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2009年5月 8日
「また逢う日まで/尾崎紀世彦」

第84回目の今日お届けしたのは、「尾崎紀世彦/また逢う日まで」でした。

「彼と初めて出会ったのは、確か1966年、四国で行われたライブだったと思います。当時彼は、カントリー・ウエスタン・バンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーで、僕は、コーラスグループ「ザ・タドポールズ」のメンバーでした。お互いのバンドと、佐良直美を加えた3組が共演したジョイントライブでした」。尾崎紀世彦との初めての出会いについて、後に彼の制作ディレクターを務める小栗俊雄さんは、こう振り返ります。

ジョイントライブで出会った尾崎紀世彦と小栗俊雄の二人は、小栗が在籍していた「ザ・タドポールズ」の、もう一人のメンバー朝紘一が、尾崎紀世彦と同年代だったことから、すぐに打ち解けます。それぞれ立場は違うものの、尾崎紀世彦と小栗俊雄、そして朝紘一の3人は、「音楽」と言う共通のテーマを通して意気投合、3人で新しいグループの結成を決意します。
「在籍していた、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」、「ザ・タドポールズ」に、3人とも不満はありませんでした。しかし、将来の事を考え、自分達で何か新しい事にチャレンジしてみたくなったんですね。3人で何度か話をし、出した結論が、新しいグループの結成でした」。当時について、小栗さんはこう振り返ります。

1967年1月、尾崎紀世彦、小栗俊雄、朝紘一の3人が結成した、コーラスグループ「ザ・ワンダース」。ザ・ワンダースは、銀座「タクト」や新宿「アシベ」と言ったジャズ喫茶や、全国各地の米軍基地での演奏を中心に音楽活動をスタートさせます。当初はザ・ウォーカー・ブラザーズ、ビートルズなどのカバー曲を中心に歌っていたザ・ワンダースでしたが、8月に、シングル「明日への道」とアルバム『ニューカマー・ザ・ワンダース』でレコードデビューします。そして、同じ年の10月に、ザ・ワンダースがバンド名を変えて発売したある曲が、後に彼らの存在を大きくクローズアップさせるキッカケとなるのでした。

1967年10月、ザ・ワンダースが、グループ名を「ジ・エコーズ」と改名して発売した「ウルトラセブンの歌」。「この「ウルトラセブンの歌」は、当時、僕らが契約していた事務所「日音」が、TBSテレビの仕事に携わることが多く、その関係で歌うことになりました。しかし、僕らが契約していたテイチクレコードとの契約上の問題で、ザ・ワンダース名義では曲を発売できないという話になり、急遽、グループ名を変えて発売することになったんです」。小栗さんは、曲を発売する時の経緯について、こう振り返ります。「曲の頭、「セブン、セブン、セブン、セブン」と言う歌詞の、3番目のセブンを歌っているのが尾崎紀世彦です。また、曲のメインボーカルを務めているのも、尾崎紀世彦です。当時から、尾崎紀世彦の声の張り、力強さなどボーカルとしての素質は際立っていましたね。ザ・ワンダースとしては、中々ヒット曲を出すことはできませんでしたが、後にジ・エコーズ名義でTV主題歌やCMソングを歌った話が世の中に知られるようになった時、ザ・ワンダースも再評価されるようになったんです」。その後も、ザ・ワンダースとしてライブ活動を行い、ジ・エコーズ名義でTV主題歌やCMソングを歌っていた尾崎、小栗、朝の3人は、1969年の秋、「日音」の村上プロデューサーから、ある提案を受けます。「村上さんからの提案は、「ザ・ワンダースを結成して2年半。思うように結果も出ないから、グループを解散し、それぞれ別々の道を歩んではどうか」ということでした。突然の話でしたが、3人は将来を考え、ぞれぞれ別々の道を歩むことを決めました」。
村上プロデューサーからの提案に、小栗は制作スタッフ、朝は作詞家への道を歩むことになります。そして、尾崎紀世彦は、彼が持つ声の太さ、張りに魅力を感じていた村上プロデューサーが、ソロボーカリストとしての道を歩むことをすすめ、翌1970年8月、シングル「別れの夜明け」でソロデビューします。

