
144回目の今日お届けしたのは、「フラワー・カンパニーズ/深夜高速」でした。
「スタジオに入って、一緒に音を出してみようか」。
1989年春、中学時代の同級生で、一緒にバンド活動をしていたボーカルの鈴木圭介とドラマ―のミスター小西は、同じ中学時代の同級生で別のバンドで活動していた、ベースのグレートマエカワ、そしてマエカワの高校時代の同級生でギターの竹安堅一に、こう声を掛けます。そして、初めてのスタジオセッションで意気投合した4人は、バンド「フラワー・カンパニーズ」を結成します。
「僕は、セックス・ピストルズや、スターリンといったパンク・ロックばかり聴いていたし、他のメンバーは60年代から70年代のアメリカン・ロックや、ブリティッシュ・ロックばかり聴いていたんです。バラバラの音楽的志向の4人が、バンドを結成して目指したのは、当時、イギリスで人気を集めていた、パンクロックにケルト音楽の要素を持ち込んだロックバンド「ザ・ポーグス」のような音楽でした。でも、それはあくまで目標であって、実際のライブでは、ザ・ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンのカバー曲ばかり演奏していました」。
フラカン結成当初について、ボーカルの鈴木圭介はこう振り返ります。
1989年春、名古屋で結成された「フラワー・カンパニーズ」は、8月に、初ライブを行った後、11月には、後に彼らの拠点となる名古屋の老舗ライブハウス「E.L.L」で初めてのライブを行います。
また、フラワー・カンパニーズは、デモテープ作りにも積極的に取り組み、その作ったデモテープをライブ会場で販売してファン層を拡げて、結成から1年後には、ライブ動員も100人近くまで集めるまでに成長していきます。
1990年9月、フラワー・カンパニーズは、名古屋地区のミュージシャンを対象に行われたコンテスト「TOYOTA YOUNG MUSIC FESTIVAL」に出場し、優勝します。これをキッカケに、彼らは、ソニーミュージックの新人開発セクションSDのスタッフからも注目を集めるようになって、地元名古屋はもちろん、大阪、東京でもライブ活動をスタートします。
「初めて出たコンテストで賞をもらって、ソニーの新人発掘のスタッフの人が来るようになって...当時は、まだ大学生でしたから。そこから少しずつ本気度が増していって、そうこうしているうちに事務所に声をかけてもらって。でも、デビューが決まるまでは、結構、時間がかかりました」。
こうして、初めてのコンテスト優勝から3年半が経った1994年2月、フラワー・カンパニーズは、ソニー系のメジャーレーベル、アンティノス・レコードと契約し、5月に1stアルバム『フラカンのフェイクでいこう』を発売。そして、翌1996年2月に、1stシングル「孤高の英雄」をリリースするのでした。
1996年2月、フラワー・カンパニーズは、1stシングル「孤高の英雄」と、2ndアルバム『フラカンのマイ・ブルー・ヘブン』を同時発売します。
「メジャーデビューしたからと言っても、僕らに劇的な変化はありませんでした。自分達がやりたい好きな音楽を作って、ライブでその作った音楽が正しかったのか、間違いだったのかを確認する。一晩ごとに、常に全力投球で臨んでいたんです」。メンバーの鈴木さんは、メジャーデビュー当時について、こう振り返ります。
フラワー・カンパニーズは、テレビ、ラジオ、音楽雑誌などメディアへの露出に加え、彼らにとっては欠かせないライブを積み重ねていきます。鈴木圭介が大きな声で、ステージ上を転げ回りながら歌い、さらに、ベースのグレート・マエカワが暴れ回りながら演奏する姿は、音楽関係者はもちろん、多くの音楽ファンからも支持を集めます。
ライブ規模も、デビュー僅か1年半後の1997年10月に東京・日比谷野外音楽堂で初のワンマンライブを成功させ、翌1998年には初の全国ツアー、さらには8月に大阪球場でワンマンライブを開くまで拡大していきます。
しかし、ライブの規模が大きくなり、さまざまなメディアでとりあげられるほど、彼らは、自分たちの音楽活動に違和感を覚えていきます。そして、2001年3月、フラワー・カンパニーズは、アンティノス・レコードとの契約が切れるに伴い、自主レーベル「TRASH RECORDS」を立ち上げると同時に、彼らの原点とも言えるライブ活動重視の音楽活動に戻ることを決めます。「レコード会社との契約が切れ、約半年間、自分達だけで、ひたすら全国のライブハウスを回ったんです。その経験が、その後の自分達にとって、かけがいのない大きな財産になりました」。
