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食卓音楽


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2010年4月16日
「T−BOLAN/離したくはない」

133回目の今日お届けしたのは、「T−BOLAN/離したくはない」でした

「僕は、アマチュア時代から、歌を歌うことが大好きで、バンドを作った時も、最初は曲を作るといったクリエイティブな部分よりも、バンドのボーカリストという部分に興味があったんです。しかし、当時のバンドのメンバーから、「歌詞は、ボーカルが書いた方がいいよ」と言われて、それから何も疑問も持たずに歌詞を書くようになったんです。」
曲を書くようになったキッカケについて、森友嵐士は音楽情報サイトのインタビューでこう答えています。

1965年10月、広島県府中市に生まれた森友嵐士は、彼が16歳の時に、友人からアコースティックギターを譲り受け、翌年の学園祭に出演し、はじめて歌で自分を表現する喜びを知ります。
その後、東海大学に進学した森友嵐士は、音楽サークルに入部し、バンドを結成します。
そして、1987年、森友嵐士はアルバイト先のライブハウスで出会った、ドラマーの青木和義とバンド「プリズナー」を結成し、本格的にプロの世界を目指します。

1987年11月、プリズナーは、レコード会社BEINGが新人発掘のために行っていた音楽コンテスト「第2回BADオーディション」にデモテープを送り、グランプリを受賞。翌1988年7月、プリズナーはバンド名を「BOLAN」と改め、BEINGのインディーズレーベルからシングルをリリースします。

その後BOLANは、都内のライブハウスを中心に年間150本以上のライブを行って、最盛期にはインディーズにも関わらず、ワンマンライブに約700名を集めるまで成長します。余談ですが、デビュー直後のB’zの稲葉浩志も、BOLANのライブにゲスト出演したこともあるそうです。
しかし、BOLANは、メンバー間で、音楽に対する考え方の違いが生まれ、森友嵐士はBOLANを脱退します。
BOLANを脱退した森友嵐士は、幾つかのバンドを掛け持ちして活動するようになりますが、そんな中で、ギターの五味孝、ベースの上野博文と知り合います。

1990年に入り、森友嵐士は、活動停止状態だった「BOLAN」の青木和義と再び一緒に音楽活動を始め、五味、上野の2人を加えてバンドを結成。イギリスのグラムロックバンド「T-REX」にちなんで、バンド名を「T-BOLAN」と名乗り、翌1991年7月、1stSg「悲しみが痛いよ」でデビューします。
「1stシングルの発売日、僕はその日がデビュー日というのも忘れるくらい、秋に発売を予定していたアルバムの曲作りに没頭していたんです。21歳の時に、T-BOLANの前身バンド、プリズナーを結成し、自分の気持ちの中で、「音楽の世界で勝負をしよう」と思って活動してきました。メジャーデビューが決まるまでの5年間は、自分が思い描いていた世界とは違っていたし、正直、まさかここまで時間がかかるとは思わなかったんです」。
森友嵐士は、当時について音楽情報サイトのインタビューでこう振り返っています。

オーディションの時から、定評のあった森友嵐士の歌声の魅力。それをいかに形にして、オーディエンスに届けていくのか? 課題解決に向け、BEING代表の音楽プロデューサー・長戸大幸をはじめとしたスタッフ、メンバーの試行錯誤が繰り返されます。
「プリズナーから、BOLAN、そしてT-BOLANと、バンド活動を続けてきたけど、プロデューサーの長戸さんは、なかなか僕らの作品を認めてくれませんでした。そんなとき、埼玉の「浦和ナルシス」というライブハウスでライブを行ったんですが、お客さんとして来ていた女子高生に「かっこいいけど、ひとつだけ良くないところがある」って言われたんです。改めて彼女に問いただすと、彼女は、「歌詞が良くない。曲を聞いても、全然響いてこない」って言ったんです。歌詞を書く人間としては正直ショックでしたけど、この言葉が、課題解決のためのヒントになりました」 。

「女子高生にキツイ言葉を言われて、悩み、考えていく中で、ある時、自分の置かれた状況をそのまま歌詞に書いてみたんです。すると、曲を作り終わった時、「コレかッ!」と思う何かが、自分の頭の中を駆け巡ったんです。それが、1stシングルのカップリングに収めた曲です。」
「アマチュア時代は、知り合いを含めて、ライブハウスを埋めるのが精いっぱいでしたけど、デビュー直後のライブでは、チケットが即日ソールドアウト。会場には、凄い数の人がうねっていたんです。アマチュアの頃とは全く違う景色で、新しく作った音楽の結果が目の前に広がっていたから、創作に対するエネルギーが自分の中でどんどん高くなっていったんです。曲を作るにもエネルギーは必要で、完成した時は嬉しいけど、それまではただ苦しいだけ。でも、ひとつの作品として、目の前の人達から笑顔という結果を貰えると、最初は作品に対して自信が無かったんですが、また作っていきたいという創作意欲が湧いてきたんです」。

ライブにやって来た人達の満足する表情に、ひとつの自信を掴んだ森友嵐士は、より貪欲に創作活動に力を注いでいきます。
「この曲も、最初はシングルのB面に収める予定で作った曲なんです。何気なくピアノに向かって弾いていたものを、ラジカセに録音して、そのデモテープを、プロデューサーの長戸さんに聞かせたら、「いい曲だ」と評価してくれ、急遽、シングルのB面から、アルバム収録曲に変更になったんです」。

1991年11月、T-BOLANはこの曲を含む1stアルバム『T-BOLAN』を発売します。「当初はシングルカットするつもりはありませんでしたが、10月からフジテレビ系でスタートしたドラマ『ホテル・ウーマン』の挿入歌として起用されたところ、有線放送にこの曲へのリクエストが殺到したんです。そこで慌ててレコード会社が、2ndシングルとして発売することを決めたんです」。
こうして1991年12月、T-BOLANの「離したくはない」は、2ndシングルとして発売されるのでした。

1991年12月に発売された、T-BOLANの2ndシングル「離したくはない」は、セールスチャート最高位15位、売上は約47万枚、さらには発売からおよそ1年に近くに渡ってセールスチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
「1stシングルのカップリング曲として収録された「Hold On My Beat」で、自分の音楽に気が付き、次に作ったこの曲で、自分の中に軸がやっとできたと感じたんです。
出会って5年間、なかなか認めてもらうことができなかったプロデューサーの長戸さんからも、「いいね」って評価してもらうことができました」
森友嵐士は、最新のインタビューの中で、当時についてこう振り返っています。

ライブのお客さんの声に気づかされ、笑顔に勇気付けられ、J-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ゲット・イット・オン/T-REX
M2.悲しみが痛いよ/T-BOLAN
M3.Hold On My Beat/T-BOLAN
M4.離したくはない/T−BOLAN