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2009年1月23日
「マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美」

第69回目の今日お届けしたのは、「尾崎亜美/マイ・ピュア・レディ」でした。

「私が小学校に入学して間もない頃、姉がクラシックピアノを買ってもらい、ピアノを習い始めました。ピアノの先生が、我が家にやって来て、姉に教えていたのですが、いつも、姉のレッスンの準備ができるまで、私が、ピアノの先生に、ピアノで遊んでもらい、いつの間にか私も先生からピアノを習い始めていました。また、歌は、当時父親が、地元の合唱団の手伝いをしていたので、いつの間にか、一緒に歌うようになりました」。
1957年3月、京都府京都市に生まれた尾崎亜美は、こんなふうにして自然と音楽と触れ合うようになります。

尾崎亜美は、高校に進学すると軽音楽部に入部。女性3人組バンド「どん」を結成します。「「どん」では、オリジナルの曲を作り、学校の文化祭で演奏していました。また学校以外でも、レオン・ラッセル、カーペンターズ、セルジオ・メンデスなどをカバーする「おしんこペイション」と言うグループを友達と作り、活動していました」。

1974年、尾崎亜美が高校2年生の時、当時彼女が在籍していた3つ目のバンド「エンプラ・ストリート」は、KBS京都が放送していた、アマチュア音楽コンテスト番組「アクションヤング大丸」に出演します。
「コンテストに出場した目的は、ギターの弦を張り替える費用を捻出するため、参加賞の5千円の商品券が目当てでした。エンプラ・ストリートでは、審査員から高い評価をいただいて、週間チャンピオンに輝きました。実は、審査員の方は私の歌唱力を褒めてくれたのですが、バンドのメンバーひとりが、私だけが褒められたことが面白くないという理由で翌週の出場を辞退してしまったんです。仕方なく、翌週は、私を含め2人で出場することになりました。すると翌週も、審査員は、私だけを褒めたんです。結局、もう一人のメンバーも、月間チャンピンを決める時には出場辞退してしまい、最後には、私ひとりだけが出場して歌ったんです」。

コンテストで、審査員から高い評価を受けた尾崎亜美は、レコード会社、東芝エキスプレスのスタッフからデビューの誘いを受けます。「デビューの話を貰うまで、まさか自分がプロの歌手になるなんて、想像できませんでした。しかし、プロデビューの誘いを受け、話を聞いた時、私はアマチュアとプロの差を感じ、もし、自分がプロになれば、もっと色んなミュージンシャンと出会うことができて、自分にとって、もっと楽しい世界が開けるような気がして、プロデビューをすることを決めたんです」。
1976年3月、尾崎亜美は自らが作詞作曲したシングル「冥想」で、デビューします。

1976年3月、“第2のユーミン”をキャッチフレーズに、シングル「冥想」でデビューした、尾崎亜美。
「デビューが決まり、アレンジを誰にお願いするか、レコード会社のスタッフと話をしました。ピアノが弾けて歌が歌えるのであれば、同じタイプの人にアレンジを担当してもらうのが良いのではということで、白羽の矢が立ったのが、松任谷正隆さんでした。デビューの前の年の1975年の秋、松任谷さんが、荒井由実さんと婚約する直前に、レコード会社のスタッフから、松任谷さんを紹介されました。松任谷さんから、「歌謡曲とは違う、シンガーソングライター尾崎亜美のカラーを作ろう」と言われたのが印象的でした」。

シンガーソングライター尾崎亜美の、オリジナルカラーを作る。松任谷正隆から言われた言葉を胸に、尾崎亜美は、自分の音楽が、どうあるべきなのかを考え、ひとつの方向性を見つけ出します。「普通、ほとんどのミュージシャンは、子どもの頃に影響を受けた大好きなミュージシャンがいるんですが、私は、自分から積極的にレコードを買っていたタイプではなく、この人が好き、という特別なミュージシャンはいませんでした。だから、私、尾崎亜美の音楽は、その時自分が思った気持ちや想いを、歌詞に置き換える。そして、その歌詞を、今度は、メロディに乗せてみんなに聞いてもらう。ただその想いだけで、音楽を作ろう。そう考えました」。尾崎さんは、当時についてこう振り返ります。
その時々に感じた自分の想いを込めた曲作りで、シンガーソングライターとしての活動を始めた尾崎亜美。1976年8月には、尾崎亜美が高校時代に作詞作曲した曲を中心にした、1stアルバム『Shady』を発売します。

1976年8月、1stアルバム『Shady』を発売した尾崎亜美は、同じ月、東京・芝公園「ABCホール」、「新宿ルイード」で、立て続けにライブを行います。そして、11月に、2枚目のシングル「旅」を発売した尾崎亜美のもとに、翌1977年春の資生堂キャンペーンソングへの、曲提供の話が舞い込みます。
「デビューして1年足らず。まだヒット曲もなく、世の中に、どれだけ尾崎亜美の存在を知っている人がいるのか分からない時に舞い込んだ、CM提供の話だったので、スタッフから話を聞いた時には、「正直、どうしようか?」という、不安な気持ちが頭の中をかけ巡りました。しかも、予め決まっていたキャンペーンテーマを、曲のタイトルにして作って欲しい、という依頼だったので、考えれば考えるほど、自分の頭の中で煮詰まってしまいました」。

尾崎亜美は、スタッフと一緒に、ホテルの部屋に缶詰め状態で、曲を作りはじめます。
「当時私は、仕事がある度に、住んでいた京都から東京へ、新幹線で通っていました。この曲を作る時も、ホテルのスイートルームを貸し切ってもらい、曲を作りました。どう作ったらいいのか、半ばやけくそ状態になった時、曲のサビの部分、“たった今 恋をしそう”という歌詞とメロディが浮かびました。曲のサビが完成すると、残りの歌詞、曲も、さっとできたんです」。「“たった今 恋をしそう”と言う、非現実的な言葉。この非現実的な言葉だからこそ、聞く人の心を上手く掴むことができるのでは?と考えたことが、この歌の大きなポイントでした」。
土壇場まで追い込まれた状況の中から生まれた、尾崎亜美3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディ」は、1977年2月に発売されます。

1977年、春の資生堂キャンペーンソングとして起用された「マイ・ピュア・レディ」は、発売から2ヵ月目の4月に、セールスチャート最高位3位を記録、約40万枚の売上を記録するヒット曲となります。「曲が売れ始めた頃、私は体調を壊して長期入院していました。ある日、病室のTVを見ていると、自分が歌っている曲が流れ、それまで私の存在を知らなかった、お医者さんや、看護婦さんが次々と病室にサインを求めに来たのが、思い出として残っています。シンガーソングライター、尾崎亜美の存在感を知ってもらうことができた曲ですね」。
最後に、尾崎亜美さんは、こう振り返ってくれました。

シンガーソングライターとして、彼女の音楽人生を切り開くキッカケとなった、J-POPの名曲の誕生でした。

今日OAした曲目
M1.マスカレード/レオン・ラッセル
M2.冥想/尾崎亜美
M3.風の中/尾崎亜美
M4.マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美