初登場1位を記録。当時のロックバンドとしては、異例ともいえる快挙でした。
翌1980年、柳ジョージ&レイニーウッドは、徳間ジャパンからワーナーミュージックにレコード会社を移籍し、7月に2枚組のアルバムをリリースすることになります。
「このアルバムの収録曲は、ライブツアーの合間に作ることになって、この曲も、1週間ぐらいの制作期間で作ったんです。1日で8曲も作った中の1曲だったこの曲は、作詞家に"どこか懐かしさを感じさせてくれる世界観"というテーマを伝えて、歌詞を付けてもらったんです。
完成した曲をレコーディングする時、メンバーのミッキー・ヤマモトがボロボロ泣きながら歌っていたのが、今でも忘れられません。歌詞、メロディ、そして柳ジョージの哀愁溢れる歌声。全てが見事に組み合わさって、彼は故郷のアメリカの事を思い出していたんだそうです。曲が、想像以上の力を生み出していたんです」。
1980年7月、同時発売されたアルバム『Woman and I...OLD FASHIONED LOVE SONGS』にも収められた曲「青い瞳のステラ、1962年 夏...」は、7枚目のシングルとして発売されます。

1980年7月にリリースされた、柳ジョージ&レイニーウッドのシングル「青い瞳のステラ、1962年 夏...」。
「どの曲にも色んな思い出があるけど、この曲は柳ジョージ&レイニーウッドの代表曲として、発売から30年近く経った今でも、僕らの存在を知ってもらう、キッカケにもなっています。まさに、スタンダードナンバーですよね。また、曲を聴いた人達からも、"懐かしいという言葉がピッタリな曲"と言ってもらっているんです。柳ジョージとの出会い、萩原健一が言ってくれたひと言。運命とも言える出会いの中からチャンスを掴み、この歌で思いを実現することができたんです」。最後に、上綱さんはこう話してくれました。

運命の出会いがもたらした、日本のロックバラードのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Georgia On My Mind/レイ・チャールズ
M2.酔って候/柳ジョージ&レイニーウッド
M3.雨に泣いてる/柳ジョージ&レイニーウッド
M4.青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド