
135回目の今日お届けしたのは、「矢野顕子/ひとつだけ」でした
1955年2月、東京に生まれた少女・鈴木顕子、後の矢野顕子は、彼女が3歳の時に、父親の仕事の都合で、青森市に引っ越しします。
「引っ越しした青森の、音楽教室で習い始めたピアノが私の人生を大きく変えたんです。ピアノを弾くようになって、いつの間にか自分の心の中に、将来は、プロになろうと、どこか決意した部分が芽生え始め、生活する中で、ピアノを切り離して考えることができなくなったんです。ピアノと矢野顕子は、一緒に育ってきたもの、そんな存在感になっていったんです」。
デビュー30周年を記念した雑誌のインタビューで、矢野顕子は、こう話しています。
その後、矢野顕子は、青森の中学校に進学した頃からジャズに興味を持ち始め、プロのミュージシャンを目指すため、1971年春、親元を離れ、青山学院高等部に入学。父親の知人であった安部譲二の家に居候させてもらいながら、青山のジャズクラブ「ロブロイ」で山下洋輔、坂田明といったジャズ・プレーヤーと連日セッションを繰り広げる日々を送ります。
1972年、彼女の噂を聴きつけた音楽関係者の目に留まった矢野顕子は、細野晴臣、鈴木茂、林立夫らが作っていた音楽ユニット「キャラメル・ママ」のセッションに参加。この頃から、自らも曲を作り始めます。
1973年、矢野顕子は音楽仲間とバンド「ザリバ」を結成し、シングル「或る日」を発売しますが、シングル発売直後に解散。その後、矢野顕子は、音楽プロデューサーの矢野誠、キャラメル・ママらと共にソロデビューの準備を進めます。
1974年、音楽プロデューサーの矢野誠と結婚し矢野顕子となった彼女は、長男を出産後、本格的にソロアルバムの制作に取り掛かります。
「1stアルバムを作る時、当時の担当ディレクターが矢野顕子に「どんなアルバムを作りたいの?」と聞いたんです。当時矢野さんは、夫でもある音楽プロデューサーの矢野誠さんと一緒に、日本人である自分と、音楽の関わりについて深く考えていた時期で、ルーツミュージックに興味を持っていたんです。そこで、アメリカでR&B、ブルース、カントリー、ジャズなどのルーツミュージックを融合させた作品で高い評価を浴びていた、リトル・フィートの名前を挙げたんです。そこで担当ディレクターが直ぐに彼らにコンタクトを取ったところ、リトル・フィート側も快諾してくれて、彼らをバックバンドに迎えてのレコーディングが実現したんです」。
矢野顕子30周年を記念したアルバム『いままでのやのあきこ』の制作担当ディレクターを務めた、篠崎さんは、当時の様子についてこう語ってくれました。
こうして1976年7月、矢野顕子は、1stソロアルバム『JAPANESE GIRL』を発売します。
1976年7月、矢野顕子は、リトル・フィート以外にも、ティン・パン・アレイ、鈴木慶一とムーンライダーズという錚々たるミュージシャンが参加して作った1stアルバム『JAPANESE GIRL』を発売。5ヵ月後の1976年12月には、1stライブの模様を収めたライブアルバム『長月・神無月』を、発売します。
音符の上を自由奔放に跳ね回るような歌い方と、変幻自在、かつ緻密な矢野顕子の音楽性は、デビュー直後から多くの人達から注目を集めます。
「彼女は、その瞬間、彼女が感じて良いと思った生の部分を、音として表現しているんです。つまり、演奏する場所、時間、ライブを観に来た人達の顔...その瞬間の雰囲気・空気を感じとって、音楽として表現しているので、ライブツアーでも、決して同じ物は無く、日々違っているんです。同じ音楽は二つとない、まさにひとつだけという事ですね」。
「歌詞も、怒りや後悔といったネガティブなテーマは多分ほとんどなく、愛についてが多いと思います。男女だけではなく、大きな意味での愛。多彩な音楽経験、そしてすばらしい歌詞。この二つが上手く融合することで、彼女ならではの唯一無二の音楽が生まれ、聴く人達の心を捉えるんだと思います。
2006年8月に発売した、デビュー30周年を記念したコンプリートアルバム『いままでのやのあきこ』を作るために、デビュー当時からの音源を全て聴き直して、私は改めてそう感じたんです」。
現在、矢野顕子の音楽制作ディレクターを務める篠崎さんは、矢野顕子の音楽の魅力について、こう語ります。
矢野顕子は、デビュー以降も、デビュー前から付き合いのあった音楽ユニット「ティン・パン・アレー」のメンバー細野晴臣、鈴木茂、林立夫、そして坂本龍一、高橋幸宏、山下達郎、吉田美奈子と言ったミュージシャンらとも積極的に交流を図ってアルバムを作っていきます。さらに1978年に入ると、ギタリストの渡辺香津美、ドラムの村上"ポンタ秀一、ベースの小原礼といったジャズフュージョン系のミュージシャンらと共に、同じ楽器に二人のプレーヤーを立てて、音楽的な"格闘技"を行うというコンセプトの基に、「格闘技セッション」と呼ばれるユニットを結成して活動します。
また翌1979年には、坂本龍一、渡辺香津美、村上秀一らとバンド「KYLIN BAND」を結成し、ライブ活動を行いながら、
4月には自身のソロライブアルバム『東京は夜の7時』を発売します。
「当時の彼女は、子供の母親として、そしてセッションミュージシャンとして、さらには一人のシンガーソングライターとして、本当に多忙な日々を送っていたんです。でも、幾ら忙しくても、音楽面では一切妥協は許さず、常に自分自身が納得できるまで曲を作っていたんです。そんな中、次に彼女は、それまでの音楽人生の集大成のような思いで、彼女自身のソロアルバムの制作に取り掛かったんです」。
当時、矢野顕子のマネージャーを務めていた佐藤さんは、こう振り返ります。
多彩な音楽活動の合間をぬって、ソロアルバムの制作に取り掛かった矢野顕子の下へ、楽曲提供の話が舞い込みます。
「依頼は、その年、1979年11月に、アグネス・チャンが発売を予定していたアルバムに収める曲を作って欲しい、という内容でした。矢野顕子は、曲を作った後、自らもこの曲をアルバムに収めることを決めて、アグネス・チャンに提供した曲の歌詞の一部を変えて、レコーディングしたんです。演奏には、アルバムの共同プロデュースを務めた坂本龍一他、
高橋幸宏、細野晴臣の、YMOメンバーが3人揃って参加しています」。
こうして1980年1月、当初は矢野顕子がアグネス・チャンのために作った曲「ひとつだけ」は、シングル「ごはんができたよ」のカップリングとして発売されます。
1980年1月、シングル「ごはんができたよ」のカップリング曲として発売された「ひとつだけ」は、同じ年1980年10月に発売されたアルバム『ごはんができたよ』にも収録されます。
「この曲は、最初は、シングルのカップリング曲として発売されたんですけど、長年歌い続けることで熟成されて、彼女にとってはもちろんですが、彼女の音楽を愛するファンの人達にとっても、大切な曲になっているんです。
ここ数年、彼女がライブでこの曲を歌うと、お客さんも一緒に歌うシーンを度々見かけることがあるんです。自然とお客が途中から歌いはじめ、最後は大合唱になった事もありました。普段矢野のコンサートでお客が一緒に歌うと言う事はまれなんです。でもそれは、彼女が促しているではなく、お客さん達が自然と一緒に歌ってくれているんです。ひとつだけは特別な曲なんだと思います」。
最後に、制作ディレクターを務める篠崎さんは、こう語ってくれました。
あふれる才能が産み落とし、日々、積み重ねられる経験が育んだ、J-POPスタンダードナンバー、
それが、矢野顕子の「ひとつだけ」なのです。
今日OAした曲目
M1.My Favorite Things/ジョン・コルトレーン
M2.電話線/矢野顕子
M3.ひとつだけ/矢野顕子