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2010年9月24日
「OUR SONG/原田真二」

156回目の今日お届けしたのは、「OUR SONG/原田真二」でした。

 

「12歳の時、TVの衛星中継で「エルビス・プレスリー」のライブを観て、人前で歌を歌う魅力、そしてライブが持っているパワーに釘付けになったんです」。原田真二さんは、ミュージシャンを目指す原点について、こう振り返ります。
プレスリーのライブを観て、音楽の魅力に目覚めた原田真二は、同時に、自らもギターを弾き始めます。

その後、原田真二は、エルトン・ジョンやスティービー・ワンダー、ポール・マッカートニー&ウィングスなどに夢中になり、曲も書き始めます。「その頃の僕は、とにかく、早くうまくなりたいという気持ちで、独学で、ギターやピアノを弾きながら、メロディラインがきれいな、エルトン・ジョンや、ポール・マッカートニーの音楽を参考にして、曲を作るようになったんです」。

1976年、原田真二は、雑誌『月刊明星』で見つけたひとつの記事に、目を奪われます。
「曲を作り始めた僕は、"早く自分の曲を世の中に認めてもらいたい"と思うようになったんです。しかし、当時は、今とは違ってオーディションも少なく、"どうやったらデビューできるのか、どうやったらレコード会社とコンタクトを取れるのか"、僕にはさっぱり分からなかったんです。そんな中、デビューする方法を探すために、音楽雑誌を読み漁る中で見つけたのが、『月刊明星』に掲載されていたフォーライフ・レコードのオーディションの記事でした。記事を見つけた瞬間"これだっ"と思った僕は、楽しみにしていた修学旅行を休んで、デモテープを作ったんです」。

「デモテープは、リズムボックスとピアノとギターを使ってメロディをカセットテープに多重録音して、これにボーカルを加えて、全部で3曲作って、送りました」。
原田真二が、気合いを込めて作ったデモテープは、フォーライフ・レコードのスタッフの耳に留まり、デモテープを送って数日後に、原田真二の下へ、フォーライフ・レコードのスタッフが訪れます。
そして、翌1977年春、原田真二は青山学院大学に進学後、フォーライフ・レコードと契約を結び、
10月に、1stシングル「てぃーんず ぶるーす」をリリースするのでした。

1977年10月、原田真二は1stシングル「てぃーんず ぶるーす」をリリースします。
「元々この曲は、「君の世代へ」というタイトルで、当時社会問題になっていた暴走族の問題に、世界平和のメッセージを歌詞に盛り込んで作ったんです。しかし、歌詞の内容にレコード会社が難色を示して、僕が書いた歌詞をモチーフに作詞家の松本隆さんが歌詞を書き直したんです。当時、所属事務所とレコード会社は、僕を"アイドル"として売り出すつもりで、歌詞の内容とイメージがそぐわないと思ったんです」。
カーリーヘアーと、少女漫画の世界から飛び出したような可愛いルックス、そしてハスキーボイスで、原田真二は、事務所とレコード会社の思惑通り、新しいタイプのアイドルとして、女子中高生を中心に、デビューから瞬く間に人気を集めていきます。

「僕が自分の中で思い描いていた音楽の世界は、デビュー前に憧れていた洋楽ロックの世界なんです。当時、僕は、"アイドル=軟弱な世界"というイメージを持っていたので、自分がアイドルとして売り出されることに対して、不安でいっぱいだったんです」。

原田真二が作った曲の完成度の高さを評価した所属事務所の社長は、"1曲で真二の魅力は伝わらない。3ヵ月連続でシングルを発売しよう"と考え、当時の音楽業界では異例の形で、1stシングル「てぃーんず・ぶるーす」、2ndシングル「キャンディ」、3rdシングル「シャドーボクサー」を立て続けにリリースします。そして、この3曲いずれもが、セールスチャートのベスト10にランクインします。
さらに、翌1978年2月、原田真二が全曲の作曲・編曲を手掛けた1stアルバム『Feel Happy』が発売、オリコン史上はじめて、アルバムチャート初登場1位を獲得します。
「自分の音楽が世間に認められたことに対して、素直に嬉しく思ったんです」。原田さんは、当時をこう振返ります。

伝説的なデビューで、圧倒的な人気を獲得した原田真二でしたが、アルバムがリリースされた直後、原田真二は"アイドル路線から脱却し、自分の想いを込めた曲を自由に届けたい"という想いで、所属事務所を移籍します。「アイドル的なデビューは、事務所の方針で仕方なかったですけど、ライブで、女の子にキャーキャー騒がれる事が、自分自身苦痛でたまらなかったんです。軟弱に見られるのが、当時は、本当に嫌でした。」。1978年7月、原田真二は事務所移籍後初のシングル「サゥザンド・ナイツ」をリリースするのでした。
1978年7月、原田真二は5枚目のシングル「サゥザンド・ナイツ」を発売します。
「事務所を移籍し、自分の考えを貫き通すことができるようになってからは、少しずつ考え方が変わってきたんです。7月に5枚目のシングル「サゥザンド・ナイツ」をリリースし、その直後に、初の日本武道館ライブも成功しました。全ての物事が順調に回り始めたこの頃から、自分の中で、本気で"脱アイドル"の思いが強くなってきて、そのために何をすればいいのかを考えるようになったんです」。

原田真二は、"このままアイドルとして過密なスケジュールをこなしていくのか、或いはミュージシャンとして自分のリズムを取り戻すのか"自分が目指すものと、現実のギャップに悩みます。しかし、原田真二は、11月に発売を予定していた6枚目のシングルで、自分の中にひとつの方向性を導きだします。
「自分で全て作曲、編曲を手掛けた1stアルバム『Free Happy』で、ストリングス・アレンジにもチャレンジして、プロデュース業にも自信が湧いてきたんです。そこで、自分が元々書いていた、ハードで力強いメッセージを乗せた曲を作ることにチャレンジしました。ストリングス・アレンジは、同世代のミュージシャンからも絶賛されて、曲が完成した直後は、色んな人達に聴いて欲しかったので、知り合いのライブハウスに、わざわざ曲を聴かせに行ったんです」。
7月の日本武道館でのライブで、リリースに先駆けて披露されたこの曲は、11月に、6枚目のシングル「OUR SONG」として、リリースされるのでした。

1978年11月に発売された、原田真二の6枚目のシングル「OUR SONG」。
「僕の音楽が、それまでのシンガー・ソングライター的な作風から、ハードなギター・サウンドに変わっていく、今の僕の音楽の原点にもなっている曲です。僕は、どうしてもこの曲で、強いメッセージを込めたロックバラードを作りたかったんです。この曲以降"自分の試してみたいことは、音楽で表現する"という自分の音楽の信念が生まれたんです」。最後に、原田真二さんは、こう話してくれました。

本当の意味での、ミュージシャン・原田真二が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.土曜の夜は僕の生きがい/エルトン・ジョン
M2.てぃーんず・ぶるーす/原田真二
M3.サウザンド・ナイツ/原田真二
M4.OUR SONG/原田真二