2002年7月、フラワー・カンパニーズは、全国のライブハウス回りから生まれた、7枚目のアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』を、自主レーベル「TRASH RECORDS」から発売します。
「メジャーレーベルとの契約が切れる直前は、ライブ規模も大きくなって、体はスタッフの言われるままに流されていくけど、精神的には辛かったんです。だから、当時のアルバムには、半ばやけくそのような感じで、とにかく高音を出して、歌詞もはっきり聴きとれないような曲が多く、暴力的な作品が多かったんです。2001年に、アンティノス・レコードとの契約が終わった時、もう一度自分達の力だけで、大好きなライブを積み重ねていく中で、メジャーの世界がどれだけ恵まれているのかが改めて分かりました。もっと良く言えば、インディーズに戻って、自分達の力だけでライブをすることで、お客さんの顔がよく見られるようになったんです。ライブ動員は減ったけど、本当に自分達の音楽が大好きな人達が、やって来てくれる。その輪が、少しずつでも増えていけば、そんな思いで、毎晩ライブをやっていたんです。この自主レーベルから発売したアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』では、もう一度我に返って、そんな経験から生まれた、生活感を滲みだした、よりリアルな世界を歌詞に書いたことで、自分達でも納得できるものができたんです」。
その後も、フラワー・カンパニーズは、毎年、100本近くのライブを行い、アルバムを1枚、リリースしていきます。
そんな中、彼らが2003年に作ったある曲が、それまで作った曲と比べて、全く異なる売れ方をします。
「この曲は、2003年11月に発売したアルバム『東京タワー』の制作が終わって、ライブ活動の合間に、その次のアルバムを発売するまでの、つなぎの曲として作った、数曲の内の1曲なんです。2004年初めのライブでは、ライブ会場先行CDとして販売していたんですが、その売れ方が今までとは違っていたんです。それまでは、ライブ会場でCDを販売しても、1晩で数十枚売れれば良かったけど、この曲は1晩で100枚近くのCDが売れて、ライブ会場毎にCDを補充するような状態だったんです」。
「CDが売れれば、当然ライブで演奏しても盛り上がる。いつの間にか、話題が話題を呼んで、ライブでこの曲を演奏すると、お客さんの反応が変わってくるのが伝わってきたんです」。
「何かを特別意識して作った訳ではないけど、ライブを積み重ね、ライブハウスの人達と話をし、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり。僕らも色々な経験をさせてもらったおかげで、歌詞にリアリティが生まれ、その歌詞がこの曲を聴いてくれた人達の琴線に触れたんでしょう」。
こうして、2004年9月、フラワー・カンパニーズの16枚目のシングル「深夜高速」は、発売されます。
2004年9月に発売された、フラワー・カンパニーズの16枚目のシングル「深夜高速」は、発売から5年後の2009年9月に、バンド結成20周年を記念して、この1曲を斎藤和義、中孝介ら13組ものアーティストが一挙にカバーするという前代未聞のトリビュートアルバム『深夜高速~生きててよかったの集い~』として、新たな形で脚光を浴びます。
「バンドとしては、特に大きなメッセージ性もなく作った曲ですけど、この曲を聴いた多くの人達の心に、この曲のサビの歌詞"生きててよかった"という部分が留まり、色んな事を感じてもらえたんだと思います。それによって、フラワー・カンパニーズの存在を、さらに知ってもらうことができた。それだけでも、僕らは嬉しいんです」
最後に、メンバーの鈴木圭介さんはこう語ってくれました。
リアリティ溢れる言葉と、人生経験の積み重ねが生んだ、J-POPの名曲を生み落した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.アイリッシュ・ローバー/ザ・ポーグス
M2.孤高の英雄/フラワー・カンパニーズ
M3.吐きたくなるほど愛されたい/フラワー・カンパニーズ
M4.深夜高速/フラワー・カンパニーズ