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2009年8月21日
「加藤和彦と北山修/あの素晴しい愛をもう一度」

第99回目の今日お届けしたのは、「加藤和彦と北山修/あの素晴しい愛をもう一度」でした。

1947年3月、京都府伏見区に生まれた加藤和彦は、父親の仕事の関係で、生後間もなく神奈川県鎌倉市に移り住み、高校卒業後に、龍谷大学に進学のため、再び京都で生活を始めます。
1965年、加藤和彦はバンドを作ることを考え、雑誌『メンズクラブ』にメンバー募集告知を掲載、その記事を見た同級生で当時医大生の北山修が加藤のもとを訪れます。その後、高校生の平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって、フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダース」が結成されます。
「僕は、小中学校時代は、音楽とは無縁の生活を送っていたんです。友達がいなかったから、プラモデルを作って、独りで遊んでいました。その後、高校2〜3年ぐらいの時、ラジオから流れたきたボブ・ディランの曲を聴いたのをキッカケに、何となく自分でもやってみたいなと思うようになったんです。当時、ギターがなぜか家にあったのでちょこちょこと弾いてはいたんですけど、本格的にやろうと思ったのは、大学進学後、京都に戻ったときで、それでメンバーを集めたんです。本格的に音楽活動を始めたのは、ザ・フォーク・クルセダースを作ってからですね」。
音楽情報Webサイトのインタビューで、音楽を始めたキッカケについて、加藤和彦さんは、こう振り返っています。

当初、5人で結成されたザ・フォーク・クルセダースは、メンバーの脱退と加入を繰り返しながらも活動を続け、関西アマチュアフォーク界では、知られた存在となります。1967年、就職を翌年に控えた加藤と北山は、ザ・フォーク・クルセダースの解散を決意、加藤、北山、平沼の3人のメンバーは、「解散記念に」と、自主制作アルバム『ハレンチ』を、およそ300枚作って、3人の友人や、知り合いの地元のラジオ局のスタッフに配ります。

この『ハレンチ』に収められていた曲、「イムジン河」と「帰って来たヨッパライ」が、地元関西のラジオ局でオンエアされる度にラジオ局にリクエストが殺到。ラジオで頻繁にオンエアされるようになったことで、ザ・フォーク・クルセダースの噂を耳にした、レコード会社が、ザ・フォーク・クルセダースに、プロデビューの誘いを持ち掛けます。
最初は、プロデビューに反対していた加藤でしたが、北山の度重なる説得に応じて、「一年限りで」という約束で、プロ活動をすることを決意します。
こうして、加藤和彦、北山修、そして平沼義男に代わって、加藤和彦の友人だった、はしだのりひこを新メンバーに加えた、ザ・フォーク・クルセダースは、1967年12月、シングル「帰って来たヨッパライ」でデビューします。

1967年12月に発売された、ザ・フォーク・クルセダースの1stシングル「帰って来たヨッパライ」は、この年に集計が始まった、「オリコン」で、初めてのミリオンセラー作品となり、約131万枚を売上げます。
しかし、翌1968年2月、ザ・フォーク・クルセダースが2ndシングルとして発売を予定していた「イムジン河」は、政治的な理由によって、レコード会社が発売を自主規制。すると、ザ・フォーク・クルセダースは、すぐに「イムジン河」に代わる、3枚目のシングル「悲しくてやりきれない」を作って、1968年3月に発売し、セールスチャート最高位6位を記録し、約26万枚の売上を記録します。
「僕が、ザ・フォーク・クルセダースに初めて出会ったのは、1968年の夏でした。当時僕は、早稲田大学フォーク・ソングクラブから生まれた「ザ・リガニーズ」というバンドのメンバーで、ザ・フォーク・クルセダースの担当ディレクター高嶋さんの目にとまって、ザ・フォーク・クルセダースと同じ東芝レコードからデビューしたんです。ザ・フォーク・クルセダースとは、ジョイントコンサートで一緒になって、年齢が近かったこともあり、メンバー同士すぐに仲良くなったんです」。後に、加藤和彦、北山修、はしだのりひこらがソロ活動を始めた時に担当ディレクターになる新田さんは、当時をこう振り返ります。

