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食卓音楽


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2010年10月 1日
「ひろしまから始めよう/原田真二」

157回目の今日お届けしたのは、「ひろしまから始めよう/原田真二」でした。


「僕は、オリジナル曲を作り始めた学生の頃から、"平和"へのメッセージが詰まった曲を、全ての人達に聴いてもらいたい"と思っていたんです。しかし、"アイドル"として売りたかった所属事務所とレコード会社の思惑で、自分が考えていた方向とは全く違う形でデビューすることになったんです」。
原田真二さんは、デビュー当時を振り返るとき、少し苦笑いしながら、こう語ります。

1977年10月、「てぃーんず・ぶるーす」でデビューした原田真二は、少女漫画の世界から飛び出したような可愛いルックスと印象的なハスキーボイスで、女子中高生を中心に、瞬く間に人気を集めます。当時としては異例の3ヶ月連続シングルリリースで、11月に2ndシングル「キャンディ」を、12月には3rdシングル「シャドーボクサー」をリリースした原田真二は、まさに、新しい時代のアイドルとしてセンセーショナルなデビューを果たすことになります。しかし、その状況に、原田真二は、大きな戸惑いを抱えていました。
「僕自身、自分の中では、デビュー前に憧れていた洋楽ロックの世界が、音楽の世界だと思っていたんです。"アイドル=軟弱な世界"というイメージを持っていた僕は、自分がアイドルとして売り出されることに対して、不安でいっぱいだったんです」。

1978年2月、原田真二が全曲の作曲・編曲を手掛けた1stアルバム『Feel Happy』が、オリコン史上はじめて、アルバムチャート初登場1位を獲得した直後、原田真二は、アイドル路線から脱却するために、所属事務所を移籍します。
1978年11月、原田真二は、彼自身が初めて作詞も手掛けた、6枚目のシングル「OUR SONG」をリリースします。
「シンガー・ソングライター的な作風から、ハードなギターサウンドに変わったこのロック・バラード曲で、新しいファンが増えたのと同時に、"アイドル"としてデビューした当時からのファンが離れていったのも事実です。しかし、僕の中ではハッキリとした手ごたえも掴んだんです」。

1980年、原田真二は所属事務所から独立し、レコード会社も移籍、さらに原田真二ソロ名義ではなく、「SHINJI&CRISIS」として、バンド名義での活動をスタートします。
「今のように、パソコンで自由自在に音楽が作れる時代ではなかった当時、僕は自分が伝えたいメッセージを明確にするためには、自分の生バンドで、想い通りの形を演出する事が必要だと考え、自らのバンドを作ったんです」。
さらに、原田真二は、1981年暮れに、長年彼自身が想い描いていた音楽スタイルを確立するために、アメリカへ音楽留学します。
「僕は、アメリカ音楽留学で、色々な表現方法を模索しました。そして、改めて日本の素晴らしさや個性にも気付くことができたんです」。1983年、約1年に渡るアメリカ音楽留学から帰国した原田真二は、日本人ならではのオリジナルなスタイルを確立するために、洋楽的な発想に和のテイストを融合させた音楽作りに取り組みます。そうしてリリースされたのが、「愛して、かんからりん」でした。

1983年9月、原田真二は15枚目のシングル「愛して、かんからりん」を発売します。作品へのチャレンジを続ける原田真二は、それを表現するライブにもこだわります。
「日本での活動を本格的に再開した僕は、曲に込めたメッセージを、どうやったらもっと多くの人達に伝えることができるのかを考え、今では当たり前ですが、ライブに映像を使ったり、演劇風パフォーマンスなどを取り入れたり、ステージで試行錯誤を繰り返すようになったんです」。
独りのシンガーとして、さらにはソングライターとして、多彩な音楽的な才能を開花していった
原田真二の下へ、1995年のある日、地元テレビ局、広島ホームテレビから、楽曲提供の話が舞い込みます。
「1995年、広島が被爆50周年を迎えたこの年。原爆記念日に「千本の傘プロジェクト」をテーマにした特番を作ることが決まって、"特番のイメージに合う曲を作って盛り上げよう"という話になったんです。歌詞は一般公募で集めて、曲は数年前に別の番組を通して知り合った広島出身の原田真二さんにお願いすることにしたんです」。
番組プロデューサーを務めた広島ホームテレビの野崎さんは、当時についてこう振り返ります。

一方の原田真二さんは、曲作りを依頼された時について、こう振り返ります。「野崎さんから話を貰うまで、僕の心の中には、広島をテーマにした曲を作る事に関して、"壁"のような抵抗感を持っていたんです。広島出身で、幼い頃から原爆に関する話を両親から聞かされてきた僕にとって、"広島"というテーマは"身近だけど、重みがあって、簡単には歌えない"とずっと思っていたんです。だから、それまでは、平和のメッセージを込めた曲は作ってきたけど、広島というリアルなテーマの曲は作ってこなかったんです。でもこの時は、せっかく野崎さんに声を掛けてもらったし、自分の気持ちの中でも整理が付いた時期もあったので、曲作りにチャレンジすることにしたんです」。

こうして原田真二は、広島ホームテレビを通じて"平和都市、広島の未来を世界にアピールする歌"をテーマに募集され、134篇の中から選ばれた歌詞に、曲を作ります。
「選ばれた歌詞を読んだ時、"広島からポジティブなエネルギーが出ている"と感じたんです。この頃から僕は、頭で考え曲を作っていくのではなく、アレンジを含め、自分の心の中のキャンバスに色づけをしていくようなイメージで、曲を作れるようになっていたんです。この時も、決まった歌詞を読んで、あっという間にメロディが浮かんできました。メロディが、すぐに浮かんでくる時は、いい曲が出来上がる時なんです。やりがいのある作品でした」。

1995年8月6日、被爆50周年を迎えた日、原田真二は広島ホームテレビの特番の中で、元安川の袂から、子ども達と一緒にこの歌を初めて歌います。そして、それは、翌1996年の春、原田真二29枚目のシングル、「ひろしまから始めよう」として、リリースされるのでした。

1996年4月、原田真二29枚目のシングルとしてリリースされた、「ひろしまから始めよう」。
「"ひろしま"と言う言葉を歌詞に全面に出して作ったこの曲は、作った当初は、"この曲を聴いた人達に、イメージを限定されるかな"と思っていたんですが、歌い続けていく内に、段々とそんな考えも無くなっていったんです。世界中で争いが絶えない今、僕は、"広島"という言葉が、世界平和のキーワードになっているような気がするんです。だからこそ、この曲の歌詞にある"広島"の部分を、歌う場所毎に変えて歌うことで、堅苦しくなく、誰もが一緒に楽しめるポップな曲として、多くの人達から親しまれているんです。時代と共に、この曲が果たす意味が、強くなっていると感じているんです」。
最後に、原田真二さんは、こう話してくれました。

原田真二が、はじめて"ひろしま"と向き合えた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.キャンディ/原田真二
M2.愛して、かんからりん/原田真二
M3.ひろしまから始めよう/原田真二