第66回目の今日お届けしたのは、「鈴木祥子/優しい雨」でした。
「小学校3年生の時、両親が私にクラシックピアノを買ってくれました。それから、見よう見真似でピアノを弾いたり、クラシックのレコードを買ってもらい、聞いたりしていました。それが、音楽と私の出会いだと思います」。音楽との出会いについて、鈴木祥子さんは、当時をこう振り返ってくれました。
1965年8月、東京都に生まれた鈴木祥子は、中学に入ると、今度は洋楽に興味を持ち始めるようになります。「当時あった、『MUSIC LIFE』、『ROCK SHOW』といった洋楽音楽雑誌を買って、洋楽の事を知るようになりました。日本のアイドルのような感覚で、雑誌に、毎月載っていた、チープ・トリック、ベイ・シティローラーズ、クイーンが好きで、その中でも、一番憧れていたのが、クイーンのドラマー、ロジャー・テイラーでした。彼がドラムを叩く姿は、大好きでした」。
1980年4月、高校に入学した鈴木祥子は、同級生とレディースバンド「メルティーマーブル」を結成し、自らは、念願叶ってドラマ—として活躍します。「バンドを始めてしばらくする内に、プロになりたいなぁ、と思うようになりました。でも、プロミュージシャンと言っても、私の場合は、スタジオミュージシャンになりたいと思っていました。ちょうど、ボズ・スキャッグスのバックバンドを務めていたTOTOの曲がヒットし始めた頃で、やはり同じドラマー、パーカッションを務めていた、ジェフ・ポーカロに憧れていました。スタジオミュージシャンという仕事が、音楽業界の中で、確立し始めた頃です」
1983年、高校を卒業した鈴木祥子は、スタジオミュージシャンとしての仕事を始め、その評判はアーティストの耳にも届くようになり、1986年に行われた原田真二のライブツアーに、キーボード、パーカッションプレーヤーとして参加します。
そして、日比谷野外音楽堂で行われた原田真二のライブを見た、レコード会社のプロデューサーが、原田真二のマネージャーを通して、鈴木祥子をスカウトします。「ライブが終わって、原田さんのマネージャーを通して話がありました。楽器を弾けて、歌える女性ボーカリストを探している」と。
あくまでバックミュージシャンとしての活躍の場を夢見て、最初は自らが歌うことに戸惑いを感じていた鈴木祥子ですが、最後は自らも歌うことを決意。1988年9月、鈴木祥子はシングル「夏はどこへ行った」でデビューします。
1988年9月、シングル「夏はどこへ行った」でデビューした鈴木祥子。「元々、スタジオミュージシャンとして活躍したい、と思っていましたから、正直、まさか自分がデビューするとは思いませんでした。デビューするにあたり、プロデューサーから自分で曲を作ってみないかと言われ、それまで曲など作ったことはなかったのに、見よう見真似で、曲を作りました。テーマも無しで作った曲に、川村真澄さんが歌詞を書いてくれて、アレンジは佐橋佳幸さんが担当してくれました。ふたりには、本当に助けてもらいました」。
デビュー曲で、いきなり初めて曲作りに挑戦した鈴木祥子。
「私は、誰かに強制されてやるのが、苦手なタイプなんです。振り返ってみても、何でもやったこと、経験したことが無いのに、挑戦すれば、苦労するけど最後は何とかなる。それを繰り返していくことで、だんだんと挑戦することが楽しくなって、いつのまにか自然とできるようになっていくんです。自分の中で、自分のペースで物事を消化して、挑戦していくのが、私には似合っているんだと思います」。
1988年のデビュー後、鈴木祥子は1年に2〜3枚のシングルと、1枚のアルバムを順調にリリースしていきます。そして、1991年、アイドル歌手小泉今日子との再会が、鈴木祥子の音楽人生の扉を、大きく開くキッカケとなります。「小泉今日子さんとは、私がデビューする前年の1987年に、ライブのバックミュージシャンとしてお会いしたのが最初です。私がデビューしてしばらくした後、小泉今日子さんが所属していたレコード会社のプロデューサーの方から、今度発売するアルバムに曲を書いてもらえないだろうかという話がありました。それが、アルバム『afropia』に収録された「あなたがいた季節」という曲です。そして翌年の1992年に、もう一度、楽曲提供の話を貰って、書いたのがこの曲です」。
1993年2月、鈴木祥子が小泉今日子に書いた「優しい雨」は、シングルとしてリリースされます。
1993年2月にリリースされた、小泉今日子の34枚目のシングル「優しい雨」は、1月にスタートしたTBS系ドラマ『愛するということ』の主題歌に起用され、セールスチャート最高位2位、約95万枚を売るヒット曲となります。
「この曲を作る時、初めは、“シングルになるかもしれません。曲はドラマテックなバラードで、中山美穂の1988年のヒット曲「You’re My Only Shinin’ Star」のようなイメージでお願いします”というオーダーでした。私は、売れる曲を作りたい、というプレッシャーを背負いながらではなく、ただ、単純にいい曲を書きたい。その気持ちひとつで作りました。そして、私が作った曲に、小泉今日子さんが歌詞を書き、曲が完成しました。完成後、結果的にシングルとして発売されることになり、ドラマの主題歌としても起用され、ヒットしました。よどみのない気持ちで作った結果だと、その時、私は思いました」。
小泉今日子にとっても、1991年の「あなたに会えてよかった」以来のヒットとなった、「優しい雨」。その年1993年夏、鈴木祥子が所属するレコード会社エピックソニーは、鈴木祥子に、この「優しい雨」をカバーすることを提案します。「レコード会社のディレクターから、次のアルバムに収録する曲として、カバーをしてみないか、とリクエストされました。カバーすることに抵抗は無かったし、迷いもありませんでした」。
「ただ、自分がカバーレコーディングするにあたって、一つだけ気をつけたのは、小泉今日子さんが歌ってヒットしたこの曲のイメージを、壊さないことだけでした。あとは、いかに鈴木祥子らしく歌うことができるか、これだけに集中してレコーディングに取り組みました」。
鈴木祥子がカバーした「優しい雨」は、翌11月に発売されるアルバム『Radio Genic』に先駆けて、1991年10月に発売された、11枚目のシングル「ラジオのように」のカップリング曲として発売されます。
鈴木祥子11枚目のシングル「ラジオのように」のカップリング曲として収録された「優しい雨」。
「この曲「優しい雨」は、鈴木祥子のシンガーソングライターとしての道を、大きく切り開いてくれた曲です。自分の大きな自信にも繋がりました。去年の11月に、小泉今日子さんが久し振りに行ったライブでも、この曲を歌ってくれたんです。久しぶりに歌ってくれた、というその話を聞いて、改めて小泉今日子さんが、この曲を大事にしてくれているんだな、という気持ちが伝わってきました。作り手冥利につきますね」。鈴木祥子さんは、最後にこう語ってくれました。
彼女のシンガーソングライターとしての道を、大きく切り開くキッカケとなった、J-POPバラードの名曲の誕生でした。
今日OAした曲目
M1.We Will Rock You/クイーン
M2.夏はどこへ行った/鈴木祥子
M3.優しい雨/小泉今日子
M4.優しい雨/鈴木祥子