その後、ザ・フォーク・クルセダースは、デビュー当初の約束通り、デビューから1年後の1968年10月に大阪でさよならコンサートを行った後、解散。北山修は学業の傍らで作詞家として、加藤和彦は作曲家として、はしだのりひこは、新しいグループ「はしだのりひことシューベルツ」を結成して、活動します。
「ザ・リガニーズのメンバーとして、一度はプロデビューした僕ですが、高嶋ディレクターからの誘いで、歌手の道を諦め、ディレクターとして1969年春に、東芝レコードに入社したんです。そして最初に担当したのが、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人でした。僕は、再結成が難しいなら、加藤和彦と、北山修のコンビで、もう一度何かできないだろうかと考えて、二人を作詞家と作曲家のコンビで引っ張り出して、一緒に曲を作らせたら面白いのでは、と思いついたんです。ザ・フォーク・クルセダース解散後、加藤と北山の二人は、疎遠になっていたので、僕が二人それぞれ個別に会って話をし、当時、僕が担当していた「ト・ワエ・モア」の新曲を、作ってもらったんです」。
こうして、新田さんのアイディアから生まれた、ト・ワエ・モアの5枚目のシングル「初恋の人に似ている」は、1970年7月に発売されます。
1970年7月に発売された、ト・ワエ・モアの5枚目のシングル「初恋の人に似ている」。「この曲が、まずまずのヒットをしたので、二人も、作詞家、作曲家として、それぞれ自信を持ってくれました。じゃあ、次は、と考えたのが、今度は二人で曲を作って、一緒に歌わせる、という作戦でした」。当時のレコードディレクター、新田さんは、次の作戦を実行します。

「実は、最終的にこの曲を作ることになったキッカケは、二つの説があるんです。
ひとつは、1970年の夏、加藤和彦の結婚記念日祝いに、北山修が一つの歌詞を加藤にプレゼントし、その歌詞に加藤がメロディを付けて、その年のクリスマスプレゼントとして、その曲を加藤が奥さんに贈ったという説です。
 もう一つは、ト・ワエ・モアの曲がヒットした事で、作詞家と作曲家として、お互いの素質を改めて認め合った二人が、再チャレンジして作った、という説です。お互い、この部分について、今だにちゃんと語ってくれないんですね」。新田さんは、曲が作られたキッカケについて、こう振り返ります。

「レコーディングは、当時のニッポン放送のスタジオで行ったんです。二人が作った曲に、サイモン&ガーファンクルの曲「ボクサー」のアレンジを参考にして、3フィンガーのギター、ドラムのキックを、取り入れることにしたんです。レコーディングでドラマーを務めた、つのだひろは、ドラムの他にも、加藤の自宅から持ってきたインド製のイスを叩いています」。
こうして1971年4月、ザ・フォーク・クルセダース解散後から1年半余りを経て、再び一緒に歌うことになった、加藤和彦と北山修のシングル「あの素晴しい愛をもう一度」は、発売されるのでした。

1971年4月に、加藤和彦と北山修名義で発売されたシングル「あの素晴しい愛をもう一度」は、セールスチャート最高位10位、約24万枚の売上を記録します。
「曲を作ったキッカケの真想は定かではありませんが、歌詞からは男と男の友情のような感じを受けますよね。
曲を作った当時も、この歌は加藤和彦、北山修を含めた、ごく限られた人達のパーソナルな歌、という要素が強かったんです。しかし、いつの間にか、多くのアーティストにカバーしてもらったり、学校の合唱歌としても歌い続けられています。この歌が、ここまで、成長するとは誰も予測していませんでした」。
最後に、ディレクターを務めた新田さんは、当時についてこう振り返ります。

世代を超えて愛され歌い続けられる、J-POPのスタンダードナンバーが生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Don’t Think Twice,It’s All Right(くよくよするなよ)/ボブ・ディラン
M2.帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダース
M3.初恋の人に似ている/ト・ワエ・モア
M4.あの素晴しい愛をもう一度/加藤和彦と北山修