1970年8月、シングル「別れの夜明け」でデビューした尾崎紀世彦。本格派ボーカリストとしてソロ活動を始めた尾崎紀世彦の評価は、音楽関係者の間で話題となります。翌1971年、尾崎紀世彦2枚目のシングルを作るにあたって、村上プロデューサーは、彼の頭の中で気になっていた、ある曲を、尾崎紀世彦に歌わすことを考えます。「村上プロデューサーが、尾崎紀世彦に歌わそうとしていた曲は、もともと作曲家の筒美京平さんが、三菱電機のCMソングとして作った曲でした。しかし、曲を作ったものの、スポンサー側の都合で土壇場でキャンセル。日の目を見ることなく、消えていく運命にあった曲だったんです。ところが、その後、作詞家の阿久悠が歌詞を書き直し、1970年2月に、GSグループの「ズー・ニー・ヴー」が「ひとりの悲しみ」というタイトルで発売することになるんです。」
「ズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」は、日米安保で挫折した青年の孤独をテーマに描いたものでしたが、残
念ながら、ヒットはしませんでした。しかし、村上プロデューサーは、「メロディは問題ない。聴く人が分かりやすく歌詞を書き直し、尾崎の力強い声で歌えば、この曲が持っている良さは、必ず聴く人の心を掴み、ヒットする」、と考えていたようです。」「そこでまず、ズーニー・ヴーの曲を、尾崎がテスト録音したんですが、そのテスト録音を聞いた瞬間、村上プロデューサーも、僕も「これだ。絶対売れる」と確信しました。それで村上さんは、「ひとりの悲しみ」を作詞した阿久先生に、改めて歌詞を書き直してくれるように頼みに行ったんです」。小栗さんは、当時についてこう振り返ります。村上プロデューサーの、度重なる依頼に、「ひとりの悲しみ」を作詞した阿久悠は、歌詞を書き直すことを了承します。「歌詞は書き直しましたが、メロディアレンジは「ひとりの悲しみ」と同じです。唯一こだわった点は、曲のイントロに使われた、太鼓です。曲にダイナミックなスケール感を出すため、この部分は、太鼓の音の大きさにこだわり何度も録り直しました」。「尾崎が歌う、ボーカルパートも完成し、最後に曲のサビに、コーラスを加えることになりました。コーラスは、尾崎、僕、そして朝の3人、つまりザ・ワンダースの元メンバー3人が担当しました。曲をよく聞くと分かりますが、サビの部分は3人のコーラスを重ねているんですが、やはり尾崎の声が強く、まるで一人が歌っているようにしか聞こません。可笑しいですよね」。小栗さんは、レコーディングの時の様子について、こう語ってくれました。こうして、1971年3月、「ひとりの悲しみ」改め、「また逢う日まで」は、発売されます。

1971年3月に発売された、尾崎紀世彦2枚目のシングル「また逢う日まで」は、セールスチャート最高位1位を9週連続で獲得、約96万枚の売上を記録します。また、この年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞も受賞します。「この曲は、尾崎紀世彦を代表する曲であると同時に、彼がもつ声の強さ、張り、艶。ボーカリストとしては申し分の無い彼の魅力が、最大限詰まった曲です」。最後に、小栗俊雄さんはこう語ってくれました。

尾崎紀世彦のボーカリストとしての魅力を最大限に引き出した、日本歌謡界に燦然と輝く名曲の誕生の瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.ダンス天国/ザ・ウォーカー・ブラザーズ
M2.ウルトラセブンの歌/ジ・エコーズ&みすず児童合唱団
M3.別れの夜明け/尾崎紀世彦
M4.また逢う日まで/尾崎紀世彦